logoimage

反・衛生パスポートのための準備運動──連帯主義と生-資本に抗する|西迫大祐×塚原東吾(後編)

現在、世界各地でワクチン接種を証明する衛生パスポートの導入が「感染症対策」という大義のもと進められている。我々はいかにしてこの古くて新しい「社会的排除」に抗うことができるのか。前編に引き続き、可能な対抗の手段を探る。

<<前編を読む

もし衛生パスポートに感染拡大防止効果があったとしたら

 今のお話に関連して質問したいことがあります。たとえばワクチンパスポートの提示義務化に感染拡大を防止する効果が仮にあったとして、じゃあそれをしていいのかというと、やはりそこにも僕は疑問があるんです。

その上で僕もまたミルには違和感があります。ミルは基本的には私権の制限に対して極めて慎重な人なので、たとえば『自由論』などを読んでいてもミルの帰結には、同意できるものが多くあります。ただ、その理路には納得がいかないところがある。というのも、ミルが少数者の自由を認めるのは、それを認めた方が結果的には社会不安が抑制され、安定した社会運営がなされることになると考えているからだと思うんですね。だからこそミルは功利主義者なんだと思うんです。

 

 

今回のパンデミックについては最初の頃「インフォデミック」なんて表現がなされていました。さっきプロバガンダの話もありましたが、ある種、メディアやSNSを通じて拡散される様々な情報によって市民の不安が煽られていくという状況が初めからあった。何か物事を進めていこうという時に不安という情動は大変利用されやすいものですし、実際にこのコロナ禍でもそういうことがすでに行われているような気がします。

つまり、仮に平時であれば、ミルの自由主義型の功利主義に基づいた社会運営でもそこそこおおらかな社会がつくられていく可能性はあると思うんですが、一方、それがパンデミックのような例外状態になってしまうと簡単に反転してしまうのではないか、という気がするんです。すでに社会不安がパニックに近い形で拡大している状況で功利主義に立つ場合、そのパニックを抑えるためにはワクチン忌避者の権利を制限していいというように、コロっと自由を抑制する側に裏返ってしまうのではないか。結局、功利主義的に、つまりその政策に効果があるのかないのかという一点だけを頼りに話を進めてしまうと、こうした流れには抗いきれないんじゃないかとも思います。

あるいはミルのことは一旦於いておいたとしても、そもそもワクチンを打つか打たないかという判断は、自分が自分の身体をいかに統治するかという判断でもあるわけですよね。東洋医療に基づいて投薬に頼らない身体統治を行っている人もいれば、なんらかの信条に基づいて近代医学の一切を拒絶しているような人もいるわけです。すると、これは信仰の自由に関わる問題でもあって、そういうマイノリティが電車に簡単には乗れなくさせられたり、レストランに入れなくされてしまったりするというのは、結構ヤバい話だと思うんです。

では、仮にワクチンパスポート活用を正当化するような科学的に説得力のある話が今後出てきたとして、それこそミルも認めるくらいの理由が出てきたとして、その場合、僕たちはどうすればいいのか。どのようにワクチンパスポートに抗っていけばいいのか。そこについてのお考えもお聞きしたいです。

西迫 仮に衛生パスポートに一定の効果が認められるとしても、いくつか反対するための方法はあると思っています。ひとつの戦い方としてはやはりここでも科学的に対応するということです。ワクチンを打っていなくても感染対策をしっかりしていれば飲食ができることを示していく。さっきも言いましたけど集団免疫獲得が目的なら別に2、3割は打たなくていいわけですから。

つまり、衛生パスポートの感染予防効果が高い場合、衛生パスポート自体の正当性があるということになるので、そこで問題になるのは、より制限的ではない他の代替手段がないかどうかになるかと思います。実際、衛生パスポートは、辻さんが言われたように、飲食や移動ができない人々が出てきてしまうなど、大きく自由を制限する介入になりますので、他のゆるい手段があれば、そちらの方がいいということになります。

たとえば、COCOAアプリの義務づけをして、プライバシーの制限やトラッキングを受け入れる代わりに、衛生パスポートは反対する、という形での抵抗も可能かと思いました。これは、19世紀の反ワクチン運動がとった手法でもあります。陽性の届出義務と、隔離義務に賛成する代わりに、予防接種の義務化に反対するという形で運動をして、実際に、それが成功しました。同じように考えることはできるかなと思います。アプリの義務化ぐらいであれば受け入れやすいし、テクノロジーの運用方法によっては私たちのプライバシーもで守ることが可能かと思いますので、悪い取引ではないかと。

もうひとつは権利を盾に戦う方法です。辻さんが冒頭でおっしゃったような、ミルではなくフーコーの自己統治のようなものを打ち出していく。私をどうするかを決めるのは私だ、私をコントロールするのは私である、と。ただ、その戦い方には弱さもあって、権利には制限がつきものである、というのは憲法にも書いてあるんですね。公共の福祉に反しているからダメだと言われてしまえばそれで終わりになってしまう可能性がある。だから、移動の自由や飲食の権利だけで戦うのは、現実においてはそれほど得策ではない気がします。

