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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #15 タイムラプスは泥酔状態の意識に似ている──暇と退屈とセルフエンジョイメント

僕は今、GoProのタイムラプスにハマっている。あまりに僕の性格にぴったりのアイテムだと思うのだが、タイムラプスの何が僕の心をとらえているのだろうと考えてはたと気がついた。タイムラプスは泥酔状態と同じような感覚なのだ。余りに似ている。

全てはパフォーマンスだ

 亜鶴くんって一体何者なの?

 おそらく冗談抜きに1000回は問われてきていると思う。

 そのたびに「僕も分からない」とか、「さあ笑」とか、「絵画をベースにした美術作家かなぁ」とか、曖昧な返答をしてきた。少なくとも「画家」ではないし、「彫師」でもない。それくらいの返答だ。

 確かに周りから見れば、僕のやっていることは捉えどころがないのかもしれない。

 妙に肌が黒い刺青のお兄さんで、たまに人にも刺青を彫っているらしい。どうやら絵を描いたりしていて、展示とかもしているみたいだ。犬をよく連れている。かと思えばHAGAZINEで文字をタラタラと垂れ流していたりもする。

 コロナ禍になって以降は、料理をしたり、家事をしたり、酒を飲んだり、といった暮らしの光景をただひたすらインスタライブで配信したりもしている。そのライブにおいても強烈な自意識が邪魔をして顔出しはしていない。ただただ首から下の僕を映し続けている。自分自身思う。何がなんだか。

 

 

 しかし、最近になって自身の活動が一体何なのかという問いに対する、ひとつの腑に落ちる「回答」を見つけた。

 僕が長年取り組んできているのはある種のパフォーマンスなのだ。ツイッターもパフォーマンス。このコラムだって。タトゥーだって。展示だって。あるいはインスタライブだって。

 背景にあるのは、強烈な自意識と、様々なペルソナの裏側のまったき伽藍堂である。僕が行っているのは容れ物たる身体から発された不定形の問いに、各種技術を用い、方法を変えつつ、多角的に型を与え続けるパフォーマンスなのだ。すると、自ずと僕はパフォーマーということになる。

 なんだかその言葉で僕の活動全般をある程度、串刺しに出来たのではないかという気がしている。以前、僕と齋藤恵汰、逆卷しとねとの対話の回では、逆卷さんに僕の活動はコントロールという言葉でくくる事が出来ると言われたのだが、それは従来の「先の先」の姿勢の場合。今回のパフォーマンスという言葉は「後の先」なのかもしれない。そういう言いかえが必要なのは、やはり僕の心身が知らず知らずの内に摩耗している証拠なのだろう。

 端的に言えば、今の僕は「俺は俺のパフォーマンスをしてるんだからお前ら一切の文句を言うな。これは俺のステージなんだぞ」という精神状況なのだ。要はきっとこれ以上傷つきたくないのだ。

 

 

人生は長すぎる

 年が明けてもう2カ月余りが経過したわけだが何があったかというと特に何もない。強いて言うなら晦日にコロナ感染が発覚した祖母が元日になって亡くなったことくらいだろうか。

 まあそれだって、コロナなんてどうせ年寄りくらいしか死なないっぽいし、と思っていたら、まず身内の年寄りがお逝きになられたという話だ。こういう感じで大阪的なオチを話に付けずにはいられないというのは、本当に良くない癖であると思うのだが、いずれにしても、とにかく毎日が、ただひたすらに単調で、長い。

 もともとワーカホリックであり、かつてCMで流れていた栄養ドリンクのキャッチコピー「24時間戦えますか」を地で生きてきた身としては、今日の日々がもう暇で暇で仕方がない。絵を描くにしても描きたいことも何もない。

 

 

 というよりも、もともと不特定の人物のポートレート群を作り続けていたわけなのだけれど、今は他人のことに気を廻している余裕がない。あるいはそういう気分になれないのだ。以前このコラムでも記した通り、僕は皮膚を通して世界を見ることで酷いまでに自と他の区別を持っていた。しかし、今はそれが逆転してしまって世界と自分との境界線が分からなくなっている。きっと、コロナ禍で潰えたオールドノーマルと共に、その境界線は溶解してしまったのだろう。

 未来に何の保障もないこと、先読みが出来ないこと、そんなことは別にどうだっていいことだ。どちらかというと、僕は悪い予感がするとワクワクしちゃうようなタイプの人間でもある。しかし、僕の気力に対して設けられている人生の時間がとにかく長すぎるのだ。今はそればかりを痛感している。もしかしたら長いと思っているのは自分ばかりで、その残時間はすでに短いのかもしれないのだけど。

 しかしここ半年間は、展示機会を頂けたこともあり、ただひたひたと制作は続けているのだ。出枯らしになった後、最後の風味を出せるのはあと何回だろうという勢いで。

 

 

 僕の作品は毒か薬かで言うと毒だと思う。毒もまた薬とはいえ、ホメオパシーを維持するにはいささか毒性が強く、ある意味ではショック療法のような作品だから、このご時世的に見づらいとは思う。何においても当たりさわりのなさが求められている時代だろうことも重々に承知しているが、作風なんて簡単に変えられるものでもない。加えて本年の4月末から5月の初旬にかけても、以前より何度もお世話になっているMEDEL GALLERY SHUにて個展が開催される予定となっているため、本来なら考えること、せねばならないことは多いのである。しかし、そういうこととは別に、僕はとにかく暇なのだ。

 

健忘症的日常

 朝7時ごろ、酒樽から生まれてきたのか、というくらいの酒臭さにまみれ、のっそりと起き上がる。ぼさぼさの頭を掻きむしり、昨晩の片づけをしないとな、と思う。

 おもむろに台所に行き、冷たい麦茶を飲み干し、煙草を吸う。どうやら酩酊しつつも片付けまでしてしまっていたらしい。台所は綺麗に整頓されている。泥酔していても暇だったのだろう。

 そもそも何をどれくらい飲んだのか、冷蔵庫の酒の残量を確認する。フォーナインというストロング系飲料をこよなく愛しているのだが、基本的にそれを毎晩6本飲む事をデフォルトとしていて、そこに追加し、その晩に関してはコップになみなみ2杯ほどのウィスキー、焼酎、泡盛などを煽って寝たようだった。

 

 

 昨晩の飲酒量の確認を終えると、次は意識の向こう側の記憶の断片を拾い集める旅に出るため携帯を見る。かつては過ぎたことなど忘却していけばいい、それでこそ充実した生というものだ、と思っていたのだが、このままでは何もかもを忘れてしまいそうで、最近はそんな底知れぬ恐怖もある。

 忘れてしまえることは大したことではない、といった言葉もどこかで聞いたことがあるし、それはそれでよくわかるんだが、本当は、良いことも悪いことも全部引きずっていきたい。従来的には大したことがない、些細などうでもよいと思えたことでさえ、今の僕にとっては自分を再構築するための重要な手掛かりであるような気がしている。

 晩飯、空き瓶、文字を書きなぐった紙、何が琴線に触れたか全く分からない適当な記事のスクリーンショット。携帯のカメラロールには毎晩無数の写真が更新され保存されている。きっと何かを記憶したかったのだろう。そのデブリのようなものを見返し、昨晩のタイムラインを思い返す。

 

 

 そう言えばツイッターで何か吠えたような気もする、と思い返し自身のSNSを探訪する。特に誰に噛みついたりも絡んだりもしていないことを知り、ホッとする一方で、本格的な自暴自棄へとも至れていない半端さを知って、ああ、俺っぽいなと思い、笑う。

 ところで昨晩は何時に寝たっけ。最後の行動の履歴(それもウェブ上の記録だが)がAM3時頃だ。そして、今はAM7時。今日の残量は残り20時間もあるのか。そのうちの6時間程は過剰な飲酒で混濁しているといえ、残り14時間も何をして過ごせばよいのか。そんな具合に毎日絶望するのだ。 

 

 

 29歳男子、一日に何回オナニー出来るかチャレンジ。みたいな男子中学生のようなことをしてみても良いのだが、そんなことを毎日続けているわけにもいかないし、1回目のオナニーを終えたところで、「俺は一体何をしているんだ」とチャレンジをしてみようと思った自分への失望を含め、途方もない虚無に襲われることも分かっている。

