大島托 『失われた“紋”を求めて──1ミリ向こうの古代』 スカリフィケーション──あるいは悦ばしき傷の文化❶
タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。書籍化された『一滴の黒』に続く、現在進行形の新章。
<<「インド中央部に暮らすバイガ女性たちの全身タトゥー」を読む
フランクの記憶
そういえば小学校の頃、フランクという友達がいた。
外国人ではない。昭和の田舎町では本物の外国人なんて生で見たことはなかった。この場合のフランクはフランクフルトの略であり、フランクフルトと言えばデカいソーセージの代名詞であり、それはまたデカいチンコの隠語でもあった。あの頃は全国各地の小学校にフランクと呼ばれる内気な少年と、アンドレと呼ばれる大柄な少女がいたのではないだろうか。
ちなみに僕はあらゆる食肉の中でソーセージが最も完成された製品だと思っている。だから初めてドイツのフランクフルトを訪れた際にはまず本場のフランクフルトソーセージ(フランクフルター・ヴュルストヒェン)を探したのだが、当地では僕がイメージしていたそれは単にヴルストと呼ばれていた。それに化学調味料とカレーの粉をかけた「カリーヴルスト」があちこちの屋台などで売られていて、観光名物B級グルメになっていた。これまたドイツ名物の「ケバブ」と同様、大量に受け入れている移民の影響で出てきた食べ物だ。が、味や焼き加減はっきり言ってそんなに大したことない。学生時代、僕は縁日のテキ屋でフランクフルト売りをやっていたことがあるのだが、それと同程度のやっつけ感だった。
フランクフルト売りはテキ屋の屋台の中でも初心者に割り振られるイージーな仕事だ。日本でソーセージやハムの店を出すなら「本場ドイツで修行してきた」というのは営業の殺し文句だと思うのだが、実際のところそんなものはほぼ幻想なのだ。世界的に見ても日本人はけっこうソーセージ好きな人々で、したがって日本のソーセージは、街角の職人モノからスーパーの大量生産モノまで味に関してはわりとレベルが高いのだ。
ただ、種類に関してはドイツは圧倒的で、日本では見かけないものが沢山ある。例えばサラミやおつまみカルパス以外のドライソーセージを日本で見かけることはほとんどないが、このジャンルはドイツではとても豊かだし、各地方ごとに特有の美味いやつがあるような感じだ。クナッカーとかラントイェーガーといった、加熱なしの冷燻乾燥で仕上げてある、歯応えたっぷりのドライソーセージは、完成した生態系を誇る古い森の中に、ひときわ高くそびえ立つ巨木たちのようだ。移動のバスや列車の中で、公園の芝生の上で、河のほとりのベンチで、バーのカウンターで、ひとりぼっちでこれとパンを一緒にかじると「母をたずねて三千里」の詩情も漂って来ようかというものだ。
だからみんなこれは1人で食べるのだ。
縄文とアフリカの邂逅
まあ、チンコやソーセージの話はこれぐらいにしておこう。ドイツ有数の大都市であるフランクフルトは銀行などの金融機関が多く集まることで有名な場所だ。そこでのコンベンションやゲストワークなど、いろいろな理由で立ち寄ってきた街だ。
そのフランクフルトにHfGオッフェンバッハ校という美大があり、そこのヴェルナー・ロルケ教授の招待で「縄文族」展を校内ギャラリーで開催したのは2017年のことだった。ヴェルナーの見立てとしては、我々の縄文族というタトゥープロジェクトの出現の遠因には2011年の東日本大震災の大規模な社会的ダメージがあるのではないかということだった。僕もケロッピー前田も、その時点までそういうふうには捉えていなかったのだが、あらためて外からそう言われるとそこには一定の納得感もある。
同時にカップリング展示されたのはドイツ人ジャーナリスト、オリバー・ベッカーの写真作品だった。彼は紛争地のアフリカの南スーダンにおけるスカリフィケーションの流行に着目し、何度も現地に命がけの突撃取材を敢行していた。
Oliver G. Becker《African Scars South Sudan》より
スカリフィケーションとは意図的な創傷による瘢痕を用いた身体装飾のことだ。現代の一般的な日本人の感覚からすると少し理解を超える物事かもしれないが、これはおそらくアフリカ大陸でホモ・サピエンスの祖の猿人の体毛が薄くなってきた時代にまで遡れるような長大な期間に渡る風習のように思われるのだ。
Oliver G. Becker《African Scars South Sudan》より
オリバーによると、スーダンにはもともと、他のサハラ砂漠以南のアフリカ地域全般と同様に、古代からスカリフィケーションの習俗があったのだが、それらは近代国家として形を成してくるに従って徐々に下火になってきていたのだという。それが、内戦が続いて無政府状態になったことで一気に再び盛り上がりを見せているらしい。近代以降、人口密度が上がり、複数の部族が混ざり合うように暮らしていた地域で、国家というタガが外れたのだ。大量虐殺事件が頻発する中で疑心暗鬼に囚われた人々が縋ったのは同族意識であり、顔面のスカリフィケーションの復活には自己の所属部族集団を誰の目にも明らかにするマークとしての具体的で切実な役割があるのだという。
現代日本には表立った部族間や国家間の紛争というものはないが、震災時の原発メルトダウン事故で混乱状態となり、技術立国としての国際的な信用も失って弱りきっていた日本人には、ルーツによる紐帯が求められていたのではないか。危機的状況におけるアイデンティティの行方として立ち現れる身体への回帰運動の一つとしての「縄文族」タトゥープロジェクトなのではないか。ヴェルナーの問いかけは深い。もしあの時点で縄文族が大きな社会的な現象と言えるほどに日本国内でヒットしていたならば、その読みは作り手側の意図を超えて正解だったと言ってもいいと思う。
2017年にHfGオッフェンバッハ校で開催された《縄文族》展の会場にて。左からオリバー・ベッカー氏、ヴェルナー・ロルケ氏、ケロッピー前田氏、大島托(敬称略)。写真:ケロッピー前田
が、実際のところはそんなにヒットしていたわけではなかったし、むしろタトゥー業界には裁判沙汰で逆風まで吹いていた。我々が意識してやっていたのは大衆のニーズに応えることではなく、ちゃぶ台返しのようにそれを刷新してしまおうという乱暴な企みだったのだ。
温度差
せっかく美大の中での展示だったので、ついでに学内の教室で講義もやらせてもらって、学生たちとコミュニケーションを取った。
ベルリンの壁崩壊という象徴的な出来事の当事国であったドイツは、それ以降の新秩序模索のダイナミックな現場であり続け、同時に現代タトゥー文化の実験的な最先端を常に突っ走ってきていた。僕が尖り過ぎて日本の営業が苦しかった時期にも、ベルリンやフランクフルトのスタジオはいつでも手を差し伸べてくれていた。だから縄文族の掲げる「一万年前、一万年後」というタトゥーの普遍性に関する考えも、実はここではすでに哲学的に消化されているようだった。
日本のイベントでの質疑応答で繰り返される素人目線スタートのやり取りはなく、核心部分を理解した上での良い意見がポンポン出てくる。近い卒業生には成功したタトゥーイストもいるのだという。名前を聞いたら知っていた。ジャン・コクトーみたいな線画でクィアでポップな画題を得意にしている今注目の若手のデイビッド・スチェッサーだ。なるほど、そうか。さっきコーヒーを飲んだ学内のバーの壁のグラフィティーはやっぱり彼のものだったのか。試しに展示会場の中でライブで彫るためのモデルをその場で募ったら、2秒で全ての枠が埋まった。地元フランクフルト出身の女子学生とブラジルからの男子留学生だった。
とはいえ、ヴェルナーの指摘する構図は現代のタトゥーを含むありとあらゆる身体改造に関わってくる大きなものだと感じる。難しい話ではない。例えばマッドマックスや北斗の拳などの舞台となる無政府状態における登場人物のド派手な身体改造は、たとえファンタジーだとしても、それを自然だと感じる我々見る側のイメージによって支持されているからこその演出なのだ。
そういうプログラムが我々に内在しているということは気に留めておいて損はない。
「スカリフィケーション、あるいは悦ばしき傷の文化❷」を読む>>
〈INFORMATION〉
『一滴の黒』大島托 著(ケンエレブックス 刊)
https://books.kenelephant.co.jp/products/9784910315157
日本を代表するタトゥーアーティスト・大島托が、トライバルタトゥーをめぐるリアルな習俗と歴史、そして現在を描き出す旅の記録。全国書店にて発売中。
〈MULTIVERSE〉
「レオ・ベルサーニをめぐって 」──クィアが「ダーク」であること──|檜垣立哉
「ゴシックからブラックへ、アフロ・マニエリスムの誘惑」── “暗黒批評”家が紡いだ異貌の黒人音楽史|後藤護インタビュー
「死と刺青と悟りの人類学──なぜアニミズムは遠ざけられるのか」|奥野克巳 × 大島托
「あるキタキツネの晴れやかなる死」──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ
「パンク」とは何か? ──反権威、自主管理、直接行動によって、自分の居場所を作る革命|『Punk! The Revolution of Everyday Life』展主宰・川上幸之介インタビュー
「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香
「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘
「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践
「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹
「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝
「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話
「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー
フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介
「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄
「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生
「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点
「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー
「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー
「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー
「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー
「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行
「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性
「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu
「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫
「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”
「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー
「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る
「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る
「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎
「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美
「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介
「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く
「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎
「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰
「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義
「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志
「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾
「HOW TO SCAN THE WORLD 」── 世界をくまなく、そして注意深く、「見る」「触れる」「遊ぶ」|BIEN × 石毛健太 × 髙木遊