《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#02「残骸と瓦礫の街で」
北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。
蛇の道
疾駆している。
小倉の街路。時刻は深夜。黒いアスファルトの上をスケートボードのウィールが疾駆している。左足はボードに置かれ、右足は地を駆けている。プッシュしている。右手にはスプレー缶が握られている。そのスプレー缶で地面に白いラインを引いている。商店街。大通り。歓楽街。区分けされた街の境界線を白い蛇が追い越していく。糸。軌跡。亀裂。Soapからソープへ。遠くから遠くへ。空は暗く、街灯がまばらにともっている。通り過ぎるテールランプの残光が陽炎をなしている。流れていたSHUREN THE FIREの『街』はもうとっくに鳴り止んでいる。
ウィールの音が響く。ウィールの音だけが響く。小倉の街路。時刻は深夜。黒いアスファルトの上を白い蛇が疾駆している。
✴︎✴︎✴︎
大蛇の名を冠されたBABUの映像作品《ANACONDA》(撮影・編集/MASSA)は、BABUのキャリアを現時点から振り返ってみた時、ちょうど端境期というべき2006年に制作された記念碑的作品だと言える。同時に、それはBABUの鵺的な捉えがたさを象徴するかのようなエッジィな作品でもある。それはスケートボードフィルムのようでもあり、短編映画のようでもあり、ミュージックビデオのようでもあり、現代美術作品のようでもある。あるいは、そのいずれにも当て嵌まらないようにも見える。
逆卷しとねは《ANACONDA》を「言語化できない」と言っていた。僕もまったく同感だ。少なくとも現段階において、僕はその作品について批評する言葉を持たない。今の時点ではっきりと分かっていることは、この作品《ANACONDA》が紛れもなく傑作であるということと、闇の中に白いラインを走らせていくスケートボーダーがBABUであるということだけだ。
BABU+MASSA《ANACONDA》2006
BABUの軌跡をたどるこの旅の出発に際し、僕はBABUの前期の代表作であるこの《ANACONDA》に、最初のフラッグを立ててみようと思う。金網の破れ目をくぐり抜けた僕が、まず目指すべき場所はここだ。問いは「いかにしてこの作品は生まれたのか?」。一筋縄にはいかない。《ANACONDA》のなかでは複数のコンテクストが混線し、もつれ、とぐろを巻いている以上、辿らなければならない道はおのずと複数あるということになるのだから。
辿るべき最初の道、それは九州に実在する一本の道である。“国道3号線”。北九州市門司から鹿児島市にかけて九州を南北に貫くこの国道線沿いに、蛇の道の原点があるからだ。
一体この国道3号線とはどういう道なのか。国道3号線沿いに立って、そこに広がる風景へと視線を投じてみた時、仮にそれが素面の目であれば、九州のどこにでもありそうな風景をしか視認できないかもしれない。しかし、なんらかの“幻覚剤”を摂取してその風景を眺めてみると、思わぬオルタースケープが開けてくるということがある。その“幻覚剤”とは、たとえば、その土地が持つ歴史だ。
ともすれば平凡で退屈なこの国道3号線沿いの風景に、歴史学のもたらす幻覚作用によって、九州の黒い近代史、とりわけ抵抗運動の敗者たちの残骸と瓦礫を幻視したのは、哲学者の森元斎だった。ここでいう国道3号線沿いの敗者たちとは誰のことか。森の著書『国道3号線 抵抗の民衆史』によれば、それは西南戦争の末に「もうよかろ」と残して自害した西郷隆盛、兄は銃弾に倒れ、弟は革命に挫折した宮崎一郎・滔天兄弟、水俣病に悶えた石牟礼道子、サークル村を去った谷川雁、落盤事故や炭じん爆発で死に、米騒動で殺された炭坑の労働者たちのことだ。
国道3号線沿いを舞台とする、彼ら彼女ら抵抗者たちの幾多の敗北と破局。それこそが、九州と名指されるこの島を形成してきたのだ、と森は言う。そして森に従うなら、この国道3号線沿いには今日においてもまだ、その死屍累々が尾を引いている。
《ANACONDA》の出発点であり、プレミア上映の舞台となった小倉のGallery Soapから南西に約10km、日本の近代化の象徴・八幡製鐵所(現九州製鉄所 八幡地区)で知られる八幡西区に位置し、西の丘陵の先には遠賀川流域の筑豊炭田を見据え、北は洞海湾に面する黒崎もまた、国道3号線沿いにある街のひとつだ。