また、フーコーを頼った時に困るのは、フーコーの議論は私と私という形で個人に収斂していく傾向があり、その時に横のつながりがどうなっているのかというところがあまり見えないんです。連帯や協働の論理をフーコーからは引き出しづらい。フーコー研究者でもそれをどう考えればいいのかを悩んでいるんです。果たしてフーコーに社会的に広がっていくモメントがあるのかと言われると、僕自身にも分かりません。そういうい意味でもどう対抗していくべきなのか、うまく答えが出ないことではあるんです。

塚原 確かにフーコーで解決になるのかというと難しいですよね。また現在の状況はフーコーやアガンベンの話よりも、もっと次の段階にいってる気もします。テクノロジーとか医療とかサイエンスのレベルがそこで想定されているものとは全然違ってきている気がする。この流れに抗う上では生政治というよりも、その先にある生資本、バイオキャピタルの動きというものをもっとちゃんと見ていかなきゃならないと思います。国家vs市民という図式で自由の問題を考えるだけでは不十分ではないか。

それこそワクチンポリティクスにおいては、個人の判断だと言ってみても、インターネットの時代ではいろんなところからの情報に撹乱されていくわけです。ガブリエル・タルドが言っているような集合的な脳のような感じになってきているわけで、そうなると今回のパンデミックは21世紀のバイオテクノロジーの問題として、フーコーの時代とはまた違う「バイオ」の段階に入ってきているように見える。じゃあ何が言えるのかというと、こんな変則例もあるのではないかというようなことしか現状では言えない。僕自身も揺らいでいます。

 

 

あえて言うならブリュノ・ラトゥールがアクターネットワーク理論において言っているように、よりアクターを細かく見ていく必要があると思います。またもっと言えばダナ・ハラウェイが言うような人間がサイボーグになってきている時代にいよいよ突入しているとも思うんです。ハラウェイのいうサイボーグはメカニカルな段階だと思うけど、現在はもっとケミカルな段階になってきている。今回のRNAワクチンというものはそういう意味ですごい技術なんですよね。いよいよゲノムレベルにまで介入しだしたのか、と。そう思うと、今まであったものとは同列には語れないような気がしている。ハラウェイについては逆卷さんの方が僕などよりお詳しいとは思いますが。

 

 

ワクチンに一元化された世界観を脱さなければならない

 逆卷さんはここまでのお話をどう聞いていますか?

逆卷しとね おふたりが非常に多岐にわたって問題点を提示されているのを興味深く聞いてました。僕が思うところとしては、この対談の前提として本来手に負えないくらい複雑なのに、新型コロナウイルスによって一元化されてしまっている世界がまず所与としてあるということです。ワクチンパスポートの問題は、そのコロナ化した世界をさらにワクチン接種の有無へと一元化していくものだと思っています。

西迫さんもおっしゃっていましたけど、ワクチンでは基本的には新型コロナの感染を完全に防ぐことはできないんですよね。主な目的は重症化を防ぐというのがせいぜいだと思うんですけど、報道を見ているとワクチンを打っても経時的に抗体価がどんどん下がっていくからまたすぐに打たなければならない、というような言われ方がされている。まさに製薬業界の資本主義的な恐怖政治に人々が踊らされているような感じがします。

実際のところ、ワクチンにおいて大事なポイントは高い抗体価を維持することではなく、メモリー細胞だというじゃないですか。ウイルスに感染した時にメモリー細胞が抗体をつくる、そのメモリーがどれだけの期間保たれるのか、というところが大事なはずなのに、そうした話は後景化していて、ワイドショーを見てても抗体価がすぐ下がるという話ばかりをしてる。抗体価が高いと感染しにくいわけですよね。感染する可能性をゼロにしたい、経済を回していく上で不確定要素をゼロにしたい、という願望が露出しているのはよくわかる。特定の病原体となるウイルスの感染の可能性をワクチンが排除してくれる、というワクチン幻想ですね。

天然痘ウイルスはまさしくその幻想の源ですよね。二本鎖DNAウイルスの天然痘ウイルスは、あまり変異しないために奇跡的に根絶できたわけですけど、その他の病原性ウイルスは未だ根絶には至っていません。ましてや新型コロナウイルスはRNAウイルスだからものすごい勢いで変異をする。この2年ほどのあいだにアルファ株からミュー株まで誕生しているように、根絶は不可能だということはすでに言われているわけです。言い換えるなら、ワクチンでは感染をゼロにすることはできない。あくまでもワクチンに期待されているのは、ウイルス量を抑制し、重症化する確率を低減する効果に過ぎない。それなのにワクチンパスポートは、ワクチンに対する過剰な幻想を抱かせてしまう。ワクチンを打っている奴は仕事もしていいし、旅行もしていいし、買い物を楽しんでいいし、飲み屋で呑んでもいい、資本主義に危害を及ぼさない質の良い身体だとするのがワクチンパスポートの発想でしょう。これはまさに塚原さんがおっしゃっていた生資本だと思います。

【註】以上の逆卷の発言は、202192日(木)に行われた「方法としての反ワクチン」実行委員会主催のオンラインシンポジウム「方法としての反ワクチン——歴史で考えるワクチン政策と抵抗する人びと——」(https://www.r-gscefs.jp/?p=12119)における議論を一部参照している。

他方で、そうした状況を変えていく上でどういう方法があるのかと考えると、対処する方法はワクチンだけではない、ということを繰り返し言っていく必要があるのかな、と僕は思いました。たとえば一週間くらい前に流体力学の知見を借りて空気感染のメカニズムを解明する論文の解説を読みました。これまでもインフルエンザは毎年のように流行して死者もたくさん出していたんですけど、ウイルスがどうやって感染していくのかはあまり分かっていなかった。けれども、新型コロナが世界的なパンデミックになってたくさん研究資金が投じられた結果、ワクチンの開発もそうですけど、感染経路の研究が昨年あたりからどんどん進んでいるようなんです。どうもウイルスの挙動はタバコの煙に似ているらしい。すると、マスクやフィジカル・ディスタンスの他に換気をどういう風に行うべきなのかという議論が重要になってくる。それこそ僕は今こそJTの知見とかが大事になってくるのかなと思ってます。毛嫌いされてきたタバコ産業がここで俺たちの出番だと出てきたら面白いな、と。

そんな感じで僕としてはワクチン一元論の限界を直視して、科学者や行政だけではなく、いろんな民間企業やお店、市民がそれぞれ他の方法を模索していくことが今の状況に対するひとつのオルタナティブになりうるのかなという気がしています。

【註】空気感染の最新研究については産業医・辻洋志による次の連続ツイートを参照。https://twitter.com/Hiroshi_Tsuji/status/1431163084140269571

西迫 すごく面白いお話ですね。ワクチン幻想のようなものがあって、ワクチンしかないんだみたいな極端なノリがある。その中で、ワクチンを打つ人が善人で打たない人が悪人であるみたいな分割がなされ始めている。フーコーは古いのかもしれませんが、とはいえ、これはまさにフーコーが言ってた生政治そのものだとも思います。経済的に優れた市民を作るという発想はまさに生政治ですから。ワクチンが広まればみんな街に出てお買い物できるよ、と。

あと逆卷さんのお話で思い出したのですが、タバコを吸ってるとコロナに罹りにくいという説もありましたよね。そういう意味でもJTの出番なのかもしれない(笑)。確かに、JTは今まで分煙を頑張ってきた中で培ったノウハウがある。ただ分煙を参考にしてしまうと、そこから偏見が生まれるところもあるとは思うので、換気の方法を考えていく方がいいのかもしれませんね。

ところで、塚原先生がさっき言っていた、フーコーが考えていたフェーズではもはやないというのは確かにそうで、ゲノム時代においては前提とされる主体というパッケージが以前よりもっと細かくなってるんですよね。それはその通りだと思います。実はフーコーの後継者であるニコラス・ローズが『生そのものの政治学』という本の中で、フーコーの議論を引き継ぎつつも、現在ではゲノムレベルでの介入が始まっているということをすでに指摘しています。

 

 

ローズやハラウェイなどの議論を踏まえると、主体そのものが分裂してるというか、複数のレイヤーがあるということをあらためて確認させられます。いわゆる主体とは別に、経済主体みたいなものもいて、人口としての主体もいて、そうした主体が分裂した先のゲノムレベルでの主体のプールもある。そこで塚原先生がおっしゃっていたラトゥールの議論に接続すると、ウイルスもまた一個のアクターであって、ただそのアクターが動いているだけなんです、という形の反論もできるかなと思いましいた。今は私にいるけど、次は違う人のところにいるんです、単なるアクターなんで、と。

塚原 面白いですね。ところでJTの出番かもしれないという話に重ねると、僕はいまやアルコールの出番かもしれないと思っています。というのも、これだけアルコールを社会的に禁じるというのは、これは新たな禁酒法ではなかろうかとも思っていて、これで一番困ってるのは実は自民党じゃないかななんてことも思っているんですよ。アルコールに象徴されるような人とのコミュニケーション、つまり会合のようなものがないと、政治なんてできませんよね。いや、それどころかそうしたものがなくなってしまったら社会というものは壊れてしまう。僕は本気でそう思ってるんです。

もちろんアルコールを飲めばいいという話ではありません。アルコールがターゲットにされているというのは、一定人数以上で集まってはいけない、いつも会わない人と会ってはいけない、という命令を意味しているんです。ただそうした機会がなくなったとしたら社会は絶対にダメなんです。今回はこうやって辻さんにオーガナイズしてもらって僕たちはZOOM上で集まって喋っているわけですけど、本来ならこっから一杯ビール飲みに行きましょうってことが大事なんです。これは笑い話ではなくそうなんです。

