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反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する|西迫大祐×塚原東吾(前編)

現在、世界各地でワクチン接種を証明する衛生パスポートの導入が「感染症対策」という大義のもと進められている。我々はいかにしてこの古くて新しい「社会的排除」に抗うことができるのか。日本国内での導入を前に可能な選択肢を探る。

僕たちはみな同じ船に乗っている?

辻陽介(以下、辻) まず最初に僕の方からお二人の対談を企画させて頂いた動機についてお話しさせていただきます。

ご存知のように、現在フランスを筆頭に、世界の様々な国、地域でワクチン接種を証明する衛生パスポートの導入、つまり、公共交通機関や飲食店、ショッピングモールなどにおける接種証明書の提示の義務化が、政府や自治体によって進められているという状況があります。

現状(2021年9月3日時点)で日本においては具体的な法制化の流れは生じていませんが、菅総理や分科会の尾身茂会長が接種証明書の活用を示唆するような発言をしていたことなどもあり、今後どうなっていくかは果たしてわかりません(その後、9月5日に、分科会はワクチン接種・陰性証明書を活用する形での制限緩和を政府に対して正式に提言した)。

この衛生パスポートは建前上、ワクチンの接種を強制したり義務化するというものではありません。しかし、たとえば飲食店や公共交通機関における提示が義務付けられるとなると、ワクチンを打っていない人は日常生活を通常に行う権利の一部が奪われてしまうということになり、実質的にはほぼワクチン接種を強制、義務化するものだと言っていいだろうと思っています。

あらかじめ言っておくと、こうした流れ、つまり衛生パスポートの提示義務化の動きに対して、僕は強く反対しています。今回、この対談を企画させていただいたのも、日本で具体的に衛生パスポート導入の話が進んでいく前に、きちんとそれを問題だとする言説を打ち出しておく必要があると感じたからです。

しかし、ここで誤解して欲しくないこともあります。僕が衛生パスポートに反対しているのは、今回のワクチンの安全性に対して不安があるからではないということです。現在、様々になされているコロナワクチンが他のワクチンと比較したときに安全性に乏しいのではないかという議論は、それはそれで非常に大事な議論ではあると思うものの、僕が衛生パスポートの導入に反対する主要な理由ではありません。つまり、今後、仮にコロナワクチンの安全性が極めて高いということがはっきりと証明されたとしても、その接種を義務化するような動きに僕は断固として反対だということです。

その理由は様々あります。まず重要なポイントとして、衛生パスポートの導入は、哲学者のジョルジオ・アガンベンが今日の事態について指摘していること、すなわち、本来、市民が有している「健康権」が今日の例外状態においては「健康への法的義務」へと顛倒してしまっているという状況を、ますます加速させるものではないかと感じているという点があります。あるいはミシェル・フーコーが『社会医学の誕生』で擁護していた「自らの欲求にしたがって病気になり、養生し、死ぬ権利」があまりにも軽視されてしまっている状況に対する一人の市民としての憤りもあります。

 

 

 

また、これは後ほど出てくる話かもしれませんが、ワクチンの義務化、衛生パスポートの導入を社会的に正当化する一つの思想的立場である「連帯主義」というものに対する警戒もあります。これは西迫さんがご著書『感染症と法の社会史』でも触れられていることです。連帯主義とは端的に言えば「我々の命はみな繋がっている。だからそれぞれが互いの命に対してそれを守るべき義務を負う」という考えのことですが、僕にはこの連帯主義というものがどうにも胡散臭く感じられて仕方がないんです。

 

 

実際、昨年にコロナ禍が始まって以来、「連帯」という言葉が非常に多く説かれるようになりました。それに関連してしばしば引用されたのがキング牧師の「WE’RE ALL IN THE SAME BOAT」という言葉です。それこそスラヴォイ・ジジェクのような思想家もこの言葉を引用していましたし、最近ではアーティストのバンクシーもまた新作の壁画にこの言葉を描き込んでいました(バンクシーの場合、アイロニカルな表現のようにも見える)。僕たちはみな同じ船に乗っている、僕たちの命は繋がっている、だから今こそ連帯しなければならない、そうしたメッセージが今日、いささか執拗なまでに説かれるようになっている気がするんです。

 

 

 

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一見、この言葉にはものすごく強い説得力があります。僕が昨年にマルチスピーシーズ人類学研究会との共催で行った対談シリーズ『COVID-19《と》考える』(その後、『コロナ禍をどう読むか』と改題され書籍化)においても、我々の命が種を超えて様々な存在と繋がっているという話は幾度も出てきました。だから、その前提が間違っているとは僕も思っていません。

