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現代魔女たちは灰色の大地で踊る──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香(前編)

混迷する時代に現代の魔女たちは何を見据えているのか。現代魔術家の磐樹炙弦と現代魔女の円香が新異教主義の現在・過去・未来を語る。

 


 

時代はいつだって混迷を極めているものだ──が、果たして今日の混迷ぶりにはなかなかどうして「本物」感がある。

2年続いたいわゆるコロナ禍は、すでにヘイトとハラスメントと陰謀論とキャンセルカルチャーの闇鍋状態にあったSNSをいよいよ修羅の巷へと変貌させている。その湯釜から漂う鼻腔を穿つような臭気はネットの外にも漏洩し、いや、今日となっては現実空間の方がネット空間以上のスラップスティックを演じつつあるとさえ言える。

誰かが言い放ち、正しく検証される間もなく広まった「分断の時代」という言葉は、それ自体が時代の空気を醸成するアクターとなっている。むろん、我々はいつだってバラバラだったはずだが、今日においてはバラバラであることが病として認識されるようになったのだ。

いつ誰が決めたのか、病であるからには治療されねばならない。そして、その認識こそが「分断の時代」のイマージュを形成する。見飽きたマッチポンプ、されど一度目は悲劇として、二度目は笑劇として、三度目はポルノとして、それは性懲りもなくアンコール上映を繰り返している。

ところで、この悪い冗談みたいな時代に、まさしく悪い冗談みたいな勢力がにわかにここ日本でも存在感を増してきている。Qアノンの話ではない。ネオペイガン――新異教主義者たちの話だ。

現代魔女、ウィッカ、女神信仰、個人が立脚する立場や態度にはそれぞれ少なくない差異があれど、この「混迷」の時代の中で「思想ではなくまじないをやる」という態度を彼らネオペイガンたちは共有している。むろん、それは単に洗練された現実逃避の作法などではない。それはフェミニズムさえも巻き込んで時代に抗する、異形にして真正なる政治的アクティビズムだ。

しかし、なぜ今、この局面において「まじない」なのだろう? ディープラーニングと再生医療の21世紀に、異教の神々を召喚して輪になって踊ろうだなんて、それこそタチの悪い冗談のようにも思えなくない。

果たして今日、彼らは時代の問題をどう捉え、かつその実践に何を期しているのだろうか?──2021年が間もなく暮れようとしていた昨クリスマス・イブ、かくしてネオペイガニズムの現在、過去、未来を問うべく、本媒体で『ウィッチ・フェミニズム――現代魔女運動の系譜』を連載中の現代魔術家・磐樹炙弦と、「未来魔女会議」を主催する現代魔女・円香にZOOMを繋ぎ、対談を行った。

話題は、今日再び顕在化しているという「テクノペイガニズム」についてを皮切りに、時事を織り交ぜつつ、また時に女神の解釈をめぐり見解の衝突なども起こしつつ、極めて多岐に及んでいる。例によって魔術と魔女術にあてられ、気が付けば40000字弱に及んでしまった対談記事を、前、中、後の三編に分けてお届けしよう。

 

取材・文/辻陽介

バナーデザイン/磐樹炙弦

 


 

テクノペイガニズムの系譜

DZ さて、本日は現代魔術家の磐樹さん、現代魔女の円香さんのお二人をお招きし、ネオペイガニズムすなわち「新異教主義」の現在・過去・未来をめぐって色々と語り合っていただこうと思っています。が、まずなにより、年末のこの忙しい時期にお時間を割いていただいたことをお二人に感謝しなければなりません。しかも今日は12月24日です。あ、でも魔術師と魔女にとってクリスマスは特別に祝うような日でもないんですかね?

磐樹 12月24日ということには特に何も感じないですね。むしろ、2021年という年号に興味があるかな。というのも、2021年って2012年がちょうど反転した形でしょう? 2012年といえば「アセンション」という言葉が流行っていた時期で、テレンス・マッケナのタイムウェーブ理論に基づいて2012年の12月でマヤ暦が終わるんだとオカルトシーンが大いに盛り上がってたんですよ。あれからまもなく10年になるわけだけど、あの頃のアセンションするのかしないのかみたいな緊迫感が今日もまた生じているような気がしますね。

 

 

円香 魔女の世界でいうと冬至はユールと言って太陽神が復活する重要なサバトの時期ですね。長かった夜が終わり、日が長くなりはじめるこの時期にキリストが生まれたということも、全くの偶然ではないんじゃないかな。

磐樹さんが言う“緊迫感の高まり”ということでいうと、ちょっと前から90年代ブームのようなものが起こっているじゃないですか。そことも関係しているのかもしれない。ただ、そもそもの90年代カルチャーが60年代カルチャーの再流行という側面もあるんですよね。LSDの代わりにエクスタシーが流行っていたり、巨大な野外ライブがゲリラ的なレイブカルチャーに姿を変えて盛り上がっていたり、60年代のように新興宗教が流行していたり、ジミヘンの代わりにレニー・クラヴィッツが出てきたり、まあ90年代自体が60年代が部分的に回帰したような時代だったわけですよ。あれから30年が経って今度は90年代的なものが流行として再出現し始めてるわけだけど、2020年代はまだ始まったばかりだから、今後どうなるのかちょっと楽しみですよね。

 

 

その中でも私が関心あるのはコロナ禍であらためて顕在化したテクノペイガニズムかな。テクノペイガニズムとは要するに先端的なテックと結びついた異教主義のことなんだけど、これも90年代カルチャーの一つなんだよね。あるいはここ数年で盛り上がってきているモダンプリミティブズ的なカルチャーもそう。90年代のコンピュータ―ギークって鼻ピしてたりするじゃないですか。それらは無関係の現象ではないんですよね。

それこそ最近では私や辻さんが参加してる縄文族のようなものがじわじわ台頭してきてるわけで。テクノペイガニズムとモダンプリミティブズが大体同じくらいの時期に起こっていたムーブメントだったということを思うと、やっぱり今もう一度そういう波が来ている感じがしちゃうよね。

 

“JOMON TRIBE” Photo by Keroppy Maeda

 

磐樹 雑誌『RE:SEARCH』の、ファキール・ムサファーとかジェネシス・P・オーリッジとか載ってた”MODERN PRIMITIVES”特集号が出たのがいつだっけ?

 

雑誌『RE:SEARCH』のMODERN PRIMIITIVES特集号

 

円香 1989年。

磐樹 なるほど。一方のテクノペイガニズムでいうとダグラス・ラシュコフの『サイベリア』が1994年だったね。

 

 

円香 そう。その後に『エスケープ・ヴェロシティ』も出てる。あと、同時期にテクノグノーシス主義を標榜した『TechGnosis』という本も出てるよね。

 

 

磐樹 エリック・デイヴィスの本だね。あれは初版が1998年で2015年に新装版が出てる。

 

 

円香 『エスケープ・ヴェロシティ』は出版が96年だから、やっぱり90年代半ばくらいにテクノペイガニズムが大きく盛り上がってたんですよね。で、その直後くらいからデジタルメディアの中に霊的なものが入ってくるというフィクションがガーッと出始めてる。1997年には『Buffy the Vampire Slayer』(以下、『バフィー』)っていうドラマが始まって大人気になるんだけど、『バフィー』には悪魔がコンピューターに憑依してしまったからそれを退治するためにコンピューターの前で蝋燭を立てて祈祷文を読んで儀式するっていうシーンがありますから。ちなみにそこに出てくるカレンダー先生っていう女性の体にもボディピアスが施されているという設定になってましたね。

 

 

その翌年の1998年には日本で『リング』が公開されて貞子がシンボリックな存在として登場してる。同じ年に『リング』の小説版の続編として『ループ』という小説が出てるんだけど、そっちはまさにサイバー空間がホラーの舞台になってるんです。

 

 

で、1999年には『マトリックス』でしょう。『リング』と『マトリックス』の間くらいの時期には『serial experiments lain』(以下、『レイン』)っていうテクノグノーシス的でカルトなアニメーションも出てる。さらに2001年には『回路』、2003年には『着信アリ』と続いていって、いよいよデジタルメディアに対するオカルティックな想像力が一般化していった感じかな。

 

『serial experiments lain』

 

 

磐樹 マーク・デリーの『エスケープ・ヴェロシティ』もダグラス・ラシュコフの『サイベリア』も共に当時のサンフランシスコとかで起こっていたことのルポルタージュなんだよね。だから、そこに書かれていることは遡ること3、4年前くらいには起こっていたということになる。つまり90年代初頭だよね。さらにいうと、彼らが書いたサイバーグノーシス、テクノペイガニズム的な世界のオリジンはどこにあるかと言えば、当然これは『MONDO2000』という雑誌、つまりサイバーパンクというムーブメントがある。『MONDO2000』は1984年に前身雑誌が創刊して1998年に終わってるから、やっぱり一番先駆的だったんだよね。

 

『MONDO2000』

 

この『MONDO2000』を編集していたのはR.U.シリアスで、ティモシー・リアリーやロバート・アントン・ウィルソン、グレイトフル・デッドのジョン・ペリー・バーロウといった、カリフォルニアン・イデオローグがこの時、この雑誌にほぼほぼ集結してた。彼らがやっていたことが『サイベリア』や『エスケープ・ヴェロシティ』で紹介されるようになり、それが『レイン』とか『リング』とかその他のポップカルチャーに波及していった感じだね。そう言えば、僕が持っていた『MONDO2000』は全部あげたよね、円香ちゃんに。

円香 もらいましたね(笑)

磐樹 あれを読んでみると分かると思うけど、『MONDO2000』の段階ではいわゆるポップカルチャーでは全くなかったんだよね。

円香 怪しいですよね、全体的に怖さがある。

磐樹 キンキーでクィアな大人のアンダーグラウンドな雰囲気に満ちてるからね。ポピュラリティを得そうな雰囲気は全くない。それが90年代の半ばくらいに逆流するような形でポップな方向に反転していった。90年代後半のあの感じを僕はすごくよく覚えてる。それまでは『RE:SEARCH』やサイキックTVや『MONDO2000』をみんな不気味がって敬遠していたのに、突然日本のオタクたちが「これこそが俺たちの世界だ」みたいな感じでそれらが持つイメージや世界観を転用し始めた。当時、リアルタイムでその唐突な方向転換をすごいなって感じながら見ていたのを覚えてるよ。

 

 

円香 そうなんだね。でも、たとえば『レイン』とかは日本のアニメの中でもかなり特殊な作品だったからね。いわゆるメジャーではない。

磐樹 『レイン』の作者は『MONDO2000』をはっきりリスペクトしてるよね。

円香 『サイベリア』が明らかに元ネタになっているような描写とかも多かったしね。劇中のクラブの名前が『サリベリア』だったり。監督の中村隆太郎さんは日本のアニメにサイベリア的な世界観を取り入れようとしていた唯一の人だったと思います。もう亡くなられてしまいましたけど。

磐樹 あ、亡くなられてるんだ。他にはそういうことしてる人はいなかったの?

円香 少なくとも私の知る限りではいないかな。たとえば押井守の映画版『攻殻機動隊』の最後のシーンで一瞬天使が降りてくるみたいな、そういう部分的な描写には肉体が機械に代替される中でも存在しつづけるゴーストとか天使の存在が描かれていたりはするけど。でも、日本のアニメはなんだかんだ兵器としてのロボットに乗って何かと戦うみたいなジャンルが強いですからね。

 

 

磐樹 するとサイバーパンク特有のおどろおどろしい感じは『レイン』がそうだったように「とっつきにくさ」を保持したまま継承されてきたんだね。一方、僕は『攻殻機動隊』の劇場版が作られた時はすごいびっくりしたけどね。士郎正宗の原作を読めば分かるけど、とても劇場用のアニメ作品にしてビッグビジネスになるタイプの作品じゃなかったから。だから当時はポップ化していったものとアングラに留まり続けたものとが併走してたんだろうね。

 

『攻殻機動隊』士郎正宗

 

円香 そうでしょうね。ただ、いずれにしても『レイン』も『リング』も、その時代に現れた大衆の恐怖心が反映されたものですよね。それでいうとウィンドウズ95の登場が大きくて、あれがなければ『バフィー』でああいうシーンが描かれることもなかった。それはフェミニズムが台頭してきた時とかとも同じで、その当時は映画『エクソシスト』(1973)みたいな作品が流行していたわけです。コントロール不能になった少女がエクソシストを殺してしまうみたいな描写に当時の男性の恐怖心が表れてる。

 

 

『サスペリア』(1977)やジョージ・A・ロメロの『悪魔の儀式』(1972)もそうですよね。悪魔憑きの少女やウィッチクラフトに目覚めてしまった妻が夫を殺すみたいな描写の背景にはフェミニズムや原始的な異教主義への恐れを感じる。そもそも昔話やポップカルチャーの魔女というのはこれまでずっと女性への恐怖がリフレクションしたシンボルだったんですよね。

 

 

 

磐樹 まあフィクションは時代に呼応するものだからね。あ、そうそう、90年代のテクノペイガニズム的な想像力に関しては、ウィンドウズ95の影響はもちろんとして、1993年に創刊した『WIRED』の存在も大きかっただろうとは思う。ちょうどあれくらいの頃にカリフォルニアのアンダーグラウンドのサイバーカルチャーが一気に陽転したんだよ。陰から陽へと猛烈にスピンする遠心力が放つ飛沫を浴びて、当時最も早く表現へと昇華させたのがホラーだったのかもしれない。そう思うと、2020年代の今日、どんなホラーが支持を集めているのかが気になってくるね。

 

『WIRED』

 

現代は暴力に取り憑かれている

円香 今はどんなホラーが人気あるんだろうね。そこらへんは全然追えてないけど。ただ相変わらずゾンビは人気ありますよね。

磐樹 ゾンビってまだ人気があるんだ(笑)

円香 人気がどれくらいあるかははっきりと分からないけど作品は出続けてるし、話も聞くよね(笑)。日本でも数年前にゾンビ映画をパロディ化した『カメラをとめるな!』が大流行したし、ゾンビアニメが一時期ちょっとしたブームみたいにもなってたし。ゾンビって消費社会のモンスターだから、そういう意味では通時的な普遍性があるのかも。ゾンビに追われた人が逃げ込むのがスーパーマーケットだっていうのも定番だよね。ここ最近「Liminal Spaces」が流行しているのも、そういう意味ではどこかゾンビ映画に惹かれる心理と近いのかもしれない。浮かれたバブルの残骸へのノスタルジーが不安や恐怖と共に表象されているというかさ。

 

 

 

磐樹 映画監督の福居ショウジンさんが東中野でやってるTVBARけむりという飲み屋があって、そこではゾンビ映画ファンが夜な夜なゾンビについて語り合っていたりするんだけど、もうだいぶ以前に行ったことがあるんだよね。その時に福居さんが話していたことで印象的だったのは、ゾンビというのはつまり殺すことが許されたヒトガタであるということ。普通のバイオレンス映画で人間を撃ち殺しまくったりしていると怒られるけどゾンビだと人間ではもはやないからそれが大丈夫になる。だからものすごい暴力描写ができる。鉈で首を切ったり、動いているまま燃やしたり。人間に対しては決してやってはいけないことをしていい対象としてゾンビがいて、ゾンビ映画があるんだといったようなことを福居さんが話してて、なるほどなと思ったよね。

 

 

円香 そうだよね。しかも製作にお金があまりかからない。ちょっとメイクしただけで誰でもゾンビになれるからね。終わりが全く見えない資本主義社会で永久に消費し続ける私たち自身のパロディとしてのゾンビを、パロディ元である私たち自身が撃ち殺しているという構図も面白い。それにゾンビ映画って結構ヒューマンドラマを内包してるからエンタメ性も高いしね。

磐樹 あ、ヒューマンドラマが描かれるようなこともあるんだ?

円香 結構シリアスに描かれてますよ。家族がゾンビになってしまって悲しいけれど撃ち殺さなければいけないみたいな葛藤が大体のゾンビ映画には描かれていて。

 

 

磐樹 なるほどね。ところで、もし本当に2020年代にゾンビ映画が再びエンパワメントされているのだとすれば、もう一つの要素としてはFPSの流行があるんじゃないかな。僕はFPSをやらないから分からないところはあるけど、FPSの快楽の少なくない要素としては高い臨場感を感じながら敵を撃ち殺していくということにあるわけでしょう? そういう快楽に対する需要が高まった時、ゾンビという便利な存在があらためて必要になってくるんじゃないかな。

DZ 2010年代にはFPSではないですが『GTA5(グランドセフトオートⅤ)』の大ヒットもありましたね。あれは街の通行人を好きに撃ち殺すことができるような、まさに暴力衝動をとことん満たしてくれるエクストリームなゲームで、本来ならアングラでこっそりプレイされるような内容ですよね。だけど、それがすでに世界で1億5千万本以上を売り上げていて、歴史上2番目に売れたゲームになってる。ポリコレが世界を席巻していった2010年代に、一方では極めて暴力的なゲームが爆売れしていたというのはなんとも皮肉な話です。

 

 

磐樹 そうだね。以前はモニターを出たり入ったりする怖い幽霊が想像されていたわけだけど、今日はゲームで人を撃ちまくるというホラーを超えた殺戮を体験できてしまうわけだから、そっち側にホラーの現場があるのかもしれない。でも、なんでそんなに人はバイオレンスに駆り立てられてるんだろうね。特にアメリカは今かなりやばいことになってるでしょう? 誰も言わないけどほぼ内戦状態だよ。

今日(12月24日)もフィラデルフィアの年間の殺人事件の被害者数が500人を超えていたという記事を読んだけど、フィラデルフィアの人口は150万人くらいなんだよね。これは日本でいうとおおよそ九州の鹿児島県の人口くらいなんだよ。もちろん鹿児島県ではそんなに殺人事件は起きてない。それどころか日本全体でも年間の殺人事件の被害者数は880人程度。アメリカのある小さめの都市だけで日本全体で起こってる数に迫るくらいの殺人事件が起きてるということなんだよね。実際、ティーンネイジャーの銃乱射事件とかしょっちゅう起きてるじゃないですか。 アメリカ社会とそこから発信されるポップカルチャーが極端なんだろうとは思うけど、今の世界が暴力に取り憑かれているという印象は否定できないと思うんだよね。

円香 VRの世界はそこらへんデリケートなんですよね。というのも、『GTA5』のVR改造版をつくってる人がいるんですけど、実際にそれをプレイしたら自分で罪悪感を感じて恐ろしくなったらしい。たとえばあのゲームではタクシーの中から運転手を引き摺りおろしてタクシーを奪うというプレイもできるわけだけど、それをVRで経験すると本当に自分がそれをしてしまったかのような感覚になるんだって。やっぱり平面のディスプレイで体験する世界と完全に没入して一人称で体験する世界とでは経験に差があるんですよね。

ジェレミー・ベイレンソンというVR研究の人も「VR経験はたんなるメディア経験ではなく実際の経験だと理解した方がいい場合が多い。実際の経験と同じく、我々の態度や行動を変えうる」と言ってて、VRで一人称暴力ゲームを作ることに対してはすでに警鐘を鳴らしてる。だから、VRコンテンツを作る会社はどこもその点をかなり気をつけてると思うよ。

ただ、結構きわどいのもリリースされてはいて、たとえばちょっと前に話題になった『Half-Life: Alyx』というVRゲームはハリウッド映画級のクオリティで人の死体とかが出てきたりしてて、実際、PTSDになりそうなくらい怖いんだよ。死体の柔らかさやしずる感とかまでリアルに再現されててね。

 

 

磐樹 キワキワを作ろうとしている人たちもいるわけだね。

円香 そうだね。私自身は怖いものがすごい苦手だからあんまりそういうのには触れないようにしてるけど。ただ、有名な「ザ・ヴォイド」っていうアトラクションの中のVRお化け屋敷「Nicodemus: Demon of Evanishment (2018)」には行きましたね。マジで怖すぎてガタガタ震えながら友達にしがみついて進んだのを覚えてる。みんながギブアップしないのが不思議だったくらい。

 

 

磐樹 へえ。それはアメリカのアトラクション?

円香 そう、「ザ・ヴォイド」っていうのは没入型のアトラクションを製作する会社で、スターウォーズとかマーベルとかのコンテンツも出してる今その手の業界では一番有名な会社かな。

磐樹 アメリカは本当にそういうところすごいね。リアルでも乱射事件が起こりまくってて、VRでもギチョンギチョンにやってて、なんで暴力がそんなに好きなんだろう。

円香 まあVRはまだそれほど普及はしていないからVRが必ずしも暴力衝動を煽ってるってことはないと思うけどね。実際、私が留学していた南カリフォルニア大学ではPTSDになってしまった米兵の患者さん向けにVRを使用した治療を行う研究が行われていたりもするし。たとえばあえて患者さんに戦場の様子をVRで見せることで思い出せなくなっていた記憶がよみがえり、それが治療に役立つということもあるらしい。だからこのテクノロジーもまた使い方次第なんですよね。ただ、FPSとかはもしかすると少しは影響しているかもしれないね。

磐樹 影響はともかく本当にハマってる人が多いよね。うちの院長(遠迫憲英)もメニエール病になるまでFPSやってるみたいだし(笑)

円香 私のパートナーも死ぬほどFPSのゲームやってましたよ。『PUBG』って全世界で10億ダウンロードされてるTPS/FPSのゲームで、北米サーバー500位以内に入るくらいやりこんでたから。私がいつも怒ってた(笑)

 

 

磐樹 だからよっぽど流行してるってことなんだよ。身近なところでこれだけ熱中している人がいるんだから。やってない僕たちの方がおかしいのかもしれない。

円香 ちなみに私は結構やってましたよ、FPS(笑)。すっごい面白かった。磐樹さんもやってみた方がいいよ。電話みたいに友達と喋りながらずっと車を運転してるのが面白いの。

磐樹 まあ想像はできるよ。ただ、やりたくはないかな。今、そこにノっていける人とノッていけない人との間で乖離が起きている気がするな。FPSに馴染めない層が一定のボリュームを持って社会に潜伏してるんじゃないか、と。まさかFPSやってないのは世の中で僕だけってことはないだろうしね(笑)

 

LSD→MDMA→FPS

円香 辻さんはFPSやってるの?

DZ 僕はゲーム自体はそれなりにやってきたけどFPSは苦手ですね。TPSの方がやりやすい。TPSの場合、キャラクターの背中越しにゲーム世界を満喫することになるわけだけど、それが僕にとっては必要な仮想世界とのディスタンスなんです。ただ、僕の周囲にも確かにFPSやTPSにどっぷりハマってる人は結構な数いますね。オフの時間はずっとそればかりやってる。本当にジャンキーのように。

磐樹 まあゲームは間違いなくドラッグだよね。僕はドラッグの趣味としてもゲームはやらないかな。

円香 ドーパミンが出るからね。SNSが中毒になるのと似ていると思う。FPSとかじゃないけどうちの母親とかはポケモンGOをずっとやってる。年齢層や趣味ごとにフィットするドラッグとしてのゲームがあるんだろうね。

磐樹 さっき60年代、90年代、2020年代と30年周期に流行が繰り返すという話があったけど、60年代にはファーストサマーオブラブがあったわけでしょ。で、90年代にはセカンドサマーオブラブとサイバースペース革命があった。今はその30年後なんだけど、もはや『サイバースペース独立宣言』を書いたジョン・ペリー・バーロウもいなくなっているわけで、ただゲーミングジャンキーが徘徊するゾンビストリートがあるばかりになってしまったってことなんだろうね。

 

ジョン・ペリー・バーロウ(画像引用:Wikipedia)

 

DZ LSD、MDMAときて、2020年代はFPS、と。面白いですね(笑)

磐樹 あるいは、60年代はケミカル、90年代はパーソナルコンピューティング、2020年代はゲーミングだと言ってもいいかもしれない。実際、あらゆる全てがゲーミングになっている気がする。だから僕はそこにおっかなさを感じて乗り切れないんだよ。実際、ゲームマシンを一台も持ってないし、生活習慣の中にゲームが板についたということがない。

円香 私は小さい頃からゲームをやってたし、なんならゲームの中でペットを飼うようなことが当たり前だったからね。「たまごっち」とか、「どこでもいっしょ」とか。ゲームの生き物に親しみを感じて、それが死んだら悲しむということが自然な感覚としてあった。ゾイドみたいな機械の生命のようなものとずっと共に生きてきてるんだよね。ゲームも今でこそやらないけど散々やってきたし、気が付いたらゲームを作る会社で働いてるし(笑)。だから色々と考えさせられるところはあるね。

 

 

ていうのも、磐樹さんがゲームを警戒する理由もよくわかりつつ、一方でゲームの中でしかできない素敵な経験もあるように思うんだよね。ゲーム世界で人と助け合うことでチームワークを学んだり、あるゲームを通して共通の身体感覚を獲得したり、あるいはゲームの中でクリエイティブなことをする人たちもいるし。実際、ストリートファイターやテトリスとかのプレイヤー同士の話って独特なんだよね。これはそのゲームをやってなくてその身体感覚を持ってない人にはまるで分からないものなんだけど。

磐樹 やってない人には分からないという点もドラッグカルチャーと似ているね。LSDにせよエクスタシーにせよ、サイケデリックなものというのはそれをやったことがない人には良いも悪いも分からない。ゲームも今まさにそうなっていて、だから僕には全然分からないんだよ。身近にいる院長の話してることすら理解できないんだから。

ただ、60年代と90年代との違いでいうと、ゲームの世界にはエリーティズムがないように思うんだよね。68年のウッドストックに向かっていく流れの中でドラッグは基本的に違法なものだったでしょう? ギリギリ規制前に出回ったものもあるけど、基本はイリーガル。それをアンオフィシャルなディーラーが媒介してた。一方、90年代のパーソナルコンピューターはお店に行けば確かに誰でも買える状況だったんだけど、それでもまだ純然たる消費市場って感じじゃなかった。特にマッキントッシュを買う人たちは、マックを買って自分のWebページを書いたり、それによってクリエイティブに何かを生み出そうという感じが強かった。つまり、ドラッグディーラー的なエリーティズムがまだ90年代には残ってたんだよね。

ただそれから30年後のゲームドラッグの世界にそういうエリーティズムが残っているようには少なくとも僕には見えない。プレイヤーが単なるコンシューマーであることを超えてクリエイティブに何かを起こしうる契機というのは今日のゲーミング時代にも残ってるのかな?

円香 エリーティズムとは違うけど、いまのメタバースの中でも一番面白いVRChatに参入するのはまだかなりハードルが高いよね。案内なしで始めるのはとても難しいカオスで特殊な空間。それこそ『レイン』みたいなインターネット黎明期の不気味さがあるんですよ!「これってアウトじゃないの?」ってものも沢山あるし、治安もえぐい。でもバ美肉の方って実際に話してみると親切な人が多いんですよね。「ググレカス!」っていう文化じゃない。初心者に優しい人が多い印象がある。だから、何もない空間に何かを作れる人たちが今のメタバースを楽しんでいるとも言えるんじゃないかな。

あとクリエイティブって点ではゲームエンジンだよね。UNITYとかBlenderが出てきたことで個人が誰でもゲームを作れる時代になったから。それはアフターエフェクトの登場とかとも似ていて、実際、アフターエフェクトが出たことで個人で映画やアニメーションを作る人がどっと登場したし、その中に新海誠とかがいたわけだよね。今はそんな感じで誰でもゲームを作ることができるといえばできる。あるいは『マインクラフト』みたいなゲームはプログラミングの勉強にも使われてるよね。『マインクラフト』にはゲーム自体に特定の目的がなくて、場所だけが提供されてるの。その空間において子供から大人までデジタル空間に色々なものを作るということが行われてるんだよね。

 

 

磐樹 なるほどね。比較的に自発性が担保されているような空間もあるといえばあるんだ。そこにはまあ僅かな可能性を感じる。ただ、アンオフィシャルなドラッグディーラーやヘルスエンジェルスのような人たちに場が支えられていた60年代、サイバーパンク好きのギークやナードがアンダーグラウンドで『レイン』みたいなおどろおどろしい作品をつくっていた90年代と比べると、相対的にコントロールが強まってしまっている印象はやっぱり拭えないかな。いかに自発的に独自のゲームを作ったとしても流通のところでプラットフォームに依存せざるを得ないわけでしょう? まずネットに入らなければならず、ゲームのプラットフォームにアクセスしなければ始まらない。そうなると、結局のところどんどん窮屈になっていってく一方のようにも思える。

たとえば60-90年代にグレイトフル・デッドのツアーに同行しようとした場合、必要だったものはプラットフォームじゃなくてネットワークだったわけだよ。その点、今の僕たちはどんどん入れ子状にプラットフォームの内側に巻き込まれていってる。確かにそこには『マインクラフト』みたいな自由さが残っているとされている空間はあるんだろうけど、所詮は例外に、あるいはまやかしに過ぎず、結局、僕らのクリエイティビティはどんどん狭いところに押し込まれていってしまってるような気がするんだよね。仕事から帰って寝るまでの4時間くらいの有限なリソースをゲーム画面に吸い込まれながら「我々はクリエイティブなことをやっているんだ」と思ってみても、それはもう二重三重に取り込まれたプラットフォームの内部でしかない。そういう閉塞感を感じるんだよ。

 

 

円香 分かりますよ。どのツールを使うとかどこのプラットフォームが覇権を握るってことにこの業種は大きく左右されるからね。Adobeの新機能がデザインのトレンドにダイレクトに影響したりもする。XRやVRのサービスを開発するとなるとUnityかUnreal Engineかの二択になるし。

ちょっと話はずれるけど、コロナ禍になって以降、私は会社にアバターで出社してるんです(笑)。他のメンバーもみんなそう。メンバー同士のコミュニケーションも可愛いアバター越しに取ってたりしてて。そうなるともはや仕事さえゲームみたいな可愛い雰囲気になってくるんだよね。

磐樹 お金を稼ぐことも今はゲーム化してるからね。イーロン・マスクが何か言っただけで仮想通貨の価格が乱高下したりしてて、それによってイーロン・マスクは瞬時に何億という金を稼いでたりするわけでしょう? これがゲームじゃなくてなんなのか、と。

資本主義社会はずっとそういうもんだったと言ってみても、今までは一応その中で労働者の権利やヒューマンライツの枠組みによって保護してきた、資本の論理と拮抗する建前があったわけだよね。皆さん起きたら工場に行ってあなたのリソースをここに費やしてください、そしたらその労働に見合ったお給料をお支払いします、そこはフェアにやりましょう、みたいなさ。その建前さえ今は瓦解して全てがゲーム化していってる。それによって経済活動自体が生き馬の目を抜くような熾烈さを持ち始めてるように思えるね。さらに、今の人たちにはそうした状況に対する抵抗意識さえないような気がするんだよ。

DZ 実は僕は数年前にオンラインゲームに割とどっぷりハマっていた時期があったんですけど、その時になんでみんながゲームの世界に吸い込まれていくのか少し分かった気がしたんですよね。端的に言うと、これもまた60年代、90年代のカウンターカルチャーと似ていて、資本主義の酷薄さに対するひとつの前意識的なアゲインスト、あるいは逃走なんじゃないかなと感じたんです。ただ、かつてと違ってそれはイデオロギーのような体をなしてはいない。単に資本主義的、新自由主義的な価値観への疲弊から人がそこに流れてきているという感じなんです。

というのも、オンラインゲームの世界というのは基本的に、すでにある身分の格差やスペックの格差なんかを、一旦帳消しにしてくれるものなんですよね。チャットシステムは複雑な会話には向いてないから、知識の多寡もあまり意味はなさない。もちろん、どんな見た目をしていようが、どんなジェンダーを生きていようが、問われない。ゲームによっては競争的な要素が強いものもあるけど、現実世界のような酷薄さはそれほどなくて、もっとスポーティーでカラッとしてる。下手な人を周囲がカバーしたり、初級者にゲーム内マネーを融通したりといった形で相互扶助も機能してる。資本を蓄えこむような吝嗇家よりも、周りを丁寧にケアできる人間が人望を集め、さらにクセが強い人間がいてもやんわりと許容される緩さもある。おそらく、現実の企業で漫然とした気持ちで働いているよりも、自分が誰かに求められているという実感を得やすい。つまり、そうなるように設計されてる。そりゃこの世界にハマる人が増えるよなと思ったんです。

僕はある時にパッとゲームをやめたんだけど、正直、紙一重だったなと思います。現実世界に自分の主要なリアリティを置き続けておく理由がなんなのか、分からなくなりそうでしたから。今のゲームはよくできていて、現実のままならなさ、つまらなさ、煩わしさもきちんと提供してくれるんです。程よいストレスも与えてくれるし、人間関係のもつれもしっかりある。つまり、そこで得られるのは夢想的なユートピア世界にいるという感覚ではなくて、現実よりも幾分かまともになった社会を生きているという感覚なんですよね。すると、いよいよ現実世界に足を止めておく理由が本当になくなってくる。『コングレス未来学会議』じゃないですけど、アバターではない世界に居続けることの理由とはなんなのか、いやそもそもこの現実世界はそう信じられているほど“現実世界”なのか。正直なところ、今もはっきりとは分からないところがありますよ。

 

 

円香 それ本当に思うよね。

磐樹 すごく危うくなってきてる。みんなその理由を見出せなくなってきてるんだろうね。

 

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磐樹炙弦 ばんぎ・あぶづる Bangi Vanz Abdul/現代魔術研究・翻訳。メディア環境、身体、オカルティズムと文化潮流をスコープとし、翻訳 / 執筆 / ワークショップを展開。翻訳: レイチェル・ポラック「タロットバイブル 78枚の真の意味」 (2013)/ メアリー・K・グリーア「タロットワークブック あなたの運命を変える12の方法」(2012 ともに朝日新聞出版) / W.リデル「ジョージ・ピッキンギル資料集 英国伝統魔女宗9カヴンとガードナー、クロウリー」(東京リチュアル出版) / 心療内科・精神科HIKARI CLINIC フローティングタンク担当。

 

円香 まどか/魔女。南カリフォルニア大学Jaunt VR LabにてInteractive Animation、VR/XRを滞在研究。西海岸の魔女カヴンにて現代魔女宗をフィールドワーク、WitchcraftやModernPrimitiveの実践を行なう。未来魔女会議主宰。

 

辻陽介(DZ) つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。学生時代よりコアマガジン社に勤務しアダルト雑誌などの編集を手がける。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『DOZiNE』の主筆を務める。

 

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〈MULTIVERSE〉

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