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HAGAZINE

《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ|#04「ALL I NEED IS STREET SKATING」

北九州のストリートを縦横無尽に這い回り、瓦礫を足場に自在に「線」を張り巡らす、“不自由”で“自由”な異端のアーティスト・BABU。その数奇なる軌跡を、HAGAZINE編集人・辻陽介が追う。

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プッシュ


 

 BABUがスケートボードを始めたのは、BABUが「スケボー怪人」と出会うずっと前、1995年、BABUが12歳の時だった。例によってBABU自身の記憶は曖昧模糊としている。しかし、二つ歳上のイッペイがスケートボードを始めたのが中学3年生の時で、その後まもなくBABUもその傍らでスケートボードに乗るようになったという証言から推測すると、そういうことになる。

 果たして当時の様子はどのようなものだったのか。まずはBABUが病気になる前に受けた数少ないインタビュー記事の一つ、『Ollie』2017年11月号の10ページに及ぶBABUの特集記事から言葉を引きたい。

「超ヤンキーの兄ちゃんがスケボーしてて、襟足が長い髪型でサブロク(フリップ)してたっていう」

「当時は第三次スケートブームだったから、すっごい(スケーターが)いたんですよ。地方だけど、300人くらいいたんじゃないかなっていうぐらい」

「ドレッドを中1でやって、内田ボブを聴いたりしてましたね。で、ドレッドに北島三郎のTシャツ着てスケボーみたいな」

 ドレッドヘアーの12歳というのも物珍しいが、サブロクを決めるヤンキー頭もなかなかだ。ちなみに、この『Ollie』の記事は、特にストリートにおける活動遍歴に関してBABU自身が言及している、唯一の資料と言っていい。以降、折に触れて参照したいと思う。

 

『Ollie』2017年11月号

 

 さて、イッペイの話によると当時、少し先にスケートボードを始めていた年輩のイッペイたちが、歳下のBABUに手取り足取り滑り方を教える、というようなことはなかったようだ。兄とその友人たちが滑っている傍らで、BABUはいわば勝手に、見よう見まねで、スケートボードという新しいおもちゃと戯れていた。もとより人並み外れた運動神経の持ち主だ。技術においてイッペイたちと肩を並べるまでに時間はそうかからなかった。

「まあBABUは運動神経は良かったからね。すぐうまくなったんじゃないかな。兄弟全員、割とそういう感じやったけど」

 その頃のBABUたちの練習場は一つではなかった。北九州にはいくつかのメッカ(有名なスケートボードスポット)があり、時に地元から離れたメッカに視察を兼ねて出向くようなこともあったという。だが、得られたいくつかの証言から推察するなら、その頃、主に使用していたのは地元・黒崎の別所公園という公園だったと思われる。たとえば、BABUと同じく八幡地区の生まれで、現在、東京の阿佐ヶ谷でTAVASAというイベントスペースを運営している高原宏佑は、別所公園をめぐってまことしやかに交わされていたという、ある噂を耳にしていた。

 

高原宏佑が所属するバンド「LA imaginations」(高原は下段左)

 

「当時、地元の不良たちの間で、別所公園をスケボーのシマにしてるヤバい兄弟がいると噂だったんです。近づいたらボコボコにされるぞ、と。それがBABUさんたちでした。なんでも暴走族ですらあの公園には近づかなかったって聞いてます」

 イッペイ、そしてBABUが、少年時代、地元では名の知れた不良だったという噂は、いくつか別の筋からも聞いている。高原の地元の友人でも何人かがその“被害”に遭ったことがあるらしい。BABUに直接水を向けると「まあ、バンディットよね」と言って笑っていた。集まったエピソードはいずれも公に書くことが憚られるようなものばかりだが、当時のあの北九州で名が知られている、という状況から、推して知るべしといったところだろう。

 だが、板を介した兄弟の蜜月は長くは続かない。FESNの森田貴宏はBABUの滑りに触れて、こんなことも言っていた。

「あれはひとりぼっちでスケボーと対話してきた奴の滑りだった。大げさかもしれないけど、スケボーに涙した奴のスケボー。そういう感じに見えた」

 実際のところ、そうだったのだろう。BABUがイッペイたちとともにスケートボードで遊んでいた期間というのは、実は短い。イッペイいわく「おれたちはスケボーを始めたのも早かったけどやめたのも早かった」。ありていに言えば、早々に飽きて、離脱してしまっていた。けれど、BABUはすでにスケートボードの虜だった。兄たちから離れたことによってむしろ、BABUのスケートボードへの没頭はいよいよ深まっていった。

