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大島托 『失われた“紋”を求めて──1ミリ向こうの古代』 歴史から欠落したメソアメリカのタトゥー②

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。書籍化された『一滴の黒』に続く、現在進行形の新章。

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人は紋様を「得る」のではなく紋様に「成る」

 サンクリストバルはマヤ直系の先住民ツォツィルやツェルタルの地だ。街の周囲に広がる彼らの村々ではそれぞれの言語が話されている。あの映画『アポカリプト』の言語だ。

 この鄙びた高地の農村地域が世界の耳目を一気に集めることになったのは90年代のサパティスタ民族解放軍による武装蜂起運動だった。コロンブスによる新大陸発見から500年のタイミングで、先住民の農民たちが立ち上がり、サンクリストバルの広場に建っていたスペイン征服者の銅像を引き倒したのだ。彼らの主張は、先住民に対する構造的な差別の糾弾、彼らの小規模な農業を圧迫する新自由主義的農業政策への反対、民主主義の推進、などだった。彼らはチアパス州のいくつかの都市を占拠した後、メキシコ軍による農村への空爆を経て交渉路線に転換。黎明期のインターネット環境をフルに利用して世界中から支持を集めて交渉を有利に進めた。これは従来の左翼ゲリラ手法とは一線を画す、世界で最初のポストモダン革命とも言われている。日本ではあまり知られていないようなのだが、サパティスタはさまざまな角度から分析、論評されている大きな出来事なので興味のある人は調べてみてほしい。その後の世界の流れに少なからぬ影響を与えていることが分かるはずだ。

 この地に世界中から多くの旅人が引き寄せられるのにはこのような背景があるからだ。旅人は自由な空気を愛するものなのだ。僕が長居していたインドでは、現代の個人を縛り付けているさまざま観念からの解放を目指しているナイーブなヒッピーが多かったけれど、ここに集まるのはもっとゴツゴツした熱い奴らで、自由は抵抗の末にもぎ取るものというのがその流儀なのだ。そういうパンクなノリのトラベラーがメキシコに集まっているというのはインドにいた頃から聞いていた。何らかの敵を想定してそれに抗うというスタイルが歌でもグラフィティーなどのアートでもメインだ。その場合の敵役はアメリカ合衆国が圧倒的人気で、他にはメキシコ政府や金持ちとか。究極的には自分と違うなら誰でもいいみたいなノリまである。ここでは酒場の喧嘩なんかもド派手だ。うちの宿の「豆」がこの街で最強との噂だった。「黒」もメキシコ軍人上がりでかなりやるらしい。なるほど。いかがわしい宿だな、しかし。いったい何がうちの宿の本業なんだろうか。チチャロンのことをうるさく言うのはやめとこう。

 サパティスタ以来、世界の先住民運動のエッジと見なされるようになったサンクリストバルには当然タトゥーイストたちもたくさん乗り込んできた。マヤ帝国を始めとするメソアメリカ文明のタトゥーを現代にリバイバルするのにこれほど適した場は他にないだろう。

 しかしいざリバイバルしようとしたところでハタと気づく事がある。肝心の資料がないのだ。そんな馬鹿なことがあるはずがない。人類はタトゥーの技術とともにベーリング海峡を超えている。北極圏のイヌイット、北西海岸のハイダやトリンギット、アメリカインディアン諸族。みな資料にトライバルタトゥーの情報が残っている。地理的にはるかに下ってアマゾンの密林の人々には現在もトライバルタトゥーの習俗が続いているところだってある。その間の中南米にタトゥーが無いわけがないではないか。

 いや、あったということは分かっている。ただ誰も記録を残していないということなのだ。消去されたと言ってもいい。実はこれは南北新大陸のうち、スペインに統治された地域に共通した現象だ。その、神話をまるごと置き換えるような強力な統治法は、時代や立ち位置によって愚かとも利口とも評されるのだが、とにかく当時のスペインはそういう方針だったのだ。おかげさまで後の時代のマヤ文字の解読作業なんかは、現代にもまだその言語が生き残っているにもかかわらず、そしてまた世界中の秀才たちがこぞって挑んだにもかかわらず、難航しまくったという。

 サンクリストバル郊外のツォツィルの支族の一つチャムラ族の村でもツォツィル語が当たり前に話されていた。顔も遺跡の絵文字に描かれているのとまったく同じ顔だった。メキシコ国内ではかなりの僻地にあたるチアパス州の先住民たちはスペイン文化との同化を歴代拒絶し続けた経緯があり、社会システムもマヤ帝国時代のそれを色濃く残しているとされている。宗教もここでは根こそぎ刈り取られるようなことは起こらずに、古来のアニミズムとエヴァン(キリスト教福音派)の融合した信仰を人々は持っている。祈祷師のシャーマンも今なお健在だ。この感じならどこかの集落に地味にトライバルタトゥーが続いていてもおかしくないなと思う。

 が、もう一方で、これほどのしっかりした農耕社会システムがマヤ時代からほとんど変わらないモノであるならば、そして彼らがかつては複雑なマヤ文字を使っていたことも合わせて考えるならば、マヤ文明の人々はすでに一般的なトライバルタトゥー社会の段階を脱していたのかもしれないなとも思うのだ。

 そういえば『アポカリプト』で描かれていたタトゥーは、帝国の下級に属していると思われる人狩り部隊と森の狩猟採集民だけに入っていて、帝国市民や王族は装飾具とボディーペイントだった。もしあの感じにリアリティがあるのだとすれば、この地のトライバルタトゥーを探索するのはさらに時代を遡る必要がありそうだ。

 メキシコ南部、オアハカ州のシエラミクステカで見つかったタトゥーの入ったトルテク人女性のミイラは、コロンブス到来以前の1015世紀のものとされていて、その両前腕にはメソアメリカ文明の最高神ケツァールコアトルのような柄が入っている。その様子はシベリアのアルタイ共和国の二千五百年前のミイラ「ウコクの王女」のさまざまな動物モチーフのタトゥーを彷彿とさせるところがある。また、羽毛の生えた蛇であるケツァールコアトルは、古代中華の蛇神と鳥神の融合体である龍神信仰と全く同様のアイデアの、最強の権化としての神なのだ。

 あくまで僕のタトゥーイストとしてのキャリアから生ずる何となくの感覚に過ぎないのだが、このようなモチーフのはっきりした絵柄が肌に載るタイプと、世界のトライバルタトゥーの主流である抽象的紋様が身体を彩るタイプには、自意識の在り方のようなところに少し差があるような気がしている。それは例えるならば霊魂や他界の観念がどれぐらい立体化しているかのような違いだろうか。このトルテクのミイラの場合なら、ケツァールコアトルを所有するか、ケツァールコアトルに成るのかの違い。

 あえて極端な仮定で話をするならば、絵は描き手ありきの性質を持つ作家性の反映された創造物であり、個人が物理的に所有することもほとんどの作品で可能なのだが、他方で紋様というものは数式や定理のようにあらかじめ宇宙に存在しているものを人やコンピューターが発見しているだけのことで、発見されようがされまいがその存在自体には変化はない。だからたとえ誰かが何かの素材でそれを形にしようともそれは創造とは本質的に違う。このように、人間は紋様を、創造することも所有することも出来ないのだ。出来るのは紋様とイコールであることを、それを着たり彫ったりして表明すること、つまり紋様に成ることだけなのだ。

 どちらがより狩猟採集民的かと言えばもちろん後者の方だ。物事を「所有」出来るフォームに変換して棚の中に整理整頓するのは農耕や牧畜の社会の得意技なので。

           

サンヤの挑発

 パレンケはマヤ古典期の遺跡で有名だ。絵文字からマヤ文字までの変遷の様子を生で見たくて、古い黄色のボーチョ(フォルクスワーゲンのビートル)でサンクリストバルから峠を越えて来た。運転免許証をそのへんの警察署で買った。大型トラックや重機も勧められたけれど今回はそっち系の就労目的ではないので、とりあえず普通車とバイクだけにした。実質的にメキシコでは車は誰でも運転出来るものなのだ。危ないと言われたらまあ初めはその通りに違いないのだが、かと言って日本のように教習所に大金払わないと乗れないものなのかと言い返されたらそれもまた大げさだよなという気もする。ウマやロバが庶民の生活の足として当たり前に存在していたことがあったか、なかったかで乗り物観がこんなに違うのか、何なのか。当然だが両国の運転免許制度に相互協定はない。

 パレンケ遺跡の石造りの塔やピラミッドのクオリティーには圧倒される。これは石器時代の遺物というよりも、鉄の加工技術だけがないままに発展した農耕文明の強大な王国の巨大な神殿なのだ。やはりその彫刻群の、紋様のパターンを駆使して具象を形作る段階の雰囲気に古代中華の青銅器デザインとの親和性を強烈に感じる。

 かつて、北極圏のアジア地域は鉄製品を交易で手に入れて重宝していたが、製鉄技術そのものまでを修得することはなかった。北海道のアイヌにしても刀は非常に重要なもので、柄や鞘には精一杯手の込んだ細工を自ら施していたのに、なぜか刀身自体を作る鍛治仕事には手を出さなかった印象がある。どうしてそうだったのかを推測すると、それらの地域の狩猟民にとっては、兵器や農具としての大量の鉄製品の需要まではなかったので、専従の鍛冶屋がコミュニティ内で成り立つほどのことにはならなかったからだと思う。とはいえ極北の民から中南米まではいくばくかの交易で少しずつの中継では結ばれていたはずだし、その流れの中で鉄製品のいくらかはマヤ帝国にまで到達していただろう。はたして鉄の精錬技術を導入するための使者は、いつぐらいからユーラシア大陸に向けて送られていたのだろうか。その使者がもしスペイン人征服者より先に戻っていたとしたら、とか塔のてっぺんに座ってジャングルを見渡しながら妄想してみる。賽の目はいつだってランダムだ。

 メソアメリカ文明の絵文字やマヤ文字は今ではほぼ解読されている。偶然に見つかった、当時の一人のスペイン人宣教師が現地での布教活動のために記したメモが決定的な鍵になったということだ。エジプトのヒエログリフ解読のケースでの、あの有名なロゼッタストーンのような役割だ。

 特定の事物を指す表義文字や、アルファベットのような表音文字も確定されたことで、例えば現代の他言語の文章をマヤ文字表記することなども可能になった。そういうわけで、チアパス州に集まった幾つものタトゥースタジオでは絵文字やマヤ文字のタトゥーを旅行者たちに彫ることが盛んに行われていた。

 現代人が文字のタトゥーを入れる場合は自分の母語ではない文字を好む傾向が強い。欧米人は東洋の漢字を、東洋人は西洋のアルファベットを入れるとか、そういうことだ。それらは何が書いてあるかを自分の周りにストレートには分からなくさせるちょっとした秘密のレイヤーだったりもするわけだが、何よりもまず自分自身の瞬間の視覚にとってそれがほぼ意味性を感じさせない単なるデザインに見えるからなのだ。これが母語表記では脳にとっては一瞬たりともデザインにはならないから面白くないという感覚なのだ。そういった尺度では見慣れない文字ほど目的に適っていて、アラビア文字やデーヴァナーガリー文字などをタトゥーにする人が最近は増えているのだが、新大陸のすでに滅びた文字体系で、独特の絵としての面影をまだ強く残しているマヤ文字などはその極みといってもいいだろう。

 でもトライバルタトゥーというものはだいたいにおいて文字普及率と反比例する傾向があるものなので、この地のかつてのそれが文字だったとは僕自身は考えてはいなかった。

 遺跡の近くの宿場町にサンヤという女のタトゥーイストが住んでいた。セルビアの人だ。ということは前はユーゴスラビア人だったわけだ。僕はこの旧ユーゴスラビアの旅人たちにとても縁がある。まあ、言ってみれば腐れ縁の類いなのだが、いつも一緒につるんで小さな商売の計画を立てながら移動していた。90年代に国がいくつものピースに分裂し続けた彼の地では、小さな民族主義同士のお寒い対立と紛争の日々から逃れて、いつ終わるとも知れない旅を続ける若者たちがけっこういた。帰る場所なんてない。だから転んでも絶対ただでは起きない。とにかくしぶといやつらだ。

 まったくの独学で和の手彫り状の竿使いのハンドポークのタトゥーを開発し、「カルチャル・レスキュー(文化の救助活動)」と銘打って、古代遺跡の街でスタジオを開いていたサンヤがやろうとしているのは紋様のタトゥーだった。中南米の先住民たちの間で今も受け継がれる、服や生活雑貨を彩るさまざまな紋様群に、古代のタトゥーを探し求めていた。とてもいい見立てだと感じたので4頭の白い犬たちに守られたスタジオを訪ねて話しかけてみたのだが、なんというか凄い鼻息の荒さで取りつく島もないといった感じで、挙げ句のはてにはデザイン料金を打ち合わせ時に取るか取らないか、などというホントにどうでもいい話題で口論になってしまった。ファッションモデルのような細身で高身長のドレッド女が上からメドゥーサの如くのしかかるように詰めてくる様子に、僕はあやうく身体が石化してしまうところだった。やっぱアクが強いんだよな、この人たち。

 それから5年ほど経った頃だったか、ドイツの出版社の何十周年かのアニバーサリーのタトゥーコンベンションに招待されてフランクフルトに出向いたら、ホテルのロビーでサンヤとばったり再会した。おーいサンヤ!犬たちは元気にやってるか?とかなんとか呼び止めたのだか、彼女はキョトンとしていた。僕のことを憶えてないらしかった。なんだか表情が以前よりだいぶ柔らかくなっている。あれからいろいろなメディアで紹介された彼女はオーガニックなハンドポークタトゥーのパイオニアとして世界的なカリスマ彫師となっていた。トライバル系ということならばメキシコのタトゥー業界を代表する存在と言っても過言ではない。彼女の存在に引っ張られるようにして優れたメキシコ人の女の彫師も増えてきた。シンプルで大きな構図を好む今のサンヤのデザインの方向性は僕ともかなり通じるものがあった。

「結局、オレとキミは自分自身が小さな事でこんがらがっているから、シンプルで大きなタトゥーを人生の願望として目指すんだよな。」

 2人で爆笑して、今度は仲良くなった。

 あの頃の彼女を取り巻く状況としては、スペイン語もままならない外国人の女がいきなり単身乗り込んで来て、「先住民の文化を救う」なんてぶち上げていたものだから、マッチョ社会のメキシコタトゥー業界からは大顰蹙を買っていたらしい。まあ、分かる。サンクリストバルに集まってる彫師たちにしたって皆んな学校の授業なんてマトモに受けてないような不良少年だったのだ。鈴蘭男子高等学校みたいなものだ。そこに意識高めの外国人女子転校生が突然やってきて、あんた達は遅れてる、なんて言い放ったも同然なのだ。そりゃ揉めるだろう。彼女は男たちからのプレッシャーと闘っていたわけなのだ。本人は善意で活動していたわけだが、ローカル彫師たちのアングルから見たら喧嘩上等ってやつだ。

 当時、彼女のことを悪く言うメキシコのタトゥーイストを僕のまわりでも実際何人か知っていた。でも彼らが彫っているタトゥーはせいぜいマヤ文字や絵文字ぐらいのものだった。先住民の血統も、ちゃんとした技術もないという理由でサンヤを批判していた彼らは、しかしながらセンスや行動力というもっと重大な局面において決定的に劣っていたと言わざるをえない。ダサい恨み言吐いてるヒマがあったら作品の力で真っ向勝負してみろ。僕はテキーラの力を借りて彼らに正直に檄を飛ばしていたものだったが、結局はサンヤの勝ちだったか。僕は今ではサンヤとはシスター、ブラザーと呼び合う仲だが、その点に関しては何かちょっと複雑な気分だ。

 やっぱ強いんだよな、旧ユーゴ勢は。

 ていうかグウタラなんだよな、僕のアミーゴたち。

           

死への愛

 ところで、メキシコでタトゥーを彫っていると、どうしようもなく直面せざるを得ない現実というものがある。

 客が時間通りに来ないのだ。いや、5分、10分の話ではもちろんない。30分とか1時間とかの話ですらもない。そしてまたドタキャンということでもない。

 36時間遅れとか、別の日にひょっこり現れるとかのレベルの話だ。別に話を盛っているわけではない。現地を知る人ならば常識の「メキシコあるある」なのだ。

 まいったなぁ、とか言って初めは手持ち無沙汰になって天井見ながら貧乏ゆすりとかしていたのだが、他のスタッフなんかは当たり前だが慣れたもので、客が来ない時は店の前の通りに椅子を出して道行く女の子たちに話しかけて遊んでいる。そのうち僕も同じように暇つぶしするようになったら、ふわふわアフロヘアのコスタリカの女の子と仲良くなれた。凄い美人だ。だから、まいっか、という感じになった。きっと今日の客のバーガーキングも来る途中でキレイな女の子と出会って話が弾んでいるのだろう、と思うことにする。

 時間にとてつもなくルーズであるということは、意識の中に時計のイメージが存在していないということなのかなと思う。時間軸が曖昧というか。因果律に疎いというか。極端に言えば、今、ここ、しかない世界観というか。

 地球規模で俯瞰すると赤道に近づくにつれてそういう人々が増える印象がある。よく言われる説明として、冬の生活の厳しさに備えるために人は日付けや時刻などの時間軸の感覚を発達させた、というのがある。だから北の人々は時間に敏感なのだ、と。まあ、確かにずっと夏が続くのだったらカレンダーも年号もさして意味はなさそうだし、そうした物差しがないから自分の年齢を数える習慣もないという人々は南国にはたくさんいるのだ。が、しかし、そういう他の地域と比べてもメキシコの時間に関するルーズさには別格の感が漂う。彼らは深い森の小さな孤立集落の裸族ではなく現代都市社会に暮らしているわけだし、それにメキシコはそもそもそんなに赤道には近いわけでもないのだ。

 過去から未来へと続く直線上の現在という一点を、期間や場所を限定して生きていると自覚する種類の人間からしてみれば、メキシコ人という者たちは、時空の存在しない超越的次元とこの世との狭間の領域「幽世(カクリョ)」の住民にも見えるだろう。栄華を極めたマヤ文明の住民たちが忽然と姿を消したことを、超越的次元への集団ジャンプだったと設定した読み物がかつて世界的に大流行したりした下地には、こうした幽世の雰囲気を現代メキシコ人が色濃く漂わせていることがあるのだろう。

 メキシコのギャング文化は有名だ。音楽、車、グラフィティー、服などは今や世界規模で拡がりを見せているのは周知の通りだろう。顔面に不規則に散りばめる彼らのタトゥースタイルもよく見かけるようになってきた。が、それでも本質的に彼らが世界中に知られる最大の要因は何と言っても殺人だ。陵辱の限りを尽くした、質、量、ともに圧倒的な死体の山なのだ。抗争相手や何らかのトラブルがあったり無かったりする人体をズタボロにしてインスタレーションにする。日本や欧米など、こちら側の世界では一般的に、それは恐怖を煽り、人々をコントロールするための見せしめの行為と解釈されている。

 北部のギャングが強い地域では警察署長が代々必ずギャングに殺されるのが恒例の街などがあり、新署長が就任何日目で殺されるのが賭けの対象になっていたりする。スリは人混みの中で前を行く人の頸椎を捻り折ってから財布を盗む。道端の死体は日本のように早々とブルーシートで覆われるようなこともない。そしてこうした殺人の9割以上はまともに捜査されることもないし、犯人が捕まることも有罪になることもほとんどない。ちゃんと仕事をしようとした捜査員は殺されるし、検事や裁判官や原告も同じように殺されるからだ。

 豆やヒキガエルと一緒に彼らの地元であるメキシコシティの産業団地エリアに行ったことがあったが、そこの通りではいつも皆んなで固まって走って移動した。普通に歩いていたら殺される。そのあたりの街では撃たれたり刺されたりすることに大した理由はいらないらしい。まるで戦場だった。

 こうして見ると、たしかにそれらの殺人は見せしめ行為ではあるのだろうが、どうしてもただ単に邪魔だから片付けただけのような無表情な軽やかさも否めない。それに対する人々の反応も、恐怖でパニックを起こしたりはせず、ただただ諦めているだけなのだし。

 メキシコの「死者の日」はアメリカのハロウィンの元ネタになったとも言われる同日程のお祭り行事だ。ハロウィンは、ジャック・ア・ランタン風オバケ&ゾンビの仮装から転じて、東京では何でも仮装大会と化して普及しているが、死者の日の方は日本ではあまり知られていないだろう。死者の日の主役はガイコツだ。これはコロンブス到来以前のメソアメリカ文明からずっと引き継がれている当地のガイコツ信仰がベースになっていて、祖先への愛や再生の象徴としてガイコツを煌びやかに飾って愛でる習慣なのだ。肉が腐ってウジが涌いたりしてるアメリカのゾンビが死に対する拒絶反応の表れだとすると、オシャレに着飾って陽気なポーズをキメている、メキシコの白くてスベスベのガイコツは、死への愛や受容だ。死を恐れることなく認識し、行動することが自由で楽しい人生の鍵であるという考えなのだ。

 もともと人間には生しかなかった。あるときその生の一形態として死という現象が認識され、また生まれて来るまでのサイクルが、たとえばメビウス状の形で循環するようになったのだと僕は感じている。きっと時間や空間もかつては同じようなイメージだっただろう。「私」と「あなた」も、さらに人間とそれ以外もさして差はなかったはずだ。実際にそういう人々に会ってきた。

 富の蓄積とともに所有の概念が発生し、それは時代ステージを追うごとに先鋭化し、人生は極めて限定的なものになっていった。メビウス状の生はいつの間にかその途中で巨大な壁で区切られていた。壁の向こう側はちらっと覗き見することすらも憚られるいかがわしいタブーの世界なのだ。死はもはや絶望的に遠い。そしてそのことによる現代人の不幸もまた計り知れないほど深くなっていることだろう。

 ある段階でそのことに気づいたメキシコの人々は、放っておくとどんどん高くなっていく分断の壁を、意図的に切り崩し続けることを習慣とするようになったのだろう。

 バーガーキングのタトゥーは何度かの長大な遅刻を繰り返しながらも、残り1セッションのところまでようやく漕ぎつけていた。メキシコ人離れした大きな腕のフルスリーブデザインだ。

 しかしあと一回になってからがまたあれやこれやのキャンセル続きで、気がつけば時間切れとなり僕は日本に帰国した。

 そのすぐ後、僕がまたメキシコに戻ったのは、メルカドのチチャロンが食いたかったこともあるが、ほとんどはこのバーガーキングのタトゥーを完成させるためだけの目的だったのだ。が、またもやあれやこれやの関係でセッションが出来ず、ようやく再会出来たのは帰国の前日だった。この一発で極めると意気込んで、いざ彫り始めたら、なんと1分も経たないうちにバーガーキングがギブアップした。

「今朝までトランスパーティーにいて、まだバキバキにぶっ飛んでる最中なんだ。この世の終わりみたいな痛さなんだ。許してくれチチャロン。」

 わざとだ。絶対わざとに違いない。僕はそう確信してサンクリストバルを後にした。

 サンヤは八王子の僕の家までゲストワークに来たりするほど交流がある。ラペのセレモニーをやったりしてますますスピリチュアルの度合いを深めている。粉ワサビをスニフしたような衝撃に涙している時にサンヤが言った。

「パレンケにあなたの大ファンがいるの。今度あたしのところに来てみない?」

 それってバーガーキングだよね?

 お断りします。

 

インド中央部に暮らすバイガ女性たちの全身タトゥー❶を読む>>

 

〈INFORMATION〉

『一滴の黒』大島托 著(ケンエレブックス 刊)

https://books.kenelephant.co.jp/products/9784910315157

日本を代表するタトゥーアーティスト・大島托が、トライバルタトゥーをめぐるリアルな習俗と歴史、そして現在を描き出す旅の記録。全国書店にて発売中。

 

 

〈MULTIVERSE〉

「レオ・ベルサーニをめぐって 」──クィアが「ダーク」であること──|檜垣立哉

「ゴシックからブラックへ、アフロ・マニエリスムの誘惑」── “暗黒批評”家が紡いだ異貌の黒人音楽史|後藤護インタビュー

「死と刺青と悟りの人類学──なぜアニミズムは遠ざけられるのか」|奥野克巳 × 大島托

「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛

「あるキタキツネの晴れやかなる死」──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ

「パンク」とは何か? ──反権威、自主管理、直接行動によって、自分の居場所を作る革命|『Punk! The Revolution of Everyday Life』展主宰・川上幸之介インタビュー

「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

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「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

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「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

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「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

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「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾

『ごきげんよう、ヒドラちゃん』|逆卷しとね

「HOW TO SCAN THE WORLD 」── 世界をくまなく、そして注意深く、「見る」「触れる」「遊ぶ」|BIEN × 石毛健太 × 髙木遊

 

 

PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。著書に『一滴の黒』(ケンエレブックス)。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html