logoimage

蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

ハチスノイトは声を媒体に「言葉以前の世界」を表現する。神話を紡ぐ「蓮の糸=ハチスノイト」をビッグヒストリアンの辻村伸雄がたぐる。

 


 

 

本稿は、桜美林大学リベラルアーツ学群「自然理解(ビッグヒストリー)」講座が、2020年12月12日にゲスト講師にハチスノイトHatis Noit(ヴォーカル・パフォーマー)を招きオンライン上で実施した、2020年度 第2回ゲスト講義「言葉以前の世界を歌う」を記録したものである。なお、同講座の主催者は桜美林大学教授の片山博文、ゲストであるハチスノイトの聞き手は同講座相談役の辻村伸雄が務めている。

Edit|Yosuke Tsuji     Header Image|Özge Cöne

 


 

芸術やサブカルチャーもビッグヒストリーの表現

片山博文 今回は今年第2回目のゲスト講義です。この授業は毎年2・3人のゲスト講師の方をお呼びしているのですが、毎年必ずアート関係の方をお招きするようにしています。というのは、ビッグヒストリーは学問に限られるものではない、芸術やサブカルチャーもビッグヒストリーの重要な表現であると考えているからです。

今日お呼びしたのは、ハチスノイトさんというヴォーカリストの方です。ハチスさんの歌はとても不思議で、「言葉」がない。声だけで表現する歌、というか音楽なのです。なぜビッグヒストリーの授業に、ハチスさんをお呼びしたのか。今回のゲスト講義の趣旨は、大きく二つあります。

第1に、「ビッグヒストリーは現代の創造神話である」という言葉の意味を考えることです。これは、ビッグヒストリアンのデイヴィッド・クリスチャンが述べた言葉です。彼はこう言っています。かつて「私は何者か?」「われわれはどこから来てどこへ行くのか?」という人々の問いに答えてきたのは、様々な創造神話であった。ビッグヒストリーは、科学的知識に基づいて、現代の起源物語=オリジンストーリーを語ることにより、こうした問いに答えようとする試みである。

 

 

これを私なりに言い換えるとこうなります。神話とは、世界と知識的にではなく実存的に関わることにより「存在」を感じとるための方法である。そしてビッグヒストリーもまた、そうした実存的に世界と関わろうとする試みである。ビッグヒストリーは、単なる科学的知識の寄せ集めではない。それは宇宙空間から地球を見る「宇宙的視点」や、「ディープタイム」という悠久の時間意識を通じて、「存在」を感じとることである。

そして、私たちがビッグヒストリーの表現としてアートにこだわるのは、単なる科学的知識から神話の世界=存在の世界へと踏み込むための手ほどきを、優れたアートがしてくれるからです。ハチスさんは、まさにそうしたビッグヒストリー的なアーティストだと私たちは考えています。

第2に、人間中心主義、言語中心主義を問い直すことです。現代では、地球規模の環境問題の深刻化の中で人間中心主義が反省的にとらえ直されています。人間中心主義がいつから始まったのかは難しい問題ですが、その直近の起源として近代の「科学革命」が挙げられるでしょう。自然の探究によって自然を支配し、人類に福利をもたらすことを主張したベーコンの「知識は力なり」という言葉や、世界を心と身体という二つの世界に分け、自然界の諸現象を機械として理解するデカルトの心身二元論や機械的世界観は、科学革命の思想を代表するものです。

そこでこうした人間中心主義を問い直すに、「言語」とは何か、というところまでさかのぼって考えたらどうなるか。これまで授業で見てきたように、人類は言語によって他の動物にはない能力を身につけ発展してきました。人間の言語がもたらす優れた能力を、ハラリは「認知革命」、クリスチャンは「コレクティブ・ラーニング」と呼びました。まさにベーコンの言葉を用いれば、「知識は力なり」の前には「言語は力なり」があったわけです。

しかし、この「言語」が実は同時に、さまざまな問題の始まりではないのか。そこで、あえて「言葉」を用いずに声だけで音楽表現を行っておられるハチスさんに、「言葉」や「言語」というものをどのように考えているかお伺いしようというのが、今回のゲスト講義のもう一つの趣旨です。

今日のゲスト講義は、いつも私が授業運営その他でお世話になっている、国際ビッグヒストリー学会理事、アジア・ビッグヒストリー学会会長の辻村伸雄さんに対談者をお願いし、ハチスさんと辻村さんの対談という形で進めていきたいと思います。ではお二方、どうぞよろしくお願いします。

 

知床の森での交感

辻村伸雄(以下、辻村) 辻村伸雄と申します。本日は対談形式の講義ということで、僕が対談の相手役を務めさせていただきます。よろしくお願いします。

ハチスノイト(以下、ハチス) はじめまして。ハチスノイトと申します。よろしくお願いします。

辻村 では、早速ですけど、まず最初に、ハチスノイトさんのことを知らない方もいらっしゃると思いますので、ハチスさんのこれまでの歩み、半生について、僕から質問させていただきます。

僕は動画やラジオを含めて、ハチスさんのインタビューを見れるものは全てさせてもらったんですが、ハチスさんの表現活動を考える上では、三つくらいの大きな原点があったのではないかと思いました。その一つが、北海道の知床での経験です。なんでも知床の森で迷われたことがあったそうですね。その時のお話をお聞かせいただけますか。

ハチス はい。まず私が持っている知床の記憶には二層あって、というのも、私は生まれたのが知床で5歳までは知床で育ったのですが、その後、母の実家である大阪に引っ越しているんです。だから、子供時代の知床の記憶はクリアーではなくてぼんやりとしています。ただ、体感的に得たような記憶は残っていて、それは知床の温度や風土、景色、場所の持つエネルギーというような、はっきりと意識はできない感覚的な部分、そういうものが最初の記憶としてあるんです。