江戸時代には南部藩の船遠見番所が置かれ、戊辰戦争における官軍追撃の要でもあった黒崎は、戦前、戦中、戦後を通して、製鉄の工場地、炭鉱の長屋街として、一時期は大いに盛えた(もちろん、それは鉄と石炭の供給源として都合よく搾取されたのだとも容易に言い換えうる)。だが、1960年代に入ると、「煤煙の空」と呼ばれた大気汚染、「死の海」と呼ばれた海洋汚染が、大きな社会問題となる。追い打ちとなったのは、「石炭から石油へ」をスローガンとするエネルギー革命と、鉄鉱石の供給源の国外への移行だった。これに伴い主要産業の衰退を余儀なくされると、その後、一時期は繁華街として隆盛したものの続かず、今日では一転して往時の面影もない寂れたシャッター街ばかりが目立つようになっている。
あたかも街そのものが近代化という歴史的遷移の残骸と瓦礫であるようなこの黒崎で、BABUは生まれ育った。時は1983年3月、いまだ敗北と破局がもたれあうとぐろの禍中に、白蛇の尾のよすがを探る。
1960年の洞海湾(画像引用:https://gyoppy.yahoo.co.jp/originals/15.html)
UFOと父
「男兄弟やけえ、喧嘩したりは多かったね。BABUは下やったけえ、上の兄貴たちからイジメられたりもあったんやないかな」
スピーカーモードにしたスマートフォンから、イッペイのややぶっきらぼうな北九州弁が響く。東京生まれの僕には判別できないが、同じ福岡弁でも、たとえば博多と北九州では、イントネーションにかなり違いがあるらしい。現在は塗装会社を経営しているイッペイは、BABUにとって二つ歳上の兄にあたる。確かに意識して聞いてみると、「どうかな?」と口にする時の調子がBABUによく似ている。
「子供時代のBABUについて話せる人を教えてほしい」という僕を、イッペイと繋いでくれたのはBABUの恋人のリノだった。上の兄弟たちとの仲があまり良くなかったBABUが、唯一このイッペイだけは幼い頃から慕っていた、というのが人選の理由だった。介護士をしているリノがBABUと出会ったのは7年前のことだ。12月の初取材時に顔を合わせて以来、リノは折に触れて、僕の取材に協力してくれている。
「イッペイさんなら話してくれるかも。上のご兄弟は私は連絡先も知らないですし」
BABUは、塗装工の父と母のあいだに、6男1女の7人兄弟の五男坊として生まれている。一番上の兄との年齢差は学年でいうと13離れており、下には3つ離れた弟のテツヤがいた。決して広いとは言えない間取りで、さらに男が大多数を占めていたこともあるのだろう。イッペイによれば、当時の家庭には北九州男児たちの怒号が、時として拳さえ伴って飛び交っていたようだ。
子供時代のBABUについて、イッペイは「わんぱく坊主」というより「いつも一人でなんかしよるタイプ」だったと振り返る。ちなみに、BABUが今日まで使っている「BABU」という愛称も、イッペイによってつけられたものだ。言葉を喋る年頃になっても「ばぶー、ばぶー」とBABUが喃語を連呼していたから、というのが一応の由来ということになってはいるものの、本当のところをいうと「あまり覚えてない」らしい。
「人懐っこいという感じではなかったね。まあ、問題児やったとは思う。学校もさほど好きじゃなかったやろうし、あんま行ってもおらんかったしね」
饒舌とは言えないイッペイの証言を除けば、BABUの子供時代について得られたものは少ない。しかし、大人になったBABUが友人たちに世間話の中で語ったという子供時代のエピソードならいくつか得ることができた。たとえば、小倉のセレクトショップ「kabui」のオーナーであり、プロローグで語られたあの出会い以来BABUの盟友であるダボも、BABUからいくつか当時の話を聞いている。会うたびに色の変わる長いヒゲが目を惹くダボとは、12月の小倉でBABUに紹介されて以来、すでに幾度か顔を合わせている。
1981年生まれのダボは現在、小倉のセレクトショップ「kabui」を運営している。https://kabui.thebase.in/
「BABUは子供の頃、いっつも横に寝転がって家でテレビを観てたそうです。で、そのうち、もっと観やすいようにと体の向きに合わせてテレビの向きも横にして観ていたんだとか。BABUらしいですよね」
