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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #13 木登りによる水平的拡張構想

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第十三回は、澱んだ景色を少しだけ変えるための「裏アカ」をめぐって。

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世界で最も成功したネズミ

 私はミッキーマウスを妬ましく思っている。

 わざわざ説明するまでもなく、ミッキーマウスは「世界で最も成功したネズミ」であり、誰からも愛される稀代の人気者である。数えきれないほどに映画の主演を務めた彼は、絶大な地位と名誉とを、その手の中に収めている。

 そんなミッキーマウスは、スーパースターでありながら、過剰なほどのファンサービスをほぼ毎日のように実施している。東京と千葉の境目に存在している夢と魔法の国、その一角に存在する自宅の玄関を開放し、訪れるすべての者を笑顔で迎え入れているのである。

 プライベートすらも犠牲にして、世間と交流を図り続けるなんて、なんという器の大きさ、なんという懐の広さであろうか。私たちはそのミッキーマウスの善意的な態度に、感動を覚えないわけにはいかない。

 しかし、そこで同時に、一抹の不安が走ったりもする。

 成功者というものは、その華々しい表舞台での活躍の姿とは裏腹に、破滅的な生活を送っていたりするものだ。莫大な富を手にしてしまったがゆえの孤独に溺れ、ドラッグやギャンブルによって身を滅ぼしてしまったハリウッドスターの例は、枚挙に暇がない。ということは、「世界で最も成功したネズミ」だって、実は荒んだ暮らしを営んでいるのではないか。目を覆うばかりの「孤独の姿」が、その自宅の内部では露わになっているのではないか。玄関を開けた瞬間、ウィスキーの空き壜などが乱雑に転がっている廊下の様子が広がり、その奥からバスローブをだらしなく着たミッキーマウスが登場、どろどろに濁った瞳を浮かべながら「よう、ロシアンルーレットでもやろうぜ」などとこちらに声をかけてくる、みたいな光景を我々は目の当たりにしてしまうのではないか。

 暗く湿った現実が横たわっている様を想像し、私たちはビクビクしながら、彼の自宅へと足を踏み入れる。

 そして、驚愕する。

 ミッキーマウスの生活圏において、「孤独の姿」などというものは、一ミリも発見することができないのである。

 薪がパチパチと爆ぜる暖炉、受賞トロフィーが並ぶ棚、軽妙な音楽を奏でるオルガン、暖かな太陽の光が注ぐ家庭菜園。そこには、なんとも豊かで、なんとも満たされた暮らしぶりだけが広がっている。ウィスキーの空き壜など、どこにも転がってはいない。

 リビングには仲間たちからの伝言が絶えず流れ続ける留守番電話が置かれていて、納屋の奥の映画スタジオは常に来客で溢れていて、そして最愛の恋人の家がすぐ隣に建っていて。そのスーパースターは、かようにして、孤独からは程遠い生涯を歩んでいる。

 ああ。

 ミッキーマウスよ。あなたのことが、心の底から、羨ましい。

 

散歩の途中でマルチーズに吠えられてもひとり

 ミッキーマウスに身勝手な嫉妬を覚えてしまうほどに、このところの私は「孤独から来る不安」に苛まれる生活を送っていた。

 世の中は、いまもなお、加速度的に分断が進行している最中だ。外出に対する圧は少しずつ緩んできたところがあるが、しかし「不要不急の行動は避けるように」というムードは依然として広範囲に張り巡らされており、境を越えた先の景色は遠くに霞んだままである。

 そんな状況から、ごく狭いエリアをウロウロとするだけの閉じた日々を過ごしているわけだが、そこで浮き彫りとなってきたのは、自身の「孤立」の有様である。

 とにかく他者との対面機会が薄れていて、だから自動的に自分ひとりだけの時間が増えていく。尾崎放哉は「咳をしてもひとり」という名句をこの世に残しているが、いまの自分は「買い物をしてもひとり」「ATMで口座の残高を確認してもひとり」「散歩の途中でマルチーズに吠えられてもひとり」といった三流の自由律俳句が永遠に詠めてしまう暮らしに身を置いている。いや、自分に限らず、他の多くの人々もこのような状態に陥っているのであろうが、しかし「ひとりきり」が世界に同時的に広がっているという事実が、「個の孤独」になにかの救いをもたらすわけでもない。

