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現代魔女たちは灰色の大地で踊る──「思想」ではなく「まじない」のアクティビズム|磐樹炙弦 × 円香(後編)

混迷する時代に現代の魔女たちは何を見据えているのか。現代魔術家の磐樹炙弦と現代魔女の円香が新異教主義の現在・過去・未来を語る。

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現代魔女はユーモアを社会に持ち込む

DZ 支配的なリアリティに対してどう摩擦を起こしていくか。その上で円香さんが言うようにツイッターではやりたくないというのは僕もよく分かります。ツイッターのような文字数制限の厳しい場でたとえばワクチンを巡って何かを喋ったりすれば、たちまちワクチン推進か反ワクチンかみたいな二元論に回収されてしまいますから。つまり、摩擦自体がチープな摩擦になってしまう。だから文字数制限のないDOZiNEを是非使っていただきたいところなんですが(笑)、一方でDOZiNEの長文記事はある意味でその敷居の高さによってノイジーなクレームをあらかじめ排除しているところもあり、すると起こすべき摩擦が起こらないという問題もある。悩ましいところですね。

その上で正直なところ、磐樹さんのネット上の発言はちょっと危っかしいという感じもあって(笑)、僕たちは磐樹さんのメタ的な意図をある程度踏まえているから真意のようなものが一応は分かりますけど、そのメタ構造が窺い知れないツイッターで初見の人たちにはまあ誤解されるよな、とも思うんです。すると「あ、TERF」みたいにシンプルに受け取られてしまっても仕方ない。それは非常にもったいないし、なんなら不毛だなと思うんです。だから、やっぱり語数はしっかりと割きたいんですよね。

ところで、さっきのお話で少し気になったところがありました。複数のリアリティを同時に走らせる、ということが今までの話の重要な部分だったと思うんですが、それってまあ難しいことだよなとも思うわけです。というのも、リアリティが複数あるという前提に立つと、自分が生きているまさにその生のリアリティはどうしても希薄化してしまう気がするんですよ。おそらく人はワンオブゼムよりもオンリーワンが好きな生き物で、その上では複数性がノイズとして受け止められやすいんじゃないか、と。

とはいえ、一つのリアリティへのコミットを深めれば、自ずと視野は狭くなり、またそれを揺さぶってくるような対象に対して暴力的にもなりがちですよね。まさにQアノンとそのアンチとの死闘のような、どちらかが勝つまで戦いは終わらないみたいな泥試合に邁進することになってしまう。こうしたややこしさと現代魔女たちがこれまでどう向き合ってきたのか、ちょっと聞いてみたかったんです。

円香 うーん、そこはやっぱりユーモアが鍵だと思うかな。オルタナティブリアリティにこだわりつつも、一方で「まあジョークだから」みたいな態度も維持することで、魔女たちはシリアスな殺し合いを回避してきたんだと思う。

それでいうと最近ウィッチトックで炎上した話があって、それがゼウスキャンセルってやつだったんですよね。これは単純な話で、ゼウスって神話の中でレイプしてるでしょう? だから、そんなレイピストは神様としてキャンセルしましょう、という話なんです。これはある種の神話の読み変えみたいなもんなんだけど、私はこのゼウスキャンセルにはユーモアがないなと思ったんだよね。だってゼウスはレイピストと言ってしまった時点で絶対に面白い方向に話が進まなくなるのは明白だから。正直、センスないなって思う(笑)

一方で同じような神話の読み変えで面白かった例もあった。去年、ニューヨークの裁判所の前に突如メデューサ像が現れたんです。今まで彫刻で描かれてきたメデューサってちょん切られた首というのが一般的で、あくまでもモンスターとして描かれてたんですよね。それがこの新しい彫刻では逆転してた。神話においてメデューサの首を切ったペルセウスが、ここでは生首になってメデューサに掴まれてるんです。作ったのはアルゼンチン人アーティストのLuciano Garbatiという人で、要は「レイプされた被害者を化け物にするんじゃない」というメッセージですよね。これはすごく面白いし、そのズラし方が現代魔女的だなと思ったんですよ。

 

 

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実際、現代魔女たちは聖書に出てくるアダムの最初の妻であるリリスを世界で最初の魔女として自分たちのカルチャーのイコンにしてるんです。元々リリスはアダムと神に平等を求めたところ認められず、エデンから立ち去って多くの悪魔と交わった結果、神の怒りに触れて悪魔にさせられた存在なんだけど、そのリリスが、たとえばJ・プラスカウの「リリスの到来」というテキストの中では後妻のイブとの間にシスターフッドの関係があり、共に園を脱走する存在として書かれたりしていて、勝手にフェミニズム的なキャラクターに書き換えられてるんですよね(笑)。要はあえて聖書を誤読してる。現代魔女というのはフェミニズム神学の世界のクリエイティブな革新派であるとも言えて、そういうユーモアをずっと携えてるんです。

あるリアリティに深くコミットしながらも、同時にウィットを忘れないこと。そういうところが現代魔女宗においてはとても重要ってことです。それがない人は魔女にはあまり向いてない……なんて言うとあれだけど(笑)、この文化の面白さを理解できない気がしますね。

磐樹 そうだね。ジョークはとても重要。それは何も魔女に限らずで、そもそも社会というのはジョークによって回ってきたところがあるからね。今時はコンセンサスリアリティといったらシリアスなものに決まっているという風に信じられてるけど、事実はそうじゃない。コンセンサスリアリティというのは色々な信条を持つ人、それこそキリスト教徒もいればイスラム教徒もいて魔女も雑多にいるという中で、かろうじて市民社会を運営していくためのものだけど、その主成分は本来ジョークだと思うんですよ。

たとえば、昔はサタイア、風刺文学というジャンルがあったわけです。ラブレーみたいな作家が徹底的に王様や世俗を風刺していた。風刺というと偉そうだけど、実際はすごい幼稚なジョークのようなもので、おならプーとかうんこブリブリ!みたいなノリで権力やマスを徹底的にこき下ろす。そういう風に笑い飛ばすことで、決して相容れない、解決のしようもない問題をなんとか誤魔化してきたんだよ。

 

 

議会制民主主義というのだってそう。絶対に噛み合わない意見がぶつかり合っていく中で、なんとか落とし所を見つけなきゃいけないわけだよね。そうなると最終的には、ジョークとか、ユーモアとか、「ものは言いよう」みたいなレトリックの応酬で、本来水と油のような理念を擦り合わせていく、落としていくしかない。コンセンサスリアリティというのは、そういう全く辻褄のあってない理不尽なものの総体なんだよ。「ダハハハ」と笑って誤魔化すことでしか成り立たない、そういう余白の部分が僕たちの社会の真ん中にはあったはずなんだよね。

ただ、最近のキャンセルカルチャーの流れを見ていると、どうもコンセンサスリアリティはシリアスなものだということが大前提になってしまっている。中央にヒューマンライツやソーシャルジャスティスの強固なコンセンサスがあって、その周囲にフリンジがあるという風に捉えられている。ラブレーの風刺精神の反転像みたいでもある。だから血で血を洗うキャンセルの嵐にならざるを得ない。これは少しも笑えない状況なんだけど、だからこそ笑わなきゃいけないんだよ。

円香 ゼウスまでキャンセル対象になってるわけだからね。人間じゃないんだよ?これを人間の驕りだみたいに大真面目かつストレートに批判する人もいると思うの。でも私はそれもしたくなくて、現代魔女のこれまでにとってきた戦略に準じてユーモアによって応じたいし、現代魔女はそういうユーモアを社会に持ち込める存在なんだろうとも思ってる。魔女はそもそもの出自からしてロマンの塊だしパッチワークの折衷であって、大真面目なジョークみたいなところがあるからね。

たとえばマーゴット・アドラーは、この視点を強調するために『月神降臨』の中でディスコーディアニズムをウィッカに並走する女神信仰として取り扱ってるわけですよ。だから、私が特別に不真面目な実践者ということではないんです(笑)。まあ、言ってしまえばプロレスに近いかもしれませんね。フィクションだけど本気だというのを戦略として採用してる。その上で、今この瞬間はこの役、このゲームを全身全霊をかけて本気でやっているんだって感覚が大切なんだと思う。そうすると日常生活で気に食わない役をやらないといけない時も「ま、ゲームだから」と思えるしね(笑)

 

 

磐樹 今日のソーシャルジャスティスに硬直した社会にどんなトンチをウィッチクラフトが持ち込めるか。その際、まじめさに頼っちゃダメだよね。まじめに考えるならレイピストのゼウスはキャンセルするしかないんだから。じゃあどうすればゼウスをキャンセルしなくて済むのか。ヒューマンライツやソーシャルジャスティスとはまた違う方向に向かってトンチ思考を続けてきた人類の営為というのがあるわけで、その伝統をもう一度、手繰り寄せなきゃいけないんじゃないかな。魔女はそれを引き継ぐ存在だと僕も思ってる。だから期待してるんだよ。ただ……、この世界はジョークの世界だよなんて言うと多くの人は困惑するだろうとは思うけどね。ジョークの世界はセンスを持っている人たちが解読して発信力を持つ、残酷なエリーティズムの側面もあるから。

ああ、そうだ。ジョークで思い出したけど、この前のM-1で優勝していた錦鯉、全く面白くなかったんだよね。幼稚園のお遊戯のように見えた。スキンヘッドの人が大きな声でバカなことを言って頭をペシペシ叩かれているだけ。時事的な要素もなければ、今の世の中の状況を茶化したりする要素も全くなし。こんな漫才が一応は日本で最大のお笑いコンテストで優勝してしまうというのは、非常に危ういなと思ったね。

 

 

円香 いきなりM-1をめちゃめちゃディスりだした(笑)

磐樹 いや、今のうちにディスっておかないと(笑)。お笑いっていうのはシリアスなジャスティスの世界からはみ出た部分を担うものであって、そのお笑いがコンセンサスリアリティを揺るがすような批評性をまるで持っていないというのは明らかにダメでしょ。これはただのレジャーですよ、子供たちと一緒に笑ってくれればそれでいいんですよ、と言わんばかりのネタだったからね。それだけ今日のコンセンサスリアリティが硬直してるんだろうなと感じざるを得なかったな。

円香 私はM-1を見てないからそれについては特に何も言えないんだけど、笑いって二項対立を超える力を持っているものじゃないですか。お笑い芸人は本来そこをコントロールして見ている人に痙攣を起こさせる存在で、つまり現代のシャーマンなんだよね。二項対立の世界に私たちがガチガチにハマっていかないようにしてくれる存在。もし本当に今のお笑い芸人がその役割を全く果たさなくなっているなら問題かもね。私も笑いとかジョークとかユーモアとかの力をすごく信じてるから。

磐樹 そうだよね。だから笑いについてを今語ることには意義があると思う。お笑い芸人がおとぎ話をやってたらダメなんだよ。今後、そういう笑いしか世に出てこくなってしまうとしたら超危険。ファシズムっていうのはそういう状態だと思うからね。夢を見ようと思ってもそれが現実とは全く関係のないところに押し留められてしまっていて、秩序を揺るがす力を剥奪されてしまっている状態。それはすでに今あちこちで起こりつつあることでしょう? だから、やっぱり魔女には頑張ってキャンセルカルチャーと火花を散らして戦って欲しいね。魔女はキャンセルしようがない微妙な存在なんだから。

円香 もともと強引にキャンセルされちゃった人たちだからね。だからこそ、よくその人の言動を調べもせずガーッと燃やしてスケープゴートのようにキャンセルして、それでみんなが満足しているみたいな状況に対しては当然アンチだよ。人間っていうのは自分も含めてそういうことを平気でしちゃうものだっていう感覚が強くある。自分もうっかり加担してしまうことってあると思うから薪をくべないように注意しなければいけないよね。

そもそも人は近世、中世の頃からそうだったわけでしょ。ペストが流行して人と人とが距離を取るようになって、直接人に会って話す機会が失われ、そこで極端化した思考や溜まった鬱憤からピキーってなって、このしんどさを誰かのせいにしたいと思った人たちが魔女狩りみたいなことを始めたんだと思う。それでいうと、今の状況って既視感があるんだよね。当時は印刷技術がデマを拡散した最新のテクノロジーだったけど、それが現在はAIやSNSになってる。そうしたものが人の行動を完全に変えてしまうことが私は恐ろしいんだよ。だから、ピキーってならないように常にユーモアのあることを言おうと心掛けたいよね。

 

 

磐樹 そうだね。ただ、それがキャンセルされないためなのだとしたらまた違うとも思う。M-1の錦鯉について「誰からもキャンセルされないお笑いだ」って書いてある記事があってさ、さらに「そういう笑いこそが良い笑いなんだ」ともそこには書かれていたんだよ。これはやばいよね。キャンセルの力学が渦巻く中で、じゃあキャンセルされないようしようという考え方はそれこそ堕落でしょう。そこはトンチを巡らせてキャンセルしていいのかどうか判断がつかないような、想定外のものを打ち出していかないとね。

 

スターホークの真意──2020年代の女神論争

DZ たとえば欧米の現代魔女たちは今日のポリコレやキャンセルカルチャーの力学とどのように向き合ってるんでしょう?

円香 うーん、よく魔女はアナーキストが多いみたいには言われてますけど、一概にはどうとも言えないかな。ポリコレというのは時代と共に目まぐるしく変わるじゃないですか。私が今までに出会った魔女の人たちを見ていると、現代魔女には時代を超えて譲れないイシューのようなものがある気はしてる。たとえば魔女狩りの犠牲者の8割は女性であったこと、社会が資本主義へ移行する際にスケープゴートにされたフェミサイドの犠牲者であったこと、被害者は女性の民間医療家や産婆であったこと、女性のバースコントロール能力が国家やキリスト教から異端視されたこと、そうした過去の歴史に関わるイシューに対しては断固とした態度で臨んでいる気がする。

あと魔女狩りって最初はハンセン病患者への差別や反ユダヤ感情とも結びついていたもので、それこそアメリカのセイラム魔女裁判なんかも人種差別、先住民迫害なんですよ。そういうすでに明らかになってきた大量虐殺の歴史を踏まえると何に警戒しなければいけないかということはおのずと見えてくるものですよね。魔女が立っているのもそういうところなんだと思う。

それからペイガンの人たちというのは基本的に自然崇拝だから、自然破壊に関して怒る人は多いと思うよ。私の出会った人では動物を保護して一緒に暮らしてる方とかもいたし。だから……、まぁ人それぞれかな。これはあくまで私の主観だけど、人間中心主義に対しては批判的な人が多い気がするし、傷つけられたり、居場所を奪われたものたちへの共感みたいなものは広く共有されたものとしてある気がする。もちろん、ノンポリな人もいると思うしね。

あと地域差もあるかな。どこの国、どこの地域の魔女かによっても違う気がする。それこそ日本のウィッチクラフトもかなり特殊だしね。

磐樹 いわゆるポリコレ的なものに対してはみんな立場を微妙なままに留めてるよね。スターホークもブダぺストも、ブダぺストから枝分かれしたルース・バレットなんかも。そうしたことをはっきりとは明言しないようにしてる。たとえばスターホークは儀式をトランスインクルーシブにしてるけど、彼女のブログとかを読んでると必ずしも「とにかくトランスをインクルーシブするんだ」というような話ではないように思える。そういう曖昧な余白を残す書き方をあえてしてるんだよね。

 

Ruth Barret (画像引用元: https://pncminnesota.com/2012/06/25/building-bridges-between-dianic-and-trans-communities-at-psg/)

 

円香 そうかな? スターホークに関しては立場は比較的はっきりしてると思うけど。かなり昔の段階で「女神というのは女性の神ではない」「両極性原理というものは個々の男女に当てはめるものではなく、私たちみんながこの両方の原理を内包している」と言い切ってるし。

磐樹 それは79年に出した『スパイラルダンス』の話でしょう。ブダペストが叩かれるきっかけとなったPantheaCon(※)の周辺のブログ記事を読んでも、スターホークは一貫して「まあまあ」みたいなスタンスを保ってるよ。

※2011年にカリフォルニア州サンホセで開催されたネイペイガン(新異教主義)のフェスティバル。

 

 

円香 その「まあまあ」はどちらか一方の立場に与するものではなく、あえてどっちとも言わないという立場だったんだと思うよ。

磐樹 つまり、ポリコレ的には正しくない立場なわけだよね。ポリコレにおいては正義は明確なんだから。常に「こうだ」と明確な態度を示すべきだとされているわけで、その意味ではスターホークはずっと首尾一貫してそうはしてないんだよ。

円香 とはいえスターホークとリクレイミングはトランスジェンダーの人たちと儀式を一緒にやっているからね。それで何か問題が起こるわけないじゃない。2019年のソーウィンの儀式でもメインのダンスにトランスジェンダーの魔女の方が起用されてる。ブログ記事や発言はともかく、行動、メッセージは明確だと思うけどね。

磐樹 それが彼女のバランス感覚なんだと思う。その一方で、この先、本当に世界において既存のジェンダー構造は瓦解する、あるいはそうするべきだとスターホークが考えているかといえば、彼女のブログを読んでいる限りはそうは感じない。いつも奥歯に物が詰まったような感じで「まあまあ」としてる。そこがアメリカのウィッチクラフトの救いだと思うんだよね。ポリコレとキャンセルカルチャーの波に巻き込まれないように、なんとも言い切れない感じで立ち回ってる。

円香 ジェンダー構造は瓦解するみたいな話ではそもそもないんじゃないかなと思うけどね。ただジェンダーに関しては思想云々とは別に世界中の魔術の世界は陰陽のような両極性原理は保存してしまうんだよね。女神=女性の神でないと言っても、女性的なイメージがあることは完全には否定できないんだと思う。それは元々アメリカ西海岸のゴッデスウォーシップが一神教が男性中心的すぎることに対するカウンターカルチャーとして出てきたという経緯があるから。主流のフェミニズムからしたら邪道と呼ばれるようなところも文化の内部に抱え持ってるんですよ。

磐樹 アメリカのウィッチクラフトとフェミニズムが繋がっているのは「ラディカル」という点においてだからね。ベースにあるのはラディカルフェミニズムなんだよ。そうである以上はトランスジェンダリズムとは原理的に相容れない。

円香 でも、それってブダペストとかレズビアン分離派のカヴンの話だよね。

磐樹 いや、もっと根本だと思うよ。要するにアメリカであれヨーロッパであれ、現代魔女の背景には抜きがたく差異派の立場があると思う。男と女にはそもそものところで差異があるという立場。

円香 いわゆる魔女のフェミニズムのエコフェミ的なところでしょう? 確かにそれは女性の霊性運動や女神を題材にしたアートなんかに存在する部分だけど、あえてスターホークが「女神は女性の神ではありません」とか書いたのってそもそも女神の解釈を拡張しようとしたんだと私は読んでたけどね。女性の体や出産能力を大地に結び付けて神聖化しまうことの背景には結局のところに家父長制の影が見え隠れするよねという本質主義批判はずっとあるし、私自身もそういうのは苦手で警戒してる。現代魔女たちのチャントや祈祷文の中にある「母なる大地」とか「女神の子宮」とかの文言は、人によっては嫌悪感を持つものだとも思うしね。

一方で、スターホークはネイティブアメリカンの神話や世界観からの影響を大きく受けているから、彼女が「母なる大地」というその土地に合った言葉を採用するのはわかるんだよ。このわかりやすいメタファーは古代からあるわけではなく19世紀に作られたという説もあるそうで、その意味でもすごくネオペイガニズム的なんだよね。

あとこれも面白いところなんだけど「女神」のシンボル解釈って実はめちゃくちゃ多様で魔女それぞれで違ってるんだよね。スターホークにとっては女神は女性の神ではなく、地球そのもののことを指していたりして、私たちが地球で生まれやがて死んだら土に返るという、その循環システムを彼女は女神と呼んでたりする。つまり、科学とも対立しないんだよ。実際、彼女は「女神を信じますか?」と聞かれたら「石を信じますか?」って聞き返す。つまり同じチャント「We all come from the Goddess」を歌っていても歌う人の中で女神のシンボル解釈が違う。それぞれが自分にとっての女神というものを投影してる。まさに象徴の力ですよね。

また女神のイメージは頻繁にメタモルフォーゼを起こしていくものでもあるよね。今はカーリー、10秒後には私の体、血液、怒りの感情、1分後には火山、みたいに常にめまぐるしく変容してく。いわゆる女性の身体のみに還元できるものではないんだよね。

磐樹 僕の理解としては、スターホークはウィッチクラフトの根っこにある差異派的な部分が絶対に否定できないものとしてあるからこそ、実際の儀式の運用においては率先して多様性を招き入れているんだよ。根本にあるゴッデスウォーシップの構造自体は絶対に譲れないとしても、運用の部分では排他的じゃないということを示す責務があると考えてる。スターホークにはそういう引き裂かれがあって、その中で起きたのがこの前のリクレイミングにおけるトランスインクルーシヴな実践だったと見てる。そして、それはすごく意義深いことだったと僕も思ってる。あれは自分はどっち側だという立場表明じゃなくて、どっちとも言い難いんだということを実践の上で表現していたわけだから。

円香 私がスターホークの儀式に参加したりする中で感じる事をもう一つ言わせてもらうとね、彼女の言う女神と男性神/女性神の女性神というのは、地と図のようなものだと思うんだよ。これは以前にも磐樹さんと話しましたね。私にはスターホークが性差を軸とするような魔術、たとえば男性的なエネルギーや女性的エネルギーがどうしたみたいな、そういう観念的な魔術の話にはあまり関心を持てなくなってるように見える。私が思うにスターホークは段々と自分の考えを変化させているし。その中で女神の解釈にも微妙な変化があって、最近ではEarth based Spiritualityにとても集中しているように見える。

現代魔女の世界はもともとはヘカテやディアナのような月の女神が特に重要視される傾向にあったんだけど、彼女がスパイラルダンスから全くブレずにずっと主張してるのは「地球は神聖である」ということだよね。パーマカルチャーの先生でもある彼女の関心は「傷ついた地球を癒す」のためのコミュニティを作り、土や生態系というものを理解する教育を広める場をつくることなのかもしれないとも思う。実際、彼女は土というものにとてもこだわっていて、女神とは地球のことであって私たち全員がその一部であるんだ、と話してるわけ。男のエネルギーがどうした女のエネルギーがどうしたって観念的なことよりも、ここ数年は気候危機への関心の方が高くなってるようにも見えるし。結局西洋魔術と魔女術の決定的に違うところはこういうところなんじゃないかなと思うよ。

磐樹 彼女は度々「ポラリティ」ということを言っているでしょう? 20周年エディションの『スパイラルダンス』の中でもあらためて大事なのはジェンダーではなくてポラリティなんだということを書いてる。ポラリティとはつまり陽があれば陰があるということ。スターホークはそのアイディアを捨ててなくて、むしろそこにしっかりと依拠するんだとしている。ジェンダーというのもまたこういうポラリティの一つなんだってことを彼女は20周年エディションの序文でわざわざ書いてるんだよ。

円香 確かにポラリティについては書いてましたね。蜂が花の蜜に惹かれるようにエロティックに惹かれ合うのだ、と。ただ、そこに男性女性みたいな霊的なジェンダーのようなものは現在は使用しないとも書いていたはずだよね。まあでも、もともとダイアナ派からやってきた人だからそことの差は重要なはずで、リクライミングを作った段階でゴッデスウォーシップを女性だけではなく広い範囲に開きたいというアイディアを出発点にしてはいるだろうね。重要なのはスターホークの関心はフェミニズムにとどまらないということで、今はさらにそれをトランスジェンダーにまで開いていると公式に言っているということはしっかり受け止めるべきだと思う。

磐樹 まあ……、我々は同じテキストを取り上げて違う見解を述べてるわけだ。別に僕が正しいというわけではないけど、誰かが何を言わんとしているかということを読み取ろうという時はまずポジショントークをやめなきゃいけないとは思うよ。スターホークが儀式におけるジェンダーの扱いをやめるとした時に本当にそれが本心なのかどうかということを実際になされていることと照らし合わせて考える必要があると思うんだよ。

円香 うーん、ポジショントークがしたいんじゃなくてさ。これは私にとってとても重要な関心事なんですけど、ダナ・ハラウェイが「サイボーグ宣言」に女神とサイボーグがスパイラルダンスを踊っているということを書いてるでしょう? 日本ではそこからスターホークを知る人も多いと思うのね。それで「あぁ魔女ってエコフェミでしょ」とディテールを見ることなく考えちゃってるケースって結構多いと思うんだ。さっきの魔女狩りみたいな話だね。そのせいで潜在的魔女なのに現代魔女を避けてる人も結構いると思っていて、それはすごく勿体ないなと思うんだよね。

 

 

本来、現代魔女文化のタームは解釈が多様であったり、余白があるものなんですよね。わたしは自分のことをサイボーグだと思ってるけど、そんな感じでサイボーグが魔女であるということもありえるわけ。サイボーグが女神の夢を見てスパイラルダンスしててもおかしくない。コンピュータの中にだって女神は住んでるわけでさ。

だから「スターホークが何を考えてるんだろう?」ということと「女神」については丁寧に話す必要があると思うんだよ。たとえば儀式において重要なことはまず初めに私たちのコミュニティの目的が明確であることなんだけど、リクレイミングくらい巨大なグループでの儀式となると、やっぱり特定の人たちが違和感を抱いてしまうことがあって、そうなると目的の共有が難しくなる。しかもリクレイミングは上下関係がほとんどないこと、全ての人が司祭であることを特徴としているからね。だからリクレイミングでは儀式をデザインする時にみんなのコンセンサスをとるような議論の場が用意されてるんですよ。

リクレイミングはおそらく世界最大級の魔女グループで、100人以上の儀式が普通にあって、スパイラルダンスは数百人から千人規模、参加者の背景も多様なのでそういう仕組みが作られているんだけど、これは魔女の世界では特殊なケースなんだよね。実際、私も儀式の規模や参加者によるとはいえ、たとえば「母なる大地」という言葉を使うことや、ヘテロセクシャルな儀式のフレームワークを使用する際には参加者に対してコンセンサスを取るように指導されたことがある。文脈による問題なので全ての儀式でこれが徹底されてるのかという疑問はあるけど、いずれにしても彼らはコンセンサスをとても大切にしてるんだよ。

もちろん、これは「母なる大地」みたいな表現を完全になくせという話では全くないの。皆さんそれぞれに歌い慣れたチャントがあるわけだから。これに関して産湯ごと赤子を流すようなものだという意見もあるんだけど、カヴンでワークをするとしても魔女のパスは魔女によっても違うからね。現代魔女宗には元々ドグマのようなものがなく、神さまも神話も自分たちで選ぶことができる柔軟さがあるんだよということは、ちゃんと強調しておかなきゃいけないと思ってる。

それにこの問題が浮上する前からスターホークのリクレイミングはもともと男性司祭、女性司祭がペアみたいな形をやってないんです。西洋魔術の世界とはもちろん、もはやダイアナ派や英国伝統派ウィッカとも別物だと思うんだよね。ついでに言うと、リクレイミングでは2019年以降、男でも女でもない「観音」が女神としてよく召喚されるようになったのも面白いことだよ。2021年のソーウィンの儀式でも「観音」が召喚されてましたから。

磐樹 ポラリティとジェンダーの、どっちなの、ていう話をする時の難しさだと思う。ジェンダーてのは政治的な対立を孕む場だし、なおさらね。アレイスター・クロウリーも、獣、緋色の女、天空の女神ヌイトとその中心の男性的ハディト、という神々のイメージを用いつつ、同時にそれが数学的だったり幾何学的な、極めて抽象的な観念なんだ、ということを随所で強調してるのね。でもクロウリー派の儀式「Gnostic Mass」って、司祭のワンドを女司祭が跪いて思わせぶりに擦ったり、ダガーでカップを思わせぶりにぐりぐりかき回したりして(笑)、バッキバキのジェンダー表現の塊でさ。「え、幾何学的なエネルギーの話ちゃうかったん?」て面食らう人もいるだろうし、クロウリーの人物像もあわせて、いわゆるフェミニストが発狂しそうなやつよ(笑)。でもまぁ良くも悪くもオカルティズムってそういう多重性の文化でもあってさ。読み解いて、入っていって、反転していく、みたいな。クロウリーは当時の自然科学的なエネルギー解釈のもと、Gnostic Massに古代的なジェンダー表現、「聖なる結婚」の意匠をあえてコテコテに残して、さぁそこにある不可視の構造を思いなされ、と突きつけるイメージ。まぁGnostic Massが書かれた当時はジェンダーが今ほど問題となるイシューじゃなかったし、ある意味牧歌的にそういうことができて、今も伝統として継続しているわけよ。カテゴリとしては宗教儀式だしね。

スターホークもまたクロウリーの影響はやっぱり免れない地点にいる人で、というかまっとうな現代人として(笑)、神々って言ってるけど実はまぁエネルギーや関係性なんですよ、ていうクロウリーの構造主義的ポラリティ解釈の流儀を踏襲してる。それでいて、戦術としてはGnostic Massとは逆方向、男神女神というジェンダー表現の意匠を極力排する、透明化させる方向をとったんだと、個人的にはそう捉えています。それはポラリティの話ですよ、ていう時に、どちらも取り得る戦術だしね。Gnostic Massは基本的にはイニシエーション結社の内部で行われる、エクスクルーシヴでエソテリックなミサだけど、リクレイミングの儀式はあらかじめインクルーシヴでポリティカルなギャザリングである点も重要な差異で。

僕の視点では、これは20世紀後半に起きたオカルティズムのパラダイムシフト、スピリチュアリティがどうしても足を取られがちな本質主義に対して、クロウリーの構造主義/スターホークのポスト構造主義という二世代に亘って展開された散開戦術として、一考に値するものなんです。そういう、ポラリティとジェンダー、オカルティズムとポリティクスが重なり合うとこで生まれるモアレのようにややこしい文化表象を、刷新しながら持続しているのが50年代から連なる現代ウィッチクラフトの世界なんだけど、そこにこそ、オカルティズムという文化的戦略の核心もあるわけでね。

最もいただけないのはオカルティズムの言説で、AだけどB、BだけどC、といったような一見矛盾している言説をポリティカルコレクトネスの平坦な等式に均して単純化してしまうこと。これはうっかりやっちゃうと、時に危険な感じにまで行き詰まるのよね。オカルティズムからもっとも遠いもの、つまり原理主義にすっとすり替わってしまう。

円香 面白いですね。辻さんはどう思います?

DZ 僕はスターホークを追っていないので彼女の真意については特にコメントのしようもないです。ただ、本来複雑なはずのものをポリコレ的なのっぺりとした言説にトランスレートしてはいけないという点はウィッチクラフトに関わらず重要なところだろうとは思いますね。オルタナティブな価値観が現れた時、すでにある二項対立に当てはめてそれを捉えてしまうと、一般的には分かりやすくなりますけど、それは同時に無害化を意味することにもなると思うんで。その意味ではスターホークはここの二人の間ですでに見解が分かれてしまうような余白のある振る舞いをしているということですよね。その振る舞いそのものが時代に対する明確なアティチュードになっているんだろうなという気がします。

円香 そうだね。スターホークのいうスパイラルダンスというのは立場や考え方、背景がまったく違う人とだって輪になって回転しようという話だから。真逆の考えを持っていようが関係なく一緒に歌い踊るということが重要なんです。サイボーグも女神もトランスもクィアも一緒に踊る。スパイラルダンスって実際に踊ると、一本の縄のようになっていて絶対に手を離してはいけない状態で目の前にやってくる人とアイコンタクトしながらどんどん回っていくんです。スパイラルダンスの輪から誰かの手を離して切り捨ててしまうようなことは決して起こってはいけないことなんだと思うよ。

 

 

「腸の倫理に立ち戻れ」

DZ ところでさっき円香さんが少し触れていた日本の魔女の特異性について話を聞きたいです。ここ数年で日本においては以前と比べてかなりウィッチクラフトが浸透したように思います。明らかに露出が増えてる。その中で日本のウィッチクラフトにはどういう独自性があるのか。

円香 まず自然観が違いますよね。最近、私はアメリカの人から気功を習ってるんですけど、その中で色々な話を聞いたりするんです。で、話を聞いてると、どうもカリフォルニアでオルタナティブ価値観を持っている人は地面や土というものにものすごいポジティブなイメージを持ってるんですよね、これはカリフォルニアの人の気質の問題かもしれませんが。もちろん日本でも土は一つの文化的なイコンではあると思うんだけど、それともちょっとノリが違う。カリフォルニアには土に対するアンビバレンスが日本ほどはないんです。

日本は災害大国で地震や土砂崩れも多いから、土に対して単に愛着だけじゃない畏怖のような感情がありますよね。すごくカオティックで、思うままにはならない恐ろしいい存在。だから土用の丑の日のイベントとかがあるわけですよね。土の気が荒ぶって人間が弱ってしまいやすいから鰻を食べる。そこにあるのは単に「土っていいね!」みたいな感覚とは違うものだと思うんです。その点、日本人の土に対するイメージの方が魔女的でしょうね。

西洋はキリスト教の世界、要は精神に従属する世界だったから、土や肉や身体というものがずっと抑圧されてきたわけですよね。その反動なのか、ペイガニズムの世界でも土は神聖なんだ、地面こそが偉大なんだ、と言うだけでカウンターになったりする。でもそれって日本の感覚からすると当たり前の話で、その上で畏れてるわけだよね。そういうズレがある。あとカリフォルニアって砂漠が沢山あるから土の性質も結構違う。だから、エコロジーとか自然に対する意識とかも自ずと違うものになってくるんです。

磐樹 当然、違いはあるよね。しかし、それにしても日本の状況は10年前とはだいぶ変わったように思う。魔女を名乗る人がいっぱいいるし、魔女文化に対する関心も明確に高まっているしね。

円香 魔女のコンビニまであるからね、しかもPARCOに出店してるという(笑)

 

 

DZ この先、日本のウィッチクラフトがどう発展していくのか、お二人はどういうことを期待してます?

磐樹 僕はやはり、ポリコレとアンチポリコレという作られた対立構造を無化する勢力として、どうとも言い切れない人たちが魔女という形で増加していってほしいなと思ってますよ。今は反資本主義でもエコロジーでもなんでもそうだけど、分かりやすい極に人が吸引されていってるから。まあ、それがパワーになることは当然あるとは思うけどね。ただ、それだけで世界が丸く収まるなら既存のイデオロギーだけでもいいわけだけど、丸く収まらないから困ってるんだよね。自民党でも共産党でも緑の党でもない存在、そういう善悪を含めて言い切れないところで生きていく魔女たちが、これからの時代には必要なんだと思う。

というか、そもそも魔女は悪者だからね。日本人は悪をなすことへの抵抗をとても強く持ってるように思うから、もっと悪いことをちゃんとできる人たちがウィッチクラフトのシーンで培養されてったらいいですよね(笑)

DZ (笑)。ひとつ質問なんですが、魔女たちの「どうとも言い切れなさ」というのは、いわゆるポストモダン的な脱構築主義の流れなどともまた異なる流れとして捉えるべきものなんですかね?

磐樹 いわゆるフランス流のポストモダニズムとウィッチクラフトは最も相性が悪いものだと思うよ。ポストモダニズムにおいては概念操作によって「善悪も全て言語的な構築物に過ぎないんだ」みたいな話をしてきたわけだけど、それは結局、脳の世界の話なんだよね。ウィッチクラフトはそれとは何か別のもの、たとえば腸とか、女性の身体とか、土とか、地球とか、どうしたって消しようのない何かに依拠したところで、言い切れない態度を取る人たちだと思うから。

DZ ウィッチクラフトは有限性に対するセンスがある、と。

磐樹 一番最後に残ってしまうものに依拠するわけだからね。男が近代以降考えてきたことなんて大体が脱構築できるんです。所詮は脳が考えたことだから。ただ、そうした脳の圧政下において200年くらい全く手付かずのまま、なんなら抑圧され続けてきた肥沃な腸の恨み、不合理の大地が存在する。それこそが魔女たちが依拠するところなんです。だから、それは思想でさえない。思想ではなくまじないをやるんだ、という態度こそ魔女がポストモダンよりも一歩前進しているところだろうし、逆に言えばそこがボヤけてしまうとまた元の木阿弥になってしまう。再び脳の世界に回収されてしまう。

女性がそのメインアクターであるというのも、単に女性の方が抑圧され差別されてきた歴史があり、その負のコンディションがこの局面では有利に働くからであって、女神がどうしたとかそういうことじゃないんだよ。のっぺりと硬直した世界から排除され、ぼてっと残された身体と土がここでは武器になるというだけ。果たして日本でそれがどこまで展開していけるかは分からないけど、僕はそれでもあちこち覗き込んで、そういう感覚を播種していく、そういうことしかできないかな。

円香 そうだね。主流から溢れ落ちた存在、そうした存在が集まる場所として魔女の文化がある。おとぎ話の魔女は人を生かしも殺しもする。それは森の中に人里離れて暮らすヒールでもあり、野蛮で外道なものでもあるかもしれない。その一方で魔女は子供たちをもっと危険なものから守る存在でもある。つまり、魔女は白くも黒くもないグレーゾーンに住んでいるんです。

実際、私はフェミニストと呼ぶにはかなり出来が悪いバッドな部類だしね。環境運動のことについても勉強してるけどそんなに詳しくないし、決して「清く」「正しく」も生きてはいないけど、それでいいと思ってる。それに魔女がそもそも悪い存在だというのは武器でもあるしね。乗り越えたい病気とか、傷、疎外感、自分の弱さとか、少しマイナスなところから魔女の世界に入る人たちもいるの。でもそれが身体的な実践、祈りを通して変化していく。それが一番大きなマジックなんだよ。だから、他者の痛みへの共感能力は重要かもしれない。魔女文化はそういう不完全さ、不純さ、変性意識を通して自分ではないだれかに共感することを出発点に思考し、実践していくものだから。そういうところがユニークなんだと思うな。

磐樹 そもそもその現代魔女の文化の底流に流れているものとして聖書外典やフォークロア的な悪魔の話があるわけですよ。200人くらいの堕天使たちが地上に降りてきて地上の女と交わり、そこで生まれてきた血族が魔女の血族だ、というようなね。僕は個人的に魔女文化における堕天使伝承の話をもっと掘り下げたいんだよね。なんなら腸と脳の関係としてアナロジカルに解釈しても面白いかもしれない。腸で考えている種族が地上にいて、そこに脳で考える種族が空からやってきた。その相互作用として魔術が生まれたんだ、と。空から降ってきた脳的なインテリジェンスというのは突き詰めるとカリフォルニアイデオロギーの明るい方へと向かうことになる。マーティン・ロスブラットみたいに「我々は脳なんだから身体なんていらないじゃん」とね。そこに対して地上側にいた腸の人たちが「そんなのは嘘っぱちだ」と抗していく。その二つが交わった子孫としての魔女。だから言い切れない存在なんだよ。

円香 冒頭でテクノペイガニズムの話をしたけど、魔女の人たちはコンピューターを使わなくても瞑想や植物によって肉体を別のリアリティにずっと接続してきているんだよね。片足をそうした別のリアリティに突っ込みながら、一方でもう片足で土を踏みしめてる。そういう風にしてものを考えていくということがすごく大切なんですよ。

磐樹 それに尽きるよね。それこそが最強のインテリジェンスだと思う。その二つを行き来することを許さないのが今日のキャンセルカルチャーだから、くどいようだけど抗わないとね。まあ、いくら僕がそう扇動したところで、へえ、そうですか、みたいな話だろうけれども(笑)

円香 でもさ、さっきも話したように魔女の歴史から考えて絶対にこれはダメなんじゃない? って思うものもあるでしょう。魔女たちもそういうポイントでは譲らないこともあるんじゃないかな。それがポリコレとたまたま被ることもあるから。

磐樹 可能な限りすべての外部に立った時、自ずと立ち上がってくる倫理みたいなものはあると思うよ。イデオロギーではなくてね。さっき話した「一番最後に残ってしまうもの」だよ。だから今日の僕の言ってることは要約すると「腸の倫理に立ち戻れ」ということなんだよね。脳はあらゆることを複雑そうに考えるけれど、どう頑張ってもなんら確証なんて得られない。我々は一度この首を切り落としてアセファルと化す必要があるんだよ。そこからもう一度頭部を戻してVRをやったっていいんだから。つまり、問題はキリストと魔女でも、男と女でも、TERFとTRAでもない。脳と腸の話なんだよ。

 

あの素晴らしいタコ踊りをもう一度

円香 腸の倫理って言葉は面白いね。あ、あと一個話したいことがあるんだけどいいかな? 魔女は確かに曖昧な存在であって、そういう風に言うとものすごく自由で、何にも囚われていない感じに思えるかもしれないけど、一方で「型」というのも大切だと思うんだよね。たとえばレイヴの踊りには型がないの。みんなそれぞれ自由にタコ踊りしてる感じ。でもそれによってみんなの意識を高揚させていくわけで、それはそれですごい力ではあるんだけど、一方で魔女の儀式とかには型や手順があり、決められたチャントがある。そのどっちもが大事なんだよね。

磐樹 この前のインヴォケーション(神降ろし)の練習会で話題になった話だよね。スターホークは割とその時の直感で即興的に踊ったりして神を召喚するんだけど、カヴンによっては儀式魔術を行う際の型をしっかり持っているところもあるから。型の良さって何かと言えば、まず便利なんだよ。「さあ、今あなたが思ったことをアドリブで表現してください」と急に言われても普通の人はもちろんできないんだよね。でも、「この式文を読みなさい」ってだけなら誰でもできる。加えて言うと、実はその式文、つまりは型の中に、巧妙に意識が変容するような仕掛けが組み込まれていたりもするしね。

たとえばインヴォケーションの式文には一定のパターンがあってね、最初は呼び出したい神を「彼」と呼ぶ形で始まるんだよ。その時、例えばトートという神を呼び出したかったとすれば、「おお、トートヘルメス、蛇の杖を持つ【彼】は」みたいに三人称で語り始める。それが徐々に【汝】は、に変わっていく。さらに最終的には【我】は、に変わっていき、つまり「我はトートなり」となる。こうして人称を変えていくことで段階的に意識を変容させているんだよね。

要するに型っていうのはある種の知を保存して効率よく伝播するためのメディアでもあるってこと。フリージャズももちろん最高なんだけど、型の豊かさを知らないままというのもまたもったいないんだよ。

DZ さっきの磐樹さんの話に繋げると型の方が実は腸的なのかもしれませんね。以前、アイヌ文化についての記事で近い話を書いたことがありますが、たとえばアイヌのアイヌらしさとは別にその人の脳の中にあるものでもないんですよね。自らのアイデンティティに誇りがあるならば心の中でそれを大事にしていけばいいんだ、という考え方もあるとは思いますが、実際はその民族の言葉や踊り、タトゥーや文様の中にこそ民族の知が保存されていたりする。意識さえしっかり持っておけば型はどうでもいいという見方はやや頭でっかちで、それこそ脳の人たちの発想なんですよね。

円香 そうだね。その型に身体を寄せることで分かることは絶対にある。リクレイミングスタイルの面白いポイントは、その場で新たな型が生み出されていくところでもあるんだよね。過去に設定された型をただなぞっていくんじゃなく、その場で即興的に変質させていく。実際、型は大事とはいえ、何かを伝播するための手段であって目的ではないからね。だからダイレクトに直感を発動させていってるんだよね。

磐樹 まあ現場では勘所を押さえた人が両方バランスよくやってるってことだよね。型もアドリブも実際にはそこまで明確に峻別できるものでもないし。アドリブでフリージャズをやってても決まりフレーズみたいなものはあるし、自ずとバンドの息が合ってきて曲の最中に型が発生することもあるし。これは脳と腸の連携の問題としては非常に重要なポイントで、僕らはフリージャズの奏者からそこを学ぶべきなんじゃないかな(笑)。まあ、でもこういうのもできる人は結構サラっとできるし、できない人はずっとできないんだけどね。

円香 エリーティズム…(笑)と言ってしまっていいのか、デザイナーを仕事にしてると当たり前のことだけど、美というものを考える上ではそこは確かに切り捨てられないところではあるよね。これは美しくてこれは美しくないという選別がなければ美は高まっていかないし、洗練された型も生まれない。ある意味では残酷な世界。ただ一方でヒッピーのタコ踊りって型もへったくれもないからまるで美しくないんだけど、それがすごい力を持って社会に何かを働きかけたりするわけでしょう? やっぱりどちらも大切なんだよね。洗練された舞踏も、レイブのタコ踊りも。

磐樹 そうだね。その点、日本人は割と型に走りすぎなところがある。踊るという極めて原始的な行為をするためにも振り付けがなければ踊れない人がいっぱいいるんだから。踊りは覚えるものだと思い込んでるんだよ。本来、踊りの基本はタコ踊りなのに。

円香 タコ踊りの中で他の人とのテレパシックな関係が生まれることで場が立ち上がっていくものなんだけどね。

DZ 型に情報が込められているということは、すでに身体に染み付いてしまっている型にもなんらかの情報が含まれているということですよね。あるいはそれが権力として作用することもある。だから、型を得ることが大事であるように、すでに染み付いた型を解くことも大事なんでしょうね。先日、野口整体についての記事を書いたんですが、野口整体には活元運動という即興性をベースとした運動によって身体の不調を経過するという術があるんです。あれもまた、おそらくは身体を統御している型を一旦外すためのメソッドなんじゃないかなと思いますが、とはいえ、外したら外しっぱなしでいいのかといえば、それもまた違う。おそらく人はなんらかの型に縛られずには生きていけないので、その型外しはあくまでも新しい型を創発するための前段階的なプロセスなんだろうなと思いますね。

磐樹 そうだろうね。既存のヒエラルキーに疲れた人がゲームの世界に入っていくという話があったけど、要はそこで求められてるのはゼロリセットなんだよね。ただ、やっぱり日本人はそこでもクリエイティブになれないところがあって、型が外れてもすぐに違う型を学ぼうとしちゃうんだよ。即興によって新たに型を作り出していくという感じがあまりない。

多分、そこも戦後日本の断絶なんだよね。沖縄のカチャーシーとかには型とも即興ともつかない踊りの曖昧さが保存されてるように感じるけど、僕が知る限り本土にはそういうものが見当たらないから。神社でお神楽を踊るためにはまず振り付けを覚えなきゃいけないわけでさ。そこに日本社会の根源的な問題があるのかもしれない。なんせ学校におとなしく通って理不尽な校則に12年間も縛られ続けている国民だからね。戦争に負けたせいかコンセンサスリアリティを盲信しやすくなってる。我々はここらでもう一度タコ踊りを始めないといけないんじゃないかな。

円香 あ、でもパラパラってめちゃくちゃ型の踊りだけど、なんだかタコ踊りっぽさあるよね(笑)

磐樹 あれは見事に様式化されたタコ踊りだよね(笑)

 

 

円香 あれには可能性を感じるな。ヴォーギングとも違う何か。めちゃくちゃ魅力的だと思う。

磐樹 まあ……、ここら辺の話はまた別の機会にもっと詳しく話すとしましょうか。

円香 そうだね、キリがないし(笑)

DZ いや、面白かったです。また是非やりましょう。時間もかなり経ちましたし、一旦ここで対談を打ち切りたいと思います。じゃあ……、そうですね。かなり白々しさはあるんですが、これも戦後の日本人に染み付いた型のひとつだと思うので、一応、言っておきたいと思います。メリークリスマス、お二人ともよいお年を(笑)

 

取材・文/辻陽介

バナーデザイン/磐樹炙弦

 

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磐樹炙弦 ばんぎ・あぶづる Bangi Vanz Abdul/現代魔術研究・翻訳。メディア環境、身体、オカルティズムと文化潮流をスコープとし、翻訳 / 執筆 / ワークショップを展開。翻訳: レイチェル・ポラック「タロットバイブル 78枚の真の意味」 (2013)/ メアリー・K・グリーア「タロットワークブック あなたの運命を変える12の方法」(2012 ともに朝日新聞出版) / W.リデル「ジョージ・ピッキンギル資料集 英国伝統魔女宗9カヴンとガードナー、クロウリー」(東京リチュアル出版) / 心療内科・精神科HIKARI CLINIC フローティングタンク担当。

 

円香 まどか/魔女。南カリフォルニア大学Jaunt VR LabにてInteractive Animation、VR/XRを滞在研究。西海岸の魔女カヴンにて現代魔女宗をフィールドワーク、WitchcraftやModernPrimitiveの実践を行なう。未来魔女会議主宰。

 

辻陽介(DZ) つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。学生時代よりコアマガジン社に勤務しアダルト雑誌などの編集を手がける。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『DOZiNE』の主筆を務める。

 

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〈MULTIVERSE〉

「俺たちはグレーな壁を生き返らせているんだ」──1人の日本人がまなざしたブラジルのストリート|阿部航太×松下徹

「生死観」としての有機農業 ──エチオピアで学んだ生の豊穣|松下明弘

「病とは治療するものにあらず」 ──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「汝はいかにして“縄文族”になりしや」──《JOMON TRIBE》外伝

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

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「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

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「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

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「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

「巨大な夢が繁茂するシュアール族の森で──複数の世界線を生きる」|太田光海 × 清水高志

「反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する」|西迫大祐×塚原東吾