《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#12「大蛇の遺伝子」
北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。
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黙殺された大蛇
ストリートにおける批評とはどんなものだろうか。
それはおそらく、言葉ではなく行為によって示されるものだ。そしてその際、評価の軸となるのは、その人物が、その作品が、その行為が、“リアル”かどうかだ。
仮にそれが「リアルだ」と判断されたならば幸いだ。それは端的に受け入れられ、路傍からの賞賛と敬意を獲得することができる。逆にそうではないと――つまり「ワックだ」と判断されたならば厄介だ。ただ黙殺されるだけならばまだマシ、運が悪ければ、見下され、揶揄され、嘲笑され、場合によっては路上の掟に基づいて何らかの制裁が下されることとなる。
そもそも、ある対象が“リアル”か否かを判断する際の基準がわかりづらい。一見すると、その基準は曖昧模糊としていて、いかにもその判断は直感的に行われているように見える。しかし、それは必ずしもその判断基準が単純であるということを意味しない。そこにはともすればオーセンティックな美術批評と同等、あるいはそれ以上に複雑なコンテクストが隠されている。誰が、どこで、いつ、どのように、どんなタイミングにおいて、それをしたのか。さらには、その誰がどこの生まれで、どんな過去を持ち、どんな喋り方をするやつで、どんなファッションに身を包み、どんな私生活を送っているやつなのか。
もちろん、必ずしもそうした全てが常に参照されるわけではないし、作品や行為そのものに対する純粋にエステティックな評価もあるだろう。だが、ストリートにおいては作品や行為と同様に、そこへと至るまでの経緯、あるいはそれをなした人間の身体性が重要視される傾向がある。だからこそ、その批評を言語化することは難しい。しかし一方でそのアウトプットの方は実に単純明快、YESかNOか、リアルかワックか、ぶっきらぼうなまでにハッキリとしている。
Gallery Soapで映像作品《ANACONDA》を上映後、観たものたちが次々に自身の感想をつぶさに言葉にして告げてきたことは、それゆえ、BABUとMASSAにとって新鮮だった。
「アートの世界の人たちってちゃんと言語化してくれるじゃないですか。どういう風に感じたのか、とか。それがすごく新鮮だったんですよね。それまで何か作ったりしても、スケボーの奴らとかからは『ウェーイ、最高』みたいに言われて終わりだったので」
とりわけMASSAの記憶に残った言葉があったという。
「あるパンク世代の人が《ANACONDA》を見てくれて『これぞパンクだ』って言ってくれたんですよね。なんかそれが嬉しかったんですよ。見てきたものは違うけど、ちゃんと重要な部分をキャッチしてくれてて。あ、ちゃんと伝わるんだなって思いましたね」
当時の二人にとって、Gallery Soapという場はアウェーだった。客の多くは自分たちとは年齢層も異なり、また趣味や嗜好性も異なる。言うなればそれまで他人種とみなしてきたような人々だ。そんな他人種に自分たちの作品が受け入れられるのだろうか。そもそも、共通言語があるのかも分からない。宮川やカズは面白がっていたが、オーディエンスとなる有象無象はどうか。不安がなかったといえば嘘になる。しかし、結果的に作品はオーディエンスに響いた。少なくともそういう手応えがMASSAにはあった。
「ちゃんと響いてたと思います。BABUは特に何も言ってなかったし、すぐに『次よ、次』みたいな感じでしたけど、反応に対してはそれなりに満足してたとは思いますね」
そうMASSAは述懐する。しかしその一方で、《ANACONDA》に対する地元のスケーターたちからの反応はあまり芳しいものではなかった。
