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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #17 過食嘔吐

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過食嘔吐

 

サンドイッチを食べている。目の前にが居る。猫は物欲しそうに僕を見ている。一瞬の葛藤の後、手にしていた残り一欠けのパンを僕は口に運んだ。猫は目を細め離れていってしまった。その瞬間、自身の醜さに気付いてしまった。僕はただ卑しい人間だったのだ緊急事態宣言の兼ね合いの為、開催自体が二転三転としてしまった僕の個展もつい先日終了した。そして僕はその翌週に30歳の誕生日を迎えた。そうか気付けば30歳になったのか、と思う反面、昔から年齢不詳だと言われ続けてきた身としては、そもそも年齢とは一体、という気もする。しかし、どうやら30年生きてきたことでものを見る目もそれなりになってきたような気もしていて、それは少し嬉しい。ただ、ここ最近のコラム更新のたびに書いているが、個展も終わった今、自分はすでにこの世の最果てにいるのではないのかという程に毎日が暇である。とはいえ未来にしか興味がないからと謳い、毎日寝て過ごすわけにもいかず、ひたすらに一人でブレインストーミングに耽る日々を送っている。とりあえず出かけてみるとか? もう一度筋トレに熱を入れてみるとか? 友達を誘って遊んでみるとか? なんて提案を受けたりもするのだがそういうことでもないのだ。もちろん何らかをすることは僕にも出来る。だが、暇を潰すためだけに何かをするということに価値を感じられないのだ。そして最近に至ってはついには楽しいことすらも恐怖の対象になりつつある。快楽は有限であるからこそ楽しく、祭りや狂乱は終わるからこそ美しい。そのはずなのに有限であることを意識した瞬間にこの快楽の終わりにまた虚無が到来するのだな、という絶望を常に予期し、事前に落胆するようになってしまった。あまり良い傾向ではないなあ、と思いはするが今までに身を置いたことのない精神状況なのでとにかく”今ここ”から何が見えるのかをひたすら観測することを心がけている。なぜなら僕は生きているので。さて、最近はどうやら「資本主義に抗う」のが流行のようだ。僕も資本主義は漠然と嫌いだ。しかし、打倒資本主義! みたいなことを言ってみたところで、僕は曲がりなりにも民主主義と資本主義の両輪で回転してる国に生まれ育ち、その恩恵を受けて暮らしている。もちろん従来の納税や生活を当たり前に行ってきたからこそ給付金や支援金を受け取る事もできているわけで、そのおかげで早くも1年半ほどになるコロナ禍をまるでベーシックインカムの状態でなんとか生き延びていることには特に屈託はない。だからと言って働かずとも暮らせてしまうこの状況が続いて欲しいわけではない。このまま社会主義になって、みんなベーシックインカムで暮らそうとも思わない。仕事だって欲しいし、絵もタトゥーも頑張りたい。自分が培って来た何らかの技術を受け手が喜んでくれるということは嬉しく、そこに対価として貨幣を受け取ることができたならなお嬉しい。そんな人間が資本主義に抗うと言っている状況自体があまりに資本主義的で、自分自身の言動にも最近気持ち悪さを覚えたりもする。嘘くさいし、胡散臭い。それは近頃のマインドフルネスの流行に抱く違和感と同じようなものだろう。なんでも最近はマインドフルネスをすると「生産性」が向上するらしい。マインドフルネスのルーツには仏教があり、カウンターカルチャーがあったのではなかったのだっけ。それが「生産性」だなんて資本主義のスローガンみたいな言葉を用い出しているのだから、あまつさえその奇怪さに気づいていない人が多いのだから、もはや笑えない。やっぱり僕は流行に乗れない。売り手市場には飛び込めない。流行に乗って売り手市場に飛び込んだところで実際に流行したり売れたりする保証はなんもないわけだが、僕はそのずっと手前で、ラッパーでいうところのセルアウトになる覚悟すらもない。そんな自分をひたすら自慰し、自己肯定するように、「俺は資本主義に抗っているだけだから」と言ってみている。もはや一体、なんのために、何に対して抗っているのか、そもそも何かに抗っているのかさえ判然としない。しかしそうは言っても時間だけは着々と正確に進んでいく。周囲を見渡す。全てがコンテンツとなり、全てが金になってしまう/出来てしまう世の中がある。なんとかならないものかと思う。僕がやっていることは一体何なのだろう。先にも述べたがタトゥーにしても絵画にしてもそうだ。基本的にはマーケットに対して開かれた行為であると思うが、それ以前に自分が生みだしたゼロからイチが、気付いたら出来てしまっていた自分にとってはある種のゴミが誰かの生活の足しになるだなんてただただ有りがたい限りだ。