ダボがBABUについて語る際の口調には、どことなく“敬虔さ”のようなものがある。決して悪い意味ではなく、初めて話した時は「BABUの使徒のようだな」と思った。
「あと、よく自宅の家電を分解していたって聞きました。目覚まし時計とか、テレビとか。どうなってんだろうって気になって仕方がなかったみたいです」
兄のイッペイに確認を取ると、「ああ、そんなことしよったかもね」と笑っていた。そうした細かい作業に「黙々と取り組む姿勢」は幼い頃から見られたそうで、弟ながら「変わっとる」と思っていたようだ。
学校に寄りつかなかったせいもあってか、BABUが同年代の友人たちと遊んでいる様子はあまり見られなかった。ただ、イッペイとともにイッペイの同級生たちとゲームセンターなどで遊ぶことはあり、ある時などは「おれがいないのにおれの友達と遊んでる時もあった」という。いずれにしても、「あんまようしゃべらんかった」とイッペイが述懐しているように、子供の頃のBABUは、やや内に篭りがちで、放っておけば孤独に物いじりに耽る、どこか繊細さをたたえた少年だったようだ。
僕がBABUから直接聞き取った当時のエピソードもある。BABUによれば小学校低学年の頃、BABUは自分を入れて7人くらいの子供たちで山を散策していた際、UFOに遭遇している。それは輪郭線のぼんやりとした緑色の光の靄のような物体で、その時、BABUは「小人」が自分の中に入ってくるのを感じたという。その場に居合わせた7人のうち2人はすでに10代のうちに夭折してしまったらしい。そのうちの一人は動機不明の自殺だった。
父の話も聞いた。BABUは時折、塗装工だった父のあとについて、塗装の現場に足を運ぶこともあった。BABUによれば、それは「バイト」で、僅かながら「給金」も発生していた。ある時、現場に置かれていた塗料を勝手に借用し、壁に好き勝手に“落書き”をしていたところ、「こら!」と父に怒鳴られてしまったことがあったという。「記念すべき初グラフィティじゃないですか」と僕が冗談交じりに言うと、「そうそう」とBABUは愉快そうに笑っていた。
後にSECOND PLANETの外田久雄から“電車内グラフィティ事件”について聞いた際、この初グラフィティのエピソードがどことなくオーバーラップするような気がした。外田に“犯行”を発見された時、BABUは「嬉しそうに笑った」らしいが、おそらくは怒鳴る父を前にした時も、BABUはにんまりと笑ってみせたのではないだろうか。酒好きだった父には粗暴な一面もあったようだが、BABUは父のことが好きだったのだろう。それは後年、月に2回の父の墓参りをBABUが欠かさなかったという、リノの証言からも伺える。
「小人」のせいなのかはわからない。BABUがまだ小学4年生だった時に、BABUの父は若くして亡くなってしまった。直接の死因は定かではないが、BABUによれば、それは「自殺」だった。
死と退屈
プロローグにも書いたように、僕は昨年末からBABUに二度会っている。そのうちの大半の時間はインタヴューというよりも、とりとめのない四方山話に費やされていたのだが、そうした雑駁な会話の中でBABUにはいくつかの口癖があるということに気付いた。
ひとつは「ゴミ」というものだ。BABUは会話中、いくぶん執拗なほど、この「ゴミ」という語を連発していた。BABUがこの「ゴミ」という語を発する時、そこにはある種のアンビバレンスがあるように僕は思っているのだが、これについてはいずれまた触れることにする。ここでは僕が気になったもうひとつの口癖に触れておきたい。BABUがインタヴュー中、折に触れて口にしていた「死ぬか生きるか」という言葉だ。
たとえば、急勾配の斜面を延々と高速で滑りおりるスケートボードのエクストリームな競技「ダウンヒル」に触れて、たとえば、持ち前の喧嘩っ早さゆえに絶えることがなかった北九州のチンピラたちとの“トラブル”に触れて、BABUの発言にはそれぞれこの「死ぬか生きるか」という言葉が挿入されていた。
「時速80km。危ないよ。死ぬか生きるか。最高よ」
「日本刀、拳銃、そんなのばっか。BABUも切られた。死ぬか生きるか」