「ダメとかそういうのではなくて、単に反応がなかったんですよね。多分、早すぎたんだと思う。当時、BABUもよく『スケーターの方が保守的だよね』って言ってました。視野が狭いって。本来、最も自由な存在であっていいのに、型に囚われてるって。本当に独自性のあるものに対してはリアクションできないんですよ。BABUみたいになんでもスケボーだって言えるキャパシティがあるスケーターは少なくとも小倉にはほぼいなかった。すごい技をやってなんぼ、みたいにテクへの執着が強くて、シチュエーションが持つ意味に意識が向かない。だから、僕らはスケーターとしてはマイノリティだったんですよね」
BABUがアートの世界に足を踏み入れたのも、それゆえだった。BABUは自身がストリート出身であることを強く自負する一方で、同時にストリートの馴れ合いや、視野の狭さに辟易していた。あるいは本来、多彩なコンテクストを有するはずのストリートカルチャーが、単なる通向けの技巧の競い合いへと自閉している状況にも不満を抱いていた。MASSAいわく「話してもわかんねーだろお前ら、みたいな感じがすごくあったと思う」。もちろん、当時だってBABUはストリートの人間たちとも仲良くしていなかったわけではない。だが、当時のBABUはストリートの喧騒をどこか冷めた目で眺め、またそこから一線をおいていた。
確かに、《ANACONDA》はストリートに、いったんは黙殺された。あるいは上映後、MASSAは映像作品《ANACONDA》をYouTubeにアップしてみたものの、まだ動画共有サービスの黎明期ということもあって、取り立てて反応が得られることはなかった。しかし、BABUとMASSAが世に放ったウイルスが全くの徒花だったかと言えばそんなことはない。そのウイルスは遅発性だった。それはやがてストリートの届くべきところに届き、水面下においてひそかに感染者を増やしていくことになる。
「《ANACONDA》をネットで見たときはシンプルにすごい作品だって思いました。誰が見てもすごいって思う作品、誰が見ても面白い作品。こんな作家になりたいって思った。だから一時期は『北九州 BABU』でしょっちゅう検索して情報を集めてましたね」
たとえば、ストリートアーティストのDIEGOもその一人だ。やがて2017年に開催されたREBORN ART FESTIVALにおいてBABUと作品を協働制作することになるDIEGOが、ネット上で《ANACONDA》を目にしたのは、初上映から4年が経った2010年頃のことだった。
クマ、ストリートに出没す
「ああ、クマ、面白いよね」
BABUはDIEGOのことを「クマ」と呼んでいる。実際にDIEGOと会ってみて納得がいった。DIEGOの見た目からは、いわゆるグラフィティライターと聞いて思い浮かべるような、不良っぽい雰囲気は感じられない。背格好はずんぐりとして大きいものの、決して威圧的ではなく、どちらかといえば柔和。そしてなにより、その風貌、その雰囲気は、確かに「クマ」っぽいのだ。
作風もまた独特だ。よれたような緩い線によって描かれる間の抜けた感じの可愛いキャラクター。ヘタウマと言ってしまうと単純だが、一見すればそれがDIEGOのものであると分かる作品群は実際、妙にクセになるのだ。あえて作品に未熟さを残して味とするその表現様式は「Toy Graffiti」とも呼ばれる。作品に登場する既視感のあるキャラクターたちはいずれも、DIEGOが古い看板や雑誌から探し出した制作者不明のキャラクターとのことだ。
グラフィティライター出身のアーティストとしてアートシーンにおいても確かな存在感を放ちながら、一方で国内外のストリートアーティストたちとともに都内のシャッターに合法のグラフィティを描く『LEGAL SHUTTER TOKYO』などのプロジェクトも手掛け、日本と世界のストリートを繋ぐフィクサーとしての役割も果たしているこのDIEGOは、今後、この連載においても幾度か登場することになる重要人物だ。紹介も兼ねて、ここで少しだけその半生を辿ってみようと思う。
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「僕の世代はグラフィティとかスケボーのブームがいったん去った後だったんで、地元の街にはグラフィティとか全然なかったんですよね」
