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磐樹炙弦 『ウィッチ・フェミニズム──現代魔女運動の系譜』 #04「魔女とトランスジェンダーの系譜学」

現代魔術研究者の磐樹炙弦が紐解く魔女とフェミニズムの年代記。トランスジェンダリズムの歴史と現在、その背景で渦巻く魔女の舞踏をめぐって。

<<#03「蕩尽と知と恋愛の18世紀末(2)──汝の意志することをなせ」を読む

J.K.ローリング

「ハリー・ポッター」シリーズの原作者、J.K.ローリングが2020年6月にTwitterに投稿した一連のツイートが、トランスフォビア的であるという批判を浴びた。直後、映画「ハリー・ポッター」シリーズの主演俳優ダニエル・ラドクリフが批判と「ローリングに替わって」謝罪を表明。フェミニスト、トランス活動家、ハリウッドを巻き込んでの論難は、今日まで後を引いている。

https://www.bbc.com/japanese/53003426

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/daniel-radcliffe-responds-to-j-k-rowling-transphobic-tweets

https://www.jkrowling.com/opinions/j-k-rowling-writes-about-her-reasons-for-speaking-out-on-sex-and-gender-issues/

 

J.K. Rowling (画像引用元:https://www.bbc.com/japanese/53003426)

 

現在も#TransWomenAreWomen、#IStandWithJKRowlingといったハッシュタグで、トランスフォビアか、否、家父長制的抑圧かと喧々囂々の議論が続いている。このコンフリクトは来るべくして到来したものであるが、フェミニズム、セクシャルマイノリティ、トランスジェンダリズムの動向をフォローしていない外野からは、双方の文脈を読み取りにくく、混迷を極める印象を与えるものとなっている。

 

トランスジェンダーとトランスジェンダリズム

トランスジェンダー、およびトランスジェンダリズムを巡る歴史的文脈は、交錯している。現在「トランスジェンダー」は広範囲な諸概念を包摂するアンブレラタームであり、「トランスジェンダーとは何か」を緻密に論じるための体系的語彙は、未だ整理されているとは言い難い。

本稿は、トランスジェンダーと、そのポリティクス体系としてのトランスジェンダリズムを意識的に使い分けている。GID, クイア、トランスセクシャル、トランスジェンダーとして生きる個々人の思想・態度と、政治的言説としてのトランスジェンダリズムは、必ずしも一体ではない。本稿で扱うのは後者、トランスジェンダリズムの思想的系譜である。

今日、トランスジェンダーと呼ばれる存在、すなわち身体的・社会的性表現、性役割を越境する存在は、シャーマン、ユーニック(宦官)、娼婦夫、芸能者などのかたちで古代から存在し続けている。古代地中海世界の同性愛、ヒンドゥ文化圏における性別の曖昧なカースト「ヒジュラ」などに関する人類学的な知見は、社会学、性-精神医学における「社会的に構築される性=ジェンダー」概念とともに、現代のトランスライツを構築していく上での重要な参照点となっている。

今日用いられるアンブレラタームとしての「トランスジェンダー」には、性同一性障害(GID)、外科的に性転換を為した者(トランスセクシュアル)、異性装(トランスヴェスタイト)などが含まれる。このことが、しばしばトランスジェンダーを巡る議論がすれ違い、加熱する一因となっている。

ジェンダーがセックスから独立した性区分であるならば、「トランスジェンダー 」に「トランスセクシュアル」を包含することに混乱を指摘することも可能だろう。しかしこの語が議論されてきた経緯をみれば、最初にトランスヴェスタイトへの言及、続いてトランスセクシュアルの議論があり、最も最近により包摂的な概念として「トランスジェンダー」が用いられるようになった、という流れがある。

トランスジェンダーをめぐるアイデンティティポリティクスには、性同一障害、性志向の自由、公共サービスと医療へのアクセスと脱病理化をめぐる諸々の利益/不利益の勾配が、目まぐるしく交錯している。その言表はもちろん一枚岩ではなく、緊張と矛盾をも孕むものである。例えば、アンブレラタームとしてのトランスジェンダーからトランスセクシュアルを分離するとすれば、性区分された公共スペースにアクセスする権利を性的マイノリティ全般の基本的人権として問題提起していく運動は、分断を免れない。また、近年の多様なトランスライツアクティヴィズムにおいては、性同一障害(性別違和)として病理化することへの問題を提起する立場も存在する。その点において、トランスライツアクティヴィズムとGIDの利害不一致、緊張関係もある。

https://gid.jp/research/research2020082301/

https://togetter.com/li/1456919

2020年にはドキュメンタリー「Disclosure トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして」がNetflixで公開され、話題を呼んだ。今トランスジェンダーとそのポリティクスは、衝突と混乱を含みながらも、日々明度と彩度を増して可視化され続けているのは間違いないだろう。

 

「Disclosure トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして」 https://www.netflix.com/title/81284247

 

トランスジェンダーをめぐるポリティクス、トランスジェンダリズムの構築に大きな影響を与えたであろう二つの論考について、そのエッセンスを駆け足ながら俯瞰してみたい。ダナ・ハラウェイ「猿と女とサイボーグ」収録の「サイボーグ宣言」と、ジュディス・バトラー「ジェンダー・トラブル 」である。

 

ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」

マルクス主義フェミニズムの視点からフェミニズム、ジェンダー、テクノロジーの関係を研究したダナ・ハラウェイは、1985年「サイボーグ宣言」を発表する。この論考では、産業革命から情報革命へと推移する流れにあって、C3I – Command – Control – Communication – Intelligenceに集積されていく支配のテクノロジーが「20世紀後半にあって女性の経験であるとみなされる存在を変容せずにはおかないような、フィクションかつ生きられた経験の問題」としての、アイロニカルな「サイボーグ – サイバネティックな有機体」が予見される。そして、テクノロジーがあらゆる境界とアイデンティティを溶解し、男と女、起源物語とフィクション、ヒトと機械が融合していく中で「フェミニズムの立場にたつサイボーグ」のミッションが宣言される。

 

「猿と女とサイボーグ」カヴァーアート “Cyborg” Lynn Randolph, 1989 

 

“フェミニズムの立場にたつサイボーグにとっては特に重要な意味を持つ男根中心で論理中心的な起源物語りが、文字どおりのテクノロジー – すなわち、世界を書くようなテクノロジー、バイオテクノロジー、マイクロエレクトロニクスといったテクノロジー – に組み込まれているのであって、こうしたテクノロジーは、近年、我々の身体をC3I (指揮 – 管制 – 通信 – 情報 )のグリッド上に位置する暗号(コード)の問題としてテキスト化した。フェミニズムのサイボーグによって語られる物語りには、通信と情報を暗号化しなおして指揮と管制を覆すという仕事が待っている。”