大学の教員なんかをやっていると、今日、19、20歳の学生たちが大学に入ったのに飲み会もなかなか開けないというのは本当に問題だと感じます。今は事故が起こったりする可能性もあるから学生に酒を勧めちゃいかんみたいな風潮もありますけど、ただそういう場を通じて彼らは友達をつくるんですよ。今の大学1年生、友達ができないんです。大学1、2年生の楽しい時間、お酒とかタバコとかそういうものに手を出すための大事な時間を奪ってしまったというのは、これは本当に大きな社会的損失だと思います。

別に酒が苦手な人は飲む必要ない。だけどみんなで夜中まで飲んでいる楽しい雰囲気を体験させてあげたい。それこそ西迫先生がフーコーとかミルとかの話をなぜそんな真剣に考えているのか。そういうことは、酒を飲みながら話すからこそ伝わるんですよね。やや余談めいてきてしまいましたが(笑)

 いえいえ(笑)。それこそスラヴォイ・ジジェクが昨年に「ソーシャルディスタンスを図ることこそが今の連帯の形なんだ」というようなことを言っていましたよね。コロナ禍が始まって一年半が経過した今、ジジェクは完全に間違っていたと感じます。身体が伴う形で集まることなくして連帯もへったくれもない。グルーミング、めっちゃ重要です。実際、ソーシャルディスタンスと言われた1年半、人々は連帯どころか互いに不信感と敵愾心を募らせるばかりだったように思います。僕自身もこのコロナ禍のおかげで皆で集まって酒を飲むということがどれだけ人にとって重要だったかということを思い知りました。卑近な話のようですが、本質的なところだと思います。

 

「子供を守る」という大義名分のもとに他者がリスク化される

 さて、話がだいぶ深まってきましたが、あといくつか質問させて頂きたいことがあります。

塚原さんから、今日、抗すべき対象はいわゆる古典的なバイオパワーではなく、より複雑に入り組んだバイオキャピタリズムなのではないか、という話がありました。確かにその通りだと思いますが、いずれにせよ、そうしたバイオキャピタリズムの要請によって衛生パスポートみたいなものが導入されそうな時に、僕としてはくどいようですが抗していかざるを得ないというのがあるわけです。その上でワクチン一元論から脱却することが必要だという話もありました。なるほどと思いつつ、また現実的にはそこが妥協点となってくるのかもしれないと思いつつ、一方で僕としてはもう少し前提的な部分から突き崩していきたいという気持ちもあるんです。

たとえば反ワクチンの歴史を振り返ってみた時に、「子供を守る」というようなメッセージがしばしばスローガンとして用いられてきたわけですよね。今日の反ワクチンの人たちにおいてもそれは同様で、やはり子供や妊婦さんをワクチンから守る必要があるということが、盛んに説かれています。一方で、ワクチンを推進する側もまた実は同じように「子供を守る」というのを一つの動機付けに用いている。両者は対立しているようで、実は同じものを守ろうとしているんですよね。

僕がワクチンの安全性や衛生パスポートの効力とは別のところで話をしようとしていたのもそれが理由です。何かを守るためにリスクを排除し、安心安全な暮らしを取り戻そうという前提に立つ限り、いずれの立場に立つにしてもどこかで功利主義に顚落していかざるを得ない。すると、ワクチンパスポートの是非も単に状況次第という話になっていく。つまり、そもそもの大前提として、「子供を守る」という大義名分のもとに他者をリスクとして扱い、排除、隔離していくようなこと自体を認めるべきではないのではないか、とも思うんです。

もちろん個々人が自分の子を守りたいと思うことは当然ですし、それぞれが個人のレベルで子供を守っていくことはなんら咎められるべきことではないんですが、それが広く共有され、ある種の至上命題のようになってしまうと、その命題がいかに正しそうなものであれ、あるいは正しそうであればあるほど、危うさもまた生じるようになると思います。

それはなにも感染拡大防止という局面に限りません。それこそコロナ禍では経済においても人は死ぬんだということが多く言われ、感染症対策か経済かという話があたかも二項対立かのように扱われていました。しかし、これは実のところ、共に安全安心を求めている点で大きな差はないと思うんです。

実際、経済においても生産性の向上に協力的でない人を社会的なリスクとみなすような言説があります。この前、炎上していたメンタリストのDaiGoさんなんかがまさにそうした言説を発していたわけですよね。DaiGoさんはホームレスや生活保護受給者、中でも社会復帰の意思が薄い人を不必要な存在だとするような発言をして問題になりました。もちろん、あの発言は僕も問題だと感じるわけですが、一方でDaiGoさんのあの態度は、感染拡大防止に協力的に見えない人たちに対して多くの人が向けている態度そのものだとも思うんです。感染症でも経済でも人が死ぬのであれば、本当に変わりがない気がする。要は、その至上命題の達成に非協力的な人間が、他者に対して加害性を持つ存在だと判断され、切り捨てて良いとされている。最初の方で話した連帯主義の問題ですよね。そして、その根底にあるのは今日の社会に蔓延している不安なんだろうとも思います。