 

 

しかし、「我々は同じ船に乗っているのだから互いに協力して進んでいかなければいけない」という時、その命の船が向かうべき進路を決めているのは一体誰なのか、ということが一方では忘れられているようにも思います。たしかに事実として僕たちの命は連帯的な状態にある。ただ、それを何か特定の目的に紐付け、その目的を果たす上で皆が協力しなければならないという言説には、どうにも度し難い傲慢さを感じるんです。

より直裁に言えば、「感染拡大防止」なり「ウイルスの撲滅」というような「進むべき一つの航路」を定めて、そこに積極的に協力しないもの、非協力的に見えるものを、他者の健康を害する可能性がある存在とみなして排除、隔離を行う、ないしはその者の行動の自由を制限するということが、一体どこまで許されるのか、あるいはそもそも許していいものなのか。そこに関しては、まだ十分に語られ尽くしてはいないんじゃないかという気がしています。

さらにもう一点付け加えると、そうした問題を国家対市民というような単純な図式で語ることもまた今日においては難しさがあるように思います。今回のコロナ禍で、特に日本においては、そうしたバイオセキュリティの拡充を市民の方が求めてしまっているという状況もあります。いわば、その不能ゆえか穏当さゆえか、生政治をろくに行うことができない政府に対して、本来なら生政治に抗うところの市民が「生政治をもっと厳密に行え」「我々を統治せよ」と要求しているという、いささかねじれた状況がある。これもまた今日の状況を分かりづらくしている側面もあるように思います。

長くなりましたが、今回はこうした問題意識のもと、お二人の対談を企画させていただきました。西迫さんはフーコーの研究者であり、特に公衆衛生と生権力の関係史についてをご専門に研究されています。塚原さんは科学史の研究者として、かねてより現在の安直な科学崇拝や科学的言説の不透明性を批判されています。今日は衛生パスポートの導入の是非をメインのテーマとしつつも、お二人には是非ともその背景にある問題、今まさに上から下から横から進行しつつあるバイオセキュリティの問題についても、語っていただけたらと思っております。

なお、今日は聞き手として僕、HAGAZINEの編集人・辻陽介と、HAGAZINE九州支部の逆卷しとねが同席させていただきます。対談の途中、状況に応じて、質問や意見などを挟ませてもらうこともあるかもしれません。

では、まず西迫さんにお伺いしたいと思います。西迫さんは今日の衛生パスポート導入の流れについてをどうお考えでしょうか?

 

それによって感染症をなくすことができないなら衛生パスポートを導入すべきではない

西迫大祐(以下、西迫) 衛生パスポートについては最近フランスで導入されたことで話題になりましたね。この導入に際してフランスの憲法院がこれは憲法違反ではない、つまりは合憲だと判断したということでしたので、僕もその文面を読んでみました。果たして私権の制限を伴う衛生パスポートがどういう理屈で合憲と判断されたのか。読んでみると、どうやら合憲判断の最も大きな理由は、衛生パスポートを導入することで感染症拡大抑止が大幅に期待できる、つまりコロナのリスクを大きく減らすこができると議会が判断したから、というもののようでした。

しかし現在、ワクチンをめぐる情報を見てみると、本当にそうなのかなというところがある。実際、変異株に対してはワクチンによる感染抑制効果があまりないということが専門家からも数多く言われている。僕自身は医学に関しては専門ではないのではっきりとしたことは言えませんが、フランスの議会によるそもそもの認識、衛生パスポートで大幅にリスクが減るという認識には、どうもおかしなところがあると感じざるを得ない。

あるいは、それが集団免疫を獲得することが目的なのであれば、全員が接種する必要はなく、7、8割が接種すればよいと言われている。もともと2、3割は打たなくてもいいとされているわけで、衛生パスポートのように「それを全員やりましょう」とするのは科学的な態度とは言えないでしょう。そうしたことを踏まえた上で現状における僕の意見を言うなら、衛生パスポートの導入は避けたほうがいいだろう、というものになります。

では、どのような立場から反対論を述べるべきなのか。僕はこれまでミシェル・フーコーの研究をしてきましたが、最近ではJ・S・ミルの方が、感染症のことを考える上では良いのではないのかなと思っていてます。なぜかと言うと、ミルは一方で自由は大事だと主張しながら、他方では功利主義者として全体のことも見ている。自由を大事にしつつ全体のことも考えているというバランスにおいて、ミルに魅力を感じているんです。

 

 

