亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #16 これは僕の顔ではありません。あなたの顔です。
昨今、たとえばメディアには派手な髪や、以前は醜いとされてきた体型、不可思議なメイクをした人たちが「多様性」のバーゲンセールのごとく投げ売りされている。”理解しちゃっている私たち”のPRのために。去勢されていることにさえ気付かず。
他人の顔
前回コラムに記載したとおり、僕はグルである大島さんの元を訪れ、フェイスラインまでびっちり黒くタトゥーで埋めて貰った。ありがたいことにセンスに恵まれた知人に囲まれ暮らしているので新しく入れたタトゥーに対しても「めっちゃ良いやん!似合ってる!」と好評しか頂いていないし、僕も僕で似合っているとご満悦である。
しかしフェイスラインまで黒で埋め、無地の顔がボウっと浮いた状態になったことで色々考えることも出てきたので記しておきたいと思う。
ちなみに大島さんには「どうせ顔も行くでしょう。将来性を考えたデザインにしておきました」と言われたのだが、世間が言う将来性と彼の思う将来性、そこに僕の将来性と、将来性という言葉にはいろんな意味があるのだなあ…と思ったというのは余談である。
さて、考えたこととは他でもない。SNSでかまびすしく交わされているルッキズム云々の議論についてである。
今風にアップデートされた考え方というのはおそらく「自分の身体は自身のものであるべきで、他人に干渉を許してはならない」というものだろう。だからこそ昨今、たとえばメディアには派手な髪や、以前は醜いとされてきた体型、不可思議なメイクをした人たちが「多様性」のバーゲンセールのごとく投げ売りされている。”理解しちゃっている私たち”のPRのために。去勢されていることにさえ気付かず。
無論、そのアップデートされた考え方やらはあながち間違ってはいないし、自身の身体は自身のために活用すべきだろう。だからこそ僕は入れたい放題タトゥーも入れるし、ピアスも開ける。皮を剥ぎたくなれば直ちに皮だって剥いでしまう。ただしその最中、顔の存在だけは常に意識している。身体と顔とでは「記号」として持たされている役割が大きく違うためだ。これはいわゆる「表象」としての顔の話になるのだろうか。
顔というものは常に自身からは見えない。自身の身体に付帯しながらも自身では視認することすら出来ない範囲。いわば顔とは他人のための記号として存在している部位だと僕は捉えている。端的に言うと、自身の顔(表情)へは他者の目線、視線を介してしか到達できないのだ。
要はたとえば僕が笑ったところで僕の感情がすでに悦びを感じているから笑っているのであり、その笑顔は僕が悦びの感情を持っていることを他者に示すためにしか存在していないということだ。
メイクだってきっとそうだろう。自分の気分を高揚させるために、私は私のためにメイクをしている、という言説が世の中にはあふれているが、どう言ったところで、誰かに見られることを確実に意識しているとは思う。そうでないと言うのならば自室で一人の際も先ずはメイクを施すところから一日が始まるのではないのだろうか。あるいは一人の際もメイクする人がいるとして、その時ですら、想像的な誰かの視線がそこには介在しているはずだ。
もちろん、メイクをするかいなかの選択権が他者に依拠してしまっているというのは問題であり、会社に行くからメイクをしていないといけないというのは間違っているとは当然思う。一方で、メイクをするのを「自分のため」と言い張って聞かない人を見ると、「いやいや、それは違うでしょ」と思ってしまうのだ。
ちなみにすでに僕の顔には2、3のタトゥーが施されているのだが、基本的には入っていたことも日常においては覚えていない。先日も、「顔のタトゥーなあ…」なんて話をした際に、「いや、アズ君もう入ってるやん笑」と言われて、ああそう言えば入ってたな…くらいのものだった。それもまた顔という部位が他人のものであるがゆえだろう。
そうした感覚を無意識的に持っているから僕は以前より大判のキャンバスに不特定のポートレートを作り続けてきた。画面の中の顔のモデルを問われても「これはあなたです~」なんて事を言い続けてきたのはそういうことである。僕は僕が作る顔を介して、鑑賞者であるあなたの顔を提示しようとしてきた。
言いかえると顔とは他者との交わりにおいてのみ発生するひとつの現象である。他者と交流をする際に確実に分かりあえることなど何もない。ともすれば交わりとは痛みである。その痛みを引き受ける覚悟があれば顔は立ち上がり、個人の孤独を共有することが可能となるのだ。
要は自分の顔ほど「自分のもの」とは呼び難い存在もなかなかないのであって、それをいまさら「自分の好きにさせろ」と言葉にするというのは、浅薄極まりない。あれ、すると僕は僕の顔を大島さんの好きにさせたほうがいいということになるのか。それはちょっと、しかし、でも結局、そういうことになりそうな気がする。
幼い日本のマスクマン
さて、顔を考える際に次に思い浮かぶのは仮面だろう。
顔は他人のものであると言い張ってみたが、その顔に施される仮面はどうだろうか。
