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『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 外伝『出セイカツ記』にまつわる雑談と雑草|ワクサカソウヘイ×コムアイ×辻陽介

冬のある日、コムアイ氏と辻陽介氏と私は軽率に顔を寄せ集めることになった。場所は、『出セイカツ記』の穴掘りパートの舞台にもなった、私の祖母の家の庭である。

 


 

私は『出セイカツ記』にかこつけて誰かと喋りたい。

この『DOZiNE』というメディアの端っこで、2019年から続けていた連載『エクソダス・フロム・イショクジュー』が、このたび河出書房新社から一冊に束ねられ刊行された。私、ワクサカソウヘイの数年間にわたる、生活に対する不安を滅却するための冒険の記録だ。雑草を食べたり、穴を掘ったり、魚を突いたりして、日常の閉塞感から逃避行を図った日々のレポートだ。

書籍化に際して、それは『出セイカツ記』と改題された。言わずもがな、旧約聖書における「出エジプト記」のパロディである。『DOZiNE』主宰にして『エクソダス・フロム・イショクジュー』の担当編集氏であり、『出セイカツ記』書籍化の際にも尽力をくれた辻陽介氏と「無意味に聖書みたいな本にしちゃいましょ」「そうしましょ」と盛り上がり、「創世記」「賛美歌」「黙示録」などといった要素を盛り込みながら連載時の原稿を改編した。結果、本書装丁担当の川名潤氏から「こんな複雑怪奇な目次は初めて見た」と言われるほどに、インチキな聖書といった塩梅の一冊は完成した。

新刊が書店に並ぶ。そうすると、著者というのは喜びと同時に心許なさを味わうことになる。だって、さっきまで水槽のような小さな部屋の中でひとり、「書く」という実に孤独な行為に従事していたというのに、急にその身が世間という大海に放たれるのだ。大丈夫なのか。もしかしたら自分はとんでもないことをしでかしてしまったのではないか。聖書のパロディなんかやって、バチカン市国あたりから怒られたりはしないか。いや、もしかしたら大ヒットして夢の印税生活が待ち受けているのではないか。いやいや、やっぱりローマ法王にこっぴどく……。気は落ち着かず、ソワソワとした日々は続く。旅で未知の国に向かう機内にいる最中のような、不安と興奮が綯交ぜとなった情緒だ。

こういう時に有効なのは、「話が通じる相手」との雑談である。耳慣れない言語で溢れ返る飛行機の中で、たまたま日本語の喋れる人と席が隣になれたら、確実に安心する。情けのない世であっても、旅は道連れだ。共通の言語コードを持っている誰かと、とりとめのない雑談を交わして、気を紛らわしたい。そんな愚痴を私にとっての「話が通じる相手」である辻陽介氏にこぼし、暇があったらお茶とかしてほしいと懇願したら、「じゃあコムちゃんも呼んで、ついでに『出セイカツ記』刊行記念の鼎談企画にしちゃいましょう」と提案をくれた。

コムちゃんとは、辻陽介氏の友人であり、アーティストであるコムアイ氏のことである。おお、それは願ったり叶ったり。コムアイ氏はいつか会ってみたいと思っていた人物だ。氏のInstagramを眺めていると、突然に遠野の鹿踊に参加していたり、かと思うと急にインドの田舎に出没していたり、ちょっと目を離した隙に今度は熊野の山を登っていたりと、軽率に行動している様が好ましく、そして興味深い。『出セイカツ記』にも記したが、私もすぐに石を売ったり木に登ったりスッポンを釣るために駆けまわったりと行動に節操がないタイプの人間で、だからコムアイ氏とは通じるところがありそうな気がしていた。似たような旅をしている印象があるというか。雑草とかも一緒に食べてくれそうだ。

そしてすぐに話はまとまり、冬のある日、コムアイ氏と辻陽介氏と私は軽率に顔を寄せ集めることになった。場所は、『出セイカツ記』の穴掘りパートの舞台にもなった、私の祖母の家の庭である。

「話が通じる」三人による、雑草を食べながらの『出セイカツ記』にまつわる雑談を、ここに記す。

 

(文/ワクサカソウヘイ)

 


 

 

ナンジャタウンで分裂する

コムアイ 『出セイカツ記』を読んで思ったのが、自分がティーンエイジャーの頃にワクサカさんみたいな叔父さんがいたらよかったなってこと。息苦しい生活の中で抜け道を案内してくれそうな。そういう読後感のある一冊でした。でも一方で、この本が「どうでもいい」って人も一定数、いると思うんですよ。

ワクサカ うん、そうなんでしょうね。

コムアイ それは誰なのか。「呪い」を「呪い」として認識してない人たちかもしれないですよね。普通に心地よく今を生きている人は「呪い」なんて認識できない。そもそも「呪い」を育ちの中でかけられていない。私自身の場合は「呪い」を認識できるレイヤーと、認識できないレイヤー、その中間にいる気がする。

ワクサカ ああ、コムアイさんって「狭間」とか「境」に立っている感じがしますね。「呪い」を横目で見つつ、自由の地平に向かっているというか。

コムアイ なんでかっていうと、私は普通の家庭で育ったんですよ。親が安定した職に就いている、いわゆる中間層の家。その中で、日本の普通の教育を受けて育ってて。ワクサカさんもそうなんじゃないのかなって『出セイカツ記』を読んで思ったけど。

ワクサカ その通りで、僕も「ザ・中流」というど真ん中の家庭育ちですね。父はサラリーマンで、母は保育士。普通に生活は安定していた。でもだからこそ、その安定から落ちたら終わりなんだっていう「呪い」はずっとかけられてきたところがあります。

親とか学校って、「公務員になるのが一番の安定だぞ」ってことはずっと唱えてくるんだけど、ドロップアウトした時の所作とか気の持ちようというものに関しては、全然教えてくれないんですよね。それが当たり前っちゃ当たり前なんだろうけど、その当たり前の奥に「呪い」っていうのは潜んでいる気がして。

コムアイ うん。だからワクサカさんみたいな叔父さんがいたらよかったし、辻さんみたいな叔父さんも欲しかった。もっと言えば、私自身みたいな叔母がいたらよかったかも。親とか学校が教えてくれないことを堂々と、もしくは耳打ちで、教えてくれそうな人。

ワクサカ 僕は結局、「作家」っていう、公務員推奨の親からしたらめっちゃ道を踏み外した職を選んでしまったわけなんですが、さらに超ドロップアウトしていると思われるコムアイさんはどんな感じで思春期からここまでを送ってきたんですか?