ミルは、それによって感染症をなくすことができるというのがほぼ確実だというのであれば、我々の自由の一部を差し出すことも考えていいけれども、そういう可能性が全くないのであれば、すべきではないと言います。その効果が不確実な中で市民の自由を制限することは、国家権力の濫用の危険があるので避けなければならない。ミルはそう考えるんです。

このミルの考えを踏まえて今日の状況を見てみると、現在、衛生パスポートを導入することで本当に感染症が激減するのかと言えば、先ほども話した通り、かなり不確実であると言えます。あるいはパスポートが導入されたことによって人々の行動が活発化すれば、むしろ感染者が増える可能性だってある。そのような状態で衛生パスポートを導入するのは国家権力の濫用にあたるのではないかと思います。

ただ一方で、フランスと日本では前提とされている状況が違うということには、留意しておく必要もあると思います。最近、フランスで予防接種を専門に研究している先生と話したんですが、フランスの場合は先にロックダウンをしていて、その後に衛生パスポートが導入されたという流れなので、フランス人にとっては「前よりちょっと自由になった」という文脈で捉えてる人も多いらしいんです。これは日本とは違う点ですよね。日本は現在、自粛要請がなされている段階ですから、ここから衛生パスポートが導入された場合、今よりも自由が制限される形になる。見え方が全然違うんです。

また、フランスの場合はこうした強い制限を国民に対してかける時、かなり慎重に行ってはいるんです。それこそ事前に合憲性の判断をきちんと行い、行政が様々な点を細かくチェックしていき、かつそのプロセスの全てが全部ウェブ上に公開されている。それがいつからいつまで行われるものなのか、どういった補償があるのかについても、はっきりと公開されてるんです。だから衛生パスポートがOKだという話ではないんですが、手続きをきちんと踏んでいるという点は、日本政府の現状と比較しても評価できると思います。逆を言えば、フランスではかろうじて可能であったとしても日本で同じことが可能かというと甚だ疑問です。

僕の見解としてはひとまずこんなところですね。塚原先生はいかがでしょうか?

 

ワクチンパスポートの導入はバイオキャピタルを利する

塚原東吾(以下、塚原) 僕としても衛生パスポートについてはまず直感的に嫌だなという感じがします。ただ何が嫌なのかというと、なかなかうまく言えないんですね。ひとまず今日の状況については辻さんが冒頭で言っていたことが一番大きな問題だと思っています。つまり、バイオセキュリティの拡充を求めるのが市民であるということです。特に弱者と呼ばれる人々、たとえば老人であったり妊婦さんであったりという人々がより安全な状態を求めて国家によるセキュリティを要請する声を出している。そうなると、こちらも「市民の自由が」とはなかなか言い出しづらいところもあり、わだかまりを感じているんです。だからもうちょっと細かく見ていかなければならないと思って色々と勉強しているところでした。

その上で言うと、まず今日においては、排除と隔離というものが、セキュリティの名目によってどんどんと進められていっているということが大きな状況としては分かっています。そこで重要なポイントは、西迫さんがおっしゃっていたように、サイエンスとしてかなり不確実性があるにも関わらず、大雑把に見てこうでしょうという雑な判断によって押し切られてしまっているということですよね。フランスの衛生パスポートはまさにその典型であり、これは非常に問題だと思います。

あるいはサイエンスそのものの不透明性さ、メディカルディスコースのいい加減さの問題もあります。疫学などはまさにそうでパーセンテージで全てを語ってしまうわけです。90パーセント生き残って10パーセントが死ぬよりは95パーセント生き残って5パーセントが死ぬほうがいいんだと言いきってしまうのが疫学言説というものであり、当然、それはまずかろう、と思うわけです。

そうした状況に反対する上で西迫さんはミルを持ち出していましたが、なるほど、今日のような事態においてはもはやミルのような非常に原点的な功利主義へと回帰していかなければならないのか、と少し驚きました。実効性があるのならば、お金が儲かるなら、人の命が助かるなら、市民の自由を制限しても良い、と。ある意味ではがっかりしてます。僕らは近代の入り口まで立ち戻ってしまったのか、と。フーコーの生権力からも遡り、露骨な功利主義そのものを語る言説まで引っ張り出さなければならない事態になってしまったのか、と。

そうコメントした上で、僕としてはここで言っておかなければいけないと思っていることが2点あります。ひとつめはワクチンやテクノロジーそのもののポリティクスの問題です。

というのも、世界的なワクチンポリティクスにおいてワクチンパスポートの導入というものはバイオキャピタルに非常に適合性のある政策だろうなと思うんです。もっと言えば、これを導入することで彼らは非常に儲かるわけです。パスポートがない奴は市民的権利を享受できないぞ、しかも1回打つだけじゃダメだ、2回打つんだ、その後も定期的に3回、いや4回打つんだ、と。昔からビッグファーマーやモンサントなどの大企業は汚いことを散々やってきたわけですけど、それが今回こういう形で発現している。国家が憲法がといったそういう行政上の手続きの話も非常に大事なことだとは思うんですけど、一方で今日はそうしたものとは別の大企業の動きなどもきちんと見いていかなきゃいけないフェーズに来ていると感じています。

実際、ファイザーとかモデルナとかビオンテックとかシノバックとかスプートニクとか、製薬資本の戦争が国家ベースではないところで始まってしまっているわけですよね。これは国家と市民の関係を見ているだけでは見えてこない部分であり、そういうところにも注意したいというのがまず一点目です。

二点目は辻さんがおっしゃっていた「連帯」の問題です。たとえば、いかに今回のワクチンに関しては不透明なところが多いとはいえ、市民の立場というものは弱いから、やっぱり打ってしまうわけです。日常判断ではそうせざるを得ない。うちには子供がいるから、奥さんが妊娠するかもしれないから、年老いた両親に感染させられないから、と。それはしょうがない。弱者としての言説はそうあらざるを得ない。しかし、それをそのまま受け止めていいのか、という問題がある。つまり、どこかで今日の状況に対抗していかなければならないんです。

そして、その対抗の上で「連帯」という言葉が非常にいい加減な形で使われているように思います。つまり、連帯が排除と隔離のための言説になりつつある。辻さんが僕宛のメールにも書いていたことですけど、いまや左派が最も市民活動の制限を堂々と主張するようになっていて、これには非常に由々しきことだと思います。自分もまた左派を自認するわけなんですけど、「お前みたいなスターリニストとは一緒にやれないよ」というような喧嘩を40年前くらいにやっていたことを思い出します。そうなると一体、誰と連帯していいのかが分からない。僕たちはそれくらい大きな分裂状況に入ってしまっているように感じるんです。

もともと日本におけるワクチン反対派というのは、サイエンティフィックでしっかりした市民の言説を持っていたはずです。HPVの時もポリオの時もそうでした。日本には薬害の歴史が延々とあるため、薬害に対する警戒というのは怠ってこなかったはずなんです。市民のまともな対抗言説の歴史があったんです。

そうした歴史があったにも関わらず、今日、多くの人があまりに無防備になっているような気がします。これも辻さんがメールにくれた言葉ですけど「あるべき屈託が見られなくなってしまっている」。確かに僕としても、ワクチンを受容するにせよしないにせよ、もうちょっと躊躇しなさいよ、もうちょっと考えなさいよ、もうちょっとビビりましょうよ、と思ってしまうわけです。それが「しょうがないか」みたいな形でなし崩しに事が進んでいってしまう。これは前提そのものの欠落です。今までの歴史はなんだったんだというのを強く感じざるを得ない。何か時代が変わった気がしています。原爆症があり、水俣病があり、全共闘運動があったのに、なんで日本社会はこんな無防備になってしまったのか、それが分からないんです。

ここの二つ、つまり世界的なレベルと市民的なレベルについてを考えながら、現在進みつつあるワクチンパスポートを疑っているというのが僕の現状です。

 

連帯というものは昔から排除的な言説だった

西迫 塚原さんの最初のお話、つまり隔離や追放を弱者の人が求めてしまっているという話を聞いて思い出した話があります。フランスで行われていた衛生パスポートの議論において反対した議員の人たちがいて、その人たちが反対していた理由に、「じゃあ誰が確認するのか?」というものがあったんです。つまり衛生パスポートを導入すれば、結局のところ、カフェの店員さんやショッピングモールのスタッフの人がパスポートをチェックする形になる。すると、一般の市民がある種の警察として振舞うことになる。普段は「うちのカフェに来たらくつろげますよ」みたいなおもてなしの精神で働いていた人たちが、お客さんが来たらまず「パスポートを出して」と、警察の下部組織のような役割を肩代わりして担わされてしまう。そしてその役割を果たさなければ罰金が下されてしまう。

これはある意味で、主権のようななものがグっと前に出て来ている状態です。まさにアガンベンが問題としていたことですよね。店舗営業のような割とプライベートな空間にまで主権が迫り出してきてしまっている。今回、コロナ禍に対する発言でアガンベンは多くの批判を浴びていますが、僕としては共感するところも多々あるんです。