だからこそ僕は支払いに関してユーザーに言及したことはない。基本的に支払いは気が向いたときで良いと伝える様にしているし、もし支払う意思があるなら分納でも良ければ、タイミングさえいつでも良いと言う。やっぱり払いたくなくなればその意思さえ伝えてくれればそれでも良い。最近になって思うのが、おそらくだが僕はただの触媒なのだろう。触媒として生きているからこそ自分が主役になることはない。ある状況下に僕を投入することで何らかの作用が強まったり何らかの反応が新たに起こったりということで十分なのだ。まあこの十分だという言い回しも卑しき自慰なのかもしれないけど。そんな夢想をしながらも毎日日がなSNSをぼんやり見ている。今起こっている現象を可能な限り知りたい。少しでも受け止めようと、少しでも理解しようと努めている。SNSを見ているだけでは何も分からないが分かる気がすることも何かしらはある。しかし総じてSNS上では本当にくだらないことで値踏みをし合い、競争を煽りあっている。数値化される事でそこに価値の大小を感じてしまった結果、目的がズレ、のめり込んで行く様はまるでドラッグ中毒者のようなものだ。なんとなく「過食嘔吐」だなんて検索してみるとそこには大量の食材を並べた写真がアップされ続けている。その写真にはイイネがつく。投稿をさかのぼってみると3品より5品。5品より10品、とより多くの食材が並べられている写真の方がリアクションの数は多い。食べて苦しくなったから吐くのではなく吐くために食材を買い込む。そこまでは病として受け入れる事が出来るし、投稿者は私の生の痕跡を身を呈して掲示しているだけなのかもしれない。が、少なくとも、彼/彼女のTLを眺めるエンドユーザー達はその写真をコンテンツとして消費している。「素敵です」とか「頑張ってください!」「良き、エモい」だなんてコメントが大量についている。そうして恐らくだが投稿者も目的と結果が間に挟まれるプロセスのせいで乖離してしまうケースが多いのだろう。中毒者の完成だ。まあ、この原稿自体がSNSを過食した末の吐瀉物のようなものとも言えるが。あるいは服装もメイクもそうだろう。シミラールックと呼ばれる同じような格好に身を包み没個性的である事を個性とする。一読、シミュラークルかと思った。私の肌はイエベ春、私はブルベの冬のディープだから。自分に合う色が分からないからとカラーチャートを参照するのは良いが何故私の肌はこの色だからこの色が似合わなくて悲しいなんて事を言わなければいけないのだろうか。何故他人の肌の色を羨望するのだろうか。バカじゃないのかと思う。好きにしたらよろしい。好きに生きればよろしい。そうしてSNSで適当に消費されそう(してもらえそう)な画像や投稿をする。そんなガワだけで衒った人間が数千人の目の前で適当な事を口にする。SNSはパブリックではあるものの非現実でありフィクションである側面もある。それを分からず現実に何か成し得たような勘違いをし、分かったかの様な口で人生を説いたり、男とは~、女とは~だなんてカテゴライズをし、分断を強いる人間があまりに多い。自己陶酔し切っているのだろう。群衆の前でマイクを握り目じりを釣り上げ喋る快楽の中毒性はヒトラー以来人間を虜にし続けている。その陶酔ぶりさえもがちやほやされるだろうし、たとえば胸のデカいちょっとイケてる風の女の子がブラキャミでも着て家でだらっとしてる写真なんてアップした日には一瞬でそれなりの数のリアクションがあるだろう。そのリアクションを強かに貨幣に換えている人間も多い。貧乏人がPayPayのQRコードを晒し、酒が飲みたいからカンパ頼む、だなんて投稿をするとそれを見ていた貧乏人がそこに1000円程度の支援をする。そうして買った酒を握りしめ駅前でぶっ倒れている写真をアップする。全てがイージーにコンテンツ化させられてしまう。登場人物は全て貧乏人だ。その背後の街中ではUberEatsが走り回っている。負け組ランドセルだと揶揄する投稿さえも見た事があるが(流石にえげつない書き方だとは思う…)孤独と貧困を背負った老齢の身体が自転車に乗り汗だくになりながら玄関先まで食事を届けて回っている。一体何故こんな事になってしまったのだろうか。閉まる扉の向こう側にある家庭の声をどうして聞けるだろうか。Youtubeでは半裸のような格好をした投稿をすることで収益化を図るダサい奴も無数に居る。そこに群がるキモいやつも無数に居る。ここでの登場人物の誰にも一切の品がない。僕にでさえ海外のエッチなジェントルから「I’m horny(ムラムラしてる)」「Have fun?(ヤらない?)」だなんてメッセージが頻繁に送られてくるので、想像に容易い。Instagramのタイムラインも既にタイムラインでなくなって久しい。アルゴリズムが変わり、数の論理で勝手にIG的最適化をされたアカウントばかりが上位に表示されるようになってしまっている。しかしそこでのフォロワーの獲得なんて完全に従来のアメリカ的マッチョイズムそのものだと気付いているのだろうか。幼少からの歯列矯正は当たり前、ニガーはちょっと…。といったそれと何ら変わらないのだ。そこからのたった数年で今は他人の容姿に言及するのはダサいというポリコレのムーブメントの真っただ中だ。その一方では10代の女の子がうっせえわと吠えている。はっきり言っておかしい。緊急事態の前に今は異常事態の2021年なのだ先日、歌手の宇多田ヒカルが自身がノンバイナリーである事を彼女のインスタライブにて喋っていた。簡単に言うと女、男と言った二元論に囚われず、まず私は私であるということの表明だと僕自身は解釈しているのだが(そしてそもそも宇多田ヒカルは今までに再三に渡り歌詞の中でもその様な事を歌ってきていた。)それが”マイノリティーである事の公表”として扱われ、挙句、#happypridemonth のハッシュタグを付けられ虹色の人デビューおめでとう!といったような投稿がなされているのも散見された。やはりこの世はすでに地獄なのだなと僕は酷く落ち込んでしまった。私は私であるから、と言っただけでマイノリティの虹色チームとカテゴライズされるのであれば本当にそれで悩んでいる人たちの居場所などもうないでしょう、と思わざるを得ない。それはたとえば彼女なりのID戦略としての表明だったのかも知れないし、今日は良い天気だね、くらいの感覚で言っただけなのかも知れないのに。まず大前提として、あなた方に認識される前にその生活は当人にとっては当たり前に当たり前の生活として存在しているのだ。そこを皆が忘れているであろうことがしんどい。とにかく全ての事象をコンテンツと化し、非常に目の荒い篩に掛けてパターンで読むのが流行なのだろう。その行きつく先は、ただ誰かと繋がりたいだけ。すべてを手段としてしか捉えていない木偶なのだ。消費が早いのではなく流行りものにしか興味がない。もちろんその流行りものでさえ自分で選んでいるつもりでも既にGoogleやNetflixのおすすめの奴隷である。ただ時間だけが過ぎていって何も根付いていない。資本主義のシステムは雪だるま式に資本主義を加速させる装置なのだ。バンドマンが曲を作るにあたっても売れる事を意識すると自ずと番組でのタイアップやラジオで流してもらえるようにと歌い出しに先ず大サビが来る設計がなされるようになる。キャッチーなメロディラインは長くて30秒だそうだ。そりゃあ倍速動画や、ファスト映画と呼ばれるザッピングスタイルが流行るわけだ。こうした時代に警鐘を鳴らすべく従来の広告主ターゲットの形ではなく消費者に焦点を向けるべきだと元Googleの社員などが集まり新しい検索エンジン「Neeva」なるものがサブスクとしてローンチされ始めたようだが、それもサジェストに汚染されるまで一体どの程度耐えられるのか、という気しかしない。そもそもの資本主義自体に何らかの革新を起こさない限りは堂々巡りになるだろう。心身に良くないから敢えてわざわざそんなもの見ないようにしなさいよ。と言われる事もあるが僕はそう言った猥雑なノイズのようなものを卑しくもまるで当たり屋のように全身にひっかける事で世界との距離を測り、たとえばこうして文字を打つことで、刺青を入れることで、空間にラインを引き、世界と混濁してしまっている自身の身体のアウトラインを築き上げ、己がテリトリーを明確にしているのだろう。そう言えば知人がSNSは免許制にすべきだと言っていた。確かにそうすることで何かが変わりそうな気がする。兎に角早く5GでもBluetoothでもiモードでも何にでもさっさと接続してもらって、空を見上げて「connected!!!」とか「アセンション!!!」なんて叫べば、さっと別の次元に行けるようにして欲しい世界にラインを引く。無の空間に線を引く事で次元が発生する。その場に僕は居る。僕は触媒として場を作っている

 

 

 

〈MULTIVERSE〉

「BABU伝」 ──北九州の聖なるゴミ|辻陽介

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「死者数ばかりが伝えられるコロナ禍と災害の「数の暴力装置」としての《地獄の門》」現代美術家・馬嘉豪(マ・ジャホウ)に聞く

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

「ある詩人の履歴書」(火舌詩集 Ⅰ 『HARD BOILED MOON』より)|曽根賢

「新町炎上、その後」──沖縄の旧赤線地帯にアートギャラリーをつくった男|津波典泰

「蓮の糸は、此岸と彼岸を結い、新たなる神話を編む」──ハチスノイトが言葉を歌わない理由|桜美林大学ビッグヒストリー講座ゲスト講義

 

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas