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大島托 『失われた“紋”を求めて──1ミリ向こうの古代』 南米カヤビに伝わる食人タトゥー③

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。書籍化された『一滴の黒』に続く、現在進行形の新章。

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焼き魚とファリーニャ

 村の広場を囲む住居のどれからも離れた一角にぽつんと小屋が一軒建っていて、その前には直径1.5メートルほどの桶型の容器が水を一杯に湛えている。今日は女たちがその周りを取り囲むように陣取って何かをしていた。女たちは常に何かの作業をしている。何人もで集まって冗談飛ばしてゲラゲラ笑いながら働いている。赤ん坊たちは背負われ、幼児たちはその周りで遊んでいる。

 

 

 いつものごとく川でボーっと背浮きした後でそこに近づいてみるとツーンと強めの発酵臭が漂ってきた。女たちは桶の中から茶色いマンジョーカ(キャッサバ)芋を取り出して皮を剥がしていた。水の中で芋を毒抜きし、発酵させると同時に柔らかくふやかしていたようだ。住居からなるべく離しているのはこの臭いのせいだと思われる。近くには丸太と石をテコの原理が働くように組み立てた原始感溢れる装置があった。ふやかした芋をこれで圧搾して水分を抜くらしい。小屋の中にはやはり直径1.5メートルほどのバカでかいフライパンとカマドが一体化したものがある。おそらく石などを組んだ上にフライパンをセットして、外から粘土で石もフライパンの縁も丸ごと塗り込んで土器にしてしまっているのだ。圧搾した芋をこれで炒り上げると例のファリーニャとなるのだ。

 このマンジョーカは野生種で、村から離れたところのジャングルを焼き払ってから、地面にマンジョーカを収穫した後の残りの木の幹を差し込むだけの原始的な焼き畑農法で栽培されている。

 男は、少年から青年ぐらいまでは皆んな一日中裸足でサッカーをしている。さもなくば釣りか、泳ぎか、弓矢で狩り。全部遊びだ。学校には行ってない。というか学校はない。サッカーコートは広場のど真ん中だ。最も重要な祭祀ということなのだろう。サマウマ村は去年のシングーリーグ戦の優勝チームだ。

 20代から30代ぐらいは街での出稼ぎですっぽり抜けている世代だった。50代以上の長老クラスの男たちは夕刻にはふらっと村から出て行って、すぐに魚や動物をドッサリ抱えて戻ってくるが、基本的にはリラックスしているように見える。狩猟採集民の短いライフサイクルを考えると40代以上はまあ定年みたいなものなのだ。

 夕刻の釣りはまず岸辺でマンジョーカの小さなカケラで小魚を釣ることから始まる。10匹ほど釣ったらボートで川の真ん中の深い場所に移動して、その小魚をエサにして大物を狙う。竿やリールはない。仕掛けを手でグルグル振り回して遠投するのだ。するとあっという間にデカいのがどんどん釣れる。ピララーラ、ピンタード、ペーシュカショーロ、タライロン、トゥクナレ、そしてもちろんピラニアも。日本の一般の人にはピラニアぐらいしか認知されていないだろうが、これは夢の魚のオールスターだ。それが信じがたいほど簡単に釣れる。

 

 

 シングーに来る前に世界最大の湿地帯パンタナルをモーターボートで縦断してきた。世界中の釣り人たちの憧れの聖地、ミランダ川、パラグアイ川だ。僕の目当てのピラニアはさすがにたくさん釣れた。そもそもブラジルではピラニアを目当てに釣りをする人などいない。野球ならデッドボールみたいな扱いだ。皆が狙っているのドラードという金色の鮭みたいなインスタ映えする立派な魚なのだ。そのために用意した高価な生き餌のウナギを秒で喰らい尽くすのが忌々しいピラニアのやつ、という位置付けだ。実際のところ、ピラニアに邪魔されなくても今はドラードなんてほとんど釣れない。40年前の開高健の時代とは違う。これはドラードの数を世界中からやって来る釣り人が慢性的に上回り続けた結果なのだ。僕は釣り人だからこんなのは慣れっこだ。ただもう再び行くことはないというだけだ。

 

 

 シングーは保護区域だから一般のブラジル人や外国人は入れないことになっている。しかし、マニアの外国人相手の釣りのガイドとホテル&レストランの経営というのは、町のブラジル人の平均的な稼ぎと比べるとありえないぐらいの濡れ手に粟の大きな商売だ。僕がシングー川で夕刻のほんのひと時に釣り上げた夢のオールスターを金額に換算するならば、たとえ東京での一月分の収入を費やしたとしても安いものなのだ。でもそれをやったらやがてミランダ川の二の舞になることは見えている。果たしてシングー諸部族はずっとこの禁断の誘惑に手を出さないでいられるのだろうか。

