汝はいかにして“縄文族”になりしや──《JOMON TRIBE》外伝 ❹| 「タトゥーを入れて以来ずーっとうっすらアガってる感じがある」|ヌケメ(アーティスト)
縄文時代のタトゥーを現代に創造的に復興する「JOMON TRIBE」。その壮大なプロジェクトに自らの身体を捧げる「縄文族」とは一体どのような人々なのだろうか。自身「縄文族」のメンバーである辻陽介が「族」の仲間たちに話を聞く。
まだ会ったこともない縄文族のメンバーから話を聞き取ることがこの企画の骨子だったはずが、旧知の間柄の人間ばかりが続いてしまった。そこには理由がある。遠迫と亜鶴からの聞き取りを行ったのは、共に7月末に行われたケロッピー前田による縄文族撮影会の待合室だったからだ。
部屋に入った瞬間、ギョッとした。待合室では早くも、遠迫と亜鶴がタンクトップ姿で横並びに座って酒を煽っていたのだから無理もない。共に筋肉狂のガチムチ系、加えて全身が真っ黒いタトゥーで覆われたネオ縄文人だ。実写版『北斗の拳』の控え室にでも迷い込んだのかと、割と本気でたじろいでしまった。
その日はもう一人、すでに僕と旧知の間柄であり、弊誌でも対談連載を抱えているある人物がそこを訪れていた。ファッションデザイナーでありアーティストのヌケメだ。
一般的には「ヌケメ帽をつくった人」として知られているのではないかと思う。いや知りません、という方のために一応説明しておくと、ヌケメ帽とは詩人である辺口芳典の散文をクラウンに刺繍したキャップのことで、2008年のリリース以降、デザイナーであるヌケメの人となりを体現するような口当たりの良いポップさ、加えてアングラ感の漂うキッチュさも兼ね備えたミニマルなデザインによって、幅広い層からの支持を集め続けているヒットアイテムとなっている。その他、あえてミシンに不具合を引き起こして作るグリッチ刺繍シリーズ、ヌケメバンドとしての音楽活動、X JAPANのToshiのパロディであるToshishiとしてのパフォーマンスなど、一貫性があるのかないのか分からない多彩な表現活動も行っているヌケメだが、そのヤマタノオロチのごとく多岐に渡った活動の詳細についてはここではひとまず触れない。取り急ぎここで重要なことはひとつ。このヌケメもまた、全身を縄文文様に彩られた“縄文族”の一人である、ということだ。
実は、ヌケメと遠迫とは縄文族メイトでありながら、リアルな親戚関係にもある。当然、ヌケメも岡山県出身。一体いつから岡山は奇人産地になったのだろう。桃太郎、いや、ビジュアル的には退治され損じた鬼の末裔だろうか。そう言えば、あの甲本ヒロトも岡山出身だ。いずれにせよ、この二人の存在によって、いまや僕の頭の中で岡山という地は、日本の新たな魔境として思い描かれるようになっている。
さて、ヌケメさん、汝はいかにして縄文族になりしや?
「いや、辻さんでしょ、引き込んだの」
ああ、忘れてた。ヌケメを縄文族に勧誘したのは僕だった。
パーソナルってアシッドのこと?(ヌケメ帽2より)
「有名占い師に『彫り物のモチーフは何がいいですか』って聞いたら『天女です』って言われて」
──ヌケメさんは縄文タトゥーがファーストでしたよね?
「そうですね、ファーストでいきなり全身入れました」
──タトゥーへの関心はいつくらいからあったんです?
「やっぱり遠迫さんが入れたのを見たのが大きかった気がしますね」
──「おじさんタトゥーがっつり入れとる」みたいな?
「そうそう(笑)」
──それまでの10代、20代の時期は特別タトゥーに関心はなかったんです?
「なかったですね。なかったから入れずに来たんです。ピアスも一つも開けたことがなくて、タトゥーも全然。それについて考えてもこなかったっすね」
──じゃあ本当に遠迫さんのを見て「おお」ってなったのが最初なんですね。
「色々と重なったんですよ。遠迫さんのタトゥーを見た時期というのがちょうど6年間付き合っていた彼女と別れたタイミングだったんですけど、まあその彼女が結構束縛が強めの彼女だったんです。普通に仕事の飲み会とかでも終電で帰ると『不安だった』って言ってぼろぼろ泣いてたり。だから、その彼女と付き合ってる間は飲み会もしないような生活を続けてて。それで別れてひとりになった時に、今までできなかったことを全部やろうと思ったんですよね」
Nukeme and GraphersRock “Dear Supreme Dear Play” 2016/Embroidery, Supreme hats, PLAY garments(Photo:Hidemasa MIYAKE)
──分かりやすい反動ですね(笑)
「そう(笑)。そもそも遠迫さんとは親戚ではあるんですけど、近い親戚ってほどでもないからずっと会ってなかったんですよね。で、その時期にあらためてSNSを通じて再会して。ヒカフェス(※)にも行ってね。そうした色々なものの中にタトゥーもあった感じです」
※遠迫憲英が院長を務めるHIKARIクリニックが不定期に開催している精神医療とカウンターカルチャーの祭典。
──タトゥーと言っても色々とあるわけですよね。最初からいきなり縄文タトゥーでいこうと思ったのはどういう?
「いや、辻さんでしょ、引き込んだの(笑)」
──そうだった(笑)
「まあ、自分の中でいくつかタトゥーのチャートがあったんですよね。まず一番初めに、好きなものをたくさん集めて全身にポコポコ入れていくか、あるいは全身一つの柄でいくかっていうチャートがあって、それでいうと僕は極端な性格なので全身ひとつの柄でいきたかった。で、ひとつの柄でってなると、次に和彫かトライバルかっていうざっくりしたチャートがある。和彫はすごくかっこいいけど、僕個人としてはそこまで思い入れはない。じゃあトライバルか、となるわけだけど、今度はどこのトライバルを入れるんだってチャートが出てくる。ここで悩みました。自分の人生にあまり関係ないトライバルを全身に入れるのもなんかしっくりこないなあって思ってた時に、辻さんから縄文タトゥーのコンセプトをあらためて聞いて、縄文だったら自分も無関係ではないし、面白いんじゃないかと思ったんですよね」
──あれ、占い師になんか言われたって話してませんでしたっけ。
「そうそう。タトゥーを入れたいって思うようになった頃、たまたま有名な占い師さんに占ってもらうタイミングがあって、その人に『彫り物入れようと思うんだけどモチーフは何がいいですかね』って聞いたんですよ。そしたら『天女です』って言われて。天女かぁ、と。僕的に天女はちょっと嫌だったんですよね。偏見ですけど僕が入れたらスケコマシ感が強くなる気がして。ただ、それでいうと土偶って女性の身体を象っているように見えるじゃないですか。ある意味、女神って言えなくもないん。だったら縄文タトゥーでもいいんじゃないかなってなったんです」
──土偶は天女なんだ、と。
「そう思ってたんですけど、最近、竹倉史人さんって人が『土偶は食い物の象徴だ』って新説を出してきて、あれ、女神でもないかもしれないという。どんぐりとか芋とかかもしれない」
──SNSでも話題になってましたね。縄文ZINEの望月さんがnoteに書いた批判文を含めて面白かったです。
「まあほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれませんけどね」
──ただ縄文族にとっては自分たちがどんぐりなのか女神なのかは結構大事なポイントですよ(笑)
「別に僕はどんぐりでもいいんですけど(笑)」
『土偶を読む』を読んだけど|縄文Zine_note
https://note.com/22jomon/n/n8fd6f4a9679d
話が縄文土偶のシンボリズムに及んだところで、補足も兼ねて少し縄文タトゥーについて解説をしておきたい。女神、どんぐり、果ては宇宙人まで、縄文土偶が表していたであろうものに関しては確かに諸説あるのだが、こと「JOMON TRIBE」プロジェクトに関して言えば、縄文文様のシンボリズムとして最も重視されている存在は「蛇」だ。