コムアイ 親と二人三脚の中学受験で附属校に受かったので、「親のために大学行こう」って思っていました。「本来的な自分」の意志を裏に隠し持ちつつ。

 ってことは、中高時代はなりすましてた感じ?

コムアイ うん、ダブルフェイスで。でも憲法9条のパンフレットとかを自主的に学校で配ったりはしていたから、なりすましきれてなかったかも(笑)。

ワクサカ 全然仮面の使い分けできてない!でも、かなり早いうちから「活動」してますね。

 ピースボートの事務所に出入りしてたんだっけ?

コムアイ 中学三年生でピ-スボートと出会ったのが、最初のドロップアウトかな。そこからは分裂してると思う。いわゆる「普通」のA面と、「普通じゃない」のB面、その二つの社会を同時に生きている感じがしたな。

ピースボートを見つけてなかったらパパ活とかやってたかもです。未知の社会に触れたかったし、親とか先生じゃない大人と話したかったし。ピースボートの事務所では大人と同じ目線で喋ることができて、それが本当に快感でしたね。

 変わった大人と喋りつつ、学校では中学生とか高校生らしい会話を友達としつつ。

コムアイ うん。同級生とプリクラ撮ったりみたいなこともしてたけど、みんなが永遠に先生の悪口とかで盛り上がったりするのは、一応合わせつつも、本当つまんない、しょーもないなって感じてた。もっと社会の話とかをしたかったんだよね。

ワクサカ 分裂が始まった時期が早くて羨ましいな。僕は高校生の時は、まっすぐに高校生で、自分はひとつしかなかった。社会には触れたくもないっていう、ただのモラトリアムでしたね。

 コムちゃんの社会に対する意識、というか感度の高さって、なんなんだろうね。思春期だともっと尾崎豊的というか、よくわからないけど怒ってはいる、みたいな感じになりそうなものでしょ。実際、僕はそんな感じで政治とか経済とかよく分からないまま漠然と「大人は敵だ」みたいに思ってた気がする。コムちゃんの場合そうじゃなくて、より具体的な社会のシステムに対して早くから目を向けていた感じだよね。シンプルに頭がいいって話なのかもしれないけど(笑)

コムアイ システムに対する怒りは、早すぎるくらい早かったんですよ。小学一年の時にはもう持っていたんだよね。たとえば登下校の時に住宅街を歩きながら、商店街がなくてコンビニしかない街ってつまらないなとか。通りすがる人に「こんにちは」って言われても「知らない人と喋ってはいけません」って教えられているから返事しちゃいけなくて、つまり、誰とも話さずに家に帰るしかなかったんだけど、子どもが育つ環境としてこれはおかしいよな、とか思ってましたね。

ワクサカ すごい。自分が小学一年生の時なんて、石の裏をひっくり返してダンゴムシとかハサミムシ見て「うわあ」とかしか言ってなかった。

コムアイ 個人的な悩みやフラストレーションを、社会システムに置き換える癖があったんですよね。

ワクサカ 子どもの時から「自分を見ている自分」を獲得していたってことですね。

 比較対象はあったのかな? 自分の状況が異常だって感じるためには、どこかに別のノーマルがあるって想定が欠かせないものだと思うけど。

コムアイ 昭和のほうがマシだって思ったんです。

 それはテレビとか映画とかで見た昭和?

コムアイ いや、ナンジャタウン(笑)

ワクサカ ナンジャタウン!たしかに昭和の街並を再現したエリアがある!

コムアイ 「きっと昔はこうじゃなかったはずだ」って思ってたんですよね、子どもながらに。知らない人との会話が溢れていた登下校だったに違いない!と。だから、平成の世に生まれ育った自分は親とは違う人間として育つんだろうなとも思ってた。

ワクサカ ああ、それめちゃくちゃわかる。逆に言えば、このキツイ現行時代の生き方を親は教えてくれないんだよな、っていう。

コムアイ 「普通の社会」で生きるのが自分にとってはキツそうだなと感じ取った時から、どうしようかなって、ずっと頭を悩ませていましたね。だからピースボートの事務所に行ったことで色んな大人がいるってことを知って、それでやっと救われたような気がしたんですよね。

 

ホームってなんだ、安心ってなんだ

ワクサカ 自分はそういう「どうやって生きてきゃいいんだ」っていう不安が発露するのはかなり遅かったんですよね。三十歳くらいになって、いきなり襲われた。

コムアイ それはそれで大変そう!

