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HAGAZINE

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳 × 辻陽介

2019年12月に立教大学で開催されたマルチスピーシーズ人類学研究会シンポジウム「モア・ザン・ヒューマン」において、文化人類学者アナ・チンの新著『マツタケ』の日本語版訳者・赤嶺淳と、HAGAZINE編集人・辻陽介が行った対談


 

日本においては高級食材として愛されているマツタケをめぐって、米国オレゴン州の荒れ果てた国有林では、今日も戦争難民たちが自身の名誉をかけた「マツタケ狩り」を愉しんでいる。

不安定化の一途をたどる世界で、資本主義と非資本主義、地上と地中の境界線上を、強かに、狡知をもって生き抜く人と菌のポリフォニー。そこに息づくフリーダム、あるいはアナキズムとは。

2019年12月、立教大学で開催されたマルチスピーシーズ人類学研究会シンポジウム「モア・ザン・ヒューマン」において行われた、文化人類学者アナ・チンの新著『マツタケ』の日本語版訳者・赤嶺淳と、HAGAZINE編集人・辻陽介の対談を掲載する。

 


 

 

『マツタケ 不確定な時代を生きる術』アナ・チン著、赤嶺淳訳(みすず書房)

 

『マツタケ』は世界から日本にやってくるマツタケのサプライチェーンがいかに偶発的に構築されてきたかをあきらかにした

辻陽介(以下、辻) おはようございます。編集者をしております辻陽介と申します。よろしくお願いします。昨日は教室が満員となる盛況(※)でしたが……、やっぱり日曜の朝一番ということもあってか少し閑散としていますね(笑)

33回マルチスピーシーズ人類学研究会シンポジウム「モア・ザン・ヒューマン」は立教大学にて2019127日、8日の2日間に渡って行われた。この対談は2日目となる8日の朝に行われたものである。

おそらく、皆さんは僕が何者かが全く分からないと思いますので、まずは簡単に自己紹介をさせて頂きます。僕は普段、神保町の老舗書店である芳賀書店のウェブメディアHAGAZINEの編集をしております。その他、フリーランスとして雑誌『STUDIOVOICE』、『ヴァイナル文學選書』の編集に関わったりなど、ちょこちょこと動き回っております。

なぜ文化人類学の専門でもなく、そもそも学術誌の編集経験もない門外漢である僕がこの場に座っているのかと申しますと、今年の頭にこのシンポジウムの主催者である人類学者の奥野克巳さんをインタビューさせて頂いたご縁があったからです。おそらくは奥野さんの、二日目の朝一番にちょっと変わり種を紛れ込ませようというイタズラ心で、このマルチスピーシーズ研究会に登壇させて頂くことになったのではないかなと、勝手に想像しています(笑)

さて、今日は対談のタイトル通り、2019年の9月にその日本語版が出版された人類学者アナ・チンの『マツタケ』という本をめぐって、翻訳を務められた赤嶺淳さんとお話をさせて頂こうと思っています。基本的には僕がインタビュアーとなって、赤嶺さんのお話の聞き手役を務めさせて頂けたらと思っています。

では早速なんですが、赤嶺さんに質問していきたいと思います。まずは赤嶺さんの自己紹介、そして、赤嶺さんがアナ・チンの『マツタケ』を翻訳されることになった経緯、あるいはアナ・チンという人類学者、『マツタケ』という本に関してなど、基本的な部分の説明をお願いできますでしょうか。

 

赤嶺淳(以下、赤嶺) おはようございます。赤嶺淳です。辻さんと同様、私も人類学者というわけではありません。今回、翻訳したアナ・チンさんとの接点としては、「モノ」研究というところがあります。この「モノ」研究に関して、チンは私の中で偉大なる、憧れのスターでありました。

私自身は、鶴見良行さんという不思議なおじさん、『バナナと日本人』(1982)だとか『ナマコの眼』(1990)だとか、面白い本を書かれた文筆家——鶴見さん自身は「物書き」と語っていました——に学部時代に出会い、以来、鶴見さんの影響下にあって、現在に至っております。そんな事情から、私自身の研究としても最も長いものはナマコの研究で、日本や東南アジアから中国へと輸出されるナマコを追っかけて、もう25年くらいになります。

一方、そうした「モノ」研究というものを、「一体、どういう風に学問の体系に位置付けたらよいのだろう」ということも、悩ましい課題としてありました。アナ・チンはインドネシアの山地民社会の研究をやっていて、その流れで熱帯雨林をあつかっていて、人びとが森をどのように利用しているかに始まり、インドネシア国内での熱帯材の伐採・輸出の問題だったりなどの研究をやっていたんですね。チンのすごいところは、ただ東南アジアから出ていくモノについて研究するだけではなくて、どういう形でインドネシアの国内に環境保護思想なんかが外から入ってきているのかということにも目を向けていることでした。

つまり、世界では色々なモノが国境を越えて出たり入ったりをしているわけですが、チンは情報や資本も「モノ」と捉え、出ていくだけではなく、入ってくるものも見ていくということをしていて、これが非常に新鮮だったんです。私がチンのそうした研究を知ったのは2005年頃で『Friction』という彼女の本によってでした。ただ、私自身はと言えば、自分のナマコ研究の中では、そうしたチンの方法を消化しきれず、「やっぱり彼女は大スターだな」と距離を感じていたんです。

 

『Friction』アナ・チン著

 

そんなある時、彼女がマツタケを研究しているらしいということを耳にしました。その頃、私はナマコを研究する上で、中国の中でナマコがどのように流通し、あるいはどのように愛されているのかということを調査してみたものの、なかなかピンときておらず、行き詰まっていました。もちろん色々と中国人の協力者も得て、それなりに理解しようとは努めたんですが、どうしても日本から中国に出ていくものとしてしか捉えられず、中国の人びとが、ナマコをどのように受容しているのかについては私の中で切れてしまっていたんです。そんなこともあり、「あのアナ・チンがマツタケをどういう風に調理するんだろう?」と興味を持ったわけですね。正直に白状しますと、彼女の方法を盗みたかったわけです。それで翻訳をすることにしたんです。

