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ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎|バッドテイスト生存戦略会議・前編「SNS時代を“悪趣味”に享楽する」

1990年代に一つのシーンを作り出した悪趣味・鬼畜系カルチャー。そもそも「悪趣味」をあえて称揚する文化的態度は、そのはるか以前から存在した。SNSとネット炎上が一般化し、気安く「悪趣味」を遊べなくなったかのように見える今、「バッドテイスト」の新地平を3人のクリエイターが探る。


 

1990年代、雑誌メディアを舞台に花開いた悪趣味・鬼畜系カルチャーは、スカムカルチャーやゴア表現、さらにドラッグカルチャーや過激なポルノまでをも巻き込んで、世紀末の日本に異形のシーンを形成した。ここ数年、そうした90年代の、ともすれば「行き過ぎ」であった文化表象に対する反省的な見直しが盛んに行われているが、そもそも一般的に悪趣味であったり鬼畜であったりと呼ばれるものをあえて愛でる、実践するという文化的態度自体は、1990年代に特有のものではなく、そのはるか以前から連綿と存在し続けている。

たとえば、『90年代サブカルの呪い』の著者である音楽家のロマン優光氏は、江戸時代における月岡芳年の無惨絵や大正期のエログロナンセンスブームにその一端を見出している。あるいはそうした悪趣味のミームは戦後の耽美の系譜にも確実に受け継がれていたであろうし、はたまた欧米へと視線を向ければ、シュルレアリスムの大家であるアンドレ・ブルトンが1940年に編纂した『黒いユーモア選集』などは、まさに20世紀における悪趣味本の金字塔であると言っていいだろう。

もちろん、文学的想像にとどまることのない実践派として、ジョルジュ・バタイユやジャン・ジュネなどの名前を挙げることもできる。さらに1950年代アメリカのカウンターカルチャーを牽引したウィリアム・バロウズやジャック・ケルアックらビート世代を、その系譜に位置づけることだって可能かもしれない。つまり、少なくとも広義の「バッドテイスト」に関して言うのであれば、ある時代のぽっとでの流行といったような、一時的、局所的な現象などではなく、それは同時代の「善」なるものを批判的に懐疑する「悪」の知性として、つねに存在し続けてきた文化的伝統であるとも言えるのだ。

翻って現在、SNSの一般化、ネット炎上の常態化に伴い、気安く「悪趣味」と遊ぶことは難しくなったかのように見える。ポリティカルコレクトネスへの意識の高まりを必ずしも批判すべきではないが、疑う余地がないように見える正しさは、その疑う余地がないように見えるというまさにその点において、危険性を秘めているというのもまた事実だ。そうした意味において、バッドテイストはその真価を今こそ問われているのだとも言える。

もちろん、その方法論はつねに変化していくものであり、19世紀には19世紀の、20世紀には20世紀の、21世紀には21世紀のバッドテイストの作法というものがあるはずだろう。あるいは現在的なバッドテイストは、ダークウェブと呼ばれるインターネットの深層へと、その主戦場を移しているという指摘もある。しかし、地下へと潜行し、衆人の目から遠ざかったときのバッドテイストは、果たして「バッドテイスト」と呼びうるのだろうか。そして、もしそう呼びえないのであれば、現代にふさわしい「バッドテイスト」の方法とはどのようなものとなるのだろうか。

この鼎談に登場するヌケメ、HOUXO QUE、村山悟郎は、共に1980年代生まれであり、悪趣味・鬼畜系カルチャーが盛り上がった1990年代を少年として過ごしている。2010年代も間もなく終わりを迎えつつある今日、時代にふさわしい「バッドテイスト」の新地平を探して、3人のクリエイターが語り合った。

 


 

 

バカを晒し上げるというエンターテイメント

ヌケメ 今日は「バッドテイスト」をテーマに二人と話してみたいんですけど、なんでこのテーマにしようと思ったかといえば、いま「バッドテイスト」なもの、つまり悪趣味なものの行き場がほとんど見当たらないなっていう実感があって。たとえばネット上で仲間内でバッドなノリを含む面白い話をしたいと思っても、話に直接関係ない人まで集まってきてしまって、最終的には誰かが殴られてる、みたいな状況を見かけることが多くあり、これに僕は割と疲れてるんですよね(笑)。それはいわゆる「ポリコレ疲れ」と呼ばれるものとも似ているんだけど、ちょっと違うかな、という感覚もあって。

実は前にQUEくんと鼎談した時にも少しポリコレの話をしていて、その時は、自分の心の中には愚かしいものや邪悪なものを持っててもいいし、あるいは閉じられたプライヴェートな空間であればインコレクトネスな語りがあっても問題ないよね、みたいな話だったと思います。この考え自体は今も変わりはないんだけど、一方で、現状は公共空間と、そうしたプライベートな場というものが極端なまでに二極化していて、これはやっぱり少し不気味な感じもするんです。その間をつなぐ回路がないという状況が、果たして健全なことなのか。あるいは、その二極をうまいこと滑らかに繋ぐことってできないのかな、とも思ったりしていて。

そんな時に1990年代の悪趣味カルチャーを思い出したんです。たとえば、悪趣味カルチャーを代表する雑誌の一つである『危ない1号』は「妄想にタブーなし」と標榜していましたよね。まあ当時は妄想にとどまらず、悪趣味なことが現実に実践されていたし、雑誌記事という形でパブリックな場にも露出していたわけだけど、そうした悪趣味系の雑誌がある種、パブリックとアンダーグラウンドを繋ぐ回路になっていたようにも思うんですよ。

でも、現在は少なくともそうしたバッドテイストな雑誌というものはほとんどなくなってしまった。僕自身は割とそういうバッドなノリの表現物が好きだったこともあり、そこには寂しさも感じていて、とはいえ、かつてのバッドテイストなものをそのまま現代に再現してみようか、といえば、それはやっぱり違うじゃないですか。じゃあ、カルチャーとしてのバッドテイストを今の時代にアップデートするとしたら、それは一体どういうものになるのか、あるいは、どの程度のさじ加減であれば丁度いいのか。そういうことを二人と話してみたいなと思ったんです。

 

QUE なるほどね。うーん、どこから話そう。まず少し現状の整理をしておくと、今、ヌケメはポリコレ疲れとはちょっと違うって言ってたけど、そもそもポリコレ疲れ的なことが語られるようになった背景には、インターネットという空間が限られたメンバーで何かを共有する空間というより、広く社会の人に開かれた空間になってきて、より多くの人がそこに参入するようになったという状況があると思うんですよね。これは日本だと2011年以降に特に顕著になってきていて、311の震災が起きたことでインフラとしてのネットの機能が注目され、かつスマートフォンが普及したことで爆発的にネット人口が増えたということが要因としては大きい。インターネット白書とかを見ればその辺の人口推移などの正確な数字が出てきます。

そうした状況の中で、つまりこれまでネットに参入していなかった人たちがドバっとネットに流れ込んできたことによって、様々なコンフリクトが起こるようになった。ようするに炎上が増えたというわけだけど、ポリコレ疲れと呼ばれているのは、こうしたコンフリクトに対するある種の苛立ちであって、あるいはヌケメもそうした状況がしんどいよって言ってるんだと思う。ただ……、僕はどうかと言えば、結構その状況を楽しんでるタイプなんですよね(笑)

ヌケメ どういうこと? 

QUE だって炎上とかってぶっちゃけめちゃくちゃ面白いじゃない?  すごく下品な言い方をすれば、バカを晒し上げるっていうのはめちゃくちゃ楽しいエンターテイメントですから。

村山 その態度がもうバッドテイストだよね(笑)

QUE そうそう。それは僕だけじゃなくてさ、インターネット、特にSNSユーザーの人格には少なからずそういう悪趣味な部分っていうのがあると思う。実際、誰かが何か迂闊なことを言ってるのを見つけると、邪悪な魂を持ったアカウントたちが「おおっ」って言って嬉しそうに大挙するわけですよ。僕もその一人。ただ僕の場合は仄めかしつづけるんだけどね。 直接的にはなかなか指摘せず、ずっと仄めかしつづけて、おかしい奴がここにいるぞっていう空気を作っていく。で、気がつくとそいつは炎上の渦中にいる。まあ、悪趣味だよね(笑)

ヌケメ QUEくんが炎上を楽しんでるっていうのは、はたから見ても分かる(笑)。でも、QUEくんはあまり他人には噛みつくことないよね。だいたいが身内を殴ってる印象がある。

QUE そうだね。知らない奴を殴ることは基本的にしません。それこそロマン優光さんが『90年代サブカルの呪い』に、悪趣味や鬼畜なことを楽しむ上ではある種の良識が必要である、といったようなことを書いていたと思うけど、僕にとってネットで自分から遠い誰かを殴るという行為は良識がない振る舞いなんですよ。それはただの暴力ですから。だけど、身内を殴るというのは、ある種、良識の範囲内であって。

 

『90年代サブカルの呪い』著・ロマン優光

 

ヌケメ 身内であれば向こうも殴り返しやすいしね。

QUE そうそう。さらに、どれくらいの力で殴ればいいか、こいつだったらこのくらいの力がいいだろう、ということが、身内だと分かりますから。

村山 QUEくんとネット上でやりとりしてると、絶対にイジってくる(笑)。だから、いつでもOKな体勢を作るんですよ。

QUE そう、相手が構えているということも分かる。だから、そのガードをかいくぐろうとあれこれ考えるんだよ。今こいつが一番言われたら嫌なことってなんだろうな、とか真剣に考えてさ(笑)

