亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #20 おっさんになりたくない症候群
最近、身近な仲間が30代後半にさしかかったり、40代を越えたりしたタイミングで、何らかのパラノイアに苛まれている状況をよく目にする。
「アズ君は特殊だから」
誇張抜きにもう1万回は言われてきた言葉だと思う。
ただ、特殊と言われても別に突然頭部が七色に光ったりするわけでもなければ、急に絶叫して空を飛びまわったりするわけでもない。
強いて思い当たるところがあるとすれば、僕の全身には刺青と呼ばれる柄が入っているのと、ちょっと他の人よりもピアスの数が多いかな、というくらいのものだ。しかしそれだって突然変異でそうなったわけではなく、自分の中である程度意図的にインクやステンレスといったマテリアルを身体に追加していった結果に過ぎない。
それが特殊なのかと言われると追加したマテリアル自体は特殊(珍しい)なものなのかも知れないが、僕自体が特殊だという話にはならないと思っている。染色に興味を持てば髪の一つでも染めるだろうという話だ。ちなみに僕は髪の毛を染めたことは一度もない。
さて、昨年30歳を迎え、今年6月に31歳になるのだが、世間には30歳を超えると何かが一気に激変するかのような言説が多い。僕もまた若干の警戒と共に何がどう変わるのだろうかと少し楽しみにしていた部分があったが、30歳を迎えて約1年を経た今のところ、僕自身は何ら変わった様子がなく(強いて言えばこの見た目でまだ20代なんですよ笑 という出オチを使えなくなったくらいだ)、どちらかというと僕を取り巻く身辺の状況だけ変わったように感じている。
今回はそんな話がしたい。
僕はこんな見た目になる以前の昔から異性の友達が多い。これはもちろん俺はモテるぜ!というような話ではない。僕は気質として二項対立的にものを考えることをあまり好かず、結果的にどこにも所属していない人間として生きてしまっている。一方、男性主権的社会においては女性は女性というだけでいわゆるマイノリティ性が高い存在ということになり、それゆえ必然的に女性の友達が多くなってしまうのだろうと思っている。
あるいは単に僕のコミュニケーションの取り方の問題かもしれない。誰でも若い時分には将来の夢やヴィジョンを語り合うことでコミュニケーションをとることができるものだが、いつかは分からないが突然に(もしくはグラデーションなのかも知れないが)、「もう自分も大人だしさ」なんてことをどことなく物憂げな感じで男女問わず言い出したりする。あんたはよろしくやってなさいね、ということなのだろうか。こうなると話にならなくなる。
大人だしさ、と彼または彼女らが言う大人になったとき、男同士がしがちなコミュニケーションは比較をすることによって他人を判断するという一点に尽きると思う。資本主義下において闘うことしか知らずに育ってしまったことで、相手を褒め、讃え、認めるということを苦手とする男は多い。それがいわゆる「男らしさ」なのかもしれない。若い時はまだそうした感じも可愛げと言えるかもしれないが、年齢的にも後輩と呼ばれる後続が現れ始める頃になると、それが途端いびつに歪んでしまう、もしくは歪みたくないと嘆いている状況を目にする機会が増えた。ちなみに僕はそれを「おっさんになりたくない症候群」と呼んでいる。良くも悪くもいつまでも自分が主人公でいないと気が済まないということだと思う。
最近、身近な仲間が30代後半にさしかかったり、40代を越えたりしたタイミングで、何らかのパラノイアに苛まれている状況をよく目にする。その情景を見るたびに僕は何故そのような状況に陥ってしまうのだろうかと胸が痛くなるのだが、仲間は仲間であることには変わらないので僕なりの手法で相手の話を聞く機会を出来るだけ設けようとする。
しかし、言っても僕はその症候群を発症している彼らよりも年下である場合が多いので、その彼らの年齢になった時の苦しみはまだ経験したことがないし、こんなことを書き綴っている明日には僕も突然「おっさんになりたくない症候群」を発症し、もがき苦しむことになるのかもしれない。まあ分からないなりに「自分が苦しかったときはこうしたかなあ」とか「客観的にはこんな風に見えているけど思い当たる節はないの?」とか「今どういうところが辛いの?」なんてことを聞くようにしているのだが、それを説教だと言われたりマウントだと言われることが最近あり、少し驚いてしまった。
人とは対象に対して自己を投影するものだ。つまり、僕の中に「マウントしようとしている男」の姿を見たのであれば、それはその人自身の中にその男がすでに存在しているという話なんだろうと思う。まあ、こんな話を僕が今ここで書いていること自体がマウントなのだと取られてしまうと話にならないが、もう少し内とか外とかといった二項対立を規範とする思考からスライドしてものと接した方が楽なのではないかと思うことが多々ある。もちろん男性以外も。
そんな具合にスライドし続け、よく分からない立ち位置に自分の身を置き続け、なぜアズ君は壊れないのか、破綻しないのか、と聞かれることもあるが、僕は極端に言ってしまうと過去というものを持っておらず、(もちろん過去はあるがそれはあまり連続したイメージではなくそれぞれ切り離されている)時間の軸に対して垂直に“今“という局面が展開される感覚が強い。となると、今この瞬間を人と比べたりして過ごしている場合ではなくなってくるのだ。
現実というものはあまりにノイジーで猥雑あり、だから壊れている場合ではない。そこには強い自制が伴っている。とはいえ、単に今のところ僕は壊れていないだけなのかもしれず、明日のことは分からないんだけれど。
さて現実という話をする。
僕の日課でもあり、ひとつのルーティンワークでもあるのだが、僕はツイッターでバズっている投稿に送られているクソリプと言われるリプライを辿っていき、その発信元のアカウントが普段どんな投稿をイイネしているのか、どういうゾーンとどういう内容の会話を行っているのかを見て回るという(またYahooニュースのコメント欄などに書かれている罵詈雑言をじっくりと見て回るという)、多分に精神に負荷の掛かる、ある種の自傷行為のようなことを日々ネット上においてフィールドワークとして行っている。
悪趣味といえばそれまでだし、僕にとっても端的に言ってとても疲れる行為なのだが、それは一応、僕自身が何らかの表現をするということを生業としているからこそ、表現行為そのもの自体に強い憧れや期待、その反面責任といったもの。表現の意味を強く意識しているからである。
だからこそ無責任に放言されている内容を拾い集めては眺めることで何かを知ろうとしている。自分が今後何らかの表現による発表を行う時、ネット上フィールドワークにおいて徘徊した際に見た層へも、何らかのアクセスが出来るといいなと思っているからだ。
しかし、正直言って毎日毎日硬い内容をSNSで議論してみたところで、DOZiNEでこうだああだと書いたところで、展示という形態において、人とは、存在とは、だなんて言ったところで、それによって世の中が激変する様なことなんて何ひとつないと現実的なレベルで理解している。
なんならこちらからアクセスしようと気張ってみたところでほとんど100%の場合は届くことはなく、アクセスされないとなれば完成品は所詮ただのゴミに近い存在としてネット上を漂うことに、もしくは僕自身で保管することとなる。しかし、だからと言って意識をすることさえを辞めてしまうと意識外のものを人はないものとしがちであることは僕自身が痛感しているところでもあるので、あえて先のようなネット内徘徊を続けているところもある。
一例で言うと自分にとってあまりオープンにしたくない事実をネタにすることで自身が強くあろうとする動きはクィアネスの文脈においてはある意味で古典的とも言える手法であって、パッと見、一見露悪的とさえ思えるギャグも正直なところ僕は嫌いではない。
かつて僕に一度でも会った事のある人は分かってくれると思うが、僕自身は一応かなり腰が低い方だ。今となってはヤンキーが煙草を拾うだけで素晴らしいことをしているかのようないわゆるギャップ萌え仕草が当たり前に身についているだけで、それは、『黒い皮膚・白い仮面』(フランツ・ファノン著 みすず書房)において書かれていた“白人社会においては黒人は常に優しいニグロでなければいけない“(原文意訳)ということなのかもしれないし、それは単に幼少より親や、教育者からなぜだか再三に渡り言い聞かされていた「あなたは良くも悪くも異様に目立つから気をつけなさい」というセリフが効いているだけなのかもしれないのだが。
こんな刺青だらけの、いわば脱構築的風貌なのに腰の低い自分が、さらにはオラついたら一層怖いよね、という”あえてノリ“、要はポストポストというメタノリで遊ぶこともあるのだが、一見においてはただただ怖めの見た目の人がやっぱりオラついたという現象だけを目にするので、まあシンプルに怖いんだろう。もちろんそれはそれで分かっているので身内ノリというところには済ませている。
ただ一応言っておくと、人はまず人であり、その時に着ていたシャツが赤だろうが黒だろうがあまり関係なくない?と僕はチクッと言いたいのだ。
僕が普段集まるような近場に住んでいる知人たちグループはどちらかというと全員クチが悪く、悪ノリをベースにした会話というものが根底にある。
そういったごく狭い身内ノリができる知人たちと先日、食事に行った際に話の流れで痴漢の話をした。
仲間の1人の女性が「電車内で知らない人に急に手を持たれたりしてさー」と話した際に、「お前みたいなやつにそんなんするはずないやろw」と露悪的ツッコミが入ったのを聞いて「流石にちょっと」と僕は思ってしまった。
そのツッコミを入れた彼ももちろんきっとその現場を見かけたならば正しく憤れるタイプだとは思う。ただ、彼にとっては普段から特に意識をしていないことだから、彼女の痴漢被害は「ないはず」のこと、もしくは「なくあってほしい」ことであり、それゆえにああした軽口が飛び出したのだろう。しかし現実にはそれは「ある」わけだ。先のYahooニュースのコメントの話とも。
ちなみにその彼も「俺ももう大人になったしさ(落ち着いたしさ)」と口にしていた。なんかやーねーと、その飲み会を後にし、自宅でモヤモヤとしているとまた別の知人が、「つい先ほど不審者に遭遇してしまった! せっかくの楽しかった夜が!」と憤っていたため、そのまま自宅で怒りに滾っていても辛いだろうからとりあえず気分転換も兼ねて公園ででも飲まないかと連絡を取り、そのまま愚痴を聞いたりお互いが向かい合うどうしようもない現実に文句を言いあったりした。
なんだか男性性特有の無頓着さを批判をしているかのようになってしまったが、自分は分かっているがわだから、みたいな仕草になってしまっては最悪なので次は自身のルックスの話をする。
先ほど自身の風貌の話を脱構築的だと書いたが、実際にこんな風貌になってすでに10年以上を過ごしてきて、あらためて思うのは常にまず「こいつは一体何者なんだ」という目線を浴び続けていることだ。最近、冬が終わり一挙に夏の兆しが出てきたことにより半袖を着る機会が増えたのだが、やはり冬場に比べて露出部位が格段に増えたため、二度見されることが体感的に5倍程増えた。何者か分からないと言う目線には自分としては慣れているのだが、慣れることと意識しないこととはまた別である。
基本的に日がな制作か酒を飲むか犬の散歩をしているかしかない暮らしなので、どうしても飲み屋に行った話ばかりになるのだが、先日は先日で、飲みに出た際に駅ですれ違った女性にいきなり「キッショ」と言われて衝撃を受けてしまった。僕がキショいと思われることや、逆に僕が何かをキショいと思うことはあっても仕方ない話だと思う。しかし、それを即座に相手に対して口にしてしまえる人がいる。世の中のレベルはその程度なのだという事実のみが悲しい。先ほどのYahooニュースのコメントと同じだ。
そしてまた別の場所では、ピアスすごい、タトゥーすごいと話しかけられ、「へえ、まあ」なんてへらへらとしていたら「性器どうなってんの、見せて見せて」と話がエスカレートしていった。そこに関しても既に慣れっこではある。「まあ、だいたい想像の出来る範囲には想像できる感じに色々なってますよーあはは」なんて返すのだが、よく考えたら不思議な話ではないだろうか。これを搾取的だ、差別的だと捉えてキレることもできるが、それはそれで僕のやり方ではないために一旦控える。
性器どうなってんの、見せて。これはただの無邪気な好奇心だとも捉えられる。しかし性器という部位はあまりにプライベートな部位であると僕は自認をしている。だからこそ僕はセックス(性行為)には非常な好奇心がある。別の言い方をすれば性行為に非常に強い好奇心があるというのはあなたの身体は一体どうなっているのかという問いともイコールであると僕は感じているため、セックスこそ原初の端的な好奇心であると言えるとさえ思っている。それは子孫が云々よりもっと以前にある欲求だと思う。そしてだからこそ、その好奇心は丁重に慎重に扱わなければならない。
なので酒場で、街で、突然に「性器を見せて」と言われると非常に混乱してしまうのだ。街ゆく人の乳房が気になったり、体毛を想像したり、恋人同士が手を繋いで歩いているのを見ると、彼らがプライベートな空間においてどのように時間を過ごすのかが気になったりする。僕は徹底して人にしか興味がないと言い続けているが、その好奇心は上で述べたような想像にもつながる。しかし好奇心から僕が街中で誰かを捕まえて「ねえ、おっぱい見せてよ!」なんて言った日には全てが終わるだろう。
それくらいのイメージは誰にでも出来るはずなのに僕に対して浴びせられる目線は、ある特殊な生き物、奇妙な虫に対して注がれるような不躾な好奇心になる、というのがいつも不思議でならない。
もちろん、リアルタイムで毎度そんなややこしい回答をするはずもなく、「あはは?」と良い感じで会話を合わせるのだが、おそらくはこれは先日ネット上で物議を醸していた『月曜日のたわわ』に近い話だと思う。要は僕は”爆乳”と同じ存在であったりするのだろう。勝手にひとつの記号だと判断され、記号としての役割を与えられてしまうことは、確かに一般的にはつらかったり鬱陶しかったりすると思う。
誰が見てもそうと分かるような視認性の高い存在は他人の目線について色々と考えざるを得ない。良い側面もあるが疲れる時も多い。ただ、その反面、声を掛けられることに僕は嬉しさも感じている。大概は電車内やコンビニ前なんかのすれ違いざまにこっそり写真を撮られているパターンが多い中(そもそもそれは失礼)、話掛けてくることはある種、僕自身の選択への興味とも捉えることが出来る。僕は制作発表という形態を取り、人が人足りえる瞬間であったり、人とは一体何なのだ。といった事を自分なりに手探りで探求し、示しているつもりである。それが普段描いているような重苦しい絵につながってくるわけなのだが、もちろん、絵は喋らない。代わりとなって今もこうして喋りたくっているのが僕だ。制作というものは、本人自体が表現そのものになることは出来ず、絵も、タトゥーも、テキストも、「僕はこんな感じです」と式神を飛ばすような作業の枠を超えない。要は僕は媒介者でしかないので、実際にコミュニケーションを求められることには悦びを感じるのだ。
僕は昨今の自他の境界を明確に設定し、その関わりにおいて正しくあらねばならないと、もっともな正義らしさの下に取り締まりを行い、誰しもに無菌状態の潔白であることを迫るといった流れには大反対である。そして、その歪さを訴え続けるのが自分自身の役目だと自認している。こうして何らかの大きな物語のために活動をするというのはある面、出家のような行為であり、となれば僕が纏っている刺青というのは袈裟の起源である襤褸切れなのではないかとも思えるのだ。まとめると、勝手に記号化されるよりは自ら記号になってしまう方が脱記号化することができて楽なのでは、ということなのかもしれない。
あまり~イズム、~主義のようなカテゴライズで話すことは好きではないのだが、ここまで述べて来て自分の活動やポジショニングは所謂フェミニズムとの親和性が高いと思っている。しかし僕は僕でどうしようもないほどに男であるし、だからなのかも知れないが、「お前はフェミニズムにあえて触れないようにしている。なんなら何も分かっていない」と言われることもある。
確かに学問的研究をしたこともなければそもそも大学にさえ通ったことすらない身なので、そう言われてしまうと、「そうか。ごめん。もっと頑張ります」としかならないし、そうとしか言えないのだが、なぜだか仮想敵のようにされてしまうことも多いのだ。はたまたそれも記号の役目なのだろうか。
相手が誰であれ僕は「一体何者なのか」という警戒の目線をまず強めに受けてしまうわけだが、ある一定のラインを越えるとおそらくはアズという生き物は飛びかかって噛みついてはこないと、早かれ遅かれ理解される時がくる。しかしそのタイミングでなぜか僕が受けがちなのが、謎のカマされや、オラつきなのだ。これはイメージしにくいかもしれないので喩えで言うと、前者は武装しているかのように見えた先方が実は武装していなかったと分かった瞬間の襲撃であり、後者はヤンキーが恋人の前でカッコイイところを見せようと店員にオラついているような構図に近い。前者においては僕がまれに言う、刺青は意図して消すことが出来るという話であり、また再度『黒い皮膚、白い仮面』を引用すると“ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない。“という話なのだが。結局皆なにかしらのパターンやパッケージを気にしてしか行動出来ていないのだな、と思ってしまい、つらくなることが多い。基本的にネタはネタで引き受けるし、先ほど述べたように記号としての役目を引き受けたわけなのだから、大概の問題は取るに足らないし、ガハハと笑っているがもちろんの事、僕は記号以前に人であるわけで、サンドバックじゃないんだからさ…となることもままある。
長くなったが最後に認知バイアスの話をちらっと書く。そもそも認知バイアスが何故存在しているかというと脳の処理速度を上げたり、脳に負荷が掛かりすぎないようパターンで物事を判断するための機能として備わっているらしい。僕自身にももちろん何かしらのバイアスが掛かっているとは思う。過去がないという話を書いたがこのテキストを打ち込んでいる今にだって時間軸はもちろんある。認知バイアスとは過去の経験や習慣から生まれる何かしらの固定観念的なものだから、何をどうすれば対象をきちんと見ず、パターンでざっくり判断しちゃう問題から距離を置けるきっかけを作れるかと言うと、結局のところ“今この瞬間“を必死になんとかすることしかないのだろう。
僕の場合、昨今のアートマーケットを蹂躙する”バブル”といった現象の外に居る。久々に会った(特に関西、もしくは東京以外の)作家達と近況報告をし合った際によく言われるのが「アズ君、めっちゃ売れてると思ってた」だ。そう思わせるのは、おそらくは一般的にはしないだろう、誰にも望まれていないのに(展示の予定すらないのに)「売れ線とか知るかー!」と言って勝手に巨大な顔貌を作りまくっていたり、こうしたテキストを出し続けていたり、対談記事を出して貰ったり、何らかの露出をし続けていることを通じて発生する印象なのだろうと思う。これは歯を食いしばって露出し続けことで僕なりの生存表明をしているだけなのだが、ただその結果、アズ君はどうも大丈夫そうという(本コラム書きだしのアズ君は特殊だからとも通ずる)謎のバイアスが発生しているように思える。いわば、どうもなんか大丈夫そうだから放っておいても多分大丈夫でしょう、という逆スポイルである。
これは本当に素直なリアルの話でしかないのだがはっきり言って全然大丈夫じゃない。おそらくはこのペースだと7月の半ば頃には、元々はした額しかない貯金も底をつく。ちょっと本当にどうしようね…という現状下にある。因みに余談だが上の話を知人にしたところ、出資してくれそうな相手にきちんと(営業的に)話持って行ってる? だの、購買者を押さえてから作品作ったりしないの?だの言われて、ギャー…なんだその世界はー!目から鱗だー!となったりもした。
話を戻すと、逆に公正世界仮説という認知バイアスもある訳で(不幸な目にあっている対象を見るとその対象に対して心理的距離をおいてしまい最終的に人の心をもった人間として扱わなくなる、という内容)簡単に説明すると、不幸な奴には不幸なりの理由がある、被害者に非があった方が納得できる、という最悪理論なのだが、僕はそう思われたくないわけだから努めて明るく「ガハハ!」と言っているがもちろんたまには辛い。逆の立場に立った場合を想定しても、僕としては一瞬足りともそんなことを思う側にもなりたくないわけだから、何もないに越したことはない前提で、万が一何かあってしまったなら最悪だからこそ、なるべくフットワーク軽く身を持ってして、現場に行くようにしている。
もう少し加速するとルックス自体もただの認知バイアスでしかなくて、視覚というものの一切ない世界を夢想することもある。おそらくはそうなると触覚がかなり重要なキーとなって来るはずなので、べちょべちょ触れ合うことでコミュュニケーションは進むだろうし、そうなれば心的距離の近さも今に比べて飛躍的に近くなると思うのだ。そうなったらなったで今度は性行為への何らかのバックラッシュが発生するのだろうなと思う。
しかしいくら夢想したとて、現実はそうもいかない。となれば脱視覚のために視覚というバイアスを精いっぱい利用して遊んでみるしかないわけで、そうするうちに気付けばこんな風貌になってしまったのかもしれない。
さて、前回のコラムを出してからもう早くも半年が経過した。僕の顔面タトゥー公募も認知バイアスへのひとつの挑戦でもあり、あえて身を開き、身を明け渡す事で自身を遠隔化し、新たなる場へのアクセス権を手に入れられると良いなという遊びでもあったのだが…、これがまた全然に応募が来ない!笑。いや、来たのは来たのだが99%がDOZiNE関係者、いわゆる仲間内からの応募であった。これはマズい。まーたDOZiNEの人たち、尖鋭化しておかしな事してるよ笑、としかならない未来が見えたので、どうしようかな…と思いつつ、現状でその企画は締め切りのない募集期間状態ということにさしてもらっている。
今回も長々と書いてみたが、僕は僕でこれもまた「おっさんになりたくない症候群」発症の予兆なのかもしれないし、それにしたって、見た目でのどうこうにしたって、男が女がという話にしたって、
それで葛藤しているというよりはもう少しなんとかならないのかなあ、という感じなのだ。もう少し”人”の話を考えていたいなと思うし、その手法として、作品を作り発表をすることでしか拡張していくことが出来ない自分というのも、なんとかもうちょっとなんか良い方向に出来ると良いなとは思う。新しいモノを作るという行為は作り手自身に対してのメディテーション効果が幾分かある場合もあるが、それ以外においてはいつも誰かに認めていただくという形を取らざるを得ない。
宇多田ヒカルの”誓い”の歌詞を引用すると、僕にだって”ダサいくらいしがみついたまま眠りたい”日が毎日とは言わずとも、ある。
“歪(いびつ)” 粘土、油絵具、LEDレジン、軍手/2022/90×90×140mm
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