さて、この『マツタケ』という本に関してですが、いろんな読み方ができる本だと思います。日本の秋の味覚とされるマツタケですが、現在、年間で1000トンほど流通しているうち、国産は4パーセントあるかないか、です。これは、驚くべき数字ではないでしょうか? ブータンなんかからも入ってきているんですが、量的にはわずかです。輸入品の67割が中国で、あとは米国やカナダなどから輸入されています。一言で説明すれば、『マツタケ』は、世界から日本にやってくるマツタケのサプライチェーンが、いかに偶発的に構築されてきたかをあきらかにした本です。しかし、この偶発性がものすごいんです。

一例をあげましょう。1986年のチェルノブイリの原発事故によってヨーロッパのキノコが汚染されました。すると、それまで自家消費用に採集されていた米国のキノコがヨーロッパに輸出されるようになります。つまり、趣味的な存在だったキノコに経済的価値がついちゃったんです。80年代後半は、円高によって日本が世界から高価な食材を買いまくるようになった時期でもあります。同時に日本でのマツタケ生産が低迷する時期でもあり、白羽の矢が米国に向けられた訳です。ヨーロッパ向けのポルチニや日本向けのマツタケなどのキノコを狩っていたのは、1980年代に米国にやってきたベトナム戦争の難民たちでした。共和党のレーガン政権下の米国は、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」にあり、福祉政策を切り詰めていました。本来なら「よりよい米国人」になるために手厚い保護が与えられるはずだった難民たちは、英語どころか、右も左もわからないまま放り出されることになりました。そんな彼らを救ったのが、マツタケ・ブームだったという訳です。チェルノブイリも、日本の里山の荒廃も、円高も、ベトナム戦争も、すべてがバラバラに起こったことですが、チンはマツタケを軸に、それらの事象を大きな物語として紡いでいくんですね。

その物語自体が傑作な訳ですが、私の関心は、もうひとつあります。私はこの本でチンが取っている「マルチ・サイテッド」という手法に関心をもっています。この「マルチ・サイテッド」という言葉については、この本で直接的に触れられているわけではないんですが、要するに複数の場所に跨って行う研究のことです。たとえば『マツタケ』であれば、アメリカのオレゴン州、中国の雲南省、フィンランドのラップランド、日本の京都の四箇所に跨って研究を行っています。

私自身も、フィリピンでナマコの調査をしながら、インドネシアに行ったり、マレーシアに行ったり、香港に行ったり、あるいは日本でもナマコを追っかけたりしていて、文字通り「マルチ・サイテッド」な手法を取ってきました。ただ、調査をやったことがある人は分かると思うんですが、複数の地点でリサーチをするということは、どうしても表面的なリサーチになってしまいがちなんですね。言葉の問題しかり、各地で調べたことを一つの文脈にどういう風に位置付けていくかということしかり。勝手が分からないんです。この問題についてはチンも色々なところで書いてまして、彼女は「だからこそ共同研究なんだ」という結論に至っています。

 

『ナマコを歩く』赤嶺淳(新泉社)

 

今回の本も彼女の本として書かれてはいるんですが、一方で「マツタケ世界研究会」というグループも彼女は組織していて、色々なところからお金を集めながら10年ほどかけて、協働的に書かれた本だったりします。もちろん、『マツタケ』に書かれている具体的なことであったり、このシンポジウムのテーマであるマルチスピーシーズ的な部分であったりの面白さも当然あるんですが、同じ「モノ」研究を志向する研究者としては、やはり「マルチ・サイテッド」に歩き回り、様々な人との協力体制のもとに書かれているということに私は注目したいんです。共同研究というものを、一般に言われているところより、チンはもう少しシリアスに捉えています。仲のよい研究者が集まって酒飲みながらワイワイやるのも楽しいんですが、それだけではなくて、全く異なる文化的背景を持っていたり、キャリアも、やってきたことも違う人たちが、一つのテーマの元に集い、育てていくこと。その中から生まれてくる偶発性の面白さが、この本には詰まっているように思います。そういう手法的なところも意識して本書『マツタケ』を味わってもらえたら嬉しいですね。

もう一つ、私はこれまで「モノ」を追いかけるのが精一杯だったもので、恥ずかしながら、白状します。現役生活も残り数年となった最近になって、ようやく、勉強って面白いんだなということに、思い至ることができました。自分の研究対象を追っかけること、関連論文を読むことで手いっぱいで、なかなか「資本主義とは何か」といったような大きなテーマを考える余裕がありませんでした。ただ、今回、『マツタケ』を3年超しで、夢にも出るくらい引きずりながら翻訳してみて、自分のこれまでの研究についても、もう少し大きな枠組みの中で位置づけ直す良い機会なんじゃないかと思い至りました。そこまで踏み込まないともったいないな、と。まず、基本的な説明としてはそんなところでしょうか。

 

 ありがとうございます。「マルチ・サイテッド」という言葉は『マツタケ』には出てきませんでしたが、今お話を聞いていてとても面白いなと感じました。僕は雑誌の編集に関わることもあるんですが、雑誌を作る際、編集者は基本的にチームで動くんですね。今年(2019年)、僕は「STUDIO VOICE」という雑誌のアジアのアート特集号の制作に関わったんですが、作り方として編集チームの何人かが、それぞれライターや写真家とともに何カ国かずつ飛んで、それぞれの土地のアートシーンはどうなっているのか、どのように特異で、どのように特異でないのか、グローバルに展開するアートマーケットにどう順応しているのか、はたまたどう抗っているのか、といったことを取材し、一冊の雑誌として編んでいくわけです。ただ、やはり、いずれも短期取材ということもあって、それぞれの土地のリサーチの網目はどうしても粗くなってしまう。否応なく表面的になってしまうんです。ただ、そうとはいえ、チームに分かれてマルチ・サイテッドに作っていったからこそ、見えてきたものもたくさんありました。アジアという言葉でこの広大なエリアを括ることの非自明性や、それぞれの地に色濃く残る植民地支配の痕跡の相同性などを含め、シングル・サイテッドなアプローチでは見えなかっただろうことが多く見えた。そういう視点を持って『マツタケ』を読むと、ある意味では雑誌的な、特集ムック的な作りになっているようにも感じます。

 

『STUDIO VOICE VOL.415』(INFASパブリケーションズ)

 

さて、ここからは本書『マツタケ』のより具体的な内容について、赤嶺さんに色々とお話を伺っていきたいと思っているんですが、その前にせっかく登壇させて頂いたので、僭越ながら少しだけ僕自身の感想、面白いと感じた部分についても述べてみたいと思います。時間も限られてますので5分程度で話し終えるようにします(笑)

まず、全体を通しての感想ですが、掛け値なしに面白かったです。これは赤嶺さんの翻訳がよかったからだとも思うんですけど、文章としてもとても読みやすかった。僕は基本的に難解な学術書なるものが苦手な方なんですが、『マツタケ』は途中で眠たくなることもなく、スラスラと読み終えることができました(笑)

その上で個人的に一番面白いと感じたポイントは、やはり「マツタケが人工的には栽培できない」というポイントです。本書内でチンはそのことを「ノンスケーラビリティ」という言葉で説明しているわけですが、これは要するに「再現可能性がない」ということですよね。マツタケは人為的に計画して栽培されるものでも、あるいは手付かずの森林に豊かに発生するものでもなく、資本主義下における無軌道な伐採によって撹乱された森林の荒廃した景観の中に偶発的に発生するものとされている。つまり、計画的に管理、栽培できるタイプの作物ではないのだ、と。

そういう風にある種の偶然のもとに発生したマツタケをめぐって、様々な背景を持った人々がマツタケ狩りとして登場し、さらにはそこにバイヤーも登場し、チンの言葉を用いれば、ポリフォニー的なアッセンブリッジが形成されていく様子が本書では描かれます。その全てが偶然の産物であり、これがまさに「ノンスケーラブル」であるということですよね。

その上でチンは、そうしたマツタケをめぐるアッセンブリッジ自体は非資本主義的な様式で動いているものの、そこで生産された生産物としてのマツタケは、グローバル資本主義市場の高額な商品として流通しているということを強調していて、そこにも面白さを感じました。どうしても資本主義というと「現代社会は資本主義社会で云々」といった具合に、あたかもそれが全体化されたシステムかのように語ってしまいがちになりますが、チンは資本主義というものを「全てを制圧する単一で包括的な体系ではない」と明確に書いています。資本主義社会という大きな社会空間があるというようなイメージではなく、世界には複数の社会、複数の生活様式があり、それらが相互に絡まり合っていて、その異なる様式が絡まり合う際の翻訳形式の一つが資本主義である、と。つまり、『マツタケ』は何か資本主義社会という実体的な空間があって、その外部としての「マツタケ狩り」に思いを馳せるといったタイプの話ではないんですね。あくまでも「今ここ」と繋がった話になっていて、そこがなんというか、とても今っぽい視点だなと感じました。

今年、僕が感銘を受けた本のひとつにブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』(伊藤嘉高訳)という本があったんですが、ラトゥールも社会というものに対して似たような話をしていました。ラトゥールはその本で、従来の社会学を「社会的なものの社会学」と呼び、批判的に論じていたんです。つまりは社会をなにか実体的なものとして分析したり論じたりすることが、そこでは批判の対象となっていたんですが、ラトゥールの言葉をそのまま引けば、ラトゥールは社会というものについて「それ自体は何ら社会的ではない諸要素の間で新たな連関が生み出されているときに残される痕跡=トラースによってのみ見ることができる」という風に述べていて、そうした連関、繋がりをたどり直す新しい社会学として「連関の社会学」というものを提起していました。

 

『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』ブリュノ・ラトゥール著、伊藤嘉高訳(叢書ウニベルシタス)

 

その点、チンの『マツタケ』はまさにマツタケというモノをめぐって、その痕跡=トラースをたどり直すものでした。あるいは資本主義という体制の捉え方にしても、実体的なものとしてではなく、連関の様式として捉えられていた。だから、『マツタケ』を読んだとき、これはまさにラトゥールがいう「連関の社会学」の実践ではないか、という印象を受けたんです。

あと一つ、個人的な関心からの感想を述べさせてください。資本主義的な伐採によって意図せず作られた荒廃した景観に発生するマツタケという存在に、僕はカウンターカルチャーの歴史を連想したんです。たとえば、ヨーロッパを中心に展開したスクワットカルチャーなどです。スクワットとはいわゆる不法占拠のことで、空き家になっている廃屋などを勝手に占拠し、人々が暮らすことを指す言葉ですよね。また、その占拠している人たちのことをスクワッター、スコッターなどと言うわけですが、広く知られているように、ヨーロッパにおいて、このスコッターたちは単に不法占拠者というだけではなく、オルタナティブなカルチャーの担い手でもあったとされているんです。

たとえば1990年代にスコッターが多かったと言われている地域はベルリンやバルセロナやアムステルダムですよね。ベルリンなんかはベルリンの壁が崩壊後、東ドイツの人々が職を求めてこぞって西ドイツに殺到したことで、人々がいなくなって空き家がいっぱいできていた。その時の都市の状況というのは、ある意味、伐採された森の景観とも重なります。そうした不毛化した街にスコッターたちが住み着いていく。そして、住み着いたスコッターたちが生み出すカルチャーが、やがてグローバル資本主義の中で文化的な商品として流通していく。結果として現在、それらの都市はいずれもヨーロッパの人気都市になっています。

非資本主義的に、ノンスケーラブルに発生したものが、まわりめぐってスケーラビリティを軸とする資本主義をドライヴしていくという構図は、チンが語るマツタケをめぐる物語ととても似ているなと感じます。あるいはオレゴンの森林におけるマツタケ狩りたちによるある種の自治は、ハキム・ベイが言うところの「一時的自律ゾーン」をさえ連想するものでもありました。ですので、『マツタケ』を読んで感じたことは、大きく言うと、人間には荒野を生き抜く知恵と力があるということ。現代は管理社会などとも言われますが、そこには常に隘路があり、そして、そうした隘路と、隘路を通り抜けていく人たちの物語が、世界には無数にあるということです。

雑駁になってしまいましたが、以上、僕が『マツタケ』を読んで感じたことの一部です。

 

ノンスケーラブルなものがスケーラブルに変換される過程でサベージな行為が横行する

 では、ここからいよいよ『マツタケ』について赤嶺さんの方から解説を聞いていきたいです。どのように話を展開していくべきか悩んだんですが、『マツタケ』には「プレカリティ」、「スケーラビリティ」、「サルベージアキュミュレーション」、「潜在的コモンズ」などなど、とても魅力的なキーワードがたくさん登場しますので、ここではそれらのキーワードに沿って、話を聞いていけたらと思っています。

