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毎日悪夢を見ます。
今日見た夢は絶望的な夢でした。
ムカツク女を私が馬乗りになってその女の顔の骨が砕けて歪むまで女の血に顔を染めながら殴り続ける。私の拳もすり減って血が出て肉も露わになっているがそれでも私はその女を殴り続ける。動かなくなり抵抗もできなくなりグタッと頭を重そうに支える女の首を見て私はやっと殴るのをやめる。これで少しはスッキリできただろうかと心の内で思い立ち上がってその女を眺めていると、どこからか男の声で「再生」という一言が聞こえてきて、その女の身体は真っ二つに割れ、そうかと思うと身体が半透明になり、内臓も血管も透けて見えた状態で、二つに割れた断面から身体中の細胞組織の再生が始まる。たちまち傷は全て治癒されていき、元の元気な姿に戻ってしまう。血の痕跡も全て消えうせた嫌に黄色く光る肌が気持ち悪い。うろたえている私を女は寝転がったまま見上げニカっと笑う。私はその口元に光る黄色い歯を見てさらに激情しその歯を全て折ることに決め、口元を中心にまた殴り始める。前歯が全て折れるまで何度も何度も拳を振り上げ女の歯に打ち落とす。前歯の折れた口と顔中から血を流しながらその女は突然に立ち上がると、暗闇に止めてある車を目指して歩いていく。途中で私を振り返りまたニカっと歯のない顔で笑うと「また再生すればいいのだから、何度でも殴れ」と言う。
そんな悪夢を今日見ました。
悲しみをどう乗り越えられるかという問題に一日を費やす毎日で、何をしても虚しい気持ちで溢れていて、今まで頑張ってきた我武者羅な情熱すらも吹っ飛ばしてしまいました。あの情熱はどこへいってしまったのかと毎日隅から隅までこの世界のどこかに落ちているのではないかと探して歩いていますけれど、なかなか見つからなくて困っています。
私は誰かの希望でありたいと、誰かの夢でありたいと願っていました。今でも強く願っていますが、今現在の私のどこに希望や夢が存在しているのでしょうか。誰かが私の文章を読んで救われたと言ってくれた時にとても嬉しかったんです。それなのに私はずっと悲しくて息をするのも煩わしいと感じています。頑張っても頑張っても誰かの夢になれることはない気がして本当に悲しいのです。
そんなふうに毎日を過ごしていたのですが、今日たまたま実家に掃除をしに帰ったら、私の若い頃の思い出たちが溢れるような埃とカビに包まれて出てきたのでした。私は懐かしい思いと疎ましい気持ちとを抱えながら自分の思い出達を整理しました。小学生の頃にもらった手紙なんかは中身を確認することもなく心を痛めることもなくゴミとして捨てていきました。そんな手紙の束の中に、私は東京に住んでいた頃付き合っていた彼氏の手紙を見つけたのでした。一瞬ドキリとしましたが、読んでみようと思い中身を確認したのです。
手紙の内容は「貴女は本当にすごい人だ。東京に来てまだ間もないにもかかわらず、自分が関わりたいと思った人間達とすぐに関係を築くことができて、叶えたいことを形にしていっている。貴女は自分ではまだまだ足りないもっと頑張らなきゃいけないと言っているけれど、これは本当に凄いことだよ。俺も俺の友達もみんな貴女に夢を抱いているんだよ。貴女は絶対に凄い人になると確信している。これからも頑張ってほしい」というような言葉がたくさん書いてありました。
私は東京に住んでいた時自分は最低で田舎から出てきたボロ雑巾みたいにしか思っていなかったけれど、その当時付き合っていた彼は私に夢を見てくれていたのだと10年越しに知ったのでした。これで悲しい気持ちもすっ飛んでいってくれていたらアニメみたいな展開で頑張れるところなのでしょうが、私は嬉しいという純粋な気持ちを抱えたまま、不安と悲しみが絶望的に心の大半を埋め尽くしていたので、立ち直るきっかけとなり得るようなこの出来事をプラスに変えることができませんでした。
私はきっといつでも私を大切にしてくれた人間達の心を裏切って歩いてきたのだと思います。その報いが今この瞬間であり、彼らが残していってくれた小さなきっかけすらも無駄にしてしまうような人間に成り下がっているのです。これをいかにして私は乗り越えられるのか今書いていながらも皆目見当もつきませんけれど、きっと私のことだから何か小さな喜びに大きな喜びを見出せる時が訪れるだろうと思います。ドン底のドン底で本当に今の私には何もありません。きっとこの文章を書いたことを恥じて笑い話にする日が来ると思いますが、パソコンに向かう私の今の顔は舌切り雀に出てくるような意地悪婆さんみたいな顔をしているだろうなと思えてなりません。
誰もが孤独に直面し、誰もが孤独の深さに絶望するでしょう。この孤独とどう向き合うかは人それぞれだと思いますが、私は31歳の今、更なる孤独に向き合うことができて幸せなのかもしれないです。それぞれに与えられた孤独の味を楽しむことが人生の醍醐味なのかもわかりません。
一人きりで生きることはできないです。どんなに絵を愛していてもどんなに絵に人生を捧げていたとしても、ある瞬間にたった一人きりであるという虚しさと絶望に立っていられなくなります。これは私が女だからとか結婚してないからだとかそんな表面的な話ではなく、この世界と腹の内側の内側の奥から込み上げてくる真っ黒で透明で何もかも包み込んでしまう冷たい液体の話なのです。誰にもどうすることのできない大きな力。私が考えるに、この孤独というモノはこの世に存在するどの物質よりも質量と密度が高く、そのため人はビルの上から、橋の上から飛び降りたくなるのだと思います。抗うことは不可能ですが、しかしその物質は美しくもあり、共存することはできる。川の底に静かに沈む石になることができないのは、私の中にはまだあの我武者羅な情熱が隠れているからでしょう。
リルケの「若き詩人への手紙」を再度読み返していますが、リルケも自分の本を買うことすらできないほどに貧乏だったようで、私が今、これが私の道として正しいと感じ、信じて歩いている道は間違いではないのだと思います。とてつもない貧乏をしているので、蔑まれたり、森花は間違っていると言われたり、呆れられてバカにされていると思いますが、私は誰かに媚びたいわけでもなく、自分の絵を大安売りしたいわけでもなく、絵をただずっと描いていたくて、誰かがいつか私の絵に感動してくれる日がきたら、その時に私は救われるから、真剣に絵と向き合って突き詰めて模索したいだけなんだと思います。
人を感動させられるような絵を描くためには作品に深く、深く入っていかなければなりません。高校生の時に先生がグスタフ・クリムトの絵をオーストリアの美術館で目にした時に涙が溢れ出てきたと言ったのです。体が勝手に反応し、全身に鳥肌が立ち涙が溢れ出てくる、声も出せなくなるような恐怖にも似た感動。これが私が目指す人を感動させるということなのです。そこに行き着けないなら死んだほうがマシだと私は思います。だから貧乏でも何であってもじぶんの目指す感動に行き着きたいのです。
人間の肌にピタリと孤独は張り付いていて剥がすことはできません。だから人間には音楽や、アートや、本、アニメ、漫画、映画等等が必要なんだと思います。生きるために必要なのだと思うのです。だから私は幼い頃に人間を感動させることができる絵を描きたいと思ったのかもしれません。まだまだ遠いですけれど少しでも近づくためには孤独も貧乏も乗り越えなければなりませんね。この文章を書き始めた頃は思いっきり捻くれた暗い内容で、読んだ人も孤独に陥れられるほどの内容を書いてやれというつもりで書き始めましたが、案外後半は私らしく光を目指す植物のような内容に戻ってきて、自分でも驚いています。孤独と向き合うというのはこういうことかもしれません。どんなに絶望的な孤独に苛まれていても自分のやりたいことを目指していれば乗り越えられる、受け入れることができる。孤独ってモノは人間を成長させるために必要不可欠な存在なのかもしれませんね。孤独に負けて死んでいった人間達がたくさんいることも、私を成長させてくれているのかもしれません。
本当はコロナについて書きたい気持ちがあったのですが、どうしても絶望に圧倒されて書けませんでした。コロナという存在は私にとっては通りすがりの変なオジサンみたいな存在でしかなく、カミュの「ペスト」のように凄い小説を書けたらかっこいいかもしれないですけど、ペストとコロナはあまりにも違いすぎると私は考えています。マスメディアの力の健在をまざまざと見せつけられているようで気持ちが悪いです。俺達がお前らの生き死にを握っていて、いくらでも切り捨てることなんてできるんだと。低所得者の大半が窮地に追い込まれている現状をコロナウィルスのせいにできるのは随分と都合の良い話だなと私は思うのです。
たまたまつけていたテレビでビートたけしが「俺は緊急事態宣言になってからも、なる前も、コロナが流行ってからも、流行る前も、全く生活も行動も変わらない。政府がどうこうではなく、個人個人に何ができるか、何をするかだと俺は思う」というようなことを言っておりました。ビートたけしを見る女子アナの顔が悪魔のように恐ろしく冷たい表情に変化していく様は冷や汗が出ましたが、ビートたけしの言う言葉には感情があり説得力がありました。内側から滲み出る言葉にはやはり感動させられますね。そんなわけで私はコロナについて言えることは何もなくてただ私には知ることのできない恐ろしい得体の知れない動きがあるようで気持ちが悪いのです。
コロナについて嘆いたり考えたりするのは自由ですが、心まで奪われてしまったらどうやって良い方向へ歩いていけるのでしょうか。孤独と同じだと思います。孤独も心を奪われることなく前へ歩いていかなければならないんだと思います。自分の内側に広がる世界を大切にし、何にも奪われることなく歩いていくしかないのだと思います。
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Photos by MORIKA
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