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太田光海 『ナンキ ──まどろみの森で』 EPISODE 06「自然ってなんだ? 土地ってなんだ? 根源的な問いと向き合う」

映画『カナルタ 螺旋状の夢』の監督・太田光海が綴るもう一つの“カナルタ”。アマゾン・シュアールの森で青年は「ナンキ」と呼ばれていた。

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「自然ってなんだ?土地ってなんだ?根源的な問いと向き合う」

 3.11による言い尽くしがたい一連の出来事によって、僕の意識は劇的に変わった。もちろん、震災による死者や行方不明者、動物なども含めて失われた多くの命、残された人々の痛み、汚染された土地への祈りにも似た感情が、あった。しかし、それと同じかそれ以上の割合で、僕には大きな怒りの感情も渦巻いていた。原発事故が起きたことをしばらく隠蔽し、それが明らかになったあとも「ただちに人体に影響はない」の文言を繰り返し、放出された放射能がどのように分散していったのかのトレーシングすら、技術的には十分可能だったはずなのに行わなかった政府。そして、責任逃れの発言ばかりに終始する東電に対してだ。このようなことが起きるリスクがあることを知っていながら、そもそも原発というものを建て、維持してきた前世代の大人たちにも。そしてそういう人たちに限って「放射能は危なくないし、原発はこれからも必要だ」と簡単に言い放つことに対して、「俺たち若い世代は、これをずっと背負っていかないといけない。子供も今後生まれるかもしれない。そのことをわかっているのか」と、悔しさにも似た憤りを感じていた。すでに少子化によって若い世代の声が表に出にくくなっていた日本で、この期に及んで上の世代からこんな適当なことを言われないといけないのか、と思った。

 もともと、僕は政府の言うことをなんでも信用するような人間ではなかった。むしろほとんどは疑ってかかっていた。しかし、3.11を機に、僕の意識は決定的なレベルで変わった。なかなか説明しがたいのだけれど、ものすごくおおざっぱに言えば、「西ヨーロッパや北米の人」から「戦争や内戦が起きている国々の人」と同等のものに、感覚値が移行したと言える。3.11以前は、自分の無意識レベルでは、政治的混乱によって「その日を生き延びる」ことに必死にならざるを得ない地域の人々を、どこか「日本や欧米は恵まれているが、世界には厳しい環境で生きている人たちがいる」という感覚で眺めていた。3.11以降、僕は自分のことをほとんど「難民」に近い感覚で考えるようになっていた。実際、国際的な環境でそういう趣旨の発言をしても、あの時期は素直に受け取られただろうし、中東やアフリカからの難民の人々と「お互い、国がめちゃくちゃだと大変だよな」と共感し合えたと思う。

 世界中が、日本政府や「原子力ムラ」が完全に暴走していることを理解していた。「日本のメディアより海外メディアの方が情報が正確だ」という話も、当たり前のように話題になっていた。事実、残念ながら英語やフランス語で読むニュースからの方が日本のメディアよりはるかに早く正確な原発事故に関する情報を得られた。あの時期、日本から多くの人々がマレーシアやシンガポール、あるいはその他の国々に移住したが、実際の呼び名はどうであれ歴史的流れから考えれば彼らは「難民」に近いのではないだろうか。もちろん、国内でも、被曝を避けるためのみならず、震災以後の世界を見据えてダウンシフト生活やオフグリッド生活を目指して移住したおびただしい数の人たちがいる。今後、100年単位でこの歴史は検討されていくはずだ。

 パリから2011年夏に帰国したあと、僕は当時在籍していた神戸大学のゼミ活動を通して3.11以後の世界と向き合うための政治的意識を強めながら、知識を蓄えていった。以前の記事でも触れた小笠原博毅先生のゼミと並行して、科学哲学・科学史が専門の塚原東吾先生が企画するイベントにも頻繁に出入りするようになった。脱原発の立場を鮮明にしていた彼は、一方で原発を取り巻く物事がいかに歴史的にも哲学的にも深いレベルで問題なのかを、僕らに教えてくれた。ざっと思い出すだけでも、例えば村上陽一郎『科学者とは何か』やトーマス・クーン『科学革命の構造』、中川保雄『放射線被曝の歴史』、カウシック・ラジャン『バイオ・キャピタル』(訳者は塚原先生)、開沼博『フクシマ論』などを、塚原先生の示唆とともに読んだ。一体今起きていることはなんなのかを、広く、深く、具体的に、貪るように吸収し理解しようと必死だった。ほかでもなく、生き延びるために。また、当時のゼミの先輩が関西での脱原発運動の主導者の一人だったこともあり、毎週のように脱原発デモに参加していた。

 一方で、こうした政治的で知的な活動だけでは、この震災と向き合いきれていない気がした。「理屈」ではない、少なくとも「今、手元にある理屈」ではない何かが、必要な気がしてならなかった。パリにいたときから考えていたことではあったが、現地の様子を見に行き、できるなら被災者の方々と会いたいと思った。そこで、大学が斡旋していた東北でのボランティアチームに参加することにした。震災からほぼ1年後の2012年3月、僕は岩手県陸前高田市を訪れた。この記事のトップ画像は、まだ津波の後に何も建っていなかった当時の町の様子を写したものだ。瓦礫を撤去するボランティア活動に参加するかたわら、仮設住宅を訪れ、住んでいた方々に足湯を用意したり、手をマッサージして差し上げたり、一緒に編み物をした。下の写真は、ボランティアに参加した仲間たちとの瓦礫撤去作業中の写真。僕は一番右にいる。

 

 

 そして、下の写真は仮設住宅を訪れ、居住者のみなさんと編み物をしている時の写真だ。このとき僕はカメラの後ろにいる。

 

 

 こうして、1年、2年、3年と、様々な経験を積みながらも、震災から時間が経つにつれて、僕の意識はより根源的な問いに向かっていった。「自然とはそもそも何か?」そして「土地とは何か?」という問題だ。3.11が突きつけてきたあまりにも多すぎる課題は、簡単に「正解」を出せるものでは到底なかった。とある理論や立場を鮮明にし、具体的に政策を提言しても、根本的解決には全くならないほど、あらゆる矛盾がそこにはあった。例えば、東電の悪行を批判するのはいいが、僕自身は東京育ちで、つまり福島から送電された電力に一部頼って生きてきた。福島という土地が周縁に置かれ、苦しい経済状況から季節労働などをせざるを得ない多くの方々がいたという事実、そして原発ができたときに「ついに働き口ができた」と喜んだ現地の人たちもいるという事実を、どう捉えればいいのか。東京育ちの僕の命は、ある意味彼らの犠牲の歴史の上に成り立っていた。

 一度その事実について考え出したとき、「パンドラの箱」を開けてしまった自分に気づいた。少しずつ、本当に少しずつ、表向きの政治や、単に原発に賛成なのか反対なのかだけではない、もっと細やかかつ大きな流れのことを考えだすと、全てがつながっていった。放射能によって癌などの病気が増加する?じゃあ、そもそも癌の発症率自体が歴史的に増加傾向にあるのはなぜか、という問いはどう考える?農薬を大量に散布された野菜はよくて、放射能に汚染された土地でできたオーガニック野菜はよくない、と言える厳密な根拠は?もしかして、今俺が身に付けている服は、汚染された瓦礫と同じように、土に還らない化学繊維でできているんじゃないか?綿100%と言うと聞こえがいいが、その綿がもし農薬まみれで、劣悪な工場で多くの人を搾取しながら作られた服だとしたら?今俺が吸っている空気に放射能が含まれているかもしれない、という恐怖はあるけれど、そもそも今まで「良い空気」を本当に吸ってきたのか・・・??放射能によって免疫機能が落ちる、というけれど、そもそも抗生物質の大量投与や食品の過剰殺菌などによって人類の腸内細菌は徐々に減ってきている・・・?一体、オマエは「自然」、「環境」あるいは「土地」さらには「身体」と呼ばれるものを、今までそもそも認識してきたのか・・・?結局、オマエは「自然」や「土地」に対して、どんな感情を持ちながら今まで生きてきたんだ?なぜ福島で起きた事故は、これほどまでにオマエを悲しくさせるんだ・・・?そこにある、オマエ自身の「つながり」はなんなんだ??

 問いが問いを呼び、今まで考えたこともない疑問が次々と自分の中に生まれてきた。僕はその当時、自分の食生活にそこまで気を遣っているわけではなかったし、服だって単純にカッコいいのか、自分が買える値段なのかだけを見ていた。何かを買うときも、それを誰が、どんな環境で、どこで、どんな素材を使って、どんな想いで、どんな歴史を背負って、どんな技術で作り、それを自分が消費することによって世界に何をもたらすことになるのか、思いを馳せたことは限りなく少なかった。つまり、この世界に存在しているあらゆる要素=エレメンツに対して微々たるつながりしか感じてこなかった。熱心に本を読むのはいいが、それを身体的感覚に落とし込むことを全くしていなかったのだ。こうして、3.11以後の数年間を、僕はあまりに複雑に折り重なる多くの疑問に対して、悶々と悩み続け、突きつけられた根源的な問いについて、全く答えを見出せずに過ごした。一つだけ確かだったことは、3.11以後の世界を生きていくために、変わらないといけないのは何よりもまず自分であるということだった。そして、この問いについて語るとき、自分には今手元にある理論でも、情報でもない、全く新しい経験と感覚をもとに編み上げる言葉や表現が必要だということだった。

 

〈MULTIVERSE〉

「レオ・ベルサーニをめぐって 」──クィアが「ダーク」であること──|檜垣立哉

「死と刺青と悟りの人類学──なぜアニミズムは遠ざけられるのか」|奥野克巳 × 大島托

「聴こえざるを聴き、見えざるを見る」|清水高志×松岡正剛

「あるキタキツネの晴れやかなる死」──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ

「パンク」とは何か? ──反権威、自主管理、直接行動によって、自分の居場所を作る革命|『Punk! The Revolution of Everyday Life』展主宰・川上幸之介インタビュー

「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾

『ごきげんよう、ヒドラちゃん』|逆卷しとね

 

PROFILE

太田光海 おおた・あきみ/1989年東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部を卒業後、フランス・パリに渡り、社会科学高等研究院(EHESS)で人類学の修士号を取得。同時期に共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動した。英国マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターに在籍中、アマゾン熱帯雨林の村に約1年間にわたり滞在し、成果を映像作品にまとめ博士号を取得。その初監督作『カナルタ 螺旋状の夢』が2021年10月2日より日本で劇場公開。

【Twitter】@akimiota
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