まずは本書の冒頭で登場する「プレカリティ」というキーワードから聞いていきましょう。赤嶺さんはこの言葉を「不安定性」と訳されていますよね。アナ・チン自身は本書においてこの言葉をどういった意図で使っているのでしょうか。

 

赤嶺 はい。実を言うと私も、恥ずかしながら「プレカリアス」とか「プレカリティ」という言葉を、この本で初めて知ったんです。要するに「不安定な」とか、「不安定であること」ということですね。この原著が出たのが2015年の9月の末で、私は10月の半ばに入手しました。一度、その頃のことを思い出してみてください。あの頃、アメリカではトランプもまだ共和党の予備選挙の段階で、みんな「あんな奴は撤退する」「相手にする必要はない」と、思っている時期でした。私も選挙前に、イエールだとかブリンストンだとかの友達に「どうなの?」と聞いてみたら、「ありえない」と言っていたので、私自身、そう思っていました。しかし、それから一年経ってみたら、なんと彼が当選してしちゃいました。つまり、あの時期、私を含め、まがりなりにも社会について研究している専門家が、まったくアメリカ社会を理解できていなかったということにショックを受けたんです。

その見落としていたことの一つがラストベルトと呼ばれているかつての工業地帯でしたよね。そこの一帯から工場が抜けたあと、先ほど辻さんがおっしゃっていたようなスコッターが多発するようなプレカリアスな状況になった。あるいはもっとさびれていたかもしれません。主にそういうところからの支持を得て、つまりプレカリアスな状況を背景として、トランプは選挙に勝ったんです。プレカリアスな状況は、1980年代から共和党が推進してきた新自由主義的な経済政策の結果でもあるのに、それを背景にトランプが勝利するっていうのも、面白いというか、なんというか、ですね。

同時にその頃、日本でも非正規雇用の問題が注目される中で、プレカリアートというのが一つの階層になりつつあるんだという議論が盛んになっていました。私はこの本を訳している最中にそうした議論にも触れ、非常にショッキングでした。そうした現状にもですが、それよりも自分が日本社会の実態にいかに鈍感であったかを知らされたことがショックだったんです。

アナ・チンのこの本では、マツタケ狩りが行われるひとつの前提として現代社会のプレカリティが取り上げられているわけですが、ただ、果たしてアナ・チンがこのプレカリアスな現代をどう受け止めているのかというと、ちょっとどのように説明すべきか難しいところなんです。実際、この『マツタケ』は、そうした不安定で不確定な時代をたくましく、自分の力量で生き抜いている人がいるぞ、といった具合に、どことなくハッピーエンドな形で終わらせているところがあります。当然、マツタケ狩りにはベトナム戦争や、インドシナ戦争の難民として、戦争のトラウマを背負ってアメリカに仕方なくやってきた、言葉では現せないような経験をした人たちが、関わっています。そうした個人史についても彼女は書いているんですが、実際どこまでその人たちのプレカリアスな状態に迫れているかというのは、正直言って、疑問があります。なんというか、ややポジティブすぎると感じちゃうんです。

 

 ありがとうございます。まず、プレカリアスということに関してですけど、これを世代論で語ることにどれほどの意味があるかは分からないのですが、赤嶺さんとは違い、現在36歳の僕にとっては、プレカリティというのは、自明なこととまでは言わないものの、確かな実感としてあります。かなり早い段階で、プレカリアスであることが当たり前という世代であったのかもしれません。職業柄、明日の食い扶持すら保証されていないというのも、あるのかもしれませんが。

その点、アナ・チンがプレカリアスな状況についてどう考えているのかということについては僕も読んでいてはっきりしないなという印象を感じました。どこか言祝いでいるようにも読めましたし、もともと世界はプレカリアスであり、現在はそれが顕在化したにすぎず、今後はそれぞれもっと狡知を持って、強かにやっていこうと推奨しているようにも読めました。その一例として、本書ではマツタケ狩りの人たち、あるいはマツタケをめぐって生じたアッセンブリが希望を持って取り上げられていた、という印象です。

 

赤嶺 2018年の6月だったでしょうか? 実は、「この本は大変面白いんだけど、ちょっと状況をポジティブに捉えすぎじゃないですか?」と、アナ・チン本人に聞いたことがあるんです。彼女は、「確かにそうだ」と言っていました。で、『マツタケ』を書き終えた後、つまり今、何をやっているのかと聞いたら、今度はもう少しプレカリティのネガティブな部分についての調査をやろうと考えている、と。具体的にはプランテーションの研究をしているようです。その研究成果がどういう形になって出てくるかはまだわかりませんが、バナナやコーヒーなどのプランテーションの作物と、それらを駆逐するカビや菌との関係などを追っているようですね。彼女自身も『マツタケ』ではポジティブな部分を強調しすぎてしまったことを反省点としているようです。

 

 なるほど。とはいえ、『マツタケ』では、マツタケ狩りがそうしたプレカリアスな状況を背景に、ただ資本主義に翻弄されるのではない、一つのサバイバルとして描かれており、それ自体はとても刺激的で、面白く読めました。その上で、先ほども少しあげた「ノンスケーラビリティ」という言葉が非常に重要なキーワードになってくると思うんです。とはいえ、チンは対義語にあたる「スケーラビリティ」が悪いと言ってるわけではなく、スケーラビリティとノンスケーラビリティが相互作用していることにこそ注目すべきだと言っています。この辺について、あらためて解説していただきたいです。

 

赤嶺 このスケーラビリティとノンスケーラビリティの部分は、訳すときに苦労した用語でした。結果的にスケーラビリティは「規格不変性」、ノンスケーラビリティは「規格不能性」と訳したんですが、最後の最後まで悩みました。一見、スケーラビリティは、社会学者で『マクドナルド化する社会』(1996=1999)の著者のジョージ・リッツアのいう、計算可能性(calculability)や、アメリカ史研究者のブライアン・サイモンがスターバックスからアメリカ社会を分析した『お望みなのは、コーヒーですか?』(2009=2013)で強調する予測可能性(predictability)に似た概念に思えます。たしかに部分的には重なっていますが、チンの言うスケーラビリティは、もっと大きな仕掛けに思えます。訳す際には、彼女がスケーラビリティに関して初めて言及した「On Nonscalability」(2012)という論文を頼りにしました。その論文において、彼女は写真のデジタル画像を例に、それは縮小もできるし、拡大もできるスケーラブルなものだと論じています。つまり比率が変わっていなければ、小さくも大きくもできるということです。しかし、そうしたことのできないノンスケーラブルなものも世の中にはあるのではないか、そういう議論をしているんですね。

私が理解した範囲で簡単に説明しますと、マツタケというのは人間がコントロールできないものなんです。自然に任せるしかありません。たとえば今年は大凶作でした。それは乾燥がきつかったり、一度涼しくなってから暑さがぶり返したりして、マツタケの成長が止まっちゃったみたいです。もちろん、もっと色々な原因が絡んでいるはずです。このように管理生産が困難なもの、再現が難しいものがノンスケーラブルな存在であるということになります。

他方で彼女がスケーラブルな事例としてあげているのはウォルマートというスーパーマーケットです。ウォルマートではバーコードで瞬時に在庫目録が把握できてしまいます。バーコードというのは表が白黒で裏が白ですよね。そのことを指し、チンは、バーコードは白黒の線だけが基本なのであって、それはその商品がどういう商品でどういう風に作られ、どういう形でここにくることになったか、ウォルマートは関心ないからだって断言してるんです。ちょっと大げさすぎるように感じますが、ノンスケーラブルな生産物をスケーラブルな商品に変える、それがサプライチェーンの翻訳マシーンたる所以なのだ、と。そこからサプライチェーンの研究へと展開していくわけですね。

まあ、ただこれは考えてみれば当たり前でもあります。ノンスケーラブルにしか生まれないモノというのは世の中にいっぱいあって、それがどうやって人の手に届くのかというと、どっかから誰かが運んでくるわけです。そこの過程で、たとえば贈り物から商品になる。人類学では馴染みのある議論ですよね。そこに彼女はスケーラブルとノンスケーラブルって考え方を持ってきた。それが私の理解です。

もう一つ、おそらく、スケーラビリティとノンスケーラビリティをよく理解するためには、『マツタケ』に登場する別のキーワード、「サルベージ」という言葉にも触れた方がいいかもしれません。ここが、リッツアやサイモンと異なるところです。とはいえ、彼女がサルベージという言葉で一体何を言いたかったのか、私はいまひとつ理解できていない、という前提で、です。チンは人びとが掘り出す鉱石を資本主義的ビジネスで評価される資産に変換するシステムを「サルベージ・アキュミュレーション」と呼んでいますが、私のいまの理解では、このサルベージは「サベージ」という言葉に掛かっているのではないかと思っています。サベージとは野蛮を意味する語ですが、彼女はノンスケーラブルなものがスケーラブルに変換される過程で、サベージな行為が横行するということを言いたくて、語呂のいいサルベージという言葉を用いたんじゃないでしょうか。

とはいえ、これはあくまでも私の想像でして、チン本人にもまだ聞いていません。もう少し証拠を固めてから確かめてみようと思っています(笑)。

 

 アナ・チン自身はサルベージという言葉選びの念頭にスカベンジング(ゴミ拾い)という語があったと書いてますね。

 

赤嶺 そうですね。彼女はゴミ拾いをイメージしていたいということを言っていました。フィリピンでスモーキー・マウンテンとして有名なゴミ山から金目になるものを拾うイメージですね。でも、ゴミ拾いかどかは別として、人が見てないものに価値をつけて売るというのは、商売においては当たり前のことですよね。才覚があるというか、商才に長けているというか。私は商売をしたことがないのではっきりとは分からないんですけど、いまだ発見されていないニッチを探すこと、それ自体は否定されるべきことじゃないと思います。ただ、それが資本主義的な資産に翻訳される際にサベージな行為が入り込むことが批判されるべきなんだろうな、と。

 

金銭には還元できないフリーダムこそがマツタケ狩りたちをマツタケ狩りに仕向けている

 ありがとうございます。僕個人はアナ・チンがこのスケーラビリティの議論に関して力点を置きたかったところは、先ほども触れましたが、スケーラブルな資本主義的様式で動いている世界があって、その外部にノンスケーラブルな様式で動いている原始的世界があるというような、言ってしまえば従来の疎外論的な見取り図とは違う世界認識を提示することだったのではないかなと感じています。つまり、スケーラブルな様式とノンスケーラブルな様式は連関していて、内と外という空間的な捉え方では把握できない。むしろ、スケーラビリティの前提には、ノンスケーラビリティがあり、我々はその様式を常に行ったり来たりしているということを強調したかったんじゃないか、と。

 

赤嶺 そのとおりだと思います。彼女のいうペリキャピタリズム——周縁資本主義——というのは、現在は世界が全て資本主義一色になってしまっていて問題だからポスト資本主義を探ろう、といったような議論ではありません。現在の資本主義を成立させているのは、ペリフェラルな見えない人たちではないのか、と。ペリフェラルな部分があるからこそ、資本主義が成り立っているのだ、というわけです。逆に言えば、資本主義が成立するためにも、ペリフェラルなものが必要となるわけです。それは、資本主義の外でもなく、内でもなく、縁っていうことですね。その部分に焦点当てることで、チンは資本主義を異なる形で解釈しようとしたのではないかな、と考えています。

 

 そうですね。あと個人的に、普段メディア制作する立場からもノンスケーラビリティへの着目は面白いと感じました。というのも、スケーラビリティに基づく限り、同じようなものしか作れなくなるというのがあるからです。チンも均質化を危惧していましたね。その上でチンはジョン・ケージを引き合いに出していましたが、チャンスオペレーションにせよ、アクションペインティングにせよ、それら偶然性に開かれたアプローチにはとても惹かれます。結局、熟慮してしまうと、同じような答えにしかならず、均質化してしまう。僕も出版社にいた頃は、本の企画などを立てて企画会議などに出すわけですが、どうしても企画会議における熟慮は、データに基づいたものになってしまう。たとえば過去に出版された本の売り上げデータなどを参照するしかない。こうしたデータをもとに、きちんと熟慮して企画を作っていくと、自ずとどこの出版社も似たり寄ったりの企画になってしまうんです。

だから、僕なんかは編集方針として「適度にスピる」というのを重視していたりします。要するに、たまたま知り合った、たまたま目に触れたという偶然を、積極的に制作に取り入れていく。たとえば、偶然知り合った人に取材を依頼してみたり、偶然聞いたトピックで記事を作ってみたりする。そのたまたまにある種の霊感的な意味を付与することで、偶然性を意図的に制作に招き入れていきたいんです。そうじゃないと、コンテンツがどうしても平たくなるので。そうした実践的な面からもノンスケーラビリティという言葉は面白いと感じました。

ところで、ここには『マツタケ』をまだ読んでない人もいると思うので、もう少し基本的なところも押さえておきたいです。この本ではマツタケ狩りとマツタケバイヤーの関係が非資本主義的な様式として描かれているわけですが、なぜ、ここの関係が非資本主義的とされているのか、についてです。

 

赤嶺 そこには多分、二つの視点があろうかと思います。一つは資本とは何か、ということです。マツタケはまずホストツリーがないと生えないんですね。だいたい、マツタケ狩りの舞台になっているのは、特にアメリカの場合、国有林、正確には広大な国有林内に散らばっている伐採跡地です。アメリカではまず私有林から伐採が始まりました。私有林を切り崩した後、木材王たちが圧力をかけて、今度は一部の国有林を解放させます。そうした伐採跡地に、いま、マツタケが生えているんです。だから、そこには資本をベースとした所有が存在しないわけです。私有地ならまだしも国有地のことですし、第一、誰かがマツタケを植えたわけじゃないですから。つまり、そこにはマツタケを生やすことを目的とした労働が投下されていないわけです。しかも、そこにマツタケ狩りとして入っていっているのは「難民」というステータスの人たちであり、その収穫は違法なものでもある。でも、たとえ捕まったとしても難民であるため国外退去もできない。それが資本主義的なビジネスと言いうるのか、という点です。

もう一つはマツタケ狩りの人たちは労働者なのかという問題ですね。本の中では「仕事(work)」と「仕事(job)」みたいに仕事を二種に訳し分けたんですが、チンはマツタケ狩りに従事する人たちをいわゆる労働者とは考えていないんです。たとえばマツタケ狩りたちが暮らすキャンプ場の所有者である白人が、東南アジアからやってきた難民たちは朝から晩までハードワークに励んでいてかわいそうと憐憫の情を表現したというエピソードを示した上で、チン自身は、そういうことを考えたことがないと書いています。なぜなら、彼らは上司に「やれ」と言われてその仕事をやっているのではなく、自分の意思でやっているからだ、と。狩ったマツタケは当然その人のものだし、それを誰に売るかも自由、つまりフリーダムなんだというわけです。哲学者の内山節さん風に言えば、マツタケ狩りは「稼ぎ」であることには違いないんだけれども、金銭には還元できないフリーダムこそが、マツタケ狩りたちをマツタケ狩りに仕向けているっていうイメージですか、ね。

私が研究していた東南アジアのナマコ漁であれば、そこにはボスがいて、みんなボスに借金をしているわけです。だから獲ったナマコはボスに売らなきゃいけない、というような関係がだいたいどこにでもあるんです。ただ、米国のマツタケ狩りにはそういうのもないんです。自分が自分の意思で採ったものを自分でバイヤーに交渉して高く売りぬける、そういうフリーダムがある。雇用被雇用という関係もない。元手もかからない。もちろん、結果的に日本では高級食材としてデパートなどで売られているわけで、これこそがサプライチェーンのマジックということになってくるんですが、マツタケ狩りそのものは、資本主義的な労働ではない、少なくともチンはそう考えているわけです。

 

 要するに、マツタケ狩りにおいてはマルクス的な意味での疎外が生じていない、ということですよね。ただ、それが日本のデパートに商品として陳列されるに至る過程のどこかで、資本主義的な翻訳がなされ、そこにある種の疎外が生じていく、と。

ここらへんの話は、アナキズム人類学者のデヴィッド・グレーバーの「基盤的コミュニズム」に通じるものがあるように感じます。グレーバーはたとえ資本主義下の企業であっても、その経済活動が滞りなく行われるためには、その前提としてコミュニズムが作動している必要があり、その時のコミュニズムを、私たちの暮らしの前提にあり、またそれを支えているという意味で基盤的コミュニズムと呼んでいます。たとえば、同僚に「ハサミを取って」と言われて取ってあげたときに負債は発生しないよね、みたいな話です。もちろん、その企業の経済活動を俯瞰してみると、資本主義的な疎外が起こっているわけですが、ただ、それは一方で基盤的コミュニズムなしでは立ちいかないものでもある。実はその二つは連関しているのだ、と。赤嶺さんはこうしたグレーバーの議論などに関してはどういうご印象ですか?

 

『負債論』デヴィッド・グレーバー著作、酒井隆史監訳(以文社)

 

 

赤嶺 恥ずかしながら、グレーバーについては、いま一生懸命勉強しているところです。グレーバーの面白さは、私にとっては、最初にお話ししたマルチサイテッドという手法とも関係しています。この概念はジョージ・マーカスが1995年に提案した手法ですが、彼は複数の場所で調査することのみならず、「場」へのコミットメント、つまり運動に関わるということも強調しています。あるコミュニティを調査した時、透明人間として参与観察するというのではなく、運動に加わりたくなるものだろう、と彼は言います。そこは人類学などが今まで禁欲していたところですよね。ただ、そこをもう一歩踏み込んで、むしろ運動に加わっていく。マルチサイテッドという手法にはこうした側面もあり、私はここが面白いところだとも思ってます。

そもそもわたしが東南アジアを歩くようになったのは、ベ平連のデモの先頭に立っていた知識人・鶴見良行の影響だったことはお話したとおりです。わたしが大学に入った頃には、すでにベトナム戦争は終わっていましたが、『バナナ』のような東南アジアの開発問題とどうかかわるのか、という問題は現在に至るまであるわけです。長年、東南アジアを歩いてきながら、いまだに確たるコミットメントはできてないんですけれども、学生時代から自分がどういう形で調査地に関わるかということはずっと考えてきたことです。ですので、グレーバーが過激に運動しているということを知り、こんな人がいるんだ、ということに私は驚きました。彼がどういう形で運動を仕切って、それを学問と接続しようとしているのか、そこは自分も学びたいなと思っています。アナキズムの良し悪しではなく、実践と言えばよいのか、「歩きながら、つなげる」っていうのは、自己表現のひとつですし、それこそがマルチサイテッドな手法の新しさですからね。

 

「潜在的コモンズ」をめぐる4つの否定形

 実際、『マツタケ』におけるチンの議論はすごくアナキーですよね。特に、この後にお伺いしようと考えていた「潜在的コモンズ」というキーワードなどはまさにです。上から仕組みを設計して何かをしようという話ではなく、下からの動き、しかも、計画的に考えるというのではなく、マツタケ狩りのような自然発生的な動きに賭けていくということが、この本におけるアナ・チンの態度にも思えます。そこで、ここから「潜在的コモンズ」についての話をしていきたいんですが、これは一体どういう概念なんでしょう。

 

赤嶺 本を読んでいただければわかるんですが、「潜在的コモンズ」の説明に関しては比喩のオンパレードなんですよね。通常、「コモンズ」と言った場合、「みんなのもの」とか「共有資源」とかいろいろな訳があると思いますが、そこに「潜在的」という語がくっついている。これは一体どういうことなのか。一つはマツタケの比喩です。要するに、マツタケというのは、土の中にマツタケ菌がいて、その土の上にぽこっと出るものですよね。マツタケに関しては採った人のものになるわけですけれども、まず前提として、潜在的に菌が土の中にいるわけです。ただ、その菌がマツタケとして地上に出るかどうかは分からない。今年は凶作でしたけど、しかし、菌は土の中にいるわけです。それが「潜在的」という言葉にかかってるわけです。

もう一つの比喩は、じゃあ実際に土の上に出てきたものを誰かが独占していいのかということ。これは中国の雲南省の事例の中で語られています。中国は改革開放経済に舵を切って以来、30年、40年、いろんな土地利用の実験をやっているわけです。特定の人の管理に任せてみたり、村落で共同利用させてみたり、そういういくつかの事例を追いつつも、やはりチンからすれば、少数の人がおいしい思いをしているのではないか、と批判せざるをえない部分がある訳ですね。要は、その土地は誰のものなのか。マツタケが生えるような土地を作ってきたのは、意図したものではないとはいえ、村人たち「みんな」ではなかったか。

 

 これまで所有という概念によって切り捨てられてきた、ある種のコレクティブ性と言いますか、そうした部分が「潜在」という言葉に託されてるわけですね。ちなみに、チン自身は「潜在的コモンズ」についてを否定形の記述で定義していますね。

 

赤嶺 そうですね。4つほど、否定形を並べています。ひとつめ、潜在的コモンズは排他的人間だけの飛び地ではない。ふたつめ、潜在的コモンズは全ての人にとって良いわけではない。みっつめ、潜在的コモンズはうまく制度化できない。よっつめ、潜在的コモンズはわたしたちの失敗を埋め合わせることはない。

このように、潜在的コモンズはこうではない、こうでもないという形で、非常にオープンエンドな定義を行なっているんです。それは完全ではないけれども、ここに着目し、ここから未来を考えていきませんかという、非常にポジティブな語りだと思いますね。

冒頭に紹介した『Friction』という本は、森林伐採などを徹底的に批判していて、読んでいてきつい本なんです。しかし、今回は、こうではない、こうではない、という形で、どこか肩の荷が降りている感じがあり、読んでいてしんどさがなかった。それはマツタケという対象の面白さと、彼女のこの10年間の変化、あるいは進化であるような気がします。

 

 『マツタケ』がポジティブすぎるという話が先ほど出ましたけど、僕はそこもチンの議論のアナキーさに由来するような気がします。アナキズムにおいて、まず重要なことは人間と人間の持っている力のようなものを信頼することでしょうから。その意味でも、『マツタケ』においてはチンは人間の底力を信頼しているように読めます。そうした信頼が潜在的コモンズの定義にも表れているように感じました。

ところで「コモンズ」と言えば、思い浮かべるのはネグリ=ハートです。実はこのトークの準備をする赤嶺さんとのメールの往復の中で赤嶺さんより斎藤幸平さんとマイケル・ハートの対談(『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』 斎藤幸平・編 所収についての話が出ました。その対談においてもコモンズについて語られているのですが、ハートなどはどこかコモンズをスケーラブルに考えているというか、穿った目で読めば、頭のいい我々が何か仕組みを考えてコモンズを設定すればみんなもっと生きやすくなるよね、みたいな話のようにも読めてしまって、僕なんかはちょっとイラっとしてしまうわけです(笑)。その点、チンのコモンズ論には、そうしたトップダウンによる社会設計という感じがしません。否定形の定義のところにも「潜在的コモンズは法の隙間に入り込む。違反や感化、無関心、密漁がそれを助長する」と書かれています。もっと草の根的だし、実践的で、それこそジェームズ・C・スコットの『実践 日々のアナキズム』などの方により親和するイメージです。

 

『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』 斎藤幸平・編

 

そこで、最後に是非お伺いしたいことがあります。赤嶺さんは著書『ナマコを歩く』の中で、オープンアクセスのダイナマイト漁についても書かれていますよね。オープンアクセスとは、つまり全ての人に漁業資源を解放するということですが、一方で、オープンアクセスにしてしまうと、ダイナマイト漁のような乱獲が起こる、だから管理が必要なんだという形で、国家による管理の正当化にも使われてしまっているわけです。ただ、実はそれは、自然状態で行われていることではなくて、すでにある種のバイアスがかかった状態でのことなんだという話を赤嶺さんは書かれていました。これまで赤嶺さんがナマコ漁や捕鯨などを調査されてきた中で、コモンズというものについて何を感じ、何を考えていらっしゃるのかを、お聞きしたいんです。

 

赤嶺 ありがとうございます。私も10年くらい前までは一生懸命コモンズを勉強していたつもりなんですが、一般的に、いわゆる自然資源と言うのは、プライベートかパブリック、そのいずれかで管理するのが一番良いと考えられています。アメリカは特に顕著ですね。しかし、実はそこには中間の形式もあり、それがコミュナルな管理です。つまり、ある村落で持っているという状態。所有権ははっきりしないけど、その地区の人たちがゆるくその自然資源を持っているというような状態。人類学者や社会学者が調査しているのは、そういう領域ですよね。

ただ、さらにもう一つ、誰もそれを持っていないという「無主」という状態があるんです。これがオープンアクセスと呼ばれるものです。このオープンアクセスに関して、生物学者のギャレット・ハーディンによる「共有地の悲劇」という有名な論文がありますけど、あの論文を「共有地の悲劇」と訳したことが悲劇でした。あれは本来、「オープンアクセスの悲劇」と言わなければならなかったんです。「持ち主がいない」ということと、「みんなのもの」っていうのは、異なる概念ですから、ね。放牧地があって、みんなそこに勝手に羊を放つと、面積が決まってるから、たくさん羊を放した人が、一番利益が出る。そして結果的に、その放牧地は荒廃してしまうというシナリオをハーディンは描き、それを「共有地の悲劇」と呼んだんです。

このハーディンの議論はコモンズに対する批判として多く援用されてきましたが、しかし、それはルールが全くないオープンアクセスのことであって、社会学や人類学が考えてきたようなコモンズとは違うんです。だから、オープンアクセスについての研究は、あまり注目されてきませんでした。でも、麗しいコモンズの成功例だけを議論していたって、何も生まれないんじゃないでしょうか。

先ほど辻さんが紹介してくれた私のナマコの本の中で、自分でも思い入れのある章は、南シナ海の南沙諸島についての部分なんです。今、領有権の問題で中国とベトナムやフィリピンが争っていますが、南沙諸島で、フィリピンの人たちがダイナマイト漁をやっています。中国の主張とは裏腹に、ここは国際法上、領有権が確定していなくて、まさに無主、オープンアクセスになっているんです。そして、ダイナマイト漁に従事しているのは、圧倒的多数がカトリック教徒のフィリピンにおいてマイノリティであるイスラム教の人たちです。熱帯地域にはあまり群れる魚がいないんですが、ただタカサゴという、沖縄ではグルクンと呼ばれている魚だけは例外的に群れるので、それを集中的に獲るためにダイナマイトが使用されているわけです。群れにダイナマイトを投げ込めば、一網打尽にできるので、効率がいいんですね。そして、その大量に獲れたタカサゴが干し魚に加工され、ミンダナオ島というフィリピンの離島で流通しています。

当時、私はそれこそ辻さんが指摘するようなアナキーさを面白がっていたんです。フィリピンの国家から除け者にされたイスラームの人たちが独自に活路を見出して南沙諸島でダイナマイト漁をやっているわけです。国家から自立していると言えばよいのか、国家を頼りにしていないというべきなのか。しかも、ここがサプライチェーン研究の面白さでもあるんですけど、ダイナマイト漁で獲られ、加工された干し魚は、ミンダナオ島で開発されたプランテーションで働いているキリスト教徒の人たちが消費しているんです。そのプランテーションの出現は1960年代後半からで、主にバナナ農園という形で出てくるんですけど、その農園が出現していなかったら、ミンダナオ島への大量の人口移動もなかったし、大量の干し魚が要るということにもならなかった。鶴見さんのバナナ研究と期せずしてつながった、と思ったわけです。もちろん、乱獲は問題ですし、プランテーションにも問題が多いのですが、どこかダイナマイト漁にはマツタケ狩りに通じる部分もあるんです。フリーダムと言えないまでも、自立でしょうか?

もう一つ、オープンアクセスに関連してチンの本で考えさせられたことは、北欧のスカンジナビア地域からスコットランドにかけて認められている「万人の権利」についてです。この「万人の権利」とは、要するに「誰もが自然を愛でる権利」のことだと私は解釈していますけど、この「万人の権利」で何が認められているかというと、他人の土地であろうと、そこでキャンプをしたり、散策したりしながら自然を愛でる権利がある、ということです。もちろん、他人の土地で木を切るとか、砂を採るとか、そういうことはだめ。ただベリーとかキノコは自由に採っていい。そういう慣習法があるんです。

実際、私もフィンランドに行きましたけど、突然、山の中でテントを張って二週間キャンプをしているような人なんかも少なくありません。他人の土地だろうが、火事さえ起こさなければいいんだそうです。もうびっくり仰天でした。つまり、ここでは所有ではなくて利用という観点から自然や自然資源が考えられている。今までのコモンズ論は、基本的にプライベートオーナーシップとかパブリックオーナーシップという形でオウンすること、所有することに着目してきたわけですけど、この慣習法においては、所有者が誰であれ、利用が制限されることはありません。これは今のシェアリングエコノミーと共通する考えかもしれないですが、所有ではなく、利用というところから、コモンズ論を考え直していくと、もしかしたら面白い発展があるのかもしれません。

さっきお話ししたダイナマイト漁に関しても国家が所有していないからその間隙を縫って、彼らは大々的にその海を利用している。その利用の仕方に問題があるのは確かですが、ただもう少し所有という概念から離れて、利用という概念からコモンズ論を組み立てることはできないか、というのが、自分の調査と『マツタケ』を通じて考えていることですね。

 

 所有ではなく利用から考える、というのは面白いですね。その上で、赤嶺さんが今おっしゃった「間隙を縫う」という言葉が、実は今後の実践の上でも核心となってくるのではないかという気がしました。『マツタケ』という本自体、グローバル資本主義を徹底的に破壊しようという本でもなければ、何かシステムを一新するような大きな革命を促すというタイプの本でもありませんよね。チンはグローバル資本主義という一語には回収しきれない様々な物語が世界にはあることに着目し、そうした「間隙を縫っている」人々の一例としてマツタケ狩りを紹介している。そして、それらが潜在的コモンズ、来たるべきコモンズの可能性を開くかもしれないものとして語られている。マツタケ狩りの人たちに限らず、それぞれがそれぞれの場で間隙を縫うこと、それによって潜在しているものを賦活しつづけること、そうした奨励を、僕はこの本から受け取ったように思います。(終)

 

『マツタケ 不確定な時代を生きる術』アナ・チン著、赤嶺淳訳(みすず書房)

 

 

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赤嶺淳 あかみね・じゅん/1967年生。一橋大学大学院社会学研究科教授。著書に『ナマコを歩く』(新泉社、2010年)、『鯨を生きる』(吉川弘文館、2017年)、共編著に『生態資源』(昭和堂、2018年)、訳書にアナ・チン『マツタケ』(みすず書房、2019年)がある。

 

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