村山 ところで、冒頭のヌケメくんの話って、ようするに心の中と公共空間が接触する地点がどんどん狭まっているっていう話だと思うんだけどさ。バッドテイストっていうのは、そもそも心の中にとどめておくべきものを、あえて出すところに核がある。雑誌の文化からバッドテイストな表現が生まれ、誰もが接触する機会があって、好きな人間で集まったりする場になった。そんな展開を経て一つのシーンになっていたわけで。つまり外に出すことがバッドテイストの条件とも言えるんじゃないかな

だから、心の中ではOKだけど公共ではダメ、ではなく、公共と呼ばれる空間の中にいかに悪趣味的なものを成立させるかという戦いが重要なんじゃないかと俺は思う。実際その苦戦を続けてる人たちもいるわけで。ただ、アメリカだとそれが「自由」という意味に繋がるんだけど、日本だとまさに「悪趣味」という言葉がふさわしい、というか。つまり、なにか思想的な背景に基づき、悪趣味な表象を通じて自分たちの自由を獲得するのではなく、どちらかと言えば、悪趣味をサブカルチャーとして消費している、と。

ヌケメ ああ、日本においてバッドテイストはまさに「趣味」なんだ、と。

QUE そもそも雑誌的な悪趣味カルチャーの根底には、社会における建前みたいなものの虚飾性を暴こうという、まさに悪趣味なノリがあるわけですよね。そのための方法論として、フリークスな人たちを探訪したり、眺めたりしていた。ようするに辺境を探していたわけで、そういう意味ではロマン主義的だなって感じますね。

村山 そうだね。あと少し確認しておきたいのは、俺の感覚だとバッドテイストっていう括り自体があまり判然としないところがあって。そもそも、その趣味が悪趣味か否かって相対的な判断でしょ。実際、人はお互いに「悪趣味だなこいつ」とか思いながら生きているわけじゃん。悪趣味系と世間的に呼ばれている人の中にも「自分は悪趣味じゃない」と思っている人もいるだろうし。

QUE 主観的にはそうだよね。

村山 あいつは悪趣味だけど、俺は違うから、みたいな(笑)。つまり、なにか「俺たちこそバッドテイストだ」と標榜する概念的な条件があるというより、もっと茫洋とした捉えどころのないジャンルになっている。だから、語ることが難しい気もするんだよね。

QUE でも、それはもう厳密には「バッドテイスト」からはズレてくるんだと思う。自分がバッドだと思っていなかったとしても悪趣味は悪趣味ではあるんだけど、括弧付きの「バッドテイスト」に関しては、そこにある種の露悪性が伴ってるものを指しているんじゃないかな。真性の人たち、つまり悪趣味の自意識がない当事者には露悪のつもりはないんだけど、それを「バッドテイスト」と指差し、顕揚する人たちに露悪があるわけですよね。だから、僕がネットで相手の嫌なところをついて、相手がそれによって動揺したりしているのを楽しんでいるというのは、自分自身、それが悪趣味だと理解しているから「バッドテイスト」と言えると思うんですよ。

 

HOUXO QUE(http://www.quehouxo.com/

 

村山 なるほど、露悪性ね。そこは明確に区別したいな。俺もじゃぽにか(※)として活動するときは露悪的/反技巧的に振舞っていて、あえて作品をグズグズの状態で出すわけだけど、そこには明らかに「バッドテイスト」としての自意識があると言える。でも、日本ではこの区別が割と曖昧になってて、それは90年代のバッドテイストが最終的に収束したこととも関係あるんじゃないかなと思うんだよね。

※じゃぽにか……2002年に新宿で誕生した集合痴のアート集団。「炎上アート」を標榜し、ネットやアートのメディア上を舞台に悪ふざけやパロディ、そして軽薄なシミュラークルを撒き散らし続けている。2014年、第17回岡本太郎現代芸術賞特別賞受賞。村山はその主要メンバーの一人。

さっきアメリカでは「自由」という意味に繋がると話したけど、それはようするに、悪趣味的なものであっても思想的な背景の中で提示するという形をきちんと取っているってことなんだよ。だからジャンルの住み分けもできる。日本はその背景がはっきりしないから、真性の人も「あえて」の人も同列上に並べられた上、悪趣味系などと呼ばれ、メッセージが輻輳していく。たとえばインセル(※)とかにしたって、思想的なバックボーンがあって、その上で「俺たちはインセルだ」というライフスタイルの提示があるわけでしょ。それが悪趣味だと言われようが、自分たちのライフスタイルとして貫く強固な意志がなければ思想とは呼べない。ここはだいぶ違うところじゃないかな。

※インセル……「involuntary celibate」の略。非自発的禁欲主義を意味し、主にネット空間を中心に、自由恋愛市場における恋愛格差を批判する男性たちによって自称的に用いられている。2014年にカリフォルニア州で無差別大量殺人を行ったエリオット・ロジャーが、その犯行声明文において「インセル」を自称していたことは有名。

ヌケメ たしかに日本ではバッドテイストが思想的に団結しているというわけじゃないですよね。

QUE アメリカの状況と我々の状況は明らかに違うと思う。アメリカの場合、否が応でも政治思想みたいなものが付いて回りますから。たとえばリバタニアンひとつとっても、アメリカのそれと日本のそれとはまるで違うじゃないですか。日本においてはより個人の信条的なものとして認識されてるけど、アメリカにおいてはガチガチの政治思想のように感じる。逆に日本はあらゆるものが政治思想的にならない特異な空間だとも思うけど。

 

炎上をバッドテイストに享楽する

QUE ただ俺はバッドテイストが西洋的に政治思想化される必要もないと思っていて、しょうもないもの、くだらないものをキッチュに愛でる態度を広く「バッドテイスト」と呼んでみてもいいんじゃないかな、と思ってる。真性の悪趣味や鬼畜、あるいはスカムとかからもうちょっと離れたところで、なんとなく「とほほ」な感じのものを楽しむ姿勢を「バッドテイスト」と呼んでも面白いんじゃないかな、と。ソンタグの「CAMP」に近いんだけど、もっと情けない感じを。

実際、インターネットのしょうもない誰かの発言を楽しむとかって「とほほ」な感じがあるじゃないですか。何言っちゃってんのよお前、みたいな(笑)

ヌケメ さらにいうと、それに絡んでる自分もなんなのっていう(笑)

QUE そうそう、すべてが茶番になってる。その茶番になった瞬間にある種の演劇性のようなものが立ち上がってくるというのが面白いんです。

村山 でも、それって割と日本においては正統派で、根本敬さんの感覚とか近いんじゃないかな? 特異な一般人を観察しに行って、そこで面白がるという点で。

QUE 近いとは思う。実際にネットの中には根本さんのようなパースペクティブで人を観察しているっていう人はいるんだけど、僕がいう「とほほ」な感じっていうのは、もうちょっと空間的で、相互性があるんだよね。その空間にいる人間は誰しもが大体なんらかの問題があるわけで、誰がいつどこでチョンボをやらかすか分からない。それを総体的に楽しむというか。

ヌケメ もしかしたら自分が根本さんに観察される側かもしれない、という。観察者であり観察対象でもある。根本さんだって、観察対象としてもすごく面白いわけで。

QUE そうそう、インターネットはそれを可能にしたわけですよね。観察が双方向になった。雑誌メディアにおいては書き手と書かれる側って非対称な関係にあったけど、ネットでは誰もが書き手だから、誰もが観察する側にいる。ようするに誰もがバッドテイストの担い手になれるようになった。特にツイッター界隈ではそういうノリがあると思うし、それを僕はネタ的に楽しんでるんですよ。

でも、最初にヌケメが言った通り、ツイッターなんかでは特に、フォロワー外のものすごい遠くからも拳が飛んできたりもするわけで。それがみんなにとってはストレスなんだろうけど、僕はそういうトラブルも含めて楽しみたいとは思ってる。なんでかっていうと、遠くから何かが飛んできちゃった時に、期せずして本質に迫る問いとかが立ち上がってきたりすることが稀にあるからなんだよね。

一つ例を出すと、最近、僕の友達のヤコーさんというクリエイターが炎上を起こしたんですよ。彼が九州に旅行した時に阿蘇の立ち入り禁止区域の写真を撮影し、そこに米粒みたいなサイズの自分を合成して「自撮りです」って言ってツイッターにアップしたら、たちまち「立ち入り禁止区域に入るなんてけしからん!」と、その写真を中心にツイッターが燃え上がった。

まあ、その写真は合成写真だから本当は問題ないんだけどヤコーさんは「自撮り」と書いてる。彼も僕と同じで邪悪な人間なので、炎上し始めたところで「合成でした」と言えばいいところ、なかなか言わない。結局、炎上が十分に盛り上がったところで、ようやく合成であることをカミングアウトしたんです(笑)

 

 

ヌケメ あれは面白かった(笑)。しかも、そのカミングアウトから別の炎上へと切り替わっていくんよね。

QUE そう。話したかったのもそこで、まあ合成だと分かって一件落着かと思ったら、今度は全く別の、写真界隈の人たちから拳が飛んできたんです。その人たちは「写真において合成は一切認めない」みたいな原理主義的な人たちで、いきなり「お前のやっていることは写真ではない。お前はただの嘘つきだ」みたいな、当初の炎上とは全く関係のない批判をし始めた。クソリプといえばクソリプなんですが、その瞬間からもう我々はお祭りですよ。すげえのが来た、と(笑)

写真の世界ってプロフェッショナルフォトとアマチュアフォトではどこか乖離があって、写真の合成技術について認識の差があるのか「撮って出し」みたいなことが写真芸術の芯だといったような信念を持っている人がアマチュアフォトでは割といるんです。ヤコーさんはまさにその思想のラディカルな人とぶつかったわけですが、まあ写真技術的本質を考えてみると撮って出し原理主義には転倒があるような印象を受けました。写真というのがそもそもネガであったとしても、焼き付けられたが現像される段階では程度の差があれ「合成」と同じ技術が用いられる。つまり、そもそも写真というのはそういった編集技術前提にある表現と言えると思いますにも関わらず「合成を一切認めない」というのは、明らかに奇妙な主張なんですよね。

ただ、そういう普段の見知った人たちとの会話においてはまず起こらないバグの伴った会話をしていると、期せずして「写真とは一体なんだ?」みたいな本質的な問いに向かうことがある。実際、その人のおかげみんなが写真についてあらためて考えたり語ったりし始めたんです。最初は面白がっていただけで、それこそ「バッドテイスト」なノリだったんだけど、最後は割と建設的な話になっていった。僕はこういうことが結構楽しいなって思ってるんです。

村山 振り上げた拳を収めるために、真面目な筋の話をするしかない、みたいなところはあるしね。

QUE あと、単純に飽きるんですよね。その原理主義的な人も、リプライで色々とツッコミを入れられて、最終的には変な意地も出てきたのか「写真は心、以上」みたいに書いて、話を収めちゃったわけです。もし、そこまでで終わりにしてしまったら、ネタ的に消費されて忘れられていっちゃうし、そんなことを繰り返していても飽きてしまうわけです。でも、そこからさらに話が転がていくことで、写真というものの技術的な本質であったり、歴史的な考察であったり、そういう話へと転じていくこともできる。だから、炎上も技術だと思うんですよね。そういう意味ではヤコーさんは割と上手に釣り針を垂らしているタイプだと思う。

ヌケメ ヤコーさんを巡っては以前にも「お前の写真は合成じゃねーか」みたいな論争があたよね。今回も「そんなもの写真じゃない」って言われてヤコーさんは「じゃあ写真じゃなくていいです」みたいに返してけど。

QUE そうそう(笑)。でも、その時の「写真じゃなくていいです」っていう開き直りも現代のデジタルフォトグラフィーを考える上では本質に近いところがあって。写真の定義そのものがデジタルフォトグラフィーの技術革新によってどんどん揺らぎ出している時代だから、実際に写真家たちはみんな「写真とは何か」ということを模索しながら写真を撮っているわけです。だって、データとして書き出されている時点で「それは画像じゃん」と言われてしまえば「画像」なんですから。とはいえRAWに入ってるメタデータの方に写真の本質があるかといえば、やっぱりそんなことはないし。一体どこが写真という形式のラディカルな地点なのか、定義が定まらないまま進んでいるとこがあるように思う。だからこそ、ああいう炎上が起こると、そうした曖昧にされている部分があらためて問い直されるきっかけになったりもして面白いんですよ。

ヌケメ なるほどなあ。たしかにそういうコンフリクトから深い発見が得られるみたいな部分は分かるところもあるんだけど、僕には結局それって無駄だよなっていう印象もあって。というのも、QUEくんたちが話していたことって、多分、相手側には何一つ伝わってないわけじゃない? 僕はそういうコミュニケーションが無駄になっているということに虚しさみたいなものを感じるんですよ。「写真は心、以上」の人にいくら言葉を尽くして語りかけたところで、何かが伝わっている感じが得られない。

 

ヌケメ(https://nukeme.nu/

 

QUE いや、それは伝わらないものなんだと思う。なぜなら彼らはある特殊なルールのスポーツをやっている人たちで、僕たちが考えているようなこととかは初めから求められてないんですから。だからこそSNSは「バッドテイスト」なわけですよ。結局、深い発見を得られる場合があるとはいえ、ディスコミュニケーションを前提に生身の人間をネタ的に消費していることに変わりはないんだから。

ヌケメ だよね。僕は炎上とかが起こった時のクソリプとかを見ていて一番疲れるのは、相互理解っていうことがもう不可能なんだなっていうのを痛感させられるからなんよね。それがすごくしんどい。

QUE え、そこがしんどいんだ?

ヌケメ うん、しんどいね。

QUE 僕は相互理解なんて最初からありえないって思っているタイプなんでそこにネガティブさはそんなにないかな(笑)。だから、そういう意味では僕がインターネットに向けている態度はすごくシニカルで、人間は互いに分かり合えないからこそ、そうした人間たちと遊んでいるっていう感覚なんです。

村山 まあ……、俺も相互理解とか求めてないかな。そもそも、原理的に誰かと分かり合ったことを確認する方法なんてものはないわけだしね。

ヌケメ ああ、もちろん、それはそうなんだけど、分かり合えないまでもロジックの上でディベートとしてきちんと言葉をかわせる人と、そうでない人が明確に分かれてしまっている気がして。

QUE それはそうだね。でも、そうした前提の共有不可能性みたいなものは、最初に話したようにインターネットがある種の広場になってしまった以上、仕方がないことだとも思う。そもそも誰かと一対一で深く話せるような空間ではもはやないわけですよね。だから、誰かと本当に深い話をしたかったら、ここで鼎談をしているみたいに、リアルで密室に行って話すしかない。でも、それを見ず知らずの人とするのは、それなりに緊張することだし、なかなか簡単にできることじゃないですよね。

村山 あと、俺はQUEくんとは違う意味において、ヌケメくんがいうコンフリクト、要はコンテクストの不一致によって生じる無理解とかフラストレーションとかに、そんなネガティブな感情を持っていないんです。というのも、そのフラストレーションが次のコミュニケーションへの継起になるからね。こんなに分からない奴がいるんなら、もっと作品を創らねば、と。

むしろ、ちゃんとコンフリクトがないと、つまり、なんとなくみんな通じあっている温い感じになっちゃうと、別に論文とか書く必要はないよねってなるわけでさ。そういう意味では、コミュニケーションの失敗や失望や苛立ちみたいなものが、コミュニケーションの継続を生んでいるとも言える。

だから、話が止まらないように、コミュニケーションが途切れないように、誰かの発信にたいして、意地悪でもいいから返していくって、割と重要ではないかと。たとえば炎上とかにしても、コミュニケーションの連続性が維持されるような場を作る機能があるとも言えるんじゃないかな。

QUE そうかもしれないね。ただ、そこでは本当にコミュニケーションの継続が目的になってて、喋っている内容そのものは実はほとんど意味を持たない。実際、今のインターネットってストックの機能がすごく少なくなっててフローばかりになってるでしょう。僕自身、自分のツイッターとかタンブラーとかのアクティビティログを見返してみたりすると、もうほとんどのことを忘れてるんだよね。自分が誰かにリプライして会話したりしたことも覚えてない。なんだか忘れるためにインターネットをやっているんじゃないかって思うこともあるくらいで(笑)

ヌケメ ネットに書くことによって綺麗さっぱり忘れて次に進もう、みたいなね(笑)

QUE そうそう、ある種の積極的忘却。忘れるために貶しあってるっていうのも、実にバッドな話ではあるんだけどさ。だからこそ、炎上をただネタ的に消費するのではなく、分かり合えなくてもなにかをメモするように記憶に残しておくのは割と重要なのかな、と思うんだよね。

 

魔法に対抗するには魔法しかないと親父が言っていた

村山 ところで、クソリプと言えば、SNSで不意のツッコミを食らうって、適度に恥をかけることでもあると思うんだよね。実際、俺たちくらいの年齢になってくるといい大人だし、適度に恥をかける公然の場所って少なくなってくるじゃないですか。日常において、自分のことを辱めてこようする他者がいないというか。

QUE 特に悟郎は大学で教えてたりするから、周りは自分より年下の学生か、自分より上の先生か、みたいになってくるだろうし、そういう環境だと性格の悪いやつに出会う機会ってあんまりないのかもね。

村山 いや性格悪いやつはいるけどさ、そういう関係にならないでしょう? みんなの前で変な空気になることを急に言ってくるみたいな(笑)。でもSNSにはまだあって、もちろんQUEくんみたいに友人がバッドなツッコミを入れてくることもあるんだけど、まったく関係ないオーディエンスの一人が遠くから突拍子も無いことを言ってきて、「嫌だなぁ」とか思いつつそこに返さなきゃいけない、みたいな(笑)

 

村山悟郎(Goro Murayama Works

 

QUE まあ分かる。でも、それを求めるのは悟郎の芸風だとも思う(笑)。悟郎の話で傑作だったのはさ、たしか悟郎がウィーン滞在かなんかの時にロンドンに行ってて、ロンドンのNIKEに入ったら話しかけられたって話をフェイスブックに投稿してたんだよね。その内容はNIKEの店員に「どこから来たの?」って話しかけられて「東京だよ」って答えたら、「東京から来たのか、すごいな!」って言われて盛り上がったとか、そんな話だったんだけど、悟郎がその話を投稿した3分後くらいに「悟郎くんは埼玉じゃん」ってリプライがすぐについてて(笑)

村山 「いや東京だから」って返してね(笑)

QUE 割とカッコつけた話だっただけに、いきなりメッキ剥がされてて、あれは笑ったなあ。

村山 いや東京だから、東京だからね?

ヌケメ どういうこと?(笑)

村山 いや、本当に東京都なんだけど、俺が東久留米市っていう埼玉との境に住んでたっていう話で。

QUE それはもう埼玉だよ。

村山 いや東京だから(笑)。まあ、そんな話はどうでもいいのだ! 俺が言いたかったのはさ、公共空間においては人それぞれ「自分をこう見せたい」という像があるわけですよ。それは時に権威を伴うこともある。大学の偉い先生が、高みから知識量を武器に喋って自分の権威を高めようとしてたりするわけ。でも、そこを「いやそれ違くね」みたいな、その人のお里が知れるような情報を持ってる人がほじくることによって、地位や権力みたいなものがちょっと分散される。膠着した非対称性を震動させる。クソリプにもそういう機能はあるんじゃないかな。

ヌケメ なるほど。じゃあこの時代のバッドテイストは、積極的なクソリプで友人に小さな恥をかかせていく、みたいなことになるのかな(笑)

村山 友人もそうだし、偉い人が適当なことを言っている時に意地悪をする、とかね。

QUE 視界にギリギリ入る片隅でクスクス笑いだす、みたいなね。まあこれやってるとガチでキレられてブロックされたりもするんだけど。たしかにリアルな対人関係では気を使いあってできないコミュニケーション作法というのがあって、それによって硬直しがちな関係性っていうのもあると思う。その点、ネット空間では相手の姿が見えないのをいいことに、よく言えば気安く、悪く言えば無責任に話しかけられるところがあり、それは社会におけるある種のオプションみたいな機能をすでに果たしてるのかもしれない。

村山 で、そのクスクス笑いというのは、プライヴェートとパブリックの空間を繋いでいるとまでは言えないかもしれないけど、その狭間で遊んでる感じはあると思うんだよね。実際、身近な人に見せる顔とSNSで見せる顔が乖離していれば、ネット弁慶みたいに言われる。現実—ネットの間に生起する人格にも、美学があるでしょう?

QUE あるかもね。SNSが社会化されだした頃、みんなアカウント作ったし、そこで活動もしたんだけど、ある一定期間を経たあたりから、アーティストの中でも「俺はSNSは告知宣伝にしか使わない」とか表明して、本当に告知以外の発言はしなくなったりしてて。で、僕的にはそれってすげえつまらないわけです(笑)

村山 でもまぁ普通に考えると、悪ノリをネット上で繰り広げるってのは、意地悪な人間だとか思われて損だなーとか、あるわけだよね。

QUE 僕はイマイチそこがわからないタイプだからなぁ。

村山 まあサイコパスだからな。

ヌケメ ソシオパスだからでしょ。

QUE いやいや(笑)。ていうか他人からどう思われてるかなんて実際のところ分からないじゃん。

村山 俺はアーティストとして活動を始めた頃に結構周りからツッコまれてさ。ようはカッコつけてたんだよ、アーティストっぽく(笑)。そしたら周りの友達から「そうじゃないでしょ」みたいに言われて。

QUE お前はただの童貞だろ、みたいに。

村山 そうそう。って、まあ童貞ではなかったんだけどさ。でもQUEくんはズレがないよね。ネットとリアルに。

QUE 僕の場合、アーティストとして人格形成される期間にすでにネットカルチャーに深くコミットしていたっていうのもあると思う。当時、僕が見ていたネットの人たちって、こいつ本当に生身の人間なの? って思うような、バグみたいな人が結構いたんだよね。

ヌケメ それこそyoupy(※)とか

※youpy……ヨーピー、あるいはユーピーと読まれることもある。ハッカー、ネットアイドル。twitter→@youpy

QUE youpyはその筆頭だよね。youpyなんかはまさにネット時代の「バッドテイスト」だと思う。

ヌケメ たしかに。ちなみにyoupyというのはハッカーでありネットアイドル、みたいな人なんですけど。

QUE いろんなサービスをハッキングする人で、一時期youpy対策なんて言葉が生まれたくらい。まあ彼みたいな人をアーティストとしてのアイデンティティを形成する過程で見ていたから、こういう趣味になったところはあるかもしれない。

ヌケメ ツイッターがAPIをいくら書き換えても空白ツイートの方法を見つけだす、とかね。

QUE そうそう。youpy以外にもハッカーはいっぱいいるんだけど、youpyの面白いところは、正しい手続きに則りながらサービスを破壊したりするところなんだよね。僕が一番影響を受けたのはflickrっていうSNSに対して行ったものなんだけど、flickrって有料アカウントを持ってると容量無制限で画像をアプロードし放題なんですよね。そこでyoupyが何をしたかっていうと、対応する色数全てを一枚ずつフルピクセルの画像にして、永遠と色だけ変えながら画像をアップロードし続けた。

ヌケメ RGBの数値を一つずつ変えながらね。

QUE そう、すると膨大な量になる。その目的は何かというとflickrのストレージサーバーに膨大な負荷をかけ続けることなのかなって。つまりサイトにストレスを与えることだけが目的なんです。だからyoupyのflickrアカウントは今もあるけど、延々とその画像がアップされ続けてる。

ヌケメ 投稿数が世界らしい(笑)

QUE 面白いよね。で、ここに僕は「バッドテイスト」における重要なポイントを見出していて、それはyoupyはすごく悪質なことやっているんだけど、ルール違反はしていないというところなんです。つまり、良識あるバッドテイストなんです。そして、そのyoupyのイタズラによって画像というものの本質、ようするに画像とは色とコードの情報に過ぎないんだ、という事実が炙り出されてしまう。youpyはその情報を分解して量をマッシブにしているだけだから、何にも悪いことはしてない。ただ、悪ではないけど、相手を破滅に追い込んでいく。

ヌケメ ルール上、悪とは言えないけど、悪意はあるという

QUE そうそう。さらに、それに対処しようとした時、今度はサービス側制度的に破綻していく。ルールの中で遊んでいる人間をどう取り締まればいいのか。そこにサービスというものの本質まで立ち上がってくる。これはすごいクリエイティブなバッドテイストだと思うんです。

村山 全然違うかもしれないけど、じゃぽにかも似たようなことはやってて。誰でも参加可能なアンデパンダンの企画に、招かれざる客だと分かった上で作品を出展しに行く、みたいな。「ちわ~っす」とか言いながらね。で、顰蹙を買うんだけど、「だって誰でも出展できるって書いてあったし」みたいな。まあ、そんなことやりすぎて、じゃぽにかのプログラムをどこにもランできなくなったんだけど(笑)

 

じゃぽにか「概念のDUB」(2019/紙に色鉛筆、アクリリック /52×83cm)2019.6.19よりArt Center Ongoingにて展示「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 カラオケ館(金獅子賞受賞)」を開催。https://t.co/YJr6XSfefs

 

QUE お前らは想像力がジャンプのギャグ漫画なんだよ(笑)

ヌケメ 山塚アイさんがハナタラシ時代に全国のライブハウスで無茶苦茶なパフォーマンスをした結果、全国のライブハウスで出禁を食らったらしいんですよね。で、ライブできなくて困っちゃって、新しいバンドを組もうって言って作ったバンドがボアダムズだった。だからじゃぽにかも名前だけ変えればいいんじゃないかな(笑)

QUE 実際、じゃぽにかは活動できなくなってから解散を宣言してて、でも本当は解散していなかったりもしてて、実に悪い奴らなわけです(笑)。でもそういう悪質さは僕はすごい好きなんだよね。それと少し近いところで、最近オンラインゲームの世界にアンチチートチートと呼ばれるプログラムがあるんだけど、これも「バッドテイスト」的にすごく面白いんです。

そもそも中国圏って体感レベルでもチーターがものすごく多いんですよ。その中国から新たに「アベンジャー」っていうチートプログラムが出た。ただ、このチートプログラムは今までのものとは違って、アンチチートのためのプログラム、ようするに相手のチートを無効化するチートプログラムになっているんですよね。そもそもチート使うなって話だし、言っちゃえばマッチポンプではあるんだけど、発想はすごく新しい。

 

 

ヌケメ そもそも、そのゲームの構造自体に穴がありすぎな気もするけど(笑)

QUE 本来はそうだよね。ただ、言ってしまえば現実社会の構造も同じくらいデタラメなものでしょう? そういうところも踏まえると、アンチチートチートという概念は一つの発明だな、と感じる。チーターが跋扈しているなら、そのチーターのチートを駆逐するチートを出せばいいじゃないか、と。「アベンジャー」は売り文句もまた傑作で、「魔法に対抗するには魔法しかないと親父が言っていた」って中国語で書いてある。僕はもともとゲーム内でチーター狩りをするくらいチーターが嫌いなんだけど、このアンチチートチートが登場した時は新しいパラダイムが登場したと思ったんですよ。まぁ……、最悪なんだけどね。

 

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(Text by Yosuke Tsuji)

 

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