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《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#08「Creating Friction」

北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。

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Soap Land Orchestra

 2000年代の北九州のアンダーグラウンドシーンに深く関わっていた好事家を除けば、〈ソウル兄弟〉という名を聞いてピンと来るという人は少ないだろう。

 ソウル兄弟――1999年に結成され、2000年代を通して北九州を拠点に活動していた音楽集団、あるいはスカムジャンクロックバンド。中心メンバーは、丸山勇治、竹野恭章、渡辺郷の三人。いずれもGallery Soapとは馴染みが深く、特に丸山と竹野は当時Soapでスタッフとしても働いていたという。年齢的には三者とも83年生まれのBABUより少し上の世代にあたり、丸山と竹野が78年生まれ、渡辺が75年生まれである。

 残念ながら、僕は彼らの音楽をほとんど聴いたことがない。すでに活動を止めて久しい彼らの音源を含む情報はweb上にもほぼ残っておらず、かろうじてあるサイト上で発見したソウル兄弟のプロフィールには「ギター、ベース、ドラム1.5台、自作エフェクター、カシオジャンクトイシンセ、トイ、サックス、トランペット、ピアノ、ターンテーブル、ダンス、ダンス、バロンダンス、唄、ストロボ、赤外線センサー、酒。最近では、京都ARTZONEにて自らのステージと楽屋を作りライブで壊したり、会場にいる人間をメンバーに加えるなど様々な形態で各地でライブに臨む」と記されていた。ちなみに、ソウル兄弟が2005年にAKICHIレーベルからリリースしたというライブ音源CDの盤面にイラストを提供しているのは漫画家の西島大介である。そうしたいくつかの断片的な情報からソウル兄弟が当時の北九州のアングラシーンにおいて特異な存在感を放つバンドだったことがおぼろげに推察される。

 

画像出典 https://dethgoth.exblog.jp/page/68/

 

 さて、なぜすでに解散しているローカルのアングラバンドを紹介する必要があるのか訝る向きもあるかもしれない。その理由は、映像作品《ANACONDA》が初めて上映された2006年のBABUの個展《ANACONDA》展の前後にBABUが経験した二度のギャラリー展示の両方に深く関わっていたのが、他でもない、このソウル兄弟だったからだ。

 

 

 BABUはSoapに訪れるようになって間もなく、ソウル兄弟の、まずは丸山と竹野と知り合っている。現在 nuttsponchon(ナッツポンチョン) という名前で広島を拠点にアーティスト活動を行なっている丸山は当時から美術作品の制作も行っていて、BABUとは互いの作品を見せ合うなど、早くから親しい関係を築いていた。やがて二人は小倉にアートスペースを共同で立ち上げることにもなるのだが、それはまたもう少し先の話。出会った当時のBABUの「規格外」を丸山はこう述懐していた。

「BABUは最初っから規格外で、僕が全く知らない振り幅を持ってましたね。中学の頃からイベントをオーガナイズしていたとか、ストリートでのやんちゃな話も色々と聞いてて、オラオラでハードコアな感じもあったんだけど、一方でBABUは絵がすごい好きで、だからか話してて楽だし、いつのまにか仲良くなってました。ただ僕のポートフォリオなんかを見せても適当に褒めたりはせず『ふーん』みたいな反応なんですよ。よくもわるくも正直なやつでしたね」

 

丸山勇治(nuttsponchon

 

 一方、現在はTHE MUNZというバンドで音楽活動を続けている竹野も、BABUがSoapに出入りし始めた頃にはもう顔を合わせていた。竹野と言えば、おそらくSoap関係者のなかでもっともBABUに殴られた男だ。丸山にせよ渡辺にせよ、あるいは宮川にせよ、それぞれ一度はBABUの「洗礼」は受けているのだが、「完璧にボコられた」勲章を誇ることができるのは竹野だけだ。