たとえば、僕の背中の中心にある二重丸、これは「ジャノメ」と呼ばれていて、つまりは蛇の目玉のことである。あるいは「JOMON TRIBE」の作品には、蛇の鱗状の皮膚を象ったような六角形の幾何学的なパターンもしばしば用いられている。その代表的な作品例に、このシリーズ第一回の最下部に写真を掲載した、中国人アーティスト・小愛に施されているタトゥーがある。あれなどはまさに、「蛇女」というコンセプトのもと、小愛の全身を蛇の鱗状に覆い尽くしたものだ。
縄文タトゥーのデザインの全てを手掛けている大島托に「蛇」の霊感を与えたのは、同じ名字の考古学者・大島直行だった。その著書『月と蛇と縄文人』において、大島直行は次のように書いている。
縄文土器にはそれとわかるデザインで『蛇』がよく登場します。とくに関東甲信越地方の縄文時代の中頃の土器に蛇がたびたび描かれることはよく知られています。蛇は、神話世界においては月の性格を分有するものとして描かれます。脱皮や冬眠が『不死』と『再生』のシンボルとされ、男根になぞらえられて、女性が身ごもるための水(精液)を月から運ぶと考えられるのです。
古くはヤマタノオロチから楳図かずおの『へび女』に至るまで、蛇がある種の元型的な想像力(©︎C.G.ユング)に訴えかける力を持った存在であることは、多くの人にも体験的に納得のできる話だと思う。縄文人もまた、蛇にある種の神的性格を認め、その身に蛇の文様を纏うことによって、蛇のもつ霊力を得ようとしていた——というのが、JOMON TRIBEが縄文時代のタトゥーの再現にあたって立脚している仮説だ。
あるいは、この仮説を別の角度から補強することもできるかもしれない。たとえば、『人間はなぜ歌うのか?』の著者であるジョーゼフ・ジョルダーニアは、道具を持たなかった頃の人類が、身体を装飾し、かつ歌い踊ることで、肉食獣の脅威から身を守っていた(また肉食獣を蹴散らすことで獲物の屍肉を奪っていた)可能性を指摘している。それ自体、芸術の起源にも関わる実に興味深い仮説だと思うのだが、とりわけここで注目すべきは、そうした事例のひとつとしてジョルダーニアが挙げている「眼点」と呼ばれる身体装飾だ。
アフリカの諸部族が目の模様をボディペイントの一部に取り入れていることはつとに知られている。蛾や蝶がその羽を彩る眼状紋によって天敵から身を守っていたように、ジョルダーニアによれば人類もまた、たとえば瞼の上に眼点を描き、睡眠中も肉食獣にまなざしを与えることで、身の安全を図っていたとされているのだ。このジョルダーニアの説を裏付けるように、昨年にはオーストラリアのニューサウスウェールズ大学の研究チームが、家畜の牛の尻に目の模様を描くことで、肉食獣からの襲撃を回避しやすくなるという研究結果を発表している。こうした知見を踏まえるならば、縄文人が精神的な意味のみならず、リアルに差し迫った生存戦略の一環としてその身体に蛇の文様を描いていたということも、十分に考えられる話だろう。
ところで、大島直行はこうも書いていた。
蛇の不死や再生に気づいていた縄文人は、きつく絡み合うオスとメスの交合の様子を『縄』で模倣し、土器の表面に回転したり押しつけたりして、『縄文』として表現したのです。
実はヌケメの縄文タトゥーの文様は、他の作品とは全く異なるプロセスによって描かれている。踏襲したのは他でもない。縄文人による「縄文」作成方法だった。
「人間関係は変わりましたね。結局タトゥーが原因で離婚したんで」
──ヌケメさんの柄はとても実験的ですよね。あらためて説明してもらえます?
「これは話し合ってるうちに大島さんから出たアイデアなんですけど、縄文の土器とかについてる文様って棒に縄を巻いて土器の表面を転がすことで付けているって説があるんですよね。だからそのプロセスにフォーカスしてみよう、と。縄文土器の文様と同じ手法でタトゥーの下絵を肌に描き、そこに沿って彫ってけば面白いんじゃないか、と。僕はもともとグリッチ刺繍っていう作品をシリーズで作ってるんですけど、その制作手法も、作品を半分くらいはコントロールできてるけど、半分くらいはコントロールできない。いわばバグを積極的に取り込んだものなんですよね。だからその提案が個人的にもしっくりきたんです」
──最初は全身を水玉にするっていうアイディアもあったらしいですが。
「そうそう、草間彌生タトゥー。大島さんが最初、その案を出してきて、まあ、あれもカッコいいかなって思ったんですけど、当時の妻に『この柄どう?』ってラフ絵を見せたら『怖いから絶対にやめてほしい』って言われたんです(笑)」
──実際、タトゥーを入れ始めてみてどうですか?
