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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #18 私はナマコになりたい──アナルについての考察

アナルの内部を指で刺激し始めてしばらくすると、次第に身体全体が肛門化するような感覚が現れ始めた。あるいは粘膜そのものになるような感覚と言うべきなのだろうか。この際、重要なことはしっかり粘膜にフォーカスをあてることだ。

「アナルの曙」

アナルについて考えていた。

アナルと言っても色々ある。排泄器官としてのそれ、快楽器官としての穴。なんらかの出口、あるいは入口。

今日は一日そんな事を考えていた。なぜかは分からないがそんな匂いがしていたからだ。もちろん、僕の自室が大便臭かったということではない。きっと無意識に得体の知れない何かを嗅ぎ取ってしまったのだ。

思い返せば、僕は小2で精通を覚えた。平均よりかなり早い。超オスとして猛りだした性的欲求は、その後、僕を様々な探求へと向かわせた。

しかしもちろん当時の僕の目の前にははいなかった。だから、自ずと自分の身体に向かい合うしかなかった。ちなみに先に述べておくと、僕は自他共に認める女好きだと思うし、そもそも人好きなので抱けるなら全ての女と寝たいと思う程の超絶ヘテロ・オスだ。ただ、それが果たして固定されたものなのかは分からない。ペニスに対して美しいと思ったり、他人のそれを自分の身体に挿入したいと願う感覚を今のところ知らないだけかもしれない。だから、潜在した部分を考慮すれば僕もまた“Q”ということになろう。だが、そうしたカテゴライズは僕にとって本当にどうでもいいことだ。

確か誰に教えられるでもなく、子供の時分、風呂で自分の指をアナルに入れてみたり、どこまで広がるものか、直腸に水を大量に入れてみたりしていた記憶がある。おそらく当時は方向性の定まらない性衝動が自身のアナルにもその矛先を向けていただけのことだったようにも思うが、もしかしたら潜在的にアナルに対する何らかの屈託があったという可能性もある。

ある程度の大人になってからもその残波を追ってみたこともあった。

20歳くんだりの僕は抱ける女を全員抱くという行動指針をとっていて、もちろん無理強いするような真似こそしたことないものの、先方にアナルセックスの打診をしていたこともあった。そんなことを続けているうちに、

「アズ君と遊んだらケツいかれるからな()

としたこともない相手に言われるような状況まで発生していた。

そうなってしまってからは僕に近寄ってくる人間(メス)はそのことを既知の前提として近寄ってくることになり、つまりは僕とのセックスに同意した時点で「アナルもOK」という状況が生まれていた。そうなると指数関数的に僕もまたアナルセックスにのめり込むようになった。

あの頃、密かに起こっていた自分の中のアナルムーブメントを今になって振り返る。単純なところでは、女性器ほどはよく知らぬ未知の器官としてのアナルを実践的に知ろうとしていたのだろうと思うし、より俗っぽい下卑た言い方をすれば、メスのアナルを苛むことによって、オスである自分にも備わったアナルの機能をあえて使っていないことへの悦を高めていた側面もあったんだろう。要はオス的なマウント仕草だったのだろうと思う。実際、当時のアナルへの執着は、あくまでも先方のアナルに限定されていた。

 

 

「ゼロを知る女、知らない男」

そんな時期を経て、そこから10余年が経過した今日、突然アナルからの目線を考えようと思い立ってしまった。そして思い立ってしまったからにはやらないといけないと思うのが僕の性分だ。認知をしてしまった段階でもう思い立つ以前には戻ることが出来ないのだから。

おそらく、僕にそう思わせたきっかけとしては、先日、海外のエクストリーム型タトゥーコミューンの長(男性)がパートナーである女性に肛門をいじられる動画を見たことだと思う。彼のアナルには彼女の手首どころか肘くらいまでが埋まり、ぬめぬめと入れたり出したりが繰り返されていた。別に性的に興奮したわけではなく、僕はその動画をただ「ホヘー」と見ていた。しかし、その段階で今日へのセッティングはすでに整っていたのだろう。

まずは体内のものを出来る限り全て出し切ってみることにした。それらは不可分なものかもしれないとはいえ、スカトロジーは今のところノイズとなる。排泄物へのフェティッシュみたいな部分は極力排除した上で、アナルに対してクリアに向かい合う必要があった。

一般的な傾向として女性は男性に比べて身体に対して自覚的だと思う。それは女性には生理があるためだろう。いやがおうでも毎月、身体の問題と文字通り対面せざるを得ない。その点、男なんてボーっとしていたら身体のことなんて大きな病でもしない限り、ほとんど一生考えなくても生きていける。肛門に指を入れ、内壁の粘膜を触りながら、僕はそんな事を思っていた。その手触りに僕はなんだか合点がいったのだ。