「BABUとは色んな話をしましたよ。あいつは音楽も好きなんで。マニアックなもの聞いてるかと思えば一方でOASISとかベタなものも聞いてて、変わったバランス感覚だなと思ってました。ただ、それにしてもよく殴られましたよね。基本的には理由なく暴力を振るうやつじゃなかったので、思い返せば全部、おれが悪かったんですけど。一度、BABUの愛犬について余計なことを言ったときは、結構マジでボコされちゃいましたね」

 

竹野恭章

 

 美術家の経歴をもつ丸山とBABUの拳の味を知悉する竹野がソウル兄弟とは別に参加していたプロジェクトがある。〈SLO〉だ。〈Soap Land Orchestra〉の頭文字をとったこのSLOは、宮川敬一、外田久雄、丸山勇治、竹野恭章、田中一宇(カズ)の5名を中心に、音楽、演劇、現代美術など領域横断的に、かつ集団的に展覧会を制作することを趣旨に2004年に結成された。その後、2000年代後半にかけてこのアートグループは気まぐれに活動を続けていくことになる。メンバーのひとりであるカズによれば、結成のきっかけは酒席の悪ノリに過ぎない。そのため、カズ自身、主体的に参加していたというより、巻き込まれたという感覚の方が今でも強いようだ。

「たしかヤス(竹野)と宮川さんが呑んでる最中の馬鹿話から始まったように記憶してます。一番アイディアを出していたのがヤスで、それに各自がアイディアを乗っけたりして、宮川さんがアート作品にギリギリ落とし込めるかのジャッジをしていた感じ。僕は呑みながら話し合いにはかろうじて参加していたけど、外田さんやマルさん(丸山)は同席してなかったことも多くて、知らないうちに決められた無茶振りに巻き込まれている感じもありました」

 宮川によれば、SLOのメンバーは固定されておらず、その時々の展示プランに応じて参加者に変更があったという。メンバーが流動的なアーティストコレクティブといえば、ちょうどダムタイプのような形だろうか。そう問うと「そんな立派なもんじゃなく、ただのチンピラグループだよ」と宮川は言う。カズと同じく、巻き込まれる形でメンバーになった外田によれば、SLOには作家が個人の名義を超えて集団的に制作を行う実践という側面もあったようだ。

「作家名義ではなく、Soapに集まる連中が集団で匿名的に制作することが趣旨でした。僕らもそうですが、普段は単独で制作している者がたまに仲間と別名義や匿名で制作するとプレッシャーから解放されて楽しいものですよね」

 普段よりも自由気ままに制作をするためにもSLOの輪郭線はかなり曖昧に設定されていたようで、実際、2004年に初のSLO名義での展示をGallery Soapで行った際も、その内容は普段の宮川の制作に比して「かなり緩い」ものだったという。

SLOには、無責任にコンセプトとか作り込まずにやれる自由さがあって、当時の宮川さんにとってはそこが楽しかったんだろうと思いますね。Soapの展示ではカールステン・ニコライの〈ミルヒ〉という作品のパロディで、〈イチゴミルヒ〉という展示をやりました。イチゴと牛乳を入れた容器を色んな周波数で振動させつつ、一方でイチゴがどんどん腐っていくという。その展示のオープニングで、ホストクラブを舞台にした寸劇をしたんです。あれは当日の朝に急遽、声を掛けられたもので、僕も外田さんにスーツ借りて参加したんですが……、地獄でしたね」

 

S.L.O. project #1 [ICHIGO MILCH] @Gallery Soap

 

S.L.O. project #1 [ICHIGO MILCH] show time 2004.4.25 @Gallery Soap 

 

 カズはそう苦笑するが、美術関係者からの評判は上々だった。SLOは、その翌年2005年に福岡市のWaldから展示依頼を受ける。BABUに宮川が声をかけたのはその時だった。

「その時の展示のテーマが都市とアートみたいな感じだったのもあって、BABUに参加してもらうことにしたんだよ。まあアート関係者にBABUのラインを見せたかったってのもあるしね」

