《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#06「Writing Culture」
北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。
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新世紀の到来を待たずして、ZEROSYは再び福岡市へと拠点を移した。その後もグラフィティライティングに勤しんでいたZEROSYだったが、その主たる舞台は2000年代に入ったころから国内から海外に転じ、旺盛に世界各地を旅するようになっていく。特に足繁く通ったのはインドのゴアやネパールのカトマンズだった。もちろん、アメリカやヨーロッパのアンダーグラウンドも一通りは巡っていて、たとえばパリではカタコンベのなかでも一般には公開されていないイリーガルな地下通路に侵入し、芸術の都の文字通り“地下世界”を探訪している。
そうした旅の集大成が、第5回でも言及した2012年発表の写真集『JET LAG』だった。表題の『JET LAG』はZEROSYがLAへと向かうきっかけを与えてくれた古着屋の店名「JET RAG」の一文字違い。「文脈が大事なんだ」とZEROSYが言うように、この本では34の都市それぞれに眠っている物語のあいだの微小な文脈のズレ、つまりは“LAG”が、各都市の風景とグラフィティを通じて活写されている。振り返ればZEROSYの半生そのものも“JET LAG”の微睡みをたゆたい続けてきたように思えなくもない。根底においては「一介の旅人」なのだとZEROSYは語っていた。あるいはあの日に起こった出来事も、旅のJET LAGがもたらす微睡みが、ほんの少しだけバッドな方向へとトリップしてしまっただけなのかもしれない。
「おれもあいつもクソガキだったから、お互いにああいう表現になっちゃったんだと思う。それぞれ離れ離れになって、それから10年間は一切会うことはなかったね」
BABUとZEROSYが別離するきっかけとなった「ほんの小さな出来事」の詳細については、ここでは明かさない。取るに足らない小さな出来事が人生を左右してしまうことは往々にしてある。この件もまたその一例に過ぎない。現在、M2Dのメンバーは25人。メンバー選びの基準は画力よりも人間性で、クルーにおける唯一のルールは「仲間を羨まない」ことだという。ZEROSYによれば、「もちろん今もBABUは25人のうちのひとり」だ。10年後の再会のエピソードについては、追ってまた触れたいと思う。
果たしてZEROSYとの喧嘩別れを15歳のBABUがどのように受け止めたのかは分からない。時系列的に言うと、その後しばらくして、BABUはMASSAと出会っている。MASSAと暮らしながらも、時折BABUはひとりでグラフィティを描きに出かけていたというが、MASSAによれば当時はまだBABUの特異な「スタイル」、つまりライン状のグラフィティは生まれておらず、タギングを基調とするいかにもグラフィティらしいグラフィティを描いていたらしい。
「基本的にBABUはいつもひとりで描きに行ってたけど、一度、ラフォーレのトイレの壁を使ってタギングのアルファベットの書き方を教えてもらったことがありましたね。壁がいっぱいになるまで書き続けたせいか、いまだに太いマッキーを使って字を書く時はその時に教えてもらったペンのラインが出ちゃうんですよ」
幾度かMASSAはBABUに撮影を頼まれてグラフィティの現場に同行したこともあったという。
「ビルの屋上とか、廃墟の奥とか、まず辿り着くまでにすごい苦労するんですよ。さらに人がきたら逃げんといかんし。スケボー撮るより全然大変だなって思いましたね」
BABUが10代の頃にMASSAの家の壁に描いたというタギング
周囲のライターたちの目に当時のBABUのライティングはどう映っていたのだろうか。たとえば現在はM2Dのメンバーであり、BABUと同年齢、加えて同時期に同エリアでグラフィティを描いていたEATERは、当時のBABUについて「街でも目立っていましたね」と振り返る。
「BABUの存在を知ったのは僕が小倉によく行くようになった17くらいの時だったと思います。いつも街でひとりでスケボーを走らせていて、まずはそのイメージが大きいですよね。あの特徴的なプッシュのせいか後ろ姿でもすぐにわかりました。プッシュってグラフィティでいうところのタギングに近いと思うんです。BABUの場合は横に広くてゴツい感じ。グラフィティについてもあの頃はまだBABUはタギングを描いてましたから、BABUの名前もそれで認識していましたね」
EATERとはツイッターのDM経由で繋がった。艶のある長髪に俳優のディーン・フジオカによく似た美貌、ZEROSYやBABUともまた違う理知的なクールさを纏ったEATERは、黒崎から少し離れたところにある戸畑という街に生まれている。そのキャリアを少しだけ紐解くなら、EATERがグラフィティを始めたのは1998年、きっかけは当時好きだったニューヨークハードコアのバンドだった。