“有機体や、有機体論的ホーリズムのポリティクスは、いずれも、復活(リバース)というメタファーに依拠し、一様に、生殖する性(セックス)という源泉を要求する。サイボーグに関係があるのはどちらかといえば再生(リジェネレーション)の方であって、サイボーグは生殖の基盤(マトリクス)や大方の出産には疑念を抱いている、と私は思う。サンショウウオでは、手足を失うような深手の傷を負った場合に生じる再生(リジェネレーション)は、構造の再成長や機能の回復をともない、その場合には、傷を負った部位に同じものが二つ生えるといった奇妙な局所解剖学的形成の可能性が常にある。生えてきた手足は、奇怪なかたちをしているかもしれないし、ダブっているかもしれないし、力強い手足であるかもしれない。我々は皆、傷ついており、それも深手を負っている。我々は、復活ならぬ再生を必要としており、我々が再構成される過程をめぐってのさまざまな可能性の中には、ジェンダーなきモンスターの世界の出現を希求するというユートピアの夢も含まれる”

「サイボーグ宣言」 / 「猿と女とサイボーグ 自然の再発明」 ダナ・ハラウェイ著・高橋さきの訳 青土社

 

フェミニズム論壇よりはむしろ、ITやSFなど、多方面、拡散的に及んだ本書の影響を要約するのは筆者の手に余るが、85年当時、少なくともフェミニズム論壇にあっては、ハラウェイのヴィジョンは半信半疑、困惑とともに受け取られた筈だ。80年代アメリカは未だ「情報ハイウェイ構想」の時代であり、実験的段階にあったインターネットがWWWによって広く成長していくのは90年代に入ってからである。「サイボーグ宣言」が描くヴィジョン、すなわちポストマルクス主義/ポストフェミニズム的サイボーグ戦略は、インターネット環境の成熟を待って、今日ようやくその問題系が明らかになったものであり、2000年以降トランスジェンダリズムの構築がその状況とシンクロしていることは明らかだ。ハラウェイの予言をコード化し、いよいよ実装・起動されたアプリケーションの一つが、トランスジェンダリズムかも知れない。

 

ジュディス・バトラー「ジェンダー・トラブル」

同時期に研究を進めていたジュディス・バトラーは、ヘーゲル研究に発する哲学者であり、レズビアンである。1990年に発表された「ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの撹乱」は、今日のセクシャルマイノリティ・ポリティクスとリベラル・フェミニズムの理論的支柱となっている。

 

Judith Butler(画像引用元:Wikipedia)

 

“生物学的に「メスである」ということがもはや安定した概念ではないと思われているので、メスの意味は、社会的な「女(ウーマン)」という概念と同様にトラブルの状態にあり、固定することはできない。また生物学的な女と社会的な女は、両者とも男との関係でのみトラブル的な意味づけをもつので、この系譜学的な研究は、ジェンダーと、ジェンダーが示唆する関係的な事柄に焦点をあてるものとなる。さらにまた、フェミニズムの理論が政治的事柄を扱うからといって、フェミニズムの理論が本源的なアイデンティティの問題にかかわる必要はもはやないということは、明らかである。むしろわたしたちが問いかけなければならないことは、アイデンティティのカテゴリーを抜本的に批判、検証した結果、どのような政治的可能性が出てくるかということである。”

「ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの撹乱」ジュディス・バトラー著・竹村和子訳 青土社

 

難解・晦渋極まる同書の内容を、十全に把握し解説することもまた筆者の手に余るが、ここではボーヴォワール、モニク・ウィティッグ、リュス・イリガライへと推移していくバトラーのフェミニズム批判の文脈をみておこう。本書を象徴する「セックスが既にジェンダーである」というウロボロス的転回の重心には、文法と修辞法が生成する「ある」の背後へ、「不在」へとすり抜けていく「女ですらないもの」としてのレズビアンの身体が据えられている。ウィティッグは、言語の内部秩序として「ある」「ない」 – 有徴/無徴を区別する覇権的な男の意味機構が、欠如や語り得ないものとしての女性を生成する地点を問題として、その上で両性の二元的な意味機構秩序 – 強制的ヘテロセクシュアリティからの逸脱としてのレズビアンを語る。言語学者、精神分析家、差異派フェミニストであるイリガライは、男性中心的なレトリックの枷を脱構築し、差異派フェミニズムの射程として母と娘の聖性、女性と自然との繋がりを指摘しながら、プラトン、ヘーゲル、フロイトに連なる男性覇権的西洋知から逃れる「女性の語り」を希求する。

バトラーはウィティッグ、イリガライの「不在する女性」「女ですらないもの」の批判的分析から、フロイト-ラカン精神分析とフーコーを参照しつつ「ジェンダーは身体にパフォーマティヴに書き込まれる」「ジェンダーアイデンティティはパフォーマティヴな反復によって生成される」といった命題を重ね、遂に(しかし本書の冒頭で唐突に)「セックスは常にジェンダーである」と言明する。バトラーは本書において、フェミニズムを担う主体=女性というカテゴリーの不確かさを暴くと同時に、主体というカテゴリー自体を「行為者(エージェント)なき行為(エージェンシー)」の反復、生成と見なし、虚構として反復強化されるジェンダー/セックスの権力構造を揺さぶるクイア(変態)なずらしを実践する、セクシャルマイノリティの政治的可能性を示唆する。

 

“GENDER TROUBLE” Judith Butler, 1990

 

バトラーが「ジェンダー・トラブル」で企図したことは、例えばアドリアンヌ・リッチが概念化した「強制的ヘテロセクシャリティ」「レズビアン連続体」といったラディカルフェミニズムの諸概念を、フェミニズムが到達し自らを包囲する「新たな本質主義」として警戒し、その防衛反応を精神分析的な自己解体の力動によって超克すること、と読むことが可能だろう。バトラーの理論は、フェミニズムにポストモダンの洗礼を施し、ポスト-フェミニズムの地平を射程に捉えるものとして、90年代以降の知的状況に重い衝撃波をもたらした。ポストフェミニズムはフェミニズムを脱構築し、セクシャルマイノリティとの共闘でセックス/ジェンダーの無意識的覇権を撹乱し、遂には「女性」をも脱構築してしまう。「ジェンダートラブル」がラディカルフェミニズムの膠着に対して仕掛けた「撹乱」は、目標達成と同時に消滅する階級闘争としてのフェミニズムが宿命として内在化する「厄介なもの」、ウロボロスの蛇の循環的旋回を非妥協的に加速し、その遠心力によって、ポストフェミニズム的新領域として「ジェンダー研究」を分離した。

ジェンダー研究は、現在ではフェミニズム、女性学とは独立した学術分野として認識されているようだ。私は先日、「日本の大学でジェンダー学を学んだが、フェミニズムについてはほとんど意識したことがない」という20代女性の発言を聞いて、衝撃を受けたものである。

 

スパイラルダンス

80年代後半から90年代初頭にかけて、フェミニズム / ジェンダー研究のウロボロス的急旋回が起こった背景には、どのような時代的必然性があったのだろうか。そのヒントは、前傾ハラウェイ「サイボーグ宣言」を締めくくる一文に見いだせる。

 

“サイボーグの想像力は、機械、アイデンティティ、カテゴリー、関係性、宇宙の物語りといった存在の構築と破壊の両方を意味する。スパイラル・ダンスには、女神もサイボーグも加わっているものの、私は、女神ではなくサイボーグとなりたい。”

サイボーグ宣言 / 猿と女とサイボーグ 自然の再発明 ダナ・ハラウェイ 高橋さきの訳 青土社 

 

