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藤野眞功 『聞き書き・ごんたくれ』 其の一

インターポールを通じて125カ国に国際特別手配された、最初の〈ザ・ヤクザ〉。小野忠雄が語るゴロマキ人生。

ゴロマキの始まり

 

小野が持っていた「週刊宝石」(昭和57年9月18日号)の記事。

 

 刑事を引き連れて、ゴルゴ13が帰ってきた――ように見えるが、彼は小野忠雄という。

 年齢不詳の殺し屋ではなく、36歳のヤクザ。

 国際刑事警察機構(インターポール)を通じて125カ国に国際特別手配された、最初の〈ザ・ヤクザ〉である。約3年半にわたって海外逃亡を続けた後、1982年8月31日にマニラに姿を現し、成田空港へ戻ってきた。

「サングラスは自分で買ったんだ。スーツは、『報道特集』の野郎がマニラまで持ってきた」

 TBSとは奇縁があった。

 日本の敗戦からほどない1945年の12月、赤坂のTBS社屋の向かいで、小野は生まれた。一ツ木通りの判子屋だ。焼け野原の東京では食えないので、母の寿美江と祖父母は、赤ん坊の小野を連れて茨城県に移った。

 現在の勝田市に位置する農村の庄屋が、小野の本家だったからである。

「オヤジの記憶は、まったくないですね」

 寿美江も、祖父母も「お父さんは、戦争に行って亡くなった」と言うだけで、写真も見せず、名前も教えなかったという。授乳期を過ぎると、寿美江は東京に戻って働くようになり、伯父や伯母が親代わりだった。

 

✴︎

 

 4歳になった頃、千葉県の稲毛に越した。

 寿美江からは「タダちゃん、これからお父さんのところへ行くのよ」と言われたが、そこにいたのは2番目の父親だった。

「2番目のオヤジってのは、怪しい野郎でね。日本で最初に発泡スチロールを輸入したと言ってましたね。たしかに、稲毛の屋敷は立派な建物で、庭には備えつけのプールまであった。海べりで、景色も大したもの。1950年前後の話ですから。

 まあでも、立派な屋敷は結局、そのオヤジのもんじゃなかったんだけどね。野郎は口八丁で……なんとかっていう、そこそこ名の知れた絵描きの別荘を借りていただけ。だから、おれが小学校に上がる頃には追い出されて、大田区のアパートに引っ越して」

 小野は、2番目の父親にしばしば殴られていた。そのため、小学5年になる頃に、寿美江と2番目の父親は離婚とあいなった。

 しばらくすると、3番目の父親が現れた。寿美江が仲居として働いていた料亭の板前である。ふたたびの引っ越しを経た小野は、新宿の淀橋中学校で水泳選手として頭角を現し、学外では警察の道場で柔道に熱中したという。

 3番目の父親は進学を許さず、中学卒業と同時に、小野を丁稚に送り出した。

 当時、有楽町の駅前には十円寿司屋が軒を連ね、人気を博していたのだった。

 

✴︎

 

 4人の丁稚が寝起きするのは、大将の家の敷地に建てられた離れの小屋。朝4時に起きて、徒歩で店へ向かう。板長たちが築地で仕入れをする間に米を研ぎ、ガス式の業務用炊飯器に火をいれる。炊き上がったら平桶に出し、合わせ酢を散らしながらシャリ切り。小野の役目は、巨大な団扇で湯気の立つシャリに風を送ることだった。

 午前の開店からは給仕係を務め、隠語まみれの会計メモを間違える度にどやされた。昼の客が引けると、まな板を洗う。そして夜の10時まで、給仕。店を閉めた後は、まな板を塩揉みし、店内の掃除と洗いものもある。毎日、小屋に戻るのは深夜だ。

 はじめて給料をもらった小野は、寿美江と3番目の間に生まれた弟のナルちゃんに、タオル地の子供服を贈った。寿美江は、目に涙を滲ませて喜んだ。5000円の月給は悪くなかったが、彼の堪忍袋は半年ほどしか持たなかった。

「まな板、とにかくデカいんです。それを一所懸命、塩で擦ってたら。なんだったかな、とにかく、なんか仲居に小言を言われて。それで頭にきて。もう、まな板ぶん投げて、そのまま出て行きましたね」

 十円寿司を飛び出した小野は、同伴喫茶のモナリザへ向かった。当時、有楽町では知られた店だ。その店の女性を囲っていた男、寿司屋の常連が小野を気に入っており、よく声を掛けてもらっていた。

「水商売なんで、やっぱり、給料よかったですね。寿司屋よりはるかに楽なウェイターと接客で、月給1万5000円。丁稚の3倍ね。しかも、それだけじゃなくて。最初に背広もあつらえてくれる。もともと服も車も大好きだったし、モナリザのウェイターは店の3階のタコ部屋で住込みだから、ずっと繁華街にいられるしね。

 みんな不良だよ。おれたちウェイターだけじゃなくて、バーテン連中もそう。白いシャツ脱いだら、全身にきれいな刺青。挨拶したら、いきなり頭ひっぱたかれて。

 頭にくるけど、まず次の一瞬は我慢するだろ? そうしたら、アレだもん。ほんの一拍おいて、こっちが本気で睨み利かせる前にさ。『坊主、お前いい身体してんな』って、これだもん。小僧の扱いも上手いもんだよね」

 こうして不良稼業が始まったと書きたいところだが、小野のゴロマキ人生はとうの昔から始まっていた。名画座、違法なスマートボール(ピンボール賭博)、上野の闇市に繰り出して放出品のジーンズや革靴を買いあさる。買い物にも、遊ぶためにも現金が必要なので、喧嘩をふっかけ、恐喝する。中学の授業はさぼってばかりだったが、水泳と淀橋警察の柔道場だけは熱心に通った。

 

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 最初に鑑別所に入ったのも、この頃だ。

 皇居前でたむろしていた小野とモナリザの仲間たちは、数人の土方に目を付けた。

「いちゃもんはやらないです。楽しそうに歩いているところに忍び寄って、話しかけるだけ。こう、スッと肩を抱いて『時計外せ』とか『おい、財布』とか、短く」

 ナイフやチェーンを持ち歩き、なにかと振り回す仲間もいた。

「腹はやらないですよ、あんまりね。ただの喧嘩程度で、ナイフでブスッといって、死んじゃったらヤバいでしょ。潰し合いのときは別だけど。あの頃の町場の喧嘩で、すぐ刺す奴らはナイフをいじっていてね。

 刃の長さを、ほんの数センチぐらいまで短くしてあって。よほどのことがない限り、尻とか肩を刺すの。尻刺されると、けっこう痛いんだけど、死にゃしない。おれは柔道やってて良かったですよ。ぶん投げりゃいいし。引っ掛けて転がして、蹴りいれりゃあ、いいしね」

 土方から現金や腕時計を巻き上げた15、16歳の生意気な集団は、有楽町で派手に飲み食いして、皇居前に戻った。つい数時間前に恐喝した場所だが、モナリザのタコ部屋で雑魚寝するより、噴水近くの芝生に寝転がるのが好きだったという。

 一方、恐喝された土方たちは丸ノ内警察署に被害を相談しており、巡回中の警官が小野たちの風体に気付いた。芝生で寝そべる若者たちはあっという間に逮捕され、小野は警察の留置場で3日、練馬鑑別所で3週間を過ごすことになった。

 

✴︎

 

 似たような若者は多かったのだろう。モナリザの店長は、自らを保護司として登録していたので、練馬鑑別所を出た小野はまた店に戻って、これまで通りの暮らしを続けた。実家に寄り付かなくなった彼を気にかけてくれたのは、活版印刷の植字工をやっていた伯父である。「両国の印刷会社に話をつけた」と言われた小野は、不良仲間の佐藤を誘って、一緒に就職することにした。

 当然ながら、ふたりは会社のお荷物だった。仕事の隙を見つけてはパチンコ屋に向かい、天プラ学生たちと遊んでいたが、楽しいのは最初だけ。しばらく経つと喧嘩になったので、ふたりは不良学生たちをさんざ殴って、上機嫌で工場へ帰った。

 と、その晩、慌てた様子で、同僚が駆け寄ってきた。武器を携えた不良たちが、工場の玄関前にやってきて、ふたりを呼んでいるというのだ。

 小野と佐藤は、工場に隠しておいた道具――大量の五寸釘を打ち込んだ棒を持って、路上に出た。表には、バットや木刀を持った10人ほどの不良学生が待っていたが、大将格のひとりだけは、抜き身の日本刀を手にしている。

「ケンカで日本刀持ったことありますけどね。正直な話、カマシですよ。よほど気合入れないと、そんな、バッサリはいけないって」

 この夜の日本刀もカマシだったようで、ふたりは棒を振り回し、天プラ学生たちの撃退に成功した。

 すると翌日の晩、今度は本職の男たちが工場へやってきた。

 聞けば、日本刀を持っていた若大将は、錦政会系(現・稲川会系)の大親分の倅だと言う。一足先に対峙した佐藤が不良らしく突っ張ると、相対したひとりの男がいきなり、見事な上段蹴りで佐藤を吹き飛ばした。大親分を敵に回すわけにはいかない上、本職のケンカ師の動きを目の当たりにした小野は戦うことを諦めて詫びを入れ、佐藤と共にことなきを得たのだった。

 

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 その頃、3番目の父親が、板長として新潟の割烹に迎えられることになった。親戚筋の間でも行状が問題視されていたため、寿美江と義父は覚悟を決め、小野を連れて新潟へ移り住むことにした。

 もちろん、同居はしない。小野にあてがわれた住込み先は瀬戸物屋だったが、店内で先輩を殴り倒して、すぐに放逐されてしまった。それでも、哀れに思った近所の精肉屋が引き取ってくれたので、約1年ほど住込みで働きながら繁華街をうろついた。そのうちに、小野は地元の不良青年たちをまとめるようになった。

 腕っぷしと度胸を褒められて嫌な気分になる男は少ないだろう。焚きつけるつもりで、新潟での武勇伝を尋ねると、違う角度から球が返ってきた。

 彼が同年代の不良たちをまとめられたのは、喧嘩の強さというより「東京のファッションを持ち込んだから」だと言うのである。

「やっぱり、アイビー(ルック)だったんじゃないですかね。VANね、知ってるでしょ? まだ新幹線もなかったから、新潟の若者に東京の情報が入るまでには、ファッションでも音楽でも、とにかく、今とは比べものにならないぐらい時間がかかったんです。だから、おれは、すくなくとも新潟の繁華街じゃあ、最先端だったんですよね」

 新潟に移ってからも、小野は毎週のように東京へ遠征した。

 列車で約6時間。車内検札が始まると走行中の車外に出て、連結部にしがみついてキセルをする。そして到着後は、ロカビリーたちが集まっていた銀座のミマツやACBに顔を出し、浅草でゴーゴーダンス。歌舞伎町を遊び場にしていたジェリー藤尾や、日劇ミュージックホールの2階にある喫茶店にたむろしていた大日本興行の面々からも「ター坊、ター坊」と可愛がってもらったそうである。

「東京には家がないんでね。両国の連れ込み宿とか、ナンパしたお姉ちゃんの家、伯父が働いてた印刷会社の寮にもぐり込んで雑魚寝したり、まあ、そんな感じ」

 こうして最新の東京事情を仕入れた小野は新潟へ戻り、今度は不良青年たちと遊ぶ。

 毎週、溜まり場にしていた喫茶店に愚連隊のリーダー格を集めて、小遣いを徴収するようになった。当然ながらその金は、小野に憧れる不良たちが、街の人々から召し上げてきたものだ。恐喝、盗品の横流し、強盗の金。

 小野のひとり暮らしが始まった。

 

2020年末の小野。

 

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PROFILE

藤野眞功 ふじの・みさを/著書に、ノンフィクション「バタス」(講談社)、長篇小説「憂国始末」(新潮社)、短篇集「アムステルダムの笛吹き」(中央公論新社)など。フリー編集者としても活動し、横田徹「戦場中毒」(文藝春秋)、高橋ユキ「つけびの村」(晶文社)などを手掛ける。【過去の記事】https://fujinoshin.com/