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大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #23 南島に舞う蝶人たちの羽音──琉球ハジチ考・前編

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。舞台は日本の最南端・沖縄。歴史に断ち切られた「ハジチ」の線を手繰りに。

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ヤドカリの末裔

 朝も暗いうちから海に立ち込んでルアーで釣りをしていたが、まったくダメだった。ちょっと沖合いに珊瑚礁があるようで、潮が引いている時間帯のこのあたりは魚のいないただのプールになっているということなのだろうか。陽はもう高い。

 砂浜に戻ると素足とビーサンの間に砂がジャリジャリ入り込んでため息が出る。なんだかよくわからないが、僕は砂が素足に当たる感覚が子供の頃から大の苦手なのだ。旅の時代はいろんな国の海辺で暮らすことも多かったが常にハイカットのワークブーツを履いていたものだった。ヌードグラビアを眺めていてもビーチで身体に砂がついたショットには一気に台無しの感が漂う。揚げパンやあんドーナツのザラザラと砂糖をまぶしたやつを食べる時に口のまわりが砂糖まみれになんかなった日には……まあいい。好きなことをやり遂げる途上に障害はつきものだ。

 

 

 浜の終わりのちょっとした崖みたいな傾斜地には海に向かうようにしていくつも墓があった。崖に横穴を掘って納骨室にしていて、外側は小さくて丸みを帯びた家みたいな作りになっている。ささやかではあるがちゃんと庭や塀や門まである。その墓と墓との間の平地にテントを張って僕はここ何日かを過ごしているのだ。焚き火跡の脇には昨日の夕方の満ち潮の時に釣って焼いて食べたダツの頭が転がっていて、それに小さなヤドカリが取り付いて食事中だった。

 この生き物はこの島の人間にとってかつてはトーテムだったという話を聞いたことがある。現にこの地のトライバルタトゥーのデザインモチーフの一つとしても資料にしっかりと残っている。丸っこいミニチュアの家みたいな墓と丸っこい貝殻を背負ったヤドカリとを見比べていると、それも腑に落ちるような気がした。この地には風葬の習わしがあったとも聞いたが、きっと墓が家みたいな体裁を取るより遥か昔は、海に面した場所にそのまま置かれた遺体にヤドカリが群がって片付けていたことだろう。

 釣竿を片付け、テントから財布だけ持ち出して傾斜地を登ると上はサトウキビ畑だ。そこを突っ切り、道に出て、さらにしばらく歩くと商店がある。食料品や日用品から酒、タバコまで扱っている店だ。それってコンビニじゃないのと言われればまあその通りなのだが、やっぱりそうは呼び難い、お婆さんが1人でテレビを眺めながらテキトーに店番してる「よろず屋」タイプのやつだ。

 中に入って飲食ができるようになっているテーブルで、どんぶりにソバと具が入っているやつのラップを剥がし、そこらへんに置いてあるポットから自分で汁を注ぐ。スパム卵焼きおにぎりももらう。ゴワゴワした食感の平打ち気味の小麦麺のソバをすすりつつ、おにぎりを鰹だしスープとともにいただく。ここのところ毎日ほとんどこれだけど、相も変わらず旨い。マルちゃんのロングセラー商品「赤いきつね」は表向きはうどんということになっているが、実は沖縄ソバの美味さを目指した商品だったんだろうなぁ、とかぼんやり考える。

 

 

 今日もいい天気だ。

 さて、そろそろ那覇に戻るとしようか。

 

タトゥー裁判とハジチ

 那覇市内で友人の油彩アーティストの亜鶴(アズ)君をはじめとする何人かの合同展示会「自営と共在」のオープニングに呼ばれてタトゥーの話をすることになっていた。亜鶴君はHagazin読者にはすでにお馴染みの、例の全身真っ黒タトゥーでハイヒールを履いたとてもガタイのいい男性だ。行動力が人の形をとっているタイプの冒険家だと思う。

 時はタトゥー裁判の真っ只中で、しかも第一審敗訴の直後で業界を取り巻く空気も落ち込んでいたタイミングでもあり、その弁護団から亀石倫子、Buzz feed Japan の神庭亮介、精神科医の遠迫憲英を交えての裁判支援的な内容のトークイベントだった。このメンバーでは第二審逆転勝訴の後にもDommune でトーク番組をやらせていただいた。いつも思うのだがこれは夏目雅子の三蔵法師と化け物家来御一行みたいなビジュアルの西遊記コンビネーションだ。むろん僕は西田敏行の猪八戒だ。

 

 

 それはまあいいとして、その時にあれを沖縄から発信するということの、僕が考える最大の意義はもちろんハジチとの絡みだった。

 現代の日本のアンチタトゥーの風潮は要約するとだいたいこういうセリフに集約される。

「日本ではヤクザとの関わりからタトゥーに負のイメージがある。これはこの国独自の歴史的経緯なのだから、たとえ現在欧米で広く受け入れられているからといっても日本は同調すべきではない」

 でもそれならば、ヤクザと全く関係なくはるか古代から連綿と紡いできた琉球女性の美の伝統文化であるハジチが、当時の欧米先進諸国に顔向けできない野蛮な風習であるとして明治政府によって禁じられたことはどうなのだろう? 先の意見に照らすなら名誉を回復して復興させるべきじゃないのか? という一石を投ずるためだ。アンチの方々はいろいろとその時々でそれらしい理屈をこねてはいるが、ちょっと長い目で見ればその内容に一貫性はなく、要は嫌いだから嫌いなのにすぎず、そういう感情は大人なら理性でセーブするべき案件なんじゃないの? という論旨だ。

 もちろん、現代タトゥーのマーケットをサッカーのコートに例えるならば、僕のやっているトライバルタトゥーなんてのはゴールひとつ分のサイズもあるかないかであり、とてもじゃないが業界を代表するような包括的なことは僕には言えない。いわんやハジチはそのゴールの片隅に吹き溜まった一枚の枯れ葉のようなものに過ぎないだろう。が、ゲームでは端っこの人には端っこの人なりの役割があるものだ。

 

琉球弧に刺青を持ち込んだのは誰か

 沖縄の島々から奄美大島までを一つの文化圏として琉球弧と称したりもする。

 ハジチはこの琉球弧のトライバルタトゥーだ。それがいつから存在していたのか、そして近代までどのように変遷してきたのか、ということはよく分かっていない。

 

首里地方のハジチ

 

 大陸の中華文明との地理的近さゆえにその歴史のかなり早い時期から文字を手にしていた琉球弧ではあるが、一方で昔のハジチに関する記述というものはほとんど無いのだ。

 そのことを以って、ハジチは今からそんなに遠くない時期に、隣接する台湾の原住民たちの風俗に影響を受けたりして始まったのではないかという説もある。それはそれとしてとても面白いと思う。もし文字文化を手にした後にハジチが発祥したのであれば、それは世界最古の現代タトゥーの一つということにもなるわけだから。

 でも僕の見立てとしては、周辺のアジア地域の他のトライバルタトゥーと同様に、おそらくこれは石器時代からずっと繋がってきたものだ。始めの人々はすでにタトゥーを入れた姿で琉球弧にたどり着いたのだと考えている。防寒の意味での服の必要性が低い当地の気候のことを考えると、手や顔といった世界中のトライバルタトゥーの定番部位にとどまらず、かつてはド派手に全身を飾っていたのではないかとも想像する。

 タヒチの章でもすでに言及しているが、文字の普及した地域でトライバルタトゥーのことが記されていないのは実はよくあることで、検証可能な分かりやすい例を挙げるとすれば、新大陸や南太平洋には西欧諸国の文字が入ったが、ローカルが自分たちのその膨大なタトゥー文化について記すことはなかったというのがある。それはわざわざ特筆するに値しないような当たり前にありふれた庶民的物事なのだ。

 中華文明の周辺に広がる豊かな部族刺青の世界もまたしかり。そしてそれらと国境を接して隣り合っていた長大な歴史の記述者である中華文明にしたって、その歴史のほとんどの時期はずっと東西南北ぐるりとタトゥーの入った部族や民族に取り囲まれていて、外の奴らにはタトゥーが入っているということ自体がしごく一般的な事象だったわけで、その一つ一つのタトゥーの柄が正確にどうだったかなんてことに特段の興味はなかったはずだ。

 琉球弧のハジチもそうやって誰に記述されることもないがしっかりと存在し続けたトライバルタトゥーの中の一つなのだと思う。

 なお、台湾と琉球弧の関係なのだが、地理的に隣り合わせの両者の間には、ことタトゥーに関する限りは明確な境界線がある。それはハンドタップ圏の北限ラインだ。このハンドタップ圏は南アジアから東南アジアの山岳地帯、雲南、ベトナム、海南島、などと来て、台湾から南太平洋に展開する。この技術は、ハンドポークのように針さえあれば誰でもが考えつきうるという類いのシンプルなものではなく、もうちょっと工夫が必要で、今挙げた地域のそれは全て技術の伝播や人の移動によって関連していると思われる。僕もたまにデモンストレーションとしてハンドタップを人前で披露したりするのだが、これは修得するのに時間はかかるが、一度身につけてしまえばはるかに効率的な手法だ。槍に対する弓矢みたいなものと例えればイメージしやすいだろうか。

 つまり台湾の原住民のタトゥーは全てこのハンドタップで行われているが、琉球弧はすべてハンドポークなのだ。もしかしたら品質が高くてスムーズな鉄製の針を使う現在のハンドポーク手法の前には、植物のトゲや魚の骨を使ってハンドタップをやっていた時代があった可能性もなくはないとは思うが、ハンドタップの人々は鉄製針を手に入れてもそれをトゲや牙の代わりに棒に取り付けて相変わらずトントンやり続けるのが僕の知る限りでは通例なのだ。

 

 

 台湾からフィリピン諸島、メラネシア、ポリネシアと広がる人々はオーストロネシア語族であり、日本人の先祖には南方ルートとしてこの人たちも入っているという説があるが、それはいったいどれくらいのボリュームの話なのだろうか。まあ確かに薩摩隼人の末裔である西郷隆盛とポリネシア人の横綱武蔵丸はよく似ているとは思うけれども。

 

医療か、芸術か

 うちではハジチに関しては10年代初めからホームページで告知してキャンペーンをやってきた。この国に拠点を構えてトライバルタトゥーの看板を出している以上、ハジチを手掛けるのは僕にとって商売上の必然だったからだ。しかしマーケットの現状としてはニーズはまだまったくなかった。そりゃそうだ。一般的に人はタトゥーを入れるにあたってイメージに近い参考画像を探すものであり、明治期に禁じられて以降現在まで120年間ぐらい彫られていないハジチには実質それが無いわけなのだから。だからスタートアップの企画として人類学的資料として残っているデザインを部位も合わせて正確に再現するハジチに関しては、成人なら誰にでも無料で施術をすることにしたのだ。人種、国籍、宗教、民族、出自、性別、などには壁を設けないのがネオトライバル寄りの施術者としての僕の流儀だ。

 最初は常連客の中でも特に無類のトライバルタトゥーマニアと思われる方々に声をかけて、良く知られている主だったパターンを一つずつ順繰りに形にしていくことから始めた。

 

宮古島地方のハジチ

 

 成女の証、死後の世界へのパスポート、ヤマトに年頃の娘が誘拐されるのを防止、などの意義があったとされるハジチの風習。これは世界中のトライバルタトゥーを調べているといつも出てくる非常に典型的な答えでもある。実際、人々は子供の頃からコミュニティーの大人たちからそのように聞かされてきたのに違いない。タトゥーを入れないと、お嫁に行けなくなるんだよ、死んでもニライカナイ(琉球における天国みたいな異界)に行けないんだよ、悪い男の人たちにさらわれちゃうんだよ、と。しかし、年端もいかない幼き者たちを、特にタトゥーだけとは限らないコミュニティーの慣例全般に従わせるための単なる方便にも聞こえるこれらの理由がハジチの真髄だとは僕は思わない。いや、真髄なんてものは本当は無いのかもしれない。ただ慣例としてそこにある、それ以上でも以下でもないのかもしれないと感じるときもある。たとえば人生というものが概ねそうであるように。

 だが、ともあれ、島に伝わるハジチの唄を聴くと、その美しさを己が身に纏うことは女性たちにとって他の何にも変えがたいほどの娯楽だったことがわかる。僕も、あの沖縄の人たちが祭りや宴会のフィナーレでみんなで踊るカチャーシーなんかは、ハジチが入っていたからこそのあの手の動きになっているのだと思うし、往時のそれは無数の蝶が乱れ飛ぶようでさぞかし綺麗だったろうと思う。

 あと、鍼やお灸のような目的で施された治療痕としてのタトゥーの例も知られていて、これはイタリアのアルプスで見つかったあのアイスマンにも同様のものがたくさん入っているのが確認されているのだが、当時の人々は墨を肌に入れるという行為そのものにパワフルなものを感じていたことが分かる。タトゥー裁判の弁護団のスローガンは確か「タトゥーは医療か、それとも芸術か」みたいな感じだったので、これは黙っていようかとも思ったのだが、結局はトークで言ってしまった。僕は完全にディベート向きではない。

 

南島に舞いし蝶人

 ハジチにはさまざまなデザインパーツの集合体になっているという特徴がある。なにしろ手という小さなエリアにそれらが凝縮されているわけだから一つ一つは極限まで無駄の削ぎ落とされたミニマルな記号みたいなものだ。もしかしたらこれはもっと昔に全身に入れていたタトゥーの、当世小型ダイジェスト版なのかもしれないと思う。だとすれば、これを分解して増幅すれば古代の総身彫りも再現できるかも、などと妄想も膨らむ。

 

『南嶋入墨考』(小原一夫、筑摩書房)より

 

 様々なデザインパーツとその呼び名は現在入手可能な資料にはとても細かく分類されていて、その中には由来となったモチーフもはっきり分かるものもある。例えば「トギャ」と呼ばれる魚突きの三又のヤスは、男も入れていたことが知られている唯一のハジチデザインなのだが、これなんかは形がそのまま明確に分かるし、きっと漁師が大漁や海の安全を願ったしるしなのだろうという背後のイメージまでもが活き活きと見えてくるようだ。が、こうしたイメージとの関連については学術的には一切分かっていないといっていい。明治期以降の研究がなされた時点ではすでに不明だったのだ。

 

トギャ

 

 僕自身いろいろな部族の人たちに話を聞いてきて、そういった背後の意味を聞き出すことの難しさはよく知っている。結局、そこは大事ではないからセットで引き継がれてはいないのかもしれない。つまり、慣例化したものに意味などいらないということだ。我々は現在、タトゥーが慣例化してはいない社会に住んでいて、だからこそ初めてタトゥーを入れるときには自分たちの慣例の外側にあえて飛び出ることの具体的な理由が必要だったりする。そしてついついその答えを刺青が慣例である部族の人にも期待してしまうのだ。ためしに隣の標準的なタイプの日本人にも尋ねてみて欲しい。あなたの身体にタトゥーが入って「いない」のはどういう意味があるのですか、と。たぶん部族の人と同じちょっと困った表情になるはずだ。それでもしつこく食い下がれば子供の頃に大人から聞かされた話なんかを教えてくれるかもしれない。タトゥーなんて入れたら、お嫁に行けなくなるんだよ、死んでも成仏できないんだよ、悪い男の人たちが寄ってきて厄介ごとに巻き込まれちゃうんだよ、といった内容の。

 呼び名とモチーフ間の関係が分からないものはたくさんある。ほとんどがそうだ。琉球弧の北東端の奄美大島で「ウディハヅキ」と呼ばれる手首のデザインはハジチモチーフのサイズ感からみるとちょっと異例なぐらいのボリュームがある、ボルネオデザインのようなダイナミックで野性的なトゲトゲしい黒の塊となっている。記号化されきっていないこのデザインには何かを具象的に表現しようという一生懸命な意思を感じるし、これならどうにかモチーフが分かりそうなものなのだが、惜しくもそれがあとちょっとのところで他人には伝わらない感じなのだ。他のハジチの様式から浮いたようにも見えるこれは、最後に奄美大島群島に残ったものなのか、または外の鹿児島サイドから入ってきたり、あるいはそこから新たに発生している最中だったのか。

 

ウディハズキの文様/『ハジチ、蝶人へのメタモルフォーゼ』(喜山壮一、南方新社)より

 

 この奄美大島のウディハヅキに関しては、古代中華の青銅器に象られた神獣の饕餮(トウテツ)と関係があるとか、複数の生物のパーツを合体させた獣形紋なのではないかとの論考が従来は為されていたが、それは唐突すぎるように感じて疑問に思っていた(饕餮だけに)。確かにボルネオトライバルタトゥーのメインモチーフでありドラゴンドッグと訳されるジャングルの神獣「アソ」は饕餮の直系の子孫だと僕も思うし、いかにもボルネオっぽいこのウディハヅキの形にそれを連想した感性にはとても親しみを感じる。が、おそらくハジチはシステマティックな定型を共有する琉球弧全域でひと塊りに考えられるべき対象なのだ。饕餮は言ったらアジアのボスキャラであり、それを一度採用したならば他の島のハジチで省けるような存在ではないとも思うのだ。うーむ、分からない。

 

 

 と思っていたら、ついこの前、琉球の精神史を研究している喜山荘一さんと呑んでいて、ウディハヅキが蝶なのではという説を聞いた。奄美大島の一個手前の徳之島のそれは明らかに蝶に見えるというのは僕も実際に彫ってもいるし分かっていた。これは子供に見せたってたぶんそれ以外には見えないようなデザインだ。奄美大島のウディハヅキも両手首を合わせると大きな蝶に見立てることもまあ出来る。しかし奄美大島の向こう側の与路島のものはどう見ても蝶には見えない。目玉のある何かトゲトゲしい虫とかだろうか。これはなんとなくアソに似ていると思う。饕餮説はこれを根拠にしているのかもしれない。でもそうするとやはり徳之島の蝶の説明がつなかい。

 喜山さんはこれを、長い8本の角と赤い斑点模様を持つ、オオゴマダラという蝶の幼虫と解釈していた。そういう生物がドンピシャで島に存在しているということにも驚いたが、さらにびっくりしたのは奄美大島のウディハヅキを脱皮途中の蝶と解釈している点だった。つまり、与路島、奄美大島、徳之島という並びで脱皮前、脱皮中、脱皮後の蝶のわりと正確な模写だと言うのだ。死と再生の瞬間だ。脱皮中の蝶と奄美大島のウディハヅキを並べて比較するイラストを、氏の新著「ハジチ、蝶人へのメタモルフォーゼ」の中のイラストで見せられた時には、もう唸るしかなかった。ほとんどの人には無理なこじつけに見えるかもしれないこの解釈だが、僕には00年代後半に、仲間内の女性にこのウディハヅキを実際に彫っていた時、細い線の渦巻き部分をなんだか蝶の口みたいだなと思った記憶が確かにあったのだ。僕は喜山説に一票を入れたい。

 

 

 誰も知り得ないし、気にもしていない、すでに失われてしまったこの領域に、それでもまだ未練があるのが僕だけではなくて、いや、僕どころじゃない人がいて本当に良かったと思っていたら泥酔した。ウチナンチュー(島で生まれ育った人)は酒が強い。

 今となっては分からないことだらけのハジチの風習だが、実は世界に誇れる素晴らしい点がある。次回はそこを明らかにして見たい。

 

#24 南島に舞う蝶人たちの羽音──琉球ハジチ考・後編 を読む>>

 

 

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PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html