ここに些か唐突に言及される「スパイラル・ダンス」とは、1979年に出版されたアメリカ復興魔女運動のキーパーソン、スターホークのベストセラー著作のタイトルである。(スターホークについては、拙稿「Floating Away 精神科医と現代魔術師の西海岸紀行」を参照されたい。)

THE SPIRAL DANCE, STARHAWK (1979)

Starhawk (画像引用元: https://www.thesunmagazine.org/issues/327/louder-than-words)

 

ハラウェイは「サイボーグ宣言」の中で2度、スターホークが指揮するアクティヴィズムとしてのスパイラルダンスに言及していることから、「サイボーグ宣言」執筆時、スターホークを少なからず意識していたことは間違いない。スパイラルダンスとそれを象徴とする西海岸ネオペイガン/女神/魔女運動に対するハラウェイの態度は、以下の通り、アンビヴァレントなものである。

 

“皮肉なことではあるが、アジアでチップを製造したり、サンタ・リタ刑務所でスパイラル・ダンシング(1980年代はじめに、米国カリフォルニア州のアラメダ群刑務所で、看守と反核デモの参加者が連携して行ったスピリチュアルかつ政治的な実践)を踊っている不自然きわまりないサイボーグの女性たちこそが、構築された存在としての一体性/団結によって、有効な抵抗戦略を導き出す存在なのかもしれない。”

“我々は、イデオロギー的にも、物質的にも、もはや後戻りできない。ことは、「神」の死にとどまらない – 「女神」も死んだのである。いや、神も女神も、マイクロエレクトロニクスとバイオテクノロジーのポリティクスに彩られた世界に復活したのだろう。”

サイボーグ宣言 / 猿と女とサイボーグ 自然の再発明 ダナ・ハラウェイ 高橋さきの訳 青土社

 

1980年からカリフォルニア大学サンタクルーズ校で教鞭をとっていたハラウェイは、反核直接行動で逮捕・収監されたアラメダ郡刑務所で、囚人と看守を巻き込んで螺旋舞踏「スパイラルダンス」を取り仕切った魔女・スターホークと、その周囲に興隆するスピリチュアル / ポリティカルな魔女たちの「力の渦」を、驚きのまなざしで眺めていた筈だ。マルクス主義フェミニストとして「一体性 / 団結」を希求しつつ、その可能性を担保する筈だった起源 – 自然 – アイデンティティの物語と境界が、テクノロジカルなランドスケープの中で電子的に溶解してしまうこと、その危機意識とアイロニーが「サイボーグ宣言」の主題であろう。(バトラーに比べれば、ハラウェイは私にはとても理解しやすい。それは、ハラウェイと私が参照点として西海岸魔女運動へのまなざしを共有しているから、と思わなくもない。)

 

 

 

https://www.thesunmagazine.org/issues/327/louder-than-words

 

「サイボーグ宣言」から私が読み取るのは、女神信仰、自然との結びつきを回復した女性の身体、癒しと直接行動のシスターフッドを率いるスターホークが当時、まさに魔法のように生み出していたエコフェミニズムのうねり、魔女のスパイラルダンスに対する、期待と懐疑の入り混じった応答である。それ故にハラウェイは、「女神も死んだ」ものの、それはエレクトロニクスとバイオテクノロジーの世界に復活したと付け加え、スパイラルダンスに加わる魔女たちを「不自然極まりないサイボーグ」の女性として称揚し、そのダンスには「女神もサイボーグも加わっている」が「私はむしろサイボーグになりたい」と、アンビヴァレントな語りを吐露する。その上でハラウェイは、スピリチュアリティという新たな本質主義に依らないもうひとつの道筋 – サイボーグ・フェミニズムを、自らの責務として描いてみせたのではないか。

アメリカ西海岸に興隆するスピリチュアルな、本質主義的な、時に分離主義的な魔女と女神の運動が、80年代以降巨大で静かなポップカルチャー、ニューエイジ/ネオペイガンとしてその文化地図上の領土を拡張し、フェミニズムに思いもよらなかった「一体性/団結」の場を開いた。その魔法をかけられたような光景を二人のフェミニズム理論家、マルクス主義フェミニスト・ハラウェイと哲学者バトラーが、カリフォルニアの同じ空の下で目撃し、議論を交わしていた筈だ。「サイボーグ宣言」から「ジェンダー・トラブル」に連なる文脈の背景には、魔女の舞踏が渦巻いている。

 

スザンナ・ブダペスト「女性の密儀」

スパイラル・ダンスの主催者スターホークは、自身の魔女カブン「リクレイミング」を組織する以前、別のフェミニスト魔女カブンに参加し、魔女としての訓練を受けている。それがロサンジェルスにて1971年に結成された「スーザンBアンソニーカブンNo.1」であり、そのリーダーがハンガリー系移民でレズビアン分離主義フェミニストにして魔女、スザンナ・ブダペストである。

 

Zsuzanna Budapest(画像引用元: https://www.zbudapest.com/

 

ブダペストはNYでW.I.T.C.H(1969)などラディカルフェミニズムを牽引したロビン・モーガンや、イリガライの影響を受け、ロサンゼルスでキャンドルと書籍を扱う魔女ショップを運営しながら女性解放運動(WLM)や反レイプアクティヴィズム、シスターフッドに参加。1975年には違法な「タロット占い」を提供したかどで囮捜査によって逮捕されつつ、法廷闘争にてカリフォルニアに残存していた「妖術禁止法」の撤廃を勝ち取ったりもしている。ブダペストは女性だけの魔女宗派「ダイアニックウィッカ」を組織し、その理論書であり儀式次第書である「WOMEN’S MYSTERIES」を1980年に出版する。初版は小さなパンフレットであったが、版を重ねる度に増強され、今日至るまでロングセラーとなっている。本書は、前掲スターホークの79年の著作「スパイラルダンス」と並ぶ、アメリカ現代魔女文化の到達、金字塔と呼べる作品である。

 

“THE HOLY BOOK OF WOMEN’S MYSTERIES” Z. Budapest, 1989

 

ブダペストの行ったことはシンプルかつラディカルである。西欧ロゴス中心主義の玉座に据えられた男性形の神とその子なるキリストを、ギリシャ-ローマの女神ディアナ-アルテミスとその娘アラディアに置き換え、その神殿巫女集団としての魔女カブン、ダイアニックウィッカを組織したのである。英国源流復興魔女宗ウィッカにおいて女神と対をなす男神もまた神殿から放逐され、ウィッカ的男女神二元論から女神一元論へと改定された宇宙論のもと、女性の人生経験を祝祭する一連の通過儀礼を管理する祭祀集団、シスターフッド、魔女カブンを創造した。ダイアニックウィッカの理論と実践は、前掲リュス・イリガライの「レトリックに内在化された男性覇権」をめぐる理論と、ジャック・デリダの強い影響下にある。

 

“はじめに、知り得ぬ沈黙があった。彼女には、宇宙に響き渡る知り得ぬ名前があった。その名の力は、誰にも知られることなく、宇宙を活力で満たした。

沈黙は、光と影に分かれた。光からは形がうまれ、影からは無形が生まれた。それら視えるものと視えぬものを混ぜ合わせることで、今日私たちが自然と呼ぶものを、彼女はつくった。