 そういえば、かつて1日のオナニーの回数を頑張ってみたところ、14回に到達した。その話をした友達から「狂人だ」と言われたこともあったな。こういう過去のどうでも良い話を思い出すのが大人になったということなのだろうか。それともこれが老いの始まりということなのだろうか。

 

コンテンツとしての自己

 そんな退屈の中で最近はひたすらアーカイブを行っている。 

 何をどうアーカイブしているのかと言うと、自身の行動、行為を全てに近いレベルでGoProに収めているのだ。そして、それを見返しながら時間を潰している。

 たとえば、1時間かけた作業をタイムラプスで録画し、数分にまとめられたその動画をその後に見返す。これで1時間と数分の時間が潰せた計算になる。1時間掛けて玉ねぎなんかを丁寧に炒め、その動画を見ながら、それを食うという具合だ。

 

 

 いわば、コンテンツを自身で生みだし、自身で消費しているわけだが、これこそ究極の暇つぶしだなと思う半面、自分のオナニー動画でオナニーをしているようなヤバさも感じなくはない。流石にそこまではしないが。

 これをセルフエンジョイメントというのだろうか。世の中には色々な言葉が存在しているのだなあと感心する。

 とにかく僕は今、GoProのタイムラプスにハマっている。あまりに僕の性格にぴったりのアイテムだと思うのだが、タイムラプスの何が僕の心をとらえているのだろうと考えてはたと気がついた。

 タイムラプスは泥酔状態と同じような感覚なのだ。余りに似ている。

 情報とは本来、常に連綿と高密度で繋がっていて、しかし時間の経過と共にその情報が少しずつ記憶から薄れていくものだ。それが脳みその作りだろう。しかし酒を過剰摂取することで意識を強制的に断片化することは出来る。断片的になった意識の中ではなんとなく全容は覚えていても、記憶は場面場面で寸断されていて、そのあいだあいだは記憶から抜け落ちているものだ。タイムラプスの場合もそうで、シャッターが切られていない空白、写真に写りこんでおらず記録されていないあいだが確実に存在している。

 記憶の外の範囲の話というのは、とても興味深く思える。宇宙は無限に拡張しているみたいなことだろうか。永遠さえ感じられてしまう。宇宙ではあまりに抽象度が高いので人間に置き換えてみると、他者が認める自分と自分自身が認める自分との差分のようなものをタイムラプスには感じるのだ。

 そして最近はそんな動画をSNS上で垂れ流しにしている。さらにはそこに写りこんだ絵が描けない自分を、絵に描いたりしている。

 

 

 僕にはみんなを気持ち良くするような言説も吐けない。アイドルにだってなれない。死ぬほどに苦しくても妙にポジティブでなんとなく全てを乗りこなしてしまえている。限りなく透明に近い伽藍堂には澱みがない。絵なんて描いてる場合かよクソ野郎という状態さえも絵になり、全てが露出され、その露出物さえ享楽の対象となっていく。人生そのものが一種のセルフエンジョイメントであるかのように。

 

強制措置

 しかし、自家発電の享楽は飽きる。「目触り、耳触りの良さばかりを求める病んだお前らに俺が毒ぶち込んだらぁ!」だなんて威勢のいいことを言いながら、なんとか自分を鼓舞しようと毎日必死ではあるが、とにかくほとほと疲れてしまった。

 そんなことを断片的にSNSにこぼしていたら、縄文族のグルこと大島托からコメントが来た。

「うちで黒塗り合宿をしますか」

 ターニングポイントでいつもフラっと現れるこの男は一体

 僕なんかよりもよっぽど捉えどころがない。器が深いのか大きいのか。それとも器量だとかそういう尺度では測りえないところに存在してしまっているのか。何がなんだか分からないがこのタイミングでの誘いは流石だ。自分のために移動することさえ重いと感じている腰を上げて、思い切って黒塗り合宿に東京へと出向くことにした。

 現場に行き、そこに身を置いてしまえば、強制的に変わってしまうものが多くある。

 首あたりをフェイスラインまでびっちり黒く塗りつぶしてもらいに近々僕は東京に赴く。さてどうなることやら。フェイドアウトしていく瞬間に見る光景をしっかりと記憶していきたい。

 

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas