《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#07「アートもある居酒屋」
北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。
宮川敬一と宇宙飛行士
小倉といえば、小倉城でもなく、旦過市場でもなく、TOTOミュージアムでもなく、Gallery Soapである。少なくとも僕にとってはそうだ。二度の小倉滞在のほとんどの時間をそこで過ごしているのだから仕方がない。次いで思い浮かべるのは、ダボが運営するセレクトショップの〈kabui〉、駅前のストリップ劇場〈A級小倉〉、BABUのアトリエ〈HANG〉あたりだろうか。あるいは、人生で九州を訪れたことが三度しかなく、そのうちの二度が北九州市である僕にとっては「九州といえばGallery Soap」とさえ言えないこともない。偏ってはいる。しかし、この偏向を僕はなかなか気に入っている。
Gallery Soapは面白いスペースだ。そう書いてみて、しかし、何がどう面白いのだろうとしばし考え込んだ。展示プログラムが面白いから、訪れる客が面白いから、ギャラリーなのに常連たちに「居酒屋」呼ばわりされている感じが面白いから、などなど色々な理由を頭の中で挙げつらってみたものの、どうもしっくりこない。どうも表面的な気がする。では、Gallery Soapの面白さとは一体どこに由来するのだろうか。詰まるところ、それは「ディレクターが宮川敬一だから」というひとつの理由へと収斂されていくように思う。
宮川敬一。北九州市八幡西区折尾生まれのこの人物について、僕が知っていることは僅かしかない。1980年代、若手アーティストだった頃の宮川は100発分の精子をキャンバスに塗り込んだ自画像や、臓器売買をモチーフとするインスタレーションを制作していたということ。その後、「葬式を巡る旅」と称してアジア各国の伝統的な死の儀礼をリサーチする旅にでると、その旅先で奇病に罹り、他人の死を追いかけていたはずが幾度か自分の方が死にかけてしまったということ。さらにヨーロッパまで旅の足を伸ばして東ベルリンのスクウォットアパートに泊まり込み、かの地のアナキーな空気をたんまりと吸い込んで帰国すると、地下鉄サリン事件後の自粛ムードの真っ只中だった1996年、街の各所にイタズラを仕掛けるゲリラプロジェクト《パラサイトプロジェクト》を敢行し、大いに世間の顰蹙を買ったということ。その翌年、Gallery Soapを立ち上げて以降は、国内外の名だたるアーティストを招聘して展示やライブを精力的に開催し、その一方で、自身も外田久雄とともにSECOND PLANETとしてアーティスト活動を行いながら、《RE/MAPプロジェクト》、《北九州ビエンナーレ》、《HOTEL ASIAプロジェクト》など、都市の境界を撹乱するような野心的な企画を続々とオーガナイズしてきたということ──。
《human body shop》(福岡市・ミュージアム・シティ天神’96)最新医療機器を用いて身体のデータを視覚化してつくられた、臓器売買のテナント・ショップ。全裸になった宮川の等身大パネルが物議を醸し、展示中止になった。http://www.asahi-net.or.jp/~RY4H-MYMT/work.06.miyagawa.html
もちろん、これらの事実は宮川敬一という人物のほんのアウトラインに過ぎず、宮川について適切に語ろうというなら、『宮川敬一伝』という連載を別に始める必要がある。それは今の僕の手に負える仕事ではない。ここでは宮川敬一もまた、例の国道3号線の歴史にやがて名を連ねるだろう九州の“抵抗者”であるということを確認するに留めたい。さしあたって、今の僕にとって重要なことは、他でもないこの宮川敬一こそがBABUをアートの世界へと引き入れた張本人であるということだ。
雑誌『OLLIE』のインタビュー記事で、「自身に影響を与えた人物」を問われたBABUが、真っ先にその名前を挙げていたのも宮川敬一だった。ちなみに、BABUがもうひとり名を挙げていたのは集団蜘蛛の森山安英で、BABUはその二人のいずれともGallery Soapにおいて出会っている。果たしてBABUにとってGallery Soapとはどういう場なのか? 直接BABUに問うてみたところ、BABUもまた「居酒屋だね」と即答していた。
そう思ってみると、たしかに僕はGallery Soapに行くたびに酒を飲んでいる。僕だけではなく、基本的にGallery Soapを訪れる人はみな酒を飲んでいる。とはいえ、アートを媒介に人が集い酒を酌み交わす出会いの場、といった感じかというと、そうでもない。Gallery Soapには現代アートに肩まで浸かった業界関係者も多く訪れる一方で、アートになんら関心のない近所の兄ちゃんなんかも普通に訪れていて、その両者がなんとなく混じり合って一緒に酒を飲んでいたりする。だから、どちらかと言えば、媒介となっているのは酒かもしれない。アートはむしろ居酒屋の傍らにあるおまけであり、しかし、そのおまけがおまけというには随分とパンチが効いたものばかりなのだ。展示スペースを禍々しく彩っているのは、時にBABUの作品であり、森山安英の作品であり、SECOND PLANETの作品であり、アジアの革命芸術家たちの作品である(※1)。ちなみに僕が二度目に小倉を訪れた際にGallery Soapで開催されていたのは革命家にしてファシストである外山恒一の初個展で、Gallery Soapの壁には外山の政治的スローガンが綴られた宣伝ビラや街宣看板や高校時代の反省文が犇めき合っていた。Gallery Soapにはヨソではなかなか日の目を見ることのない異形の人物、異形の作品が、なぜだか吸い寄せられるように集まっていく。その不思議な吸塵力の源を辿っていった先で飄々と酒を煽っているのが、この宮川敬一という胡乱な人物なのだ(※2)。
2021年、外山恒一展「人民の敵」@GALLERY SOAP
現在、Gallery Soapの運営を回しているのは、基本的に宮川敬一ひとりだ。しかし、以前は違った。その時々に店長が別にいて、宮川もまた店頭に立ってはいたものの、どちらかと言えば展示企画などのディレクションに専念していた。すでに何度か登場している高原宏佑はGallery Soap最後の雇われ店長だ。しかし、高原が店長を務めていた期間は2011年からのおよそ5年間ほどである。世紀末から2000年代、人呼んで“Gallery Soapの黄金時代”を通してGallery Soapの悲喜こもごもを眺め続けてきたのは、その前任者である田中一宇だった。愛称はカズ。取材をはじめてすぐに僕はその名を耳にするようになっていた。「カズなら覚えてるんじゃないかな?」、「そこらへんはカズさんが詳しいと思います」。特にBABUがGallery Soapに訪れるようになった当時に関して、そのように語る人が多かった。しかし一方で、僕が「カズさんに繋いでほしい」とお願いすると、誰もカズのいまの連絡先を知らないようだった。
「カズさん、宇宙飛行士になれたのかなぁ」
なんでもカズは宇宙飛行士になるという理由で2011年に突然Soapを辞めていったらしい。離職理由としてはかなり突飛なようにも思うが、「まあ、カズさんのことだからね」でなんとなく済まされているあたりに、人柄の一端がしのばれる。是非とも話を聞いてみたい。方々にその行方を尋ねてみたところ、果たして僕はカズと繋がることができた。唯一連絡先を知っていたのはSECOND PLANETの外田久雄だった。
現在、カズは40代にして工科系の大学の学生をしている。外田とはかろうじて繋がっていたようだが、それ以外の当時の面々との連絡は学業に専念する上であえて遮断していたらしい。例の「宇宙飛行士」宣言についても、実は半分はネタだった。あのGallery Soapから離れるのだ。「宇宙飛行士になる」くらいの突拍子もない理由の方が、明るく辞めることができる。そう思ってのことだった。
「あいつ、右手を脇に挟んで握手を求めてきたんですよね」
混沌とした記憶の山から探し物をひとつひとつ見つけ出すように、カズはゆっくりとBABUとの馴れ初めを語り始めた。カズによれば、それは2004年のことだった。
駆け込み寺
「最初に来た日、BABUは白い上下のセットアップを着てたんですよ。細身のスーツみたいな感じでキレイめにしてて、だけどストリートっぽさもあって。不思議な雰囲気でしたね」
その夜、Gallery Soapに現れたBABUは、バーカウンターではなくフロアーのテーブル席に腰を掛けると、無愛想に酒を注文したという。
「とはいえ、別に何かをするという感じでもなくただ酒飲みながら座ってるんですよね。しばらくしたら、急に壁の方を眺めて、左手を上にかざして変な動きを始めたんですよ。こう宙で手を旋回するような感じで。その時は、ちょっとイッちゃってる人なのかなと思ったんですけど、あとで思ったら、あれはSoapの壁にスプレーで何を描けるか、シミュレーションしてたんですよね」
当時のBABUは、見るからに若く、また「不良」のオーラを漂わせていた。その頃からSoapには様々なタイプの客が訪れていたが、なかでもBABUはそれまでにあまり見たことがないタイプの客だった。
「その日は、そのまま帰っていって、またしばらくして店に来たんです。その時に『この前も来たよね』って話しかけたら、少しずつ向こうも話してくれるようになって。とはいえ、探られるのは嫌そうな感じでしたね。ただ、どうやらグラフィティライターらしいということだけは話の流れで分かりました」
BABUが不思議な仕方で握手を求めてきたのは、その日のことだった。
「右手を脇に挟んでね。どういう意味なんだろうってその時は分からなかったんですけど、あれはどうも『お前のことをまだ信用していないぞ』っていうサインだったみたいですね。おれはまだ銃を隠し持ってるぞ、という。なんだそれって話ですけど、まあ、ノリが全然違うんですよね。当時のBABUはがっつりストリートの子でしたから」
そもそもBABUはどこでGallery Soapの存在を知ったのだろうか。そこに関して確かなことは分かっていない。ただカズの推測によると「キーボーくんから聞いたんじゃないかな」ということだった。「キーボーくん」とはBABUより少し歳上のスケートボードフィルマーで、以前からたまにGallery Soapに出没することがあったという人物だ。この「キーボーくん」という名前を僕が聞いたのは初めてではない。BABUやMASSAが溜まり場にしていた美容室「TRIBE」の店長MACが、当時のTRIBEに住み込んでいたひとりとして、「キーボーくん」の名前を挙げていたのだ。そう考えると確かにきっかけは「キーボーくん」だった可能性が高い。BABUにも一応は聞いてみたのだが、例によって「覚えてない」とのことだった。いずれにしても、この時から少しずつ、BABUはGallery Soapへと顔を出すようになったようだ。
「始めの頃は本当に無口でしたけどね。周りの客の話に耳をすませてる感じで。ただ多分、三、四度目に来た時だったと思うけど、あいつ家がないって話をしてきて。謎なやつだなと思いつつも、それならそこらへんで寝てていいよって言ったんです。そこから一週間くらい泊まってたのかな。以来、割と話すようになりましたね」
正体不明の若いルンペンにいきなり宿として店を提供するというのは、Gallery Soapらしいなんとも鷹揚な話だ。なぜこの時のBABUが宿無しとなっていたのかは分からないが、これを機にBABUはGallery Soapに馴染むようになり、カズに対しても心を開くようになっていった。
「あいつにとってはアート業界なんて超アウェーですからね。最初はあいつもワケが分からなかったと思いますよ。みんなノリが全然違う人たちなわけだから。でも、ちょいちょいグラフィティの写真とか作品とかを見せてくれるようになってね。見てみたらまあ一風変わってて。少なくとも僕が北九州で目にしていた他のグラフィティとは明らかに違う感じで、素直に面白いなと思ったんですよね。それで宮川さんに、あのグラフィティライター、ちょっと変ですよって伝えたんです」
こうしてBABUは宮川敬一と出会った。ここで少し宮川の話も聞いてみよう。当時のBABUは宮川の目にはどう映っていたのか。
「まあ、見るからに子供って感じだったよね。たまにスケートボードを持って現れるんだけど、いつもひとりでね。初めて話した時に自分が描いたっていう小さな絵を見せてくれたんだけど、そこにあのラインが描かれてたんだよ。へぇ、面白いじゃんって思ってね」
その時にBABUは宮川にある質問をしたという。
「あいついきなり『アートってなんすか?』って聞いてきたんだよ。まあ簡単に説明できるもんでもないし面倒だから、図書館でアートの本でも読んでこいよって言ったんだよね。そしたら一ヶ月後くらいにまた来て、どうやらなにかしら読んできたみたいでさ、今度は『ダダってなんすか?』って聞いてきたんだよ。中学教育も受けてなくてろくに漢字も読めないから、読めるとこだけ飛ばし飛ばしで読んできたんだろうけど、アート史を一通り本で見てダダに引っかかるってあたり、こいつやっぱ面白いじゃんってね。少なくともバカじゃないなって思ったんだよ」
以来、BABUと宮川は会うたびに話をするようになった。当時は特にグラフィティについての話が多く、BABUは来るたびに自分が描いたグラフィティの写真を宮川に見せていた。
「バスキアとか、キース・ヘリングとか、フューチュラとか、70年代後期から80年代初頭のニューヨーク的なやつ。そういうのはあいつも知っててね。よく色々と話してたよ。ちょうどあいつもその頃、いわゆる普通のグラフィティじゃなくてラインばかりを街に引き出してて、それも面白いなって思った。ある時、BABUから頼まれてさ、一緒に車で筑豊や北九州にBABUが描いたラインを撮影しに車でまわったことがあったんだよ。あのラインは生で見るとまた一段とよくてさ。なんか境界をぶっ壊していく感じ。ストリートっていう概念そのものをぶっ壊してるみたいで、こいつはちょっと本物かもしれないってなったんだよね」
自分より22歳も上の、経験も知識も豊富なアーティストである宮川との交流は、BABUの好奇心を大いに刺激したに違いない。もちろん、BABUは宮川やカズ以外のSoapの常連客たちとも交流を持つようになっていた。当時のGallery Soapの常連といえば、前回の終わりでその名を列挙したような、一癖も二癖もあるアクの強い面々ばかり。その頃の小倉におけるSoapの存在について、カズは「駆け込み寺だった」と振り返る。言い得て妙だ。
「音楽関係者やアート関係者も多かったけど、町の規模的にそれだけじゃ成立しないんですよね。アートとかに興味のない人たちも結構きてて、なんていうか、BABUを含めて異物同士が一緒にいる感じがしてましたね。ただ、ああいう場に引き込まれる人たちだから、みんな世の中になんらかの違和感を感じてるような人たちでね、そういう人たちがジャンルを超えて集まってた気がする。そう考えてみると、あそこは『駆け込み寺』なんですよね」
2020年12月、筆者と逆卷しとねがGallery Soapにて行ったトークショー映像。https://www.youtube.com/watch?v=uBpSzmQRvEg
違和感を持てあました有象無象が駆け込む“アートもある居酒屋”では、喧嘩や揉め事も絶えなかったという。むろん、新参者であるBABUもトラブルメイキングには定評がある。時としてトラブルの渦中に巻き込まれることもあれば、BABU自身がトラブルの火種となることも少なくなかった。
「当時は喧嘩とかもよくあったんですよね。BABUもああいう性格でしょう? 老若男女とか関係なく気に食わなければ殴ってましたね。宮川さんを殴ったこともあったなあ。あと、街でチンピラの集団と喧嘩になってSoapに逃げ込んできたBABUをかくまったこともありました。そうそう、Soapで起こった別の喧嘩を止めに入ったBABUが階段から投げ落とされて救急車で運ばれたこともあって。本当にトラブルばっか起こして、なんでみんながあいつを許せているのか不思議なくらいですよ」
若く才能溢れるこの厄介者の登場を、Gallery Soapはなんだかんだと言いながらも歓迎した。しかし、ひとつ気になることがある。そもそも、なぜBABUはGallery Soapの門を叩いたのだろうか。カズはBABUがGallery Soapを訪れた動機についてをこう分析する。
「BABUは別にアートが好きだったというわけではないと思うんですよね。ただ一方で、ストリートにもしっくりきてなかったんだと思う。スケボーとかグラフィティーとか色々とやってたし、それぞれの世界に仲間はいたんだろうけど、あいつのセンスで話せる相手ってあまりいなかったんじゃないかな。どこにもハマってないんだろうなって感じがした。だから、Soapを訪れたんだと思うんですよ。Soap自体が、小倉では浮いた場でしたから」
宮川もまた当時のBABUの印象に触れてこのように話していた。
「おれのイメージでは、飽き飽きしてるって感じだった。ストリートとか、不良の縦社会とか、集団とか、そういうもの全般にうんざりしてる感じ。そういうものと一切関係なく何かをやれる場を探してて、だからアートに接近してきたっていう気がする」
ありていに言えば、その頃のBABUはストリートの日々に退屈していた。倦んでいた。なにか新しい足掛かりとなるものはないかと探していた。そんな矢先、街を彷徨い歩いていた先でたまたま見掛けた“アートもある居酒屋”に、BABUは「駆け込んだ」。MASSAによれば、BABUはスケートボードに明け暮れていた時期も、二言目には「退屈だ」と漏らしていたという。おそらくその態度は、あの国道3号線沿いの夜道をひとりで練り歩いていた子供の頃から、変わっていない。果たして、その退屈の根底にあったものとはなんだろうか。実を言うと目星はつき始めている。だが、それについて書くにはまだ、時期尚早だ。
いずれにしても、駆け込み寺の騒がしい日々は瞬く間に過ぎ去った。やがて初Soapから1年が経とうという頃、BABUは宮川の誘いを受け初めてのギャラリー展示を経験することになる。記念すべきBABUのアート界デビューの場はしかし、Gallery Soapではなく、福岡市の〈WALD〉というギャラリーだった。
「展示タイトルは《SAD SONG》。ルー・リードの曲名。あの曲のさ、『SAD SONG』って歌ってるところを一日中、永遠にループさせるんだよ。頭おかしくなりそうでしょう?」
それは2005年のこと、BABU22歳の冬。
文/辻陽介
編集協力/逆卷しとね
〔註〕
※1 Gallery Soapを構成する重要な要素には、アートと酒ともうひとつ、音楽がある。実際、Gallery Soapにはクラブやライブハウスとしての顔もあり、小倉におけるオルタナティブミュージックの発信地として、これまでに多くのライブ、イベントが開催されてきた。
※2 宮川敬一とGallery Soapについては、以下の記事に詳しい。https://hagamag.com/series/ss0066/8576
✴︎✴︎✴︎
辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。
✴︎✴︎✴︎
〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉
#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」
〈MULTIVERSE〉
「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話
「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー
フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介
「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄
「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生
「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点
「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー
「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー
「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー
「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー
「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行
「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性
「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu
「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫
「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”
「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー
「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る
「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る
「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎
「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美
「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介
「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く
「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎
「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰
「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義