だから、もっと根本的なところで、安心や安全を至上のものとする言説とは異なる言説を紡いでいかなければいけないんじゃないか。たとえば先ほど西迫さんが権利をベースに戦おうとすると公共の福祉によって遮られてしまうという話がありましたけど、それこそフランスのマクロンが衛生パスポートの導入に関して「いかなる自由も義務なしでは実現しない」ということを話していましたよね。去年からマクロンはすごい飛ばしてるなという印象があるんですけど、それはともかくとしても、本当にマクロンの言っていることが妥当なものなのか、僕は怪しいなと思っているんです。

防疫セキュリティのために、マジョリティの不安を解消するために、特定の信条の人々の行動を制限するということが、果たして公共の福祉によって正当化しえるのか。僕は憲法解釈に関してただの素人ではありますが、あるいは逆の言い方もできるのではないかとも思います。マクロンは、他人に感染症をうつさない努力をすること、それも政府が定めた感染拡大防止政策に沿った形でそれを行うことが自由に課された義務なのだとしているわけです。しかし、人々が共生していく上では他者から感染症をうつされてしまうというのはある意味で当然のことです。すると、そうしたリスクを一定レベル引き受けていくことが自由に課された義務なのだと言うことだってできるのではないか。むしろ、自身の不安を理由に他者の自由を抑制するような自由こそが、憲法に定められた公共の福祉によって制限されるべきではないのか。

そんな具合に、今日においては自由と義務の関係をその前提から疑っていくこともまた一方で必要なんじゃないかと思うのですが……、こうした点について、お二人はどうお考えでしょう。

西迫 基本的にはおっしゃる通りだと思います。そして、そういう感情は実は結構広く共有されている気が僕はしています。今回のパンデミックで意外だったのが、みんな思った以上に周りに配慮していたんですよね。コロナに感染した人がバレないように名前の公表を控えたりということが民間においては割としっかり行われていたような気がしています。僕の子供の保育園でも何人か感染者が出たんですが、その方の名前は出さないようにするなどの配慮がきちんとなされてました。

多分、多くの人はどこかでコロナを誰かからうつされても、それは仕方ないことだよねとちゃんと理解しているように思いました。その辺を許容していく用意は市民の方にはあり、むしろ行政よりも市民の方が寛容であるように感じています。

ただ、そこで一個ネックになってくるのが、辻さんがおっしゃったような不安ですよね。その不安をどこかで解消するために、マスクを絶対につけてください、ワクチンの接種をお願いします、といった形で周りに対してなんらかの行為を強制していくような話が進められてしまう。つまり、自分だけの問題には留められなくなってしまう。そこをどうするか。「安心したい」といった人間の傾向が過度に働かないようにどう調整していくことができるのか。これはセキュリティというものをどう考えるかということでもあります。

再びフーコーの話をすると、『安全・領土・人口』と題されたフーコーの講義があるんですが、この「安全」という語は、セキュリティの訳語なんですよね。ただ、本当はセキュリティという語はニュアンス的にいうと安全というより安心なんです。では安全を意味する語は何かと言えばセーフティです。つまり、安全ではなくても安心さえしていればセキュリティが働いていると言えるんです。

 

 

今の社会はセーフティよりセキュリティの方が優先されていますよね。とにかく安心してさえいればいい。そういう状況に慣れてしまっている僕らがいて、不安になるとそれが実際に安全かどうかとは別にとにかく安心したいと思ってしまう。フーコーに言わせればそうした安心を求める主体のようなものが18世紀から現代に至る生政治の時代の中で形成されてしまい、そこがいわゆる統治に利用されてしまっている。あるいはそうした統治を人々の方が要求してしまっている。その意味ではフーコーのように自分で自分をコントロールした上で「不安など全くないです」みたいな超人状態にみんながなることができれば話は早いのかもしれませんけど、それはやはり強い人しかできない。だから、難しいわけです。

 

「他人にうつさないのが義務だ」は徴兵制と変わらない

塚原 そうですね。ただ僕としては、今問題になっていた不安、これはもう恐怖と言ってよいものだと思います。不安くらいの状態ならばまだ戻ることができる。考え直すことができる。しかし、恐怖になるともう簡単には戻ることができない。そういう状況に多くの人が追い詰められちゃってるんじゃないかなと思います。

その上でセキュリティが求められる。この時、日常的なセキュリティの問題と同時に国家の安全保障としてのセキュリティの問題も生じてくるだろうと思います。そして、国家のセキュリティというものを考えるとき、絶対にミリタリーという言葉が出てくる。軍備増強というのは不安だけではできなくて、敵に対する恐怖がそれを要請するんです。つまり、セキュリティを求めていった先には必ず軍事的なものが出てくる。それは暴力と直結しているんです。

コロナもそのフェイズまで、つまり、不安の一段階先まできてしまっている感じがします。だから「野戦病院」みたいな言葉が出てきたりする。あの言葉が出てきた時、僕は気持ち悪いと思いました。その点、辻さんが言っていたようにマクロンはまさに飛ばしてますよね。昨年のコロナ禍のしょっぱなから戦争の比喩をよく使っていた。「これはウイルスとの戦争だ」とかね。挙げ句の果てに野戦病院です。そういうミリタリーの比喩が出てくるとき、社会はやっぱりおかしくなっているんだろうという気がします。

 

 

その意味で、フーコーがセキュリティ、領土、人口と言っているときに、すでにミリタリーの存在が前提とされているんです。今日の唯ワクチン主義みたいな言論状況もまるで戦時下の最終兵器論のようです。これがあれば勝てるんだ、原爆を持ってこい、みたいな感じ。そういう追い詰められた状況がある。その空気下で「他人にうつさないのが義務だ」みたいな話が出てくると、これはもう非国民を探し出せ、というような話と変わらない。ミリタリー国家ですよね。こうしたミリタリー国家においては当然、国家総動員で戦わなきゃいけないとなる。逃げる奴は許されないわけです。お前は徴兵忌避するのかと相互監視が働いていく。これがすでに発生している状況だろうと思います。

ただ西迫さんの保育園の話にもあるようにミクロレベルでは市民が自由を守ろうとしている。徴兵忌避をしている人間がいたら知らないうちに逃がしてあげるとか、逃げてきた人を匿うとか、そういう日常知もまた同時に働いてるんだろうという気がしています。

 今、戦争の比喩が多く使われているという話がありましたが、これは過去のパンデミックにおいてはどうだったんでしょう。それこそ西迫さんから見て、現在の状況にはある種の既視感があると言えるんでしょうか。

西迫 そこはなかなか難しいですね。たとえばロックダウンのような政策はものすごく中世的な発想だから既視感があると言えるんですけど、ただその当時に戦争の比喩のようなものが使われていたかというと、僕が知る限りで19世紀以前には見当たらないです。おそらく、そういうものは20世紀的な国民国家体制がかなり強まって以降の言説なのかなと思います。

安全保障という言葉も20世紀的なものです。1910年代に造語として登場したのがナショナルセキュリティであり、それは世界が西側、東側と別れたときに、それまでのナショナルディフェンスとはまた異なる言葉として提示された。そこには単に領土を守るという意味だけではなく、ソ連に対して西側の価値観も守るというような含みが込められていたんです。

そうしたことを思うと、スペイン風邪が流行した頃の言説が、一挙団結して戦おうというような形になっているのも分かりやすいですよね。結核を戦闘機で撃ち落としてるような風刺画の写真を見たこともあります。戦争を比喩にウイルスや菌を撲滅しましょうということを言い始めたのは19世紀末から20世紀初頭以降で、ただそれが今日のそれと全く同じ感じかというと、また違うような気もしますが。

塚原 医学史の方を見てみると、抗生物質ができたとき「銀の弾丸である」というような比喩が用いられていましたね。医者自身も「ここに感染症があるから抗生物質で叩きましょう」というような表現を用いていました。それはコッホやパストゥールが出てきた頃、ウイルス以前の細菌学の時代ですが、その頃すでに戦争の比喩、ミリタリーの比喩は、医学の中では使われ始めていたんです。ただ、時代が細菌学からウイルス学になり、治療から予防へ、つまりワクチンなどが登場するようになっていくと、話がまた変わってくる。少なくともワクチンを武器の比喩で使うことはなかったはずです。なぜならあれは自分をいったん病気にさせるものだから抗生物質とは違うわけですよね。

ワクチンの背景には、まさに西迫さんが指摘されたような敵が攻めてきた時に叩くというナショナルディフェンスではなく、敵が来る前に自分を強くしておく、つまり国民全員ミリタライゼーションしておくというナショナルセキュリティの考え方があるんですよね。そして、そのセルフミリタライゼーションが今回は細胞レベルを超えてゲノムレベルで行われるようになった。その新しい身体によってウイルスと戦争しよう、と。それが今日の雰囲気なんだろうと思います。

 

国家による予防的介入に対しては、やはり慎重でなければならない

 あと一点だけ聞きたかったことがあります。今回は衛生パスポートがテーマでしたが、もともと治安維持や個人の安全のために、身体に関わる自由を抑制するような法律はあるわけですよね。たとえば様々なドラッグに対する禁止法が分かりやすいところとしてはありますし、未成年者への飲酒喫煙の禁止、あるいは道路交通法におけるシートベルトやヘルメットの着用義務などもその類だと言えるかもしれません。

では衛生パスポートの提示義務化やワクチンの義務化とそれらはどう区別されるのか。今挙げたような規制例に僕は必ずしも同意しているわけではないですが、とはいえそうしたすでにある規制とワクチンの義務化との間にはやはり深い溝があるような気もしています。たとえば接種を禁じることと接種を命じることとの間には、大きな違いがある。あるいは身体の外側への介入なのか、はたまた内部にまで侵入するものなのかによっても、とるべき判断が変わってくるような気がします。

西迫 そこをどう考えるべきかはちょっと混乱しています。というのも、今日の対談をしていると現在においてはフーコーの時代よりも、主体というものを細かく見ていかなければいけないという気がするからです。辻さんがおっしゃった身体の内か外かという区分自体が今日においてはかなり曖昧になってきている。細胞レベル、ナノレベルで考えた場合、どういうことが言えるのか、まだ分からないところもあります。しかし、人間が一方で人口のような集団的なものに包摂され、他方でゲノムレベルまで分解されてとらえられている今こそ、フーコーにならって、私というものを主張すべきなのかなと思います。私のことを決定できるのは私だけである、政府は私の身体の統治者であるべきではないと、今こそ言うべきなのだと思います。

塚原 難しい質問ですよね。一個前の議論に戻ると、西迫さんがミルの話を出されたことについて、なるほどと思う部分もやはりあって、やっぱり今日は予防的措置が強い時代なんだろうという気はするんです。さっきの冷戦時代のセキュリティの話もそうですが、敵が攻めて来る前に予防的に自分を強くしておく準備がなされる時代になっているわけですよね。

ドラッグもそうです。そのドラッグについて、よくわからない段階から一応予防的に禁止するわけじゃないですか。とりあえずやめておく。シートベルトもそうです。それはいずれも権力による予防なんです。全く同じことが軍備の話においても語られます。隣国が攻めてきたらどうするんだということがずっと言われている。攻めてくるかもではなく攻めてくるんだ、と。相手は必ず暴力を使ってくるんだということがもはやデファクトになっているわけです。暴力が行使されることを前提に物事を考えるというのは、しかし実にひどい社会イメージなんですよ。あなたの隣人はあなたに常に暴力を振るってきますよ、と。本来、そんな世の中に住んでいたくはないですよね。

そうしたひどい社会イメージをもとに、セキュリティが設計され、禁じること、命じること、がなされていく。それがないとあなたは殺されてしまいますよ、と不安を煽りながら。そう考えてみると近代初期のリヴァイアサンの時代に戻っちゃったのかな、という気がしなくもない。ミルというよりもホッブスだったんじゃないか、と(笑)。質問のお答えにはなっていませんが、一度、それくらいまで話を戻して、国家なりが形成されて権力が行使されるという状況についてを一から考え直していかなければならないのかもしれないと思いました。

西迫 ミルが『自由論』で「毒を販売していいのか」という話をしていたことがありました。ミルは毒の販売を禁止してはいけないというわけです。毒は良い形で使われる可能性がある。実験だったりに使われる可能性がある。それは予防的に取り締まってはいけない。もし犯罪に使われたら事後的に逮捕するしかない。犯罪に使われる可能性があるからと販売禁止するのは良くない。ミルはそう言っていて、あらゆる禁止法について基本的にはよくないという考えを持っています。ミルは抑圧の時代に自由を論じた人だから、そういう話になっていたところはあるかもしれませんが。

あともう一つ、自民党の岸田さんが健康危機管理庁を作ると言ってて、あれには怖さを感じています。今でもコロナにかかりやすいかどうかの指標としてBMIが指標にされているわけですよね。太ってることが基礎疾患に入るのでコロナにかかりやすい、かかったら重症化しやすいと言われている中で、さらに健康危機管理をしましょうと国が言ったときに、おそらくは肥満にまで手を出してくるんじゃないか、と。あなたは肥満だからもっと痩せましょうねと、国に言われるようになったらそれは嫌だな、と思うわけです。そういう予防的介入に対しては、やはり慎重でなければならないと思います。あるいはタバコとかに対してもJTの出番が生じるかもしれない一方で、喫煙習慣についてはますます締め付けが厳しくなるかもしれません。

 それは本当に嫌ですね。際限がない。感染拡大防止に非協力的な人たちに対するSNS上での攻撃などを見ていて僕は嫌煙ファシズムの流れをすぐに思い出しました。タバコの煙に対して嫌煙家が示していた剥き出しの嫌悪感の延長線上に今日の状況がある気がする。それは僕が喫煙者だからこそ感じるところかもしれませんが。

さて、長くなりました。最後にしとねさんにも今日の対談の感想をお聞きしたいです。

逆卷 西迫さんのお話、JS・ミルが毒を売ることに寛容だった、というのはとてもおもしろい話ですね。よくよく考えてみれば、あらゆる物質の摂取には致死量があって、僕らは水道水でもオーバードーズで死ねるわけです。毒を致死量に達しない程度に摂取することを所与のものと考えておかないと生活は立ち行かない。その意味で、タバコや酒に限らず日常的に「おいしい毒」を摂取していることに自覚的になると、なにか特定の悪いものに非難の的を集中させる傾向にあるセキュリティの言説にもひねりが加わるかもしれない。ワクチンは新型コロナ対策としてはありがたいものかもしれないですけど、もし当のウイルスが存在しなかったとしたら、それは単体としては接種しても熱発や倦怠感を催すだけのただの毒でしかないですからね。ワクチンは、新型コロナという特定の毒を中和するためにつくられた、ある意味新たな毒である、という前提は忘れてはいけないと思います。ミルのような人がいるおかげで、われわれはニュータイプの毒を注射してもらえているわけです(笑)。他方で、既知の毒を摂取する日々を送る人が、未知の毒を怖がるのも当然のことですよね。