もう一つの記憶の層は大人になってから見た知床の記憶です。今言ったように私は子供の頃に知床を離れてしまったんですけど、20歳くらいの時に一度、知床に戻ってみたことがあったんです。それまで一度も戻ったことがなかったので、およそ15年振りの知床でした。こういうところで自分は生まれたんだということは、まあ知っていたし、引っ越してからも写真で見たり母から話を聞いていたりもしていたわけですが、ただはっきりとしたビジュアル的な記憶は残っていなかったので、それをあらためて見てみようと思って短期滞在で向かったんです。その滞在中に私は森で迷子になってしまったんです。

私が生まれたのは知床のウトロというところで、知床半島の北側の小さな漁村なのですが、その日は知床の南側、羅臼の方にいました。森に入ったのはちょうど日没前、少し暗くなってきている時間帯で、羅臼の森へは森の中にある天然温泉を見ようと思って向かったんです。知床にはカムイワッカの滝など天然温泉が至るところに沸いているんですよね。羅臼の森の温泉もそういう天然温泉の一つで、私はそこを目指して森の遊歩道を歩いていたんですが、徐々に暗くなっていく中で、歩道の境目が見えなくなってしまって、気づけば遊歩道を外れて森の中へと入り込んでしまっていたんです。

どんどん空は暗くなっていくし、結構寒い時期でしたので、これは本当に死んでしまうかもしれないと怖くなってきて。当然、焦りますよね。地面とかも結構グシャグシャで、その中をなんとか遊歩道に戻ろうと彷徨いながらも必死に走って…。最終的になんとか元歩いていた道へと戻ることができたのですが…、あの時に体験した感覚は今でも鮮烈に残っています。やはり死をそれまでになく近くに感じたんですよね。あたりからは色んな動物の声も聞こえていて、どんどんと周りはダークになっていって、本当に怖くて。でも、その一方で、恐怖すると同時に感動している自分もいたんです。

その時、私が感じたものは人工的なものからはすごく離れていました。風の音や、濡れた土を踏みしめる音、肌寒さとか、木々のざわめきとか、鳥たちの声とか、全てが有機的で、五感の全て、いや、五感だけじゃなく、それをさらに超えたセンスを刺激してくるようでもありました。どこか自分の感覚も開いていて、自分の周囲を取り巻いている森という場所と交信しているような感じもあって。あの生と死のあいだにいるような不思議な感覚、そして私を取り囲む景色のものすごいエネルギーの強さが、その後もずっと自分の心の中に残っているんです。

その迷子の経験は大人になってから得た経験ではありますけど、あの時に得た感覚は記憶の第一層、5歳までの私をとり囲んでいたものたちの感覚的な記憶とも繋がるような気がしています。あるいは自分の個人的な記憶だけではないような気もする。私が生まれる前の人たちだったり、私と同時代に生きている全ての人たちの中にも、この記憶と同じような記憶があるように私には思えています。恐怖や喜びや美しさがないまぜになっていたあの記憶というのは、それこそ人間の身体には過去から綿々と受け継がれてきた遺伝子がありますけど、その遺伝子の中にすでに刻み込まれているものなのではないか、と。それは場所も時間も超えたような懐かしい景色や記憶に繋がっていくような体験で、その時の感覚が私の中では創作の原点の一つになっています。つまり、「私」という個人を超えた何かみたいなものと繋がって、私という枠を取り払っていけば、より普遍的な何かを作れるんじゃないか、と思っているんです。

辻村 今すごく大事なことを語っていただきました。一つは「交信」という言葉です。僕の言葉では「交感」です。僕はよく言うんです。コミュニケーションなんて言葉はもう古いと(笑)。これからはコミュニケーションの時代ではなくてコミュニオン(communion)=交感の時代だと。つまり人間とだけ通じ合うというのではなくて、人間以外の存在とも何か通じ合っている、交わっている。それが交感です。

ハチスさんは森の中で、自分を取り囲む生き物や生き物以外の存在と交感された、交わる体験をした。これはとても興味深いです。そして、ハチスさんはその体験をものすごく微細に、その時に感じたこと、気持ちを含めて鮮やかに記憶されているんだなと思いました。覚えているということは、それだけ色々なことを感じとっていたということですよね

もう一つ、ハチスさんは以前にインタビューで知床の風景を「原風景」という言葉で表現されていましたが、今、その原風景とは単にハチスさん個人の原風景ということではなく、全ての人の中にあるものなんじゃないか、人々の無意識の中にある風景なのではないかということをおっしゃいましたよね。とても神話的だなと思いました。神話というものは単に誰かが創作したお話とかそういうものではなく、神話が生まれるに至るまでに、たくさんの人の中に埋もれていた普遍的な何かがモチーフとなっているんだと思うんです。神話には意識して何かを作るというよりも、知らない間に共有されていたもの、無意識のものが表出するという面がある。

神話学者ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』に面白い話がありまこの対談集の中で彼は、自動車はすでに神話の領域に入っている、つまり神話の素材になりうるんだということを言っているんですね。なぜなら自動車は夢の中に出てくるからと。つまり、みんなの夢の中に出てくるくらい、無意識にまで浸透しているものは、神話の素材になるということなんです。ハチスさんが今おっしゃったことは、そういう集合的な記憶や無意識に通じているように思います。

 

 

ネパールの歌う尼僧

辻村 では次の原点についてもお伺いしたいんですけど、ハチスさんは10代の頃、ネパールに行った時の体験をインタビューで繰り返し話されてますよね。

ハチス はい、ネパールへは高校生の頃、母に伴って行きました。私の母は日本語の教師をしていて、普段は日本で留学生の外国人の方を相手に日本語を教える仕事をしています。この年は母が学校の夏休みを利用して、ネパールにボランティアで日本語を教えに行くことになって、それで一ヶ月半くらい、私も一緒に行くことになったんです。その旅の中で訪れたのがルンビニという村でした

このルンビニというのはインドの国境に接していて、あのブッダが生まれた村と言われている地でもあります。菩提樹があったり、ブッダの産湯を汲んだとされる池が残っていたりと、そういうところでした。