先ほど少し触れたがメイクというものはひとつの規範として自身に施すものであり、ひとつの仮面とも言える。
そしてこの1年においては文字通りマスクを着けて当たり前の世の中へと急変貌してしまった。
マスク(仮面)というのは厄介なもので、社会規範における1アイテムであるがためにマスクを持っているだけでそれがあたかもパスポートになるどころか、パスポートを持っていない人間を排除するにまで至ってしまうことがあり、実際そうなっている。規範を重視するあまり、特定の個人であることが放棄されてしまっているのだ。無論、その際に「自分の身体は自身のものであるべきで、他人に干渉を許してはならない」というアップデートされた考え方はなかったことにされている。
きっと個である責任を負いたくないのだろうと想像する。そしてそれを僕は幼いと表現する。
僕はTPOに応じたマスク着用こそすれど普段から特にマスクはしない。別段、反マスク派でもコロナは風邪と同じ!陰謀論だ!のような感じでもない。ただ単純な話、コロナという流れ弾が飛び交いだして1年が経過した今、さしあたって明確な解決策もないのであれば、自己判断に依拠していくというのが自然な流れだと思うし、そう思わざるを得ない。常に自身で選択をしているつもりではいる。
そこに関連した話をすると、先日ビザの関係でイギリスから帰国しなければならなくなってしまった知人を我が家で受け入れることとなった。
滞在期間中のほとんどがロックダウンと重なり、自室で過ごさざるを得ない日々。挙句の果てに帰りたくもない日本に帰国するためにかなりの費用を使わないといけなかったとのことで本人は落ち込んでいた。
帰国したらしたで、隔離施設ではカップ麺が出され、日中音楽を掛けているとフロントから「何か異音がする様ですが…」と、音量を察せよという回りくどい連絡が来る。ああ、日本ってこういう感じだったなと、久々に痛感したと言っていた。
僕の役目はその知人を関空から我が家まで連れて帰って、滞在先住所として自室を提供するという形だったのだが、その流れにおいてもおかしなところも沢山あった。
そもそも隔離施設からの移動で公共交通機関を使えないために迎え人が必要となっていたはずなのに(国指定のハイヤーを使用すると数万円かかるらしい)当日迎え先を聞くと関空の喫煙所で待っているとのことだった。
ホテル隔離以降は自由に動けるならわざわざ僕が車で迎えに行く必要もなかったのではという疑念。さらに当初は僕の自宅の住所(受け入れ先住所)とナビ情報も提示するはずで車を出す約束になっていたのだが喫煙所で落ち合ったので無論そう言ったやりとりを係員とすることもなかった。なんだかなあ。
しかし、その知人いわく、日本人は日本はコロナ対策が最悪だなんていうけど、イギリスの状況と比べればエッセンシャルワーク以外でも街が動いてるから元の世界に戻ってきた感じがあって安心する、とのことだった。
ただ、日本人はなぜみんなマスクをして街を歩いているの? という疑問を投げかけられ僕は回答に困ってしまった。確かに同一空間に長時間滞在している場合は飛沫がどうだとかでリスクが上がる。それはもちろん理解できる。では散歩をしている際、自転車に乗っている際、周囲に誰もいない際はどうか。一億総マスクとなってただ脳死状態でマスクをして街を闊歩している理由は、果たして僕にも分からない。
先日も桜を見つつ、愛犬の散歩をしていたら道行くマダムが寄って来て「マスクもしないで周りの迷惑を考えてよ」と言われた。せっかくの春の陽気も台無しだ。おそらく自分で選択をする、自分で考えるということを極端に日本人は苦手としているのだろう。
要はやはり幼いのだ。幼いがゆえに規範を大事にしたがる。だからこそ日本人とマスクの相性は抜群なのだろう。悲しい話である。
久方ぶりの帰国なのに世直しが間に合っていなくてごめんねと告げると、イギリスはイギリスで良くないことも多かったけど、有事に対するリアクションの速度は日本と比べて段違いに早かったから幸いにもお金には困らなかったし、なんとかなって良かったよ、と知人は笑っていた。
他国とあれこれ比べるのは悪趣味だし無意味だとは思うが、「コロナ」と書いた紙を壁に貼って、それを見ながら毎日自身の正義感をたぎらせてオナニーをしてるような日本の政治屋にはくだらない三文パフォーマンスしか出来ないのだろうなと思うと、頭を抱えずにいられなかった。
それでも僕はコロナが憎い
さて、なんの話だったっけ。顔から始まってよく分からない話になってきたついでに、最近の僕の暮らしぶりについても書いておこう。
僕の日々は相変わらずだ。毎日思考を巡らせ、ああでもないこうでもない、と自己流哲学の精度を上げようと鍛錬は続けているが、とにかく暇なのだ。
時間をつぶすために出来ることをタスクとして捉え、ひたすらに毎日時間と自身を消費していっているのは前回のこのコラムでも記したとおりだ。とはいえやっぱり酒を飲むくらいしかすることがない。