DIEGOは北九州市から車で約1時間ほど走ったところにある小さな町生まれだ。年齢的にはBABUの4歳下。グラフィティに興味を持ったのは高校生の時だった。
「別に僕、悪い方じゃなかったんですよね。学校にも普通に通ってたし。ただ、兄ちゃんたちは不良で、音楽とかもやってて。兄ちゃんたちが荒らし尽くした後だったせいか親も厳しくなくて、特に反抗する必要もなくて。だから、兄ちゃんも親も知らない何か自分だけの秘密が欲しかったんですよね」
DIEGOがグラフィティの存在を知ったのはインターネット経由だった。漠然と興味を抱いたものの、当時、地元の町にはせいぜい数年前に書かれたのであろうタグなどが路上の片隅にちらほらある程度。もちろん、知り合いにライターがいるわけもなかった。必然的にDIEGOの足は地元の外へと向かっていくことになる。
「その頃、僕らの地元の若い子が遊びにいく街って言えば大体が小倉か博多だったんです。で、ある時にどうやら博多にグラフィティの店があるらしいっていうのをインターネットで見て。それで学校が休みの日に一人で行ってみたんですよ」
博多にあるグラフィティの店と言えばSQUASHだ。ZEROSYやEATER、そしてBABUもそのメンバーである九州最大のグラフィティクルー〈M2D〉の溜まり場。ごく普通だった高校生がふと迷い込んだ博多のアンダーグラウンドの水先案内人を務めることになったのは、SQUASHの番頭、YOUTH-Kだった。
「当時のSQUASHはすごい路地裏にあって、電話で場所を聞いてなんとか辿り着いたのを覚えてます。店に入ったもののどうしていいかもよく分からなくて、たしか、グラフィティやってみたいんです、みたいな感じに自分から言ったんじゃなかったかな。店をやってたYOUTH-Kさんには色々とそのシーンの話を教えてもらいましたね。自分でもそういう系の本を買ったりもして、とにかく勉強してみよう、と」
まずは綿密な情報収集から、というのがいかにもDIEGOらしい。その収集癖は今日に至るまで変わらず、たとえば渋谷のギャラリービル〈BLOCK HOUSE〉の3Fのカフェエリアには、現在、DIEGOがこれまでに収集したグラフィティ関連の書籍や雑誌、ZINEなどの一部を並べた通称「DIEGO BOOKS」が陳列されている。かくしてDIEGOはライターとしての道を歩み始めることになった。始まりは友人の部屋だった。
「当時、ストリート系のことが好きな一個上の先輩とよく遊んでいて、その人と一緒に始めようってなったんです。近所のホームセンターでスプレーを買ってきて、まあ試しだって言ってその先輩が自分の部屋の壁に黒いスプレーで『NOW』ってスローアップみたいなのを描いたんですよ。『今だ!』みたいな。あそこから始まりましたね。いきなり自分の部屋の壁に描いちゃうあたりに『ひとりっ子だなあ』と思いつつも、やっぱりテンションは上がりましたね」
DIEGO自身の初グラフィティは自分のバイト先のスーパーの駐輪場だった。それは決して見栄えするようなものではなく、所詮は「タギングの真似事」に過ぎないものだったという。だが、突如として自分の中に生じた、親にも兄にも学校にも知られていない「秘密」の存在は、当時のDIEGOにとって格別だった。
「本当に僕は普通で、なんか変わったことをしたかったんでしょうね。親も学校も知らない別の自分が街にはいるんだという事実が魅力的だったんだと思います」
とはいえ、その後もしばらくは地元の街中にタギングをしたり、ステッカーを貼ったりする程度で、その活動は微温的なものだった。一方、グラフィティを描くのと同じくらいDIEGOはグラフィティを見ることも好きだった。週末は博多や小倉に出向き、ガラケーのカメラでひたすら街中のグラフィティ写真を撮り溜めていた。
「ただ、まだまだちゃんとは分かってなかったですね。グラフィティってちゃんと文字が読めるようになって、ひとつひとつの作品が認識できるようになってようやく街が見えてくるもんじゃないですか。キャラクターとかは分かりやすかったけど、まだどれが誰の作品なのかとかは全然分かってませんでしたから」