それから塚原さんのミリタリーに関するお話はハラウェイが長年批判していることでもありますけど、この状況において一番問題なのは、戦争の物語なのかな、という気がしますね。とりわけ新型コロナに関係するところでは、免疫系の学説に戦争のメタファーが多用されているという点ですね。免疫系の研究はスリーパーセルや前哨、反撃といった言葉に溢れているわけですけど、今の社会もなんだか免疫系の戦争物語のようになりつつある。でも全てが戦争の物語のなかで制度設計されてしまうと、視野狭窄になりがちだと思います。特定の敵をやっつけることに目的が設定されると、そこから外れるものは「副反応」として軽く扱われる。本来、法律や制度が作られても、その運用の仕方には行政、市民、家庭、仕事場、お店など状況に応じて結構幅があるものですよね。ただ戦時体制的な状況で設計されたものは敵と味方、国民と「非国民」というシンプルな分け方になっていて、運用の局面でも幅が出ない。単純な進み方しかなくなってしまう。新型コロナに関する諸々の語りを戦争から離れて語り直していくと、ワクチンパスポートをめぐる状況もいくらか変わるのではないでしょうか。そういう示唆をお二人から得ました。

 そうですね。コロナ禍について、あるいは僕らの生について、あらためて違う語彙で語り直していくことはとても重要な気がしています。とりわけ僕は、他者とともに社会で生きている以上、当然のごとく感じる不安や恐怖について、単にそれらを引き起こす存在をリスクとして除去しようとするのではない語りというのが本当に必要だと感じます。

また個人的には、先ほどフーコーの議論は横に広がっていくモメントを見出すのが難しいという話がありましたが、僕としてはある意味ではそれがフーコーの強みなのかもしれないと思いました。つまり、直ちには一般化しえないようなレベルでの市民的不服従がこうした局面においては実は重要なのではないかな、と。あらかじめ連帯を想定するのではなく、個別にそれぞれのワガママを行使していくこと、正論めいたものに異なる正論によって応じようとしないこと、誰がなんと言おうと嫌なものは嫌なんだと、たとえうしろ指を指されてもミリタリー化する世相の足を引っ張っていくこと。現実的な代替案を提示することとは別に、個々人のレベルではそうした非-連帯主義的で非-功利主義的な態度を取っていくことも有効なのではないかという気がします。塚原さんの言うように、これもまたハイパー功利主義的な語りなのかもしれませんが。

いずれにせよ、大変勉強になりました。この対談がまもなく日本でも交わされることになるだろう反衛生パスポート論の礎になればいいなと思います。今日はどうもありがとうございました。

 

 

 

 


 

西迫大祐 にしさこ・だいすけ/1980年、東京生まれ。明治大学大学院法学研究科博士後期課程修了。現在、沖縄国際大学法学部准教授。専門は法哲学、法社会学、フランス現代思想。主な論文に「HIV感染の刑罰化おける主体と責任について」(伊東研祐ほか編『市民的自由のための市民的熟議と刑事法』勁草書房.2018年).「生政治と予防接種」(佐藤嘉幸、立木康介編『ミシェル・フーコー「コレージュ・ド・フランス講義」を読む』水声社.2021年)など。著書に『感染症と法の社会史 病がつくる社会』(新曜社.2018年)。

 


 

塚原東吾 つかはら・とうご/1961年東京生まれ、城北高校、東京学芸大学卒、同(化学)修士修了、オランダ国費留学生、ライデン大学医学部博士号取得、ケンブリッジ大学・ニーダム研究所にてフェロー、東海大学文学部講師・助教授、神戸大学国際文化学部准教授、などを経て神戸大学大学院国際文化研究科教授。著書に『科学機器の歴史:望遠鏡と顕微鏡』(編著, 日本評論社, 2015)、『科学技術をめぐる抗争(リーディングス戦後日本の思想水脈第2巻)』(金森修と共編著, 岩波書店, 2016)など。

 


 

逆卷しとね さかまき・しとね/学術運動家・野良研究者。HAGAZINE(北)九州支部。市民参加型学術イベント 「文芸共和国の会」主宰。専門はダナ・ハラウェイと共生論・コレクティヴ。Web あかし連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」 (https://webmedia.akashi.co.jp/categories/786)、Web生きのびるブックス連載『自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論』(https://ikinobirubooks.jp/series/sakamaki-shitone/87/

 


 

辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、『HAGAZINE』の編集人を務める。『BABU伝—北九州の聖なるゴミ』を弊誌にて連載中。

 


 

 

〈MULTIVERSE〉

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義