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逆卷しとね 『ガイアの子どもたち』 #03 革命はこの〈せせこましい身体〉から始まる──長谷川愛と「あいみょん革命」の20XX

学術運動家・逆卷しとねが毎回異なるゲストと共に、オリジナルなクリエイターという“古いフィクション”を乗り越え、「動く巨人」と共に行う制作という“新しいフィクション”の可能性を考察する対話篇。二人目のゲストはアーティストであり、デザイナーであり、研究者であり、そしてなにより〈革命家〉である、長谷川愛。

INTRODUCTION ──「あいみょん革命の狼煙」

 パンパンに膨らんだリュックサックをがさがさと漁る。なかなか出てこない。やっと出た。でも財布の代わりに出てきたのは大きな長靴。え、リュックに長靴が入っている人、初めて見たんですけど。「明日朝早いんすよ、サメを釣りに行くんで」。第一回https://hagamag.com/series/ss0066/7852のゲストである大小島真木さんと初めて会った日の夜、長谷川愛さんはちゃんと飲み代を払って、翌朝早朝には長靴を履いて釣りに行った。たぶん。

「サメのことが好きっていうよりは、サメになりたいです。それぐらい好き」。

 僕が長谷川愛さんに出会ってしまったのは、それより遡ることおよそ9か月前、2019年3月23日に九州大学芸術工学部大橋キャンパスで開催された、バイオラボ・フードラボ開設記念シンポジウム「創造性の学び方 知性と生命をとらえなおすための対話」(記録→http://admission.kyushu)だった。僕は聴衆のひとりとして参加しただけだったけれども、なんとなく打ち上げに参加し、なんとなく長谷川さんに話しかけてみたら、なんとなくサメのディープトークに耳を傾けることになった。そこから長谷川さんを含めた初対面の人たちと二次会、三次会と梯子をし、なんならスナックでカラオケに興じ、なんなら気がついたらもう朝で、僕は初めて会ったYCAMの研究員の人と一緒に帰途についたのだった。長谷川さんとの遭遇の記憶は、徹頭徹尾、サメである。

 そういうわけで、長谷川愛とは何者かと訊かれたならば、ああサメ肌の人ね、と相槌を打つことは必定である。ところがその作品群のサメ色は薄い。どちらかと言えば、生きものそのものよりはテクノロジーにどっぷり浸かっている。そもそもメカに強そうな野武士を輩出することで有名なIAMAS出身だし、未来志向のデザインを学ぶRCA出身だし、MITにもいたことがある。なにせマサチューセッツ・インスティチュート・オブ・テクノロジーである。なにも不思議なことはない。大小島真木さんは海の生物をたくさん描くし、しばらくのあいだ航海もしたことがあるけれども、人工物を描くのは苦手だと言った。だからダイビングを始めとするマリンスポーツや釣りが大好きなのに、人工物の作品化に熱中している長谷川さんに話を訊いてみようと思った。ものごとのつながりは、事前にはほとんど無関係に思えるくらい些細なもので構わない。ただつながることよりも、つながり方を変えてしまう出会いの強度のほうが大事だからだ。

 対談に備えたリサーチは些細では済まない。ダナ・ハラウェイのインタヴューの拙訳https://hagamag.com/uncategory/4293にも言及のある、長谷川さんの著書はもちろん、スペキュラティヴ・デザイン、さらにはデザイン一般の本も読んでみた。ウェブ上でアクセスできるpdf、映像、インタヴューは網羅した。もちろん、長谷川さんのHPも隅々まで見た。なるほど、僕はもう巻きこまれている。

 僕は前回こう書いた。

 

#01 序論「巨人と/をつくる──涯てしない“わたしたち”の物語」(https://hagamag.com/series/ss0066/7356)は、近代的なクリエーターとしての個体を単位とする作者性を、協働制作の観点から再考する、という趣旨の論稿だった。協働制作の観点から見ると、作者性は個体に閉じることを許されない。涯てしなく運動していく作者は、人間だけではなく、さまざまな生きものやモノ、技術を巻きこみながら、その運動の途上に制作物を残していく。この運動は誰にも所有できない。

 

 この連続対談シリーズそのものがさまざまな人と出会いながら変容していくひとつの運動体を体現しているために、僕自身、早くも忘れそうになっているのだけども、そもそもの趣旨は、作家の制作行為に割り当てられた「作者性」(authorship)を「著作権者」(copyright holder)には還元できない、パッチワーク状の巨人を制作するある種の動態として再考してみようというものだった。思い出した。

 長谷川さんの「作者性」は、変わっていくことを恐れず、自らの身体に対しても世間の倫理観に対してもぎりぎりの折衝を行う、ケアの実践の束だろうと思う。いろいろな意味でアブないデザインを作品化するにあたり、ケアの実践は欠かせない。もちろん、その実践には「オオコジマン」のドローイングと同様、キメラ的な胡乱さと倫理的な危うさがある。生命科学やデザイナー、編集者、釣り仲間、そして釣られるサメとの濃厚接触を通じて被る、あたりまえが変性するプロセス(denaturalization)が、長谷川さんの、しかし「長谷川愛」という著作権者には収斂しない実践の束にはある。どの作品にも「長谷川愛」という著作権者名が付与される以上、どの作品も法的には等しく長谷川さんに帰属する。けれども作品はそこには尽きない。どの作品もそれぞれ質の異なるデザインと「作者性」を呼び寄せるからだ。

 作者性は、いくつかのプロセスが離接合を繰り返し、ねじ曲がったり、逸れたり、気づいたり、閃いたり、諭されたりしながらぐちゃぐちゃに捏ね上げられる。雲を掴む「オオコジマン」とはまた一風変わったこの長谷川愛さんの作者性を、どのように名づけるのが正しいのかわからないが、対談収録の構成を経て僕のもとに届いた原稿を読んだ段階の僕は、蛮勇をふるい「あいみょん革命」と呼んでみることにしてみた。仮名ではあるけれども、モノモノしさを僕は感じる。愛らしい名称に響くかもしれないが、その内実は実に恐ろしい。フォルムの愛しさに魅せられて近寄っていくとぶすりと刺される。革命は危ない実践である。長谷川さん個人の制作行為を含みつつも、それを超える革命行為の束であるこの「あいみょん革命」の末席に、この僕も呑まれてブスリとやられ、洗脳された。これこそ出会いの醍醐味だろう。

 以下、僕という一人称は「しもべ」と読んでほしい。かくして連続対談の第二回では、革命家の下僕である僕とともに、革命家・長谷川愛が「あいみょん革命」の途中経過を語る。

 

私たちには本当に“血縁の子ども”が必要なのか

逆卷しとね(以下、逆卷) 最近、愛さんはよくトークイベントに登壇されていますよね。

長谷川愛(以下、長谷川) そうですね。本当は本を出版した時(※)に出版記念イベントを色々とやる予定だったんですけどコロナでダメになっちゃって。それでこの前、この本の編集の塚田有那さんとドミニク・チェンさんと3人であらためて合同トークイベントをしたんです。

※長谷川愛は2020年1月に初の単著『20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業 』を出版している。

 

 

逆卷 ドミニクさんも最近、本を出しましたよね。

長谷川 そうそう、ドミニクさんの本はウェルビーイングについての本だったので、だからイベント名が「ウェルビーイングな革命」になってて。ただ強引にくっつけただけじゃんっていう(笑)

逆卷 ドミニクさんと有那さんは、《Shared Baby》プロジェクトの時に、一緒に疑似家族をつくった仲間ですよね。あの作品では、体外配偶子形成の技術を用いて4人の遺伝的形質を受け継いだ子どもをつくる、というロールプレイされていたわけですけど、現実には2人以上の人間の遺伝的形質を持った子どもをつくるということは技術的に可能なんですよね?