ワクサカ それまでは誰かしらに雇われて月給をもらうような生き方をしていたりしたんですよね。なんだかこの「普通」が自分に向いてないな、っていうのはずっとうっすら抱えてはいたんですけど。で、独立して自由業になったら、解放感を覚えるどころか、不安がビッグバンを起こしたんですよね。あれ、これ働かなくなったら即「屋根のない場所で寝る身」になるのでは……?っていう。

コムアイ 「セーフティーネットがどこにもないぞ……」ってことに気づいちゃった、ってことですね。

ワクサカ そう。で、不安がどんどん高まっていって、そうすると色んなことの調子が悪くなる。生活もままならない。そしてさらに不安は濃くなっていく。ほとんど悪循環。で、これはまずいぞ、って思って、一念発起したんですよ。「セーフティーネットを自分で作ろう」って。でも、それはコミュニティを確保するとか貯蓄をするとかじゃなくて、「寝食を潰したとしても大丈夫」という安心的マインドを確保したい、っていう方向の一念発起で。そんな精神的なセーフティーネットを探求した日々の記録が、『出セイカツ記』なんです。

コムアイ 自分の場合、「ああ、これがセーフティーネットなんだな」っていう感覚を初めて抱いたのは、茨城の農場に1か月ファームステイしていた18歳の時かな。毎日とても楽しくて。お金とか住む場所とか所有物とかがいきなり何もなくなっても、ここに戻れば食いっぱぐれることはないなって。働ける身体と心さえあれば大丈夫。そして、そういう自分を受け入れてくれる場所は地球上に他にもあるんだろうなっていう実感も得られた。それが安心感に変換されていきましたね。その「安心の実感」があるからこそ、冒険もできるという。

ワクサカ 安心感から生まれる余裕って、確実に冒険を担保するものになっていますよね。数年前に家賃がかなり安い家に越したんですけど、そしたらいきなり安心感が爆上がりして、急に旅に行きたくなったりしたな。コムアイさんは、その茨城の農場で得た安心感って、いまも生きていますか?

コムアイ うん、ずっとその時の安心感が根底にある。でも、農業体験って「畑ありき」じゃないですか。なかなか一人では始められないですよね。田んぼの水路もお隣さんと繋がっているし、もうすでに共同で回しているサイクルに自分が急に参加する、という甘えた形でないと成り立たない部分はあって。それと違って、ワクサカさんが実践してきたのは「狩猟採集」的な行動だから、一人で始められますよね。自由度が高いなって思った。

たとえば、『出セイカツ記』の中に出てくる魚突き、あれ自分もやってみたいと思ったけど、でも一方で私は一人ではやらないだろうな、とも思ったんだよね。まずその「界隈」の中に自分を受け入れてくれる人たちがいるっていう状態が私にとっては大事で、それがやっぱり精神的な安定感に繋がっていくんですよね。

ワクサカ だから、両方あるといいですよね。単独でも獲得できる安心感と、他者がいることで成立する安心感。そっちのほうがバランスいいし、精神的なホームは分散的にいくつもあるに越したことはない。不安を滅却する冒険は、ホームを多層的に獲得していく旅でもありました。

コムアイ ホームね。私、「ホームってなんだろうな」ってよく考えるんですよ。

十年くらい前、渋谷で自転車を押していたら、ホームレスのおじちゃんが私の自転車の荷台に酔って乗ろうとしてきたのね。それを別のホームレスのおばさんが止めたりして。周りをよく見たらビニールシートの家があって、入り口がめくれていて、見たらそこがみんなの食堂みたいになっていて。だいぶ「出来上がった」世界だったんです。なんだかユートピアみたいだなって。私よりこの人たちのほうが「ホーム」を持っているかもなって感じたんです。

核家族で生きていると関わる大人が親中心になっていくわけだけど、親には相談しづらいこととかもあったりするじゃないですか。だから、もっと曖昧な関係性の他人同士が共同生活することに憧れていたんですよね。そういうもののほうが「ホーム」なんじゃないかって思ったりして。

ワクサカ 「家族」はいて、「ハウス」もあるけど、「ホーム」はない、って状態、色んな所で見受けられますもんね。ホームレスの人たちの中には、全然「ホーム」をレスしていない人、いるもんね。

コムアイ 北九州を拠点に生活困窮者や社会からの孤立状態にある人たちの生活再建支援をしているNPO法人「ほうぼく」の理事長から聞いた話なんだけど、ホームレスの人が冬寒くて死んじゃったりするから、「ほうぼく」で家をいっぱい借りて、希望する人たちに入ってもらったんだって。で、ある日に訪問に行くと、そのワンルームの中にポツンと一人でおじさんが座っていたらしく、「あ、これはダメだ」と思ったって言ってた。屋根があるのは大事だけど、コミュニュティから分断してしまっては、なにもならない、と。そこから互助会的な仕組みを作って、みんなで繋がりを続けて助け合える状態を保つ方向に持っていったんですって。

そういう他者がいるからこその安心感に、自分はとても興味がありますね。『出セイカツ記』はパッと見だと他人の存在は希薄で、一人で色んな実験をやっているように見えるけど、でも野草食に導いてくれた悦子さんとか、石拾いに誘ってくれる友人とか、実は色んな他者が登場するよね。

ワクサカ これ、しみじみ思うんですけど、「本当の安心感」ってやっぱり他者がいないと得られないですよね。僕は石を売ることでお金の不安から逃避行を図るんだけど、それも石を買ってくれた「気概のある」他者が作ってくれた安心感だし。

 「安心」と「不安」って面白い言葉ですよね。よく「安堵する」って言うけど、あの安堵の「堵」って垣根の事なんですよ。垣根を作ってその内側にこもること、つまり自閉して境界線を引くことでホッとする状態が「安堵」なんですよね。

英語だと安心はセキュリティという言葉になるけど、セキュリティはラテン語だと「セクーラ=セ・キュア」。「セ」は否定の接頭句で、そして「キュア」は「ケア」。治癒するとか、他人を気遣うの意。このケアを否定することで初めて成立するのがセキュリティ、つまり安心なんだよね。

コムアイ ケアしたくない、触りたくない、ってこと?

ワクサカ  他者からの干渉を拒むような語源なんですね。

 少なくとも言葉の上では他者に配慮しなくていいような状態が「安心」で、その対義語が「不安」。不安は英語だと「インセキュリティ」になるけど、「イン」も否定の接頭句だから、これは二重否定ですよね。ケアを否定することで安心が得られるわけだけど、その状態が否定されると不安が生じる。人はこうしたセキュリティとインセキュリティの間を行ったり来たりしてるわけだけど、個人的にはいったん大元の「キュリティ」に立ち戻る必要があるんじゃないかなって気がするかな。

実際、自分の心を乱すような人を排除すれば確かに安心はできるかもしれないけど、今の話にもあったように他者と繋がっていないことによって生じる不安もあるわけで。不安の原因も他者だけど、安心の条件も他者だったりして、まあややこしいよね(笑)

ワクサカ 両義性ってやつだ。うーん、そうね。他者が運んでくるのは一概に安心感ばかりではないよね。

コムアイ  『出セイカツ記』の磯のパートで、「点滅」の話が出てくるじゃないですか。いまの辻さんの話、「点滅」も関わってくるな、って思った。陸では他者と関わりつつ、海に潜っている間は人と関わらない。それが安心なのかもしれないね。

ワクサカ うん、接続と断絶を同時に繰り返すっていうのは、重要ですよね。そういう態度で臨むことが安心の質を上げるというか。

逆に言えば、同じ場所に延々と接続し続けることって、不安の濃度を高めちゃうと思うんだよな。

コムアイ 親が家買った時に、「え、ここにずっと住むんですか?」って思ったな―。移動が軽率な私としては、ソワソワしちゃった。

ワクサカ 僕、いま家賃の安い家に住んでいるって言ったじゃないですか。家賃が安いと、「この暮らしは仮である」って感覚が強く得られて、楽なんですよね。いつでも手放せる手軽さ。その物件と出会えたことはけっこう運に拠るものだからいまの社会の中では一概には触れ回れないんだけど、でもラフに家を確保するって感覚、移動が軽率な民である自分にとってはかなり重要ですね。

 「たまたまいまはここを占有してるだけ」みたいな緩い感じで暮らしに臨みたいですよね。

ワクサカ 住む場所もそうだけど、みんな決定すること、判断することをやけに大事にしますよね。「様子を見る」ってこと、嫌がるんだよな。

コムアイ 不確定だったり曖昧だったりがいいのにね。こういう感覚って、どこから来るんだろうな。生まれつきなんですかね?

ワクサカ 人によりますよね。でも、「不確定がいい」とか「仮のままがいい」とか「様子をずっと見ていたほうがいい」っていうのは、やっぱり少数派ではあるんだろうな。

  僕、デモが苦手なんですよ。デモをする人やデモという行為の価値を否定する気は毛頭ないけど、デモはパレードよりも行進に近いという感覚があって、みんながある一つの目的を共有して同じ方向を向いているという状態が生理的に耐えられないんです。なんていうか、そこには不確かさや曖昧さがあまりない気がして。一方、僕は散歩が好きなんですよね。ただなんとなくブラブラするっていう。

コムアイ 好きな速度で、立ち止まったりしてもいい。寄り道したり。

  もっと言えば、僕は進歩って言葉も好きじゃない。文明も生命も単に長い時間かけて散歩してきただけでそこに進むも退くもないよねっていう散歩史観を提唱したいくらい(笑)。散歩ってそれくらい大事だと思う。

コムアイ 散ってるしね。

ワクサカ  「散ってる歩」って、いいっすよねー。歩き散らかすのが性に合っている人たちが、今日なんとなく、集まっちゃったんでしょうね。

コムアイ  あー、仮でいたーい!

 

「土人」でありたい

 定住と移住の話でいうと、「土着」って言葉があるじゃないですか。「土着民」って聞くと、その土地にずっと住んでいる定住民をイメージするんだけど、でも土と共生しようと考えたら同じ場所に居続けることって、土壌にとっては全然いいことじゃないんですよね。

コムアイ ああ、確かに。

ワクサカ 踏み固められちゃうから、菌とかの分解の力も弱まっていきますよね。

 そうそう、だから定住民じゃなくて移動民こそが真の「土着民」なんですよ。

ワクサカ 色んな場所に帰れる場所があること、色んな場所に還れる土があること。うん、めっちゃいい。多様な界隈と交差していきたいな。散歩ってやっぱ大事ですね。

 交差で言えば「×」ってマーク、あるでしょ。江戸時代には罪人に「×」の入れ墨を彫ったりしてたこともあったみたいですけど、まあ「×」っていうのは今日的には「悪いこと」や「間違っていること」の象徴ですよね。

でも一方で東日本には子どもが生まれた時にやる「雪隠参り」って風習がかつてあって、生まれたばかりの赤ん坊の額に「×」であったり「犬」って字だったりを書いて厠にお参りしてうんこを食わせるそぶりをしたりしてたらしいのね。この額の文様は「あやつこ」とも言われているんだけど、生まれた時だけじゃなくて、成人儀礼であったり、結婚した時であったり、人生のステージが変わるタイミングでおでこに「×」のような記号なり文字を書く風習は割と多くあったらしい。

そこで気になるのは、なんで「×」なんだろうってこと。あるいは「×」ってなんで今日において悪いことを意味するようになってるんだろうってこと。そう思って調べてみたんだけど、「×」マークの起源って世界的にもはっきりとはわかってないらしい。で、自分なりに考がえてみると、「×」ってある世界と別の世界が交差してる状態を指し示してるんじゃないかと思うんですよね。

ワクサカ 「辻」じゃん。

 そうそう(笑)。「内」と「外」が相互に接触する場としての交差道。それが「×」なんじゃないか、と。そこには様々な危険があるから、転じて「悪いこと」を意味するようになったんじゃないかな、と。じゃあ「〇」は何かっていうと、定められている垣根の中の生活圏を表してるんじゃないかなって思って。環状集落の内側の「安心」できるエリアのようなね。

ワクサカ なるほど、「×」は結界を踏み外す人たちで、「○」はそうじゃない人たち、っていう。

 複数の集落が重なり合う辺境が「×」なんじゃないかって。だから、そもそもは「×」に否定的な意味ってなかったんじゃないかな。ある状況や状態を指し示していただけで。人生のステージが移行するタイミングで「×」という記号が用いられたのもそれゆえじゃないかな。

ワクサカ 「○」は反復のイメージもありますよね、ぐるぐる同じところを回っている

コムアイ 「踏み外す」で言うと、芸能者って境界をまたぎ続ける存在だよね。

ワクサカ おお、「芸能」ですか。

コムアイ 「芸能」って、よくわかんない存在を扱うじゃないですか。死者を演じたり、区切られた舞台の上に未来を呼び込んだり。見る人の想像力をお借りして、異界との境界であるカーテンを揺らすようなものじゃないかと思っています。音楽とかスポーツとかでも、演者や作り手たちの作為を越えて「なんでこんなことが起きるの?」っていう、説明のつかないことが発生したりするし。

ワクサカ なにかしらのゾーンに入っちゃう、ってこと、「芸能」にはたびたび起きますよね。

コムアイ 中世の人が移動しながらあちこちで「芸能」をしていたことに憧れがあって。芸能者は舞台の上で異界との境界をまたぐし、現実の地図でも境界をまたいでいきますよね。関所を通ることを免除されていたり。演じて、去って、また別の土地で演じていく。複数の土地をかき混ぜる役割としての「芸能」。そういう人たちって、何を運んでいるんだろうな。

 各地の菌を掻き混ぜてるとか?(笑)

コムアイ はは、なるほど。

ワクサカ 「交差」と「芸能」で言うと、インドネシアだと「演劇」って言葉と「虹」って言葉は、同じなんですって。虹が出て、なんとなく虹の近くにみんなが集まってきて、それで虹の感想を喋ったりしているうちにぬるっと「演劇」が発生する。

あと、伝統芸能の「能」も、けっこう曖昧に始まるじゃないですか。拍手するタイミングとか初見だと全然わからない。だんだん人が集まって、ゆるやかに互いの想像力とかが交差していくうちに、芸能ってものは生まれていったんじゃないかな。

コムアイ 「能」で、最後にシテ方がゆっくり歩いて幕の向こうに消えていくのが好きなんですよね。無の時間、本番中なのに余韻があるというか。

 昔はタイムスケジュールとかもないもんね、もっともっとゆるやかだったろうな。

ワクサカ 色んなものを運びつつ、ゆっくり移動していく。「土着民」っぽいっすね。そうだ、そういえば最近、土を食べてみたんですよ。食べたことあります?

コムアイ 食べたことない。舐めたくらいしかないです。

ワクサカ 自分で切り出しておいてあれだけど、妙な会話だな(笑)。いや、友達に「いい土があったら食べる」って奴がいて、ほほう、と思って。で、こないだ奥多摩に遊びに行った時に川の近くの地層を眺めていたら、「あ、この土、食べれそう」っていう瞬間があって、気づいたら口に運んでいたんですよね。「美味しい」とかでは全然なくて、シンプルに土の味が口の中に広がるだけだったんですけど。

帰りの車の中で、「自分、なんで土を食べたいって思ったのか……?」って考えたんですよね。で、たぶんだけど「境界をブレさせたい」っていう衝動を自分は持っているんだろうな、って。

コムアイ OKラインとNGラインをブレさせる、っていう。

ワクサカ うん。僕、ライブの制作とか構成作家で、けっこう長いこと「芸能」ってものに片足を突っ込んでいるんですけど、そこで得られる醍醐味のひとつに、「結界をブレさせることができる」っていうのがあるんですよね。『出セイカツ記』も自身のOKラインとNGラインを揺るがせるための冒険記、って向きもあるし。なんか、そういうことが好きというか、そういうことやらないと気持ち悪いんですよね。

コムアイ 周りから言われたことからの影響で自分のOKとNGのラインがなんとなく決められちゃった時って、気になりますよね。そのライン、跨いでみたいってなる。法律で決まっていることがあったとしても、自分の身体で行うことって原則的に自由じゃないですか。法律と身体は全然違うレイヤーに存在しているはずなのに、社会的身体が育ちすぎてしまって、世の中それがなんだか一緒くたになっている気がする。交差してるんじゃなくて、絡まっちゃってるというか。

こないだインドを旅したんですけど、OKとNGが急に交差しちゃう場面、色んなところで体験したんですよね。ここは絶対に靴を履いて歩きたいな、ってところに寺院の境内だから裸足で入っていかなくちゃいけなくって、で、グシャーってなって、牛のうんちもあるし。最初はアーってなるんだけど、でも意外とありかな、死なないな、問題ないか、っていう感覚になっていく。

 文化的なコードをはがしていくことで発見される身体感覚ってあるよね。

コムアイ うん。その繰り返しで、で、そういうことが快感なのかな。下痢になるからインド行きたくないって人は多いけど、いざ下痢になってみたら案外に悪いもんじゃないないんだよね。デトックスになるし。

インドで下痢になった時に「降伏」って言葉が浮かんだんですよね。降参の降伏。自分という島に在来でいた腸内細菌がこの土地の菌に負けて、全てを明け渡すって感じ。インド旅の最初はスーパーに行っても食べたいものがない、の連続だったんだけど、下痢が酷くてもう降伏しようと思ったら、食べたいものが見えてきた。

ワクサカ あきらめたんだ。あきらめたら、明らかになった。

コムアイ そう、あきらめたら、オートミールとか、インド料理の中でこれも優しいかも、とか見えてきて、買い物中のおばちゃんも話しかけてきてくれて、お腹の調子が悪いんだったらジーラソーダがいいよ、って教えてくれて。クミンの入ってる甘じょっぱいソーダなんですけど。その土地で、その状態に合ったものが見えてくるってのが、「降伏」とか「あきらめ」の先にあるって思った。下痢の境界線を越えた話です。

ワクサカ 僕はインドのみならず、日本にいる時もずっと下痢しているような、お腹の弱い人間で。で、「お腹が弱いの、マジ勘弁」って子どもの頃からずっと思ってたんだけど、最近になって、弱いってことは強いってことでもあるんだよな、って価値観が変わったところがありますね。スーパーマリオだったら小さくなるってことで、今までアイテムじゃなったものがアイテムになったりするじゃないですか。大きい時には招けなかったものを招くことができたり。弱いことを認めることで得られる強度っていうのがあるよな、と。「降伏する」とか「あきらめる」ってことをもっと軽やかにインストールしていきたいな、っていうのがいまの思いですね。