 この独り立ちが関係しているのかはわからない。やがてBABUのスケートボーディングは、後に森田貴宏をして驚嘆せしめたような、特異な「スタイル」を獲得していく。そして、その「スタイル」の真骨頂は「プッシュ」にこそある、としばしば言われる。プッシュとは、スケートボードの基本的な技術の一つで、片足をボードに乗せ、残った足でアスファルトを蹴ることによってボードを走らせる、その動作のことを言う。いわば、スケートボードに乗る者なら誰もが行う当たり前の動作でもあるのだが、そのプッシュにおいて「BABUのは格別なんだ」と語るものは実に多い。確かに、スケートボードに明るくない僕でさえ、BABUのプッシュには瞠目した。たとえば2017年の映像作品《GOHI!》。天神地祇を叩き起こすように双葉町の不毛の地をプッシュする、BABUの右脚の獰猛さたるや。鑑賞時は、あたかも魂の内壁を土足で踏み荒らされたかのような、不穏な感動を得たものだ。

 

BABU《GOHI!》2017

 

 一方で、BABUはオーリーを始めとする華やかなトリックをあまり用いない。できない、のではなく、しない。そのスタイルの基本形が確立された時期は定かではないが、僕はかなり早い段階だったのではないかと想像している。退屈だった黒崎の街路で、いつ終わるとも知れないひとりぼっちの暗夜行路に、BABUは倦んでいた。その頃のBABUにとって、スケートボードとはまず、退屈が飽和する夜を駆け抜けるための第三の足だったはずだ。その点、派手なトリックに浴びせられるオーディエンスからの喝采よりも、誰も追いつけないくらいのスピードで地をただひたすらに駆けるプッシュの土臭さの方が、BABUの性には合っていたのではないだろうか。

 もちろん、BABUのいたストリートにはその頃、ラッパー、DJ、サーファー、ダンサー、暴走族、ストリートギャング、果てはヤクザまで、多種多様なトライブがいた。だから、森田が言うところの「ひとりぼっち」とは、飽くまでもBABUのアティテュードに留まる。あるいは、BABUの常軌を逸したスケートボードへの熱が、否応なしにBABUに精神的な孤立を強いていた、とも言えるかもしれない。実際、当時のBABUのスケボー熱はもはや酔狂の域に達しつつあったようだ。一時期などは寝る間を惜しんで、昼夜の別もなく、滑り続けていたという。再び『Ollie』のインタビューからBABUの言葉を引く。

「スケボーはバカみたいにやってたっすね、本当に。1日18時間~19時間滑って、みたいな。バカだったんで、52ミリとかの小っちゃいやつでひたすらプッシュっすよね」

 

 


ALL I NEED IS STREET SKATING


 

 BABUの古くからの友人であり、あの《ANACONDA》の共同制作者でもあるMASSAこと武末昌太を、僕に紹介してくれたのは宮川敬一だった。現在、MASSAはスケートボードフィルマーとして映像制作プロダクション「NEW OLD」を主宰し、小倉の雑貨店「UMIE+」内の一部スペースにて同名のスケートボードショップを営んでいる。小倉訪問時には会うことが叶わず、ZOOM越しの対面ではあったのだが、MASSAの温厚そうでおおらかな雰囲気はBABUとは好対照だった。ちなみに、YouTube上にもいくつかMASSAの作品が上げられているのだが、そのセンスは抜群だ。たとえば《moonrisekingdum》。路上に忘れられ、風にたゆたうビニール袋のように、スケートボードが道の上を舞っている。身体と環境のコントラストが淡く、多義的で、一編の詩のようなのだ。

 

 

 MASSAがBABUと出会ったのは、BABUがスケートボードを始めてから数年後のことだった。

「レゲエが掛かったラジカセを肩に担いでものすごいスピードで鬼プッシュしてたんですよ。朝から晩までスケボーしてたからか体は真っ黒で。年下っぽいのにすでに独自のスタイルが出来上がってて、すげえうまい人だなって印象でした。その時は話しかけることができませんでしたけど」

 自分より学年としては二つ下の、当時15歳となっていたBABUを初めて目にした時の印象を、MASSAはそう述懐する。先にも書いたように、その頃、北九州にはいくつかスケーター達にとってのメッカと呼ばれる場所があった。MASSAがBABUと再び遭遇したのは、そのなかでも最も有名なラフォーレ原宿小倉店(すでに閉店)前のスペースで、BABUはこの時も一人で滑っていて、「どこか人を寄せつけない雰囲気」を発していた。

「BABUは本当に一匹オオカミなんで、いつも一人で色んなところに滑りに行ってたみたいです。一体こいつはどんな奴なんだろう、酒飲んでみたいなって思って。ちょっと近寄りがたかったんですけど、声かけてみたんです」 

 

2007年に閉店したラフォーレ原宿小倉(画像引用:http://blog.livedoor.jp/yotiky/archives/23319961.html

 

 MASSAの柔らかでフラットな物腰が、BABUの野生的な警戒心を緩ませたのだろうか。二人は奇妙に馬が合い、すぐに打ち解けた。高校進学はおろか中学校にも通った試しがなく、ずっと「一匹オオカミ」だったBABUにとって、MASSAは個として立ちながらも肩を組める初めての「相棒」のような存在だったのかもしれない。スケボーのメッカがある小倉に通うには、MASSAが暮らしていた八幡東区の方が実家よりも便が良かったこともあって、間もなくBABUはMASSAの家に入り浸るようになると、やがてそこで生活を共にするようになった。

「事情はよく分からなかったけど、あんまり実家にも帰りたくなかったみたいですね。で、気付いたらうちにBABUが住み着いてた感じです」

 それからというもの、二人が一緒にいる時間のほとんど全てはスケートボードに惜しみなく捧げられた。日中は北九州各地のスポットを巡り、連日、足が動かなくなるまで滑り倒した。金が尽きたらMASSAの実家の工務店でバイトし、金が貯まり次第、すぐにまたスケートボードに没頭した。夜には名だたるスケーター達のビデオを酒の肴にし、それに飽きたらマーク・ゴンザレスやジェイソン・ディルについて明け方まで語り明かした。あてどもない四方山話に紛れて「おれたちでスケボーの映像を撮ろう」と、やがて《ANACONDA》へと結実することになるアイディアも萌芽していた。

 

 

 

 さらに2000年頃になると下関出身のスケーター・OGU(モグ)もそこに合流し、MASSAの家で寝食を共にするようになる。

「OGUの登場は小倉のスケーターシーンに新しい風を吹かせていましたね」

 そうMASSAが語るように、OGUは当時のスケーターの中でも「スタイリッシュなトリック」を基調とする独自のスタイルを持ったスケーターだったようだ。OGUは下関にいた頃に、当時所属していたスケータークルーで映像制作をした経験がすでにあり、その事実はBABUとMASSAを大いに刺激することにもなった。

 やがて、3人の拠点はMASSAの家から小倉の京町にあった特殊ヘア専門美容室「TRIBE」(現在は弁天町に移転)へと徐々に移行していった。リッパーアートの第一人者であり、自身もスケーターだった、赤いドレッドヘアーの店長MACこと久富浩史の存在は、この頃のBABUたちにとって極めて大きい。

「北九州の若いスケーターはみんな弟みたいなもんでしたから」

 Facebook越しに唐突に声をかけた僕にMACは気さくに応答しくれた。MACのいう「弟」という言葉にはいささかの誇張もなく、当時、MACは自分よりも若いBABUのようなスケーターたちに住処を与えるだけではなく、時にはその生活費を工面することもあったようだ。「一度、BABUが寝てる時に蹴った布団がストーブに触れて火事になりかけたんだよね」と笑って語ることができる器量の大きさが、行くあてのない若者たちを吸い寄せたのかもしれない。当時のTRIBEにはスケーターのみならず、ダンサー、サーファー、パフォーマー、DJなど、ストリートを背景にもつ若者たちが多くたむろしていたという。BABUはその中でも「末っ子」にあたる存在で、「いつも気がつけば行方不明になっているタイプ」だったそうだ。

「まあ、当時のTRIBEは僕たちにとってクリエイションのヤサでしたね」

 そうMASSAは振り返る。現在MASSAが自身の映像スタジオとスケートボードショップの名義にしている「NEW OLD」という言葉も、実はこの頃にBABUやOGUとの会話の中で、誰からともなく生まれたものだという。当時はいつも何かを企んでいたという3人にとって、「NEW OLD」はひとつの合言葉のようなものだった。

 かくして、TRIBEに入り浸るようになって数年が経過していた2005年、MASSAは期間工によって蓄えた資金を元手に、あらためてTRIBEの一部をMACから借り受ける形で映像事務所を立ち上げる。期を同じくして、BABUたちの作品制作もまた、いよいよ本格化していくこととなった──

 

BABU(撮影:MASSA)

 

「現場仕事をして、スケボーの板が買えて、靴が買えて、あとジュースが飲めれば生きていけると思っていました」

 若き日の“スケボー熱”について、BABUは『Ollie』のインタビューに対してそう答えている。

 実際、2000年前後のBABUの暮らしは明らかにスケートボード中心にまわっていた。“ALL I NEED IS STREET SKATING”。小倉のストリートを、MASSAやOGUと共に、雨にも負けず風にも負けず、「ひたすらプッシュ」していたその時期を、「青春時代」という手垢にまみれた言葉で括ってしまうことは許されるだろうか。すでに前方には《ANACONDA》の巨大な体躯が、夜の街への出立を控えて脈打っていた。

 しかし、ここで一旦、立ち止まりたい。確かに当時のBABUはスケートボードに熱中していた。だが、BABUが熱中していたのはスケードボードだけではなかった。MASSAやOGUと起居を共にしながらも、BABUは時折、一人で街へと出かけ、路地の狭間へと吸い込まれていった。BABUの引いていたライン── それはアスファルトを焦がすスケートボードのウィールによるものだけではない。《ANACONDA》へと話を進めていくために、ここで再び時間を遡り、BABUの引いた別のラインも辿っておく必要がある。

 スケートボードを始めてから1年半ほどが経とうとしていた1997年、BABUはアメリカの西海岸から帰国したばかりだというある人物に出会っていた。間もなくその男は、この北九州の地に現在に至るまで残る九州最大規模のグラフィティクルーを結成することとなる。MANAGE 2 DESTROY──、通称 「M2D」。

 

 

文/辻陽介

編集協力/逆卷しとね

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。

 

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