ごきげんよう、ヒドラちゃん
塞がったばかりのかさぶたがばりっと破れ、肉に食い込む。突如上がる雄たけび。いたいいたいいたい。なかなか痛みに強い方だという自負もたちまち破れた。「深呼吸して」という声に我に返って、呼吸の仕方を学び直す。吐いて吸うんだったけ、吸って吐くんだっけ。肺臓のあたりを意識してもにょもにょしているうちに少しずつ冷静になってくる。呼吸というのは自動で行われる。けれども突発的な出会いにおいて、それまでにつくりあげられた自動的な自己制御システムは自動的であることをやめる。たちまちマニュアル操作に切り替わる。おおよそ出会いにおいて、ある種の惰性的な流れは断ち切られ、再形成することを強制される。手探りで。
僕が出会ったのは、突如肛門から貫入してきた指だけではない。看護師のみなさんの応援。次々と挿入される座薬。カーテンの向こう側からせっちゃんの声。そのどれもがわたしに開いた穴から吸い込まれ、どこかわからないところをかき回し、わたしの口から吐き出される。そしてどこにも吐き出せない異物と肉のなかで僕は出会った。直腸の入り口でしくしくと血を吐き続ける生きものは僕と医師の指のあいだに挟まれて、どくどくと生きていた。
始まりはいつなのか僕にはわからない。たとえば2016年4月16日21:26に発生したとされている熊本大震災は本当にその時刻に始まったと言えるのだろうか。2001年9月11日に米国各地を襲った同時多発テロはその日に起こったのだろうか。きっとプレートのひずみはわたしたちの知らないところで少しずつ蓄積し、たまたまヒトに認識できる地震というかたちで出現した。他にもさまざまな要因が複雑に絡み合っている可能性はある。テロリストは長い時間をかけて綿密に準備をしただろうが、米国が対ソ連のために育てた兵力がこのテロリストたちだったことを思えばそこも始まりとは言えない。始まりを定めることはあくまでも出来事としてヒトが認識できるその範囲内のことに過ぎない。その範囲を超えたあらゆる起源探しは、究極的にビッグバンにまで遡ることになる。ヒトの誕生、生物の誕生、地球の誕生、宇宙の誕生。ところが、宇宙物理学はビッグバンもまた始まりではない可能性さえ真剣に論じている。始まりを設定するということは、相関関係を超えて厳密に因果関係を把握しようとするヒトの悪いくせなのかもしれない。始まりを設定してしまえば、必然的に終わりを設定しなければならない。震災のあとの「復興」という目標、テロリズムのあとの「テロリストの掃討」という大義がそうだ。自然や悪の枢軸という「他者」が、わたしやわたしたちという「自己」に襲いかかる、という固定観念はヒトの筋層まで浸潤している。けれども、そのような自己と他者という差異の認識に基づいた始まりと終わりの物語はそれほど有用だろうか。それが科学的な認識だと言われればそれまでだが、タバコも吸えば酒も大量に飲み、夜更かしもすればジャンクフードも食べる僕は、科学的な認識の世界にそこまで厳密に従って生きているわけではない。
僕の直腸にいる異物が見つかった瞬間が始まりなのだろうか。おそらくそうではない。いつの時点かはわからないが、異物は異物なりに僕を構成する細胞の一部として健やかに育ってきた。ただ、僕の便が少々太すぎて、異物の成長を許容できなくなってきたのだろう。血便が出るようになり、やがて直腸内に溜まった下血を吐き出すためにトイレにこもる機会が増える。病院に行くきっかけになったのは、二度にわたり便器が真っ赤になるほど下血したからだった。命の危機を覚えた。こうして僕の直腸に潜んでいる異物は僕の僕という存在に対する認識を内在的に変えた。といっても、認識の転換が始まりというわけではない。それはある種の認識に至る契機であり、僕という存在は僕が認識するずっと前から、僕の知らないところで変容を続けている。それは今に限った話でもない。
僕の異物は、通常のヒトのモデルに照らせば存在しない「他者」なのかもしれない。病変部位を特定し、これを「他者化」することによって疾病と症状の因果関係は鑑別され、治療行為が始まる。医療は目的論的に、しかし否定的に進む。つまり、死という「終わり」をできるだけ遠ざけるために医療は行われる。外科手術や投薬、化学・放射線療法は、死の原因とされる病巣を殲滅し、それ以外の「健康」と呼ばれる生のありかたを確保しようとする。だから医療にとって僕の異物は「他者」として認識されるより他はない。それは民間療法と呼ばれる医学的エビデンスに乏しい治療法にとっても「他者」を消すことを目的とするという点では同じことだろう。
科学技術の恩恵を受けつつ、僕は生きている。薬を飲み、PCをあやつり、さまざまな専門家の知見に刺激を受ける僥倖に与っている。だが、僕は科学技術によってすべてを決定される生を生きているわけではない。すでに記したように、医学的に有害だとされている行為を僕はすでにやっている。しかもそれらの有害な行為は、ある種の宗教や民間療法のように、科学技術の知見に逆らう目的で為されているわけでもない。自由のためにそうしているわけでもない。ただそれらの健康を害するとされる行為がさまざまなめぐりあいのなかでたまたま僕の生に伴走しているだけだ。これは、僕の生の行方を医療の物語が決定することはこれまでのところできていない、という単純な事実である。
では、僕の生をいったい何が決定できるというのだろう。たとえば、今ふとしたことで涙がこぼれる。なんで涙が出てくるのか、さっぱりわからない。これを単純に物語化するなら、来るべき死を迎える自分を憐れんでいるのかもしれない。あるいは僕がいなくなったあとに残されるせっちゃんを憂えてるのかもしれない。しかし腑に落ちない。涙を流す人間は悲しんでいる、という常識はある。そしてその常識は、涙を流す人間に「患者」や「患者の家族」という役割を与える。だから患者として病変に遭遇し正しくショックを受けている、という解釈はあるだろう。全米が泣いた物語に仕立て上げることもできる。けれども僕は元来ドライにできていて、ヒトの死や不幸を悲しんだり、映画や文学作品によって感動したりすることは滅多にない。だから涙が出るということは特別なことだし、僕が変容しているという証拠ではあるだろう。けれどもそれは全米が泣く患者の物語を演じる方向へと変容しているというわけではない。もちろん、今後そうなる可能性はある。けれどもそれはあくまでも可能性であって、現時点で僕はなぜ涙が出るのかわからない。涙との出会いに戸惑っている。ただそれだけのことであって、この涙を拙速に患者の物語にあてはめて一般化するつもりはない。自分の感情がよくわからない、ということに素直でありたい。
闘病することになるのだろうか? 医者にかかる以上、病巣と戦うという物語を部分的に受け入れなければならない局面もあるだろう。しかし正統的な患者になりきって、医療現場の尖兵として病巣の駆逐に没頭するという物語を生きるつもりは今のところない。つまり、患者として生きることに関心がない。すべての時間を疾病の克服のために捧げ、来る日も来る日も闘病記のたぐいを読み続けることに関心がない。そういう戦いの物語を生きる英雄に関心がない。とはいえ戦う勇気がない弱虫でもないし、病院に行かず、好き勝手自由に生きる豪放磊落さを誇示するつもりもない。要するに病気に対する勝ち負けに関心がない。
なぜなら、わたしの直腸に根づいている異物は、どう考えてもM78星雲からやってきたわけでなく、わたしから生じたものだからだ。医者にかかる以前からその異物はわたしと共に生きるし、これから切除されたとしてもその事実は変わらない。医学的には異物は他者だろうが、わたしはその異物を他者や敵とすることには抵抗したい。そしてそのような異物が生まれてしまったことを後悔するのでも、反対にこれを好機と言祝ぐこともしない。それはただ単に僕のなかに生まれて、増殖し、僕に下血というかたちでサインを送り、僕は出会った。僕が認識している自分はほんの小さな切片に過ぎない。僕は今回もうひとつの切片と出会った。僕の直腸で。内視鏡カメラで撮影されたヒドラのような禍々しい姿をしたそいつと。それは敵でも他者でもない。どうやら味方でもなさそうだが。どうしよう。ヒドラちゃんにしようか。
たぶん、ヒドラちゃんが存在しなかったら出会うことのなかった人たちに出会うことになるだろうし、経験することのなかった出来事に遭遇するだろう。それはなんらかの善悪の基準を備えたはた目からすると、よいことだったり、悪いことだったりするだろう。けれども、基本的にはこれまでとなんら僕の生き方は変わらない。今までもいろんな機会にいろんな人たちや出来事と出会ってきたからだ。もちろん、ヒドラちゃんが連れてくる出会いの質はこれまでとは違うものになるだろう。たとえば涙との出会いのように。
ヒドラちゃんが医学的に何者なのかはまだ確定していない。精密検査は来週の水曜日だ。だが、僕は医学的に言えばヒドラちゃんが悪性腫瘍に分類されることを覚悟している。それは自分のここまでの経過をさまざまな医学的情報に照らせば容易に推測できることだ。結果、良性腫瘍の可能性もあるし、たとえ悪性だったとしてもステージ初期のものである可能性はある。けれども、それは僕が決めることではない。ヒドラちゃんの生き方次第だし、医者が医学的に診断することだ。僕にできることはこれから医者が用意する選択肢を吟味しつつ、その選択肢を僕の生の唯一の決定因子としないことだ。医療側の提案もまた、ヒドラちゃんが連れてきた僕の出会いのひとつであり、場末の角打ちでたまたま隣り合った客との会話やGallery Soapで全裸になって脱糞しようと頑張った男のキレイな尻のシェイプと同じものだ。出会いに萌えるかどうかは、僕のこれまでの出会いの履歴とこれからの生の変容の幅次第だ。僕はなにも決めない。そういう物語は生きない。医者の提案を飲むとすれば、それはきっとおもしろそうだからだ。
と書くと、実に楽観的でヒロイックに見えるかもしれないが、正直、生きた心地はしない。ボロボロ泣けてくる。それもこれも、見通しのつかなさによる。まだ診断は出ていないし、治療計画も立っていない。仕事やプライベートの関係で、さまざまな配慮もあるけれども、なにをどこまでお願いし、どの程度頼っていいのかもわからない。けれども、よくよく考えるとここまでもそうやって生きてきたではないか、という気がする。先が見えない、なんだかよくわからない出会いの連続の中で、なんだか自分でもよくわからないものを書いてきたし、話してきたし、無責任に遊んできた。いつ死んでいたかわからない。トラックに轢かれていたかもしれないし、某感染症に感染して重症化していたかもしれないし、いつもの放言に悪意を抱いた誰かに刺されていたかもしれない。そう、よくよく考えると、ヒドラちゃんとの出会いに関するあれこれは、これまでの僕の生と特になにも変わらないし、一般的に人生とはそういうものだろうと断言してしまってもいい。ただ無性に涙が出るし、それはせっちゃんも一緒だろうと思うけれども、なんだかふわふわした地に足のついていない感じがする。それはきっと、医療の世界における患者の物語が帯びている強力な引力に引っ張られて浮き足立っているからだろうと思う。なにかこれからの人生すべてを決定されるかのような。けれどもそれはごめんだ。闘病者や患者、犠牲者としての役割に自己同一化することは拒否する。『急に具合が悪くなる』の共著者のひとりで哲学者の宮野真生子なら「知らんがな」と言い放つだろう。
涙と出会っている不思議な感覚に浸りつつ。
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逆卷しとね
1978年生。学術運動家/野良研究者。専門はダナ・ハラウェイと共生・コレクティヴ論。連載にWebあかし「ウゾウムゾウのためのインフラ論」、生きのびるブックス「自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論」。論稿に「喰らって喰らわれて消化不良のままの『わたしたち』――ダナ・ハラウェイと共生の思想」(『たぐい vol.1』 亜紀書房 2019年)など。共著に『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(荒木優太編 明石書店)、『コロナ禍をどう読むか 16の知性による8つの対話』(奥野克巳+近藤祉秋+辻陽介編 亜紀書房 2021年)がある。
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