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あるキタキツネの晴れやかなる死──映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り|北村皆雄×豊川容子×コムアイ⑵

1986年に北海道屈斜路湖を臨む美幌峠で、大正時代に行われてから75年ぶりに行われたアイヌ民族の幻の祭祀を記録した北村皆雄監督のドキュメンタリー映画『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』。その公開を記念して行われた座談会の記録。

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イオマンテに残る芸能の初源的な形

DZ 今回、僕も作品を見させていただきましたが、コムアイさんの感想に近いものを僕もまた感じていて、まさに人間と動物の関係、喰らうものと喰らわれるものとの間における折り合いのつけ方、その一つの洗練された形を目にしたような気がしたんです。そして、その対象がキタキツネだったからこそ、より身に迫るものとして感じられた。熊は強い生き物だし、それこそ相対峙したら自分が殺されるというリアリティもある。今回の『チロンヌカムイ イオマンテ』では、そういう動物ではなく、犬や猫のような自分が飼っている動物により近いキタキツネという動物だからこそ湧いてきた感情というのがすごくありました。

もちろんイオマンテという儀礼が動物の毛皮と肉を纏ったカムイに歌や踊りのミヤンゲ(お土産)を持たせてカムイの世界に送り返す儀礼であることは知識としては知っていたんです。だけど、じゃあなんでそういう儀式を彼らがわざわざやっていたんだろうということについては、体感的には理解していなかったんですよね。ただ、今回そこがようやく少しわかることができたような気がしてます。自分が大事に育てた動物を殺めるというのは、ある意味では自分自身を、あるいは自分の家族を殺めることと近い。それは心に傷を刻むことなんだろうなと思ったんです。それこそ刺青のようにです。イオマンテとはその心の刺青を皆で共有し、その感触を保ちながらその後の日々を生きていくための儀式なんじゃないか、そういうことを感じたんです。

 

 

ところで、共に音楽家でいらっしゃるコムアイさんと豊川さんにぜひ聞いてみたいことがありました。この映画でも特に目を見張るのがアイヌの人たちが行う歌や踊りの持つ力ですよね。そして、何よりもこの映画が映し出している歌や踊りは全てツネ吉に、チロンヌカムイに捧げられている。あくまでもカムイのまなざしに向けて、カムイを鑑賞者として、人間が歌い、踊っているんです。僕はそこに人間だけのために作られた舞台で人間だけのために演じられる歌や踊りとはまた異なる迫力と説得力を感じたんですよね。

豊川 やっぱりとても大事な儀式だからみんなすごい必死に踊ってるなというのを映像からも感じましたよね。今はアイヌの歌や踊りって人に見せるために行われることが多いですけど、そういう時の熱とはやっぱり全然違うなって思った。みんなで一生懸命歌って踊ってカムイを送んないといけないんだっていう、そういう祈りのようなものがひしひしと伝わってきました。みんながその祈りに向けて一丸となることですごいエネルギーが生まれてて、やっぱり呪術のような力が歌や踊りにはあるんだなってことをあらためて感じさせられたんです。歌や踊りというのは人前で見せるものである以上に、まず祈りとしてあるんだなって。

 

『チロンヌプカムイ イオマンテ』より

 

北村 そうですね。僕がこの作品を作ろうと思ったのも実はそこなんですよ。やっぱり人に見せる芸能というのはずっと後になって生まれたものだと思うんですよね。それ以前には神に捧げる芸能だった。イオマンテはやっぱり神の国に送られるカムイ、あるいは異なる存在である動物に向けられた芸能であって、それがやっぱり芸能の初源的な形だと思うんです。それがだんだんと、いわゆる見せる芸能に変化していった。これはアイヌだけではなくて、沖縄でも同じですね。たとえば沖縄でも御嶽というところで行われる、女の人たちだけの歌や踊りがあるんですが、そこには男は入ることができないんです。そして、その歌や踊りは誰に捧げるわけでもなく、御嶽の神様に捧げる祈りの歌なんですよね。

そういう初源的なものがだんだんと観客を意識したものへと変わっていった。それが悪いというわけではないのですが、ただ芸能の核心はやはり儀礼の中にあって、アイヌの場合はイオマンテにこそあるんじゃないか、そういう思いが僕がこの映画を作る上での最も大きな動機になったんです。

DZ それこそコムアイさんは先日のDOMMUNEで、遠野の張山しし踊りのパフォーマンスにも参加されていましたね。しし踊りもまた芸能と神事が渾然一体となったところにあるものですよね。

 

 

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コムアイ しし踊りも四つ足の供養だそうです。ししは、角と目が吊り上がり、ただの鹿や猪ではない山の王のような異形の存在です。狩りをする人間と狩られる獣が一対一で儀礼的に向き合う。面白いのは、現実世界の狩りにおいては人と鹿が向き合った時、競るけれども人が勝つわけですが、しし踊りの世界では競りながら人間が後ずさりしていくんです。そういう物語を演じる。それが供養なんだと私は理解しましたし、これもまた折り合いのつけ方の一つの形ですよね。

DZ そういう神事に参加することはやっぱり感覚的に普段のライブやコンサートとはまた違うものですか?

コムアイ そうですねぇ…、私はポップな世界で歌や踊りを始めて、いわゆる人を対象とした芸能をやってきたわけですけど、ただある時からオーディエンスではないもののために演じているっていう意識がすごく強くなってきて、いつからか、ほぼそれが全てになったんですよね。だから、イメージとしては、私が何か違うものに向けて歌ったり踊ったりしているのをオーディエンスが横から見ているような感じで捉えている時もありました

でもそれが全てではない。オーディエンスが一緒くたになって声をあげて、踊りまくって、トランスしていくという状況が生まれた時に、それが巨大なエネルギーになって、なんかこう、この世のものじゃないものみたいなのがその場に降りてくるような感じも一方にはあるんです。だから、なんていうんだろう、きっとその場にいる人たち全員の動きがすごく重要で、全ての人が喜んでいたり躍動していたりしているところに、神様は降りてくるんだろうなという感じもするんですよね。

DZ 天岩戸の神話のような?

コムアイ そうかもしれない。人々が喜んでる様子につられて神様が降りてくる。だから、結局、願いや祈りよりも、歓喜の方が強いと思っているところがあります。盆踊りとかもそうだけど、みんなが一つになって音や踊りを共有している時って、先祖の人たちが「自分は身体がなくて踊れないけどみんないいなあ」って涎を垂らして漂ってるような感じがするじゃないですか(笑)。そういうイメージがクラブで踊っているときやライブしているときにもあって、その感覚がたまらないなと思います。自分の身体を、踊りたい霊と共有してもいいぞ、と

私は「小躍り」って言葉が好きで、「小躍り」こそいい踊りだと思うんですよね。岡本太郎が沖縄論でそう書いていたのを読んでからそう思うようになったんですけど。内側から溢れ出てきた気持ちに押されて体が勝手に動いてしまうようなイメージです。それは多分、踊りの型があってもできることだと思うんですよね。イオマンテでの踊りにもそれを感じました。みんなの心にはツネ吉の向こうにカムイの姿が感じられていて、そのすごく切実な思いの上に歌や踊りが乗っかっているのを感じた。こんな貴重な映像をちゃんと撮っておいてくれて北村さんありがとう~って思いました(笑)

北村 いやいや(笑)

コムアイ 歌や踊りの形としてはその後の時代でも再現はできるけど、善次郎さんのカムイノミにあるような、動物にカムイを重ねる感覚を共有して儀式が進むということは、前にも増して簡単じゃなくなってるんじゃないかなって気がします。日本の現代社会も変化してきていて、情報が共有されるスピードも上がっていますし。常識とか価値観は、地域差ではなくて個人差になってきている気がする。だからこそ、この映像は本当に貴重だと思いますね。

 

『チロンヌプカムイ イオマンテ』より

 

「自分の子供のように育てたものを殺めるわけだから、それはちゃんと悲しいんだ」

コムアイ 豊川さんはステージで歌うとき、どんなこと意識してますか?

豊川 今の話を聞いてて同じことを思ってるんだなって感じてました(笑)。これは誰かから教わったわけじゃないし、アイヌの中でそう言われているとかではないんですけど、たとえばコンサートでも、行った土地だったり、その建物自体だったり、そういうものにも向けて歌ってるっていう感覚があるんですよね。人間にだけ歌ってるわけじゃないっていつも思ってる。あと、アイヌが集まって宴会すると決まって「ヤイサマ」やるじゃないですか。

 

 

コムアイ やりますよね(笑)

豊川 ヤイサマって自分の好きな踊り、好きな節で歌うアイヌの即興歌なんですけど、すごく場が盛り上がるんですよね。そういう時によくうちの夫は「アイヌが楽しめばカムイも楽しい。アイヌが喜べばカムイも喜ぶ」って言うんです。さっきのコムアイさんの話と同じ感じだなって。

 

 

コムアイ いい言葉ですね(笑)。私、アイヌの人たちの考え方の、そういうちょっと都合のいいところが大好きなんですよ。すごく賢くって柔軟だなって。これはアイヌの歌を歌っているスズサップノさんに聴いたのですが、たとえば飲み物をこぼした時に、隣にいたフチの着物に飲み物がついちゃったことがあったんですけど、「ごめんなさい~」って言ったらフチは「あれ、着物が飲みたがってたんだなあ」って。アイヌの人って、すぐにそういう風に言うらしいじゃないですか。

豊川 言いますね。お酒を床にこぼしてもね「床が飲みたがってたんだなあ」とか(笑)

コムアイ 器が割れたりしても、それはその器があちら側の世界に行きたがっていたんだって解釈をしたり。で、それは無理に引き止めたりせず、ちゃんと送らないといけないって考えるそうですね。イオマンテにしてもそうですよね。カムイが動物の毛皮と肉を持ってきて、それをアイヌに与えたがっているから、みんなで盛大にお礼をしましょう、という考え方。ある意味では「都合がいい~」って思うんだけど、その柔軟さがなんか愛らしくもあって、命に向き合った結果生まれた価値観でもあるんだよなって

今回、豊川さんが声を担当されたチロンヌカムイ目線の語りもすごい良かったです。「私を喜ばせてくれました、安心して父母の元に帰れます」って言ってるところ。やっぱり自分は現代の都市で生きてきた人間のせいか、カムイじゃなく動物としてツネ吉を見ちゃってるところがあったから「えー、ツネ吉、そんなこと本当に思ってる?」みたいな気持ちにもなるんだけど(笑)、でも、その語りにまでアイヌの世界観を映そうとしているんですよね。それは客観的で科学的な世界認識とは違うものかもしれないけど、それとはまた違う信憑性を感じたんです。

北村 客観主観の話でいうと、アイヌのユカは人称が自在に入れ替わっていくんですよね。一人称で語られ始めたかと思えば、いきなり三人称で客観的な語りに切り替わっていたりして、主観と客観がどんどん反転していく。僕はそこにアイヌの語りの核心があるんじゃないかなと思っているんですよ。だから、今回もツネ吉の一人称の語りと、ある種の客観的な語りをまぜこぜにしたんです。

今のコムアイさんの話にあったようにアイヌの世界においては動物だけではなく物質にも魂があって、だから物のイオマンテもあったと言われていますよね。そこに凄さを感じます。現代を超えて、一挙に大昔の縄文に行ってしまうような、そんな感覚がありますね。

コムアイ 前に違う地域のアイヌの映像で観たのですが、お盆だったり湯のみだったりも傷をつけてお墓に入れるという慣習がアイヌにはあるんですよね。縄文人が縄文土偶の首を外して埋めていたらしいって話を思い出しました

DZ 都合の良さ、というところで言うと、たとえば哲学者のライプニッツの言葉に「充足理由律」という言葉がありますよね。要は「全てのことには理由があり、起こるべくして起こっている」と。起こったことには偶有性も含めて全て神における理由があるのだ、と。ただ、この考えは多く批判もされていて、まあ、それを言ってしまったらなんでもそう言えちゃうわけですよ。犯罪も災害も戦争も全て神にとって理由があるんだ、なんてことになったら、確かに身も蓋もないわけですよね(笑)

アイヌの世界観もちょっとこの充足理由律に似てるのかなって思ったんです。ただ、それがただのご都合主義ではなく、そういう世界で生きていかなければならないという切実さに裏付けられたものなんだなってことを、今回の映画から強く感じたんです。自分にとって大切な、本当なら失いたくない存在を、カムイの世界に自ら、それも喜んで送り出していく。そこには演技も含まれているかもしれない。でも、そのように演じきらなければいけないという切実さが、ともすれば「ものはいいよう」的に受け止められてしまう世界観に深みと重みを与えているんだな、と。

コムアイ そうですね。一見、都合がいいように思えるんだけど、そこには強い信仰心と、生に対するリアリティのようなものがあって、決して軽いものじゃない。そこは見間違っちゃいけないと思いますね。

北村 アイヌの人たちのような稲作以前の人たち、狩猟採集によって生きていた人たちは、動物の命をもらい続けているということに対して、一種のうしろめたさみたいなものがあったんじゃないかと思うんですよ。だからちゃんとお返ししなきゃいけないとして儀礼化したものがイオマンテだったんじゃないかな、と。お返しのために精一杯歌って踊って、共同体をあげてのお祭りをする。そうすることで、またこちらに帰ってきておくれ、と。それこそ豊川さんの歌の通り「多くなっておいで」と。

自分たちはこんなにアイヌの人たちに喜ばせてもらってお土産までもらったんだよ、とカムイの国でみんなに話してもらうことで、カムイたちがまた人間の国へ行こうよっていう風になってほしい。そういうアイヌの人たちの願いを感じますよね。それを都合のいい儀礼だと感じる方が、もしかしたらおかしいのかもしれない。

コムアイ そうすることで世界との関係を築き上げているわけですよね。儀式に使う花矢やイナウにしても、めちゃくちゃ丁寧に作り込まれているじゃないですか。それも作りおきしたものじゃいけないって聞きますし。

北村 ひとつひとつに綺麗な彫刻を施してね。あの花矢でとどめを刺すところもあったとも聞きますね。今回の映像のイオマンテではそこで殺めるんじゃなく、最後、締め木でとどめにしていますが。

 

『チロンヌプカムイ イオマンテ』より

 

コムアイ いつの時代もこの世界で生きていれば多くの矛盾を抱え込むものですけど、イオマンテにもやっぱりそういう矛盾があって、でもイオマンテではその矛盾が矛盾にならない形で表されているように感じたんですよね。文字でイオマンテを説明しようとすると「カムイはお土産をいただいて嬉しい」、「アイヌはカムイを送れて嬉しい」みたいなシンプルなものになっちゃうんですけど、ただ実際にエカシが懸命にお祈りを捧げて、みんなで歌って踊っている姿をこうして映像で見ると、そこには嬉しさと同じくらい悲しさもあるということが伝わってきた気がするんです。言葉にしてしまうとどちらかの意味になってしまうところ、踊りや歌だとどっちの意味も、どっちの感情も同時に共存させられるというか。

北村 我々が観念的に考えると一方向的になっちゃうんですよ。この企画に関わった和人の一人がね、「神の国に送るめでたいことなんだから、やっぱりお祝いでしょ、悲しくはないでしょ」と、善次郎さんに質問しているシーンがあるんだけれども、「いや、そうじゃないんです」と善次郎さん。「本当に自分の子供のように育てたものを殺めるわけだから、それはちゃんと悲しいんだ」ってことを、正直に話してますよね。ただ単純に「めでたい!」みたいな話ではないんだって。

コムアイ あそこは一番大事なシーンだと思いました。あの軽い質問がいいですよね(笑)。ああいう感じで質問してくれてるからこそ出てきた大切な言葉ですよね。

DZ  さっき北村さんがユカにおいては人称が変わっていくという話をされましたけど、イオマンテにおいては意味や感情だけでなく、主体の位置も定まっていないわけですよね。送る側であるアイヌが、同時に送られる側であるチロンである、というような。殺めるものが殺められるものでもあり、そのどちらでもあるし、ありえる。映画でも歌い踊るアイヌの人々とチロンの顔とが交互に映し出されていて、まるでユカのように視点が移動し続けてました。月並みな表現ですが、本当に素晴らしい作品だと思います。

 

『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』が記録した幻の神送り⑶を読む>>

 

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北村皆雄 きたむら・みなお/1942年長野県生まれ。ドキュメンタリー映画監督。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業。 1960年代以来、アジアや沖縄・日本各地をフィールドに、映像人類学・民俗学を掲げ百を 超える映画・テレビ番組を撮り続けてきた。1986年に撮影した『チロンヌカムイ イオマンテ』を、後世に伝えるため2021年に完成させた。代表作として『神屋原(カベール)の馬』(1969年) 『アカマタの歌』(1973年) 『見世物小屋』(1997年) 『ほかいびと』(2011年) 『冥界婚』(2016年)などがある。

 

豊川容子 とよかわ・ようこ/アイヌ伝統歌、舞踊を取り入れたバンドnin cup(ニンチュプ)のボーカル。関西を中心に活動したのち北海道帯広に戻り、自身のルーツであるアイヌの歌(ウポポ)を取り入れ歌い始める。短編アニメ『60のゆりかご』(アイヌ民族文化財団)では、夫のルーツである北海道平取地方のイヨンノッカ(子守歌)を担当。アイヌのフチ(嫗)の声をはじめ 、さまざまな声質を変幻自在に操る。2016年度STVラジオのアイヌ語ラジオ講座講師。札幌在住。

 

コムアイ KOM_I/アーティスト。1992年生まれ、神奈川育ち。ホームパーティで勧誘を受けて加入した「水曜日のカンパネラ」のボーカルとして、国内だけでなく世界中のフェスに出演、ツアーを廻る。20219月に脱退。音楽活動の他にも、ファッションやアート、カルチャーと、幅広い分野で活動。2020年にアートディレクターの村田実莉と、架空の広告を制作し水と地球環境の疑問を問いかけるプロジェクト「HYPE FREE WATER」が始動するなど、社会課題に取り組むプロジェクトに積極的に参加している。

 

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〈INFORMATION〉

映画『チロンヌカムイ イオマンテ』、2022年4月30日よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

監督:北村皆雄

語り:豊川容子

音楽:豊川容子+nin cup

制作:三浦庸子

監修・カムイノミ対語訳:中川裕(千葉大学名誉教授、『ゴールデンカムイ』アイヌ語監修)

司祭者:日川善次郎エカシ

企画・スチル:堤大司郎

製作・配給 ヴィジュアルフォークロア

文化庁「ARTS for the Future!」補助対象事業

公式HP: https://www.iomantefilm.com/

 

〈MULTIVERSE〉

「現代魔女たちは灰色の大地で踊る」──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