検査される側だけではなくて検査をする側も、主権に首根っこを掴まれてそれを行う。つまり、やられる方もやらされる方も市民である。そういう構造についてアガンベンだったらアウシュビッツの残り物と言うかもしれません。ナチスは自ら直接手を下すのではなく、ユダヤ人に同じユダヤ人を殺害したり遺体を運んだりすることを命じていました。そうした例外状態のようなものが実際に生じてきているのかもしれない。そう危惧しています。

またもう一つ聞いた話では、現在フランスではワクチンを打たなくても一度コロナに感染すれば証明を得られるので、若い人たちでワクチンを打ちたくない人は自ら意図的に感染することで、その証明を得ようとしている人もいるようです。ある意味で脱構築している。重症化しなければ若者にとってはうつってもいいわけですけから。

連帯の話もありましたが、連帯というものが怪しいぞというのは僕も以前から思っていました。特にユヴァル・ノア・ハラリの発言などについては「何を言ってるんだ?」と思っていました。塚原さんが前の対談で触れていましたね。ハラリは連帯だ連帯だと言うけれど、一体、誰と連帯するつもりなのか?と。ハラリの発言にはそこの具体性が全くなくて、言っちゃえば知識人がちょっといいこと言ったぞくらいのものでしかない。だから割と多くの人がSNS上でハラリの言葉に盛り上がっているのを見たときは「こんなのでいいのか」と思ったことを覚えています。

シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 TALK 08|塚原東吾 × 平田周|グローバルとローカルの来たるべき「あいだ」へ──プラネタリー・アーバニゼーション研究と科学批判学が見据える第三の道

 

 

自著『感染症と法の社会史』でも触れていますが、連帯というものは割と昔から排除的な言説なんです。みんなのために連帯して感染症を予防しましょうとなった時、それが誰に向けられたメッセージなのか。それはたとえば結核時代のパリにおいてなら移民でした。連帯のメッセージには、東欧からパリに来た移民たちに対して向けられた、お前らが住むところは不衛生なスラムで結核の温床になるから感染症対策をちゃんとしてこちらにうつさないようにしろよ、というメッセージが隠されていた。それをみんな向けにいうと、「みんなで協力して他人にうつさないようにしましょう」となるわけです。実際はピンポイントで「お前ら」と名指されているんです。

今の日本だとたとえば「若者」がそう名指される存在になっていますね。実際、無料でワクチン接種会場を開いたところ大勢が殺到し行列になっているわけです。ワクチン未接種者はすでに悪者扱いされてますからね。つまり、誰かを悪者にしてお前らのせいだということにする、そういう危険性を持った思想が連帯主義であり、それはその起源から今に至るまで、ずっとそうなんだと個人的には思っています。

 

ミルは事前か事後かで介入の良し悪しを判断していた

西迫 あとミルについてですね。確かに塚原先生のご指摘の通り、功利主義そのものになるとエグいんです。原理的な功利主義というのはフーコーの生政治に近いような酷薄さがあり、少数を犠牲にしても全体が生き残ればいいのだと考えるところがある。ただ、功利主義者の中でもミルは割とバランスが取れているようにも思います。ミルは功利主義的にものを考える一方で個人の自由は絶対に大事だとも言うわけです。全体のために個が犠牲になるようなことは絶対にダメなのだ、と。そういう自由論者の側面も持っているので、ただの功利主義者とは少し違うと思っているんです。つまり、自由はとても大事なものなんだけど、場合によっては全体のために取引してもいい局面もあるのだ、と。そこが現在の状況を考える上では割と受け入れやすい。ひとつの妥協点として、ミルの立場を参考にすることもできるのではないか。そう思っているんです。

 

 

塚原 僕はミルをそれほど読んでるわけじゃないからはっきりしたことは言えないんですけど、西迫さんの話を聞いた上でもやはりミルはどうなんだろうと思ってしまいます。というのも、現在、世界で強権的な政治を行っている国と言えば、フランスなどよりもまず中国だと思うんですね。そして、中国はある意味でミルのやり方でやっているんだと思うんです。中国共産党はまさに功利主義的なスタンスを取っている。そこをどう考えたらいいのか、僕には分からないんです。

西迫 なるほど。その辺については少し説明不足でした。確かに中国は超功利主義ですよね。実際にハイパーパノプティズムとも言われています。国全体がサイバーパノプティコンのようになっていて、まさにベンサムの世界だ、と。要するに中国社会というのは超合理的で綺麗に統治された社会であって、だから感染症もすぐに抑えることができる。純粋な功利主義です。もちろん僕も中国的な統治には賛成しません。では、中国的な功利主義とミルの功利主義とではどこが違うのか。

重要なポイントとして、ミルは予防的介入に対してものすごく反対した人なんです。事後的に介入するのはOKだけど前もって止めるのは絶対ダメだという立場を取っている。たとえば、目の前で危ない橋を渡ろうとしている人がいたとして、その人がその危険を理解した上で渡ろうとしているなら止めてはいけないとミルは言うわけです。なぜなら、それはその人の自由だから。もし実際に渡って落ちてしまったらそこで初めて対応する。それが国家の役割なんだと考えていたわけです。つまり、ミルは事前か事後かで介入の良し悪しを判断していた。トラブルを未然に防ぐために自由を制限するというのは国家権力の濫用にあたる危険が大きいと批判していて、それでいうと中国政府のような規制の設け方はミル的には認められないんです。

あるいは感染症予防なども、まさに予防的介入であり未然に防ぐことを目的としたものなので、その観点からの自由の抑制は基本的にはオススメされないとなる。実際、ミルは感染症予防法を廃止するために非常に頑張った人でもありました。当時問題となっていたのは梅毒でしたが、梅毒にかかった人をあとで治療するのが国の責任であり、それを未然に防ごうとしたりスクリーニングしたりするようなことはしてはいけない、と。こういうバランスなんです。先ほども触れたように、ミルにおいて事前に抑止することが許されるのは、その抑止によって病気がこの世から一切なくなるくらいのベネフィットがある限りにおいて。最終的にはベネフィットの大きさを見るあたりは功利主義者らしいですけど。

塚原 なるほど。事前か事後かというのは面白いポイントです。ただ、そこで難しいと感じるのは、今、衛生パスポート政策について、政府は予防的介入としてではなく事後処理だと考えてる可能性があるとは言えませんでしょうか。そうなるとミルの事前かと事後かというのは、途端に意味をなさなくなる。そういう危険がある気もするんです。

確かにミルの時代であれば、感染症予防法はいかんという結論が得られたかもしれない。しかし、ミルを筆頭とする功利主義の言説をひとたび使うことになったら、権力にうまく利用されてしまう気がします。たとえば、今、中国で起こっている徹底した管理も、すでに起こってしまったパンデミックに対して中国共産党が事後介入として行っている、という見方をすることもできる。こうなると、ミルではもはや対抗しえないと思うんです。意地悪な見方ではありますが。

西迫 確かに功利主義という言葉を今使うことに危険があるかもしれないとは思います。特に市民側が管理を政府に求めている日本の状況においては。最近では功利主義者のピーター・シンガーが、衛生パスポートだけではなく、予防接種の義務化も、非常にあいまいな根拠から正当化していますね。もちろんそういった危険もあるのですが、ただ、功利主義を一切否定して、全てに反対するのが正しいかというと、それもどうなのか、という話はあります。コロナの場合、人から人へうつればうつるほど変異株が出てくるので、どこかで止めなければいけないというところもあり、すると政府と自由を取引しなければいけないポイントがどこかで出てきてしまわざるをえないのかな、と個人的には思うんです。ただ、それは衛生パスポートという形ではないだろうと思っていますが。

塚原 僕がさっきああ言ったのは、事前がダメで事後ならよいと一律に判断することが現代においては無理なんじゃないかと思ったからなんです。たとえば予防原則という言葉が一番よく用いられたのはいつかと言えば遺伝子組み換え食物が登場した時なんですよね。アメリカのモンサント社なんかは他の食物と実質的に同等だから大丈夫だとする実質的同等理論というのを出してきて「食べても大丈夫だ」と盛んに宣伝していました。一方で不安視する声も強く、結局、ヨーロッパは何かが起こってしまってからでは遅いと、遺伝子組み換え食物の輸入は一旦止めたんです。これはミル的に言えば事前介入、予防原則に乗っ取った判断なんです。

 

 

あるいは原子力の例で考えてもいいかもしれません。予防原則がまずいとする場合、原発もまた事故を起こす前から規制することはできない。しかし、原発が事故を起こしてからなんとかすればいいかと言えば、そうはならないですよね。テクノロジーの水準がミルの時代の水準と全く違ってしまっていると思うんです。橋を渡るとか、病気になるとか、そういったレベルではもはやなくなっていて、事故が起こった場合、社会的に取り返しがつかない状況になってしまう可能性が非常に高い。福島を事後処理するといくら言われてもやっぱり許せないわけですよ。20世紀以降のテクノロジーはそういうものになっていて、そこでは事前介入か事後介入かという図式はもう使えないんじゃないかと僕は思うんです。

