アモガン集落
潜伏中の家で、長男デニスを抱く小野。
マニラから、国道17号線をひた走る。
70年代当時はまだ米軍のスービック基地があり、ナイトクラブも栄えていたオロンガポを過ぎると、海にせり出した山の際に造られた田舎道が続く。広い水田、小さな農村。あぜ道には、水牛が置物のようにたたずんでいる。村々はどれも同じに見える。水田、家々、水牛。どしゃぶりのスコールが続いている。しまいには、どこを走っているのかも、よく分からなくなったが、一本道なので迷うことはない。
「緊張はしてたよね、けっこう。農業を仕事にしたことなんてなかったし。テーシーは臨月で、腹もぱんぱんにデカくなっていて。しばらくはロクなもん食えねえだろうなと思って、味噌やら醤油、わさびまで、ありったけ車に積んでさ」
テーシーの誘導に従い、幹線道路を外れて小道に入る。ぬかるむ赤土を、ゆっくり進む。マニラから約6時間、海と山の狭間に張りついたアモガン集落に到着した。
地主(父方)であるテーシーの両親はカトリックながらすでに離婚し、家を出た母親は町の男と再婚していた。傷心の父親は、朝からジンを呷る酒浸り。おまけに、本家の家長であるテーシーの祖母は、孫娘を孕ませた日本人を歓迎しなかった。33歳という働き盛りでありながら、ほとんど一文無しでやってきた小野を歓迎する理由が見当たらないのは当然だろう。高飛びについても話せないので、なぜアモガン集落で暮らしたいのかを、小野はまともに説明できなかった。
それでも、テーシーと一緒に頼み込むと、「自分の食い扶持を稼ぐなら、ここにいてもいい」と、祖母は条件を出した。水田を貸す代わりに、穫れた米の4分の1を本家に収めること。カマドも分けるので、自炊すること。
すでに亡くなったテーシーの祖父は、スペイン人だったという。そのため、本家は質素なスパニッシュ様式で建てられていた。フィリピンにおけるスパニッシュ様式の一戸建ては、1階部分をレンガや石材で造り、2階部分に木造テラスを拵えるが、実家はセメントと木材の組み合わせで建てられていた。
祖母や本家の者が暮らすのは2階で、1階の半分は家畜小屋(2階の食事で出た残飯を床の隙間から落とすと、豚や鶏が食べる)、もう半分は倉庫だ。
「倉庫の半分をさらに仕切って、そこなら住んでいいって。俺はまだしも、孫娘のテーシーが妊娠してるってのに、すごいよな。地主の家といったって、電気も水道もないし。アモガンは40軒ぐらいの集落で、村人は300人ぐらい。そのうちの9、10軒。60、70人ぐらいが親戚でね」
村人のほとんどは、農業に従事していた。といっても、テーシーの実家のような土地持ちは少なく、およそ小作人である。稲作は、田植えから刈り取りまでの周期が約3カ月の品種を組み合わせた三期作だったという。
「水牛ってのは凄いんだ。昔の写真や何かで、牛が出てくるのは田起こしの場面が多いと思うけど。アモガン集落じゃあ、籾摺りも水牛だから。稲を手作業で刈り取って、しばらく天日干し。それから地面に杭を打って、周りに籾を撒くのね。で、5メートルぐらいの長さの鼻綱をつけた水牛を連れてきて、杭に鼻綱を結わく。そうすると、籾が撒かれた直径10メートルぐらいの円周を牛が歩いて、籾を踏んで精米してくれる。だんだん鼻綱を短くしていくと、牛の歩く円も小さくなるから、踏み終わった外側の籾を回収して、平たい竹籠に入れると」
その竹籠を揺すると軽い籾殻が浮き上がり、風で飛ばされて白米が残るそうだ。
「ただ、籾と一緒に地面の砂利とか小石も籠に入るから、籠を振るにも技術がいる。おれは下手くそだったから、最初の頃の米なんか、ワシワシ食ってたら、ガリッと小石噛んで歯が欠けたり。なんか、うーん、辛かった」
小野は村人たちの協力を得て、見よう見まねで稲作をした。三期作なので収穫までは早かったが、素人仕事でなかなか量がとれない。夫婦で食べる分にも事欠くありさまだった。それでも我慢できたのは、小野夫妻だけでなく、ほとんどの村人たちが貧しかったからだ。現金など、誰もロクに持っていない。アモガン集落では米は作るもの。肉は、山で獲るもの。マニラから持ってきた趣味のライフルが、小野を救った。
「山に入るときは、だいたい3人。鳥とか、バヤワック(ベンガルオオトカゲ)を撃つときはひとりでも行ったけど、猪や鹿を狙うときには、3人。そうじゃないと、運良く仕留められても、ひとりじゃあ集落まで運べない。だから、おれも参加できた。日本でいう、巻き狩り。肉や内臓は、参加者で等分。実際に撃って仕留めた奴は、首から上の部分、頭までをひとり占めできるってのが、アモガンのルール」
本家の倉庫を改造したふたりの住処にはカマドがなく、五徳の上に載せたトタンが台所だ。肉はたいていアドボ(ココナツ味の煮込み)にして食べた。米と肉さえあれば、ひとまず命をつなぐことはできる。それでも、移り住んだばかりの頃には、山に入りたくとも尻込みせざるを得ない時期もあったという。
「NPA(新人民軍)の行軍が来ているときは、危なかったね。反政府ゲリラっていうと、たぶん日本人なんかは正義の味方、庶民の味方みたいに思うかもしれないけど、そんなの嘘だから。だってよう、ゲリラが田んぼをやるか? やらねえだろ。商売だってしない。もし、ゲリラが金を持っていたら、そりゃ、誰かの財布を奪いとったわけ。だけど、それも程度問題だな。身ぐるみ剥ぐ酷いゲリラもいりゃ、そこまではやらないゲリラもいる」
対処の塩梅は、経験がもたらした。
「そのうちに分かってきた。NPAが行軍してきているときには塩と米、それにサンミゲルの一番安いジンを持って、山に入る。もし遭遇したら、にっこり笑って、この三種の神器を上納。あとライフルも、気を付けないと。NPAが来ているときは、いつもの銃は使わない。なけなしの財布を叩いて手に入れた上等なライフルを取り上げられちゃった可哀そうな村人が何人もいた」
下手くそなりに米を作り、村人と一緒に狩りに出ることで、表面上は平和なときが流れるようになったが、これだけではその日に食えるだけで、現金は生まれない。
そこが苦しい。
「おれは、テーシーの旦那でしょ。で、いちおうテーシーの実家は、アモガン集落の地主。だから、あからさまにナメてくるわけじゃないけど……集落の連中からは疎んじられてたと思う。まあ、当たり前だけど。彼らの常識でいえば、金持ってるはずのハポン(日本人)がやってきたのに、ほとんど一文なしで、実家の倉庫、村人からすりゃ、倉庫というより家畜小屋に住んでいる。そりゃあ、冷たいですよ。どう考えても怪しいんだから、信用もされないしね」
小野に希望をもたらしたのは、やはりMISGだった。
「アモガン集落で幅を利かせていたのは地主連中と、それ以外には、地方憲兵隊の一族。おれは義理の息子だけど、実際はテーシーの祖母さんに疎まれてたでしょう。そうなりゃ当然、憲兵隊の奴らだって、おれのことなんか相手にしないよ。だけど連中は、マニラから皆が遊びにやってきたのを見て、まったく態度が変わったね。もう、手のひら返し。
ほら吹きだと思われるのも癪だから、おれは最初っから、MISGとの関係については一切口に出していなかったの。そうしたら、マニラの、とびっきりのエリート軍人のラクソンがスティングレーに乗って泥だらけの農道を走ってきてさ。おれの家まで遊びに来たもんだから、地方憲兵隊の奴らはびっくりして、はっはっは、ありゃ痛快だった」
遊びにきたラクソンやデニスも、別の意味で驚いていたという。
「家の中に蚊柱が立つなんて、都会育ちのラクソンやデニスからすりゃ信じられない。ジャングルの蚊は凄いんだ。刺されるのが嫌で、汗だらだら流しながら綿のズボン穿いても、ぜんぜん意味なし。その、生地の隙間からぶっとい針刺して、血を吸ってくる。そのうちに吸われるのにも慣れて、長ズボンなんか脱いじゃうんだけどね。農道の脇じゃあ、うっかりキュキュッと鳴いた山鼠が蛇に丸呑みにされてるし。ラクソンたちにさ、『久しぶりに、のんびりやろう。汚いところだけど、泊まっていってくれ」って言ったら、『いや、おれたちはここに泊まるのは遠慮するよ』とか後ずさりして、結局、町の宿に部屋とってさ」
この来訪で、アモガン集落の憲兵隊の一族が態度を翻したため、小野はようやく現金収入を得られるようになった。
「町に暮らす憲兵隊の幹部がボートを持っていたんで、紹介してもらったの」
集落には、まだエンジン付きのボートを持つ者はいなかったため、すこし沖合に出れば、そこは魚の宝庫だった。漁に通じた村人を雇い、小野は〈伝統漁法〉に熱中した。きれいなサンゴ礁の上にボートをつけて、哺乳瓶をもって潜る。これは毒薬漁法と呼ばれる。哺乳瓶の白い液体は、猛毒のシアン化合物だ。魚のほとんどは気絶するだけだが、サンゴは大きく損傷し、場合によっては死滅してしまう。
「サンゴ礁の、なるべく大きな穴に近づいて、哺乳瓶の白い液体を穴のなかに撒くんだよね。それで、いったんボートに上がって待っていると、ラプラプ(ハタ)とか、よく分からない熱帯の魚が気絶して、プカーっと次々に水面に浮かんでくる。それを、せっせと網で掬って、一丁あがり」
獲った魚は3つの山に分ける。
ひと山は、販売用。もうひと山は、一緒に出漁した村人らと自家消費用。海岸で待つ地元民たちへの即席販売が済んだら、夕方までにボートのオーナーである憲兵隊の幹部にもうひと山の魚を届ける。
苦節半年にして、ようやく小銭を得る算段が立った。その頃、テーシーが長男のデニスを産んだ。名付け親は言うまでもない。小野を刑務所から助け出した恩人、MISGのデニス・ナサイリである。小野はさらなる安定のために、新たな商売の計画を立てた。漁で蓄えた現金を増やすため、小さな雑貨屋を開いたのである。
アモガン集落には時折、町から行商人がやってきていたが、常設の日用品店はなかった。それほど儲かるわけでもなかろうが、駄菓子や生活用品など、細々したものがいつでも手に入るとなれば、村でも歓迎されるはず――デニスの世話で手一杯のテーシーでも店番ぐらいはできるだろう――だが、計画は大失敗に終わった。
倉庫の半分を改装した自宅スペースをさらに削り、看板だけ作って雑貨屋を始めたものの、訪れるのは親戚ばかり。皆、ツケで売り物を持っていってしまう。そして口約束のツケは、いっこうに支払われない。
「こういうとき、血のコネが強い社会は難しいね。『金を払わないなら、モノを渡すな』って、口を酸っぱくして言っても、テーシーは断りきれないんだ。皆、親戚だから。頭にきたんで、銃突きつけて、取り立てもしましたけどね、それも良いことじゃないでしょ。いくら金払わねえ奴だって、一応は親戚だし。棚が空になっても、こっちの財布には補充する品物を仕入れる金がないんだから、どうにもならんよ」
というわけで、雑貨屋は早々に店仕舞いとあいなった。
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