辻村 ハチスさんはルンビニで尼さんが歌っているのを聴かれたんでしたね。

ハチス ちょうどここを訪ねていった時に泊まらせていただいた場所があって、それが尼さんがやっている小さな寺院に併設された簡単な宿泊施設だったんです。本当に質素なお部屋だったんですけど、朝起きたら、外から歌が聞こえてきて。それは女性が歌っている声で、その声がすごく綺麗で、私はとっさに部屋を出て庭に向かって、どこから聞こえてるんだろうと探していたら、庭の先に小さな部屋というか建物があったんです。それで、そっと中を覗いてみたら、そこで女性が一人で歌っていたんですよ。

最初、私はすごい綺麗な歌だなと思ったんです。ただ、後からわかったのは、それは歌じゃなくて、チャント、お経だったんですよね。ただ、私が日本でそれまで聞いてきたお経とは全然違うもので、メロディーがあって、しかも女性が一人きりでチャンティングしている。それがものすごく美しくて、えもしれぬ強さのようなものを感じたんですね。マイクもスピーカーもない、クワイヤみたいに合唱隊がいるわけでもなくて、たった一人で静かに小さな部屋の中で歌っている、なのにそれがものすごく強い、そういう人間の声が本来的に持っている力強さ、エネルギーみたいなものを感じ、すごく感動しました。それは後から振り返ってみると、私自身がものすごく歌というもの、あるいは人間の声というものが持つ力に興味を持ったきっかけになったような気がします。

辻村 いいですねえ。10代の感性が鋭敏な時に体験したことが心の奥に残り、いつしか芽吹いている。視線を下に滑らせると、ああ、あの時の体験が種だったのかと気づく。原点としての体験が自分の奥底に残り、それが時間を経て現在の体験へと生長する。一人ひとりの中にある、そういう体験の連なりと内面の階層そのものが、時間の経過が可能にする芸術と言えるかもしれません。

 

ハチスノイトの音楽的ルーツ

辻村 では最後の三つ目の原点について伺いたいのですが、それはハチスさんが影響を受けた音楽についてです。ハチスさんは本当に色々な音楽の影響を受けてこられたと思うんですね。プロフィールを拝見するとバレエや演劇もやられてて、箏曲(そうきょく)や雅楽、民謡なども学ばれている。歌っているのを聴いているとオペラのような歌唱もされています。それらはどこかで学ばれたものなんでしょうか

ハチス 基本的に歌唱法については独学が多いですね。ひたすらたくさん聞いて、自分でまねしていくという感じが多い気がします。ただ雅楽に関しては私は京都の大学に通っていたんですが、その大学に雅楽会があって、神社さんに週に何回かお稽古をつけてもらっていました。当時、私がやっていたのは篳篥(ひちりき)という楽器で、箏(こと)はもっと前、高校時代に稽古を受けていました。他にも奄美の民謡を習いに行ったり、インドにラーガの歌のレッスンを受けに行ったり、とにかく色々なものに興味があって仕方がなくて、手当たり次第(笑)

辻村 へえ、それは面白いですね。僕は民族音楽やワールドミュージックが好きだったこともあって、ハチスさんの音楽を聴くと、色んな音楽から影響を受けているなと感じるんです。あ、これはグレゴリオ聖歌だな、とか。とりわけ一番影響を受けたハチスさんが言われているのがメレディス・モンクです。何歳くらいのメレディスの音楽に出会われたんですか?

ハチス 初めてメレディスを聴いたのは大学生の頃だったと思います。「こういうの好きだと思うから聴いてみて」って友達から貸してもらったのがモンクのCDで、衝撃を受けましたね。これって音楽なんだろうか、と。それまでも好きで色々な音楽を聴いてましたけど、そのどれとも違いました。彼女の声の使い方はただ綺麗なだけではないんです。すごく奇妙で、パワフルで、お行儀よく整っているだけじゃなくて、声というものがいかに自由で力強いものなのかということを教えてもらった気がしました。

辻村 僕も大学生の頃、初めてメレディスの『Volcano Songs』を聴いた時は衝撃でした。今、ハチスさんが「これが音楽なんだろうか」と思ったとおっしゃってましたけど、なんいうのか、メレディスは歌というものからすらも解放されていて、「ヒトはこういう音を鳴らすことができる生き物なんだ」というところにまで行き着いているんですよね。ハチスさんはご自分でシンガーではなくヴォーカル・パフォーマーと名乗られていますけど、メレディスはまさしくそういう感じで、歌を歌うというより、人間の身体を用いて鳴らしうる全ての音を鳴らしているような感じがします

 

 

ハチス そうですね、本当に(笑)。私も「なぜ声の音楽をしているのか」と聞かれることもあるのですが、声というのは人間にとって最古と言ってもいい楽器だと思うんです。声は同時に人間にとって身体的に最も近いところにある楽器でもある。声とは喉の声帯から鳴らす音ですから、それはつまり身体によって音を作っているということなんです。自分にとって最も親密で身体的な楽器であって、自分自身にきちんと繋がらないといい音を出せない。声はそういう面白い楽器なんだと思います

さっきなぜ声に興味を持ったのかという話を少ししましたけど、声にはやはり独特の強さがあると思います。その強さの理由が、「身体からきているということにある。身体からきているということは誰一人として同じ声を持っていないということでもあります。近い声があるとしたら家族ですよね。私もよく電話とかで「お母さんかと思った」って言われたりするんですけど、やっぱりDNAによって似た声帯を持って生まれてきているんだと思います。そういう意味でも声はものすごいオーガニックな楽器だと思いますね。

辻村 僕は以前、インタビューで、音楽、とりわけ集団歌唱は、何の武器も持たない人類の祖先が、肉食獣から屍肉を奪い取るための手段として始まった、という話をしたことがあります(※)。声って道具がなくて出せる音なんですよね。自分の身体一つあれば出すことができる。だから、ハチスさんが声は最古の楽器と言っているのは、そういう音楽の起源、根源に通じていると思います。

※かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を喰らった──生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー(HAGAZINE) https://hagamag.com/uncategory/6222

 

