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HAGAZINE

《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#05「爆弾魔たちの宴」

北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。

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壁の中に走るライン


 

 2021年4月14日。その夜、僕は新橋を訪れていた。銀座蔦屋店内のギャラリーで2日後にオープンが予定されていた森山安英「光ノ表面トシテノ銀色」展のインストールのために上京していた宮川敬一と酒席を共にするためだ。

 約束の時間より少し遅れて駅前の居酒屋に入ると、すでに宮川は何杯か飲み干した後のようだった。隣には高原宏佑の姿もある。高原は早くも酔いどれ、宮川に絡んでいた。

「なんで×××みたいなのが人気あるんすかねぇ、おれには全然わからんすよ」

「まあ、いいんだよ。それぞれなんだからさ」

 BABUと同じ北九州市八幡の出身で、現在は阿佐ヶ谷TAVASAを運営する高原は、2010年代の数年間、Gallery Soapで店長をしていた。つまり、高原にとって宮川は元雇用主にあたり、以来、高原は宮川を「師」と仰いで、上京後も宮川が東京を訪れるたびに、酒を酌み交わしている。

「あ~、わかんね~、BABUさんとか森山さんとかと比べたら、マジで軽すぎですよ」

「あの二人と比べたら食い足りないのは仕方がないって。比べちゃダメだよ」

 管を巻いている二人の傍で、もう一人、思慮深げに酒を飲んでいる見慣れない男がいた。「あ、はじめまして」と挨拶すると、「どうも、Nです」と返ってくる。横に座っていた宮川敬一がすぐに言葉を継いだ。

「Nさんも北九州出身のアーティストだよ」

 N、というのはもちろん仮名だ。現在は東京に暮らしているというNだが、小倉に暮らしていた当時はGallery Soapの常連だったそうで、BABUとも顔馴染みらしい。自己紹介を兼ねて「今、BABUさんの記事を書いてるんですよね」と僕が言うと、「ああ、よく昔、僕の東京の家に泊まってましたよ」とNは言った。

「僕がまだ藝大にいた頃ですけどね。BABUは東京に遊びに来た時の宿代わりにうちを使ってたんです。まあ、いいやつですよね。ただ、あの時ばかりは参りましたけど」

 そう言って、ワケありを滲ませた表情を浮かべる。それは、こういうワケだった。

 

✴︎✴︎✴︎

 

 2000年代の話だという。当時、Nは大学の卒業制作に追われていた。大学内に泊まり込むほど制作も佳境に入った頃、BABUから突然連絡があった。

「ちょうど東京に来てたみたいで、宿を探していたんでしょうね。普段ならアパートに呼んだんですけど、その時は僕がいなかったので、大学に呼ぶことにしたんです」

 間もなく上野の東京藝術大学のキャンパスにBABUはやってきた。Nとしても終わりの見えない制作に疲れ、息継ぎが必要だった頃合い、加えて久しぶりの再会でもあった。「まあ、酒でも飲もうか」と二人は近くのコンビニで酒を大量に買い込むと、大学内のアトリエで飲み始めた。四方山話に花が咲いたせいで少し深酒が過ぎたのかもしれない。気がつけば、Nは眠ってしまっていた。スプレー缶を手にはしゃいでいるBABUの残像が、意識の際から無意識へと呑み込まれていった。

 Nが目を覚ましたのは、早朝だった。

「いや、もう焦りましたよ。目覚まして、アトリエになってる教室の外に出たら、廊下の壁にBABUのあのラインのグラフィティが引かれてたんです。ちょうどエレベーターまで繋がってる感じで。確かに寝る前、そんなことしていたような記憶もぼんやりあったんですけど……、なにぶん酔っ払ってて」

 バレたら退学になる、急いで消さなければならない。そうNが思った時、ふと嫌な予感が脳裏をよぎった。

「まさか、と思って、一応エレベーターを降りてみたんです。そしたら案の定でした。1階の廊下の壁にもグラフィティは続いていたんです。そのラインを辿るように講堂から出てみると、まだ飛び石のように続いてました。歴史のある貴重な建造物とかにもラインが引かれちゃってて、いよいよヤバいぞと」

 結局、BABUのラインは大学構内にとどまることはなく、大学の外、公道側の壁へも続いていき、その終点は二人が昨夜酒を買ったコンビニだった。発見したのが大学関係者の目に留まらない早朝だったということ、そして藝大には塗料が豊富にあるということは不幸中の幸いだった。