「まあ楽しいですね。入れ始めてからずっと。1年以上経ちますけど、後悔したことは一度もないです。もともと僕はタトゥーを入れたいっていうより、タトゥーが入ってる人生が欲しかったところもあるんです。タトゥーがあったらどんな生活になるのか興味があったんですよね。自分の気分がどう変わるのか、と。実際やってみたら、ずーっとうっすらアガってる感じがあるんですよね。もうおっさんなんで自分の身体のこと好きだって思ったことなんてなかったんだけど、タトゥー入ってると自分の身体を好きにもなってきていて。まさか自分の身体を人に見せたくなる日が来るなんて思ってなかったし。じんわりとなんだけどずーっと感覚は変わり続けてますね」
──うっすらアガるってのはすごくよく分かりますね。一方、タトゥーは目に見えるものだから、自分だけではなく他者との関係にも効果を及ぼすものでもありますよね。周囲との関係性に変化はありました?
「めっちゃありますね、結局タトゥーが原因で離婚したんで。それが一番大きいかな」
──人間関係が整理されたわけですね(笑)
「別に友達は変わってないですけどね。僕のタトゥーを見て『いいじゃん』、『カッコいいじゃん』みたいに言うやつしかいないんで。あとタトゥーが入ってる人に声かけられる率は高くなりましたね。そう言う意味ではコミュニケーションは円滑になったかも」
──それはめちゃくちゃ分かりますね。海外で電車とかに乗ってると、『すごいね、それ』みたいに普通に声かけられますし。
「そうそう。こっちも声かけるようになるし。まあ色々含めてもいいことしかないですね」
タトゥー入れたら人生変わった、なんて書けば、冴えない2ちゃんねるのスレタイのようではあるが、実際、変わるのだ。縄文タトゥーを入れ始めた2019年末以来、ヌケメの人生は離婚や失職をはじめとして、なかなかすごいことになっている。僕もまたそうだった。「JOMON TRIBE」に参加した翌年、僕は8年勤めた会社を辞めた。人間関係も変わり、HAGAZINEも始めた。世間から浴びせられるまなざしが変わったことで、社会との距離感も大きく変わった。
失ったものもあるのかもしれない。しかし、様々な犠牲を払ってなおあまりある魅力がタトゥーにはある。すったもんだを経た上で、ヌケメもまた「まったく後悔はない」と語っている。
偶然性を積極的に招きこむ制作手法を音楽において実践していたジョン・ケージは、自身の手法を「チャンス・オペレーション」と呼んでいた。あるいはバグをこよなく愛するヌケメにとっては、人生もまた「チャンス・オペレーション」の対象なのかもしれない。その点、タトゥーという行為にはまさに、自身の意図を超えて人生を撹乱させる起爆剤としての効果がある。
現代においてタトゥーを入れることの意義について、ヌケメに聞いてみた。
「タトゥーについてあれこれ口出ししてくる奴がいたらひとりひとり丁寧に罵倒していこうと思ってます」
──ちょっと抽象的な質問になりますけど、ヌケメさんは今日の時代にあえてタトゥーを入れるという行為の意義はどこにあると考えてます?
「そうですね…、部族の通過儀礼で行われるタトゥーとか、ヤクザがその証明として入れる刺青とかとは、僕のタトゥーってちょっと違うものだと思うんですよね。現代においてタトゥー入れたいからタトゥーを入れるっていう行為が自分にとってどういうものかというと、自分のルールは自分で決めるんだという意思表示みたいなところはあるのかな、と思います。多かれ少なかれフリーランスって生き方してる人はそういう生き方だと思うけど、その延長にあるのかなって気がする」
──でも、そこにはリスクもあるわけですよね。タトゥーが入ることで選べる職種の幅が狭まったり、入場できない場所が生まれたりする。そういう部分については?
「実は意外と気になってないんですよね。ただ、入れる前は気になってました。スーパー銭湯とか市民プールには入れなくなるんだな、とか。でも実際にタトゥーを入れてみるとそんなこと大した問題じゃないんだなって思う。タトゥー嫌いな人ってそこをやたら問題にしますよね。温泉入れなくなったりしていいこと一つもないのにそんなのやるのはバカだ、みたいな言葉をよく聞く。でも、そういう人たちタトゥーのメリットの方に目を向けれてなくて、さっき言ったようにこっちはタトゥーを入れたことで毎日うっすらアガり続けてるわけですよ。なんかそれに比べちゃうとプール入れないとかスーパー銭湯には入れないとかって別に大した話でないんです。24時間うっすら楽しいって方がはるかに大きいですからね」
2019年11月から12月にかけて阿佐ヶ谷TAV GALLERYにて開催された《JOMON TRIBE 2》より(筆者撮影)
──遠迫さんがタトゥーの魅力のひとつとして「埒外の存在」になれるということを挙げていたんですけど、それで言うと、実は日本はその魅力をフルに楽しめる場でもあるんですよね。もちろん、そこにはアンビバレンスがあるわけですが。ヌケメさんは日本のタトゥーフレンドリーとは言えない状況についてはどう思ってます?
