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大島托 『失われた“紋”を求めて──1ミリ向こうの古代』 歴史から欠落したメソアメリカのタトゥー①

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。書籍化された『一滴の黒』に続く、現在進行形の新章。

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アポカリプト

 これは年代ごとのイメージがだいぶ違うと思うのだが、80年代末の新大久保は、かなりいかがわしい街というイメージだった。当時、韓国で大ブームになっていたが、日本ではまだ発売されていなかった「辛ラーメン」や「ジャージャー麺」を箱で買うために、一人暮らしをしていた武蔵境から大久保通りの韓国スーパーにちょくちょく通っていた。韓流ブームのずっと前の時代。街は今のような韓流観光地ではなく、さまざまな国の人々が容易に住居や店舗を構えられるという賃貸事情の特徴と、多言語コミュニケーションを疎ましく思う警察の不介入から、ちょっとした租界(自治権を備えた外国人居留地)みたいなものとなっていて、裏通りにわずかに入っただけでバイニンやタチンボと思われる人々がたくさんいた。中南米やロシア、東欧から来てるタチンボの女たちはエキゾチックでとてもセクシーだった。バイニンの男たちはアラブ系が多かった印象だ。いったい何を売っているのだろう。あるいは、いったい何から何までが調達可能なのだろうか。凄く興味深かった。でも、インスタントラーメンの箱を両脇に抱えた貧乏学生には無縁の世界だった。というかビビって声をかけるどころではなかったのが正直なところだけれども。

 そんな憧れの街にスタジオを構えたのは、石原慎太郎都政の「新大久保(民族)浄化作戦」によって、不法滞在者の検挙が行われ、裏通りの隅々までを照らすオレンジ色の強力な照明灯が設置され、バイニンやタチンボもゆっくりと居場所を奪われ始めていた00年代だ。

 裏通りの連れ込み宿のコーナーの植え込みの陰に、馴染みのムチムチ系外国人女がいつものように立っている。吐く息が白い。

「こんばんは、お嬢さん。東京の冬はラテンアメリカ人にはそうとう厳しいでしょ?」

「あたしアメリカ人だから全然寒くないよ。」

 恒例のやりとり。そのことにどんな意味があるのかはよく分からないが、彼女は自分はNY出身のアメリカ人であると言い張り、僕は彼女の本当の故郷のことをしつこく聴き出そうとするという遊びなのだ。

「ちょいと熱燗でもどうですかね?」

 ひまな時にスペイン語の個人レッスンを受けているのだ。以前は山ほどいたのに、このエリアでスペイン語を話すのはもう彼女だけになってしまった。

「そろそろ中南米に行こうと思っているんだけど、どこの国がおすすめ?」

 考えてみればもう何年も外に出てなかった。『太陽の季節』の右派ポピュリズムのオレンジ光線に炙られて街も僕自身もカラカラに萎んできている。もっと暗くて湿潤な「いかがわしさ」を身体の芯が欲していた。

 そんな折、一本の映画に出会った。

 豊かな森で楽しく暮らす狩猟採集民の小さな集落。しかしそこに密かに忍び寄る危機。厳ついタトゥーが印象的な、帝国の人狩り戦闘部隊だ。奴らは人々が眠りについた頃合いを見計らって手馴れた段取りで一気呵成に襲いかかる。打ちひしがれ、縛り上げられた村の人々は帝国へと引き立てられていく。何日もかかってようやくたどり着いたその帝国は大きな人口を抱える階層社会のようだ。貴族たちの装身具やボディーペイントは非常に煌びやかだ。そこで村人たちを待っていたのはさらなる苛酷な運命だった。女たちは奴隷市場で競りにかけられ、男たちは身体を青く塗られて巨大な石造りの神殿の上まで連れて行かれる。そこでは生け贄の儀式が執り行われていた。無理矢理に祭壇に押さえつけられ、恐怖でパニックに陥った人の胸を、司祭は石器のナイフによって切り開き、心臓を取り出して掲げている。農作物の豊作を太陽に祈っているのだろうか。いよいよ主人公と思われる青年の番が来た瞬間、皆既日蝕が始まり、突如、儀式は終わる。用がなくなった捕虜たちは戦闘部隊の手に再び返される。仕方がないので戦闘部隊は捕虜たちを使って弓や槍の練習をすることに。が、主人公は戦闘部隊員の隙を突いて殺し、トウモロコシ畑を突っ切って逃げ出すのだ。ジャングルをひたすらに走って追っ手から逃げまくる。やがて勝手知ったる自分の森にたどり着き、いよいよ反撃の開始だ。

 2006年に公開されたメル・ギブソン監督映画『アポカリプト』。なかなか取り上げられることないコロンブス到来以前の中南米社会を題材にしている珍しい映画だ。しかも全編がマヤ語会話で成り立っている。

 これはヨーロッパ系アメリカ人の主人公が何かのきっかけで未開人コミュニティと関わりを持ち、やがて未開人側に立って戦う、という例のありきたりの「ターザン型」の話ではない。

 裸に近い格好の戦士が石器の武器で、斬ったり、刺したり、ぶん殴ったりして殺し合う迫真の「野蛮さ」が売りのスピード感の溢れるアクション映画だ。

 面白かったから映画館で観た後にはDVDも買ってスタジオで流しっぱなしにしたりして、今まで何度も楽しんできたわけなのだが、いくつかの石器時代的な人々に生で触れてきた僕の視点からはいくつか疑問に思う箇所もある。

 まず冒頭の平和で豊かな狩猟採集集落はちょっとユートピア過ぎる。太った者までいる。狩猟採集社会は争いこそは少ないが飢餓の慢性化した状況で身体も小さいし、そんなに楽観的な暮らしではない場合が多い。もし森が豊かであっても、そのキャパシティのギリギリまで自然に人口は増えていき、獲物は反比例するようにどんどん減っていくのだから、どのみち飢餓がやってくる運命なのだ。それをどうにかするためにはセックスを極端に我慢したり、生まれてきた子供を間引いたり、リスキーな移動をしたり、ということを繰り返さざるをえない。そしてそれらはけっこうな苦労を伴うもののはずだ。

 また、トウモロコシやジャガイモ、キャッサバなどの大規模栽培を基盤に成立する農耕文明の帝国では、収穫高を左右する太陽をはじめとする気候現象を崇拝する信仰が育まれ、その神前に人間を生け贄として献げる儀式が発達しているのは、おそらく世界史上で普遍の現象だと思われるが、その際の生け贄の選定方法は、王族、高級神官、最も強い戦士、最も美しい娘などの、コミュニティにとって重要な人物たちの自薦によるものであったと僕は思っている。嫌がる帝国外の部外者を無理矢理殺すなんてのは喪失感=敬意のカケラもない安物の贈り物でしかないのだから神に対して失礼ではないか。マヤなどのメソアメリカ文明ではサッカーのルーツの一つではないかとも言われる神前球技大会が開催されていたことが知られていて、よく敗者は生け贄とされてしまうので皆必死に闘った、などの解説がなされていることがあるけれど、これはたぶん逆なのだ。つまり、勝者は栄えある生け贄の資格を得られるので夢中で闘ったはずなのだ。生け贄を処刑と同様のものしてネガティヴに捉えたのはスペインから来た入植者たちから近現代に連なる、もはやそれが行われてはいない社会からの視点だと思う。

 そして物語の全体を貫く生への執着、死を遠ざける強い意志というものは、どうにも僕の知ってる彼らの、人の生き死に関してやけにアッサリとしたようなノリとはちょっと違うように思うのだ。まあ、アクション映画だからそうじゃないと成り立たないから、そこは言いっこなしか。

 太陽は死と再生を毎日繰り返している。しかしそれは当たり前のことではないのだ。明日を迎えるそのために、僕が自らの心臓を取り出して空に捧げる時が再び訪れている。

 とりあえずメキシコ南部に出かけることにした。

 

魅惑のチチャロン

 オアハカ州の山村で食堂に入って、豚肉と野菜の炒め物を食べた。メキシコは何と言っても豚肉なのだ。

 出てきたのは中華の酢豚よりももっと全然酸っぱい料理で、酸味が比較的に苦手な僕にとっては、これはけっこうギリギリなセンだった。どっちかというとギリギリアウトの方だ。でも、よその国に来て早々に食べ慣れない味に文句を言って料理を残すようなみっともない素人旅行者ではないので、僕はもちろん完食する。郷に入らば郷に従え、なのだ。

 食事後に宿までのちょっとした登り坂を歩いていたら、何の前触れもなくいきなりドビューッと水鉄砲のように嘔吐した。それこそ下を向くひまもなかった。大当たりだ。いや、もちろんそうじゃないかなという懸念はあった。でもあえて突き進んだのだから仕方ない。時にはあえて相手の技を受けて立つのも場を盛り上げるためには必要だということは、メキシコの誇る最も偉大なるルチャドール、「千の顔を持つ男」ミルマスカラスの闘いから学んでいる。続けざまに吐きまくる。ロープに飛ばされてからのローリング・ソバット(空中後ろ回し蹴り)をくらったような痛みが胃のあたりを襲っているが、折り返してレストランに怒鳴り込むことはせずに、急いで立ち上がって宿に向かう。大股で歩くと危ないので、肛門括約筋を全力で引き締めての小走りだ。宿の部屋のドアノブに手をかけた瞬間に少し気が緩んで一気にギリギリのセンまで追い込まれる。が、どうにかギリギリセーフで便器に座ることが出来た。そして身体が宙に浮くぐらいの勢いのジェットで一滴残らず噴射した。いったいどんな種類の腐敗菌に当たるとこんな事になるというのだろうか。しかも、もう胃腸には何も残っていないはずなのに、何故だか屁が際限もなく後から後から湧いてくる。

 そういえば隣の部屋はスイス女性とメキシコ男性のカップルで、今朝メキシコ男性から聞いた話では、スイス女性は明日婚約者の待つスイスに帰るということだった。今夜がこのリゾラバカップルの感傷と情熱のラストナイトというわけなのだ。

 が、ほんとうに申し訳ないことにどうしても屁が止まらないのだ。このロッジの壁なんてただの薄い木の板に過ぎない。音は筒抜けだ。それどころか便器でさらに音が増幅されている。尻を毛布にでも押し付けて消音したいところだが、必ずしもドライな屁ではないのでそれも出来ないのだ。いったい何を触媒としてこの大量のガスは発生し続けているのだろうか。結局、翌朝まで30分ぐらいのスパンで大音量でブリブリやり続けた。

「昨晩はすぐ隣の部屋の人が死ぬほど下痢しててさ

 3軒隣の部屋の人がロビーでコーヒー飲みながら爆笑して僕に話してきた。

 このように、豚肉をナメてかかると痛い目を見るのだ。ユダヤ、イスラム、ヒンズー教徒がこれを禁忌食材に指定するにはそれなりの理由があるってことだ。

 いやいや、そうじゃない。そんなことを言いたかったわけではない。人は、そんな命の危険を冒してまでも、再びそれに手を伸ばしてしまうほどに豚に深く魅せられているのだ。仕切り直そう。

 メキシコは何と言っても豚肉なのだ。

 回転軸にスライス肉を何重にも刺した塊をじっくり外側から炙っていくパストール(焼き豚)。地中の穴の中でバナナの葉で包んだ肉を蒸しあげて、その際に滴った絶品スープとともにいただくバルバコア(蒸し豚)。低温ラードで外はカリッと中はしっとりに仕上げるカルニータス(揚げ豚)。全てトルティージャに挟んで味わう豚肉パラダイスだ。

 ポソレ(煮豚)もいい。豚の頭を丸ごとと白くてモチモチした種類のトウモロコシを一緒に大鍋で煮る。こまめに火を入れて家族で何日もかけて食べるのだ。最終的には肉もトウモロコシも形を失ったドロドロの混沌の中にツルッとした頭蓋骨が沈んでいるというマジカルな絵面になって味わい深いことこの上ない。

 そんな中でも、僕がメキシコ豚肉料理の最高峰と見なしているのがチチャロンだ。これは豚皮の揚げ物だ。アメリカでスナック菓子として流通しているチチャロンは表皮だけをポップさせたチップスのようなものだが、中南米のやつは皮だけではなく脂や肉が付いたものもある。これはラードによる低温揚げなので、カルニータスの一種でもある。他にも顔のゼラチンたっぷりの部位をカラブレサ、内臓をコスティージャ、などと部位によって呼び分ける。チチャロンはメルカド(市場)の肉屋で売られている。ラードで揚げたそばから大きなトレーに山積みに並べられたやつを客たちがじっくりと品定めして買っていく。チチャロンは単純ではない。皮と肉との比率、カットの形、揚がり具合、それら全ての要素の絡み合った風情には盆栽みたいな巨大な宇宙がある。旨いチチャロンはずっと見入ってしまうほどに美しい。色即是空なのだ。僕の好みはA4A3版ぐらいの板状のサイズで、皮と肉が半々ぐらいのボリュームで、バリっと硬めの、濃い茶色のやつだ。豚の旨みが極限まで凝縮されて閉じ込められている一方で、水分が完全に抜けているので常温でも半月くらいは余裕で保存が利く。テキトーに切り分けて皿に盛っておけばテキーラのツマミとして少しずつ何日も楽しめる。

 はずなのだが、宿のスタッフの「黒」がどんどん食ってしまうのでいつも翌朝には何も残らない。ほんとに一人であんな一気に食えるものなのだろうか。いかがわしい。まさか宿のロットワイラー犬のトッポが夜中に人目を盗んでテーブルに飛び乗って食ってるわけではないとは思うのだが。犬のことは信じる派だ。

 僕がゲストワークしていたのはメキシコ最南部チアパス州の石畳の街サンクリストバル・デ・ラス・カサスだった。そこではタトゥースタジオも宿も、ローカルではなく首都メキシコシティから海外旅行客向け商売とともに移り住んできた男たちが回しているところが多かった。ほとんど皆スケーター上がりで、奇妙な通称のみで活動している。タトゥースタジオのボスは「練り生地」、弟のピアッサーは「小指」。宿のオーナーは「豆」と「ヒキガエル」、スタッフは先ほどの「黒」のほかに「ハゲ」。他にも「バーガーキング」「コッペパン」「自転車」「バター」「オカマ」「ロシア」などなど。僕は半年以上もこの街で暮らしていて、タクでいたのは初めのひと月、次の月にはチチャロンのタクになり、残りはただの「チチャロン」になっていた。

 

「歴史から欠落したメソアメリカのタトゥー」②を読む>>

 

 

〈INFORMATION〉

『一滴の黒』大島托 著(ケンエレブックス 刊)

https://books.kenelephant.co.jp/products/9784910315157

日本を代表するタトゥーアーティスト・大島托が、トライバルタトゥーをめぐるリアルな習俗と歴史、そして現在を描き出す旅の記録。全国書店にて発売中。

 

 

〈MULTIVERSE〉

「レオ・ベルサーニをめぐって 」──クィアが「ダーク」であること──|檜垣立哉

「ゴシックからブラックへ、アフロ・マニエリスムの誘惑」── “暗黒批評”家が紡いだ異貌の黒人音楽史|後藤護インタビュー

「死と刺青と悟りの人類学──なぜアニミズムは遠ざけられるのか」|奥野克巳 × 大島托

「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛

「あるキタキツネの晴れやかなる死」──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ

「パンク」とは何か? ──反権威、自主管理、直接行動によって、自分の居場所を作る革命|『Punk! The Revolution of Everyday Life』展主宰・川上幸之介インタビュー

「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾

『ごきげんよう、ヒドラちゃん』|逆卷しとね

「HOW TO SCAN THE WORLD 」── 世界をくまなく、そして注意深く、「見る」「触れる」「遊ぶ」|BIEN × 石毛健太 × 髙木遊

 

 

PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。著書に『一滴の黒』(ケンエレブックス)。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html