 他方、外田からすると、宮川が純粋にBABUと一緒に制作をしたがっているように見えていた。

「おそらく宮川はBABUと一緒に制作をしてみたかったのだと思います。当初から宮川はBABUの仕事が好きでしたから、それでこの企画を立ち上げたんでしょう。そもそも僕らSECOND PLANETにとって『街路』は、何度も挑戦している重要なテーマのひとつでした。そこに『街路』を主戦場にするBABU がふらりと現れたのですから興味を持つのは当然でした」

 《パラサイトプロジェクト》を筆頭に、現代アートの側から街路への介入を試みるプロジェクトを90年代の宮川らが行っていたというのは、前回にも少し触れた通りだ。あるいはつねに外へと関心を向けてきた宮川にとって、あのZEROSYをして「誰よりもストリート」と言わしめる路上育ちのBABUとの邂逅は、渡りに船とでも言うべきものだったのかもしれない。宮川の誘いにBABUもまた二つ返事で応じたという。かくして2005年12月、北九州のゴロツキたちによる異形のオーケストラが福岡市の片隅に出張することになった。

 

Creating Friction

 当時のBABUが現代アートに対して向けていたまなざしにはある種のアンビバレンスがあった。自分にとって新しい地平である現代アートの世界にBABUが惹かれていたのは確かだ。だが、ギャラリー展示というアートの形式にはBABUははっきりと違和感を抱いていた。カズによれば「それまで路上で活動していたBABUにとって閉ざされた空間であるギャラリーがしっくりきていないようでした」。事実、BABUのフラストレーションはWaldでの展示準備の際に小さなトラブルを起こす。

 展示空間は即興的に制作された。つまり、会期初日の前夜、Wald前で集合したBABUを含むSLOの面々は、Wald内の床から壁までいっぱいを「デタラメに書き殴った」。宮川によれば「ビジュアルはBABUがメインで考えてた」といい、当夜のBABUの様子は宮川の目には「楽しそうに描いてた」ように映っていた。外田もまた「みんなパーティーに参加しているようにリラックスして楽しんでいた」と述懐している。実際BABUがギャラリー内での制作初体験を「楽しんでいた」という点に偽りはないのだろう。しかし同時に、その楽しそうな「リラックス」した緊張感のない空気にBABUは苛立ちを募らせてもいた。

 

《SAD SONG》展示制作風景(写真提供:宮川敬一)

 

 それはソウル兄弟の渡辺郷が制作の様子を見学しにWaldを訪れた時だった。渡辺は過去に雑誌『STUDIO VOICE』の特集で「世界の100人のアーティスト」に選出されたこともあるアーティストであり、Waldの展示が行われた2005年の夏にはgansomaeda名義で横浜トリエンナーレにも参加している。渡辺は以前からGallery Soapに出入りしていたものの、BABUと会ったのはこの時が初めてだった。

「いきなり『お前、この野郎!』って僕の胸ぐらに掴みかかってきたんですよ」

 BABUは会場に現れた初対面の渡辺に挨拶をするでもなく胸ぐらを掴むと、チンピラ同然の剣幕で怒声を発したという。その怒声の原因は、どうやら渡辺の足元にあった。

「僕が床に落ちてたBABUのステンシル用の型紙を踏んでしまってたみたいで。まあ殴られはしなかったんだけど驚きましたよね。ものすごい勢いで怒鳴られたんで。ただ、制作が終わって帰りがけになると、今度は打って変わったように『さっきはすいませんっした』って謝ってきたんです」

 

《SAD SONG》展示制作風景(写真提供:宮川敬一)

 

 その謝罪とともにBABUが渡辺に話したのは、「現代アートがいけすかない」ということだった。許可された場所と潤沢な時間を与えられたアートの制作環境は、自身が主戦場としてきたストリートとはあまりに違う。ストリートであれば、作品をつくり終えるやいなやすぐ逃げなければならない。そもそも完成させることができるかどうかも分からない。内側に向かって閉じているギャラリーと比べると、ストリートはどこまでも外に開かれているがゆえに誰も守ってくれない。作品を描き終えられるかどうかは運次第という側面が強いストリートの現場にはいつも緊張感があった。WaldでSoapの仲間たちと制作するのは確かに楽しかったが、その弛緩したムードはその時のBABUには「ぬるさ」に感じられた。言葉にならない苛立ちを押し殺しながら制作していたところ、現場を遊びに訪れた渡辺がたまたま型紙を踏んだものだから「ついカッとなってしまった」。おおよそそんなことをBABUは渡辺に話したという。

 その熱が尾を引いていたのかもしれない。展示の制作を終えた朝方にSLOの面々は中洲に繰り出し、飲み屋で打ち上げをしていたのだが、BABUはその店内にも落書きを始めてしまう。案の定、店員に見咎められ、すったもんだの末にSLOは店を追い出される。ところがまだBABUの熱は冷めない。仕方なく向かった次の飲み屋で、今度は竹野に食って掛かった。結局、竹野はここでもBABUに殴られている。

 BABUと周囲とのあいだに生じる制作の熱量のギャップは、この時に始まったものではない。それはストリートを舞台にしていた頃からずっとBABUを苛立たせてきた、トラブルの火元のひとつだった。だから、Waldの一件に代表されるBABUの苛立ちを、現代アートよりもストリートカルチャーの方が尖っていることを示す事例として理解すべきでは、多分ないだろう。ストリートカルチャーもまた、様式化され、クラスタが形成され、あるコードに支配されるようになれば、開かれた路上であっても閉ざされたものになる。アートがギャラリーや美術館という時空の制約によって閉ざされているとするなら、ストリートカルチャーは文化的に自閉する。BABUが今回に限らず、ストリートのシーンにおいてもずっとトラブルメイカーだったということについてはすでに触れてきた。Waldの一件においてBABUが摩擦熱を放散することになった直接の原因は、現代美術の制作と展示の現場をその外部から守っている物理的・制度的な壁だけではなく、あるシーンがそのシーンに特有のコードの内側へと自閉し、ある種の安全圏、「ぬるさ」の内へと引き篭もっていく運動にあったのかもしれない。だからこそ、BABUはどこにいようと周囲と摩擦を起こす。実際、BABUの作品について関係者に尋ねると、制作プロセスにおいて生じたトラブルのエピソードが作品と同じぐらいのボリュームで語られるケースがとても多いのだ。あるいは、BABUにおいてはそうした「摩擦を起こす」ことが「制作する」ことと同義であるようにすら思えてくる。

 いずれにせよ、いくつかのトラブルを経て完成したWaldの展示は、宮川いわく「面白いもの」に仕上がったという。外田によれば「いわゆる完成度の高い展示ではなかった」ようだが、「グチャグチャな展示をやりたかった」という宮川の意図は果たされたようで、ホワイトキューブを占拠する一夜漬けの「落書き」は、福岡市の一角に束の間の混沌を生じさせた。展示写真を見る限り、それは実際に「グチャグチャ」だ。床面と壁面のほとんどを埋め尽くす猥雑なペインティングはおよそ解読の困難な「イカれた」ものであり、赤い壁に引かれたBABUのラインと、扉を背に左側の壁に掛けられた白濁の飛び散った円盤状の物体が、かろうじて正気の気配をとどめている。

 

《SAD SONG》展(写真提供:宮川敬一)

 

 さらにSLOの展示ではつねに音楽も重要なファクターをなしていたそうで、その時の会場には、ルー・リードの「SAD SONG』のサビ部分だけが絶え間なくリフレインしていたという。選曲したのは宮川だった。想像するだにトリッピー。控えめに言っても異様な空間だ。

 

 

 SLOによるWaldの展示を、関係者以外で記憶している数少ない人物のひとりに東京芸大教授・毛利嘉孝がいる。『ストリートの思想』、『バンクシー アート・テロリスト』など、ストリートに関する著作をものしている毛利は、当時、福岡市にある九州大学の助教授をしていたことからGallery Soapにも足繁く出入りしていた。宮川と共に2001年のRE/MAPプロジェクトを手掛け、後に北九州国際ビエンナーレを手掛けることとなる毛利は、Waldの展示と、当時のGallery Soapについてこう述懐する。

 

 

「私はGallary Soapに溜まっている若者たちの展示、ということで見たのですが、その時はSoapも世代交代、というか、ずいぶん変わったなと思った記憶があります。SLOは、BABUが、というのもあるけど、Soapや宮川さんが、突然美術の外部にあったもの――ロックやパンク、街の不良、グラフィティをギャラリーに取り込もうとしたものだと思っていました。それはうまくいっていたかと言うとWaldが比較的普通のギャラリーだったこともあって、雑然とした異質なものが詰め込まれた感じがあって、いわゆる『美術作品として良い/悪い』ではない何かちがうものが展示されていたという感じがしました。面白いけど美術じゃないかも、というところでしょうか。実際、グラフィティもあったけど、美術作品には回収されず、『落書き』のままギャラリーに存在していたように思います」

 毛利の目にはソウル兄弟もまた当時のSoapにおいて異質さをもった存在として映っていた。

「BABUといっしょに関わっていたSoapまわりのミュージシャンは、Soapの常連のなかでも、いわゆる現代美術系とは全然ちがうタイプの人で、パンクというか、ネジが少しゆるい、変な若いやつが多かったと思います。BABUがSoapにいられたのも、現代美術のギャラリーというよりもそういう人たちがいたからじゃないでしょうか」

 BABUがSoapを訪れた時期は、Soapにとって、さらにはディレクターである宮川敬一にとっても、次の方向性を模索し、壁を越えようとしていた端境期だったのかもしれない。少なくとも毛利の述懐からは、当時のGallery Soapが、現代アートの世界の内と外が接する界面のような場となっていたということ、そして、BABUが参加したWaldの《SAD SONG》展とは、美術的な観点からの成否はともかく、そうした内と外とが出会い、摩擦することによって生じた小さなトラブル――裂傷のようなものであったということが伺える。その裂傷はまだ深くはなかったかもしれない。しかし、裂けた皮膚から覗く桃色の肉は、次第にジクジクと化膿し、異臭を放ち始める。

 《SAD SONG》展から時を経ずして、BABUは再び福岡市内においてギャラリー展示に参加することになる。舞台となったのは福岡市の〈art space tetra〉だ。〈art space tetra〉の発起人のひとりにインディペンデント・キュレーターの遠藤水城がその名を連ねている。現在、HAPSの代表を務め、昨年までヴェトナムのVCAAの芸術監督を務めていた遠藤もまた、2005年当時、Gallery Soapの常連だった。

 

文/辻陽介

編集協力/逆卷しとね

#09「およそ想像しうる最も小さな革命」を読む>>

 


 

BABUの個展「YES NO」がOIL by 美術手帖ギャラリー(渋谷PARCO 2F)にて 6月17日(木)より開催。

 

 

展覧会名 |YES NO

アーティスト|BABU

会場|OIL by 美術手帖(渋谷PARCO 2F)

会期|2021年6月17日(木)〜6月30日(水) 

入場|無料

主催|OIL by 美術手帖

協力|GALLERY SOAP

詳細はOIL by 美術手帖ギャラリーウェブサイト・SNSで後日発表します。

https://oil-gallery.bijutsutecho.com/

 


 

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。

 

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〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉

#01「金網の破れ目をくぐって」

#02「残骸と瓦礫の街で」

#03「スケボー怪人」

#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」

#05「爆弾魔たちの宴」

#06「Writing Culture」

#07「アートもある居酒屋」

#08「Creating Friction」

#09「世界で最も小さな革命」

#10「迷惑のかけ方」

 

〈MULTIVERSE〉

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

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「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

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「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

 

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