内と外が存在しているという事を知っているはやはりすごいと思う。これは男女のどちらが優位だとかそんな話ではない。ただ、たとえるとすると女はすでにゼロの存在を知った上で世界に立っており、男性はまずゼロの存在に気付くところから始めなければならないということだ。ここに昨今のジェンダーに対する様々な食い違いが発生する要因があるようにも感じた。女性はすでに開かれた世界と通じており、男性は常に閉じた世界の主人公になるしかないのだ。

同時にアナルセックスのヘヴィーな実践者たちが世界に対して言及を行う所作についても納得がいった。アナルを使うことで、人は筒の内と外(裏と表)を知る。内と外を知覚することで世界と逆位相に立たされる。すれば自ずと、世界に対する発言も逆転的で天邪鬼なものとなる、というわけだ。

 

近況報告:満を辞してモデルナワクチン打ったところ、後日、異物混入ワクチンだということが判明しました。

 

「全身の粘膜化」

アナルの内部を指で刺激し始めてしばらくすると、次第に身体全体が肛門化するような感覚が現れ始めた。あるいは粘膜そのものになるような感覚と言うべきなのだろうか。この際、重要なことはしっかり粘膜にフォーカスをあてることだ。そのためにも一切の制御を無くすにした。要は垂れ流し状態だ。体液はもちろん、よだれ、尿、腸液全てを意思によってコントロールすること自体を中断するのだ。これで完全に粘膜と同一化し、僕は粘膜そのものの筒となった。

その時にふと思ったのがタトゥーとの類似性だった。

おそらくだがタトゥーとは彫るという技法の構造上、皮膚を耕すような形でインクを注入していく。その結果、身体という面に対してインアウトの強制的な撹拌が行われる。言ってみれば、内と外をスイッチする構造を後天的に身につけるための工事、ないし通過儀礼がタトゥーなのだ。インアウトのスイッチを身につけるという事はメスの身体に近づくということを意味する。ここから一気にフェミニズムに傾倒して行っても良いのだが、とりあえず話が広がりすぎるのでやめておこう。全身の粘膜化、そのための初期段階のお手付きとして身体の筒性が、ここでは重要だ。

“オスが世界を知らないがゆえに出来ること、出来ないこと、メスが世界を知っているがゆえに出来ること、出来ないことの差を僕はアナルに指を突っ込むことで知った。このコロナ禍において世界との境界線があいまいになっていると前々回のコラムで記したが、これは前回に記した過食嘔吐の話にも繋がるし、タトゥーやアナルの話にも繋がる。僕は世界と瞬間的に逆位相に立つためのツールをいつも求めていたのだろう。

実際、食べられる限り食べてあえてそれを全部吐くという行為も最近しばらく挑戦してみていた。これに関して言えば、まず金の無駄だし、食道や胃袋に対する負荷があまりに顕著だったため、すぐに飽きてしまったが、僕はこうした一連の行為を通じて、メス化していくこと、トランスしていくことによる自我の描出を図ろうとしていたのではないかと思っている。

アナルひとつで随分と妄想が飛躍してしまったが、これも僕の性格だ。そう言えば村西とおるが以前、

「こっちはケツの穴まで見せてやってんだぞ」

なんてことを言っていたと思うが、ハッタリとしてあながち的外れではないだろう。ただ、随分とオス的な仕草だなとは思う。もっと突き詰めればケツの粘膜まで達することが出来るはずだ。それに、そもそもそこを誇られたところで女性にはもとより逆位相のスイッチが備わっている。

結局長々と何を言っているのかと言うと、楽器があるから奏者がいるのか、それとも奏者のために楽器が存在するのか、ということなのかもしれない。徒然にかまけた思考のお遊びだ。

 

 

「女の享楽」

さて、粘膜と同一体となったついでにい、次はベタに快楽も追及してみたいと思った。

ただ、僕個人の感覚で言うと、気持ち良いかと言われればなんかそんな気がしなくもないし、違和感だと言えばそうなのかもしれないという程度だった。しかしスイッチを手に入れたことでメス化すること、メスの享楽の片鱗を感得することが可能となった。一歩ずつ拡張していっている。

そういえば最近自分の身体について考える機会が一層増えた。縄文族の撮影のために全身を一時的に無毛状態にしたのだが、そこにあらわれた自身のむき出しの身体に暴力性を感じた。そして初めて気づいたことは、無毛になって性行為を行うと、毛の摩擦が減るので粘液と汗が相まって全身がぐしょぐしょになってしまうのだ。先方は先方で膣が拡張した(ような感覚を得た)と言っていた。

これは要するに、きっと僕自身が自身の身体(世界)と完全に同一化することが出来ていたということだろう。オス的性行為では絶対に味わうことの出来ない体験だと思う。そしてオスの場合は射精を伴って行為の一時的な区切りがつく/ついてしまうため、機能としてどうしてもふと我に帰ってしまう瞬間がある。これは一時的に僕が世界と同一化した/出来たとしても確実に還ってこないといけないオスの身体がそこにあるということだ。