形と無形、光と影、視えるものと視えぬものの混合により、彼女の無限の現れを「産む力」として、彼女の異なる形を、彼女をより暗く隠れた「生まれた形」として、あらゆる創造物を産んだ。”

“はじめに、母があった。子らの母であり、子らは全ての人らの子らであった。女性の性儀礼は諸宗教の聖婚儀礼、季節の暦に見受けられる。真夏の夜、女性は男性原理を代表する男性と交わった。人格と属性は脇に置かれ、人間の同一性を認め祝福した。司祭と女司祭は生命力への忠誠のもと、この性的儀礼に参加した。この聖婚儀礼のため、子供の父親を特定することは事実上不可能だった。ただ母権だけが、一目瞭然の、疑いようのない現実であり、父権は期待あるいは虚構にすぎない、想像力の産物であった。”

“中絶/流産後の儀式

流血が止まった後、星が見える夜に、友人たちが暖かい湯船を準備する。塩とハーブで湯を清め、薔薇の花弁を浮かべる。

(中絶/流産後の)女性が湯に浸かり、言う。「私に祝福を、母よ。あなたの子である私に。」

湯船に深く沈み、静かに、心臓の鼓動とゆっくりした呼吸に集中する。

友人たちは、女性の心臓の鼓動にあわせて歌う。女性が創造した生命が、立ち上がり、育ち、彼女のもとを離れて天の川に昇り、星々のダンスに加わる様子を想う。

私たちは漂う 波から波へ 塩の海から塩の海へと

命の樹 命の樹の周り 踊ってめぐる 高く高く 跳ねる

火花のように、火花のように

天の川、天の川を、飛んでゆく

女性は小さな命に別れを告げる。湯から上がり、女性と友人たちは互いの頭、胸、子宮、膝と足に、五重の祝福を交わす。蜂蜜のケーキとお茶を分かち合う。

女性は湯船の花弁を集め、庭に蒔く。全員がハグを交わし、歌い、解散する。”

“THE HOLY BOOK OF WOMEN’S MYSTERIES” Z. Budapest, 1989

 

「WOMEN’S MYSTERIES」に詰め込まれた、およそ10年間の魔女カブン活動に蓄積されたテキスト群は、女性の癒しの力、女性が負っている癒されるべき深手の傷、その癒しのワークから男は遠ざけられること、女神の神殿は革命の前線基地ではなく、むしろ性暴力に傷つけられた女たちのアジールであること、その理論と実践のハンドブックとして、魔女から魔女へと世代を超えて継承されている。ハラウェイもまた「サイボーグ宣言」において「我々は深手の傷を負っている」と書いている。本連載序論で、フェミニスト-魔女が直線的タイムラインを推進するイデオローグであると同時に、円環的な舞踏手、癒し手であると書いた時、後者に対応するものとしてイメージされるのが本書「WOMEN’S MYSTERIES」、およびダイアニックウィッカを発端とするアメリカ独自のフェミニズム魔女運動である。

 

 

ダイアニックウィッカが開いた、フェミニストのスピリチュアルな連帯の回路は、英国グリーナムコモンミサイル基地の包囲・抵抗運動に魔女たちを集結させ、反核運動、環境保護運動に異教祭儀としてのエネルギーを供給した。この新たな力の導管は、エコフェミニズム活動家にして魔女であるスターホーク、そしてグラストンベリー女神復興運動を組織したキャシー・ジョーンズを輩出する。ニューエイジ、ネオペイガンという巨大な文化潮流を形成したウィッチ・フェミニズム戦線は、イリガライの理論に実践の肉体を与え、神のジェンダーを書き換える魔女/巫女の語りによって女神神殿を復興した。結果、資本主義世界の「癒し」の巨大市場という、文化経済的源泉の制空権奪回に成功したのである。

 

 

 

ここに新たな本質主義を嗅ぎ取ったハラウェイのサイボーグヴィジョンと、バトラーのジェンダー理論は、恍惚的・無意識的な時代精神力動に対峙するアカデミシャンとしての全うな反応、応答であっただろう。80-90年代フェミニズムの転回に刻まれたこの理知と恍惚の引き裂かれは、俯瞰すれば、アカデミックなフェミニズムがポストモダンの洗礼によって脱構築される「試練」の只中にある一方で、ポップカルチャーとしての魔女/ネオペイガン潮流が、プリミティブな女性性のエネルギーを保存する「聖杯」の役割を担った、という、絶妙な連携プレーのようにも見えてくる。

 

クイア

分離主義的レズビアンから女神神殿の恍惚に飽和していく80年代ウィッチフェミニズムの高揚を、ハラウェイとバトラーがアカデミックな言語によって切り裂き、拓いたポストフェミニズム的地平は、第二波フェミニズムの総括であり、出口であった。フェミニズムの主体としての女性のアイデンティティは再び揺さぶられ、家父長制への挑戦はよりクイアな政治可能性を秘めたセクシャルマイノリティとの共闘に模索される。ゲイ、レズビアン 、バイセクシャル、トランスセクシャルたちをエンパワーメントする「クイア理論」が、ジェンダー研究者たちによって次第に構築されていった。それはブダペスト – スターホークら魔女の系譜とは異なる方向に拓かれた、ハラウェイ-バトラーらポスト構造主義/サイバーフェミニズムの系譜によるもうひとつの「一体性 / 団結」の希求であると言えるだろう。

ブッチ、フェムといったジェンダー表現を、交錯、反転しながら強調するレズビアンは、フェミニズム内部でもしばしば批判、嫌悪の対象となった。また、ゲイ、ドラァグ、異性装者などセクシャルマイノリティそれぞれのコミュニティも大なり小なり事情は同様で、互いに相容れない美意識と価値観、バイアスとヘイトをせめぎあっていた。バトラー的転回からスピンアウトしたクイア理論は、反発しあうセクシャルマイノリティのエネルギーを新たな政治的可能性へと纏め上げる戦略を提示した。「クイア」のアイデンティティポリティクスには、蔑称である「魔女」をエンパワーメントされた女性のシンボルとして奪回・自称した魔女運動との、無意識的な共鳴が見出せるかも知れない。ともかくも、今や魔女とクイアはともに、別方向から、家父長制の基盤としての強制的ヘテロセクシュアリティにゲリラ戦を仕掛けるサイボーグの軍勢となったのである。

セクシャルマイノリティの文化は、アカデミックに無菌化しつつ整理する理路整然としたポリティクスに収まりきらない猥雑さを、エネルギーとして内包する。そこには被抑圧者の闘争、社会正義への希求とともに、ミソジニーもミサンドリーもセクシズムもあり、矛盾と欲望、痛みと喜悦が生々しくせめぎ合うエネルギーが回流する。この猥雑さをポジティブなエネルギーとして取り出すクイア理論を足がかりとして、ポリティクスとしてのトランスジェンダリズムが覚醒する。

 

 

サンディ・ストーン「帝国の逆襲 ポスト・トランスセクシュアル宣言」

サンディ・ストーン「帝国の逆襲 ポスト・トランスセクシュアル宣言」(1987)は、トランスジェンダーによって書かれた最も影響力のあるテキストの一つと言えるだろう。ジミ・ヘンドリックのサウンドエンジニアを務め、フェミニスト音楽出版会社オリヴィアレコードの役職に赴いたことをラディカルフェミニスト、ジャニス・レイモンドに批判されたトランスジェンダーMtF(男性から女性への性別移行者)であるストーンは、ハラウェイ、バトラーの晦渋な政治言語から輝く断片を切り出し、「ポスト・トランスセクシュアル宣言 = トランスジェンダリズム」の精髄を構成した。この論考で、従来のトランスセクシュアルの主体性を批判的に分析しつつ、「男でも女でもない、トランスジェンダーとして語ること」の意義が、はじめて言語化されたのである。

 

“トランスセクシュアルとは身体と「反対」のジェンダー・アイデンティティをもつ人である。セックスとジェンダーはまったく別の問題なのだが、トランスセクシュアルは通常、ジェンダーの行為遂行的な性質とセックスという身体的な「事実」を撹乱し、「間違った身体にいる」ように感じると訴えることで、その区別をぼかす。トランスセクシュアルという呼称が使われだしたのは最近のことだが、この現象自体は新しいものではない。原稿の診断基準に照らしてトランスセクシャルと判断しうる最古の例は、女性の衣装を身にまとい、籠姫らと糸紡ぎをしたと伝えられるアッシリアの王、サルダナパルスまでさかのぼる。”

“書き手たちはみな、ドレスに化粧、そして血を見ればか弱くも気を失うという、男が考える型通りの女性像をそのまま再現している。これらの冒険者たちは誰もが、一つの性別から対極の性別へと一足飛びに移行する。性別というものが実は連続体であり、両極の間に何らかの中間地帯があるとしても、それは見えてこない。そして、七面鳥の首絞め[ペニスを使ったマスターベーションを指す隠語]については、誰も「一言たりとて」触れはしないのである。

フェミニストの理論家がいぶかしむのも無理はない。こんなうさんくさい話、私だって信じられない!

このような自伝書は、医学や心理学の文献とどのように響きあうだろうか。人と人が直接に顔を合わせるよりも、テクストのやり取りやコンピュータ会議、電子メディアを介した交流が多くなると、機械的唯物時代は終焉し、仮想時代が幕を開ける。そこでは社会関係が多様化し、機器の介在も当たり前になる。

すると、人間同士の直接的な触れ合いよりも記述された情報のやりとりを通じて、各人の主体性が構築されることになるのだが、それでもなお身体化された「自然的事実」を避けて通れない時がある。これらの本のの大半が執筆された時代に「自然的事実」が最も重要視されたのは、性別違和クリニックでのインテーク面接の場、つまり性別適合手術の適格者を男性ばかりの医師たちで決定する時であった。性別違和クリニックの出発点は、ジェンダー規範の構成要素を詳細に観察することだった。その創設目的は第一に、学問的関心をそそり、なおかつ研究資金を集められそうな異常行動を研究することだった。第二には、「矯正可能な問題」に対して、スタッフが理解する形で救いの手を差し伸べることだった。”

“人類の歴史が始まって以来、女についての理論を男が作り上げてきたように、ジェンダー理論の担い手たちはトランスセクシュアルを行為主体に満たない存在とみなしてきた。トランスセクシュアルも遺伝学的な女性と同じく半人前に扱われ、あまりにも非論理的で責任能力に欠けているので真の主体たりえないと考えられ、あるいは、診断基準に照らせばトランスセクシュアルにあたらないとして、その存在を抹消される。さもなければ、一部のラディカル・フェミニズムの理論家が主張するように、狡猾で威圧的な家父長制のロボットだとか、「本物」の女たちの領域に侵入して堕落させ、破滅に至らしめるエイリアンの軍団などと見なされる。トランスセクシュアルの側でも、効果的な対抗言説を展開しそこなったがために、この理論構築に加担してきたことは否めない。”

“トランスセクシュアリズムの本質はパスすることにある。パスしているトランスセクシュアルは、「ジャンルを混合してはならない。私はジャンルを混合しない」というデリダの規範に従っている。だがここで私がトランスセクシュアルに言いたいのは、パスをやめ、「読まれる」方を意識的に選ぼう、そして自分で自分を声を出して読んでいこう、ということなのだ。生産的な混乱を引きこすこの読解を通じて、今まで自分について他人が書いていた言説に「自分自身を書き込んで」いこう。そして、(あえてもう一度言わせてもらうが)ポスト・トランスセクシュアルになろう。”

“帝国の逆襲 ポスト・トランスセクシュアル宣言”「セックスチェンジズ トランスジェンダーの政治学」パトリック・カリフィア 著/竹村和子 解説/石倉由+吉池祥子ほか 訳/作品社/2005

 

Sandy Stone (画像引用元:https://www.vice.com/en_us/article/zmd5k5/sandy-stone-biography-transgender-history

 

「ポスト・トランスセクシュアル宣言」は、1979年に出版されたラディカルレズビアン、ジャニス・レイモンドの著作「トランスセクシュアル帝国」でなされたストーンへの攻撃への応答として執筆された。レイモンドの著作にはアンドレア・ドウォーキン、ロビン・モーガン、メアリ・デイリ、アドリアンヌ・リッチら、当代ラディカルフェミニストたちの錚々たる面々による推薦文が寄せられている。この趨勢に真正面から切り返し、示された「トランス・プライド」とも言うべきアティチュードは、今日のトランスジェンダリズムの精神的骨格を形成したと言っていいだろう。

「サイボーグ宣言」執筆中のダナ・ハラウェイからのサポートのもと執筆・発表された本論には、トランスジェンダーの揺らぐ主体、ジェンダー規範と医療の共犯関係、そこに自ら埋没してきたトランスピープルへの自己批判、そしてラディカルフェミニストたちの懸念を「もっともなこと」と理解を示した上で、なおポジティブな撹乱を語る意志など、今日SNSで応酬されるTRA(Trans-Rights Activist) vs TERF(Trans-Exclucive Radical Feminist)論戦の殆どの主題が、あらかじめ先取りして書かれている。今日SNSで舌戦を繰り広げる両陣営にとって、目から鱗が落ちる発見も少なくないだろう。

ラディカルフェミニズムが魔女を召喚し(ブダペスト/スターホーク)、魔女がサイボーグを召喚し(ハラウェイ)、サイボーグがクイアを召喚し(バトラー)、クイアがトランスジェンダー(ストーン)を召喚する。本稿冒頭で、インドの宗教的芸能者であるトランスジェンダー共同体、ヒジュラに触れた。フェミニズムの宗教右派急進主義とも言える魔女/女神運動と、ポストモダンの洗礼後の絶え間ない自己拡張/解体、ポストフェミニズムが交差する地点に、ふたたびトランスジェンダーが召喚されることは、集合無意識的な必然、シンクロニシティであろう。

 

https://www.vice.com/en_us/article/zmd5k5/sandy-stone-biography-transgender-history

 

 

PantheaCon 2011

2011年、カリフォルニア州サンホセで開催されたネイペイガン(新異教主義)のフェスティバル、PantheaConにて、ダイアニックウィッカが主催する女性限定ワークショップにあるトランスジェンダーMtFが参加を拒絶されたことから、抗議の声があげる。ほどなく事案はネット上で炎上し、ペイガンコミュニティにおけるトランスジェンダー議論が加熱した。これを受けて、ペイガングループCircle of Cerridwenによってアンソロジー “Gender and Transgender in Modern Paganism”がまとめられる。

 

“Gender and Transgender in Modern Paganism” Circle of Cerridwen Press, 2012

 

“Gender and Transgender in Modern Paganism”は、衝突する双方の意見を併録する旨を編集指針とした、とあるが、読んだ印象は当然、トランスジェンダー側からの「トランスフォビア」への告発と批判が軸足となっている。通り一辺倒なラベリングの応酬ではない、宗教的自由とマイノリティポリティクスのガチのぶつかり合いを期待して読み進めた私にはやや食い足りない内容であったが、そんな私が編集者でありCircle of Cerridwenの女司祭、トランスジェンダーMtFであるSarah Thompsonの誠実さに感じ入り刮目したのが、本書最終章に掲載されたダイアニックウィッカの高等女司祭Ruth Barretの”Religious Freedom : A Dianic Perspective”である。

 

“2011年、私は西海岸のとあるペイガンカンファレンスに出席した。「魔術サークルにおけるジェンダー差別」をテーマに、トーキングスティックを廻していくスタイルでの会議で、私は遺伝的女性限定の密儀伝統、ディアナ派(ダイアニックウィッカ)の長姉かつ高等女司祭として輪の一員に加わった。私はディアナ派や他の遺伝的女性に限定された宗教伝統から排除された、トランスセクシュアルMtFの人たちの意見に興味があった。部屋を見渡し、興味を引かれた輪で共有される、虐待に関する個人的な語りに耳を傾けた。彼らは隷属や、失職や、男性から女性への移行に伴う痛ましい旅について語っていた。そして、ディアナ派の儀式への参列を拒否されることも、彼らの虐待体験となんらかの関係があることを仄めかした。

彼らの語りはひどく悲しく、私は共感を禁じ得なかった。誰もあのような残酷さをもって扱われるべきではない。レズビアンである私は、「そぐわない」人物として扱われることの無念さに共感するし、女性コミュニティに数十年の間フェミニストとして関わってきた経験から、女性の物理的・性的虐待、ホモフォビア、仕事上の不公平、そして基本的人権とリプロダクティヴ・ライツの侵害について、数えきれない程耳にしてきた。それらの経験こそ、女性をしてフェミニズム運動にかくも猛烈に邁進させてきた理由であり、ディアナ派が生まれた理由でもある。

そういった意味で、私はトランス女性がディアナ派の儀式や、他の女性限定スペースから排除された時にどう感じるか、そしてなぜこの会議の枠組みが「ジェンダー差別」と設定されているのかを理解できる。ファシリテーターによって議題が「ジェンダー差別」という枠組みを与えられているので、共有は差別の告発に関する発言で埋め尽くされる。議論が深まるにつれ、トランス女性たちによる告発、すなわち遺伝的女性たちが、男性特権に溢れた家父長制社会にあって日々経験している差別と同様のジェンダー差別を、ディアナ派が生み出している、という告発を聞いた。この告発については後に論じるが、今はその時の議論について思うところを述べておきたい。私は聴き続けた。私は理解を求める切実な叫びを聞いた。

「だけど私たちは『女性』だ! 実際、私たちは女性であることを自ら選んだという点で、あなたよりもより『女性』なのだ」

そして突然、腑に落ちた。この議論はスピリチュアリティや、儀式や、魔術についてのトランス女性としてのニーズなどとは、一切関係がない。そうではなく、トランス女性が、遺伝的女性の儀式と空間において、正しく女性として承認されることについての議論であったのだ。

その瞬間、遺伝的男性たちが遺伝的女性たちに対して常に押し付けてきた、おなじみの要求 – 遺伝的女性の生活全ての領域への、トータルなアクセス権 – を聞いている感じがした。今回は、元-男性、からのものではあったが、その態度と要求はやはり同じで、遺伝的女性が、自分自身だけを除いた全ての他者のニーズに応えることを要求するものだった。

この要求はいろんな意味で、女性たちが数世紀に亘って直面してきた家父長制的要求のそれと同じものであると私は信じる。「おまえたち女は、我々が望むものを与える義務がある! 我々はおまえたちのやり方、おまえたちの儀式、おまえたちの魔術、おまえたちの体、おまえたちの心、おまえたちの時間、そしておまえたちの古の伝統の復興に関して口出しする権利があり、さらにおまえたちの伝統に我々を加えるよう、変更しなければならない。」

会議の終わり頃には、二つの事柄が私には明確になっていた。第一に、彼らトランス女性たちは、彼らが参加を要求する宗教について、ほんの少しの知識しか持っていないということだ。その歴史も、意味も、実践についても。第二に、常に女性と少女を蔑み続ける家父長制下社会のミソジニックな文化において、女性として生きるということがどういうことかについて、彼らがほとんど何も知らない、ということだ。”

“私は、ディアナ派の伝統とその実践が女性としての表象だけでなく、生物学的経験と遺伝的女性の身体を基盤としていることを強調したい。ディアナ派は、私たちが呼ぶところの「血の密儀」をはじめ、女性が身体化する様々な経験を、遺伝的女性の人生サイクルにまつわる通過儀礼として保持している。それは私たちの最初の呼吸からはじまる、ミソジニー的な社会において少女から女性へと身体的・心理的に成長するという経験についての儀式、子宮と、毎月の経血に関する儀式、私たちが望み生をもたらす可能性、経年とともに終わる月経についての儀式だ。”

“例えば、抑圧の手段は同じものであるにせよ、白人として、ユダヤ人として、レズビアンとして、ディアナ派女司祭として私が経験する抑圧は、黒人の、クリスチャンの、ゲイ男性が経験する抑圧とは異なる。加えて、彼の経験する差別を認識することはできても、ディアナ派は彼の経験を公式化し、代弁することはできない。彼の伝統が、私の経験を公式化し代弁することができないのと同じことだ。私たちに可能なことは、お互いの差別経験を認め合い、私たち各々が創造し、各々の経験を聖なるもの、意義深いものとする、各々のスピリチュアルな伝統をリスペクトすることだ。だからこそ、私は有色人種の女性が、白人女性たちと離れて彼女たち自身の聖域を女性音楽フェスにおいて持つことを支持する。そうすることで、有色人種女性は互いに繋がり、自分たちの空間と儀式において自分たちを刷新することが可能となる。私は男性たちが、彼ら自身の男性密儀を、女性たちから離れて執り行うことを支持する。別のジェンダー多様性のあるフェスでは、ゲイ男性が彼ら自身の聖域を創造することを支持する。そして最後に、同じような旅と経験を分かちある、トランスピープルが集う権利を支持する。”

“1970年代初頭、私たちが女性に対するレイプと暴力に抗議するリーフレットを大学キャンパスで配り始めた時、聖書をつまびらく宣教師たちは私たちを「サタンの娘たち」と呼んだ。私たちは男女平等憲法修正条項批准、同じ労働に対する男女同じ賃金、中絶の自由のために行進した。私たちの初期のサークルの多くは、1960年代後半から70年代前半にかけての、フェミニスト意識覚醒運動から発展した。~中略~ 女性限定儀礼は、かつても、今も、遺伝的女性の身体のライフサイクルにまつわるスピリチュアルな実践の基盤であり、私たちの身体からインスパイアされる、私たちの人生を、魔術と芸術に結びつけるものだ。私たちは、人種、民族、性志向、階級を超えた、古代の遺伝的女性たちの経験が存在することを、認識し始めた。”