此岸と彼岸を結ぶ蓮の糸

辻村 ここまではハチスさんの創作の原点について、いくつかお話を伺ってきましたが、その後のハチスさんの経歴についても少しお聞きしたいです。大学を出た後は東京でバンド活動をされていたんですよね。「夢中夢」というバンドと「Magdala」というバンドでヴォーカルされていた。ただ、途中からソロへと軸足が移っていって、2014年にはハチスノイト名義での最初のアルバム『Universal Quiet』を出されています。そこでまずハチスノイトという名前の由来についてお伺いしたいのですが。

 

 

 

ハチス 「ハチス」というのは日本の昔の言葉で「蓮」を意味する言葉なんです。だからハチスノイトとは蓮の糸のこと。表記上はワンワードになっていますけど、本来の区切りとしてはハチス・ノ・イトなんです。というのも、ハチスの茎の部分を引っ張ると中から白い糸が出てくるんですね。ハチスノイトとはこの白い糸のことなわけですけど、このハチスノイトには仏教にある古い説話があるんです。

 

蓮の糸(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/Commons:Community_portal

 

蓮の花って池にポッと浮かんで咲いていますよね。そして、茎の部分は水の中へと伸びていて、深いところに根を張っている。こうしたの形状からその説話ではハチスの茎の糸が池の水面を堺にこちら側の世界とあちら側の世界、此岸と彼岸を繋いでいる、と語られているんです。それを聞いた時、自分の作りたい音楽を表すパーフェクトな言葉を見つけたと思ったんですよ。

というのも、音楽というのは、まさにこちらとあちらを繋ぐ、そういうことをするものですよね。確かに音はその場で鳴っているんだけど、その音、音楽を介して私たちはどこにでも繋がっていくことができる。その空間だけに限定されずに、記憶の中の風景だろうと、死者の世界だろうと、違う世界へと繋がっていくことを音が可能にしてくれる。それが、音楽の持つ力だと思うんです。ハチスノイトという言葉にはそうした音楽の持つ力が表されているように思っていて、今でもすごく気に入っている名前です。

辻村 なるほど。確かに音楽には雰囲気やモードをガラっと変えてしまう力がありますよね。その音が鳴ってる時と鳴ってない時で世界の見え方そのものが変わってしまうというか、全く違う場所に変えてしまうこともあれば、それによってさっきハチスさんが言われていたような自分を超えたものに繋がっていくような感覚を与えてくれる時もある。

キャンベルも似た話をしていました。ニューヨークのマンハッタンにある教会についての話です。その教会があるのは世界一忙しいビジネス街の雑踏ひしめく大通り沿いなんですが、いざその教会にふって入ってみると、そこには暗闇と静寂が支配する全く違う空間が広がっている。つまり、モードが一瞬で変わってしまうんですね。お金儲けや出世のことを考えて歩いていた人も、そこに入ると否応なしに違うことを考えさせられる。神や永遠に思いを馳せることができる。そういうようなことをキャンベルは言っている。今のハチスさんのお話も、そういうモードの変化を起こす力についてのお話だと思いました。

さて、ソロへと転身を遂げたハチスさんは、その後、2017年にロンドンへと移住されています。そして、その翌年、2018年にEP『Illogical Dance』を世界同時リリースし、世界デビューを果たされました。やはり現在はヨーロッパでの公演が中心になっているんですか?

 

 

 

ハチス そうですね。イギリスを拠点にヨーロッパでのパフォーマンスが多いです。フェスティバルでは西ヨーロッパだけでなく旧ソ連圏のウクライナ、ジョージア、カザフスタンなどに呼んでもらうこともあって、地域ごとのアートシーンの違いやその土地の伝統的な音楽や文化に触れることも多く、とても刺激的です。こちらはアーティストインレジデンシーのような様々な国での滞在制作プロジェクトも多いので、制作のインスピレーションには事欠かないです。恵まれていますね。

次の動画はオーストリアのグラーツという街のアートフェスティバルに参加した時のものですが、フランス人の映像監督ヴィンセント・ムーン氏との滞在制作で、現地の大聖堂や、普段は封鎖されている戦時中に作られた壕の中で演奏をさせていただき、ドキュメンタリー作品を制作しました。

 

 

辻村 一番最近のものですとLondon Jazz Festival 2020への出演ですよね。動画を見させていただきましたが、本当に素晴らしかったです。

ハチス ありがとうございます昨年はロックダウンもあり、これも約7ヶ月ぶりのライブでした。すごく緊張したのを覚えています。同時にオーディエンスの方と一緒に場を作るライブがどれくらい自分の表現にとって大切なものだったのか、再確認できた貴重な機会でもありました。

 

 

人間/言語と非人間/非言語の〈宇宙的往還〉

辻村 それでは、ここから今日の本題と言いますか、ハチスさんの音楽についての深い話に入っていけたらと思うんですけど、その前に僕のほうから少し話をさせてください。

それはハチスさんの音楽とビッグヒストリーの実践のどこが共通しているのかという点です。ビッグヒストリーの一つの重要な肝は、人間を人間の歴史からだけ考えるのではなく、生命の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史へと目を向けた上で考えることなんです。

たとえば歴史学では通常、文字によって書かれた史料が重視されるわけですが、文字が現れる前の歴史はもちろん文字には残りません。生命の歴史を知るためには化石やDNAを調べる必要がありますし、地球の歴史を知るためには岩石や地層を読み解く必要がある。宇宙の歴史を知るためには天体観測も必要です。それらはどれも人間の言葉では書かれていません。つまり、生命の歴史や宇宙の歴史のような大きなスケールの歴史を知りたいなら、人間の領域、言葉の領域を超えていかざるを得ないわけです。

しかし、ビッグヒストリーは、人間の領域、言語の領域を超えた大きな歴史を見るところでは終わりません。そこからまた人間に戻ってくる。人間を超えた大きな歴史について目を向けた後、あらためて人間という存在をそうした大きな文脈の中に位置づけ直すんです。そのことで初めて見えてくるものがある。僕は最近、これを〈宇宙的往還〉(a cosmic round trip)と呼んでいます。

ハチスさんもこの〈宇宙的往還〉をされている。ハチスさんの音楽にはまず歌詞がない。言葉を使ってないんですね。じゃあ何かと言うと、声なんです。言葉抜きで声だけで歌っている。ハチスさんの音楽は、基本的に自分が発した声と、その声を加工した音だけで作られています。ライブではルーパーという機材で、その場で自分の歌声を録音し、それをループさせる。そこにさらに自分の声を重ねていくことで、一つの音世界を作られている。

どうして歌詞がないのか、言葉を使わないのかと言うと、言葉にならない感覚を表現したいからだ、とおっしゃっている。ハチスさんが言うには、人間は普段言葉と論理によって会話している。しかし、自然の中では言葉にも論理にもよらない会話が行われている。しかも、その会話は一つだけではなくて、葉ずれの音、風の音、色んな音がミルフィーユのように重なり合った複層的な会話がなされている。知床の森での話もそうでしたよね。ハチスさんはそうした自然の言葉にならない会話を声で翻訳するんだ、と言っています。

これはシャーマンがやっていたことと同じです。人間の世界、言葉の世界を発って、人ならざる者たちの世界へ赴き、彼らと人間の言葉を用いずに交わり、その体験を、人間の世界に戻り、人間に理解可能な神話や音楽や儀式に翻訳する。それがシャーマンのやっていたことです。ですから、神話やシャーマンがやっていたこと、ビッグヒストリーがやっていること、ハチスさんがやっていることは、時代や形の違いこそあれ、本質的には同じじゃないかと思っているんです。

ハチス 今おっしゃっていただいた通りで、私が知床の森の中で聴いた音というのは、いわゆるサウンドだけではなかったと思うんです。もっと抽象的なエネルギー、それこそ木が持っている、空気が持っている、水が持っている、動物たちが持っている力強さというのが、そこには確実に存在していた。そしてそれはなにか自然のエレメンツたちが交わす独特な会話のようにも聞こえる。だけど、そのエネルギーや会話というのは言葉にしよう、言語に翻訳しようとした瞬間に完全に失われてしまうという風に私は感じていて。あそこで私が感じたエネルギーを完璧に言い表せる言葉というのはない気がするんです。だから私は自分の歌において言葉を用いないという選択をしています

先ほど私の『Illogical Dance』という作品を紹介してくださいましたが、この「Illogical(イロジカル)」とは、つまり、ロジカルではないということです。リーガルに対してイリーガルみたいな感じです。ただ、このイロジカルという言葉は普段はネガティブな文脈において使われることが多いんですよね。何バカなことを言ってるんだよ、その話は全然論理的じゃないよ、みたいな感じで。でも、私はこの言葉をここではポジティブな言葉として使っていて、というのも、ロジックというものを使うことをやめた瞬間に私たちは何かから自由になれるような気がしているからなんです。

ロジックは常に言葉と共にあって、言葉というのは常に表したいものが先にあり、それを他者へと伝達するために用いられるものですよね。昔の人間が同じ群れの仲間に危険を知らせる時、それは早く、効率的に伝達される必要があります。言葉はこうした「伝達の効率性」を考えたにはとても素晴らしいツールですが、だからこそ、そこに最初にあったはずのとても豊かな情報の大部分は「言葉を使うこと」によって失われてしまう気がします。

 

(出典)https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B3%E3%81%A8%E5%9C%B0-542555(小学館/日本大百科全書)

 

ご覧いただいているのはゲシュタルト心理学などでよく用いられている有名な図ですけど、この図が何に見えるかという時に、ある人はグラスに見えるし、ある人は二人の人が向き合っているように見える。ゲシュタルト心理学ではこの現象を「図と地」と言います。この図がグラスに見える時には私たちの目には二つの顔が捉えられなくなっていて、逆に顔に見える時には今度はグラスが見えなくなってしまう。これはどういうことかというと、私たちの意識はどこかに焦点があってしまうと、その瞬間に焦点にあっているもの以外のものを全て失ってしまうということなんです。

この現象は私たちが言語を用いることで起こっていることとすごく似ているなと思うんです。言語を使った瞬間に失ってしまうものがあり、それが私たちの言語の限界なのだとしたら、私はそれを使わないことを選びたい。もちろん日常生活では言葉を使うわけですけど、表現をするという時に、その限界を一度、取り去ってみたいんです。そうすることで生まれる可能性というのは、音楽、あるいは表現するということにおいて、とても大きい。ものすごくパワフルな効果があると私は思っています。

辻村 言ってみれば「地」というのは背景のことであり、「図」というのは背景の前面に浮き上がってくるもののことですよね。この絵の場合、黒の部分と白の部分のどちらを「地」と見るか、どちらを「図」と見るかで見えるものがまったく変わってしまう。

今、ハチスさんがおっしゃったのは、世界はとても豊かな情報で満ちているのに、言葉はそこから目についた一部のものだけを名指して切り取ってしまう。そうすることで、僕たちはその切り取ったものにフォーカスできるんだけど、その時、それ以外のものは失われてしまっている。ちょうどグラスにフォーカスしたら二つの顔が見えなくなってしまうように。そういう話だと理解しました。

ハチス そうですね。音楽を作る上で、自分が何を伝えたいんだろうと思った時に、簡単に記号的に言葉で表せるような「愛」であったり、「悲しみ」、「暖かさ」みたいなものではなく、それがそのように表現される前に本当あったもの、その深さを含めて全て伝えたいというのがあるんです。それが言葉を使わないという方法によって、私が探求してみたい可能性なんです。

 

感覚を開く

辻村 なるほど、よくわかります言葉によって切り取られる前の世界の豊穣さを掬(すく)い取りたいということですよね。今のお話の先にメレディス・モンクの話繋がってくるように思います。ハチスさんはメレディスのワークショップにも参加されたことがあるんですよね。それは割と最近の話ですか?