「別に誰もがタトゥーを好きになる必要はないと思うけど、他人にごちゃごちゃ言われることに関してはめちゃくちゃムカつくんで、もしタトゥーについてあれこれ口出ししてくる奴がいたら、その場合はひとりひとり丁寧に罵倒していこうと思ってますね(笑)」
──そう言えばこの前も炎上してましたよね(笑)
「ツイッターのアカウントを一時的にBANされましたからね」
──あんまちゃんと追ってなかったんですけど、あれは何がダメだったんですか?
「そもそもは僕のタトゥー関連のツイートにクソリプが殺到したのが始まりで。もうそいつらひとりひとりにめちゃくちゃ言ってやりましたね。知りもしないのにそいつの家族の悪口とか言いまくって。釣りが好きだってプロフィールに書いてたら『お前はきっとダボハゼみたいな顔してんだろうな』とか、『タコよりはちょっとだけ頭いいんじゃないの』とか(笑)。ちょうど映画『フルメタルジャケット』を見た直後だったんで、あの映画を頭の中で思い浮かべながら罵倒してました」
タトゥーを入れると「タトゥーとかちょっと…」とかいう心の狭い人間が近寄ってこなくなるので、快適に人生を過ごせるというライフハック
— Nukeme 5G (@nukeme) February 24, 2021
──タコに失礼ですよ(笑)。まあ、余計な口を挟んでこないんであれば、あとは好きにすればいいんじゃない? ってところですかね。
「そうですね。まあ現状で数が少ないからこそ入れてる人同士の仲間意識が強いような気もして、それはそれで関係性が近くなって楽しいですよね」
──タトゥー人口が今後どんどん増えていったらいったで、それはそれで街歩きが楽しくなりそうですけどね。それこそ、亜鶴さんみたいに「その奥」へと突き抜けていける人は、僅かでしょうし。
「それで言うと、僕いま離婚したんですけど、結婚した当時は長袖長ズボンで隠れる範囲にしてって奥さんに言われてたんで、その範囲で進めていたんですよ。でももう離婚したんで首も入れたいなって思ってて。ただ、顔についてはまだかなって思ってるんです。これはあくまでも僕個人のさじ加減なんだけど、その意味ではタトゥーってその人が社会性のラインを体のどこに引いてるかっていうのが明らかになって面白いな、とも思うんですよね。辻さんだったら手の甲までなら問題ないわけで。亜鶴さんなら顔まで問題ないわけで」
ここでヌケメの話を横で聞いていた亜鶴がすかさず「だんだん緩くなってくもんすけどね」と口を挟んだ。その容貌で言われると妙に説得力がある。確かに僕も最近、かつては絶対にないと思っていたはずの顔面タトゥーに興味津々だ。果たしてヌケメの顔面に縄文文様が侵食する日はいつになるのだろうか。あるいは、それを決するのはヌケメではなく、族長・大島托かもしれない。
「さっき亜鶴さんが言ってた、大島さんがアメトラやってたらアメトラだったかもしれないし、和彫だって言ったら和彫だったかもしれないなっていう感覚、分かる気がする。もちろん縄文タトゥーのコンセプトに惹かれたからやってるわけだけど、とはいえ結局は人と人の問題でもあるんですよね。だから、どんな柄であれ大島さんが『これだ』って言えばそれを入れるだろうなって」
彫るものと彫られるものとの間には独特の転移関係がある。ましてそれが全身規模の作品ともなれば、なにをかいわんやだ。ということで、ヌケメの顔面の行く末もまた大島の鶴の一声に掛かっている。縄文族へとヌケメを繋いだ紹介者の責務として、その顛末についてはしかと見届ける所存だ。
文/辻陽介
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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。『BABU伝—北九州の聖なるゴミ』を弊誌にて連載中。
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