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《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#09「およそ想像しうる最も小さな革命」

北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。

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流通するグラフィティ


 

「僕がSoapに通っていたのは2002年から2004、5年くらいにかけて。通い始めた頃はまだ僕はキュレーターでもない九州大学の大学院生でした」

 どこか青春時代を懐かしむような口ぶりで、遠藤水城は当時を述懐する。その名と仕事については以前から知っていたものの、僕が遠藤と話したのはこれが初めてだった。

「あの頃のSoapは黄金時代で、宮川さんを始め、阿部幸子やソウル兄弟、BABUなんかが集ってて、すごく濃くてやんちゃな雰囲気がありましたね。その感じに僕も惹かれていて、仲良くしてもらっていました」

 遠藤がBABUと出会った場所もGallery Soapだった。二人がSoapに通っていた時期を重ねてみると、両者が出会ったのは2004年か2005年だろうという見当はつく。現在は世界を股にかけ活躍するインディペンデント・キュレーターの遠藤だが、Soapに通い始めた当初はまだ20代の「右も左もわからない」大学院生だった。現代アートと前衛音楽が交差するオルタナティブな雰囲気に惹かれて、2005年の半ばくらいまではGallery Soapにかなり頻繁に入り浸っていた遠藤だったが、美術界の先輩である宮川らの話にただ耳を傾け、学生らしく謙虚に学んでいたわけではなかった。時には先輩たち相手に議論をふっかけ、挑発的に持論を展開することもある「生意気な客」だった。

「BABUくんとはSoapのカウンターでぼーっと話すような感じでしたね。北九州のすごいやつって感じでストリートな雰囲気なんだけど、一方でアート志向が強いんだなっていうのも話の端々から感じてました。2005年に水戸芸術館でグラフィティの展覧会(※)があったんですけど、あの時にBABUくんがすごく対抗心を燃やしていたのを覚えてます。なんでおれが呼ばれていないんだって」

 

※2005年10月から12月にかけて水戸芸術館で開催された《X-COLOR/グラフィティ in Japan》は国内初の大規模なグラフィティの展覧会として知られている。

 

 Soapに通い始めた頃は一介の大学院生だった遠藤も、2004年に大学院を単位取得退学すると、現代アートの世界で瞬く間に頭角を現す。同年に、アーティストの安部貴住、Calamari Inc.の尾中俊介、田中慶二、ミュージシャンのシェーン・ボーデンらと共に福岡市にアートスペース〈art space tetra〉を設立すると、日本財団APIフェローとしてフィリピンやインドネシアに滞在、翌年の2005年にはイタリアの若手キュレーターに贈られる国際賞「Lorenzo Bonaldi Art Prize」を受賞している。アートシーンで徐々にその名を馳せるようになっていた遠藤の存在を、「アート志向が強い」BABUもどうやら意識していたらしい。僕はカズからこんなエピソードを聞いている。

「あれは2007年のSoapでの展示の時だったんですけど、BABUが遠藤さんとか見にこないのかなと僕に言ってきたんですよ。そういうこと言わないやつだから珍しいなって思ったのを覚えてます。それで僕が当時すでに北九州を離れていた遠藤くんに電話してみたところ、実際に遠藤くん、見に来てくれて」

 遠藤もまたBABUが自分を意識していることを肌で感じていたようだ。

「2005年くらいは僕もtetraをはじめていたし、多少、『美術手帖』に名前が載ったり、キュレーターとしてイタリアで賞を獲ったりもしていたから地方都市の中ではちょっと目立っていたんでしょうね。BABUくんからしたらキュレーターをやってる頭の良さそうな人って感じだったのかもしれない。もちろん、へりくだったりは絶対にしない人だから、僕に対してはむしろ突っ張った感じで、かましがちに自分のことをよく話してくれました。それを僕は喜んで聞いていましたよ。すごいやつだなって」

 遠藤がBABUのことを面白がっている様子は、その口ぶりからも伝わってきた。その面白さの源は、BABUが現代アートや前衛音楽の関係者が多いGallery Soapにおいては変り種とも言うべきストリートの不良少年だったから、という一点には尽きない。当時のBABUは、通常イメージされる一般的なグラフィティから逸脱するような試みを様々に行っていた。とりわけ景観をハックする際のアプローチの選択において、BABUの逸脱具合は当時のストリートでも異端だった。そうしたBABUの特異性は現代アートの世界を生きていた遠藤にとっても興をそそるものであったという。なかでも遠藤の印象に強く残っているのが、当時、BABUが密かに行っていた“貨幣グラフィティ”だった。

「よく覚えてるのは100円玉に線を描いて『おれは世界中にグラフィティをばらまくんだ』と話していたことですね。面白いことを考えるなあって感心しました。そもそもBABUくんが言うところのグラフィティは一般的にイメージされるようなグラフィティではないんですよね。スケボーに乗りながら道路に線を引いたり、汚い人形みたいなオブジェをつくってヴィトンのショップに投げ込んだり」

 貨幣グラフィティについては、カズも証言している。カズによれば、当時のBABUは硬貨だけではなく、紙幣にもラインを描いていたらしい。そして、その貨幣を適当な場面で支払いに使用する。するとBABUのグラフィティが人の手を介して流通し、あたかもウイルスのように伝播していくという次第だ。貨幣グラフィティの写真は存在せず、誰も現物を保存していない。だが、BABUのライン入り貨幣たちが現在に至るまで日本のどこかで流通を続けていることを想うと、つい自分の財布の中の貨幣にその痕跡がないか探りたくなってしまう。BABUらしいユーモアに富む、個人的にも好きな幻の作品だ。

「廃墟の展示もそうだし、当時のBABUくんはいろんなことを手探りでやっている感じがしてましたね。大体がひどい嫌がらせみたいなことなんだけど、ストリート的でもありながらコンセプチュアルにも捉えることができて、グラフィティを超えるものがあるなと思ってましたよ」

 


逆万引き


 

 ところで、当時のBABUは貨幣グラフィティに類する拡張的なグラフィティの実践を、さまざまなかたちで展開していた。時系列的には少し前後してしまう形になるが、遠藤らが立ち上げた〈art space tetra〉での展示へと話を進める前に、ここでそのいくつかを紹介しておきたい。

 まず、BABU本人から聞いた、“野良猫グラフィティ”がある。骨子は貨幣グラフィティとほぼ同じだ。BABUがペイントを施した猫用の衣服を適当な野良猫に纏わせ、リリースする。すると、猫の遊歩に合わせてBABUのグラフィティが獣道を伝って移動していく。グラフィティの世界には都市間を繋ぐ貨物列車にグラフィティを描く「フレイト(Freight Train Graffiti)」と呼ばれる行為があるが、他力による水平移動を企図しているという点で、貨幣グラフィティや野良猫グラフィティは、このフレイトのアプローチをBABUなりに応用したものと言えるかもしれない。

 

 

 またカズによれば、BABUは2005、6年ごろに、これらのアプローチを換骨奪胎させた「イタズラ」を人知れず行なっていたという。

「BABUは一時期、山口県の萩市の萩焼きの店に客のフリをして行って、100均とかで入手したなんとなく良さげな陶器にBABUが模様を描き加えたモノを勝手に置いてくるっていう活動をしてましたね。万引きじゃなく逆万引き、勝手に物を置いてくる、という。罪を問われにくいし、何かの間違いで高い値段がついたら面白いみたいな。まあイタズラですよね」

 贋作陶器の消息は杳として知れない。店主によって廃棄されたかもしれないし、あるいは本当に萩焼きと同じ値段で誰かの手に渡っているかもしれない。貨幣グラフィティにせよ、贋作陶器にせよ、この手の「イタズラ」は事後の反応を確かめることが基本的に困難なのだ。しかし一度だけ、その反応を確認する機会があった。それは贋作陶器から数年後、同じような「イタズラ」的介入をBABUがニューヨークにおいて試みた時のことだった。

 そのエピソードを話してくれたのは小倉の京町で《HINT MORE PRODUCT.》というセレクトショップを運営しているシンだった。このHINT MORE PRODUCT.はかつてダボがkabuiを始める以前に働いていたショップでもあり、立地的にも当時BABUたちが溜まり場にしていたTRIBEから歩いて数秒のところに位置していた。実はBABUは2007年頃、このシンと共にあるファッションレーベルを立ち上げている。レーベル名は《DO JAPON》。二人の出会いは2006年に遡る。

「当時、僕の下で働いていた子がMASSAやOGUと仲が良かったみたいで、そのつながりでBABUともなんとなく知り合ったんです。面白いやつだなって思ってすぐに意気投合して、それからは会うたびに馬鹿話をしたり、あんなことしたい、こんなことしたいと、悪だくみをしてましたね」

 BABUのファッションには特異なスタイルがあったということについては、すでに森田貴宏やダボの証言から裏づけられている。BABU自身、ファッションに強いこだわりがあることを自覚していた。それは、シンと互いのファッション論をぶつけ合っていたという逸話から窺うことができる。

「BABUはトレンドに敏感でしたね。ただそこに乗るのではなく、いつも真逆のことを話してました。これが流行ってるということはあれがないということだよね、みたいに常に対極で物事を考えてて。ブランドで言えば当時はゴンズ(Mark Gonzales )やリーチャン(AlexanderLeeChang)が好きで、あと彼はミリタリーオタクでしたね。すごく詳しくてガスマスクとか色々とマニアックなアイテムを持ってましたよ。ナポレオンジャケットをざっくり羽織って街を歩いていたのをよく覚えてます。浮いてましたね」

 レーベル《DO JAPON》は、二人が出会って一年が経った頃、あてどもない四方山話の中から立ち上げられた。

「活動していたのは2007年から2009年くらいと短いし、レーベルと言っても販売はしていませんでした。エキシビジョンやパフォーマンスが活動の中心。損得関係なく面白いことをやろうよ、と。もともとあって要らなくなったものに付加価値をつけるというのがコンセプトで、いろんなものをリメイクしたりしてましたね。BABUは外への意識が強い反面、日本にもかなりこだわってたから、レーベル名にも『JAPON』とつけたんです」

 JAPONを勝手にレップした二人が当時意識していたのは、ニューヨークを拠点に世界中のストリートアートを編纂していたサイト「Worcester Collective」だった。「あそこに届くようなものを作ろう」とよく二人で企画を練っていたという。やがて、企画のなかからひとつの悪だくみが生まれる。その頃、シンが服の買い付けでしばしばニューヨークを訪れていたことから、その悪だくみが実現する舞台はニューヨークに決まった。

「まずステンシルでTシャツを大量に作ったんですよ。どれも日本を象徴するようなデザインで、中にはワサビで染めたようなものも作って。40着くらい作ったのかな。それを僕がバックパックに詰め込んでニューヨークに行って、市内の有名なショップにゲリラ的に置いてくるということをやったんです」

 要は逆万引きシリーズ・世界編といったところだろうか。2008年、シンはニューヨークに渡航すると、バーニーズを始めとする、当時、彼の地で「イケてる」とされていたセレクトショップを巡ってはメゾンのブランドやデザイナーズの商品の脇に、持参したDO JAPONのTシャツをこっそり陳列していった。計画としては以上。計画と言っても、それで何が起こるかは分からなかったし、何も起こらない可能性の方が高かった。ただ、極東の島国で、それも北九州の片隅で、どこの馬の骨とも分からないチンピラ二人が自作したTシャツが、モードの中心地たるニューヨークの高級セレクトショップにしれっと陳列されているという状況そのものが面白い。シン自身、それ以上の面白さを期待していたわけではなかった。

 

《DO JAPON》のTシャツ制作風景(写真提供:シン)

 

 しかし、反応はあった。

 BABUからシンに電話がかかってきたのは、ニューヨークでの「イタズラ」から半年が経った頃だった。

 


およそ想像しうる最も小さな革命


 

「すぐにある雑誌を読んでくれって言ってきて。話を聞いたら、当時、創刊されたばかりだった『PEDAL SPEED』っていうピストの専門雑誌の最新号にニューヨークの有名なContinuumってサイクルショップのライダーがDO JAPONのTシャツを着て写っているぞ、と。すぐに見てみたら、本当で」

 僕もシンから誌面に掲載された写真を見せてもらった。そこには胸に富士山の描かれたDO JAPONのTシャツを着て、満面の笑みを浮かべたヘンリーという名の青年が写っていた。

「どこの店で手に入れたのかは分からないけど、あれはちょっと衝撃的でしたね。こんなことあるんだなって思いました」

 

 

 

《DO JAPON》のTシャツを着たライダー・ヘンリーが掲載されていた雑誌『PEDAL SPEED』。(写真提供:シン)

 

 ほとんどギャグのような話ではある。実際、誌面の写真を前にして二人は大いに笑い転げたそうだ。

 もちろん反応があったとはいえ、それは些細な「イタズラ」の域を出るものではなかっただろう。そのイタズラによって、彼らの生活が大きく変化したわけでもなければ、何か大きなショックを世間に与えたわけでもない。そもそも、ほとんどの人間が何かがそこで起こっていることにさえ気づいていなかったはずだ。だが一方で、この「イタズラ」の痛快さを否定することはできない。シンからその話を聞きながら、僕もまた込み上げる笑いを禁じ得なかった。誰の目にも映らないほど小さいものだったとしても、その時、そこにはたしかに破れ目が生じていた。その時、社会は些細に組み替えられていた。あるはずのないものが、あるはずのないところに、ある。それは言うなれば、およそ想像しうる最も小さな革命の様態だ。

 ただ、この逆万引きシリーズはBABUオリジナルのアイディアではない。おそらく元ネタとなっているのは、バンクシーが2003年~2005年にかけて、テイト・ブリテン、ルーブル美術館、MoMA、メトロポリタン美術館などで敢行した作品の無断展示だろう。BABUがその当時からバンクシーの存在を強く意識してきたということは僕も知っている。だから、BABU自身にとってもこれらの「イタズラ」は、バンクシーの一連の行為を意識した上でのオマージュ、ないしはバンクシーへのアンサーのようなものだったのではないか、と推測する。

 

 

 コンセプトはほぼ同一だ。しかし、そこには僅かな差異もある。ありていに言えば、スケールが違う。バンクシーの行為はあらかじめ衆目の集まる巨大な現代美術のメッカで行われたために実際に大騒動を巻き起こした。これに対しBABUの行為はあらかじめ大事にはならない程度のスケールで展開されているためにほとんどの人には気づかれない「イタズラ」に終始している。そのスケールの差異は、しかし、本質的な差異であるように僕は思う。そしてその小ささは、おそらくはBABUが選択した小ささだ。

 遠藤も述べていたように、BABUはこうした一連のイタズラを全て「グラフィティ」と称している。従来、グラフィティという語が指示してきた表現の範囲からBABUの行為は逸脱しているように思われるが、全くの荒唐無稽なこじつけかと言えばそうでもないだろう。介入の作法において、それはたしかに“グラフィティ”的だ。少なくともBABUにとって、壁に線を引くことと、他人の店に作品を陳列することは、行為として等しい。そして、その際にはスケールが重要な要素となる。ボードリヤールはグラフィティを「記号による支配という新しい形態の価値法則に戦いを挑む」行為だと書いていたが、BABUのグラフィティをこの枠組みに入れてしまうと、スケールが違いすぎて大仰に聞こえる。BABUのグラフィティはもっと小さなところを見ている。もっと小さな変化を企図している。それはほとんど誰にも気づかれないという点において、いわゆる革命のようには見えないかもしれない。だから、それは革命未満の革命、およそ想像しうる最も小さな革命なのだ。

 しかし、BABUはなぜそうも小ささにこだわるのか。あるいは、なぜそのように見えるのか。まだはっきりしたことを書くのは控えたい。BABUのそうした志向性については、この先で幾度も確認することになる。この伝記物語はいまだ序盤なのだ。

 

シンとBABU、《DO JAPON》のTシャツを着て(写真提供:シン、2008年頃)

 

 さて、話を戻そう。様々なイタズラをストリートで展開する一方で、BABUは着実にアートの世界へと足を踏み入れつつあった。Waldでの展示から一ヶ月後、BABUは再び福岡市でエキジビジョンを行なっている。舞台となったのは、遠藤が立ち上げに参加した福岡市の〈art space tetra〉だった。しかし、その企画を立ち上げたのは遠藤ではない。2005年末当時、すでに遠藤は活動の軸足を北九州から国外へと移していて、時折、北九州を訪れることはあったものの、〈art space tetra〉の運営からはやや距離を取っていた。

「当時、電車から彼のグラフィティがよく見えてたんですよ」

 捲ったシャツの袖からチラリと覗く艶やかな和彫。当時を振り返り「BABUくん、好きなんですよ」と振り返るその男は、遠藤と同じく〈art space tetra〉の立ち上げメンバーのひとり、オーストラリア出身のノイズミュージシャン、シェーン・ボーデンだ。

 

文/辻陽介

編集協力/逆卷しとね

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。

 

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〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉

#01「金網の破れ目をくぐって」

#02「残骸と瓦礫の街で」

#03「スケボー怪人」

#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」

#05「爆弾魔たちの宴」

#06「Writing Culture」

#07「アートもある居酒屋」

#08「Creating Friction」

#09「世界で最も小さな革命」

#10「迷惑のかけ方」

 

〈MULTIVERSE〉

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