そんな頃に訪れたある展示会がDIEGOの「ライターの目」を養うひとつの契機となったという。
「YOUTH-Kさんに誘われて《七福》っていう今もやってるグラフィティの展示の第一回目に行ってみたんです。平日だったんで学校もサボって。一人で会場に入ってみたら、悪そうな大人がいっぱいいて、誰が誰かも分からなくてなんだか怖くって、とりあえずYOUTH-Kさんにブラックブック(※グラフィティライターにとってのスケッチブックの意)だけ渡して隅っこにいたんです。しばらくそう過ごしてたら、突然ブラックブックが戻ってきて。開いてみるとみんなめちゃくちゃ描いてくれてたんですよね。会場には当時の博多で目立ってたライターの人が勢ぞろいしてたみたいで、どれもそれまで街で見てきたグラフィティばかりでした。あ、これがこの人のグラフィティなんだ、とかがそこで一気に分かり始めたんです」
この日を境にDIEGOは一層グラフィティの虜となっていく。ライティングの舞台は地元から小倉や博多へ。さらに高校を卒業するとDIEGOは単身上京、舞台を東京にライター活動を続けていくことになる。
ライターの目
「東京来てからはバイトしながらも毎晩のようにグラフィティをやってましたね。今もですが、当時からステッカーやタグがメイン。僕はもともとTHE LONDON POLICEとかの2000年代初頭くらいから盛んだったストリートアートが好きだったこともあって割とキャラ推しだったんですよ」
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東京に出てきたものの、特に何かのあてがあるわけでもなかった。就職することもなく、アルバイトで最低限の金を稼いだら、残りの時間のほとんどはグラフィティにつぎ込んだ。
そんな日々が数年続いた2007年頃のこと。
「ある日、友達のライターとグラフィティを描きにいく約束してたんですけど、その友達から『さっき、BABUって人に声かけられて今、一緒に描いてるんだよ』って連絡があって。それで僕も合流して一緒に描いたんです」
BABUの名前自体はぼんやりとだがそれ以前から認識していたという。ネット上のグラフィティの画像掲示板などに、時折、BABUのラインのグラフィティが挙げられているのを見たことがあったからだ。それ以前、高校時代に福岡で遊んでいた頃は、距離的には近くにいたはずだが、接点はなかった。
「たしかBABUさんは当時、QPさんに会いたくて東京に来ていて、QPさんの居場所を探すためグラフィティライターぽい人に片っ端から声をかけていたらしくて…、それで偶然僕の友達にも声をかけたんですよね。当時はBABUさん、キャラを描いてました。短い時間だったしあんまりちゃんと話せなかったけど、なんか印象にすごく残ったんですよ。その後、東京をウロウロしてると、結構BABUさんの作品が各地にあったりもして。たしか吉祥寺にもありましたね」
QPとは90年代から00年代にかけて、東京各地の壁にその名を刻んでいた、その世界で知らないものはいない伝説的なグラフィティライターだ。BABUがQPの元を訪ねて上京していたエピソードの詳細についてはまた追って触れる予定だが、第五回で紹介した東京藝大グラフィティ事件も、時期的なことを考えると、おそらくこの時の上京の際の出来事だったのではないかと思う。
偶然の接触から間もなくして、DIEGOは地元への帰郷のタイミングに合わせてBABUに会いに小倉へと向かった。
「西小倉あたりで待ち合わせたんですけど、BABUさんスケボーで滑ってきて、それがまたおしゃれでカッコいいんですよね。シャツに細いパンツ履いてて、見たことがない感じで。ダボダボパンツにニューエラ被ってとかじゃないんですよ。素直にいいなあって思いましたね」
その時は小倉で一緒にグラフィティを描いた。小倉のライターも何人か紹介してもらったという。
「まあ、その頃からBABUさんにすごい興味を持つようになって、ネットとかでやたら調べるようになったんですよ。その中で色々とBABUさんの活動を知って。いや、衝撃でしたね。自分がずっとやりたいなって思っていたストリートアートのアウトプットの仕方をすでにBABUさんはやってたんです。ギャラリーでも街でも活動するし、ストリートの面白さとアートのコンセプチュアルな部分の両方を持ってる。僕もこういうのをやりたいって思いましたね」
中でもYouTubeで見つけた《ANACONDA》には痺れた。
「《ANACONDA》は本当にカッコよかったですね。すごく印象的だったのは、映像内に横断歩道でBABUさんがいったんスケボーを止めてタクシーを先に行かせるシーン。あの立ち振る舞いがすごくカッコいいんです。街で生きてる人って感じがすごく伝わってくる。僕は北九州の土地勘もあるから、映像で映ってる場所がどこかも分かったんですけど、そのルートの取り方も街の人ならではですよね。街にでっかい蛇が描かれていくというコンセプトも最高だったし、もう、とにかくカッコいい。すいません、カッコいいしか言ってないですね(笑)。でも、やっぱり街で生きてるって大事なことなんですよ。こういう作家に僕もなりたいって本当に思いましたね」
そう言いながら少し恥ずかしそうにDIEGOは笑う。BABU伝執筆をきっかけとして、僕はすでに幾度かDIEGOと顔を合わせているが、DIEGOは会う度にいつもBABUの話を本当に嬉しそうにしてくれる。いや、DIEGOに限らない。まだ登場していない証言者を含めて、BABUについて語る時の口ぶりは、みな一様に弾んでいるのだ。それはちょうど何かとっておきの秘密を「ここだけの話だよ」とこっそりと打ち明ける時のあの感じに似ている。
「なんていうか、BABUさんを見て、こういうことなんだって思ったんですよね」
BABUとの邂逅の後、DIEGOはヨーロッパへと渡った。自身の方向性を見定めるために、彼の地のストリートアートの現場に身を置いてみることにしたのだ。
「周りの人から、僕は海外に行ったら評価されるよみたいな無責任なこと言われて、それで日本の家も解約してヨーロッパに行ったんです。日本で知り合ったベルギーの女の子に連絡したら、今マドリードにいるよって言うからマドリードに向かって、そしたら初日から現地のライターとかにいっぱい会えたんですよね」
当時のマドリードには様々なストリートアーティストがいた。E1000やNEKO、REMED、3TTMAN、今日のストリートアートシーンの第一線で活躍する面々が、皆そこで巨大なミューラルを描いていた。DIEGOも彼らと一緒になってミューラルを描き、時には彼らに混じって廃墟でグラフィティも描いた。彼らと共に、彼らと同じ目線で街を散策し、その空気を目一杯吸い込んだ。
「三ヶ月くらいいて、で、これは日本でもミューラルやるぞって思って意気揚々と帰国したんですけど」
そう、ヨーロッパと日本では状況がかなり違う。
「まあ、どこに描くんだっていう。大きい壁画を描きたいけど、名もなき絵描きに描かしてくれるところなんて日本にはないわけですよね。そうなると自分で廃墟とか描ける場所を見つけるしかない。もがきまくりましたね。でも逆にそれが良かったんです。色々と突き詰めていくと、ストリートアートどうこう言ってみたって最終的にグラフィティやらなきゃダメなんだなって思ったんですよ。イリーガルで場所から探していくというプロセスが大事なんだなって」
ことストリートアートという観点から見たとき、ヨーロッパと比べて東京はかなり不自由だと言える。だが、DIEGOは“自由”なヨーロッパに赴いたことによって、逆説的に“不自由”であるがゆえの面白さに気づかされた。
「僕はやっぱり東京で活動を続けようって思ったんです。ヨーロッパに行けば自由だからグラフィティとかも描きやすいし、仮に捕まってもなんでもない感じなんだけど、ただそれはそれで面白くないなって思ったんですよね。東京は規制だらけだけど、その網の目を潜り抜けてグラフィティすることに面白さがある。誰でもできることってつまらないじゃないですか。そもそも誰にでもできることじゃないって思って僕はグラフィティを始めたわけだし」
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やがてDIEGOは、半蔵門のオルタナティブスペース〈ANAGRA〉に出入りするようになる。2010年代以降の東京のストリートアートを語る上で、この〈ANAGRA〉という場の存在を欠かすことはできないだろう。まだ無名の国内外のストリートアーティストの展示を精力的に行うのみならず、〈ANAGRA〉は点在していた東京中の「面白いやつ」が繋がるためのハブとしての役割も担っていた。DIEGOもまた、この〈ANAGRA〉を一つの拠点に、アーティストグループ〈EVERYDAY HOLIDAY SQUAD〉の結成に関わることとなる。この〈EVERYDAY HOLIDAY SQUAD〉が都内のとある暗渠に描いた巨大なドブネズミの壁画《unknown》は、日本のストリートアート史に残るマスターピースのひとつだろう。
EVERYDAY HOLIDAY SQUAD『unknown』(2015年)
「海外まで行かなくっても意外と東京にだって色々とあるんですよね。確かにヨーーロッパみたいに至るところにストリートアートがある状況とは違うけど、今は逆にやり甲斐があるなって感じてますよ」
区画整備が隅々まで行き届き、全てが厳格に管理されているように見える東京にも、打ち棄てられ、忘れられた場所がある。「ライターの目」とは単にタギングを読み解く力だけを指すものではないのだ。それは同時に都市の中心において隠された“暗渠”を探し出すまなざしのことでもある。
ルールと戯れるように街を遊びつくすDIEGOのまなざしに、僕はどこかBABUのそれと近しいものを感じた。BABUもまた街中に打ち棄てられたゴミをおもちゃにしながら、誰も目を向けないような街の隙間で遊んできた人間だ。滅多に他人を褒めることがないBABUが「クマ、面白いね」と言っていた理由も、多分そこらへんにあるような気がする。
果たして発表当時、ストリートからは黙殺された大蛇の遺伝子は、時を経て、地元も違う各地の“後輩”たちに受け継がれていた。「こういう作家に僕もなりたい」とDIEGOはしきりに口にする。DIEGOだけではない。連載にはこの先、BABUに影響を受けたと語るアーティストが続々と登場することになる。
先述したように《unknown》の制作から数年後の2017年、DIEGOは宮城県石巻市で行われたReborn-Art Festivalにおいて、BABUと作品を協働制作することになる。が、それはまだしばらく先の話だ。そこへと筆を進めるまでには、書かなければならないことがまだまだある。ここまでは蛇の道だった。ここからはさしずめ蜘蛛の道とでも呼ぶべきだろうか。取り急ぎ、《ANACONDA》と並んで語り継がれている2000年代のもう一つの代表作、第一回でも言及したあの紫水会館の展示へと話を進めたい。そこに蜘蛛の糸の先端がある。
紫水会館、2007年(photo:Gen Sasaki)
2007年、小倉の紫水会館の廃墟を包囲する金網の破れ目を夜な夜な潜り抜けていた蜘蛛はBABUだけではなかった。そこにはその後、今日に至るまでBABUと共に作品をつくり続けることになる、もう一匹の蜘蛛がいた。
「BABUの第一印象は最悪でしたね」
男の名は、佐々木玄。ここから第二幕が始まる。
文/辻陽介
編集協力/逆卷しとね
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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。
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〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉
#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」
〈MULTIVERSE〉
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