 カヤビの料理はこれら焼き魚とファリーニャだ。たまにバクとかシカとかの動物も獲れるが、基本は魚一択だ。焼き魚は焚き火の直火で、大きなやつは上から容器を被せてボールグリル風のスモークローストにしている。これらの魚には日本の川魚のような独特の臭みはない。アマゾンやパンタナルはかつては海で、アンデス山脈の隆起により閉じ込められた広大な塩湖が長い時を経て雨水で薄められて海に流れるというプロセスでゆっくりと淡水化していっただけのことで、そこに棲む魚たちはもともとは海水魚だったのだ。

 焼いて一番旨かったのはトゥクナレだった。80センチぐらいある大きなやつは脂が良く乗っていて香りも素晴らしくハタに近い豪華な味わいだ。煮るならピラニア、それもまた大きなやつほどいい。その頭のプルプルのゼラチンとシコシコした歯応えの異常に発達した顎の筋肉の組み合わせが絶品なのだ。頭蓋骨を噛み割って脳みそもチュウチュウすする。

 ファリーニャは町の人々のふりかけのような使い方ではなく主食としてもっとガッサリ食べる。市販の均質化された粉とは違い、たまに煎餅みたいな大きなカケラが入っているそれを魚の身と一緒に手でよく練り合わせてボリボリムシャムシャと食う。歯応えは食欲や満足感に関係する。日本人なら旨いと思うはずだ。イタリア系のアンセルモもガツガツ食ってる。

 

 

 焼き魚にもファリーニャにも塩は一切使われない。内陸部だから塩はもともと無かったのだ。おかげで皆んな低血圧らしい。肉もそうだったのだが、僕らはいつもほとんど自動的に塩を使って調理しているのでその味しか知らないが、たまには無塩の味に気づいてみるのも一興だ。たぶん塩味だったら魚種ごとの味わいの差ををこんなにもシャープに感じることはなかったはずなのだから。なお、無塩だからこそ、焼き魚のスモークの香りやファリーニャの発酵プロセスを経た酸味はことのほか重要だと感じた。

           

村の子宮生命体

 タトゥーの方はあれ以来あいかわらず忙しい。口元のタトゥーばかりではなく、ジェニパポのデザインをタトゥーで腕輪型に彫ってくれというリクエストが多い。下絵は女たちがあらかじめ僕のスキンマーカーを使って描いておいてくれる。ジェニパポを描くのは女の役割のようで小さい頃から遊びで覚えていくようだ。身体の立体にフリーハンドで柄を乗せるセンスが鋭い。はっきり言ってプロのタトゥーイストでもこんな風に即興で正確に描けるのは10人に1人もいないだろう。そういう面では彫師に向いてるし、教えたらすぐにモノにするだろう。でもカヤビの彫師は伝統的に男だったらしく、女たちは僕がしつこく誘っても彫ることには手を出さない。

 自分の名前をアルファベットで彫ってくれというのはもうむちゃくちゃ多い。そんなちょびっとだけの作品で貴重な針を消費したらもったいないので断っていたが、よくよく考えると日本や欧米で「自分の」名前をタトゥーで入れる人なんてまずいないのだ。どういうことなのかを首長に聞いてみると、仕組みが分かった。

 カヤビのタトゥーは名前と直結した記号でもあるのだ。文字のないカヤビ社会では、その人に入っているタトゥーのデザインがその人を識別する視覚的なマークであり、それを音として発したものが名前で、両者はイコールなのだという。だからこの前見た記録資料のタトゥーデザインの下に書いてあった名前はその人物の名前というだけでなくデザインそのものの名前でもあったのだ。

 なるほど…。それで最近入ってきた表音記号であるアルファベットは人物と名前とタトゥーを結びつける「デザイン」としては、より広範な第三者にもそれが分かるという点では従来のタトゥーデザインよりも優れているという感覚なのか。何かこれ、ものすごいことに気づかされてしまったような気がする。そしてその感覚はおそらく文字をまだデザインとして認識しているほんの刹那の過渡期のみのものなのだろう。タトゥーと文字の入れ替わり時代の真実の一つを生で目の当たりにして一瞬息を飲む。縄文時代晩期にタイムスリップだ。

 ちょっと感慨に耽りつつ広場に目をやる。

 10才前後の少年の群れがサッカーの真っ最中だ。高い個々の運動能力にモノを言わせた超攻撃的スタイルだ。ゴール前への斬り込みがとにかく強くて速い。キーパーも恐れ知らずの横っ跳びだ。息子は小学校では学年で1番脚が速いというのがセールスポイントなのだが、この中では遅い方にすら見える。それでもフェイントで抜く技術と戦術的なパス回しで存在感を出している。この前は村の大人のチームのシングーリーグ公式戦にも少し出してもらったようだ。

 その横では別の熱いゲームが繰り広げられていた。アンセルモとある母娘が楽しげに話している。アンセルモはジリジリと引いていて、女たちは少しずつグイグイ押している。やがてアンセルモは誰かの家の壁まで追い込まれてしまった。ボクシングのメイウェザーvsパッキャオのようなスリリングな攻防だ。娘とアンセルモは首都ブラジリアの役所の先住民関連のイベントからすでに知り合いらしい。娘は髪をアップにしていて、服も洒落たものを着ていた。明らかに粧し込んでいる。僕ら家族と一緒の寝室じゃなかったらおそらく夜這いされてるパターンだろう。まあでも、そのへんは彼もいつもテキトーに楽しんではいるのかもしれない。実家のお母さんからはインディオの村に入るのはいいけど、孫7人とかは多すぎるからねとか釘を刺されているとかいないとか。

 

 

 アンセルモは僕より一回り以上若いけれど、僕と同じようなヒッピー的なパーティーシーンをくぐった後で、やはり同じように世界中のプリミティブな地域を旅して、最終的には自分の国のインディオに注目するようになったのだ。探し物は実は地元にあったという『アルケミスト』のストーリーに我々は乗っている。彼は各地のインディオの工芸品の面白さに注目していて、それらを中間業者にマージンを抜かれることなく直接先進国の消費者に売れるようなシステムを作ろうと動き回っている。

 少年のような澄んだ瞳のアンセルモが当の娘の好みのタイプであろうことはもちろんなのだが、もうちょっと深いところでは自分たちにとって役立つ彼をコミュニティに取り込もうという村の女たちの総意が働いているように思う。村のこれからの方向性は女の集団が決定する。首長やシャーマンや歌手、彫師、大工の棟梁、漁労長、などの役付きは男ばかりだが、皆んな外から婿として迎えられてこの村に来たのだ。女の塊をサポートするために役立つのなら人種も関係ないようだ。黒人や白人とのミックスの子供もいる。皆んなカヤビの子供達だ。

 村生まれのオスの仔犬はどこか遠い集落に渡されるか不漁期の食材となる。村のメス犬と交配するのは他所からもらわれてきたオス犬だ。孤立集落なのにヨーロッパ系や中米系、アジア系などのいろいろなタイプの犬がいるのはそのためだ。近親交配で群れの次世代が弱体化するのを避ける仕組みだろう。

 女の塊はそれぞれの個人の集合体だが、同時に時空両面の連続性を備えた1つの村の子宮とも言える物体のようだ。先祖から子孫に向かって個々の生死を超えて永遠に存在し続ける大きな子宮生命体。あらためて辺りを眺めてみると、女たちが家事に使う土器の壺も、女たちを包み込む大きくて丸まっちい伝統家屋もまた子宮を想わせるような形だ。そしてさらにそれら家々を囲む、蟻の巣のような村全体の構造も。森と川も。地球も。宇宙ですらも。女と世界は多重の入れ子構造で無限に連続し、イコールの関係にある。これこそが古代社会であり、有史以前、人間が長きに渡り営んできた生活形態なのだ。ライオンやゾウと同じパターンだ。

 あなたの息子を村のために置いていかないかと首長の奥さんは言った。その代わりに誰でも1人連れ帰っていいから、と。光栄かつ魅力的な提案だ。だけど本人は早く街で冷えたコーラが飲みたいと言ってるので、とりあえず今回はアンセルモ1人で勘弁してください。

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画像提供|Anselmo Dutra

 


 

 

〈INFORMATION〉

『一滴の黒』大島托 著(ケンエレブックス 刊)

https://books.kenelephant.co.jp/products/9784910315157

日本を代表するタトゥーアーティスト・大島托が、トライバルタトゥーをめぐるリアルな習俗と歴史、そして現在を描き出す旅の記録。全国書店にて発売中。

 

〈MULTIVERSE〉

「レオ・ベルサーニをめぐって 」──クィアが「ダーク」であること──|檜垣立哉

「死と刺青と悟りの人類学──なぜアニミズムは遠ざけられるのか」|奥野克巳 × 大島托

「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛

「あるキタキツネの晴れやかなる死」──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ

「パンク」とは何か? ──反権威、自主管理、直接行動によって、自分の居場所を作る革命|『Punk! The Revolution of Everyday Life』展主宰・川上幸之介インタビュー

「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

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「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

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「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾

『ごきげんよう、ヒドラちゃん』|逆卷しとね

「HOW TO SCAN THE WORLD 」── 世界をくまなく、そして注意深く、「見る」「触れる」「遊ぶ」|BIEN × 石毛健太 × 髙木遊

PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。著書に『一滴の黒』(ケンエレブックス)。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html