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《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#03「スケボー怪人」

北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。

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スケボー怪人


 

 2015年3月1日。

 その日、森田貴宏は福岡県久留米市にあるスケートボードパークを訪れていた。数ヶ月前から、森田は自身が主催する「FESN」のスケートボードスクールと、手掛けているファッションブランド「LIBE BRAND UNIVS.」の展示会のツアーのため全国を行脚しており、久留米はそのツアーの終点だった。果たして盛況を呈したスクールをつつがなく終えて18時、あとは久留米の夜をひとしきり満喫したら、翌日、東京・中野にあるFESNの拠点へと戻るだけ。全身には連日のパフォーマンスの疲労が澱のように蓄積していたが、長く続いたツアーをやり遂げたという感慨が、疲れを凌いで余りある充足感を森田に与えていた。気持ちのいい夜だった。しかし、そこに「あいつ」が突然、姿を現した──

  「スケボー怪人」、それが森田貴宏に冠された異名だった1980年代、森田は第二次スケボーブームの只中に小学生でスケートボードを始めて以降、順調にキャリアを積み上げ、10代後半の頃には早くもコンテストシーンで活躍するようになっていた。その後、右足首靭帯断裂を負って一時期はシーンから遠ざかっていたものの、休養中に培ったスケートボードフィルマーとしての技術も携えて数年後には復帰、一層エッジを増した型破りで豪快なライドと、独創的なカメラワークの映像作品で、国内外のシーンをあらためて席巻していく。やがてDIYのクルーザー専門店にして映像プロダクション「FESN」を立ち上げ、いよいよ活動の幅を世界へと広げていくと、2008年に発表した映像作品『overground broadcasting』では各国からの大きな賞賛を得た。シーンに携わってすでに四半世紀、40歳を超えてなお現役のスケーターでありながら、映像、ファッション、教育と、多角的にシーンの向上に貢献する森田貴宏の名前を、およそ日本のスケボーシーンに携わる人間で知らない者はいない。

 

 

「ややこしい奴が来たな」

 繁華街のペットショップに紛れ込んだ野良犬のように胡乱な足取りで、のっそりと会場に姿を現したBABUを目に、森田は一瞬で不穏な空気を察知した。

「目で分かるじゃん、危ない奴って。面構えでスジモンだと思った。裏社会の奴だと。他のスケーターとはまるで違う。刺青も首まで入ってたしね」

 異様なのは容貌だけではなかった。言わずもがな、その日のその場における主役は森田だった。会場の外には、そこで森田貴宏によるスクールが行われていることを示す看板が大きく掲げられており、BABUもまた確かにそれを目にしていたはずだった。しかし、会場に現れたBABUは、ファンと談笑していた森田には一切目もくれず、ぶっきらぼうにその前を素通りすると、誰もいないパークへとまっすぐ向かっていった。単に無関心であるというだけなら森田も気に留めなかっただろう。BABUのその態度はしかし、森田に対して「明らかに喧嘩を売ってる感じ」だった。

 さっきまで無人だったスケートボードパークにやおら低音の滑走音が響き始めた。森田もまたその音を追ってパークへと入る。北九州の“スジモン”の滑りがどの程度のものか、一応、見定めるために。

「正直言って、俺の好きな滑りだった。情熱もあった。まるでルールに囚われてなくて、『おれはおれだ』っていう気合がすぐに伝わってきた。技術もあった。だからこそ、無性に腹が立ったんだよ」

 

BABU(撮影:TAKA)

 

 森田のように全国をツアーで回っていると、地方の手練れのスケーターに喧嘩を売られることは珍しいことではない。しかし森田はプロだ。ワナビーに売られた喧嘩をいちいち買うような「滑りの安売り」はしない。加えてその時の森田は朝から滑り通しで疲れていた。実際、森田はその晩、それ以上、滑るつもりはなかった。だが、BABUの滑りには技術云々を超えたフィールがあった。常軌を逸したパッションがあった。世界中をスケボーひとつでまわってきた自分が、地方の不良にパッションで負けるわけにはいかない。森田はそう思ってしまった。

「まあ、今思えばあいつの手だよね。焚きつけられて、おれはまんまと乗せられたんだ」

 パーク内に二つの滑走音が交叉し始めた。拳を用いない喧嘩は、同時に言葉を用いない対話だ。森田が気付いた頃には、BABUは上半身裸になっていた。体の前面いっぱいに彫られた力士の和彫りからは大量の汗が噴き出し、光の飛沫を散らしていた。森田もまたスケートボードで手加減をしてあげられるほど「大人」ではなかった。

 どれくらいの時間が経っただろう。訪れるべくして訪れたその瞬間を、森田は見逃さなかった。

「あいつがね、愛想笑いをしたんだよ。その瞬間に『勝った』と思ったね」

 

 


規格外


 

 滑りを見ればその人間の質が全て分かる、と森田は言う。たとえば臆病者の滑りは、いかに技術によって糊塗しようとも所詮はハッタリにしかならないのだ、と。その点、森田に敗れはしたものの、BABUの滑りはハッタリじゃなかった。それどころか、常人にはないセンスが、BABUにはあった。喩えるならそれは「抽象画家みたいなもの」だという。森田はBABUの滑る姿に「表現者としてのスケーター」像を垣間見た。

「オーリーをさ、してなかったんだよね」

 オーリーとは、手を使わずにボードを跳ね上げる、現代スケートボードの代名詞的なトリックのこと。

「あいつ、そういうみんなが一応押さえるような基本的な技術をほぼ使ってなかった。スケボーの固定観念や既成概念が、あいつの滑りにはまずなくて、奇想天外で型破りなんだよ。おれも本来そういうタイプなんだけど、あいつの滑りを見ると自分はまだまだ正統派なんだって思っちゃったよね。だって、そもそもあいつスケボーすんのにロングコート着てたんだよ? そんな奴そうはいないし、洒落てるなって思った。スケーター同士って簡単に言えば、『おれとお前、どっちがイケてるんだよ?』って話だからさ」

 

 

 ありていに言えば、その一度のタイマンで、二人は互いを「スタイル」において認め合った。その晩には親しくなり、年齢的には若輩のBABUが自然と「弟分」の立ち位置を取るようになっていた。

 翌日、森田はBABUに誘われるまま、小倉にあるBABUのアトリエ〈HANG〉を訪れた。HANGに入ると、あたりにはBABUがDIYで制作した無数のスケートボードが所狭しと散乱していた。それらを目に自身もスケートボードのメイカーである森田は驚きを禁じ得なかった。BABUのつくる板が当時の趨勢に比べてかなりタイトであり、そこに自分と同じセンスを嗅ぎ取ったから、だけではない。ボードへのアプローチが、そもそも規格外だった。

「ノーズの変なところに穴が空いてるボードがあってさ、なにこれ? って聞いたんだよ。そしたらあいつ『あ、それパスタ一人分の穴』って言ったんだよね。それ聞いて爆笑しちゃったよ。要するにそれはキッチンに置く用のスケボーなんだよね。で、これは? これは? って聞いていったら、一個一個がどれも全部面白くて。おれがそれまで考えてたスケボーとは全く違う世界を見せられた気がしたよ」

 その時、森田は確信した。こいつは今まで見てきた誰とも違う、と。世界中を巡ってきた森田には、様々なスケーターたちと相対峙した経験があった。特に森田は「単にうまいスケーター」よりも「面白いスケーター」に惹かれるタチだったため、それまでも積極的に世界各地の“型に囚われないタイプ”のスケーターと交流を重ねてきた。しかし、森田をしてその身体を芯から慄わすようなスケーターは、世界中のどこを探しても、いなかった。

「ついに見つけた、と思ったね。しかも日本で。それも北九州で。間違いなくBABUは今まで会ったどいつよりも面白かった」

 

BABU(撮影:TAKA)

 

✴︎✴︎✴︎

 

 森田は矢継ぎ早にそこまで語りきると、一呼吸置くように、視線を僕の手元の方へと落とした。剽悍な面構えと芯の太い声音は、この人物が独立独歩の男であるということを出会ってまもなく僕に了解させていた。2021年3月6日、その日、僕は森田が経営する中野のクルーザー専門店「FESN Laboratory」にいた。

「でもさ、やっぱり、刺青だったんだよね」

 そう言って、森田は袖口から覗いていた僕のタトゥーに目配せする。

「そいつの刺青を見ればさ、人となりが分かるじゃん。そいつがどう生きてきたか、どんな価値観の人間なのか。BABUもそうだった。首の刺青と、腹の力士の彫りもんに、あいつって人間が表れてたから。だから、辻さん(筆者)がどんな人間かも、俺には分かるよ」

 森田もまた袖を捲し上げる。F・E・S・N。両前腕に跨ってドローされた、一生消えることのない屋号のレタリング。その表情には「だろ?」とでも言いたげな磊落な笑顔が浮かんでいる。「スケボー怪人」、そう渾名されたスケーターは、名に違わぬ豪快さとユーモアを佇まいに同居させた、気持ちのいい人だった。

 

森田貴宏。中野の「FESN Laboratory」にて森田の制作したボードにBABUがペインティングしたボードシリーズを前に。現在、森田はYouTubeにてFESNTVも展開中。https://www.youtube.com/channel/UCn22TnElvVLnfPfKsSp5DSA

 

 2015年の邂逅以来、森田とBABUは互いに東京と北九州を行き来し、交流を深めていった。そして、シーンを撹乱するような悪だくみを密かに練り上げては、やがてそれらを実践していくことになるその詳細については、しかし、まだ触れない。BABUのスケートボードには森田貴宏をして震わせる「奇想天外」で「型破り」な「スタイル」がある。そのことを確認した上で、僕は再び“蛇の道”へと立ち戻る。

 1995年。未曾有の震災が阪神を揺らし、オウム地下鉄サリン事件が世間を凍らせていた、あの年。BABUが「スケボー怪人」と出会うずっと前、BABUの特異な「スタイル」が形成される、その前夜。

 

文/辻陽介

編集協力/逆卷しとね

 

#04「ALL NEED IS STREET SKATING」を読む>>

 

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。

 

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