「生死観」としての有機農業──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘
2021年10月31日に立教大学マルチスピーシーズ人類学研究会「参与と生命Ⅲ 土の思想、科学とアート、参与しつつ消えていくために」にて行われた有機農家・松下明弘による講義。
本稿は2021年10月31日にオンラインで開催された立教大学マルチスピーシーズ人類学研究会「参与と生命Ⅲ 土の思想、科学とアート、参与しつつ消えていくために」における有機農家・松下明弘による講義の内容をまとめたものである。なお、DOZiNEへの掲載にあたって、原稿の一部に加筆と修正を加えている。
日本の稲作は「考えない農業」に堕してしまった
本日はよろしくお願いします。静岡県藤枝市で稲作の専業農家をやっております松下明弘と申します。
現在、私は10ヘクタール程の大きさの田んぼで、有機無農薬でお米を作っています。今年で29年目になりました。
作っている品種は、「カミアカリ」と「にこまる」、それから酒米、日本酒の大吟醸になるような「山田錦」という品種ですね。それらを主に作っています。
現在は稲作の専業農家なんですけど、我が家は江戸の中期より代々この土地で農業をやってきました。1720年頃に初代がこの土地に開墾に入ったと聞いています。私で8代目になります。
実は先代、私の父の代まではうちも慣行農業をやっていたんです。要は農薬や化学肥料を使った現在における普通の農業ですね。有機無農薬農業を始めたのは私の代になってからです。私がいきなり有機農業を始めた理由は様々ありますが、最も大きな理由としては「それが本当に普通の農業の姿なのだろうか」と疑問に思ったからでした。
確かに土地や気候に合う農作物が非常に限られている日本では農薬や化学肥料は大変に便利な存在なんです。日本は雨が多いですよね。雨は恵みでもありますが、一方では病害虫の原因にもなります。また日本の国土は7割が山地ですので、急流の川が多い。大地がすぐに削られ、豊かな土壌が海に流されてしまうんです。今ある地表面というのは実は残りカスのようなものに過ぎず、そもそも地力がとても弱いんです。
だから農薬で病害虫を駆除して、化学肥料で土地を肥やしてきたわけなんですが、それは言ってしまえば大きな無理をしているということでもあるんです。それに、農薬や化学肥料、ビニールハウスなどを用いて過保護に育てていると、作物もひ弱になってしまいます。作物がひ弱になると、そのひ弱な作物を守るために、さらに農薬が必要になる。これでは完全に悪循環です。そうした状況を見ていて、人間があれこれと世話しないと生きられない作物というのは本当に健全な作物なのだろうかと、疑問に思うようになったんです。
実際、農薬や化学肥料を用いれば日本の土地でも様々な作物が年中採れるようになります。言ってしまえば、農薬や化学肥料というのは、誰がどこで農作業をやっても同じものが作れるようにするための魔法の道具なんです。それさえあれば自分の田んぼの土質を学び、その土質に見合った農法を考えるというような面倒くさいことをする必要もなくなる。地域差だって無視できる。戦後の食糧難の時代などにはそれらが大いに農家を助けたということは間違いありません。
しかし、それも慣行になっていくと、今度は農薬や化学肥料を使うことが当たり前になってしまうんです。すると誰も「それが本当に必要なのか?」と問わなくなってしまう。田んぼをじっくりと観察することもなくなり、本当は必要がないのに農薬を撒いたり化学肥料を投じたりするようになってしまう。耕し方にしてもそうで、トラクターを入れて何度も深く掘り下げるばかり。本当にそれをする必要があるのかということは問われないままにです。そうした状況を目の当たりにして、私は日本の稲作は「考えない農業」に堕してしまったと思うようになりました。
こうして私は有機無農薬農業に挑戦しようと思ったわけですが、実は私にそうした違和感を抱かせたきっかけになる出来事がありました。ただ、それについては追ってお話しすることにしましょう。まずは私が普段どのような農業を行なっているのかを少しだけ紹介してみたいと思います。
表層耕起――除草か抑草か
私は一年間を通して様々な形の農作業をやっているんですけど、有機農業を行う上で最も大事なことは「肥料をどうするか」ということです。農家の中には肥料を全く入れず、自然農法と呼ばれる方法で無肥料で栽培されている方もいますが、先ほどもお話ししたように日本の土はそもそも弱く、中でも私の住んでいる静岡県の藤枝市というところは大井川の扇状地、つまり元々は河原だったところなので、とても砂利が多く、また水抜けがいい土地なんです。土地自体も痩せていて、肥料っけがない。つまり、無肥料で栽培すると大幅に収量が落ちてしまうんですね。そこで私自身は肥料を入れるという選択をしています。
現在、うちでは2種類の肥料をつくっています。一つはぼかし肥料と呼ばれるものです。私の家には450kgくらいの大きな攪拌器がありまして、そこに魚粕、米ぬか、菜種油のカス、豆腐のおからを乾燥させたもの、近所の玄米茶をつくっている工場から頂いている玄米カスなどを入れ、さらに微生物と糖分をそこを加えて撹拌し、発酵させます。そうして出来上がった肥料を田んぼに撒いているんです。
もう一つは緑肥と呼ばれるものです。こちらは主にレンゲの種を9月から10月の頭くらいに田んぼに撒いておくんです。すると、冬を越え春になった頃にはレンゲが大きく育って、花盛りを迎えます。この花盛りになった時が一番肥料っけが強いので、そのタイミングでトラクターを入れてレンゲを漉き込み、田んぼの肥料とするんです。
これまでに様々な肥料を試してきましたが、現状ではこのぼかし肥料とレンゲの緑肥の2種類の肥料がうちの田んぼには合っているようです。
さて、肥料の準備ができたら今度は田んぼを耕起しなければなりません。いわゆる田起こしというやつです。田んぼを耕し、土に肥料を混ぜ込む作業です。
先ほど、うちの土地は砂利が多いといお話しましたが、深く起こしていくと、小さな砂利だけではなく、大きな石なども出てきてしまうんです。だから、うちの近所ではあまり深く起こすということをしません。中でも私はさらに浅く起こすようにしています。これは「表層耕起」と呼ばれる方法で、表面の5センチくらいだけを耕して、それ以上、深く耕すということをしないんです。
なぜうちが特別に浅く耕起しているのかというと、これにはいくつかの理由があります。
まず稲作を有機無農薬でやろうとした場合、一番問題になるのが雑草対策なんです。つまり、田んぼに生えてくる雑草にいかに対処するかという問題です。その際、二つの考え方があり、一つは生えてきた草をとる「除草」という考え方、そしてもう一つはそもそも田んぼに草を生やさせない「抑草」という考え方です。私は後者、「抑草」を選択しています。
ではどうすれば抑草できるのかと言いますと、そのためには去年切り落とした稲わら、それから投入したぼかし肥料などをできるだけ地表面に止めておくことが必要なんです。だから、私は深く田を起こさず有機物が地表面に残るようにしているわけですが、そうすることで、地表面5センチの土が非常によく発酵するんですね。中でも一番大事なのは乳酸菌、酢酸菌などの有機酸を作りだすような菌をたくさん増やすこと。雑草の種は酸を嫌うので、土中の酸の濃度が上がりますと、種が発芽をしないで休眠状態になってくれるんです。
そうすることで原理的には田んぼに草は生えなくなるはずなのですが、これもタイミングや温度が肝心で、そこがピタッとはまると本当に草が生えてこないものの、ちょっと外れたりするとやはり草が生えてきてしまうんです。うちもなかなか打率が上がらず、せいぜい成功率は3、4割くらい。研究の余地はまだまだあります。せめて7割くらいに持っていけたらなと思っているところです。
なので基本的には抑草を目指しつつも、やはり雑草が生えてきてしまうケースが多く、その場合、除草をしなければなりません。そこで役に立ってくれる存在がジャンボタニシです。
私の家の田んぼにはこのジャンボタニシ、正式名称スクミリンゴガイという、南米から食用にするつもりで30数年ほど前に持ち込まれ、養殖されたにもかかわらず、結局、非常に匂いがきつくて食べられないと放棄されてしまった貝が大量に生息しているんです。
基本的にジャンボタニシは田んぼにとっては害のある存在です。なぜなら彼らは稲の苗を食べてしまうからです。実際、うちの田んぼの苗もジャンボタニシによって部分的に食べられてしまっています。すると、ジャンボタニシはただ邪魔な存在なのかというと違うんです。一方でジャンボタニシには雑草が生えてくるとそれもまた綺麗に食べてくれるという特徴もあるんです。これは非常にありがたい。確かに多少の苗は食べられてしまうので食害もあるけど、ジャンボタニシくらいの食害だったらそれほど影響がありません。すると、ジャンボタニシと上手に共存共栄してうまく付き合っていくことができれば、草の生えない田んぼというものを作ることができるかもしれない。そう思ってうちではジャンボタニシと共生することで抑草しきれない部分を補完しています。
ただここ数年でジャンボタニシの個体数が増えすぎて、ある種のウイルスが発生してパンデミックが起こり、田んぼ中のジャンボタニシが、あっという間に全滅していなくなってしまうという現象が起こりました。パワーバランスは再び崩れつつあります。ジャンボタニシによってうまく抑えられていた草が再び生えてきてしまっている。なかなか完璧には雑草を抑えることはできないものなんです。
