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太田光海 『ナンキ ──まどろみの森で』 Episode 04「僕は写真が嫌いだった」

映画『カナルタ 螺旋状の夢』の監督・太田光海が綴るもう一つの“カナルタ”。アマゾン・シュアールの森で青年は「ナンキ」と呼ばれていた。

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僕は写真が嫌いだった

 僕は写真がもともと嫌いだった。「写真が嫌い」というと「写真に撮られるのが苦手」みたいなニュアンスが日本語だと出てしまうけれど、そういう意味ではない。”Photo-graphy”=「光で描く画」というアートのことをまるで誤解していたのだ。

 日本で「写真」という表現が占める位置は、少なくとも僕にとってとても違和感があった。もともと美術館が大好きだった僕は、子供の頃から絵画によく触れていた。実際、東京は絵画を扱う美術館には事欠かない。しかし、写真となると急にその選択肢は激減する。それに、すでに写真に対して深くアンテナを張っていたりしない限り、写真の本当の醍醐味に触れることができる日常的機会は少ない。書店で目にする写真雑誌は、写真ではなくまず「カメラ」という機材から話が始まっているように思えるし、実際雑誌の名前自体が往々にして「●●カメラ」か「カメラ●●」だ。これはきっと日本企業が世界中のカメラ市場を圧倒的に支配している事実とも関係しているのだろうけれど、写真を好きでもない限り、そんな裏のことまでそもそも考えない。

 僕はいちいち「プロっぽいテクニック」や「最新のカメラがどれだけ進化したか」から話を始め、いかに桜や紅葉やキレイな女性をうまく撮るかだけを説明するカメラ雑誌が大嫌いだった。ひいては、写真の魅力など一切理解できなかった。そんな僕を根底から変えたのは、紛れもなくパリだ。

 大学3回の夏から、僕は交換留学制度を利用して1年間パリ第七大学に留学していた。フランス、特にパリには、僕が惹かれているものがたくさんあった。まず、アート。印象派の画家たち、特にクロード・モネに昔から夢中だった僕は、彼の画集を集め、その人生に関する本を読み漁っていた。マルセル・デュシャンが美術界に起こした革命にも夢中だったし、アンドレ・ブルトンが主導したシュールレアリズムにも夢中だった。そして、ピカソやカンディンスキーをはじめ、美術史を動かした様々な国々のアーティストたちが、みんなパリをどこかのタイミングで経由していたことを知っていた。

 さらに、フランスには学問の深い伝統もあった。言わずと知れた人類学者レヴィ=ストロースを始め、哲学の分野でもフーコー、ドゥルーズ、デリダ、サルトルやメルロ=ポンティなどがいた。現代思想の源流を打ち立てた多くの知識人はフランス人だった。そしてその流れはミシェル・セール、ジャン=リュック・ナンシー、ブルーノ・ラトゥールなどへと続いていた。日本語訳で彼らの著書にかじりつきながら読んでも全然意味がわからなかった僕は、「理解するためには、とりあえず向こうに行くしかない」と思った。いつも通りの現場主義が、ここでも出たらしい。そして、言語フェチである僕にとって、フランス語の美しい響きはとても魅力的だった。

 しかし、そんな想いを抱えてパリにやってきた僕の目に真っ先に飛び込んできたのは、街のそこかしこにある写真=イメージだった。それまで経験してきたどんな場所とも、パリの街の中で写真が担う役割は違っているように見えた。例えば、地下鉄のプラットフォームに降りると、いきなり壁一面にどでかく貼られたアンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドワノーの作品が目に飛び込んでくる。フラフラと街を歩いていると、小さな書店が外の目立つところに過去の美術展のカタログや有名な写真家の作品集(特にヘルムート・ニュートンやアーヴィング・ペンなどが多かった印象)を置いているのを見かけた。そして、絵画や彫刻を扱うギャラリーと同じかそれ以上の量で、そこかしこに小さな写真ギャラリーがあり、外からでも作品が目に触れた。もちろん、入りたければ無料で入れた。パリ名物のフリマ(僕のお気に入りはPorte de Vanves)に立ち寄ると、他のありとあらゆるアンティーク物にまぎれて、100年くらい前の誰が撮ったかわからない、何の役に立つのかもわからないボロボロの写真プリントが大量に売られていた。いわゆるヴァナキュラー写真というやつだった。僕はその一つ一つに目を凝らし、手で触れながら見惚れ、パリの街を徘徊する日々の中で、写真という表現がとてつもない力を持っていることに目を見開かされていった。

 パリには写真専門の美術館も数多くあり、美術館としての地位も高かった。僕がしょっちゅう通っていたのはチュイルリー公園の中にあるジュ・ド・ポーム(Jeu de Paume)、マレ地区にあるヨーロッパ写真美術館(Maison Européenne de la Photographie)、そして18区にあるル・バル(Le Bal)。さらに、パリの11月は2年に一回「写真月間」となり、世界最大規模の写真フェアである“Paris Photo”(これは毎年開催)を始め、写真に絡めた凄まじい数のイベントが行われる。

 僕が留学した2010年は、ちょうどそれが開催される年だった。11月にはすでに写真の魅力に取り憑かれていた僕は、自分が行ける限界までギャラリーの特別展やイベントを回った。一つ一つの写真が、わずかな画角の違いや露出の繊細なコントロール、そして何よりも、アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉を借りれば「決定的瞬間」がその時あったことによって生まれている。パリで出会った膨大な数の写真が示していた、その一つ一つの奇跡に僕の心は震えた。自分が生きている現実の、止まらない時の流れの中で起きる、奇跡の瞬間を自分の存在をかけて残すこと。そして、それを名前も知らず、生きる時代も違うかもしれない、かけがえのない誰かに伝えること。僕にとって写真が持つ意味は、もう桜がどうやったら「プロっぽく」撮れるかを競う競技ではなくなっていた。

 次第に、僕は留学のために親から借りていたコンデジで、自分でも記念写真以外の写真を撮るようになっていった。写真と恋に落ちたとは言え、具体的な技術など何も知らなかった僕は、とにかく自分の目を引く一見どうでもいいあらゆる物や「気配」や人や場所に対してシャッターを切りまくるようになった。そもそも、そのコンデジではほとんどマニュアル設定ができなかったのだけれど。

 そして、写真を撮るという僕の新たなマイブームと、かねてからの関心だった「他者」という存在、そして他者との出会いを爆速で生み出す「旅」という実践は、とても相性が良かった。僕はコンデジを持ってひとまずバルカン半島に向かい、アルバニアから入ってコソヴォ、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナを回った。

 例えば下の写真は、90年代のユーゴスラビア内戦で破壊されたボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォの建物が当時のまま残っていた場所を訪れたとき、そのコンデジで収めたもの。

 

 

 そして、今思えばよくこんな至近距離から撮ったなと自分でも驚く、バイクに座る男性。なぜか当時の僕はモノクロに変換している。これはコソヴォで撮った。

 

 

 さらに、道路にあったおそらく水道関係の金具。傾いた太陽が作り出す影とコントラストに惹かれたのだろうか。

 

 

 こうして、僕の中で「旅をして他者と出会い、その写真を撮る」という一連の行為は加速度的に重要度を増していった。バルカン半島のあとも、ポルトガルから入ってスペイン経由でモロッコの砂漠まで陸路と海路で回る旅もしたし、パリから日本に帰国する時はシベリア鉄道に乗って空路を一切使わずに帰った。もちろん、その間にも僕はコンデジのシャッターを切り続けていた。

 下の写真は、モロッコのサハラ砂漠で出会ったイカしてる少女。10年前の写真だ、今はもうカッコいい大人になってるだろう。

 

 

 そして下の写真は、シベリア鉄道から降りてゴビ砂漠にあるモンゴルと中国の国境を越える時に切り取った一枚。

 

 

 あのとき、留学先にパリを選んでいなかったら、僕は写真を好きになっていただろうか?おそらくなっていなかった。パリ以外に、あの時期の僕が写真に対して抱えていた嫌悪感を覆せる場所はなかった。パリでしか、僕は写真と恋に落ちるまでその魅力に浸されることはなかっただろう。その後、バイト代を貯めて一眼レフを買うこともなかっただろうし、カメラに馴染みがないまま、映像を撮ろうという気にもならなかったはずだ。

 ダゲールがカメラの源流であるダゲレオタイプを発明したフランスで、僕は自分が経験する目の前の現実自体を表現に昇華させる最高の手段と、その可能性に気付かされたのだ。

 

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PROFILE

太田光海 おおた・あきみ/1989年東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部を卒業後、フランス・パリに渡り、社会科学高等研究院(EHESS)で人類学の修士号を取得。同時期に共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動した。英国マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターに在籍中、アマゾン熱帯雨林の村に約1年間にわたり滞在し、成果を映像作品にまとめ博士号を取得。その初監督作『カナルタ 螺旋状の夢』が2021年10月2日より日本で劇場公開。

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