もちろん、その上で細かい判断はありえます。たとえば遺伝子組み換え食物で言えば「表示しておけばいい」というのがひとつの妥協点になっている。あとは消費者のチョイスだ、と。もちろんアメリカはそうした表示さえさせない方向に話を進めようとしてくるわけですけど、日本では現状、全てに表示されています。これが果たしてちょうど良い状態だと言えるかは分からないけど、まあそのくらいのレベルでなんとなくやり過ごされている問題はいっぱいあるわけです。たとえば予防原則を徹底するならカップラーメンなんて食べられないわけですよ。炭酸飲料だって無理でしょう。だから日常的な判断に関しては一定レベル予防しつつ基本的には事後介入とされている。しかし、テクノロジーに関して同じ基準で考えてしまったら危険すぎます。

さらに逆から見てみると、今日のワクチンの扱いも事後的に話がどんどん変わってしまっていってるわけですよね。2回打ってもダメそうだから3回目も打ちましょう、と。こうなると事前と事後の区別は本当に分からない。ワクチンを打つことは予防だけど、その予防に効力があるのかどうかと疑うことを考えることもまた予防です。ミルの思想の厳しさはそこなんです。もちろん、そうなると功利主義をリスクだと考える僕はある意味でハイパー功利主義的な立場であるとも言えて、それもそれで思想的には矛盾を抱え込むことにもなるわけですが。

 

プロバガンダによって判断を迫られていく市民

西迫 誰の目線に立つかによって事前と事後の区別が異なってきてしまうというのは確かにそうですね。実際のところ、政府が考えている安全のレベルと市民が求めている安全のレベルも違うわけで、ワクチンに関してはその違いに気づいてないのか、あるいは気づかないふりをしてとりあえず打ってしまうのか分からないけれど、それもまた日常的判断としては仕方ないことなのかもしれません。100パーセント納得しているわけではないけど、仕方ないから打っておこう、くらいの人が実際には多いように思います。

その意味では今日では個々人が功利判断をしているとも言える。コロナになるよりはマシという判断で打つというのは、まさに功利判断です。そうした判断はフーコーが批判していたところのホモエコノミクス、つまりリスク判断をする主体みたいなものを連想させるものでもあります。このパンデミックによって究極の選択を迫られる形で、誰もが功利主義化しているところはあるのかもしれません。

それに確かにSNSなどを見ていると、ワクチン肯定派の方が予防原則のようなものをすごく批判していたりもします。リスクゼロはあり得ないんだ、というメッセージをお医者さんのアカウントが盛んに発信していたりする。ただ、リスクゼロはあり得ないとして、そのリスクは実際どれくらいあるんですか、となると「新しいワクチンなんでまだよくわかりません」「副反応は人によって違います」といったような具合で割とぼやっとしているんですよね。しかし、それは科学言説とは言えないんです。

だからこそ、誰もが漠然とワクチンに関しては不安を感じているんだと思います。不安を感じてはいるんだけれども反ワクチン派の言説は行きすぎていて共感できないみたいな人が割と多い気がする。この前もサッカーの内田篤人選手がワクチン推進のプロモーションビデオに出ていましたが、その第一声が「ワクチン打つ前はやっぱりちょっと怖かったです」というものなんですよね。でも僕は打ちました、と。不安だったけど打ったら大丈夫でしたよというメッセージを送って、推進しようとしている。ある種のプロバガンダ的な映像ですよね。ああした映像が作られるのも、みんながどこかで不安に思っていることを、政府も把握しているからだと思うんです。

本来ならその不安を通じて、相互にわかりあっていくことはできるはずなのに、現状ではすっかり分裂してしまっています。ワクチンを疑う人は反ワクチン派とされ「陰謀論者だからダメだ」みたいに攻撃の対象とされていく。そうした乖離が起きているのが現状だと感じます。

塚原 現在はかなり危険な状況だと思いますよ。プロバガンダがバンバン流されて、市民は不安を抱えていながら、でもコロナになったら大変だし、と判断を迫られていく。一方の政府はウニョウニョとしていてはっきりしない。このままだと当然のように3回目もやろうよみたいな話になっていくでしょう。ファイザーだってモデルナだってやりたくてしょうがないわけですし。2022年にはワクチン生産がだぶつくという話もありますが、そのだぶついたワクチンをアフリカや東南アジアに持っていっても彼らはお金にならないわけです。ならばディストリビューションネットワークがあり、安定供給できる国の人々に6ヶ月に1回ずつ打ってもらおうとなる。そうなれば単純な話、儲かるわけです。その際、ワクチンパスポートはバイオキャピタルにとって非常に便利なものになっていく可能性があります。

 