そして大阪はすでに死んだ街なので外食をすることなどとっくに出来なくなっている。まず店が開いていない。そんな中、気落ちする僕を励ますように府外の仲間たちは「こっちに来た時に一緒に飲みに行こうね」「大変だろうけど頑張ってね」と声をかけてくれる。それはそれでとても嬉しいし、気持ちは気持ちとしてありがたく受け止めているのだが、別段、僕は居酒屋に行きたくて死ぬ!と言っているのではないのだ。大阪市内にだって探せば開いている店があるのももちろん知っている。
ふとした選択をするにあたって、選択肢が乏しいということが甚大なるストレスとなっているだけなのだ。僕自身までもが知らずの内に去勢をされてしまっているということに気付きたくなかった。思い返せば中高と毎月の身装検査で髪の毛を3mmに刈り上げないといけないという時間を過ごしたあの日々とも似ている。
30歳を目前に迎え、卒業より既に10年以上が経過しているというのに未だにその去勢の反動は大きい。頭に刺青を入れるに伴って10年伸ばしたドレッドを剃り上げはしたが、それ以降一切の手入れをしていなく僕の髪の毛は今、ザンバラに伸びている。
このコロナ問題がこの後どのように決着していくかは分からないが恐らくはこの期間が僕に与えた影響は大きい。
コロナ禍を通じて、僕はいかに自分が去勢されてしまっていたかに気づいた。そしてその去勢された状態にもなんとか適応してしまっていることに気づいた。ああ、すでに僕は家畜と同然となってしまっていただなんて。
そして僕は大阪市内中心部に住んでいる身であり、かつ自由人のような知人が多いため、必然的に周囲の人間が漏れなく困窮している。これがたまらなく辛い。これは去勢された都市部に住んでいる人間にしか分からない感覚だろうと思う。リアリティの差による断絶など起こしたくなかったが、それを部外の手で発生させられ、かつそれをやむをえず家畜として受け入れざるをえないという事実に辟易とする。
最近は闇営業をしている飲食店を探すバイトがあるらしい。時給は1300円。開いている店を探し、大阪府からの給料でその店へと還元するという、一種の嫌がらせとして応募しようかなとさえ思った。吉村某や小池某をキャラクターとし、NEW ERAキャップ的なグッズを勝手に作り、その売上を全て募金か何かにつぎ込んでみても良い。ストリート的なカウンターとはこういうことだろうとイメージする。
結局、大勢に期待をしてもやはり仕方がないということが露呈した1年でしかなかった。そうこうしている間に大阪では緊急事態宣言の延期決定。東京も同じだ。「してる風」の雑なパフォーマンスはすでにGW前には破綻していた。
実はこの初稿を書いたのは4月19日だった。それは本来予定されていた個展の1週間前だった。しかし、個展は緊急事態宣言に伴い中止となり、その後、一度はウェブのみで開催となるも、一転、延期して実地開催が決まり、そしてまた緊急事態宣言の延長に伴い、期間が変更された。
疲れきって出涸らしになった後の虚無の状態からも血の涙を流しながら制作を行ってきた。ここに来てコレとは、僕はほとほとタイミングが悪い。あらためて思う。やっぱり僕はコロナが憎い。どう考えたって受け入れることが出来ない。適応など出来っこない。いかに世間に幼稚だと言われようとも。
というわけで、最後に展示の宣伝をしておく。会期は書かない。いつどうなるか分からないからだ。もし本当に来てくれるなら、ツイッターでその都度、報告入れるからそちらを見て欲しい。
✴︎✴︎✴︎
有楽町にある帝国ホテル内のギャラリー、MEDEL GALLERY SHUにて●●●より僕の個展「line⇔out」が開催される予定となっている。
ちなみに今回のタイトルには身体における皮膚を1つの境界線と捉えた際に
:線を越え行き来する感覚(ラインアウト)
:外形やフォルムの意味(アウトライン)
:~を演じる(line out)
の3種の掛け言葉を選んだ。
以下にステートメントから一部抜粋したものを記載しておくので、気が向けば、そして本当に開催されたなら、是非フラっと遊びに来て貰いたい。(入場料無料)
亜鶴は人間すなわち個人とは突き詰めれば一つの身体であり、そしてその身体が他者との関係にあるとき、最も目に触れる皮膚こそが、ある特定の個人の最小単位になると言います。したがって彼の作品は、私たちにつきまとって離れない個人性、あるいは「私たちはどのように存在しているか」という、根本的な問いかけに向き合っているとも言えるでしょう。
これまでは架空のポートレートを通してひとの表情を模索してきた亜鶴ですが、今回の作品は彼の身の回りにある光景の数々がメインの題材となっています。COVID-19によって生活の変化を余儀なくされたことに起因する作風の変異について作家本人は次のように話しています。
「もともとは自分と他人をはっきり分けていた。それは決して混ざりえない意識のような、明確な区分け。歩み寄れるけど、混ざりあえない。言うなれば皮膚の内側か、外側か、みたいな感覚。 けれどコロナは全てを変えてしまって、内側を意識せざるをえない状況になった。その結果、自分と世界の区別がない。」
https://medelgalleryshu.com/azu-line-out-2021/
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