ハチス はい、たしか去年(2019年)だったと思います。ニューヨークから12時間ほど電車で行ったところにThe Garrison Instituteという施設があり、ここでは色んなワークショップが開催されているんですけど、彼女もここでワークショップをやっていて、私も参加してみたんです。

 

(出典)https://meredithmonk.org/education/workshops-with-meredith-monk

 

こんな感じのお堂のようなところでみんなでメレディスを囲んで行うんですけど、参加して驚いたのは、私の認識ではメレディスというのは音楽家で作曲家であり歌手であるという風に思っていたので、彼女のワークショップと聞いた時には音楽のワークショップだと思っていたんですよ。歌をみんなで習うとか、少なくとも作曲法を習うとか、そういう内容のものだろう、と。でも実際には違って、メレディスはそれよりも前の段階のことを時間を掛けて教えていたんです。つまり、音楽になる前の、表現になる前の、その素(もと)になるものとして、私たちが何をどのように世界からキャッチできるのかということ。そのことを、色々な方法によって教えてくれるんです。

ワークショップなので、みんなで身体を動かしたりと色々して、空間全体を使っていくんですが、多分、動画の方が雰囲気が伝わるかもしれません。

 

 

この動画の三つ編みの方がメレディスなんですけど、生き生きしてますよね。座って作曲論を教えるとかそんな形では全然なくて、こうやって参加者同士、身体を使って、踊りながら、今自分が感じていることをどんな風に音に変換できるのか、まさに体験していくんです。重要なことは間違ってるとか上手いとかではないということ。メレディスはもちろん音楽理論学ばれたアカデミックな方でもありますけど、そういうことを教えるのではなく、いかに私たちが自由に創造的であれるのかということをまず教えてくれているんです。本当に感動的でした。

ワークショップではビックリするようなシーンもありました。参加者は基本的にみんな素人ですから、自由に踊ってみても、いわゆる上手なダンスではないんですね。それぞれが感じたことをただ自由に身体を使って表現していくわけですが、そういうワークってある人にとっては強すぎたりもするんですよね。というのも、私たちの日常生活においては、ここまで自分の感情や周囲からのインスピレーションを繊細に感じとったり表現したりという機会ってそうはないですよね。それを3日間のワークショップを通してやり続けていくということは、ともすれば刺激が強すぎることでもあって。ある参加者の年配の男性が途中で突然倒れられてしまったり、あるいはある若い女の子がエモーショナルになりすぎてパニック発作を起こしてしまったり、そういうことが何回かあったんです。

普通、そんなことが起こったらビックリしますけど、ただ、メレディスという人はそういう時でもすごく冷静で、静かにその状況を受け止めていくんですよ。そして、すべての人に気を配っているんです。ワークショップでは50人くらいの人が一堂に会していて、その部屋のいたるところで同時に色んなことが起きているわけですが、メレディスはその全てにアウェアーで、だから突然に部屋の隅でそういうことが起こっても、彼女はすぐにそれに気づけるんですね。聖徳太子が10人の人の話を一気に聞いたという逸話がありますが、そういうのに近い感覚の開き方だと思います。メレディスがそのようだから、みんなも落ち着いて対処できて、そうした彼女の空間への対し方、人への対し方がすごく印象的でした。

辻村 今のお話はさっきの「図と地」の話と繋がりますね。地には元々色んなものが含まれているんだけど、僕たちは普段それをあまりアウェアー(意識)しないようにセーブしてる。それは、それによって自分を守っているんだと思うんですね。あまりの情報量に混乱してしまわないように、一部のものだけにフォーカスして、図を切り取って、情報量を減らして、感覚を麻痺させることで、日常を送っている。いわば省エネです。これはこういうものだとして、わかった気になって、言葉を使って、それで済ませているわけです。

それに対してメレディスのワークショップで行われていたのは、もっと自分の感覚を開いて、神経を研ぎ澄ませて、世界に対して意識を巡らせてみるという実践だと思うんです。それは自分を赤ちゃんに近い状態に置くようなものですよね。目に入るもの全てがあたかも生まれて初めて見るかのように「これはなんだ?」という状態。あるいは目だけでなく、耳に入るもの、肌に触れるものをあらためて感じとっている状態まるで知らない惑星に急に生まれ落ちたような、そういう感じ。そうするとものすごく膨大な情報が突如としてバーッと流れ込んできてしまう。すると、もう溢れ出しちゃうっていうか。普段、それだけのものを処理してないから感覚が驚いてしまう。そういう感じですよね。

ハチス そうですね。きっと音楽以外にもそういうものがあるのでしょうけど、音楽というものも、私たちをそういう状態に導いてくれるきっかけになるというか、その可能性を開く力を持ったものなんだろうと思います。

辻村 それは多分、人間というものがこの世界に生まれて、何かを感じ、何かをする上で、全てに関わる普遍的なことなのだろうと思います。

 

 

意識の〈表現〉から無意識の〈表出〉へ

辻村 ところで、先ほどハチスさんが過去のインタビューの中で「自然の中の言葉にはならない会話を歌に翻訳するんだ」とおっしゃっていることに触れましたが、それは一方で意識的な作業でもあるわけですよね。感覚したものを歌に変換していくというプロセスを、ハチスさんは意識的に行われている。その点、僕はハチスさんの録音された音源よりもライブのほうが好きなんです。より凄さを感じる。というのは、今言ったようなハチスさん自身の中で意識化できている部分とは異なる、身体の中から湧き出てくるような感覚の部分が、ライブにおいてはより顕著に際立っているように思うからなんです。それは意識的に何かを〈表現〉するというより、無意識に何かが〈表出〉してくるような、そんな部分です。声を重ねていく快楽そのものにハチスさんが突き動かされているような、自分の声に誘われて次の声が生み出されていような、自分という穴を通して得体の知れない何かが現れてくるような、そんな感覚があるんじゃないかと想像するんですが、いかがでしょうか。

ハチス それはすごくありますね。ライブは私にとって儀式のようなもので、舞台の上にいてパフォーマンスしているのは私なんですけど、一方通行で何かを見せているというよりは、実際にはその空間とそこにいる人々と有機的なコミュニケーションをしているような感覚があって、だから、毎回出てくるものが違うし、それがライブにおいては大事なことだと思うんです。曲としてはある程度は構成が決まっている曲をやっているわけですけど、常に半分はインプロ(即興)にしようと思っていて、それは私がバンドから離れていった流れにも重なっているかもしれません。なんか完全に細部まで決められた作曲があると、私はすごく冷めちゃうんですよね。それをなぞらなければならない、間違ってはいけない、上手くやらなければいけないみたいな、そういう意識が強くなってしまって。だから、私のソロに関しては曲の構成としてはある程度作り込みつつも、ライブで歌う上ではある程度インプロにしています。それによってその時に感じたことをその場で出すことができるように、空間から感じるエネルギー、オーディエンスから感じるエネルギー、あるいは相互作用的に発生している何かを、即座に声に乗せていくことができるようになる。今の私にとってはそれがすごく大事なことで、そういう意味では年々変化してきたところはあるように思います。

辻村 ハチスさんはステージ上で裸足で歌われてますよね。そういうところも、今のお話と何か関係があるのかなと感じます。靴を履かず、直にを踏みしめることで、そこから伝わってくるものに感覚を開いていくような、そういうところがあるんじゃないかな、と。

ハチス 私、個人的にすごく緊張しいなので、そういう意味でも踏みしめる感覚がすごい大事なんですよね(笑)。そうじゃないと、すごくフワフワしてしまう。フワフワしてしまうのは意識が外に向かっているからなんだけど、歌うためには拡散した意識をもう一度、自分の内側へと引き戻す必要もありますから。外にばかり向かってしまえば自分がいなくなってしまいますよね。その上でも裸足で地を踏みしめることが大切なんです。

辻村 その感覚すごくわかります。僕も地面を踏みしめると大地と繋がっているような感じを得ます。何かそこから力をもらっているような。あるいは自分を通して何か他のものが出てくるような、そういう感覚をもらえる。それで緊張が和らいだりすることがあるんですよね。

 

わからなさを大切に

辻村 結構いい時間になってきましたので、そろそろ対談を締める方向に向かっていきたいのですが、最後に、ハチスさんのほうからこれを聞いている学生たちに向けて伝えたいことがあれば、今日のまとめとしてお話いただければと思います。

ハチス まず、今日はこういう形で私の話を聞いてくださってありがとうございます。皆さん、多分私のことを知らなかったとは思うんですけど、せっかくこういう機会をいただけたので、どういうことを私から皆さんにお伝えすることができるかなと、今日までずっと考えてきました。その上で、自分の制作と結びつけてお伝えできることがあるとすれば、さっきお話した言葉のことだなと思ったんです。

私たちが普段生活をしていく中では言葉というものがすごい重要ですよね。それを否定しようということでは全くないんです。さっきの辻村さんの言葉でいうと「省エネ」モードに入ることは、円滑に日々を送っていく上で必要だと思います。ただもしも、皆さんが何かを表現する、その前の段階で何かからインスピレーションを受け取るという時に、言葉というものにすごく気をつけなければならないと最近は特に思います。

というのも世の中にはたくさんの情報がありますよね。そのほとんどのものが言葉を通じて、つまりすでに切り取られた形で入ってくると思うんです。映像であっても、その映像は誰かによって切り取られたものですよね。省エネという言葉がまさに表してるように、人々の理解を促すため、円滑なコミュニケーションを促すため、元々あった豊かなものが単純化されて伝えられ過ぎているように感じるんです。皆さんにはそうした単純化に是非気をつけていただきたいなということが今日一番お伝えしたいことでした。

確かに単純な情報はわかりやすく、それによってまたこちらのエモーションも強く刺激されると思うんです。最近の時事的なことでいうと、フェイクニュースの問題などもまさにそうですよね。ものすごく単純でセンセーショナルにまとめられた情報が本当に多く出回っています。これが人気になるというのもすごくよくわかる。でも、もしも私たちがものを作ろうとするなら、もしくは何かを本当の意味で理解したいと思うなら、その手前に一度戻って、もう一度、自分の感覚を開いていく必要があると思います。ただ、この「開く」ということはある意味でちょっと危険なことでもありますよね。なんのフィルターもない純粋な自分で情報を受取るとなると、感覚を襲う洪水のような情報量に圧倒されてしまうということもあるかもしれません。ただ、それを一度受け止める強さ、わからないものをわからないままにまずは感じてみる強さ、そうした強さが今求められているのではないかという気がするんです。まず、その「わからなさ」から考えること、表現することを始めていく。今日、そうしたことが最も大事なことなんじゃないかと私は思っています。

それから、これから皆さんが社会に出るには、おそらく自分を売りこんでいかなきゃいけないですよね。その時にも気をつけてほしいなと思うことがあります。たとえばアーティストであれば、私はロックをやってますとか、ポップスをやってますとか、自分からジャンルを名乗ってしまう人っていると思うんですけど、それはもったいないなっていつも思うんです。それこそポップスを作るぞって作り始めちゃう人もいますけど、でも、ポップスってそもそも誰がその枠を決めたんでしょうか? それは私たちの中にあったものではなくて、外側の社会が便宜上作りだした枠なんですよね。何かを作る時に、誰かが作った枠に基づいて何かを作るのではもったいない。その前段階に立ち戻って、私の中から何が出てくるんだろう、私は何を大切に感じているんだろう、どんな感覚を大事にしたいんだろうと、そういうものを感じる時間をとってほしいな、と思います。単純化してしまうことの危なさに気づいていられたらいいなと思いますね

辻村 ありがとうございます。制作とか創造する上でものすごく本質的なことをお話しいただいたと思います。僕も似たようなことをよく言うんですけど、さっきハチスさんが知床の森で感じたことを話してくれたように、自分の感じたことか経験したこととか、そういう生(なま)感触とか世界の肌ざわりみたいなものを大事にしてほしいって思うんですよね。自分の感じたものを簡単にわかってしまわないほうがいい。「わかる」っていうのは、すでに「知っている」ということで、既知のカテゴリーの中で処理してしまっているということでもある。でも「本当にそうなのか」と問いかけることは、すごく大事なことなんです。

言葉にするというのは、ある意味、他の人とも共有できるようカテゴリー分けされたものの中に「これはこれね」って入れちゃう行為なわけですけど、でもあなたが感じている感覚や感情、感触というものは、そんなありふれた、通り一遍の言葉で本当に表せるものなのか。実は違うんじゃないか。「自分が感じているものは、こんな言葉じゃ表せない何か違う、しっくりこない」、そう感じるなら、そこにこそ創造の芽があるし、自分自身の生き方の源があると思うんです。

つまり、一人の人間がこの世界に生まれ落ちて、何を感じとって、その中でどんな関係を結んで生きていくのか。それを更新していくためのヒントが、自分の感覚を研ぎ澄まして、開いていくことの中にある。そうやって色んなものに気づいていって、その中で世界の中に自分を編み直していくっていうかな、そういうこと自体が神話的な行為だと思います。

それはまた、あらゆる生き物がしてきたことじゃないかな、と思うんですね。この世界に生まれ落ちて、自分の周りにある色んなものを感じとって、それをどう認識し、それに対してどう行動していくか――そういうあらゆる生き物がなしてきた営みの中にビッグヒストリーがある。僕らは人間だから、ヒューマン・ヴァージョンのビッグヒストリー、世界観の制作をやっている。僕は結局、ビッグヒストリーの本質はそういうことに尽きるんじゃないか、とも思っています。

今日はハチスノイトさんに来て頂いたわけですけど、皆さんの中にはハチスさんみたいな音楽を聴いたことがない人もいると思うし、「なんじゃこりゃ?」って驚いた人もいると思う。そういう「わからないもの」と出会うということがすごく大事なことで、逆に「わかるわかる、これって○○でしょ」となってしまったら、そこに発見はないんです。だから今は言葉にできなくていい。「説明しろって言われたら言えないけど、なんか変だぞ」「言葉にできないけど、これはすごい」、そういう感覚を大事にするところから全てが始まると思います。

それと、音楽というのは決して言葉だけでは説明できない。音楽じゃないと表現できないもの、そこに存在し得ないものがある。それは絵画でもなんでもそう。それは逆にいうと、この世界というのは言葉では汲み尽くせないほど豊かなものだということでもある。そういうことを忘れないでほしいと思います。

そして最後に!対談の途中で触れたLondon Jazz Festival 2020の動画には、ハチスさんを入れて三人のミュージシャンが出演されているんですけど、最後に三人が集まって合奏していましたよね。あれはすごかった。それぞれ一人でも一つの音世界を成り立たせていた人たちなんですけど、その三人が合わさると、これはもう音宇宙だなと感動しました。あれで未来のイメージが浮かんだんですよね。僕もいつか色んな表現者を集めたイベントをやりたいと思っているので、機会があったら是非何か一緒にイベントをやりましょう。出演してください(笑)

ハチス あははは、是非(笑)

辻村 それでは今日のお話を終えさせていただきます。皆さんご静聴ありがとうございました。

ハチス ありがとうございました。

 

ハチスノイト(Hatis Noit)

 

辻村伸雄

 

 

✴︎✴︎✴︎

 

Hatis Noit ハチスノイト/北海道・知床出身の女性ヴォーカリスト。バレエ、演劇、雅楽、民謡などの経験を経て、現在はロンドンを拠点に活動。2014年、自身の声のみで作られた初のアルバム『Universal Quiet』をリリース。クラシカル、民俗音楽、ウィスパー、ポエトリーリーディング等を昇華した独自の歌唱解釈を構築し「現代の賛美歌」と評される。2015年リリースのEP『Illogical Dance』ではBjorkの『Vespertine』での共同制作で知られるMatmosが参加。2018年、Penguin Cafe、Nils Frahm、Ólafur Arnaldsのリリースで知られるイギリスのポストクラシカルレーベルErased Tapesより世界デビュー。2019年にはSigur RósのボーカリストJonsiのサイドプロジェクトJonsi & Alexでバックコーラスを務めるほか、David Lynch監督より招聘を受けManchester International Festivalへ出演するなどヨーロッパ各地のフェスティバルで公演を重ねる。同年末にはLondon Contemporary Orchestraをバックにロンドン・サウスバンクセンターで初のワンマン公演を開催、ソールドアウトとなる。2020年、英紙The Guardianにて「今見るべきアーティスト」に選出。

 

辻村伸雄 つじむら・のぶお/1982年、長崎生まれ。アジア・ビッグヒストリー学会 会長。国際ビッグヒストリー学会 理事。2016年より桜美林ビッグヒストリー・ムーブメント 相談役・ウェブマスター。2019年に桜美林大学・片山博文教授らとともに日本初となるビッグヒストリーの国際シンポジウムを実現。近著に「肉と口と狩りのビッグヒストリー――その起源から終焉まで」(『たぐい』Vol. 1、亜紀書房、2019年)、「パラドクシカルな「共生」の技法──歴史と神話の「あいだ」の実践」(石倉敏明との対談、『コロナ禍をどう読むか 16の知性による8つの対話』所収、亜紀書房、2021年)。ビッグヒストリーの名づけ親であるデイヴィッド・クリスチャンの集大成となる最新刊『オリジン・ストーリー 138億年全史』(筑摩書房)の解説を担当。

 

片山博文 かたやま・ひろふみ/1963年生まれ。桜美林大学リベラルアーツ学群教授。専門は環境経済学。2016年より日本で初となるビッグヒストリーの講座を同学群の宮脇亮介教授(専門は電波天文学)とともに開講。著書に『自由市場とコモンズ―環境財政論序説』(時潮社、2008年)、『北極における気候変動の政治学―反所有的コモンズ論の試み』(2014年、文眞堂)等がある。

 

✴︎✴︎✴︎

 

 

〈MULTIVERSE〉

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