逆に女性の場合はそもそも開けた世界のポジションに存在するため、性行為の有無や前後、始まりや終わりがあまり関係ない。ある種、自己決定的に世界を閉じていく必要があるのだろうと感じた。

と、ここで一旦我に返る。今の僕は風呂場にひっくり返ってアナルに指を突っ込んで水を流し込んだり、よだれをただただ垂れ流しているのだった。ここまでしないと自覚的に身体に向かいあうことが出来ない。扉を開けられないのだ。そう思うとつくづく男性というものは不便な身体を持った生き物なのだなと思わざるを得ない。

では仮に、人間がその位相の転換スイッチに最適化していった先の身体とはどういうものだろう。おそらくだが、ナマコのような内臓を全て肛門から噴出してひっくりかえってしまえるような生き物になるのだろう。それはとても動物的(本能的)な生の様態だ。粘膜そのものである彼らが羨ましくもある。

やや話はズレるが僕は口の大きな男性は昔から何故か異様に苦手だ。ハッチポッチステーション的な感じで口がガバっと開いて裏返ってしまいそうな不安を惹起させられるからだ。ただ反面、くちの大きな女性はこの上なく好みだ。きっとこれもスイッチ出来ないはずの僕(男性)がひっくり返ってしまう事への潜在的な恐怖(去勢不安?)なのだろう。僕にとって女性とはナマコであり、だから口の大きさが好ましく思えるのだ。

…と、今回も話があっちに行ったりこっちに行ったりしている。なのでとりあえずは射精をして文字通り我に帰ろうと思う。射精のためだけであればアナルを弄っているより女性の身体に挿入している方が良い。だってそっちの方が端的に言ってしまって気持ちが良い、という結論に至った。

じゃあアナルとは何だったのか。これは射精の欲求とはまた全く別で、粘膜そのものになることで、生の動態に至るということに、その骨子があるのだと知った。とても原始的なところにまで戻ってきてしまった。要は空洞の器になる体験だ。女性が巫女となるのはこういうわけか。

兎角、昨今の世間ではオス社会が良くないと言われている。その観点で言えば、オスは何を決めることもなく、決める必要がないからであろう。射精さえすれば自動的に切り変われるのだ。その意味では楽な性だ。

祭事に登場している男がパッと見だとキーマンに見えるのは幻だ。実は一番局面に向かい合い、決め続けているのは男ではなく巫女である女なのだ。結局のところ前提が違う。どこまでいっても平等など存在しえないのは当たり前だ。個人の限界は身体が存在しているうえで確実にあり、その限界こそが宗教、政治、哲学、運動を生み出している。もしフレームやフォーマットに言及していきたいのであれば政治や運動、逆によりミクロに自己変容のトランスをしていきたいのであれば哲学や宗教になる。

その点、僕の方向性としては自己内省哲学型なので宗教寄りなのだと思う。コロナに関して既に早くも2年近くが経過しているが、いまだに世界は答えを示してくれない。となると男でも自分で決めないといけないことがある。というわけで僕は今、祭壇の絵を奇しくも制作していたところだった。

 

 

「私はナマコになりたい」

「私は貝になりたい」というタイトルの映画があったが、今の僕の気持ちを記せば「私はナマコになりたい」となる。ナマコの様な存在になれたらばきっと幸せなのだろうと思う。

ある程度まで行きつくところまで行ってしまうとその先に人の歩いていた道はなくなる。人が歩いたことのない道を歩くとすれば、動物の所作を真似るしかない。より原始的にならざるを得ない。差し当たっての模範はナマコだ。そこまで思いが到達したので今回はここで終わりにする。

体液まみれの身体をシャワーで流し、風呂場の掃除をし、部屋に戻る。

ああ、そう言えばここが僕の世界だった。

全ての決定権を僕が握っている空間。僕ただ一人。僕は僕の身体で生きていくしかないのだ。

出来れば一旦ゼロにしたかったが再三言っている通り、ゼロにはならないのだ。なぜなら僕はもう知覚してしまっているから。

もっと言うとこのコラムだって僕には位相装置なのかも知れない。だって全部晒しちゃって、全部全部、垂れ流しなのだから。

 

 

最後に、僕はこの原稿を手書きで書いた。初めての挑戦だ。400字詰めの原稿は僕の思考の速度に向いていない。頭から文字が出てくる速度と書く速度、そして原稿のサイズ感を考えると、おそらく625字詰めくらいがちょうどいい。ちなみに気持ちがいいのは横書きだ。難点は漢字が一瞬出てこないことがあり、そこで失速を余儀なくされることだろうか。この話については、もうちょっと色々と試した上で、また書いてみたいと思う。

 

 

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas