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汝はいかにして“縄文族”になりしや──《JOMON TRIBE》外伝 ❻| 「縄文タトゥーは日本のネオペイガニズムだと思う」|円香(現代魔女)

縄文時代のタトゥーを現代に創造的に復興する「JOMON TRIBE」。その壮大なプロジェクトに自らの身体を捧げる「縄文族」とは一体どのような人々なのだろうか。自身「縄文族」のメンバーである辻陽介が「族」の仲間たちに話を聞く。

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「魔女の友達も呼んでいいですか?」

 と急に言われれば、まあ普通なら驚く。そんな肩書き、普段の暮らしのなかで聞いたことがないからだ。僕はこれを実際に言われた。2019年秋、僕にそう尋ねてきたのはヌケメだった。

 現代の欧米において「魔女」が巨大な文化的アイコンとなっていることはすでに知っていた。ヨーロッパにペストの恐怖が渦巻いていた中世以来、「魔女」であると一方的に名指され、あたかもその大衆的な恐怖を鎮めるために執り行われる供儀のごとく、非業にも火炙りに処された無数の女性たちがいたということはつとに知られている。現代に蘇った魔女たち──現代魔女宗〈ウィッカ〉が、そうした歴史的な「魔女」の表象を現代の視線によって換骨奪胎し、負のレッテルだったそれを逆に自らのアイデンティティとして標榜することで時代に抗する、フェミニズムさえも巻き込んだ政治的かつスピリチュアルなアクティビズムの実践者たちであること、そしてとりわけ今日の若い世代の魔女たちがミレニアルウィッチと称され、欧米のユースカルチャーにおいて衆目を集める最もカッティングエッジな存在として認知されていること──そうしたことも、ぼんやりとではあるがすでに仄聞していた。

 しかし、それはあくまでも海外の情報として、言ってしまえば他人事として知っていただけだった。それまでの人生で僕は「魔女」を自称する人と会ったことはなかった。魔女っぽい人、ならいたかもしれない。しかし、それは「ぽい」だけであって、彼女たちが自ら「魔女」と名乗ったということは一度たりとてなかった。

 LA帰りだという円香はなんら衒う様子もなく自身を「魔女」と名乗った。たしかあの夜はヌケメと三人で、歌舞伎町のダリカレーで路地裏の酔っ払いたちを眺めながら食事を共にした気がする。笑顔がチャーミングで、ともかく饒舌な人だった。LAの魔女カヴンの話、ネオペイガニズムの話、スパイラルダンスの話、ダナ・ハラウェイの話、魔女界の重鎮スターホークの話、円香の仕事であるVR映像制作の話。淀みなく繰り出される円香の魔術的な舌鋒に、頼んだマトンキーマカレーそっちのけで耳を峙ていたのを覚えている。魔女という言葉に連想されるオカルティックな雰囲気は円香から感じられなかった。膨大な知識に裏打ちされた円香の話はいずれも極めてロジカルで、実際、とても明晰な人だった。

 あの時はまだ円香の身体にタトゥーは入っておらず、つまり円香はまだ縄文族のメンバーではなかった。あれからおよそ2年が経ち、現在、円香の身体は縄文の“黒”の文様によって、真に魔術的な身体へと生成しつつある。現代魔女にして、縄文族の、VRアーティスト。鵺どころの話ではない。さしずめカルチュラルキメラとでも呼びたくなる円香の存在は、しかし、今後の日本のカウンターカルチャーシーンにおいて極めて重要なハブとしての役割を担うことになるのではないかと、僕はひそかに睨んでいる。

 ところで、現代魔術研究者の磐樹炙弦は魔女について次のように書いていた。

“魔女は、なにかとなにかの間にいて、見えないけどそこにある繋がりを守護し、媒介する「なにものでもない」存在なのだ。”https://hagamag.com/uncategory/4785

 自分の身体をうつろな土器と見立て、その身を覆う文様によって過去と未来を架け橋する縄文族もまた、魔女と同様に「なにものでもない」存在なのかもしれない。

 だから、今回の問いは必然的にこうなる。汝はいかにして「なにものでもない」存在になりしや。

 


 

円香(Photo by Kenta Umeda)

 

「LAの魔女宗のコミュニティに行ったらみんなタトゥーが入ってたんです」

―円香さんとは2年くらい前にヌケメさんの紹介で会ったのが最初でしたが、当時はまだ縄文タトゥーは入ってなかったですよね。そもそも縄文タトゥーを知ったのはいつくらいだったんです?

「2017年の夏くらいに遠迫(憲英)さんが主催しているヒカリフェスティバルに参加した時ですね。そのフェスに大島さんが呼ばれててタトゥーの公開施術をやってたんです。その時に縄文タトゥーのことも知りました。その後、大島さんのことネットで調べて、うわー、すごいトライバルタトゥーを彫る人だなって思って。それまで私が思い浮かべるトライバルタトゥーといえばポリネシアンのものくらいだったから、それとはまた違うトライバルタトゥーがあるということをその時に初めて知り新鮮だったんです。以来、大島さんのファンになってインスタとかで作品は追ってました」

 

縄文族のメンバーでもあり、本連載の第二回にも登場した、精神科医・遠迫憲英。https://hagamag.com/uncategory/9634

 

―それ以前はタトゥーにはあまり関心がなかった?

「関心がなかったというより、私はそれまでタトゥーに対するいいイメージをあまり持ってなかったんですよ。その原因は私のパパで。というのも、私のパパは昔から体を鍛えてて筋肉がバキバキで、大仁田厚と清原を足したような見た目のイカつい人なんです。タトゥーも入ってて、いつもハーレーや外車を乗り回してた。特に昔はあまり家にも帰ってこなかったし、会話をすることもなかったから、子供目線にもちょっと怖い父親だったんです。だからタトゥーと言えばパパのイメージで、なんていうか子供の頃はヤンキー文化的な怖いものだと思ってました。実家はバーバースタイルの床屋を経営してるんで、あの雰囲気は一周まわって今はイイ感じだと思いますけどね

―その悪印象が大島さんのタトゥーを間近で見たことによって変わったという。

「そう、大島さんのタトゥーはシンプルに美しいと思いました

―でも、それですぐに入れようとはならなかったわけですよね。

「うん。自分にも入れようとなったのは、LAでの経験が大きかったですね。私は2018年の終わりから2019年にかけてアメリカのLAに留学をしてて、その時に現代魔女宗にも接近することになったんだけど、魔女宗のコミュニティに行くとみんなすごい露出度の高い格好をしてて、みんなタトゥーが入ってたんですよ。そもそも西海岸だからタトゥー率は高いんだけど、魔女はカウンターカルチャーとヒッピーカルチャーが交差したところにあるような文化ということもあってなおさらタトゥー率が高くて、2人に1人は入ってましたね

―向こうの魔女たちと身近に接していくうちに、カッコいいな、と?

「そういうのもあるけど、タトゥーの面白さに気づいたんですよね。私は英語に苦手意識があったから、魔女の集会とかに行っても会話の糸口を見つけるのが難しかったんですよ。そういう時、タトゥーが会話のきっかけになることが多かったんです。タトゥーってビジュアルコミュニケーションだから、すごい分かりやすいんですよね。その人の人柄や歴史や興味の置き場とかがパッと見て分かる。実際、日系の魔女は和彫を入れていたり、家紋を入れていたり、大日如来を入れていたり、またある人はトトロやジジなんかのジブリキャラを入れてたりなんかもしていて。みんなタトゥーの柄についての話をきっかけに、その人が好きなもの、影響を受けたもの、家族のルーツなどについて、色々と話してくれましたね

 

アメリカの現代魔女たちを捉えた写真集『Major Arcana: Witches in America』(フランシス・F・デニー)を覗くとタトゥーを入れている魔女が多くいることがわかる。https://clampart.com/2015/10/major-arcana/#thumbnails

 

―確かにタトゥーは街中でも会話のきっかけになりますよね。

「そうそう。あと、魔術やシャーマニズムに興味を持つ中で『モダンプリミティブズ』のこととかも知って、タトゥーの持つイニシエーション的な側面にも関心を持つようになっっていったんですよね。たとえば、ミレニアル世代の魔女たちってオシャレとかネイルとかそういうものすべてを自分をエンパワーメントするための魔法として捉えていて、中でもタトゥーは強力なウィッチクラフト、スペルとして機能していたんです。実際、現代魔女の人たちの中には呪術的な感覚でタトゥーをやってる人とかも結構いました。そうしたことを知っていくうちに、羨ましいな、私も欲しいなって強く思うようになったんです。まあカヴンでは20代から50代までみんな入ってて、むしろ、タトゥーが入ってないことの方が裸みたいで恥ずかしいくらいでしたからね

 

『モダンプリミティブズ』

 

あえて魔女のスティグマを演じることでイメージを変容させるという戦略」

ーそもそも円香さんはなぜ魔女文化に惹かれたんです?

「元々日本にいた時も少し興味を持っていたんだけど、一番最初に現代魔女の活動に触れたのは、実はダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』(ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』所収)の中でスパイラルダンスと魔女たちの反核編み物運動について書かれていたのを読んだ時だったんです。大学生の頃からこのテキストにとても興味があって、さらにその後、かなり経ってからそのスパイラルダンスが魔女の踊りであることを知って。それでアメリカに留学した時、スターホーク(※)と一緒にスパイラルダンスを踊りたくてサンフランシスコへ向かったんです。ソーウィンの夜、数百人の魔女たちが手を繋いで回転するダンスを踊っている様子は感動的でしたね。そのダンスに巻き込まれたまま今に至ってます」

※スターホーク…現代魔女界を代表する理論家、活動家。

 

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ著

 

ーちなみに魔女文化とタトゥーには何か歴史的な関係のようなものがあったりするんです?

「近代の魔女狩りでは魔女の嫌疑がかけられた女性は体に針を刺して魔女かどうか調べられたんですよ。ピアスの穴を魔女の印だと言ったりもするみたい。体に欠損や大きなアザがあると当時は魔女だと疑われたらしく、現代魔女の人達がタトゥーを沢山している背景にはそういう歴史も関係しているようにも思いますね。もちろん、単にアメリカのタトゥー人口が多いということもあるし、彼女たちがタトゥーをセルフエンパワーメントのためのスペル/おまじないや儀式的な経験と捉えてるということもあるんだけど、それだけではなく、あえて魔女のスティグマを演じることによってイメージを変容させるという戦略もそこにはあるんじゃないかなって。

一方で現代魔女を魔女狩りの生き残りである女性の身体、殺し損ねた魔女の孫娘たちであると考える人たちもいますね。たとえばシルビア・フェデリーチは「資本主義に抗う女性の身体」が魔女なんだと言ってるけど、現代魔女たちの実践にもあえて魔女というクリシェを演じるという洒落っ気があるんですよ。それはW.I.T.C.H.のようにアクティビズムの中であえて魔女の格好をする戦略にも通じてる。私たちはそちらの側から世界を見ていますよ、とただ存在することによって何かを訴えかけていくんです。

 

『キャリバンと魔女』シルヴィア・フェデリーチ著

 

あともうひとつ、“魔女のタトゥー好き”には、針を刺されたかつての魔女たちの体験を追体験するというような側面もあるんじゃないかとも思います。痛みから浮上して気づくものって非常に多いので。日本の魔女でも大胆なタトゥーを持つ人、何人かいますよ。私自身、今はどこを刺したらどれくらい痛いか身体を痛みマップとしても捉えられるようになりましたし。

また、トライバルタトゥーの話だと、アイヌや琉球の女性たちのタトゥーというのは山姥、つまり日本の魔女の物語に見られるアーキタイプ、海外の例で言うとロシアのバーバヤガ、あるいはシンデレラのような〈姥皮の物語〉を想起させますよね。人さらいや別のコミュニティに大切な娘を連れさられることを防ぐため、あえて外見を変えてしまうという点において。〈姥皮の物語〉では魔女や老女によって動物や醜い姿に変えられた少女が最終的には無事伴侶を見つけて結婚できるのですが、そうした物語では一見苦痛に見えること、痛みを伴うようなワイルドな試練が、最終的にはもっと大きな危険から少女たちを守るとされてるんですよ。ただ、アイヌにしても琉球にしても、そのタトゥーはとても美しいですけどね」

 

映画『ルクス・エテルナ』、〈魔女の印〉をめぐるシーン。

 

「縄文タトゥーに対しても、これは日本のネオペイガニズムと思って関わってるところがある」

―毒を積極的に受け入れることで身を守るという発想は面白いですね。今日的にはワクチンがまさにそういうものとしてある。ところで、現代の魔女コミュニティはタトゥー以外の身体改造とかにも積極的だったりするんですか?

「そこまで過激な人はいなかったですね。全身にタトゥーとかは普通にいるけど、あとはやってて大きなボディピアスかな。あ、でも武邑光祐さんの『メディア・エクスタシー』って本にサンフラシスコのプログラマーの人たちがボディピアッシングなんかを割とやってるってことが書いてあって、そもそも私はVR/XRの研究のために渡米していたから、個人的にその点は気になってはいます。私が通っていた大学の教授でフーディニのアーティストだった先生も腕に〈23〉ってタトゥーが入っていたし、まあCGアーティストの人なんかは入れてる人が多い印象がありますね。

それでいうと、アメリカのネオペイガニズムをリサーチしたマーゴット・アドラーの『月神降臨』って本にはネオペイガニズム、新異教主義を実践する人たちにはITやテクノロジーの仕事をする人が多いってことが書かれています。魔女は意外にもテクノロジーフレンドリーなんです。今だってZOOMでサバトしてますからね(笑)。アメリカ西海岸ではヒッピーという土壌があって、その土壌の上に現代魔女宗、モダンプリミティブズ、そしてインターネットが勃興するんですよ。身体改造にせよ、魔女にせよ、自分のルーツとかを探りながら、生き方を探求、創造していこうというカルチャーじゃないですか。そういう人たちがテクノロジーの仕事をやってることが多いのはある意味で必然なのかもしれないですよね」

 

『メディア・エクスタシー』武邑光祐著

 

『月神降臨』マーゴット・アドラー著

 

ーデジタルテクノロジーの業界というのは、ある意味でフロンティアですもんね。それこそインドでIT産業が大きく盛り上がったのはカースト制の中でアウトカーストとされる人たちがそこに流れ込んだからだと言われているじゃないですか。今までになかった新しい職業だから、従来のヒエラルキーと関係なく就くことができ、そこに彼らはエクソダスを求めたんだ、と。そういう意味では新しい分野を開拓していこうとする人が自分の身体に対してもアグレッシブな実践者であるというのは、しっくりくる気もします。

「あとはコンピューターとかの仕事をしているから逆にその反動でプリミティブな方向に向かってるというのもある気はしますね。同時に金属みたいなものを常に体に繋いでおくことでサイボーグ的な感覚も味わってるように見える。タトゥーみたいに体の中に異物を入れて楽しんでいる感じ。未来志向と過去志向のどっちもあるのかなって気がします」

ーそれこそ90年代の身体改造ムーブメントはモダンプリミティブズの流れがサイバーパンク的な想像力と接続することによって盛り上がっていったという側面もありますからね。

「ネオペイガニズムの中でも女神信仰というのは要するに、主流派であるキリスト教の世界観に対して、女性たちがこんな性差別的な宗教は私たちには合わないんだと言って起こしたある種のフェミニズム運動なんですよね。フェミニスト神学の影響とかもある。キリスト教以前の土着の宗教や信仰から様々な要素を抽出して、私たちの感覚、個人的な経験によって再構築したものを武器に、主流派の価値観に対抗していく。それはもうスターホークが言うように、リクリエイトなんですよ。昔あったものをそのまま復元しますとかではないんです。

 

スターホーク(画像引用元:Starhawk and the Remaking of the American Spiritual Landscape )

 

現代魔女宗というのは自分たちでキリスト教以前の多神教や土着の宗教、文化人類学の資料や西洋の儀式魔術、その他のブードゥーやネイティブアメリカン、メキシコなど様々な呪術やシャーマニズムなどを参考にしながら、それらの要素を折衷して作っていく文化で、だからそのありかた自体が今のネオトライバルタトゥーに似てるんですよ。ネオトライバルタトゥーもまた各地にあった様々なトライバルな文様文化を、あるときは文化人類学者の資料から繋いで再構築したものじゃないですか。

だから私は縄文タトゥーに対しても、これは日本のネオペイガニズムと思って関わってるところがあるんです。それがどんな柄であれ、その体験を通して私たちが感じることになる身体的な変容や昂揚そのものは普遍的なものですよね。私も縄文時代の人も大して変わらない。縄文タトゥーがどんな魔法を私にかけてくれるんだろうと興味があったんですよ。あと日本のネオペイガニズムといえば、日本では現代縄文魔女術実践集団を標榜し、ウィッカではない日本のウィッチクラフトに真剣に取り組もうという人たちもいます。面白いですよね」

ー歴史から様々なエッセンスを引き出してきて、それをブリコラージュしていくという点では現代魔女文化とネオトライバルタトゥーは本当に近い気がします。それこそ縄文タトゥーとの共通点で言うと、縄文人も魔女も実は外部によってそう名指されただけの呼称に過ぎないんですよね。それらは中心からのまなざしによってつくられた周縁的な存在であって、かつてそのように自称していたものたちがいたわけではない。だけど現在、縄文タトゥーにおいても魔女においても、そうした歴史的背景を逆手にとって自ら積極的にそのアイデンティティを自称しているわけです。そうした戦略の面においても似ている気がします。

「そうそう、共通点が多い。あと魔女と裸体との間にも深いつながりがあるんです。現代魔女宗はヌーディストのおじさん、ジェラルド・ガードナーという人が始めたものなので、儀式も裸体で行われることがあるんですよ。女神信仰のレズビアンカヴンも80年代は野外で裸体儀式を行っていたそうです。キリスト教以前の信仰や魔術的な身体を再構築していくという点で言えば、日本では江戸時代まで混浴文化でしたし、風景の中に裸体はごくありふれたものとして存在していたはずですよね。刺青も目にすることが多かったと思う。だけどその後、キリスト教宣教師たちが来日し、明治には脱亜入欧のスローガンのもと、「違式詿違条例」によって裸体と刺青が禁止されてしまったわけです。これも当時の政府が欧米人から裸の人が闊歩する野蛮な国と見られることを恐れたからですよね。キリスト教のまなざしが流入することによって初めて裸体が野蛮さと結びつけられていったんですよ」

 

 

「タトゥーってやっぱりシャーマニズムですよね。絵を描いただけでこんなに怒られること他にないですから」

ーここで少し話を戻しましょうか。円香さんが実際に縄文タトゥーの施術を始めたのいつ頃でしたっけ?

「2020年の6月くらいからだから1年ちょっと前ですね」

―まだ完成していないとはいえ、面白いデザインですよね。まさに魔術的な感じがあって。

「デザインに関して私はコレとコレとコレ三つを組み合わせることはできませんかと、自分でモチーフを持っていったんです。背中に入れてもらった世界中のストーンアートに見られるフォームコンスタントという渦巻きになる前の円と、幻視を連想する反応拡散系の文様、あとはダブルスパイラルの渦巻き。この渦巻き、縄文文様としての渦巻きではなく、魔女のスパイラルダンスの中で使われている渦巻きなんですよね。でも縄文土器なんかにも似たような渦巻きが使われてる。それらを大島さんが構成したものを入れていただいてます。

私は以前DNA鑑定で自分のハプログループを調べたことがあるんですよ。それによると、どうやら自分は海底に沈んだ「スンダランド」からやって来たらしくて。つまり、私は割と早い時期に日本列島に入ってきた縄文人の子孫でもあるんです。そういう風にDNAレベルで考えると、まぁ縄文も面白いは面白いんだけど、遡ったらやっぱり人類ってみんなアフリカから繋がってるということに思い至るわけじゃないですか。だから私は縄文のモチーフをもっと幾何学的な普遍的な要素に分解してそれをブラックワークとして再統合したら面白くなるんじゃないかなと思ってて、大島さんにはそういう意図も汲んでもらったんですよね」

 

Photo by Kenta Umeda

 

ー実際、各地のトライバルタトゥーを眺めていると、それぞれ相互につながりを感じますしね。円香さんのタトゥーでは特に中心の円が象徴的で、縄文的でもありながら、同時により普遍的なイメージに訴えかけてくるものを感じます。

「これも持ち込んだモチーフだけど、大島さんがアレンジして気がついたら玉抱三叉文(たまだきさんさもん)になってた。縄文文様には玉抱三叉文という三角と丸を組み合わせた文様があるんですよね。琉球のハジチとかも丸と三角で構成されているじゃないですか。やっぱり日本列島にはあるんですよね、そういうシンボルの体系が。でもそれも彫り終わってから気がついたんです。最初は円香だから円を背中の真ん中に描こうか、みたいな感じでサラッと決まっていったので」

 

Photo by Kenta Umeda

 

ー実際、入れ進めてみて、体感はどうですか?

「すごく変わりましたね。何より身体に対する自分の意識が変わった気がする。まずすごく痩せた。9kgくらい痩せましたね。入れてることによって自分の身体を見たり意識したりする回数が増えるじゃないですか。そういう時間が長くなるので、もっとこうしていきたいなとか、そういう意識が高まっていくことで食生活とかも見直すようになって。あと、もっと傷の治りが良くなるように健康状態を整えたくなったり。だから生活自体も変わりました。運動とかストレッチ、ヨガもすごいするようになったし」

ータトゥーが生活の中心になっていく感じですよね。

「そうですね。対人関係での変化、というか問題となっているのは、自分の母親ですね。超反対。私も親不孝だとは思うけど、私の父親、首とか手の甲にまでタトゥー入ってるんですよ? なんていうのかな、そういう話って平行線にしかならないんですよね。私はタトゥー入れたいです、向こうは娘が入れるのは嫌です、みたいなのって落としどころがない。でもタトゥーってやっぱりシャーマニズムですよね。絵を描いただけでこんなに怒られること他にないですから。人間関係を不可逆的に変えてしまうところはやっぱりブラックマジックだなって思う」

ーあの過剰なリアクションを引き起こすということがタトゥーという行為の持つ力を逆説的に示しているんですよね。特に日本ではそれが顕著です。「My Body is My Choice」という感覚が薄くて、良くも悪くも自他の境界が曖昧。西洋的な視点に立った場合、タトゥー裁判なんてものを今更しなきゃならないとかどれだけ後進国なんだよと思う反面、この列島はタトゥーの力がいまだ奇妙に活きている面白い環境であるとも言えるんですよね。

「わかる。ただ、確かに日本でタトゥーをやってる人は差別、偏見にさらされる立場になることを分かってそれをやってて、そういう意味では周囲の反応とかも織り込み済みだとは思うんだけど、オリンピックに合わせてタトゥー入場緩和をしてた施設が今になって規制を再度かけ始めたりしているのを見ると、なんだかなあとはなりますよね。昨日もあるお風呂施設に行ったんですけど、そこは以前は大丈夫なのに今ではダメになってて。でもさ、そのお風呂施設、本棚とかにはカウンターカルチャーやリベラル系の人が好きそうな意識が高めな本を置いてたりするんですよ(笑)。そのくせにタトゥーは追い出すのかよと思うと、全部バカバカしく見えてきますよね。思わず吹き出しちゃった」

ーそういう軽薄さは至るところにありますね。ある一部の人たちしかくつろぐことができないようになっている公園とか。どこが「公」なんだ、と。そうしたところも、あえてこの立場に身を置いたことで今まで以上に見えてきたことではあります。

「うん。多分、この立場になっていなかったら気づかなかっただろうなっていう欺瞞は色々とある。意識高そうに振舞っていながら実は特定の人たちに対しては排外的に振舞っている人ってすごく多い」

ー分かります。脱線ついでにちょっと雑談しちゃうと、入場規制を是とする理屈も大概おかしいんですよね。「自らそれを選択した結果だ」「分かっていてやったんだろう」みたいな話って人間理解の解像度がめちゃくちゃ低いわけです。あるいは「日本でタトゥーを入れるなんてデメリットしかないのにそれを分かってるのに入れる人はバカだと思う」といったようなことを得意げに語って、まさに自らのバカさを晒している人までいる。そもそも何かをするというのは、その人にとってはその行為が止むに止まれず必要であるという側面が少なからずあるわけですよ。その人がその人として生きていくためにはタトゥーがどうしても必要だったのかもしれない。単に選択の自由と自己責任のバーターのみで語れる話では当然ないんですよね。

「まあ宗教のようなものだからね。だから、最近はやっぱりちゃんと言ったほうがいいのかなって思ってきた。たとえばネットに『タトゥーの人がサウナに入ってて怖いです』みたいなレビューがいっぱい書かれちゃうと、タトゥーをOKにしてる店舗側としてはタトゥーをOKにしていることのメリットがなくなってしまうわけですよね。でも、実はそんな文句を言う人って全体のほんの一部じゃないですか。そもそも恫喝したとか実際にもめてるケースほとんどないでしょ? するわけないよね、私みたいな普通の人がタトゥー入れてるんだから。

それなのに私たち側はまるで文句を言わないからあたかも世間にはそういう声しか存在しないように見えてしまうところってあると思うんです。実際、私たちは入れるよって言われたら入りに行くけど、ダメってされてたらそこに行かないだけですよね。私とか辻さんにしても、別にそういう状況があることは昔から知ってるから黙ってる。そうなると結局、『怖いです』『ガラが悪いです』って言ってる人たちの声だけが通るようになる。経営判断としては折れてっちゃう人も多いと思うんですよね。だからもうちょっと基本的なレベルの話として、見た目で人を判断してはいけません、それは差別です、と言葉にしていった方がいいんじゃないかなって思うんです」

ー明らかに差別だとは思いますね。なんならそういう施設を疑問もなく使用している人はその時点で差別の加担者であるとさえ言えるとも思う。僕自身、その差別に現在進行形で加担してる。実際、施設側には悪気があまりないわけですよね。だから放置してるわけだけど、大概の差別がそういう感じで悪気なく追認されているんだろうなとも思う。あるいは、そもそも日本でタトゥーを入れてる人には明確な思想信条とは別に、アナーキーなタイプの人が多いと思うんですよ。そりゃこれだけ偏見がある中ですからね、自ずとそうなる。俺らは俺らで勝手にやるんでっていうスタンスの人が多くて、だからいわゆる社会運動的なものには結びつきづらいんだろうな、とも思う。

「それはありますよね。とはいえ、このまま放っておくのもどうなんだろうね」

―僕自身、そこは煮えきらないですね。性格が悪いもんだから、たとえばタトゥーに対して好意的で「タトゥーはこんなに面白くて美しいのに差別するなんておかしい」と言ってる人たちとも、素直には肩を組めないところがあるんですよ。そんなにタトゥーをいいと思うなら「じゃあ入れればいいのに」と思っちゃうところがある。というのもシンプルな話、タトゥー人口が増えれば状況は変わるんですよね。数の論理が正しいとは思わないけど、とはいえ数の論理は強い。タトゥーに興味はあるけど「お風呂に入れなくなるから」という理由でタトゥーを入れないということ自体が状況を固定してるところがある。「社会が変わったら私もタトゥーを入れるのに」というのは順序が逆で、実際は「あなたがタトゥーを入れれば社会が変わる」んです。もちろん強制するようなもんではないですけどね。

「それはそうだと思う。だから私に今やっているアクティビズムがあるんだとすれば、『タトゥーって面白いよ!』と周囲に布教してまわること(笑)。だって私みたいにヤクザでもなんでもない人間がこんな感じで全身に入れようとしてるんだよ?  でも実際に、私がタトゥーの魅力を吹聴しまくってたら、ここ1年だけでも知り合い3人くらいがタトゥー入れたんだよね。そんな感じで増えていくのは単純に面白いし、それで世の中を包囲していくことができたら、状況は変わりますよね。タトゥーを入れている人をいちいち排除してたら商売に支障が出るところまでタトゥー友達を増やしていくしかないんだと思う。

ただ、そうとはいえさ、『タトゥーを見ると不快だ』みたいなことを平気で言えちゃう人がいる状況はどうかとは思うな。それって『見た目が怖いから不快なんだ』と他人に対して言ってるわけで、大島さんも話してるけど、そういう個人的な感情って大人なら飲み込むべきものだと思うんですよね。私は悪い子たちの言う「タトゥーはみんなが入れられるものでないから価値がある、お茶の間に出せるものでないからかっこいい」という話もそれなりにわかるんです。知り合いの彫り師のトマストマスは『イギリスの状況はこの25年間で大きく変わった。誰もがワンポイントのタトゥーをポンポンとカタログから選んで彫れる分、タトゥー自体が珍しいものではなくなった』と言ってました。でも彼は日本に来て、『日本ではまだタトゥーが特別で、どんな小さなタトゥーにも大きな意味がある』とも言ってて。そういうことを思うと、タトゥーに対する偏見が強いことは単に悪いことだとも言い切れない。だからこそ、今の日本でタトゥーを入れる場合、両方体験できてお得なんですよね(笑)」

 

Photo by Kenta Umeda

 

血を流しながら考えているということ、それこそが面白い」

ーいま円香さんは体がどんどん黒く染まっていってるわけだけど、最初と比べてテンションに変化はあります?

「もっと黒くなりたいよね。黒くなることの何がいいことなのかはよく分からないし、自分がそう感じる理由も分からないんだけど、でもどんどん黒くなっていきたいって思う。そこに美しさを感じているんですよね」

ーそれは大島さんの作品写真をインスタで見ていた時から感じていたこと?

「もちろん当時からカッコいいなって思ってたけど、やっぱり写真とかで他人事として見ているのと、自分の身体が黒くなっていく過程を直に自分ごととして体験していく中で感じる美しさとは違いますよね。辻さんも黒くなっていく自分を美しいと感じません? 大島さんのインスタのアカウント名『BLACK_ADDICT』だけど、まさにアディクトしてる感じがある。なんでアディクトしているのかが分からないだけで」

ー個人的にはアディクトしているというよりパラサイトされていると言った方が感覚的に近いかも。縄文タトゥーを入れ始めてから、自分自身の主体性がどこか奪われているような、乗っ取られているような感じがするんですよね。僕がというより、僕に寄生しているこの黒い文様が繁殖したがっているっていう感覚なんです。

「不思議だよね。魔法にかかっていってる感じがする。実際、クセになるんだよね。彫ったばっかの時はめっちゃ痛いし、ケアとかも面倒なんだけど、2週間くらい経つとまた入れたくなってくる。入れに行く日が待ち遠しくてワクワクしてくる。それが不思議。この前、遠迫さんと話したんだけど、遠迫さんは一通り完成しちゃったから、今すごく寂しいって話してて。でもこれは依存なんだよねって言ってた。だから多分、タトゥーには依存性があるんだろうね。私も絶対に入れ終わったら遠迫さんと同じ気持ちになる気がする」

ーだから亜鶴さんみたいに際限なく増えていくんでしょうね(笑)

 

亜鶴さん

 

「実は私の夫もタトゥーを入れ始めたんだけど、それ以来、二人でたまにブラジリアンワックスをやるようになったんですよ。たまに夫のお尻の毛とかをブラジリアンワックスでベリって剥がしてるの。『いってえええええ』みたいに叫んで悶絶する夫を見るのが面白くて(笑)。痛みを与え合うコミュニケーションって深いのかもしれないって感じ始めてる。それこそSMってそういうものなんだろうけど。血を流しあう関係っていいなって。あ、そうそう。以前、辻さんに言われたことで覚えてることがあって」

―なんか言いましたっけ?

「確か新宿の喫茶店で会った時かな。『円香ちゃんと僕は考え方とか全然違うと思うんだけど、タトゥーを入れているというその身体性において信頼できる』って。考えている内容よりも、どうやって考えているかの方が大事で、そういうところにシンパシーを感じるって言ってたんですよ。それが最近すごくわかってきた。血を流しながら考えているということ、それこそが面白いんですよね。だから、縄文族のつながりもそこにある気がします。そういう方法を使って何かを考えようとしている人たち、というか」

ーそうかもしれない。

この間、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』って映画見たんだけどさ、多分それは三島が全共闘との対話の中で言ってたこととも近い気がする。『全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人たちのうぬぼれというものの鼻を叩き割ったという功績に絶対に認めます』っていうやつ。思想は互いに違うんだけど、三島も全共闘も共に暴力を否定していなくて、その情熱において三島は彼らにシンパシーを感じたわけですよね。そういうところなんだと思う。それも縄文タトゥーをやってみなければ分からなかったことだなって」

 

 

―共感します。僕はその意味においていわゆる想像力というものを全く信じてないんですよね。では長くなりましたが最後に、あらためて円香さんが考える縄文タトゥーの面白さを教えてください。

「私はアニメーションなどを専門にやっているんだけど、アニメーションには生命を吹き込むと意味があるんですよね。そう考えるとアニメーションはまさにバーチャルリアリティなんです。でもタトゥーは私が生きて血を流しているというリアリティそのもの。そこから多くの気づきを得ています。タトゥーはただウギャーって血を流してるだけではなくて、治す過程も含めて大切に仕上げるものなんですよね。そういう自分の体へのケアを通じて、自分の体の回復力を信じることができるようになるし、なにか自分の体に今まで感じたことのないような愛着を感じるようになる。そして何より、私が死んでしまったら私の体と共にこの作品も同時に失われる。一回死んで、蛇のように再生し、いつか朽ちていくということ、そこに尽きせぬ面白さを感じています」

 

Photo by Kenta Umeda

 

 


 

 円香と話していると楽しい。思考の連鎖に導かれるように話題がとめどなく変転していくのだ。いつも気がつくと思いもよらなかったところに言葉が漂着している。かと思えば周りめぐってまた元の話に戻っている。だけどその時、さっきよりもちょっとだけ、話の抽象度が上がっていたりする。あたかもくるくると旋回しながら少しずつ上昇していく螺旋階段のようだ。魔女たちがカヴンで踊るというスパイラルダンスも、あるいは身体性の伴った抽象化のプロセスとして機能しているのかもしれない。

 輪になってぐるぐると回る──と聞けば、思い出すのは『ちびくろサンボ』だ。今の若い人たちは知らないかもしれない。そういう絵本が昔あったのだ。物語の詳細については省くが、ある時、サンボは虎に狙われ、逃げようと試みるも追い詰められてしまう。窮地に立たされたサンボは身につけていた洋服を虎たちに譲ることで、かろうじて一命を取り留める。すると、今度は虎たちが戦利品をめぐって仲間割れを始める。奪い合いをしながらヤシの木の周りを輪をなして回転し続けた虎たちは、畢竟、ドロドロに溶け出してバターになってしまうのだった。

「それがどんな柄であれ、その体験を通して私たちが感じることになる身体的な変容や昂揚そのものは普遍的なものですよね」

 円香はそう話していた。おそらく円香にとっては、魔女も縄文もかりそめの特異点に過ぎないのだろう。そのスパイラルダンスの先に見据えているのは、バターのように溶け出してなにものでもなくなったものたちが棲まう、普遍性の大洋なのだろう。

 円香の話にもうひとつ思い出したことがあった。鈴木大拙の話だ。大拙はその著書『日本的霊性』において、個であることは即ち個を超えるとであり、個を超えることは即ち個であることだと説いていた。「個己即超個己、超個己即個己」。一見難解なこの言葉も、タトゥーを例に考えると納得がいくのだ。

 たとえばマオリの男性の顔を埋め尽くす〈モコ〉を思い出して欲しい。近代に毒された我々はともするとタトゥーに個性化の作用ばかりを認めてしまいがちだが、マオリの顔面タトゥーはむしろ外部の視線に対してその者の顔相の個別性を消却する働きを持つ。ありていに言えば、顔面に〈モコ〉が施されることによって、みんな似たような顔になって見分けがつきづらくなる。それはちょうど映画『V フォー・ヴェンデッタ』で用いられ、その後ハッカー集団〈アノニマス〉のシンボルともなったガイ・フォークス・マスクと同様に、個人の匿名化、すなわち「超個己」に関わるものなのだ。

 一方でマオリのタトゥーの文様構成はひとつとして同じものが存在することがない。その文様構成にはその個人の来し方が反映されており、集落の内部においてはある個人を識別するための身分証明書的な役割を果たしているとも言われる。つまり当人にとってみれば、〈モコ〉はモダンタトゥーと同様、「個己」に関わるものとしてもあるということだ。

 すると、〈モコ〉においては顕名性と匿名性、個己と超個己の二律が背反することなく、それらが同時に働いているということになる。そしておそらく、それは〈モコ〉に限らず、あらゆるトライバルタトゥーが普遍的に有する性質でもある。つまり、タトゥーは、我々を私へと、私を我々へと、同時に、矛盾なく、生成する。これを魔術と呼ばずしてなんと呼ぶべきだろう。

 果たして、この魔術が現代においてどう機能することとなるのかは、分からない。縄文族プロジェクトの行く末にその答えがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。いずれにせよ、すでに針は穿たれている。もう後戻りはできない。彼方に見据えた大洋へと辿り着くその日まで、流血のスパイラルダンスはいましばし続いていく。

 

(文/辻陽介)

 

汝はいかにして縄文族になりしや⑦を読む>>

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。『BABU伝—北九州の聖なるゴミ』を弊誌にて連載中。

 

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〈INFORMATION〉

〈Movements Oneness Gathering 2021〉にて大島托と縄文族によるトークセッション開催

 

 

2012年に長野県で開催された『ONENESS CAMP 〜縄文と再生』より9年。代官山UNITでの開催を経て、東京都下のパーティ聖地おおばキャンプ村にて、 再び野外の集まりを開催します。 見えないものを想像し、自ら世界を創造すること。 生命を祝福し、再生する力。 変異を続けるウィルスとの戦いは続き混迷する世の中。 大いなるONEENSSと繋がり生きる叡智を感じ取るトライバル・ギャザリング。

10月9日、18時からは縄文族によるトークセッションを開催。出演:大島托(タトゥーアーティスト)、辻陽介(HagaZine編集人)、円香(映像作家・魔女)、J.A.K.A.M.(DJ/プロデューサー)。

日時 : 2021年10月9日(土)〜10(日)
開場 : 11:00, 開始 : 15:00
場所 : おおばキャンプ場(東京都西多摩郡日の出町大久野3741)

HP:https://onenesscamp.org/index_renew_present.html

 

 

〈MULTIVERSE〉

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義