ジャンボタニシに代わる存在として今うちで名乗りをあげているのは合鴨ロボットです。よく合鴨農法というじゃないですか。田んぼに合鴨を放し飼いにして虫や草を食べさせる農法です。あの合鴨をロボット化したものが最近発明されたんです。自動運転のロボットが田んぼの中をぐるぐる走り回るわけですが、その際のスクリューの回転によって土を濁らせ、それによって光を通しづらくすることで草を抑える、という仕組みになっています。来年は私の田んぼでも実証実験をやってみようと思っています。
苗半作
まあ、このような具合に表層耕起をしているんですけど、もう一つ田んぼにとってとても重要なことがあります。田んぼの水平性です。
この水平性を整えるために、田んぼに水を入れたら、稲の種を植える前に、代掻きという作業を行います。トラクターで田んぼの凸凹を均平にし、最後に後部にあるタイヤで綺麗に均していく作業です。
なぜ水平性が重要かというと、ある部分の土が高くなってしまっていた場合、、田植えをしてから水が引いた時に、そこだけ空気に触れてしまうんですね。そして空気に触れるとそこに雑草が生えてきてしまう。では深く水を入れればいいかというと違くて、あまり深く水を入れすぎると、今度は苗が成長しにくくなってしまうんです。
そこでうちの田んぼでは浅めの水でも土が露出しないよう、100平方メートルの田んぼで誤差が2cm以内くらいになるまで代掻きを行なっています。そうすることで草が生えなくなるし、水平性が取れていれば肥料も均等に行き渡るので、田んぼの中で品質の差が生まれなくなります。そういう意味もあって、田んぼの水平性は非常に丁寧に整えるようにしているんです。
さて、水平性が取れたらいよいよ種植えに入るわけですが、その前に種もみの選別をしなければなりません。基本的には塩水選という方法をとっており、種もみを塩水に入れ、浮いてくる種もみを取り除く作業です。浮いてくる種は身の入ってない軽い種だから、あらかじめ選別しておくんです。
選別したら、種もみを袋に入れて湯温消毒します。60度で10分間お湯に浸す。それをすることで表面の菌が死にます。そこから2日ほど水につけると芽が出てくる。こうしてようやく種まきです。
種まきには播種機を使います。うちの播種機はちょっと特殊で縦筋巻きと言いまして、ちょうど機械の爪が掴むところにだけ種をまいてあるので、少ない種で掴みがいいんです。こうして苗が完成します。
苗半作という言葉があります。昔の人は苗を作れば稲作は半分は終わったようなものだと考えたわけです。苗はそれくらい重要なんです。
私が有機農業を始めた頃は今ほどいい資材がなくて、手に入る資材の中でいろんなものを試しました。カビの一種の病気が広がって、300米苗箱を撒いたらカビでやられて一からやり直し、みたいな失敗も昔は多く、ものすごい苦労したものです。ここ数年は有機農業でも使える農薬、これは微生物を利用した農薬なんですけど、そういうものを使うことでカビの仲間の病気は抑えられるようになりました。苗をつくって失敗することがなくなったのは、ようやくここ10年くらいです。それくらい苗って難しいんです。
こんな感じで、私は毎年お米をつくっています。自己紹介がてら私がどんな農業をやっているのかということを話させていただきましたが、ここからは私が有機農業を始めるきっかけとなったある経験についてお話させていただきます。
本当の豊かさとは何か――エチオピアの少年に学ぶ
よく「どうして30年も前に有機農業を始めたんですか」と聞かれます。確かに当時は有機農業は非常にマイナーで、周りでもやっている人は誰もいませんでした。
冒頭でもお話したように、有機農業を始めた動機は慣行農業に対する違和感からでしたが、そうした違和感を与えてくれるきっかけとなったある体験がありました。
昭和62年、24歳の時、私は青年海外協力隊のボランティアに参加して東アフリカのエチオピアという国に2年間、農業をしに行っていたんです。当時は野菜を勉強していたんで、私は野菜の専門家としてエチオピアに向かいました。
この頃、エチオピアは飢餓に見舞われていました。マイケル・ジャクソンなどの『We are the world』という曲が流行ったきっかけとなったのもエチオピアの飢餓問題だったんです。時期的に私はそのちょっと後に入ったんですけど、難民キャンプでは飢餓に苦しんでる人が依然としていっぱいいました。
難民キャンプにはそう簡単には入れなくなってるため、私が直接その惨状を見る機会というのはほぼなかったんですけど、一度だけ難民キャンプのすぐ近くの現場に行った時に、ちょっとだけ中を覗いたことがあります。耐えられませんでしたね。ものすごい死臭だったんです。難民キャンプでは飢餓や病で亡くなった方がたくさんいるんですけど、遠くに穴を掘って埋めるわけにもいかないため、みんな遺体をすぐ近くに埋めていたんです。それで辺り一帯にものすごい死臭が漂っていた。あまりの匂いに近づくことさえできなかったのを覚えています。