コムアイ 下痢をして、次の菌を入れる事が重要だね。

 戦後のバラック街みたいな感じですよね。僕もインドで下痢したんだけど、その時の感覚としては自分の中の「右翼」と「左翼」が戦っている感じだったんだよね。

ワクサカ ふふ、お腹の中で両翼が喧嘩しちゃうっていう(笑)。

 そうそう。でも、どっちが勝つってことはなくて、結局、適応していくだけなんですよね。それが市民の生き方なんだと思うし。アメリカに負けたという事実に対しての価値判断は色々あるとしても、いったんは棚に上げてアメリカ人相手に商売していく、みたいな。降伏しつつ、したたかに生きていく。酒に酔ってる時もそうだよね。異物としての酒に、自分の中の右翼結社が排外的なスローガンを街宣しまくっていて、そのやかましさに気持ち悪くなったりする。それに対して「大丈夫、我々はみな世界市民、共生できるはずだ」って左翼的スローガンを頭では送ろうとするんだけど、なかなかうまくいかない。右翼、手強いからさ(笑)

コムアイ あはは、それで二日酔いになる。

 その拮抗が免疫機能としては大事なんだろうけどね。

 

菌の話をしながら草を食べる者たち

ワクサカ なんか今日、やけに「菌」的な話が多くて面白いですね。

それで言うと、パンデミックが高まった時のしんどさを思い出すんですよね。仕事の現場が極端に変化したり、それからお金がなくなっていくっていう不安ももちろんあったんだけど、それとは別にもっと言いしれぬ不気味な感覚を喰らっちゃってるところがあって。

他者と全然会わなくなって、そうなるといままでは曖昧だった「自分の輪郭」がはっきりしだしちゃって、その感じがきつかった。確固たる自分が表れちゃった、っていうしんどさ。それで、人と会っている時って、それこそ菌なんかも含めて、目に見えない色んなものを交換してたんだなあ、って思い知ったんだよね。ぼんやりとしていることって、楽なことだし、その楽な感じに生かされていたんだ、と。パンデミックが現れた当初は「自分だけの時間が作れてラッキー!」くらいに思ってたんだけど、三か月もたなかった。

コムアイ わかるわかる。パンデミックが来たことで、色んなものがスローダウンしたじゃないですか。それは自分にとっては最初、いい効果になると思ったんですよ。自分自身だけでいたほうが邪魔されずピュアなクリエイションが生まれてくるって信じていた。実際、何か月か他者と会わないでいるとブレがなくなってきた。でも、その時の自分のことが好きじゃなかったんですよね。人と会う時にしか得られない気の張りっていうのが確かにあるんだよね。家にこもってるよりも、気持ちもお化粧して外に出て、人と交わっている時の少し見栄張っている自分の方が好きだってことに気づかされた。

ワクサカ 他者によって自分が作られているんだし、もっと言えば自分と他者を分けているものってかなり曖昧ですよね。常に変化しているものなんだし。

 「自分」とか「他者」っていうのも、フィクションの一つだよね。

コムアイ わかる。たとえば、何年も前にしたことについていまも謝まらさせられていたり、個人のやることや性格は永遠に変わらないんだっていう前提の発言に触れたりするとビックリする。

ワクサカ 十年前の自分と現在の自分って、もはや他人ですよ。人格が違う。

 物質的にも他人だしね。

コムアイ しりとりみたいな感じで、名残はあるかもしれないけどね。まるっと違う細胞やら人格やらに変わっていきつつ、でも少しづつ受け渡していく感じ。伝言ゲームみたいに。

ワクサカ ウナギのたれみたいに。

コムアイ そうそう。情報が伝播して繋がって。実際、「水曜日のカンパネラ」をやってた時のこと、そんなに前のことじゃないのに前世ぐらいに思ってるもん。三年くらい前の映像観ても、どこでどういう流れでそれをやっていたのか全然思い出せなかったりするし。どういう状況でここでライブしてたんだ?って。動いている自分を見てもそれが自分だって思えないような感じ。

 こないだ粘菌について調べていたんだけど、粘菌て単細胞多核生物なんだよね。単細胞なんだけど、核はたくさんある。行動を統一的に判断する中枢がなくて各所の核がそれぞれ判断している。要は、単一の細胞の中に社会があるような感じなんだよね。増井真那さんが粘菌の個について「社会のような個」と表現していたんだけど、まさに多即一、一即多の世界。ただ、人間も粘菌とそんな変わんないかなとも一方では思って。人間の場合は脳に中枢があって、そこに「私」がいるって認識になりがちだけど、腸内細菌のこととかまで視野に入れると、実は判断の主体ってすごく不明確。自分なのか自分ではないのか分からないような寄生者たちが様々な判断に関わってたりしているわけだよね。でも、その集合体が他者から見たら一つのまとまりを持った「私」のような形を成している。でも、それはやっぱりフィクションなんだよね。

ワクサカ  腸の話が出たところで、野草でも食べますか。とりあえず食べやすいやつで、タンポポいってみましょう。

コムアイ うまっ。

 うまいっすね。クレソンに似てる。

ワクサカ よかった。タンポポは頭から根まで全部食べられますよ。コーヒーにもなるしね。一番ポップな「食べられる野草」だと思う。

コムアイ 薬草的な力がありそう

ワクサカ 成分が強くて人によってはお腹壊しちゃったりするかもしれませんね。でも、力があるってそういうことですよね、毒にも薬にもなる。

 

踊り念仏を唱えよう

ワクサカ 僕は『出セイカツ記』に書いた通り、いまもなお不安と二人三脚で生きていて、でももうすぐ四十歳になるので、朽ちていける安心感みたいなものも得てはいるんですよね。コムアイさんと辻さんは、いまはどんな感じのモードですか?

 僕もワクサカさんと同じ歳なんだけど、もう老後っすね。余生モードです。

ワクサカ 隠居モードは確実に来てますよね。それが三十代後半なのかしら。

コムアイ 余生と思ったら生きるの楽だろうな。

自分も四十歳が近づいたら、もっと自由になるだろうと思う。いまはまだ頑張んなきゃ、作ってなんか出力しなきゃって思ってる。で、それによって空回りしてるような気もする。一番の理想は、自然に色んなものが湧き出る状態と、そしてべつに何か作らなくても生活していける感覚が同時にある、ってことかな。上手く点滅したい。

ワクサカ 点滅がもっと上手くなりたい、っていうのは自分もあるな。でも、「上手い点滅」って、なんなんでしょうね、タイミングなのかな、頻度なのかな。

コムアイ 強さもありますよね。点滅を意識してない人のほうが、上手く点滅できていたりして。好きな時に寝て、パッと動いて。生命力の強さを感じる。働くとき、めっちゃ働いて、で、眠って。自分のバイオリズムに乗っかって仕事して、点滅の強度を高めたい。私は合わせられるところもあるので、空気感の中で「みんなも起きてるんだから、自分も起きてなきゃ」みたいなこと、無駄に思ってたりします。

ワクサカ 社会ってのは、同じリズムでの点滅を強いてくるもんね。

コムアイ 土日が休みじゃない仕事をしているってだけでけっこう気持ちが楽ですね。それって逆の人もいるんでしょうね。

 サウナとかタトゥーとか、ユーモアを持って辛さや痛みを我慢するのはいいんだけどね。将来のためにいまは我慢、とかは普通に嫌ですよね。

僕は老後のためとか一切考えてないんだよね。その時に得たいものをその時に得ているから。だから「老後についてどんなことを準備してる?」って聞かれた瞬間に不安になる。本当に何一つ考えてないから。この不安の重力に持っていかれないためにも、本当に生きているの嫌だな、つらいな、ってなったら、愉快に死のうと決めてますよ。そう思っておくことで、不安と共にある生を楽しむことができる気がする。

コムアイ 老後のことを考えてないってことは、食べられなくなるってことが怖くないって事だよね。

 その状況は状況で楽しめるんじゃないか、っていう。

ワクサカ 羨ましい。そういう風になれたらいいな。

 苦しみすらも気持ちよさに転換するっていうのは知性の重要な役割だとも思うんだよね。

コムアイ 苦しまないと面白くならないしね。

ワクサカ 楽しいことばかりだと楽しくないんですよね。

コムアイ 人間の怖いところだね。しんどい方が面白かったりするもんなー。

 詰まるところ、生きたいと死にたいっていうのは同義なんだろうなと思う。

ワクサカ みんな、SMを一人でやってるみたいなものだもんな。

コムアイ だからユートピアに立たなくてもいいってことだよね。ユートピアが救いになるんじゃなくて、ユートピアに近づこうとするその行程の遊びが楽しかったり苦しかったりで、それが面白いってことで、もう全部OKだ、っていう。苦しみがない世界が今すぐ手に入ったら、生きていることすらよくわからなくなりそう。

その点、『出セイカツ記』は、難しくないことをちょっと苦しみながらやってるのがいいよね。

ワクサカ 理想に向かっていく行為って、「過剰性」に座礁しがちじゃないですか。でも、草を食べたり魚を突いたり泥団子を売るっていうのは、どうしたって過剰になりようがないんですよね。上に向かって上昇していくんじゃなくて、地を這っていくタイプの冒険ばかり。禅で言うところの「足るを知る」ってことに近い行為なのかな。すでにすべては足りているのだ、ということを知るための自己レッスンの記録というか。無駄にそれをちょっと苦しみつつやるという。

コムアイ お金をかけなくてもできることばかりだから、すぐ実践できるしね。

あと、ワクサカさんの文章ってギリギリでシステムとか制度とか概念とかの話にならないように気をつけているのかなって思ったんですよね。

ワクサカ なんか自分の中に「倫理」があって、そこからは絶対にはみ出さないぞ、っていうのがあるんですよね。冷笑的にはならないぞ、とか。

コムアイ そこをセーブすることで反インテリみたいな人にも届くように間口を広くしてるんだろうな、って。で、文章のリズムとかテンポもさすがだから、洗脳する力も結構あるっていう。理論化しないで間口を広げていくやり方が面白かったです。日本はひねくれてる人とか、それこそ冷笑主義みたいな人が多いから、この書き方のほうがいいんだろうなって思いました。

ワクサカ 照れるな、励みになります。

コムアイ それって、人に対して優しい、ってことなんだろうな。

ワクサカ でもコムアイさんにも辻さんにも僕は強い倫理とか優しさを感じますよ。

 正しそうなことをいくら言ってみても、やっぱり伝わらなきゃしょうがない、っていうのはありますよね。なんせそこには具体的な相手がいるわけだから。

ワクサカ 「ウケたい」っていうところから始めないと、やっぱ調子よくいかないんですよね。

コムアイ ワクサカさん、時宗っぽいんだよな。あきらめることを肯定する感じとか、なにかを信じても信じなくてもどっちでもいい、って思っているような感じとかが。

ワクサカ ジシュウ?

コムアイ 一遍上人の。

ワクサカ ああ、踊り念仏の。それは嬉しいっす。でもコムアイさんも踊り念仏じゃないですか。

コムアイ あはは、そうだ。踊り念仏だわ。

ワクサカ 「楽しそうだな」って思った人は、とりあえず誰でも入れるっていう、そういう状態のものを作っていきたいんですよね。書籍でもライブでも。あと、そういうものを作っている人が好きですね。それこそ踊り念仏的な、ポンコツ感のある表現。

 

理由などなく、いなくなったり現れたりする

コムアイ さっき話したNPO法人の「ほうぼく」で急にあるおじいちゃんが姿を消しちゃったことがあったんだよね。それでみんなで探したら、県外の凄い遠いところで見つかったのね。連れ戻して、いなくなった理由を聞いたら、「たまにこういうふうになっちゃうんだ」って。

ワクサカ わ、いい話~。

コムアイ そう答えられたら、それ以上何も言えないよね(笑)

 いなくなっちゃうことに理由なんてない。漠然としていていいね。むしろ「いつづけること」の理由の方が問われるべきかもしれないわけで。

コムアイ 理由のない行動に魅かれるよね。

 癖(へき)ってやつだよね。

ワクサカ 個性ってやつですね。個性の正体は癖で、つまり個と個を分けてるものは癖なんだ、っていう。

コムアイ そういう意味では「ほうぼく」は癖パラダイスかも。おじいちゃんおばあちゃんたち、認知症が進んでいる人も多くて、それによって逆に癖が際立つところもあって。たとえば町のいたるところにある表札とかマンホールとかの文字をノートに書き写してるおじいちゃんがいるんだよね。人んちの庭とかにも勝手に入っちゃうから、最初は通報されてたんだけど、そのうちに地域の人に「あのおじさんはなんでもかんでも書き写したいらしい」として認識されるようになって、いまは理解されているみたい。

ワクサカ いいなあ。他者の癖を認めることができるっていうのは、なんとも開かれた態度ですね。

 小説家の吉村萬壱さんと話した時に聞いたんだけど、吉村さんって小説家になる前に知的障がい児の支援学級で働いてたんだよね。で、その学級にいっつも水道を開けっぱなしにしてその水を眺めながら手を出し入れしてシャパシャパやってる自閉症の子がいたらしいんです。職員としては「水道もったいないからやめなさい」と言うしかない。でもほっとくとまたシャパシャパ始める。それで、吉村さんはこの遊びの何がそんなにいいんだろうって、その子の横の蛇口で同じようにシャパシャパしてみたらしいんです。そしたら、その遊びがすごく面白かったんらしい。さらに、その時まで目すら合わせてくれなかったその子がこちらに視線を送ってくれて、初めて心を通じ合えた気がしたって話してたんですよね。

ワクサカ 癖のメモリを合わせる、ってことから開かれる扉があるんだろうね。癖から来る行動って、理由がないじゃないですか。理由とか意味がない行動とか衝動って、一瞬不気味に思えたりすることもあるんだけど、その無意味を軽々しくキャッチすることでやっと始まるなにかがありますよね。こうやってなんとなくわらわらと集まって、生えてる草を無闇に食べながらゴールもなく喋る、みたいな。

そろそろ陽も落ちてきたし、どこかの店で無意味に飯食ったり酒飲んだりしますか。

コムアイ それがいい、そうしましょ。

 


 

以上、雑談の記録である。

後日、祖母に「こないだは庭でなんの集まりをしていたのか」と聞かれ、「まあ、なんていうか、草を食べる会」と答えた。祖母はなんだか心配するような目で、こちらを見てきた。「いや、あれよ、草っていうのはタンポポとかのことよ」と弁明したが、祖母には上手く伝わっていないようだった。

「タンポポ」がなにかの隠語だと誤解され、それがそのまま親戚中に悪い噂として広まったらどうしよう、と私は不安になった。

 


 

【INFORMATION】

コムアイと胎児の旅を通して、この世界の希望と問いに向き合うアートドキュメンタリー『La Vie Cinématique 映画的人生』製作決定、現在クラウドファンディング中

越境する表現者、コムアイが妊娠。「水曜日のカンパネラ」脱退後、多彩化した彼女の好奇心は、この世界に息づくかけがえのない営みの現場に彼女を連れて行く。胎児の父である太田光海監督が、最も近い距離から表現するドキュメンタリー。現在、その製作予算、配給費用の一部をクラウドファンディング中。

以下のURLより、クラウドファンディングにご参加できます。

https://motion-gallery.net/projects/kom_i_Film

 

 


 

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。新刊『出セイカツ記』(河出書房)の他、『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などの著書がある。

 

コムアイ KOM_I/アーティスト。1992年生まれ、神奈川育ち。ホームパーティで勧誘を受けて加入した「水曜日のカンパネラ」のボーカルとして、国内だけでなく世界中のフェスに出演、ツアーを廻る。20219月に脱退。音楽活動の他にも、ファッションやアート、カルチャーと、幅広い分野で活動。2020年にアートディレクターの村田実莉と、架空の広告を制作し水と地球環境の疑問を問いかけるプロジェクト「HYPE FREE WATER」が始動するなど、社会課題に取り組むプロジェクトに積極的に参加している。

 

辻陽介 つじ・ようすけ/1983年生まれ、DOZiNE編集人。編集とか文筆とか色々。宙ぶらりんになっている企画も色々。断るの下手だから仕事振らないで。

 


 

 

〈MULTIVERSE〉

「レオ・ベルサーニをめぐって 」──クィアが「ダーク」であること──|檜垣立哉

「ゴシックからブラックへ、アフロ・マニエリスムの誘惑」── “暗黒批評”家が紡いだ異貌の黒人音楽史|後藤護インタビュー

「死と刺青と悟りの人類学──なぜアニミズムは遠ざけられるのか」|奥野克巳 × 大島托

「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛

「あるキタキツネの晴れやかなる死」──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ

「パンク」とは何か? ──反権威、自主管理、直接行動によって、自分の居場所を作る革命|『Punk! The Revolution of Everyday Life』展主宰・川上幸之介インタビュー

「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾

『ごきげんよう、ヒドラちゃん』|逆卷しとね

「HOW TO SCAN THE WORLD 」── 世界をくまなく、そして注意深く、「見る」「触れる」「遊ぶ」|BIEN × 石毛健太 × 髙木遊