衛生パスポートに反対するために誰と連帯すべきか

塚原 西迫さんは今後の具体的なシナリオとして日本でワクチンパスポートが適用されるとしたら、どこから始まってどんなプロセスで導入される可能性があるとお考えですか。自民党あたりから動き出すのか、それとも厚生省から動き出すのか、どういう形のワクチンパスポートがどういう形で利用されていくのか。僕らが今、こういうことをディスカッションする上では反撃のための砦を築いていかなければいけないなと思うんです。だから脳内シミュレーションをしておきたいな、と。

西迫 難しいですね。想像する限り、みんなそれをやりたいわけですよね。企業も政府も厚生労働省も。

塚原 具体的なシナリオとしては次の総裁選で岸田政権になるだろうということが見えてきてるいわけです(本対談は9月3日の午前中、管総理が辞任を発表したという報道の前に行われた)が、最初にコロナ政策を打ち出している。

西迫 あれはどうなんでしょうね。やりすぎで裏目に出そうな気もしていますが。僕なんかはちょっと引いてしいまうレベルですが、多くの人にとっては待望の政策ということになるんですかね。

塚原 そこは分かりません。あるいは野党の側からの突き上げによって、その突き上げに応える形で動いてしまうという可能性もありますよね。いわゆる社会福祉行政の一環としてワクチンパスポートのようなものを野党が求めてくることもあり得る。

西迫 そうですね。逆に言えば衛生パスポートが嫌だと言いそうな組織が思いつかないですよね。パスポートを導入することによって経済が動くことになれば自民党としては歓迎なわけです。経済が活性化する、GoToをもう一回できる。海外とのやり取りの中でパスポート使えて交流できます貿易できますとなれば、それこそ導入せざるを得なくなるわけですから。そこに「いやちょっと待て」と言いそうなところがむしろ思いつかない。野党も与党に対して「統治できてない」という意見だとすれば、どこから出てきてもおかしくないし、イケイケで進んでしまいそうだな、と。止められそうなところがない。

塚原 すると西迫さんは誰と連帯して戦うんですか? もちろん僕は味方しますが(笑)

西迫 (笑)。それこそさっき言ったような、その導入によって感染予防効果があまり期待できないということを指摘し続けていくことは重要なことだと思います。少なくとも反対する大きな理由にはなるんじゃないですかね。やってもやらなくてもあまり変わらないならやらない方がいいじゃないか、と。結局、今のところワクチンに重症化を予防する効果しかなくて感染防止に対する効果があまりないのであれば、それによって誰かの権利を制限するようなことはしなくていいんじゃないかと、そういう問いかけはできるでしょう。その上で誰と連帯するかとなるとこれは難しいですが。

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西迫大祐 にしさこ・だいすけ/1980年、東京生まれ。明治大学大学院法学研究科博士後期課程修了。現在、沖縄国際大学法学部准教授。専門は法哲学、法社会学、フランス現代思想。主な論文に「HIV感染の刑罰化おける主体と責任について」(伊東研祐ほか編『市民的自由のための市民的熟議と刑事法』勁草書房.2018年).「生政治と予防接種」(佐藤嘉幸・立木康介編『ミシェル・フーコー「コレージュ・ド・フランス講義」を読む』水声社.2021年)など。著書に『感染症と法の社会史 病がつくる社会』(新曜社.2018年)。

 


 

塚原東吾 つかはら・とうご/1961年東京生まれ、城北高校、東京学芸大学卒、同(化学)修士修了、オランダ国費留学生、ライデン大学医学部博士号取得、ケンブリッジ大学・ニーダム研究所にてフェロー、東海大学文学部講師・助教授、神戸大学国際文化学部准教授、などを経て神戸大学大学院国際文化研究科教授。著書に『科学機器の歴史:望遠鏡と顕微鏡』(編著, 日本評論社, 2015)、『科学技術をめぐる抗争(リーディングス戦後日本の思想水脈第2巻)』(金森修と共編著, 岩波書店, 2016)など。

 


 

逆卷しとね さかまき・しとね/学術運動家・野良研究者。HAGAZINE(北)九州支部。市民参加型学術イベント 「文芸共和国の会」主宰。専門はダナ・ハラウェイと共生論・コレクティヴ。Web あかし連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」 (https://webmedia.akashi.co.jp/categories/786)、Web生きのびるブックス連載『自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論』(https://ikinobirubooks.jp/series/sakamaki-shitone/87/

 


 

辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。『BABU伝—北九州の聖なるゴミ』を弊誌にて連載中。

 


 

 

〈MULTIVERSE〉

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義