 

《Shared Baby》(2011)(2019)

 

長谷川 そうですね。それこそ今日ではCRISPR-Cas9などのゲノム編集技術を使えば原理上は100人の親から子どもをつくることだってできると言われています。ただ、私の作品ではそうした先端の遺伝子編集技術などは使わず、もうちょっと枯れた技術とまだ発展途中の技術の組み合わせを想定しました。あるカップルから精子と卵子を体外受精させて、受精卵をつくり、そこからES細胞をとりだし、さらに体外配偶子形成という技術を使ってその細胞を卵子や精子に変えて、また受精させます。子どもを飛び越えていきなり孫をつくるみたいなイメージです。

というのも、以前、八代嘉美さんという幹細胞生物学や科学技術社会論の研究者の方とお話しした時に、やっぱり遺伝子編集技術などを使って今までとは全く違う形で子どもをつくるということには不安があるよね、みたいな話になったんです。だから、もうちょっと手前で「いきなり孫をつくる」というくらいであれば、どこかナチュラルな感じがするし、倫理的にもOKな気がする、と私は思っているんですが(笑)。だから、まあ4人の親でとりあえずやってみましょうとなったんです。本当は男女同数の方がわかりやすいんですけど、ワークショップではドミニクさんだけがお父さんという設定でしたね。

逆卷 そもそも、なんで4人の遺伝子を受け継いだ子どもをつくろうという発想に至ったんですか?

長谷川 私自身、子どもを欲しい気持ちはあるんですけど、一方で今の社会において親が二人では子育ては難しいんではないかという思いもあるし、あるいは地球規模で見たら人口過多でもあるわけだからむやみには人間を増やしたくないという気持ちもあって。ただ、2人の人間に対して1人や2人の子どもだと多すぎるけど、4人の人間に対して1人や2人の子どもであったら、そうした問題もクリアできるんじゃないかって思ったんです。人口削減についても、これまでの考え方にはなかった数の減らし方ができるんじゃないかなって。

その考えは《I Wanna Deliver a Dolphin…》の時にもあって、あれは人間がイルカの代理母になるという話ですけど、念頭にはやっぱり人口過多があったんです。これ以上人間を増やすべきではないという思いと、それでも子どもが欲しいという思いとの間のチョイスとして、こういう可能性があってもいいんじゃないかって。

 

《I Wanna Deliver a Dolphin…》(2013)

 

もちろん、意識してたのは人口問題だけではなくって、たとえば動物にはきちんと子育てをする動物もいる一方で、割と子育てに関して適当な動物も割といる。産みっぱなしみたいな種って結構いるんですよ。「聖母信仰」みたいなのも理解できるのですが、一方でそういう種を見ているとどこか羨ましいなと思うところもあって、もうちょっとカジュアルに親になることはできないだろうか、というのも考えてはいましたね。

逆卷 愛さんの作品の背景になっている問題は、人口や食糧のように、人類と地球の存続可能性にかかわっている場合が多いですよね。僕が面白いなと感じるのは、子どもをつくるという営みを「遺伝子を受け継ぐ」という観点からだけではなく、代理出産まで展開させているところです。いずれにしても、出産の問題系へのこだわりは強いですよね。

長谷川 そうですね。たとえば養子を取るという選択肢もあるんですけど、一方に動物としての本能的な部分もあるし、自分の身体に備わっている機能を使わないことに納得がいかないみたいな思いもあります。女の身体に生まれて特にそれによっていい目を見てきたという実感もないのに、男と比較した時に唯一の特性を使わないで生きるというのはなんなんだろう、みたいな。だから生殖機能を使いつつも、今までとは違う形での使い方を考えたいんです。

たとえば生物というのは自分のコピーを未来へと繋いでいくことに本質があるというような考えにも、やっぱり違和感があるわけです。そういう考えに立つと、自分の実子を持たない人たちがダメな人たちということになってしまう。一方で自分の子どもを見てみたいという気持ちもある。それで一つのオルタナティブな選択肢として《Shared Baby》をやってみたわけですけど、面白かったのは逆にそうした疑似家族をつくってみたら、血の繋がってない養子でも全然いいんだなって思えるようになったことですね。たかが3時間のロールプレイとはいえ子育てや家族をしてみると、彼らが愛おしくて尊くて、目の前にいる彼らを大切にしたいなと、血縁かどうかが副次的な問題に過ぎないことを感じたんです。

 

《Shared Baby》(2019)より

 

逆卷 愛さんのある作品を見た方から、「なぜ養子じゃダメなのか」という意見を言われたことがあった、とどこかでお話されていましたよね。

長谷川 《(Im)possible Baby》の時ですね。あの作品では実在するレズビアンカップルの遺伝情報からその二人の間に出来うる子どもの姿をつくりだして、擬似的な家族写真を制作したんですけど、本当に賛否両論いろいろとありました。中でも私がこれは考えなければいけないと思った批判の一つが「この作品は血縁主義を強固にする」というものだったんです。

 

《(Im)possible Baby》(2015)

 

逆卷 《(Im)possible Baby》に向けられた批判への愛さんなりの応答が《Shared Baby》だったわけですよね。愛さんの場合、ある作品の鑑賞者から寄せられた意見や反応が、のちの作品の制作に反映されていることが多いのでしょうか。

長谷川 そうですね。そもそも《Shared Baby》は2011年の作品で、《(Im)possible Baby》よりも古いんですけど、そういう批判を受けて、自分自身、なんでこんなに血縁主義に囚われているんだろうと思ったんです。だから、それを見直して、もう一回やり直そうと思い、2019年にもう一度、《Shared Baby》をやり直したんですよ。

あと技術的にも2011年の時点ではなかったものが生まれているということもありました。ミトコンドリア置換治療として3人親の遺伝子をもつ子供は2011年にすでにメディアで話題になっていて、その後、2016年にメキシコやウクライナで実際に生まれています(※)。 更に2019年にはCRISPRを使った子供が中国で産まれたりと、体外配偶子形成もリアルな話になってきていて、本当に《Shared Baby》をやろうとすれば出来てしまう時代になっていた。だから、そうした現実を踏まえて、もう一度語り直そう、と。本当に私たちには血縁の子どもが必要なのか、そこから考えてみたかったんです。

※Web論座「3人の親」を持つ子どもをどう考える?  https://webronza.asahi.com/science/articles/2016120100013.html?fbclid=IwAR0qV3hUOZz8uG3SJnVwQ9iw3ULUZHdPk_mmhUwgwMG_O9dhBteDEmCoGTM

八代さんとお話した時にも、遺伝子が1/4とか1/5になっていったら、子どもを見ても、どの部分が自分の遺伝情報かなんて分からなくなっていくよね、という話になって。それこそ1/2であれば、この目はお父さん、口元はお母さん、みたいにある程度は判別できたりするかもしれないけど、4人や5人だと薄まりすぎてよく分からない。だから、4人や5人で子どもをシェアするという時に、果たして血縁性にこだわる必要ってあるのかなっていうことを八代さんとも話してたんです。

しかし、そういう視点に立って考えていくと、じゃあおじいちゃんやおばあちゃんとの繋がりってなんだろう、みたいな疑問も湧いてくる。血縁というものがリアルなものでもありながら、実はファンタジーでもあるんだなというところに気づかされるんですよね。結局、さっきも話したように、《Shared Baby》では血縁というファンタジーに技術を介入させることによって、新しい家族を作る試みをしていったわけなんだけど、その経験が逆に血縁主義を相対化させることになったんです。

逆卷 たとえばダナ・ハラウェイは、Staying with the Trouble (2016)において、ひとりの子どもに対し、親は最低3人必要、と言っているんです。出生奨励主義(natalism)の世界だと、子孫を残すことばかりが肯定される。遺伝子の垂直伝播の物語を展開するネオ・ダーウィニズムもそうですけど、近代国家は国力増大のための出産に専心して、産まれた存在を大切に育てることにあんまり頓着してこなかった。ハラウェイは、育てるほうに舵を切りましょうよ、というわけです。現実的に、子どもが生まれた場合、遺伝的親以外にもう一人親をつけると、親の一人が死んだとしてもいきなりひとり親の養育に陥ることはないし、親の二人がインフルエンザで動けないときでも、もうひとりが子どもの面倒を見ることができる。ひとりの子どもに対するケアが手厚くなる。つまり、出産ではなく養育という観点から見た場合、子どもは、もっと手厚いケアに値する社会的にレアな存在であるべきなんだ、というわけですね。子どもをたくさん産んで数を増やしましょう、そうすると国家は栄えます、という国家を基準とした物語が孕んでいる問題は、同じ文化や遺伝子を再生産して異物はできるだけ排除するという純血主義だけではないんですね。その物語に則ってたくさん生まれてくる子どもたちが、グローバル資本主義の体制のなかで「勝ち組の人たち」によって搾取される使い捨て可能な生/労働力になるという問題は看過できない。逆に親を増やし、人間の子どもを希少な存在とする実践は、人間の活動を特権視する人間例外主義や人間を始めとするさまざまな生物を搾取するための資源とする資本主義の体制に内在したまま、これらを変容させていく可能性のひとつになりうる、とハラウェイは考えているんです。

 

 

長谷川 面白いですね。それこそこの前、代理母をめぐるSNS上の論争があった時、人間を産める人工子宮のような技術があったらいいんじゃないかという話も出たんですよね。ただ、そこにも批判があって、それは人工子宮のようなものができてしまったら奴隷や兵士が簡単につくられてしまうじゃないかというものだったんです。でも、今はその役割を実際の人間が担っているんだよという話でもあって、そこが問題だと思うんですよね。

逆卷 結局、人工子宮にせよ従来通りの出産にせよ、子どもをいかに希少なものとして育てるかということが重要なんだと思います。子どもの数を増やすのではなく、子どもを育てる親の数を増やすことは、子どもを大事に育てること、ひいては養育過程で子どもが生み出す関係を、人間や国家の血のつながりに収斂させずに多様化することにつながるんでしょうね。

長谷川 たとえばキリスト教圏にはゴッドファーザー、ゴッドマザーみたいな存在もあるわけですよね。私の知り合いにも「私、ゴッドマザーなんだ」って言ってる人もいますけど、しかしその一方でそこにはなんの法的根拠もないなと思っていて、それこそゴッドマザーがその子にいかにもう一人の親として愛着を持っていても、仮に実の親と喧嘩してしまったりした場合、その途端に絆が断ち切られてしまったりするわけです。だから、《Shared Baby》では法的なシェアということも想定はしていて、きちんと契約をかわしていくというところまで描きました。そういうところを詰めていかないと、ある意味、搾取的になってしまうんですよね。実の親にとっては彼らの気分で切ることもできるような都合のいい存在になってしまう。それはフェアじゃない。それこそポリアモリーの人たちなんかの場合は、3人目のパートナーと養子縁組を結んだりすることで調整していたりしてますね。もちろん性的虐待リスクもあるので親メンバーや関わる大人をどう監督するか、例えば大人一人だけでは子供と一緒にいさせないなどの工夫が必要なんですけどね。

 

《Shared Baby》(2019)より

 

逆卷 血縁に閉じない関係は、文化的にどうこうという話でもありつつ、実践的には法や権利といった制度をつくり直していくという話でもあるんですね。

 

ゾンビ蝉の自由意志 ──あるいは保守的な進化

逆卷 愛さんの作品の面白さって、<できること>の先を見据えているところにあると思うんですね。たとえばバイオアートでは、遺伝子を混ぜ合わせたり改変したりというところで満足しちゃっているような作品が多い気がするんです。技術的に可能な範囲で、倫理的に危ないかもしれないことをやってみる、というトライ。でもそれだけだと、生命科学の世界で当たり前に問われている倫理の問題系に収まってしまう。愛さんの作品はその向こう側に向かおうとしている感じがするんですよね。たとえば《極限環境ラブホテル》という作品がありますよね。あの作品では木星並みの重力環境の部屋を作って、そこに放りこまれた人間の性欲がどのように変容するのか、あるいは性欲がなくなってしまうのか、という問いかけがされているわけですけど、技術的にできそうだから倫理的に議論を呼びそうなことをやってみました、という作品ではないですよね。愛さんの場合、異質な環境の中で育っていく人間関係や、そこで変容していく感性のプロセスに、あるいは未知の物語に重点が置かれている気がするんです。

 

《極限環境ラボホテル、木星ルーム》(2012)

 

長谷川 私もキメラとかへのファンタジーは理解できるんですよ。ただ、そういうファンタジーは昔からあったものですよね。私としては、今の技術によって私たちの想像力の可能性はかなり拡張されているはずなのに、相変わらず「混ぜてみよう」「キメラ作ろう」みたいな割と分かりやすい方向にばかり想像力が向かってしまっていることにもったいなさを感じているんです。技術としても似たような技術ばかりに関心が集まってて、すでにある成果を用いて何かしようっていう試みが多い気がします。ただ、たとえばサメという動物ひとつを見てみても、まだまだ分かっていないことが多かったりするんです。そうした研究が進むきっかけとなるようなアプローチも本当は考えられるはずなんですよ。

逆卷 《Human X Shark》ですね。サメを誘惑するための香水を作るというプロジェクトでしたけど、技術的にはかなりレトロですよね。もちろん、最先端の生化学的なリサーチを踏まえてはいますけど、技術的にはいろんな物質を調合するという、科学技術の源流にある錬金術のような趣きもありますね。

 

 

長谷川 そうそう。ただ、あの香水に関しては動物倫理に抵触するところもあったり、あるいは展示の上での危険性もあったりして悩ましい思いをしました。要するに、サメのフェロモンを特定し、それを香水にするというプロジェクトだったんですけど、サメのフェロモンはまだ特定されてないのですが、金魚やゼブラフィッシュで特定されているフェロモン「PGF2α」は排卵時のメスの尿に混じって排出されて、オスがそれを嗅いで追尾行動をする。それと同じ化学物質が人間においては陣痛促進剤になる。魚と人間、進化ですごく遠い位置にいるのに性に関する化学物質が共通するのってロマンを感じます。とはいえ、展示に妊婦さんとかがいらした場合、ちょっと危なくなってしまうのでその成分は入れてないです。イメージ映像作品と安全な香水のセットで10月16日から3月7日まで、六本木の21_21デザインサイト『トランスレーションズ展』でも展示しているので観てくださいねhttp://www.2121designsight.jp/program/translations/?fbclid=IwAR3J5WHIuHBkjIiUzSETOS9iJUc46Waj2AR9v8aNu3dzurkIIdIlItXr16U

 

 

 

逆卷 O-157とダンスする作品などいろいろおもしろそうな展示ですよね。期間も長い。しかしまあ、たしかにそれだとフェロモンの香りそのものの展示は難しそうですね(笑)

長谷川 そうなんです(笑)。でも、現実にはすでに逆の形で起こっていることなんですよ。たとえば今、海中に人間のホルモン系が流れ込んでしまっているのがすごく問題になってます。それこそピル飲んでいる人とかのおしっこにはホルモンがいっぱい入ってるんですけど、それが下水道を通じてそのまま海に大量に流れていっちゃってる。それが生物に何らかの影響を与えるんじゃないかって言われてます。

この前、奄美大島に行ってダイビングをした時に、うっかり海中でおしっこしたいってなっちゃって、そういう時、ダイバーはスーツ内でそのまましちゃうんですね。そしたらその後、私のことをウミヘビがめちゃくちゃ追いかけてきたんです(笑)。私は最近、ミレーナという避妊リングを生理痛の軽減のために入れたんですけど、これはピルと同様にホルモン系が入っていて、それがゆっくりリリースされていく仕組みになってるんです。その影響もあるのかなと思った。ウミヘビは呼吸をしなくてはならないから、空気欲しさにダイバーを追いかける説もあるんですが、他に人がいるなかで私だけ30メートルくらい追いかけてこられて怖かったです。

逆卷 人工的な化学物質が自然界に流出することでいろんな生物の行動変容が起こるということはありえそうですね。

長谷川 ありえるんじゃないかと思ってます。環境ホルモンという言葉もありますよね。実際、スウェーデンの研究で避妊用ピルのエストロゲンの一種が水に残り魚も受容体が多いので影響を受けているという報告もあったりhttps://www.sciencedaily.com/releases/2016/03/160304092230.htm。昔、アメリカのデザイナーの方が、おしっこに含まれるホルモンを意識して、庭でおしっこだけで植物を育てるみたいなプロジェクトをやっていましたけど、意外と人間と他の種の間で共通して作用する化学物質は多いんじゃないかって言われてます。こういう話には面白さもあるんですけどね。