エチオピアではそうした経験をはじめ様々な経験をしました。2年間いたんですけど、いろんなことを教えられました。私が彼らに教えたことなどそれと比較すればほんの1割程度のものです。
彼らに一番教えられたことは、食べることと生きることでした。当たり前ですけど、私たちは食べていけるから生きていけるんですよね。この単純なことを日本にいた時、私は一度も考えたことがなかったんです。エチオピアに来て初めて、食べることと生きることについてを真剣に考えるようになりました。
価値観もまた大きく変わりました。特に豊かさとは何かという点で、私の価値観を根底から覆すような出来事がありました。
それはある日曜日のことでしたが、近所の15歳くらいの少年が「一緒にサッカーをやろう」と私を誘ってくれたんです。ただ、ちょうどその時期は雨季から乾季に変わるタイミングで、もうそろそろ雨が降らなくなっちゃうんで、私は近くの湖から水を引いて畑を作るためにの灌漑ポンプを借りる書類を作っていたところだったんです。私が忙しそうにしていると、その少年が「ねえアキヒロ、何をやってるんだ? 早くサッカーをしよう」と聞いてくる。だから今言ったようなことを説明したんですが、少年は「へ~、でもなんでそんなことを?」と、返してくるんです。「だってそうした方が作物がたくさん取れて儲かるじゃないか」って私も返すと、少年は「うーん、でも必要ないと思うよ」。どうしてって聞いてみると「僕たちが一年食べるぶんのトウモロコシも野菜もちゃんと神様が与えてくれるし、僕たちは実際に十分それで食べていくことができる。それ以上何が必要なんだ」と不思議そうな顔をして言うわけです。
「いや、儲かればね、、ラジオが買えたり靴が買えたりいろんなものが買えたりするじゃない」と私も言ってはみるんですが、「うーん、でも食べられるのに何でそこまでしなきゃいけないんだ」と少年も納得しない。「いやだからさ」って言ってるうちになんだか自分の方がどんどん虚しくなっていっていったのを覚えています。
その時に気づいたことは彼らにとっては物やお金には大した価値などないんだということでした。それまでの私は25年間、いい車に乗りたいとか、かっこいい服を着たいとか、そういうところにばかり価値を置いてきていて、食べられればそれでいいじゃないか、なんて考えたこともありませんでした。ただ、エチオピアでその少年にそれを言われた時にそれまでの価値観が音を立てて崩れたんです。ああ、自分はずっと不満言ったり文句言ったりばかりしてきたけど、間違っていたのは自分の方だったんだ、と。
彼らの生き方や暮らしぶりを見ていると、確かに貧乏な人はたくさんいる。現地の原住民と呼ばれるような人たちのところにいけば、みんな裸足で歩いてるし、貧しい格好をしている。じゃあ心まで貧しいかといえば当然そんなことはないんですね。心は非常に豊かで、みんなニコニコ笑っていて楽しそうなんです。明日食べられればそれでいいじゃないかって人たちばかりでした。
彼らとの日々の中で、日本の生活って本当に豊かだったんだろうかってあらためて考えるようになりました。そして、自分の子供時代の暮らしを思い出したんです。私の家は代々農家だったんで、私が子供だった昭和40年代はおじいちゃんおばあちゃんも健在で、味噌も醤油も家で作りするのが当然でした。お米も野菜もあるし、おばあちゃんは鶏を飼ってたから、マヨネーズなんかも卵とお酢と油で手作りしたりしていて、あらゆるものを自給自足して暮らしていたんです。それこそ今の人が憧れるような暮らしです。それを私は子供の頃にすでにやっていたということを思い出した。そして、ああ、なんて豊かな暮らしを自分はしてたんだろうって思いました。ただ当時、小学生の頃は決して豊かだなんて思っていなかったし、街の中心部に暮らしている友達の家に行くと大きな冷蔵庫があったり、その中にスーパーで飼ってきた食材がいっぱいあったり、3時のおやつにケーキを出してくれたり、そういうのが豊かさだと思っていて、自分のうちはむしろ貧しいって思っていたんです。でも逆でした。うちの方がよっぽど豊かだったんです。
そうした経験を経て、私は日本に帰りました。それから3年後に私の父親が癌で亡くなります。私が29歳の時です。それをきっかけに家業を継ぐことになりました。そして、どうせやるなら自分が本当に豊かだと思える農業をやりたいと思い、慣行農業から有機無農薬農業に切り替えたんです。
切り替えた当初は近所からも文句を言われ、農協からも文句を言われ、大変な思いをいっぱいしたんですけど、私は自分がエチオピアで感じた豊かさというものを自分の手で作ってみたい、本当に豊かな暮らしをしたいという強い思いがあり、だから今まで続けてくることができました。まだまだ研究すべきこと勉強すべきことはいっぱいあります。有機農業に切り替えると多くの人がそれ以前より儲からなくなりますし、作業ひとつひとつがものすごく面倒臭いんです。土地の個性に向き合わざるを得ないため失敗も多い。でも、楽をしてより多く稼ぐことよりも、その面倒臭さとともに生きることこそが本当の豊かさじゃないかと私は思うんです。
田んぼの小宇宙
ところで、「有機農業っていいですね」と最近よく言われるんです。なんか有機農業というのが一つのブームというか、かっこいい仕事、今っぽい仕事のようになっているらしく、だから「いいですね」って簡単に言われるんだと思います。そういうイメージを持ってもらうことは構わないんですけど、どうも本質から離れていっちゃってるような気がして、疑問に思うことがあるんです。
どういうことかというと、有機農業に限らず慣行農法でもそうですけど、農林水産業、一次産業に関わる人たちというのはみんな一つの共通項があるんです。それは、生き物の命を収奪して、それによって生業を立てているということです。私はそここそが一次産業の本質だと思ってるんです。
たとえば私なら、稲というものを種を撒いて育て、それをコンバインという大きな機械に乗って刈り取り、その実をむしりとって人間が食べられる状態にして売ることで生活している。つまり、私は稲の命を奪って暮らしているんですね。木こりでも漁師でも一緒です。みんな生きていくために生きているものの命を奪っている。収奪している。それによって私たちの衣食住が満たされ、特に食べるということができている。生き物の命を奪うことなしに私たちは存在しないはずなんです。
なのに最近は簡単に「有機農業っていいですね」みたいに言われてしまう。その言葉には命を奪っているという重さが感じられません。あるいは、私のへそが曲がってるだけなのかもしれませんが、何か前提にあるものが忘れられてしまっていつような気がして、すごく違和感を感じちゃうんです。
私はさっきお話したような作業をしながら生き物と一年を通して生活しているわけですけど、最後に稲を刈り取る時には「ありがとう」「頑張ったね」と言って稲刈りを終えています。その瞬間は、ああ、一年が終わったんだなと思って寂しくもなります。そうした暮らしの中で生命のあり方ということをよく考えさせられるんです。
この田んぼは私の田んぼで私の名義で私の土地なんですけど、うちの田んぼにはいろんな生き物が住み着いているんですね。それこそ微生物から始まり、ミジンコやら蛙やオケラやらトンボやら。あと、そういうのを食べに来る鳥や蛇などの捕食者たちもいます。それこそものすごい数の生命がこの田んぼで生きているんです。
ちょうどゴールデンウィークが過ぎたくらいになるとツバメも大挙してやってきます。田んぼの上で餌を捕ってるんですね。ツバメは利口なので、最小限の労力で最大限の餌が取れるところしか飛びませんので、私の田んぼの上ばかりをグルグルグルグル飛んでいる。それだけうちの田んぼには虫が豊富なんでしょう。虫が豊富ということはそれだけ虫を支えている微生物の数が多いということ。食物の底辺が微生物だとすれば、微生物の層が広ければ広いほどたくさんの生き物が生きられるんです。
そういうことを思ってみると、この田んぼは私の田んぼでもあるんだけど、この田んぼに住み着いてるすべてのものの田んぼなんだなとも思えて来ます。だから、お米を作って売るというためだけではなく、彼らの居場所がなくならないようにずっとこの農業は続けて生きたいな、と真剣に思うんです。
田んぼの中に小宇宙があり、その小宇宙の中であらゆる生命が循環している。多分、それこそが豊かであるということなんじゃないか、そういう風にいつも思っています。そこには残酷さもあれば、大変さもいっぱいある。流行りだからとか、かっこいいからとか、そういうことではなく、生きること食べることという、私たちの暮らしの根幹に関わる大切な仕事だと思っています。だから、是非とも皆さんには、そうした前提の部分をもう一度よく考えて欲しいんです。その上で有機農業に興味を持っていただけるのなら、とても嬉しいことです。実際、私はそういう仕事につけているということを、幸せなことだと感じています。
最も厄介な存在
今、田んぼの小宇宙に住まう様々な生物の話をしましたが、もちろん多くの存在と関わることで大変なこともあれば、いろんな困難もついて回ります。ただ、最も厄介な存在は何かといえば、これは間違いなく人間です。正直、一番面倒くさいです(笑)。
どんなことをするにしても100人が100人味方してくれるとは限らないので、当然、一握りの人は私のやってることを心よくは思わないようで、有機農業を始めた頃は私の田んぼにも嫌がらせがありました。一升瓶やビール瓶、大きな石などが田んぼの中に投げ込まれたりしたこともあります。いちいち怒っていても仕方ないんで黙っていましたし、今でこそそういうことはなくなりましたが、私が有機農業を始めた頃はまだそういう状態だったんです。
今は有機農業がどんどん広がって、皆さん理解してくれるようになり、反対する人もいなくなりました。だいぶ、やりやすくなった。ここ数年で有機農業始めたような若い子達に、私が君の年齢くらいの時にはそういう戦いがあったんだよと話すと、「え、なんでですか」となるものです。たとえば周囲の田んぼで虫の被害が出れば、うちのせいにされるようなこともありました。うちの田んぼには被害がないにも関わらずです。
あるいは昔は減反政策もありました。米が採れ過ぎているから田んぼを休めと行政に言われるんです。割り当てが45パーセントくらいだから要は「半分休め」と。その代わりに補助金を出そうというわけです。でも私は田んぼを休むのが嫌だったので全部の田んぼに稲を入れてました。そしたら役所から苦情がくるわけです。勝手にあんた一人だけ全部の田んぼを作っている、と。近所からも文句を言われましたね。でも私には先祖が開墾して一生懸命田んぼを耕してきくれたおかげで今の私たちがあるのに、その田んぼを遊ばせておくなんてことは本当にできなかったんです。喧嘩してでも全部の田に稲を植えてやろうって思って戦っていました。今話すと驚かれますけど、そういう時代だったんです。
もう一つ、うちの田んぼの変わったところでいうと、うちの田んぼでは観賞用の稲も育てているんです。黒い稲や黄色い稲や白い稲、まあ品種のコレクションですね。私の趣味です。今一番力を入れて集めているのは日本各地に残っている在来の品種です。日本にはまだ在来の稲の品種がたくさん残っていて、今年だけでも22品種あります。それ以外に江戸時代から昭和初期までに作られたような品種もありまして、そういう血筋の古い品種もたくさん集めています。もちろん外国のものもあります。台湾、中国、インドネシア、ミャンマー、スリランカ、フィリピン、イタリア、タイ、アフリカ、インドなどのものです。
これらは基本的に趣味として楽しんでいるんですけど、一方には遺伝子の多様性を保護するという視点もあります。種もまた命ですからね、もし地球上でとんでもない天変地異があったりした時に、種を持っていないと何も作れないし、生きている拠り所が作れなくなっちゃうんです。だから私はいろんな種類の種を集めて、遺伝子として保護しておくことで、なにかあった時にその中から活かせる品種を植えていくことができるように準備をしているんです。たとえば日差しが弱くても、自力でよく育つ稲というものも何品種もあるわけです。そういうものを植えておけば生き残る可能性が上がりますよね。そういうことも頭の中に入れつつ、趣味の稲作をやっています。
死の匂いが薄れゆく中で
色々と話してきましたが、時間もきましたので簡単にまとめてみたいと思います。
やはり生死観と言うんでしょうか。こうやって農業をやっていると、生きて死ぬことについて本当に考えさせられることが多いんです。しかし、最近の日本ではこの死というものがものすごく避けられてしまっているような、死についてを考える機会自体が減っちゃっているような気がします。
先ほども話したように、うちのおばあちゃんは鶏を飼っていたんですが、卵を産まなくなった鶏は最終的に父が首刎ね、肉にして普通に食べていたりしたんです。もちろん、おじいちゃんもおばあちゃんも亡くなった時には家族みんなで並んで看取りました。つまり、子供の頃から死というものが私の周りにはたくさんあって、ものすごく当たり前のものだったんですね。だけど、この頃は本当に死がタブー視されているのか、見えないようにされているのか、私たちの暮らしから死の匂いがしなくなってしまっている。本当にこれでいいのかなって思います。
ただ今回のコロナの騒ぎの中で、日本人の生命に対する考え方が大きく変わりつつあるような気もしています。2年近くこんな暮らしをしているわけですから、多くの人が一体これどういうことなんだろうって考えざるを得なかったんでしょう。そのせいもあるのか、この2年で私のお客さんは格段に増えたんです。肌感覚として、ちゃんとしたものを食べなきゃいけないと思う人がものすごく増えたように感じています。
でも、それは考えてみれば当たり前のことなんです。自分の体というのは自分の食べたものでできているわけですから。今日朝に食べたご飯が今日一日の脳みそと体を動かしている。そういう当たり前のことに関心を持つ人が増えたんだと思います。だからありがたい話ですが、コロナ以降、私はとても忙しくなりました。
多分、コロナもそうだし、東日本大震災もそうだし、人間というのはそういう大きな出来事が起きないとなかなか考えるということをしないのかもしれません。普段、平穏に暮らしている時というのはその状況の中で満ち足りてしまっていて考えようとしないんだけど、何かあるとそれをきっかけに考えるようになる。そう思うと10年に一度くらいは何かが起こってみんなが考え出すようなことも必要なのかもしれませんけど、出来るなら普段から考えてくれたら嬉しいですね。
というのも、皆さんの関心が薄いのをいいことに、ここ数年でゲノム編集とか遺伝子組み換えとかが実はかなり進んでているんです。たとえばゲノム編集した真鯛の養殖なども進んでいます。なぜゲノム編集するのかというと、そうすることで真鯛が短期間で大きく成長するからなんです。ホルモンが大量に分泌されることによって短い期間で早く大きくなり、よりスピーディーに商品として生産が可能になる。このゲノム編集された真鯛はすでに国に申請さえ出せば商品として流通できる状態になっています。野菜ではトマトなどいくつかの農産物にもそういうものが出始めていますね。商売のために都合がいいようにゲノム編集された食べ物が実際に私たちの口に入るということが間もなく起ころうとしているんです。
ただ、それが私たちにどういう影響を与えるかということは十分に検証されてない。つまり、今から我々は壮大なる動物実験の動物にされてしまうわけです。一人一人が普段から考えて、気をつけていないと、知らず知らずの間にそういうもの食べさせられて、人体実験の被験者にされてしまう。関心を持たない、考えない、知らない、というのはすごく恐ろしいことなんです。
2、3年前に種子法廃止というのが話題になりました。日本には種苗法という法があって、種子はそれぞれ大切なものなので、国や都道府県単位で種子を維持管理して、それを農家さんに正しく渡し、良質な穀物を国民みんなに食べてもらいましょうという法律だったんですけど、その法律が廃止されてしまったんです。ちょうど国会では森友問題で大騒ぎしていた頃でした。その裏で、10時間ほどの審議であっさり廃止が決まってしまい、廃止されてしまったんです。
種子法があったおかげで、質の良い種子で農家さんが穀物を作ることができ、その穀物が国民に均等に行き渡っていたわけですけど、それがなくなったことで、公共機関がやっていたことを民間の会社がやるようになりました。この先、日本の農業はどんどん変わっていってしまうと思います。だからこそ、あるべき農業の姿とはどういうものか、その前提にある生命観とともに、今あらためて皆さんに考えて欲しいんです。
これが私のまとめになります。長い時間ありがとうございました。
質疑応答
質問 松下さんはあるべき農業の姿を考えることの大切さを語ってくれました。その上では前提となる生死観から捉え直さなければならない、と。しかし、農林水産業は従事者がお金を稼がないといけないシステムになっています。つまり、そこにはお金に関係する利害がある。そうした経済的な問題と、生死観の問題とは松下さんの中でどのように接続されるのでしょうか?
松下 その問題は永遠のテーマですね。もちろん、現在は生きてくためにお金が必要だし、そもそもの農作業を持続するためには機械やら資材やらいろんなものが必要です。当然、利益が出なければ続けられない。ただ、利益は出さなきゃいけないとはいえ、やっぱり田んぼの稲に関しては、単に経済のための搾取の対象だとは私には捉えられないんです。栽培している植物は奴隷ではないし、どちらかと言えば私の方がお稲様のために身を粉にして働いてると言った方が体感的には近い。一年間、お稲様に尽くすことでやっとお稲様からお米をもらうことができ、それをどうにかお金にしている、そんな感覚なんですね。
また食というのは生の基礎ですから、私のお客さんにとっても他人事ではありません。単に買い手と売り手という関係を超えて、自分ごととして捉えてくれています。たとえば天気が悪かったり台風があったりすると「大丈夫だった?」って心配してくれるんです。ある年にはあまりに悪天候でどうしようもなく品質が悪かったこともありました。その時も私は素直にこれこれこういう理由で今年は失敗しましたとお話させていただいたんです。実際にいつものお客さんたちに食べてもらうと「確かに美味しくないね」とおっしゃられる。ただ、それでもその一年間、うちのお米を買い続けてくれるんですよ。つまり、お客さんとの間にもそうした有機的な関係があり、決してお金の関係だけでは割り切れるものではないんです。
質問 松下さんは農業の技術を磨きながらも、実践の中では倫理的なところも強く考えていらっしゃる印象を受けました。何が良き生なのか、何が良き社会なのか、そうしたことを考えながら、同時に技術に向き合っていらっしゃる。一方、技術者には、そうした倫理を棚上げしたまま、ただ技術だけをブラッシュアップしている人たちもいます。遺伝子組み換え技術の開発者たちが自分たちの技術がどう用いられるのかということに関心を持っているのかどうか。こうした技術と倫理の問題について、松下さんはどうお考えでしょうか?
松下 それこそ青年海外協力隊に参加してエチオピアに行った時によく仲間たちでこんな話をしていました。私たち日本人は何かあった時のために現地にある程度の医薬品を持っていくのですが、もし現地のお母さんに「子供が病気だからあなたのその薬をください」と言われたら私たちはその薬を子供にあげるべきなのか、と。
おそらく大体の人はあげると思うんです。そうすれば、その子供の病気も治るし、その子供の家族も喜ぶ。あげた自分としても安らかな気持ちになる。だけど、もしかしたら、それは行き過ぎた介入なのかもしれないという視点もあるんです。その子は私たちがいなければ病気によって死んでしまっていたかもしれない。その子が私たちの薬によって生き残ったとなれば当然、他のお母さんも子供が病気の時は薬を求めるようになります。こうして5人、10人、100人と、生き残っていくということが一体何をもたらすのか。
ある村で養うことができる人間の数は決まっています。私たちの介入によって人口が増えていった場合、その村の自然がキャパオーバーとなり、彼らには生産を拡大する必要が生まれる。つまり、自然破壊をしないと自分たちが生きられなくなるんです。こうして山の木が切られ、湖が汚染されていく。そして、その破壊によって、結果的にその村には人が住めなくなってしまう。さらに病に弱い遺伝子が残ることで、なんらかの感染症が蔓延した際には村の大多数の人が死んでしまうことになるかもしれません。本来、こんなことは考えてはいけないことなのかもしれませんが、厳しい環境の中では決して目をそらすことができない切実な問題としてあるんです。
薬をあげれば良心は満たされます。それに倫理的にも「あげません」とはなかなか言えません。「いや君の村が消滅すると困るから」「あなたの子供は死ぬべき子供なんだから受け入れなさい」なんて言えるわけがないんです。そういう葛藤をエチオピアにいた時にずっと抱えていました。科学や技術の発達というのは人類にとっていいことかもしれないけど、自然のサイクルから離れすぎてしまうのはどうなのかという本音もある。今の人類は自然の厳しさから距離をとって安全なところで生活しようとしてますが、命なんて簡単に失われていくものだと意識しておくこともまた必要だと感じます。今回のコロナにしたってそうです。何が倫理的な対応なのかを考えることもそう簡単ではありません。
質問 松下さんの中で快楽がどういう位置付けになっているのか気になりました。農業を営む上ではある局面においては禁欲的に振舞う必要もあるのでしょうか?
松下 人間は欲の生き物ですよね。私にももう一振り肥料を田んぼに入れたいという欲は生じるわけです。我々農家という生き物には一粒でも多くの米を取りたいというのがDNAレベルで書き込まれていますから。ただ、それをやってしまうことによって稲が不健康になってしまったらなんの意味もないんです。だから、そこは徹底して過剰な肥料を入れないように自分を律する必要があります。目先の利益のために稲の健康を損なうようなことはしないということに関しては厳しく自分で線引きをしてるんです。そうしないとブレーキが掛からなくなってしまうんですよね。
人間の欲とはすごいもので、倫理とか宗教とか法律とか人間を律するものがたくさんあるのに、それでも我々は自分たちの欲をなかなか制御できずにいます。だから自分で自分を律するというのも、欲の制御というより、それすらも快楽だと捉えた方がいい気がしますね。我慢するのは快楽の反対側にあるように思うかもしれないけど、自分の作ったマイルールを自分でちゃんと守って、その結果、きちんといいお米が出来上がった時には「よし」と思いますから。それが私にとっての快楽なのかもしれません。
質問 遺伝子レベルで種子を保存するという話がありましたが、稲の遺伝子に関してはナショナルストックセンターのようなものもありますよね。松下さんはそういう機関とどのくらい連携されているものなんでしょう。また全体として種子の保存を行う際に、どのくらいをローカルでやって、どのくらいをトップダウンでやっていくべきなのか、その塩梅についてどうお考えですか?
松下 筑波には農水省管轄のジーンバンクという種子を保存する専門の機関があるんですけど、そこには稲だけでも三万種が保存されていて、その中には海外でそういう設備を持ってないような途上国の種子も含まれています。麦や大豆とかその他も含めると十何万種以上あります。先進国はどこもそういうことをやっている。だから民間の私がそうしたことをやっているというのは趣味の側面の方が強いんです(笑)。
ただ、実際にもしなにか大きな天変地異があった場合、筑波まで取りに行くことができない可能性もありますよね。それに、その種子がどう育つかというのは自分で栽培してみなければ分からないというのもあります。その種子が自分の土地に合うかどうかも分かりません。ジーンバンクでは育て方まではストックされていないですからね。だから、私が実際に育ててみて得られたデータなどは、ジーンバンクにも提供するようにはしています。
構成/辻陽介
写真提供/松下明弘
提携/立教大学マルチスピーシーズ人類学研究会
松下明弘 まつした・あきひろ/1963年、静岡県藤枝市生まれ。稲作農家。静岡県立藤枝北高校卒業。ダンボール製造工場勤務のあと、藤枝北高校農業科で実習助手。87年、青年海外協力隊としてエチオピアへ。帰国後は板金工場に就職し、96年から専業農家に。全国ではじめて、酒米「山田錦」の有機・無農薬栽培に成功。コシヒカリの突然変異体を発見し、巨大胚芽米「カミアカリ」として農水省に品種登録(個人農家による品種登録は静岡県初)。2000年の制度発足時から有機JAS認定を受けている。自他ともに認める「日本一の稲オタク」。著書に『ロジカルな田んぼ』(日経プレミアシリーズ)。
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