“トランス女性たちのスピリチュアルなニーズについての議論はどこに? どこにもなかった。 トランス女性の、新たな女性身体への移行を祝福するスピリチュアルな道についての議論はどこに? どこにもなかった。~中略~ そして私たちは問わなくてはならない。「彼らトランス女性たちがディアナ派や他の遺伝的女性限定サークルに対し、本当に求めていることは何か?」と。私が考えるに、トランス女性は彼らのジェンダーアイデンティティを、スピリチュアルに、儀式的に、認めて欲しいという切実な望みを抱いている、ということである。それは全ての人にとって重要なことであり、まずもって女性がディアナ派伝統を生み出した理由だ。しかし現実的には、遺伝的女性が自分たちの経験を意義深い、聖なるものとするための儀式を自ら創造しなければならなかったのと同様、トランス女性もまた、自らそうしなければならないのだ。それ以外の道はない。ただトランス女性だけが、彼らの経験とアイデンティティのスピリチュアルな深みを理解することができ、彼らにとって真に意義深いトランジションの儀式を創造する方法を知っている。それらの実践をユニークな伝統へと育て、未来のトランスピープル世代に手渡すことができる。それほど難しい考えではない筈だが、多くのトランスピープルは彼ら自身のスピリチュアルなニーズを探求することを犠牲にして、ディアナ派についての議論に時間を費やしている。この議論はディアナ派にとっても持続的な痛みとフラストレーションの原因となっているが、結果的には、スピリチュアルにユニークな自身の経験をネグレクトするトランス女性たちの生をこそ痛めつけている。”

Ruth Barrett, “Religious Freedom: A Dianic Perspective” from Gender and Transgender in Modern Paganism, 2012

 

Ruth Barret (画像引用元: https://pncminnesota.com/2012/06/25/building-bridges-between-dianic-and-trans-communities-at-psg/)

 

Ruth Barretは後2015年、本家と袂を分かつ形でTemple of Dianaを設立。「女性の宗教」としてのダイアニックウィッカを担う独自の支流を形成している。一方、本家のZ.ブダペストはPantheacon 2011以来、TERFとして批判されるスタンスを今日まで変えてはいないが、2014年にはダイアニックウィッカに男性司祭を叙任するなど、ダイアニックの路線変更にも着手している。イリガライとデリダを理論的骨子に取り込み、ラディカルフェミニストウィッチの戦線を半世紀に亘り展開してきたダイアニックウィッカを前にして、一体誰がTERFで誰がそうでないか、そもそもTERFとは何者であるか、そう簡単にラベリングできるものではないことが窺いしれるエピソードである。

歯に衣着せぬ語調のブダペストと異なり、性的多様性を最大化するために魔女儀式の脱ジェンダー化も辞さないスターホークは、近年のブログ記事、とくに2011年のPantheacon についての立場は、比較的穏当かつ中立的である。

 

“現在、この神話に関する私の解釈は十年前のものとは多少異なる。即ち、我々が「男性」ないし「女性」と呼んでいるものは、車輪のような連続体の上に気まぐれに決定された点に過ぎない。そして、極性・欲望・誘引力といったものは、そのいかなる点の組み合わせの間においても生じる。また、いわゆる極性というのは二極を中心とした直線的なものではなく、点の集合体である球面の内側に網状に存在するものである。球面であるから、その上に存在するすべての点は必ずその対極点を持っている。”「スパイラルダンス」20周年エディション序文より

「聖魔女術 – スパイラルダンス」スターホーク著  鏡リュウジ, 北川達夫 訳 国書刊行会

 

また、スターホーク率いる魔女カブン「リクレイミング(奪還)」の主要な教師の一人であるT.ソーンコイルは、いわば親カブンの女司祭であるブダペストに対し、複雑な心境を吐露しつつ、翌年2012年のPantheaconではトランスジェンダーによるプロテストに合流する。それはダイアニックウィッカのワークショップが行われている会場の外で、沈黙する抗議者によって包囲する、というものだった。

https://starhawk.org/blog/

https://www.thorncoyle.com/

 

T.Thorn Coyle (画像引用元: https://thorncoyle.bandcamp.com

 

第三波、あるいは第四波ともされる2020年現在のフェミニズム前線は当然、よりジェンダー流動的で、インターセクショナルな回路を開き、総じてリベラルを志向するだろう。そしてよりジェンダー流動的でよりサイボーグ的な、ノンバイナリー/トランス自認の魔女たちが、伝統を紡いでいくだろう。彼ら未来の魔女たちにとって、頑なに女性原理主義を死守するラディカルレズビアンウィッチはいずれ、オールドスクールとなる。しかし「オールドスクール」は一方で、近代合理主義、ポストモダン構築主義が消去しようとする、不合理な、野蛮な、獣的な女の衝動、叫び、エネルギーを保存し、いつでも必要に応じて溢れさせる「聖杯」の役割を、かつてもこれからも担うだろう。そして今、21世紀初頭にあって、この「原初の叫び」が再び召喚されようとしている、ある事象がある。

 

トランセル

1976年から2015年まで40年間開催されたフェミニスト音楽フェスティヴァル「Michigan Womyn’s Music Festival」で、1991年に騒動が起こる。MWMFは1976年の開始以来、入場客を「女性に生まれた女性」に限定していたが(しかし誰が「女性に生まれた女性」であるかは個々人の自認に委ねる、という主催者側の譲歩もあった)、1990年にはゲートでカムアウトすることなく「パス」してフェスに参加していたトランス女性が、1991年にガードマンによって排除された。この処置に対する抗議として、以降フェス会場と道路を挟んだキャンプ場に「キャンプ・トランス」が(1994年から1998年までの中断を含みつつ)2010年まで開催される。その間、MWMFとキャンプトランスは何度か話し合いの場を持ちつつ、キャンプ・トランス側アクティヴィストはTシャツ販売、ワークショップ開催、「パス」してゲートを通過したトランス女性の「戦況報告」など、継続的な抗議運動が展開された。1999年にはニューヨークのレズビアンアクティヴィスト「レズビアンアヴェンジャーズ」が合流、キャンプトランス終了後の2014年にはLGBTQ支援団体Human Rights Campaign, GLAAD, National Center for Lesbian Rightsなど諸団体がMWMFボイコットを呼びかけ、翌2015年を最後にMWMFは40年間の歴史を閉じた。

この抗議運動は、トランスジェンダー運動史において、二つの重要な意味を帯びている。第一に、TRA(Trans Rights Activist)の抗議手法がこの抗議運動を通じて確立された点であり、戦略的なロビーイングや理論武装の洗練と同時に、J.K.Rowlingの炎上事案でも目に余った攻撃的なヴァンダリズムレトリックもまた醸造された。2010年には、クィアZINE”Pink and Black”が、”Real Women have cocks(真の女性はペニスを持つ)”という落書きがフェス会場内で見つかったと報告している。同様のレトリックは近年の攻撃的なTRAが度々用いる定型罵倒句 ”Suck my girldick”に継承されている。

 

 

第二に挙げる点はさらに不穏である。2016年、カリフォルニア州オークランドで、レズビアンカップルのパトリシア・ライトとシャーロット・リード、そして19歳の養子トト・ディアンブ・ライトが自宅で死体で発見され、直後にガレージが放火される。血まみれでガレージから現れたダナ・リヴァーズが逮捕され、3件の殺人と放火の罪を問われている。3人の犠牲者の遺体には、無数の刺傷と銃痕が刻まれていた。事件が起きたのは、奇しくも前掲スターホークが収監された刑務所でスパイラルダンスを行ったアラメダ郡である。

1999年、退役軍人で高校教師のデヴィッド・ウォーフィールドは、性別移行手術を検討している旨を勤務先の高校に相談した後に解雇される。法廷闘争の後、高校とデヴィッドは150,000USDで和解する。性別移行手術後、ダナ・リヴァーズに改名。2000年ワシントンで開催されたLGBT行進「ワシントンマーチ」の演壇でスピーチを行う程までにTRAとして名を上げたリヴァーズは、同年キャンプトランスに参加し、同年MWMFから排除され抗議した通称「ミシガン・エイト」の一人だった。

https://www.washingtonpost.com/news/morning-mix/wp/2016/11/18/she-gained-fame-as-an-early-transgender-advocate-now-shes-charged-with-triple-homicide/

ダナ・リヴァーズの事件はいかなる意味でもトランスジェンダーに対する偏見に結び付けられてはならないのは当然だ。しかし、40年の歴史を持つレズビアン音楽フェスに終止符を打ったトランスライトアクティヴィズムに関係して指摘した二つの特異点、男性器を誇示して女性に挑むTRAレトリックと、レズビアンと黒人男性に対する最悪の殺人放火事件、その背後に霧のように漂う、名状しがたいミソジニーを指摘することは重要だろう。

SNSに跳梁跋扈する過激なTRAアカウントに、TERF、あるいはTERFと目された女性に対する異様にミソジニックな心性が垣間見えることは、J.K. ローリングの炎上したスレッドを一瞥するだけで確認できる。女性を自認し、女性として生きるトランスジェンダーMtFをエンパワーメントする筈のトランスジェンダリズムに、女性に対する憎悪が忍び込むのはなぜか。サンディ・ストーンが「ポスト・トランスセクシュアル宣言」を、パトリック・カリフィアが「セックス・チェンジズ トランスジェンダーの政治学」を発表した当時には想定されていなかった、かつてない、全く新しいミソジニーの心性が、今まさに生まれつつあるのではないか。

本連載の序論で、日本の匿名掲示板文化が欧米に飛び火し、インセルという絶望のコミュニティを醸造した可能性を指摘した。近年、一部TRAによる自称を含むアイデンティティを示す語として目にすることが多くなった「トランセル #Trancel」は、トランス+インセルの意だ。

インセルが日本のサブカルチャーから受けとったものは、匿名掲示板文化だけではない。ペドフィリアと触手のエログロ表現を極めたアンダーグラウンドエロゲー文化もまた、日本独自のサブカルチャーとして海外から畏怖されている。

https://wired.jp/2018/08/26/gaming-gets-x-rated/

特にアメリカに根強い、タフな男性性信仰による過酷な淘汰圧が、そこからこぼれ落ちる絶望のクラスターを生み出していることがインセル問題の核心部分にあることは、すでに多くの指摘するところである。そして彼らインセルたちに、プラットフォームとして、コミュニケーションプロトコルとして、自我形成と自己表象の雛形として、極めて大きな影響を与え続けているものとして、日本のネット/アニメ/ゲーム文化の存在が指摘され始めている。

 

Masculinity, anime, and gender dysphoria: An analysis of media-induced transgender identification

https://blogs.feministwiki.org/socjuswiz/2019/10/20/masculinity-anime-and-gender-dysphoria/

 

アメリカ男性社会が決して供給し得ない、愛らしく幼い少女たちによる柔らかな慰撫、そのスーパーフラットな表象を、発光するスクリーンを介してシャワーのように浴び続けている世代が間違いなく存在する。彼らのうち絶望の強いものは自らインセルを自認し、2次元少女のアイコンを自己表象として纏い、4chanやRedditで語り合っている。そのうち、アイデンティティと表象を完全に二次元表象と融合し得たものが、恋のように内側から沸き起こる性別違和 – 三次元違和の感覚、それを解放する福音としてトランスジェンダリズムを発見し、トランセルである自分自身を発見する。つまり私は、スーパーフラットな自己表象に塗り込められた彼らトランセルの凶暴なミソジニーが、トランスジェンダリズムに由来するのではなく、日本のANIMEに内在化された「絶望」に由来している可能性を疑っている。もしこの疑念に多少なりとも的を得たものがあるとすれば、10年後、20年後のグローバル世界における日本文化の評価は、クールジャパンどころでは済まないだろう。

 

 

1936年に生まれ、ジミ・ヘンドリックスのサウンドエンジニアを担当し、ダナ・ハラウェイにサイバーフェミニズムを学んだサンディ・ストーンは、この絶望のトランスジェンダー世代の登場を予見し得ただろうか。ラディカルフェミニズムとトランスジェンダリズムの間に軋む2020年代の葛藤は、サンディ・ストーンが解放しようとしたジェンダーサイボーグによる無限の多様性を開く撹乱などではなく、スーパーフラットなミソジニーが目論む絶望のパンデミックなのではないか、という問いこそが、現代魔女文化をまなざす私にとっていま最重の問題系である。

 

 

〈Floating Away ──精神科医と現代魔術師の西海岸紀行〉

PROLOGUE 1 「エデンの西 LA大麻ツアー2019」by Norihide Ensako

PROLOGUE 2 「トランスする現代の魔女たち」by Bangi Vanz Abdul

SCENE1「ビバリーヒルズのディスペンサリー・MEDMEN」by Norihide Ensako

SCENE2「魔女とVRのジェントリフィケーション」by Bangi Vanz Abdul

SCENE3「グリーンラッシュはいずこへ向かうか」by Norihide Ensako

SCENE4「ビッグ・サー/沈黙の源泉」by Bangi Vanz Abdul

EPILOGUE「2020年の現況──LA視察を終えて」

 

 

〈MULTIVERSE〉

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

 

PROFILE

磐樹炙弦 ばんぎ・あぶづる Bangi Vanz Abdul/現代魔術研究・翻訳。メディア環境、身体、オカルティズムと文化潮流をスコープとし、翻訳 / 執筆 / ワークショップを展開。翻訳: レイチェル・ポラック「タロットバイブル 78枚の真の意味」 (2013)/ メアリー・K・グリーア「タロットワークブック あなたの運命を変える12の方法」(2012 ともに朝日新聞出版) / W.リデル「ジョージ・ピッキンギル資料集 英国伝統魔女宗9カヴンとガードナー、クロウリー」(東京リチュアル出版) / 心療内科・精神科HIKARI CLINIC フローティングタンク担当。

Web: bangivanzabdul.net

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