逆卷 コロナ以降は人獣共通感染症という言葉も広まりましたよね。ウイルスがシェアできるわけだから、当然、化学物質もシェアできますよね。

長谷川 以前、飯郷雅之先生という宇都宮大学で魚類のホルモン系の研究をしている教授に話を聞きに行ったことがあって、魚と人間は生物種としてはかなり昔に分岐しているにも関わらず、いまだ重要な部分に共通している部分も多かったりするのはなぜなのかを聞いたんです。サメのホルモン系が人間の子宮に作用するというのはどういうことなのかって。そしたら飯郷先生は生物にとって重要な部分は変わりすぎてしまうと絶滅してしまうからそう簡単に変わらないようなシンプルな作りになってるみたいな、そういう進化をしてきたんじゃないかっておっしゃってて。

 

 

逆卷 そう、進化は保守的だと言いますよね。たとえば進化発生学においては、ある生物種のボディプランは強力な拘束力をもっていて、どれだけ時間を経ても細かい部分はさておき、大方のデザインには変更はない。さらに言うと、かたちの相同性で分類された種とは別に、遺伝子レベルでの相同性が種を超えて実装されていることが明らかになってきたといいます。有名なのはホメオティック(ホックス)遺伝子群ですね。これは胚発生の初期において体節の構造、つまり脚の数やその位置の決定などを司る遺伝子群なのですが、異なった動物門どうし、たとえば哺乳類とハエのホックス遺伝子群を入れ替えてもそれぞれ正常に胚発生できる。まったく大きさも構造も異なるからだなのに、そのからだのデザイン形成を司る遺伝子群はほとんど同じだというのは驚きですよね。

他方で、一般的な遺伝型をいくら精緻に明らかにしても、遺伝子、胚のかたち、遺伝子制御ネットワーク、分子レベルでの分布が複雑に絡み合う個別の表現型はよくわからないといいます。基本的なデザインのなかに、ある程度の冗長性や可塑性が予め含まれているということですよね。ゲノムが10%変わったからと言って、表現型が10%変わるわけではない。いくつもの遺伝子を除去してもなにも変わらないかもしれないし、ほんの少しの遺伝子をいじるだけで大きく変わってしまうかもしれない(倉谷滋『進化する形 進化発生学入門』講談社、2019年)。そのような不確定性があるから慎重になる必要があります。だから、ノーベル化学賞を受賞したCRISPR-Cas9のようにDNAの塩基配列を侵襲的に変えてしまうのではなく、遺伝子の発現スイッチに介入して不都合なものをオフにしてしまうエピジェネティクス編集技術も研究されているようですhttps://wired.jp/2018/02/04/whats-next-for-crispr/。人間のデザインに直接介入する遺伝子操作よりも、愛さんの作品のように、器官レベルでの改変やケミカルなレベルでの可塑性に手をつけたほうが、安全な気はしますね。

 

 

長谷川 もちろん、動物倫理という視点も無視はできないんですけどね。それで言えば数年前にイルカとセックスをしているという男性の書いたテキストを読みました。その男性は動物倫理にも言及されてたんですが、彼の理屈が面白かったんです。もしイルカたちが自分のことを嫌がっていたら、水中では明らかに自分より彼らの方が強いんだから逃げることができるはずで、それなのに彼らは逃げないというのは合意があるということなんだ、みたいに書いてあった。その是非はともかく、イルカとかだと人間のインフルエンザとかも感染するんですよね。そういう接触によって、起こりうることには興味があります。

 

《HUMAN X SHARK》(2017)

 

それこそハラウェイも犬とキスをすると、それによって菌が移動してきて身体の中に入ってくるということを、喜びをもって書いてますよね。そこを喜ぶことができるということと、たとえば今日の人獣共通感染症の問題とをどう一緒に考えるのか。どっちにしても、今まで離れていたものたちが会ってしまった、接触してしまったことで起こることですから。

逆卷 その出会い方も様々あるみたいですよね。個体間の関係には限らなくて、感染に際し複数種のジャンクションになる種もいる。それこそ豚は遺伝子再集合の現場になりやすいと言われてますよね。鳥由来のインフルエンザウイルスとヒト由来のインフルエンザウイルス、そして豚由来のインフルエンザウイルスが、豚を宿主としてキメラウイルスになるという(堀本研子+河岡義裕『インフルエンザ パンデミック 新型ウイルスの謎に迫る』講談社、2009年)。

 

 

長谷川 そうですよね。ただ思うのは、今回みたいなパンデミックがあると、その危険性ばかりに目が向かいがちだけど、逆を言えばすごく有益な菌やウイルスがそこで作られる可能性もあるんですよね。なんかそういう自然のシステムを使って、何か全く違ったものを作れないものかって考えちゃいます。それこそ、それがパンデミックを起こすことによって、世界中の人々の性格がマイルドになって平和になるような(笑)

逆卷 実際、大腸菌が人間の精神に影響を与えている、第二の脳は腸である、という話は有名ですよね(藤田恒夫『腸は考える』岩波書店、1991年)。あるいは、愛さんが前にトークでも取り上げていたゾンビ蝉みたいな存在もそういう話ですよね。マッソスポラと呼ばれる真菌(カビやキノコの仲間)に感染したセミが性行動へと無限に駆り立てられるという。

 

 

長谷川 ゾンビ蝉はめっちゃ面白いなと思ってます。あの存在によって、私の中のゾンビの定義がだいぶ揺らぎましたから(笑)。寄生する虫や菌の存在は知っていましたが、まさか性行為にまで影響を及ぼすものがいるというのが驚きだったんです。だって、そういう存在がいるとすると、私たちの性欲がそうではないという保証もまたないってことになるんですよね。何か別のものに操られている可能性はある。あるいは全ての意思決定が、実はそういう寄生するものたちが及ぼす効果のパッチワークなのかもしれない。実際、私がゾンビではないと証明することは難しいんですよ。これは自由意志があるかないかみたいな話だけど、ゾンビ蝉の存在によってそういう話がリアルになりましたね。

そこに関して言うと、社会的マイノリティや今の社会に絶望している人たちというのは、実は社会的ゾンビの逆の人たちじゃないかとも思うんです。これは情報とかもまた菌のように私たちに寄生するものと捉えた時の想像ですけど。

逆卷 社会に適応できている人がゾンビで、適応できてない人が正気。それは面白い発想ですね(笑)

長谷川 私たちをコントロールしようとしているものはいっぱいあると思うんです。それこそコロナもそうかもしれない。そういうイメージの膨らませ方は好きですね(笑)

 

天国を再発明する── 死のテクノロジー

逆卷 今の話もそうですけど、人間とそれ以外みたいな形で分けてしまうとわかりやすくなることもあるのだけど、わからなくなってしまうこともとても多い気がしますね。「これが人間、ここまでが人間」みたいな定義を厳密にしてしまうことで見えなくなることは本当に多い。

その点、愛さんの作品の基底には、人間は閉じたものではなく、他の生きものと共通する部分が必ずあるという信念があるように思います。おそらく実証的には永遠にたどり着くことはないでしょうけど、あらゆる生物の共通の祖先がいると言われていますし。親、祖父母、曾祖父母、そのあと「ひい」を何個つければいいかは分からないけれども、遡っていく過程でいろんな生物となにかしら接点は見つかるんですよね。

長谷川 逆の言い方をすれば、人間を人間として扱わないようにしているところもあるんです。あらかじめ人間だと考えると、その枠内でしか発想できないけど、それこそ《極限環境ラブホテル》でやろうとしたことは、そうした枠の外に人間を置くことだったりして。私たちってずっとこの地球環境の中で生きてきているけど、ちょっとでも環境のパラメーターが変わってしまうとすぐに死んじゃうかもしれない脆さも持ってる。ただ一方で意外といけたりもするんじゃないかって思いもあるんですよね。

 

《極限環境ラボホテル、石炭紀ルーム》(2012)

 

逆卷 なるほど。人間を人間扱いしない方向のギリギリを攻めていっている感じですよね。

長谷川 そう。どこまで私たちの身体がいけるかということは実はまだよく分かってない。それこそ、今はギリギリの環境でも、その環境で数世代にわたって生活をしてみたらどうなるのか、どう進化するかなんて、誰にも分からないんです。水辺に住んでいる人が潜水に強かったりするのは脾臓が大きいからだっていう話もあるし、アフリカの高地に住んできた人がやたらマラソンに強かったりするみたいなケースもありますよね。それを考えると私たちの身体的な進化の可能性にはまだまだポテンシャルがあって、それをもっと知りたいなって思うんです。あとは身体だけではなく私たちのマインドセットについても、今はこうなってるけど、環境が変わったらそれがどうなっていくのか、すごい気になる。そこらへんを探る上では心身ともにハードなワークであるセックスが行為として最適だなと思ってるんだけど…、ただ実験がしにくいんですよね(笑)

逆卷 毎回、同じパターンになるとも限らないし、変数が多そうですよね(笑)

長谷川 条件を整えるのがね、難しい。ただセックスではないけど、多分、来年あたりにそういう展示をやることになりそうです。ギャラリーに極限環境のラブホテルを一室作ろうかな、と。

逆卷 極限環境ギャラリーを(笑)

長谷川 そうなんですよ。でも、ちょっとやっぱり怖さもあるんですよね。今回は酸素量を調整しようと思ってて、まず最初は石炭紀の頃の大気環境を作ってみようかなって思ってたんです。石炭紀は酸素量が多くて、だから今より虫とかが巨大だったんですよね。ナウシカの世界観です。ただ、一方でその後のジュラ紀の大気環境も興味深くて、ジュラ紀になると今度は二酸化炭素濃度が高いんです。これは地球がこのまま温暖化していった場合に、そうなる可能性のある大気環境で、それを再構成してみるというのも面白いかなと思ったり。ただ二酸化炭素量の出し方を少しでも間違えたら人は簡単に死んでしまうんですよね。酸素と二酸化炭素って実は毒ガスにもなりうる。だから、どうやって安全性を担保できるかが考えどころで、今からドキドキしてます。でも多分、そんだけリスクをとって展示してみても、あんまり理解はされない気がするなあ(笑)

逆卷 死んじゃうかもしれない、というところでいうと、愛さんは出生をテーマにした作品は多くあるけど、死をテーマにした作品はまだあまりないですよね。たとえば人口問題を念頭に置いた時、死について考えてみるとまた異なるデザインの可能性があるかもしれない。ただ、人口と死ということになると、優生思想に結びつきやすい分、出生よりもナイーブなテーマとも言えます。愛さんは死についてはどう考えてますか?

長谷川 まさにその通りで、死に対するテクノロジーの話、その線引きの話をする方が、現代ではタブーになっているんですよね。結局、再分配の話にどうしてもなってしまうときに、どういう語り方ができるのか、すごく難しい。コロナ以降もトリアージという言葉が注目を浴びてたじゃないですか。もし、誰かを優先して助けなければならない際、どういう判断をするべきなのか、と。たとえばイタリアでは何歳から上は後回しという話になってて、ドイツとかだと年齢、性別、人種での区切りは一切しないという形になってる。それはいかなる線引きでも差別につながってしまうからという理由からです。あるいはNYとかだと17歳以下を優先に助けますという言い方をしている(※)。果たして、どれが妥当なのか、分からない。

※Triage in the COVID-19 Pandemic: Bioethical and Human Rights Considerations https://www.researchgate.net/publication/340548071_Triage_in_the_COVID-19_Pandemic_Bioethical_and_Human_Rights_Considerations

逆卷 たとえば死刑制度でも、一人の人間だけが罪悪感を感じないですむように、二人以上の人間が処刑のスイッチを同時に押すような設計になってますよね。

長谷川 そうそう。いずれにしても難しいトピックなんですよね。私としては正直、老人は相対的に長く生きているという理由から、若い人に生きる機会を与えるという線引きがフェアな気はするけれど、それがなにがしかの差別に繋がるという話も正しい気はしてて…うーん。

逆卷 特に労働生産性を基準にした選別が批判されていますね。

長谷川 もし労働生産性を基準にするなら、私も全く賛成できないですよ。ただ、時間を若い人に優先的に与えるというのは、労働生産性とは違う話だと思う。

逆卷 誰しも老いますからね。

長谷川 そうそう。でも、だからと言って、「若い人を優先、それでOK」っていうような簡単な話ではなくて、どんな線引きの仕方を選んでも、モヤモヤは残るんだと思います。そういう意味では、死をぼかすようなテクノロジーがそのうち出てくるとも思っていて、それこそ脳アップロードの技術が生まれたら、ある程度、解決する気がするんです。

死後の不安を解消するのはこれまで宗教が担っていた役目ですよね。死んだら天国があります、極楽がありますみたいに、言い方は様々だけど、死をそこまで恐れなくてもいいような機能を宗教が果たしてきた。でも、今はそれが一般的にはなくなっちゃったわけで、だったら、新しいテクノロジーによって天国を再発明して、身体的に生きれなくなった人は脳をアップロードして、第二の生を送ってもらうっていうのがいい気がするんです。そうでもしないと地上のリソース争いは止められないんじゃないかなあ、と。

逆卷 不死を目指すんじゃなくて、天国を作り直してしまおう、と。この前、革命家の外山恒一さんと話したんですよね。外山さんはあと30年も頑張れば、意識がアップロードされる技術が開発されて俺は不死になれる、そしたら永遠に政治活動できるって話してて。不死になっても活動家なんだ、永続革命かよ、と思ったけど(笑)

長谷川 (笑)。私はそういう意味で言うと肉体の不老不死化はやばいなって思ってるんです。『In Time』と言うSF映画でも描かれていたけど、肉体がこのまま不老不死になったら、超資本家たちに権力が固定されてしまうだけですよね。

 

 

逆卷 ネトと呼ばれる超富裕層が身体を入れ替えながら何百年も生きる一方で、貧者は蘇ることもできないという設定の『オルタード・カーボン』(Netflix)も同様でしたね。

 

 

長谷川 もちろん天国も人がデザインするので、そこに資本主義を入れると最悪なんですが。とはいえ、維持コストは圧倒的に下がるはずだし、生の肉体よりかは希望があると思うので最終的には脳アップロードがいいかなと思う。ただ、そこに至る過程にどんな線引きがあるかというところも重要で、それでいうと私の《Alt Bias Gun》も死の線引きのテクノロジーではあるんです。あれは、「非武装で警察に銃殺された黒人」の過去のデータから誤って殺されやすい人を学習判別したAIを搭載した銃で、カメラが条件にあった顔を認識した場合は引き金が数秒止まるというものなんですけど、病院以外の場所でも色々な場面で死の線引きは行われているんですよね。そういうところはきちんと提起していきたい。まあ、すごく気をつけながらやらないと危険なテーマなんですけどね。

 

《ALT-BIAS GUN》(2018)

 

 

 

逆卷 死の線引きの問題という倫理的なジレンマにとりくむ際に、人文科学はジレンマのジレンマたるゆえんを延々と理屈でぐるぐるまわりながら語り続けるというまどろっこしいことになるわけですけど、愛さんの場合は技術的解決に向かっていますよね。技術を信頼している?