「ニューヨークハードコアや国内のハードコアバンドのアルバムジャケットが白黒のグラフィティの写真やデザインだったりして、それ見てかっこいいなって思ったのが最初ですね。MQが所属しているDMSっていうニューヨークのグラフィティクルーがバンドのツアーに同行したりもしてて、稀に福岡にもツアーで来てたりしたんです。だから僕の場合はグラフィティの入り口がヒップホップではなくてハードコア、パンクやメタルだったんです」
その頃、戸畑にはほとんどグラフィティライターがおらず、基本的にはひとりで戸畑付近の壁に描いていた。やがてバンド界隈の先輩だったYOUTH-Kが当時小倉で運営していたショップ「CASPER」に出入りするようになると、グラフィティの舞台も小倉を中心とするようになっていく。STARTERというバンドのフロントマンでもあるYOUTH-Kが「CASPER」の後に福岡市の大名に開いた「SQUASH」というショップは、今日に至るまで、M2Dの重要な拠点のひとつとなっている。
「僕がM2Dに入ったきっかけもSQUASHからでしたね。CASPERから大名のSQUASHに移って以降も、僕はよく店に出入りしていたんですが、ある時から海外のスプレー缶の取り扱いが始まったんです。2002年くらいだったかな。その後、ライターたちが店に来るようになり、その中にZEROSYもいました。『この人、絶対にZEROSYだ』ってなんか雰囲気ですぐに分かりましたね。それを機に話をしたり、一緒にボミングをするようになって、そのうちにM2Dのフィロソフィーに惹かれ、僕もM2Dに加入することになったんです」
EATERがBABUと交流を持つきっかけになったのは、EATERがM2Dに加入する前の2000年頃、小倉で時折開催されていた野外イベントだった。その頃はまだBABUがM2Dのメンバーだったことを知らなかったという。
「BABUはあまりイベントごとに出てくることはないんですが、野外でコンパネにグラフィティを描くみたいなライブペイントのイベントにはたまに参加するようなことがあって、確かそういうイベントの中で話すようになったんだと思います。身の上話はあまりしないタイプなんで、BABUがM2Dの立ち上げメンバーだったことを知ったのも、かなり後にZEROSYに聞いてでしたね」
EATERによれば当時のBABUは相当な「聞かん坊」だったようで、至るところで揉め事を起こしていたらしい。EATER自身もまた時にBABUとぶつかることがあったそうだ。
「とにかくBABUは絶対に譲らない人でしたからね。小倉の街のパワーバランスとかにも一切配慮しない。たとえばイベントで『このイベントの名前を描いてくれ』と言われても、『おれはこれを描く』と言って絶対に曲げない。僕ともグラフィティに関することでぶつかったりはありました。基本は僕が折れてましたけど、普通は気にしないようなことをBABUはすごく気にするんですよ。BABUがイベントの途中で塗料をぶち撒けて帰っちゃったとか、そういう話もよくあって、耳にするたび、『ああ、またやっちゃったか』と思ってましたね」
普段のBABUは「愛らしい」キャラで、「すごくピュア」だったともEATERは述懐しているが、ライターとしてはとにかく「破天荒」だった。何事に対しても「前のめり」に挑んでいくBABUの姿勢には、同い年のライターとしても刺激を受けたそうだ。ある時期を境に、BABUのグラフィティはタギングからライン状のグラフィティへと変質していく。EATERは当初、「それってどうなの?」とうっすら思っていたという。
「グラフィティは基本的にレタリング勝負、という考えありきの頭になっていたんだと思います。僕はレターではないラインのみのグラフィティは描いたことはなく、キャラもあんまり描かなかった。まだ若すぎて頭が固かったんでしょうね。グラフィティはレターでしょって思ってたんだと思います」
その頃のEATERの目から見て、BABUのラインは「蛇道」だった。それは本当にグラフィティなのか? EATERはそう疑問に思っていた。しかし後年、EATERはその印象をあらためる。
「紫水会館でのBABUの展示を写真で見て『これは超グラフィティだ』って思ったんですよね。もはやレタリングでもラインでもなくて、ただただ街にあるものがカスタムされて形と意味が変えられていた。変えると言っても決して良くするとかではないし、とはいえ、ぶっ壊すとかでもない。それこそがグラフィティの本質だと僕は思っていたので『ヤバいことやってるなぁ』って思いましたよね」
僕はプロローグに「BABUをグラフィティライターと呼称してよいのかさえ覚束ない」と書いた。その理由はBABUのグラフィティが一般的に思い浮かべるグラフィティとはかなり異なる「スタイル」を持っているからだった。しかし、ZEROSYもまたEATERと同様のことを語っていた。BABUのスタイルがいかに型破りに見えたとしても、それでもBABUは「グラフィティライター」なのだ、と。