冗談めかしてはいた。あるいは冗談だったのかもしれない。ただ一方で、BABUが嬉々とした様子で“危ない遊び”について語る時、そこには「死など恐るるに足らず」といったアウトローにありがちな虚勢にはとどまらない何かが含まれているように僕には感じられた。ありていに言うなら、僕にはBABUが死を知りたがっているように思えた。「死とはなんであるか?」といったような仰々しい割には身のない、抽象的な問答にBABUが耽っているという話ではない。具体的で物理的な危険にあえて身を曝すことで、死の輪郭を身をもって捉えようとしているということだ。
BABUが最初に触れた身近な死は、父の死だった。
「なんでやろ? なんでやろ?」
死の報せに触れた時、BABUはそう思ったという。悲しみに暮れていた、というよりも、自分の理解を超えた出来事を前に呆気に取られていた、というニュアンスが近い。果たして父の死の動機についてはいまだに分からないままだという。イッペイにも尋ねてみたが、「ようわからんね」と言葉を濁していた。過度な推測は控えねばならないが、とはいえ、当時齢10歳足らずのBABUの死生観に、父の突然の自死が少なからぬ影響を与えただろうことは想像に難くない。
いずれにしても、父の死後、BABUを取り巻く環境は変わっていった。それまでは家にいることの多かったBABUの母が、いまだ幼い子供達を夫に代わって養うため、ひもすがら働きに出るようになったのだ。当時の母についてBABUに尋ねると、「すごい人、立派よ」と語っていたが、イッペイによれば、母とBABUは「喧嘩していることが多かった」ともいう。
「まあ(母は)クセのある人やったからね」
一方で僕は、まだ小学生だったBABUや六男のテツヤを放って仕事に明け暮れざるをえなかったことを母が無念に思っていた、という話も後にある筋から聞いた。すでに上の兄弟の何人かは成人していたとはいえ、これだけ多くの子供たちを養うというのは並大抵のことではなかっただろうと思う。
母の忙殺に伴って、BABUはもともとあまり行っていなかった小学校に完全に通わなくなったという。身体が大きくなるにつれ、ひとりで山や森に出かけることも増えていった。仕事で家に帰れない母に代わって、家の食事は上の兄弟たちか、時たま訪れる祖母が一応は用意していたらしいものの、日付を跨いでもBABUが家に帰らず街を徘徊する夜も増え始めていた。
「退屈よね」
地元である黒崎について、BABUは端的にそう語っていた。国道3号線沿いの残骸と瓦礫の街。当時は繁華街として栄えていたと聞く1990年代の黒崎の風景を、僕は知らないなりに想像してみる。洞海湾からの夜風が吹き抜けていくその「退屈」に賑わう街路を、少年時代のBABUはあたかも野良犬のように、ひとりぼっちで彷徨い歩いていたのかもしれない。当時のBABUにはまだ、「退屈」な街に異なる風景を幻視させてくれる“幻覚剤”はなかったのだ。
BABU+MASSA《ANACONDA》2006
先に中学生となっていた兄のイッペイがストリートカルチャーに傾倒するようになったのは、ちょうどその頃だった。1990年代半ば、日本のストリートに訪れた何度目かの夜明けだ。
「おれらは色々と早かったからね」
少し誇らしげにイッペイは言う。当時のイッペイは見た目こそいわゆるヤンキーだったが、情報感度は高い方だったようで、聴く音楽や、遊ぶアイテム、読んでいる雑誌などは、同時代のユースカルチャーの先端と同期していた。蛇の道の、第一分岐点。
「HIPHOP、ノイズ、ダブ、ローライダー、バイク、ピスト、ブレイクダンス……」
兄の肩越しに洪水のように押し寄せる新しいカルチャーのうち、ひときわBABUの心を射抜いたものがあった。それは、当時「第三次」とも称されたブームに乗ってイッペイが友人たちと始めたという、スケートボードだった。
文/辻陽介
編集協力/逆卷しとね
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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。
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〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉
#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」
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