長谷川 信頼というより、希望なんですよね。今までずっと模索してきたのに何も変わらなかったじゃないですか。だとすれば、そこにはミッシングリンクがあるはずで、そこに不可能とされていたことを可能にする技術を置くこと以外に、希望がないように思うんです。ただ、その技術を使う人、生み出す人は誰なのかという問題があって、それこそこれまでは西洋男性が中心にいたわけで、日本においてもおじさんたちが中心にいたわけです。そこに私は介入したいんですよ、希望の種だからこそ。

たとえば《I Wanna Deliver a Dolphin…》にしても、男の人に合成生物学の新しい技術をどういう使い方したいですかって聞いたところで、ああいう話は出て来ないと思うんです。もっと直接的に食糧不足を解決しますとか、そういう話になる。もちろん、それはそれでいいことなんだけど、もっとニッチなところ、女性が感じているようなささやかな(とされている)痛みの話は出てこない。そういう意味で、作品という形だとしても、議論の俎上に乗せることには意味があるんじゃないかって思ってます。

 

 

《(Im)possible Baby》にしても提起したかったのはそこで、同性間で子供を作るという技術がすでにあるのに、それが実験的に行われていかないのは、すごく保守的なおじさんたちがその研究を止めてしまってるからなんですよね。この研究はどうなんだろうみたいにムニョムニョしちゃって、パブリックコメントもちょっとしか集めずに適当にストップしちゃう。でも、私は1000件以上のパブリックコメント集めてますから。だから、あなたがたが気にしてる社会通念は社会通念じゃないですよっていう抗議文的な作品でもあるんです。

 

《(Im)possible Baby》(2015)

 

逆卷 そういう決定を下す人たちの中に、女性がほとんどいなかったりしますしね。

長谷川 たとえば日本において独身女性の卵子凍結がOKされた2013年のケースの場合は12人のメンバーからなる倫理委員会があって、そのうち女性は1人のみ。当事者不在でそういうとこで勝手に決められていく。この前も緊急避妊薬を薬局で買えるようにするかどうかという話があって、また見送りにされてしまったんですよね。その理由についても「悪用されるかも」とか、「みんながそもそもその薬のことを知らないから」とか、「まだ時期が早い」とか、そんなのばかり。いや、薬があったらみんな学ぶから!って話なんです。自分の勝手な推測ばかりで決めすぎていて、本当にイラっとする。

一方で面白いのは、緊急避妊薬を買いやすくするかどうかっていう話が延々と行われてる一方で、そもそも2014年から生理困難症で保険適用されているミレーナという子宮内避妊器具があって。もうそれを全員入れれば良くない? みたいな。そういう新しいツールが登場すると、今までの会話が全て周回遅れになってしまうみたいな、そういうことがある。だからテクノロジーは面白いんです。ゲームそのものを変えちゃいますから。

逆卷 今までの議論、不要だったよね、みたいな(笑)

 

〈革命〉はせせこましい身体から始まる

逆卷 テクノロジーの宴もたけなわなんですけど、ここであらためてスペキュラティヴ・デザインについて聞いてみたいですね。愛さんにとってデザインとアートの違いってどこにあるのでしょうか?

長谷川 授業では便宜的に「デザインは問題解決でアートは問題提起だよ」と言ってますね。ただ、そんな簡単なものでも実際にはなく、特にスペキュラティヴ・デザインは、問題提起をしながら問題解決へと向かいつつ、ただやっぱりそれは引いた目で見ると問題提起になっているという、ややこしい感じもある(笑)。いわば、アートとデザインの間を行き来するものなんですよね。

逆卷 愛さんの本にもスペキュラティヴ・デザインについては書かれてるけど、これは職能や作品のタイプではなく、つくり手のアティチュードですよね。アートも広いけれども、美術館やギャラリー、美大を中心とした言説と実践からなるアートワールドが一応自律したものとしてあるじゃないですか。その点、デザインはかなり領域横断的ですよね。建築、広告、ファッションなど、様々なジャンルのデザインがあるし、最近ではゲノム編集のように人間自体がデザインの対象になってる。愛さんは、まさにこのどん詰まりの人間存在自体を、デザインし直す実践者なのかな、という気がするんです。

もちろん、これまでの人間とは異なる、新たな身体性のもとに差異とつながり方を再考する、ハラウェイのサイボーグの系譜もあるんですけど、先行例としてはニコライ・フョードルフから連なるロシア・コズミズムもあるだろうと思います。思想や宗教、文学、科学技術などを綜合することを目指すひとつの潮流ですね。たとえばウラジミール・ヴェルナルツキイの『ノースフェーラ 惑星現象としての科学的思考』(梶雅範訳、水声社、2017年)は、無生物のジオスフィアからバイオスフィア(生物圏)へ、そして人間の登場によってノースフェーラ(叡知圏)なるところまで地球全体が進化する、という壮大なガイア論を展開している。

 

ウラジミール・ヴェルナルツキイ『ノースフェーラ 惑星現象としての科学的思考』(梶雅範訳、水声社、2017年)

 

さまざまな人たちがいたようですが、共通しているのは不死や人間的可能性の拡張を追求する、つまり自然を技術的に克服する方向でしょうか。妄想ではなくて、実践もしてしまうのがヤバいですよね。アレクサンドル・ボグダーノフという人は、輸血が人間を若返らせると信じてて、何回も何回も輸血を繰り返したらしい。で、結果として輸血のせいで死んじゃったんです。型が異なる血液を輸血してしまったのか、ウイルスに感染したのか、死因は分からないけど(佐藤正則『ボリシェヴィズムと“新しい人間” 20世紀ロシアの宇宙進化論』水声社、2000年)。

 

 

あるいは古今東西、障害者やマイノリティを被験者にした生体実験によって、人間をデザインし直すようなマッドな試みが行われてきたというのはよく知られています。そう考えるとデザインってものすごく幅広くて、しかもいいことばかりでは当然なく、ダークなことや危険なこともある。愛さんはデザインの領域横断性とそこに眠っている正負両方含めた可能性の振れ幅を、スペキュラティヴ・デザインという思弁の用語で捉え直そうとしているのかなって思うんです。

長谷川 そうですね。デザインってある意味で便利な言葉で、◯◯デザインって言ってみただけでそれっぽくなるし、ちょっと別の回路が開くんですよね。アートのふわっとしたところから現実へと降りていくみたいな感じもある。やっぱりデザインって設計なんですよね。まだよく分からないふわっとしたものを、図面や手順に落としていくことで、現実に形にしてみることなんです。ただ、さっきしとねさんが挙げてた例もそうだけど、今まではそうしたデザインが利便性とか、セクシーさとか、国家的野心とか、そういうものと繋がりがちだったんですよね。そうではなく、もっと「死とは何か」とか「食べるとはどういうことか」とか、ドラスティックなテーマにデザインをつないでいくと、今まで見えなかった現実が見えてくるんじゃないかなと思ってるんです。

逆卷 愛さんは、地球全体のありうべき姿を提示するというように大上段に構えるよりは、どちらかと言えば今生きている私自身がもっと自由になるためにはどうしたらいいか、このせせこましい身体から出発して世界をデザインしている感じがしますね。

長谷川 そうだと思います。自分を自由にしてくれるものが現状にないから、それを作りたい。最初、IAMASでアニメを作っていた時も、私は一度宗教を完全に否定してしまったので、自分自身のためのサイエンス的な知見を盛り込んだ宗教を作ろうと、私自身をケアするためのファンタジーを作ってたんです。だからずっと、自分の欲望をベースに「これなの?」「あれなの?」って探っていってる感じはあります。

逆卷 とても実存的な感じがする。実際に生きていて感じる自分の不安や恐怖をただ嫌なもののままにしておくんじゃなくて、新しい何かをつくることで落とし所を探っているというか。

長谷川 ただ、それも個人的につくっているだけだと単なる現実逃避の夢想になってしまうんです。でも、たとえば私が今後、発信力を増していって、作品を通じてテクノロジーの可能性がこっちにもありますよということを見せていったら、もしかしたら実際にその世界の扉が開くかもしれないんですよね。イルカの出産プロジェクトにしても、もしそれに賛同する人がいっぱいいて、世間的にそういうテクノロジーの使われ方もありだねって声が大きくなったら、専門家がそういう研究を積極的に進めてくれるかもしれない。あるいは最悪なんだけど資本主義と手を組むことができれば、彼らは金さえそこに発生しそうならポンとやってしまうところがあるんで、実際にことが動いちゃうんですよ。そういう意味では、私はずっと「イルカが産みたいんじゃ~」って世界に投石しているような感じなんです(笑)

逆卷 そこが面白いなって思うんですよね。アートの世界には作品を資本主義の外部に置く、あるいは資本主義批判を正面から繰り広げる人が結構多い印象があります。正しさとしてはそうかもしれないけど、現実的に何かを実践するとなったらその外部に出ることはできないんですよね。他の人に届けることが途端に難しくなるし、その意味で、愛さんがスタートアップとかビジネスとかそういうものとの接点をきちんと意識しているのは、デザインならではなのかな、面白いな、と。資本の流れを変えるというか、資本主義をハッキングすることで世界を変えていくような、そういう可能性を愛さんは見ている気がする。

長谷川 お金は苦手なトピックではあるんですよ(笑)。でも、もっと色んなお金の使われ方、欲望の使われ方があるはずなのに、今はそのバリエーションがあまりに少ないなって気がする。そういう意味では次の世代のお金持ちが生まれてくるのを待ってる気がします。今までのお金持ちのお金の使い方が見栄を張るとか権力を示すとかそういう方ばかりに使っているから、もっとかっこいい使い方がここにありますよって示しつつ。

逆卷 愛さんの本には、実際にデザインを構想するため、あるいはある条件の縛りのもとでの発想の訓練をするためのワークキットとして、「革命家カード」と名付けられたカードとワークシートが付録としてついていますけど、その「革命家カード」を見た時に「あれっ?」て思ったんですよ。スティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツ、マーク・ザッカーバーグと、ベタなIT長者の人たちとかも結構入ってて。しかも、後ろの方に出てくるならまだわかるけど最初に出てくるんですよね。これは「お前らが金の使い方を変えろ」って話だったのか(笑)

 

《REVOLUTIONARY 20XX! TOOL KIT》(2019)

 

長谷川 そうそう。たとえばジェフ・ベゾスでも誰でもいいけど、彼がハラウェイを読んだらどうなるのか、みたいな話なんです。もしそこが組むことができたら世界はどうなるか。そういうことを頭で考えてみるためのカードなんですよね。だから革命家カードは二枚一緒に引くのがおすすめです。それこそステラークみたいな謎のアーティストと超巨大グローバル企業の社長が手を組んだら、みたいに妄想するための。

逆卷 あ、秋元康もいる。

長谷川 (笑)。別に秋元康が好きなわけではないんだけど、彼がやり手であることは間違いなくて、じゃあ彼がもしフェミニズムに目覚めたらどうなるんだろう、とかね。なおかつ、テクノロジーの企業とアーティストとか思想家や夢想家と手を組んだら一体彼らは何をするんだろうみたいに、考えてるだけでも結構面白いですよ。

逆卷 なるほど。すでに革命家として有名な人たちではなく、組み合わせ次第で革命家になるかもしれないポテンシャルを秘めた人たちなんですね。

長谷川 そうそう。あと革命家カードは脱自分視点の意味もあって、もしこの人が私の夢想をもってたらどうだろう? とか考えてみる機会にしてくれたらいいなとも思う。「自分の視点で考えろ」とはよく言われるんだけど、自分のことをよく知っているからこそ無力感に苛まれるし、世界なんて変えられるはずもないってなっちゃうんですよね。だから、そこを一旦、「私」じゃなくて「この人」だったらどうだろうっていう客観的な視点を入れてみることで、意外とそこには見えなかった革命への道筋みたいなものが見えるのかなって思うんです。そういう夢想が実は大事なんだとも思う。いくら革命って言ってみても、夢想のクオリティが低かったらどうしようもないですから。

 

 

逆卷 というわけで、このインタビューにおける愛さんの肩書きは「革命家」になりますけど、いいですか?

長谷川 本当の革命家に失礼ですよ! ただまあ、革命の一歩は夢想からっていうことで(笑)

 

Ai Hasegawa

 

2020年9月、新宿にて|編集:辻陽介

 

OUTRODUCTION ──「ブルシット人生ゲームの遊び方」

 適応と自然選択を旨とするダーウィン進化論とメンデルによる遺伝のメカニズムの発見は共に19世紀のことだった。20世紀にはメンデルの貢献が再発見され、1920年代以降、活性化した集団遺伝学の知見が、ダーウィンの進化論と二重らせんを構成するようになる。現代の綜合説、あるいはネオ・ダーウィニズムの登場である。フランシス・クリックがDNAのセントラルドグマを発表した1958年以降は、あらゆる生命を分子レベルで基礎づける研究動向が加速していく。原子記号や機械のアルゴリズムのように、生命体は利己的な遺伝子にコード化され、乗り回される存在に変わる。1991年にはヒトゲノムの全塩基配列の解読が始まり、2003年にはプロジェクトの終了が宣言された。この瞬間、地球上でもっとも知的に高等だとされる生物が、数式や言語、記号の列に加わった。21世紀の生命科学におけるモデル生物はヒトである、と言っても過言ではない。

 インテリジェント・デザインという説がある。ヒトを含めた世界を神がつくったという旧約聖書に由来する創造説を、科学的に基礎づけ、科学教育の正規科目へと昇格させようとする、米国の潮流のひとつである。1990年代米国にID説が生まれた背景には、人知を超えるものを人知のなかに落とし込む営みに涜神の響きを聞きとるプロテスタント原理主義があったのは間違いないだろう。だが他方で、世界の謎を謎のまま包みこむ宗教的次元が後退してきたという歴史的経緯もあるだろう。20世紀後半の宗教は、謎との向き合い方を教えてくれるどころか、自らありふれた資本家やテロリストの集団へと脱魔術化していった。インテリジェント・デザインは、神という謎を科学的に担保し直す試みであったと言えようか。

 だがどうやら、科学と宗教の対立と前者の勝利を結論するのは早計のようだ。古典力学とは折り合わない熱力学が19世紀に生まれ、20世紀初頭にはアインシュタインの相対論が登場し、世界はますます複雑になった。20世紀後半の量子論の登場に至って、世界の存在すら怪しくなった。認知科学は、ヒトが知覚している世界が実在しない証拠を次々と挙げている。マイクロテクノロジーが遂げた長足の進歩は、ユーザーインターフェイスの利便性の向上と引き換えに、作動の機序を謎に変えた。今やブラックボックスをブラックボックスのまま扱う技術と、ブラックボックスの中身を解明する技術のあいだには、大きな乖離が生じている。先述のヒトゲノムも解読はされたが、それがどのように機能しているのかについては未だにほとんどわかっていない。それどころか、ヒトとその他の生物の違いはゲノムレベルで見れば想定以上に些少であることが明らかになり、ヒトの特権性は疑問に付されている。グローバル世界や人新世、国家にまるで実体があるかのようにまことしやかに語られる日常を少し踏み外してみれば、それらは数ある、そしてつまらないユーザーインターフェイスのひとつに過ぎない。それらはゾンビゼミが生真面目に操作しているゲームに過ぎない。ゲームはゲームでも「クソゲー」である。どこを見回しても謎だらけだというのに、ヒトは未だに見え透いた終わりのない「クソゲー」を生きている。

 謎から目を背ける「クソゲー」を生きさせられているという窒息が長谷川愛を駆り立てる。息苦しさや痛みにかんじがらめになっていた10代の長谷川の退避地となったのは、マンガやアニメ、SFの世界観だった。読者にはとどまらない。長谷川の制作の原点は、BLマンガを自作していた高校時代にあるhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2019/08/post-12763_1.php

 長谷川によるゲームの希求には、今や身体を伴うスポーツも含まれている。

 ゲームのように、スキルを自分の体にインストールするのです。セイリング、乗馬、ボルダリング、テニス、ウィンドサーフィン、ロードバイク、キックボクシング、スキューバダイビング……いろいろと試しましたが、それぞれのスポーツに哲学があり、また初めて使う道具や体の使い方に慣れるところから始まるので、世界がどんどん広がっていきます。https://hillslife.jp/lifestyle/2017/07/24/weekend-traveler3/

 今回の対談に、ゲームオタクの長谷川による「クソゲー」の定義を求めるなら、「全ての意思決定が、実はそういう寄生するものたちが及ぼす効果のパッチワークなのかもしれない」ように思わせるインターフェイスということになるだろうか。「クソゲー」は操作性が最悪だと相場は決まっている。だがもっとひどいのは、これが「クソゲー」であることを無視したままエアロバイクを漕ぎ続ける日常だろう。

 長谷川愛の制作は、万事この人生ゲームという「クソゲー」の「クソゲー」たるゆえんに発している。生きられているのが「クソゲー」である以上、そこから自由にはなれない。もちろん、この「クソゲー」をリセットして完全な別世界を設計することはできる。ファンタジーにもリアリティはあるのだから。しかし残念ながら、ファンタジーを生きることはできない。長谷川が限りある身体に即し求めているのは、生きることのできるゲームである。

 だから長谷川のスペキュラティヴ・デザインに、現実離れしたものはなにひとつない。ヒトがイルカを産む作品《I Wanna Deliver a Dolphin…》では、ヒトが産むことのできるサイズのイルカが選ばれ、妊娠中にヒトの胎盤の免疫が曖昧になるという事実に立脚したストーリーが組み立てられている。技術的な飛躍と言えるのは、ヒトなら誰でも産めてしまう胎盤の免疫を、哺乳類まで寛容できるように拡張するというアイデアくらいであるhttps://www.worksight.jp/issues/1504.html。そのくらいの飛躍なら、投資が集中すれば、ヒトがイルカを産めるときが来るかもしれない。その程度のヒトの能力の拡張が、この「クソゲー」のゲームチェンジャーになるかもしれない。

 ヒトの能力の拡張を語るフィクションは古今東西、すでにたくさんある。たとえば、アルフレッド・ジャリ『超男性』(澁澤龍彦訳、白水社、1989年)には、いくら運動してもいくらセックスをしても疲れない、永久運動の能力をもたらす薬が登場する。空想社会主義者シャルル・フーリエは、ファランジェと呼ばれる実験共同体に生きるヒトがやがて進化し、「アルシブラ」と呼ばれる尻尾を生やす未来に思いを馳せた(「アルシブラ」、澁澤龍彦訳『ユートピアの箱』所収、筑摩書房、1990年; Jonathan Beecher. Charles Fourier: The Visionary and His World. U of California P, 1990, 340ppの英訳を参照)。144の椎骨をもち、驚異的な長さを誇るこの尻尾は、鷹の鉤爪に匹敵するほど強力でありながら、水底に伸ばして漁網をすばやく走らせる柔軟性を備え、12フィートほどの高さの木に登る活動範囲の拡大をヒトにもたらす。ジャリの男性が飲む薬が人間活動の加速と永久化という<能力の補完>だとしたら、フーリエのアルシブラはヒトという種が未だもっていない<能力の新規獲得>だと言えるだろうか。一口に拡張と言ってもさまざまなバリエーションがある。

 長谷川が提示するヒトの拡張には、夢のような便利さやお手軽さはない。イルカを産むことができるようになったり、サメを誘惑できるようになったりしたとしても、全自動洗濯機の登場のような、ヒトとしての利便性を獲得できるわけではない。むしろイルカやサメとの関係次第では、ヒトとしてさらに不自由になる可能性すらある。ひとりの子どもを4人の親がシェアすることになったからといって、子どもに対する所有欲や遺伝的特徴の発現の濃淡の問題がなくなるわけではない。レズビアンのカップルの遺伝子を受け継ぐ子どもをつくれるようになっても、異性愛カップルの子どもと同じようにさまざまな困難があるだろう。《極限環境ラブホテル》には、人間をぎりぎり耐えることのできる重力の世界に放りこむ非道さがある。警官による銃撃の標的となりやすい人種的特徴のプロファイリングを学習したAIが、引き金を引くのを思いとどまらせる時間はわずか数秒に過ぎない。殺そうと思えば殺せる。それほどバラ色の未来でもない。とはいえ、この「クソゲー」ほどディストピアでもない。

 「あらかじめ人間だと考えると、その枠内でしか発想できない」と長谷川は言う。長谷川やその周りにいる具体的な個人が感じている苦しみや悩みを、人道やヒトの倫理に即して解決することが正解だと言えるのだろうか。苦しみや悩みを解決するだけだったら、それでもいいかもしれない。しかし、この苦しみは個人の問題でも限界集落の問題でもなく、世界の至るところに根を張っているシステムの問題である。今この瞬間も生きられているクソゲー自体を抜本的に改革し、インターフェイスから物語に至るまで変えたいと望むのであれば、ヒトの苦しみや悩みは解決の対象ではなく、このクソゲーを変えるためのデザインの出発点になるはずだ。おまけに長谷川のデザインはプレイヤーを除外しない。ゲームのプレイヤーがヒトである必要はない。ヒトには似ているかもしれないが、ヒトではないなにかにとっては、クソゲーに見えるこのゲームが実は最高に快感を得られるゲームなのかもしれない。真にクソなのはプレイヤーである、という可能性さえ疑わない。クソゲーのクソゲーたるゆえんにデザインの及ばない聖域はない。

 だからこそ、ヒトにとっての正しさを追求することがそのままゴールになることはない。今この瞬間正しいことも、クソゲーのアーキテクチャによって仕組まれたものなのかもしれないから。ダンテ『神曲』地獄篇やメアリ・シェリー『フランケンシュタイン』、梁石日『血と骨』は情状酌量の余地をどう見積もろうが非人道的だが、数多あるハッピーな物語よりもはるかに自由な感覚を与えてくれる。なぜだろうか。たぶん、地獄の深さが天国の高さを教えてくれるからだ。クソゲーをより深みのあるクソゲーへと深化させる実践が、クソゲーの彼岸へと至る近道かもしれない。クソゲーをやりこむことで、プレイヤーはクソゲーの非人道的な深みに身を投じるだろう。そのときのプレイヤーはヒトではないだろうし、そのゲームはもうクソではない。これも革命だ。

 デザインは作品には尽きない。デザインは常に制作物を超えているからだ。長谷川がつくるひとつひとつの作品の制作にはさまざまなアクターがかかわっているけれども、たとえばまったく無知な僕が参加できるほどの融通無碍が許されているわけではない。しかし、そのデザインの制作にかかわる余地は誰にでもある。デザインとは、この人生ゲームの全領域に遍く張り巡らされているリアリティやインターフェイス、プレイヤーを規定するルールにかかわるものだからだ。作品はデザインを具現化したひとつのかたちに過ぎない。さまざまなかたちでの具現化が可能だし、改変も許されている。たとえば、長谷川の作品に寄せられた1000ものパブリックコメントやその血縁主義を批判する意見は、長谷川愛の個人名がつけられた作品単体ではなく、「あいみょん革命」を構成するデザインの運動体に深くコミットしている。

 スペキュラティヴ・デザインは協力プレイを誘う。ヒトであるという初期設定さえカッコに入れて、このクソのような人生ゲームを抜本的に再設計する。

 革命家は、ブルシット人生ゲームをプレイする。ハックして、書き換える。

 

 

《POP ROACH》(2015)

 

 

 

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長谷川愛 はせがわ・あい/アーティスト、デザイナー。バイオアートやスペキュラティヴ・デザイン、デザイン・フィクションなどの手法によって、テクノロジーと人がかかわる問題をテーマとする作品を発表する。IAMAS卒業後、渡英。2012年英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)にてMA修士号取得。2014年から2016年までMITメディアラボにて研究員、MS修士号取得。2017年4月から東京大学特任研究員。“(不)可能な子供((im)possible baby)”が第19回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞を受賞。森美術館、アルスエレクトロニカなど、国内外で多数展示を重ねる。著書に『20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業 』(ビー・エヌ・エヌ新社)がある。

 

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〈MULTIVERSE〉

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

 

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PROFILE

逆卷しとね さかまき・しとね/学術運動家・野良研究者。市民参加型学術イベント 「文芸共和国の会」主宰。専門はダナ・ハラウェイと共生論・コレクティヴ。「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」――ダナ・ハラウェイと共生の思想」(『たぐい vol.1』 亜紀書房)、Web あかし連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」 (https://webmedia.akashi.co.jp/categories/786)、その他荒木優太編著『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(明石書店、2019 年)、ウェブ版『美術手帖』、『現代思想』、『ユリイカ』、『アーギュメンツ#3』に寄稿。山本ぽてとによるインタヴュー「在野に学問あり」第三回 https://www.iwanamishinsho80.com/contents/zaiya3-sakamaki