「大学の外は諦めるとして、大学内のは消さなきゃと、上から壁を急いで塗りましたね。おかげでなんとかバレずに済んだんですけど」

 焦るNを前に、BABUはやはり笑っていたという。

「まあ、消すのは手伝ってくれましたけどね。本当、あの時は参りましたよ」

 

BABUのライン状のグラフィティ(撮影:宮川敬一)

 

✴︎✴︎✴︎

 

 Nはそう言って苦笑すると、ハイボールをおかわりした。話を聞いていた宮川と高原は大笑いしている。僕もまた笑っていた。

「やっぱBABUさんはさすがっすよ~、そうこなくちゃ。それに比べて×××は」

「だから、そういうこと言わんのって」

 話題はその後、北九州の方言の話へ、足立正生の話へ、北九州人が抱える筑豊人へのコンプレックスの話へと転じ、そのあとはどうなったのか覚えていない。多分、大した話はしていない。

 酩酊に麻痺していく意識のなかで、僕は日本の美術教育の中心たる建造物の壁にBABUのラインが引かれている、という事実が持つ意味について、ぼんやりと考えていた。今日、そのラインを目撃することはできない。だが、その真っ白い壁の古層に今もBABUのラインが存在しているのは間違いない。そう思うと、この壁にも、その壁にも、誰かが引いたラインが眠っているような気がしてくる。あるいは、あの真っ黒なモノリスを前にした猿たちだって、まずはそこに線を引いてみたんじゃないだろうか。ショーヴェよりもラスコーよりも古い、人類最初の壁画は一本のラインだったかもしれない……。いや、深酒が過ぎてしまった。話を戻さないといけない。

 1997年、メディアがこぞって少年Aのサイコセラピーに勤しんでいたあの年、少年Aの同級生にあたるBABU少年は、スプレー缶を片手に人知れず北九州のモノリスの前に立ち尽くしていた。しかし、BABUは独力でそこまで辿り着いたわけではない。

「SATOさん」

 BABUと初めて会った夜、僕がグラフィティを始めたきっかけについて尋ねると、BABUは間髪入れずにそう答えた。

 

 


爆弾魔たちの宴


 

「おれ、取材とかは基本的に受けないんだよ」

 スマートフォンのモニター上にもくもくと増殖する紫煙が映っている。間接照明に照らされた部屋は薄暗い。画面の中央にはカメラからやや距離をとって座る男の姿がある。

「ミューラル(※1)とかあんまやらないし、やっぱりヴァンダル(※2)が好きだからね。ただ、今回はBABUのことだっていうからさ」

 肩の力が抜けている。表情に「いきり」がない。一方、その視線は疑り深く、こちらの表情筋の動きをつぶさに追っている。ここ数年、僕はその手の人間と関わることが少なかったため感覚を忘れ掛けていたが、その顔を見てすぐにそれと分かった。本物の“不良”の顔だ。

「今の仕事はタトゥーがメインだね。あとは裏方でデザインやキュレーション。ただグラフィティは今も現役でバリバリやってるよ。できれば業界最年長のライターになりたいと思ってるからね」

 SATO。斯界を意識するなら、ZEROSYと呼んだほうが通りはいいかもしれない。九州を代表するグラフィティライターの一人であり、DISK、EATER、BNZ、LURK、KYNEなど、有名ライターを多数擁する九州最大規模のグラフィティクルー“M2D”の主宰者。さらに2012年には世界30カ国を旅する中で撮影した各国のグラフィティ写真を一冊に纏めた写真集『JET LAG』を発表するなど、一介のライターという立場を超えて日本のグラフィティカルチャーを底上げし続けているシーンの牽引者。九州のみならず日本のグラフィティシーンを語る上でも欠かすことのできないこの男── ZEROSYと、BABUは1997年、14歳の時に出会っている。

 

『JETLAG』

 

「BABUのことはよく覚えてるよ。こんなちっちゃいガキの頃に知り合ってるから。学校も行ってなくてさ、頭とか緑色のサイコ刈りで。すでにスケボーもかなりうまかった。あいつは正真正銘のストリート・エリートだよ」

 当時を懐かしむようにZEROSYは遠くを見つめる。そこにどんな記憶が渦巻いているのか。おそらくここには書けない話がほとんどだろう。

「まあ全部話してもいいけど、あとでうまく編集してよ」

 そう言って笑うと、ZEROSYは2本目のタバコに火を点けた。再びモニター上に紫煙の幕が張られる。まずはZEROSY本人がグラフィティを始めたきっかけに水を向けてみた。

「たしか19くらいの時だったかな。市内の古着屋で働いてたんだけど、その古着屋の本店がLAにあってさ。ある時、お前、本店行ってこいって言われて、1年くらいLAに行くことになったんだよ」

 ZEROSYは北九州ではなく福岡市の生まれだった。1996年頃、ZEROSYは当時勤めていた福岡市の古着屋「JET RAG」からの辞令を受け、アメリカ西海岸、LAのメルローズアベニューにあるJET RAG本店のサウスセントラル倉庫へと転勤することになる。当時はまだ10代、一介の不良少年だったZEROSYにとって、LAのストリートは魅惑的だった。

「楽しかったよ。日本でもクラブで働いたりしてたから、ストリートカルチャーには触れてたんだけどさ。まあ向こうはその本場だからね」

 彼の地のカルチャーのなかで特にZEROSYの心に強く訴えかけたのがグラフィティだった。JET RAGの本店があったメルローズアベニューは当時「グラフィティストリート」とも渾名された聖地。加えて倉庫があったサウスセントラルはLAきっての重犯罪多発地域として知られていたゲトーだった。世界中の有名無名のライターたちのピースが犇めく壁に囲まれた日々を送るうちに、やがてZEROSYはある思いを抱くようになる。

 

 

「ちょうど人生どうしようかなと悩んでた時期でもあってね。もともと絵を描くのが好きだったし、これをおれのエレメントにしたいって思ったんだよ」

 しかし、すぐにグラフィティライターになったわけではなかった。LAではとにかく多くのグラフィティを観察し、そのヴァイブスを吸収することに努めた。そんな生活も1年ほどが過ぎ、ZEROSYは再びJET RAGからの辞令に従い、日本へ戻ることになる。JET RAGが日本にオープンさせる新店舗でLAでの経験を活かして欲しい──その新店舗こそ、JET RAG黒崎店だった。

「北九州の中でも黒崎はディープなエリアだよね。街を歩けばヤクザにぶつかる。昼間から駅周りで酔っ払いのおっさんが寝転がってる。ルーツも様々ないろんなタイプの悪党がいる。抑え込まれた感情が強くて、福岡に比べてもかなりヤバい街っていう印象だったよ」

 不良には不良の環世界がある。あるいは共通言語を持った人間を群衆から見つけ出す嗅覚のようなものがある。ヨソ者のZEROSYが黒崎のストリートに馴染むのに時間はかからなかった。LA帰り、ちょっとした“JET LAG”もあったのだろう。すでに当時のZEROSYは成人を迎えていたが、本人いわくまだまだ「クソガキ」で、その遊び方も「クソガキ」然としたものだった。

「スケボーしたり、喧嘩したり、悪いケムリを吸ったり、まあ、みんなと同じだよ。そんな感じで黒崎では遊んでて、そのなかでBABUとも知り合ったんだ」

 当時の黒崎のストリートにたむろしていた不良たちの中でも、BABUは群を抜いて「子供」だった。歳上の不良たちに紛れて、隅っこの方でひとりスケートボードに打ち込むBABUの姿に「タフな環境で生き抜いてきたんだろうな」と思ったという。LAで受けた天啓に従い、ZEROSYがグラフィティを実際に描き始めようとしていたのも、ちょうどその時期だ。97年当時の九州にはグラフィティシーンそのものがなく、ZEROSYいわく「原始的」だった。

「東京にはQP(※3)が所属していた“STM”がいたし、神奈川にも“SCA”がいたよね。桜木町なんかにはすでにフルカラーのピースとかもちょこちょこあった。だけど、こっちの方は全然でね。おれと、おれの福岡時代の連れと、BABUと、あと何人かで描き始めんだけど、当時の福岡にはおれたち以外にライターはほぼいなかったと思うよ」

 技術についてもまったくの手探りだった。インターネットもまだそれほど普及していない。ホームセンターからスプレー缶を盗み出し、欧米のグラフィティフォトを参考にしながら、見よう見まねで描き始めた。BABUが年輩のZEROSYたちの傍らで「タギングの真似事」をするようになるまでそう時間はかからなかった。もちろん当時最年少のBABUにまだ自分らしさを表現する力はなかったが、すでに「スピリットとしては今の感じと繋がっていた」という。いずれにせよ、たちまちグラフィティの魅力にどっぷり浸かったZEROSYたちは、その後、毎夜のごとくボムに繰り出すようになっていった。

 

ZEROSYのピース

 

「若かったし群れるのが好きだったんだろうね。しばらくして、おれがクルーをつくろうって言ってさ。いつも一緒に描いてた5人くらいでM2Dを名乗りだしたんだよ」

 後に九州最大規模を誇ることになるグラフィティクルー “MANAGE 2 DESTROY”。立ち上げ時、BABUはその最年少メンバーだった。当時は主に小倉から博多へと向かうJR鹿児島本線の車窓から見える線路沿いの塀を標的に、電車の止まっている深夜帯にボムしては翌日の日中にそれを電車から眺める、というのが鉄板の“楽しみ方”だった。時にはトラックヤードに忍び込み、停車中の電車の外装にボムすることもあったという。下手を打って逮捕されるような仲間もいたが、それは税金のようなもの。グラフィティのもたらす享楽と天秤に掛ければ些細と言っていいリスクだった。むろん、リスクの原因はグラフィティだけではなかった。当時の日々について「あの頃はいつも酩酊していたね」とZEROSYは言う。

「夜にグラフィティスポットに向かうまでは、いつも公園や路上で酒飲んで暴れてたよね。誰かよく分からない奴らともよく喧嘩してた。BABUも相当だったよ。誰よりもまだ小さかったけど、自分よりも何歳も上のチンピラの頭をスケボーでぶん殴ったりしててね。なんせあいつは身体能力が普通じゃなかったから、喧嘩も強かった。あと当時、身内に夜の女の子を抱えてたから、期間越えで廃棄されたキープボトルが大量に流れてきててさ、BABUなんていつもヘネシーをラッパ飲みしてたよ。中学生のくせにね」

 爆弾魔たちの宴についてはきりがないのでこの辺にしておこう。一言だけ追記するなら、ZEROSY本人が認めているように、M2Dは手に負えない「クソガキ」たちだったということくらいか。当時たむろしていた場所を尋ねると、聞き覚えのある名前が返ってきた。「別所公園」。どうやら高原が耳にしていたあの噂にはまだ不足があったようだ。「ヤバい兄弟」の上にはZEROSYという長男がいたのだ。

 

 

「ああ、そうそう。一度、新聞に出ちゃったんだよ」

 ZEROSYたちは線路沿いの塀壁を主なターゲットにしていたが、当然、街中にボムすることもあった。一時期、ある街の商店街を埋め尽くすM2Dのグラフィティが新聞で報道され、その地域で大きな問題になったことがあった。M2Dが計画的にやったのではなく、いずれもメンバー各自が単独でやったボムだったようだが、とりわけ見境いがなかったのがBABUだった。

「やんちゃだったからね、あいつは。問題児だよ。ただね、BABUはそんな感じなんだけど優しいんだよね。素直で曲がったところがなくてさ。おれはかなり可愛がってたと思うよ」

 

ZEROSYのスローアップ

 

 BABUもまたZEROSYを慕っていたようで、事実、知り合って1年少し経ったある時期からBABUはZEROSYの家に住み着くようになっている。

「家に居たくなかったんだろうね、環境的に。兄ちゃんたちもおっかないから。だから、おれも全然いいよって」

 ZEROSYの家を拠点にしたBABUは、夜はグラフィティに、昼はスケートボードに熱中した。傍らにはいつもZEROSYがいて、M2Dのメンバーがいて、黒崎の不良たちがいた。「毎日飲んだくれて、楽しかったよね」とZEROSYは言う。しかし、「クソガキ」と「クソガキ」の楽しい共同生活はそう長くは続かなかった。数ヶ月後、ほんの小さな出来事をきっかけに、二人の関係は破綻してしまう。ZEROSYはいまだにその時のことを深く後悔している。

「二度と街に出てくるなってね、そんなアホみたいなこと言って、おれはあいつをボコボコにしちゃったんだよ」

「おれもクソガキで、あいつもクソガキだったんだろうね」

 モノリスの呪い── あるいは深酒が過ぎたのかもしれない。爆弾魔たちの宴はかくして唐突に終わりを告げる。

 

BABUのライン状のグラフィティ(撮影:宮川敬一)

 

文/辻陽介

編集協力/逆卷しとね

#06「Writing Culture」を読む>>

 

〔註〕

※1 ヴァンダルとは公共物破壊の意。ここでは無許可で行われるグラフィティのことを指している。

※2 ミューラルとは壁画一般の意。ここでは壁の使用許可を得て描かれる壁面アートのことを指している。

※3 東京を拠点に活動するグラフィティライター。

 

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。

 

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〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉

#01「金網の破れ目をくぐって」

#02「残骸と瓦礫の街で」

#03「スケボー怪人」

#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」

#05「爆弾魔たちの宴」

#06「Writing Culture」

#07「アートもある居酒屋」

#08「Creating Friction」

 

〈MULTIVERSE〉

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