「あいつがやってることってパッと見は分かりづらいけど、おれはそれでもBABUはグラフィティライターだと思ってるよ。たとえば《ANACONDA》もそうだし、廃墟に発電機を持ち込んで展示したりもそうだし、あとは山で勝手に温泉を掘ったりなんていうのもそう。おれにはあいつのやってることがグラフィティの進化形に見える。だってポスターとかステンシルとかも、もともとはグラフィティじゃなかったけど今はグラフィティの一部でしょう? 」
現場に生きるものは、えてして柔軟だ。
「そもそも、あいつは誰よりもストリート育ちだからね。あいつがやってることがなんであれ、それはストリートなんだよ」
Writing Culture
ここで少し僕の話をしたい。BABUが北九州でスケボーをプッシュし、スプレーでグラフィティを描いていたあの頃、僕は東京でラップをしていた。17、8年前の話だ。ラップ、といっても都内のクラブイベントで月に2度ほどステージにあがり、Warren Gを丸パクリしたようなトラックに出来損ないのライムを乗せて披露していたに過ぎない。今はなき六本木のNUTSや渋谷のSIMOONが懐かしい。昨年はコロナ禍の影響で円山町のVUENOSもなくなってしまった。いずれも当時よく通っていて、時にステージに上がることもあったハコたちだ。
その頃、僕の周りには色んな人間がいた。ラッパー、シンガー、DJ、ダンサーが多数を占める中で、スケーターやグラフィティライター、バンドマンや大道芸人なんかもいて、多くはそれらを兼業していた。みんなアマチュアで、つまりそれで飯を食えてはいなくて、それぞれに昼の顔があった。大学生もいればサラリーマンもいた。ガテン系もいれば風俗嬢もいた。プータローもいればプッシャーもいた。公務員もいればヤクザもいた。だけど、そうした昼の顔については正直どうでもよかった。インテリもヤカラもダンスフロアーにおいては同じだ。そこでは機会の均等が保証されている。ただし、一方でフロアーには目に見えないヒエラルキーが存在していて、決して平等ではなかった。それを決するプロップスの基準となっていたものとしては、ファッションセンス、踊りのうまさ、音楽についての知識量など、いくつかの要素があったが、総じて言えば、その人物の「スタイル」がイケてるかどうかの一点がすべてだった、と言っていい。
よく覚えている夜がある。僕がレギュラーで出演していたあるイベントの夜に、同じくレギュラーで出演していたシンガーの女の子が、イベント中に“一服”をいれに外に出たところ、路上でしょっぴかれてしまったのだ。ドレッド頭のその子は箱が可愛いからという理由でCAMELを吸っていて、僕はよくその箱に入っていた特製の一本をもらっていた。「スタイル」のある素敵な子だった。それはあえて書くまでもないほどの取るに足らない罪だったが、日本ではその取るに足らない罪に対する量刑が奇妙に重い。その時、僕は彼女が大学生だったことを初めて知り、そして彼女はそのまま大学を退学になった。あの夜、その後のショーケースではもちろん「FUCK THA POLICE」のコール&レスポンスが鳴り響き、N.W.Aの同名の曲に朝日が昇るまでフロアーが揺れ続けた、ということは言うまでもない。
ちょうどそんな頃に読んだ一冊の本があった。ジャン・ボードリヤールの『象徴交換と死』という本だ。たしか映画『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟がなにかのインタビューで映画の元ネタとしてボードリヤールの名を挙げていたことが興味を持ったきっかけだったと思う。今日に至るまでこの『象徴交換と死』はグラフィティアート批評の準拠枠のひとつになっている。とりわけ、当時(本が出版されたのは1976年)最先端だったグラフィティを真剣に批評している「クールキラー、記号による反乱」という章は、現代思想の世界ではライティング・カルチャー分析の嚆矢と目されている。
しかし、当時の僕は一読して「くだらない」と思った。書かれている内容が、ではない。こんなことを晦渋な文体で、なんらかの社会的な意義を持ったものとして書かざるをえない、フランスのおっさんの不能を汚らわしく思ったのだ。目の前に壁があるから描く、そのシンプルなモチベーションこそアルファでありオメガである。そこに一切のエクスキューズは不要なはずだ。そもそも、その屁理屈じみた長広舌をご丁寧に商業出版の印刷物に刷って、世界中に対価さえ伴う形でバラ撒いているという特権についてを、このおっさんはどう思っているのだろうか。もし、おっさんが書いているように、グラフィティが「記号による支配という新しい形態の価値法則に戦いを挑む」行為であり、加えてそれを「政治的にきわめて重要」な行為と評するのであれば、なぜおっさん本人はその壮大なマニュフェストを路上の壁に描かないのか。僕はグラフィティライターではなかったけれど、このフランスのおっさんに限らず、かかる野暮な解釈によって結果的には若者の包摂を試みる善意の大人が嫌いだった。控えめに言っても、その屁理屈は僕たちの無目的な夜を「興醒め」させるものであり、あるいは今日の流行に即して直裁に言えば「うっせえわ」だった。若かった。
時が経ち、何の因果か出版の世界に入り、屁理屈の発信を生業にするようになった今、僕はフランスのおっさん、もといボードリヤールの気分におそらく近づいてる。実際、先日久しぶりに『象徴交換と死』を書架から取り出して読み直してみたのだが、とても面白く読めた。当時感じたような反発心は一切生じず、その先駆的で怜悧な分析にただただ感心した。とりわけグラフィティを都市への刺青だと論ずるくだりは興味深く、追ってこの連載でも引きたいと思っているほどだ。すでに僕は「FUCK THA POLICE」という言葉を聞いてひとりの具体的な人間の顔を思い浮かべてしまう程度には長く生き、現場の向こう見ずなグルーヴ感からはかなり遠ざかってしまった。今の僕には、熱かった過去の記憶をよすがに、せめても言葉を通して今日の現場に関わりたいという善意のおっさんの気持ちがよく分かる。たとえ、それが不能者の綴る官能小説のようなものなのだとしても、いかに言葉を弄せど「うっせえわ」の一言で蹴散らされてしまうのだとしても、だ。
だがしかし、そうとはいえ、現場の言葉に敵うものはない。いまだ現場でヴァンダリズムを実践するZEROSYが、グラフィティの魅力を「小さな力で大きなものをぶちのめせる」ことだと端的に語る時、ボードリヤールの原稿用紙数百枚はたちまち灰燼に帰してしまう。BABUやEATERもまたいまなお現場の人間だ。僕自身、少なくとも人並み以上には身を呈して(それこそ金網の破れ目をくぐって)生きているつもりだが、それでも彼らを前にすれば不能感を禁じ得ない。だからこそ、僕は彼らに惹かれ、彼らについて書きたいと思ってしまうのだろう。BABUの生き様はBABUの作品──たとえば走りながら分岐するあの“ライン”に、本来、全て表れているというのに。
あの“ライン”がいつ生まれたのかについて、周囲の人間の証言はいずれも曖昧だった。あるいは、あの形状が何にインスパイアされたものなのかについても、それぞれが推測を語りはするものの、統一見解を得るには至っていなかった。果たしてあのラインはいつ、いかにして生まれたのだろう。まさにこの原稿を書いている途中、思い立ってリノ経由でBABUに「ライン誕生」の経緯について尋ねてみたところ、予想に反して即座に返答があった。
「18歳くらいの頃、ビルの壁を伝う雨のラインを見て」
斜め上をいく回答、思わず笑ってしまった。そうか、あれは雨だったのか。グラフィティの魅力についてEATERは「いずれ消えてなくなること」だと言っていたが、雨垂れのラインもまた刹那にしか存在しえない。僕はと言えば、BABUのラインを初見した際、先住民族の文様文化、たとえばアイヌ文様に見られる波状の線などを連想していた。アイヌ文様もまた自然を模倣することによって生まれたパターンだが、なるほど、野生の思考というわけか。しかし、それにしても、雨とは……。現場の言葉はいつだって僕のちっぽけな想像力を軽々と凌駕してくれる。
2001年から2003年頃までは、BABUはタギングとラインを同時並行で描いていたはずだ。BABUのグラフィティがラインを軸に展開するようになるのは、MASSAの記憶によれば「《ANACONDA》の少し前」頃だという。《ANACONDA》の少し前というと、つまり2004、5年頃。それはちょうどBABUやMASSAたちがTRIBEを拠点に活動していた時期にあたる。
BABUがスケートボードともグラフィティとも異なる新しいコンテクストに接触していたのはその頃だ。蛇の道の三つめの分岐点──現代アートである。そして、BABUが現代アートに接触する境界域となったのが小倉のアートスペースGallery Soapだった。
BABUはこのGallery Soapにおいて多くの人と出会うことになる。ディレクターの宮川敬一、その相棒である外田久雄、アーティストの阿部幸子やソウル兄弟(丸山勇治、竹野恭章、渡辺郷)、キュレーターの遠藤水城、社会学者の毛利嘉孝、学芸員の花田伸一や岩本史緒、やがて共同制作者となる佐々木玄、そして集団蜘蛛の森山安英。それぞれにそれぞれのBABUとの物語があり、BABU観があり、BABU伝がある。しかし、まず最初に耳を傾けるべきは“宇宙飛行士”の話だろう。いや、正確には、“宇宙飛行士見習い”か。
その男はGallery Soapに1999年に入り、2000年代を通して店長を務め、2011年に「宇宙飛行士になる」という理由でSoapを辞めていった。名を田中一宇という。BABUが初めてGallery Soapを訪れた日、バーカウンターに立っていたのは、この男だった。
文/辻陽介
編集協力/逆卷しとね
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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。
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〈BABU伝 北九州の聖なるゴミ〉
#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」
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