 いま自分がやっていることは、正しいことなのだろうか、それとも間違っていることなのだろうか。このままの暮らしを続けていて、果たしてこれからの未明を生き抜くことはできるのだろうか。自身のふるまいの中に、見直すべき点はいくつあるのだろうか。それを誰かに問いたいが、相手もおらず、不安はぐんぐんと高まっていく。「悩んでもひとり」である。

 そのような孤独のカラーが、あるラインを越えて濃くなっていくと、恐ろしいことに、じっとりとした困窮の心地が現れてくる。「貧すれば鈍ずる」という言葉があるが、人は孤独が上昇することでも余裕を見失い、生活の先に希望を描くことができなくなるのである。

 困った、このままでは、焦りに頭を支配されてしまう。頼るべき他者を見失い、孤独の先で溺れ死んでしまう。なんとかして、この状況から脱走しなければならない。どうにかして、余裕を生成し、この圧がかかった生活から自身を解放させなければならない。

 しかし、孤独がもたらすこの窮地から、なにをすれば逃げおおせることができるのか。その答えとなるものを探そうにも、狭い生活範囲の中で発見できるのは、見飽きた景色の淀みばかりである。

 

男児のなる木の下で

 なす術もなく、せめて気分転換でも図ろうと、私は散歩に出かけた。

 その日は、実に澄んだ青空が広がっていた。近所の公園を通りかかると、大勢の人たちがキャッチボールやヨガ、ジョギングなどに興じながら、野外での時間を過ごしていた。

 私はその公園のベンチに適当に腰を下ろし、平和的な景色の中にぼんやりとまどろんだ。初夏の風が爽やかに通り抜けていき、それまでに得ていた不健康な気分がわずかではあるが紛れていく。目を閉じれば遠くから吹奏楽器の練習の音色や小鳥のさえずりが聞こえてくる。木々の葉が静かに揺れる音もまた、耳に心地よい。

 ササササササ。

 ササ、ガサガサ。

 ガサッ、ガサガサ、ガサッ。

 いや、ちょっと待ってくれ。風が揺らしているにしては、やけに葉のこすれる音が盛大である。なんだ、どこかの木が、一極集中的にサイクロンにでも襲われているというのか。

 辺りを見渡し、その音の発生源を探す。そして、ベンチの裏手に目を止めた瞬間、予想外のシーンが現れる。

 そこには、幹が太く背の低い樹木が生えていて、そしてその葉の茂みの中には、たくさんの男児たちの姿が実っていたのである。

 おそらくは、小学五年生から六年生。彼らは八名ほどで連れ立ちながら、木に登り、そして枝に腰をかけ、小型のゲーム機に没頭したり、スマホをいじったりと、思い思いの時間を堪能していた。

 牧歌的なのか現代的なのかよくわからないその光景に少し戸惑いを覚えながらも、私はなんだかノスタルジックな思いを浮かばせた。そういえば自分も、彼らと同じ年頃に仲間たちと木に登って遊んだりしたものである。

 すると、突如として妙な疼きが現れた。

「……あの葉の茂みに、混ざってみたい」

 このところ野外で身体を存分に動かすような体験をしていないことの反動もあったのだろう。木登りに対しての欲求が、私の中で静かに沸き立ち始めたのである。

 しかし、ここで小学生の彼らに向かって、「やあ、こんにちは!突然だけど、ボクもその木に混ぜてもらっていいかな?」などと声をかけてしまっては、新型のマイケル・ジャクソンだと捉えられ、すみやかに通報されてしまうおそれがある。他の木を探して登るという手も考えられるが、今日の公園はあまりにも人の目が多い。近所の人たちから危険人物視されるのはごめんだ。しかたがないが、ここはあきらめるよりほかにない。

 すごすごと、公園から退散する。

 だが、無念が残滓として胸の中に漂っている。

 そういえば。近所にある祖母宅、そこの駐車場には小学生の頃によく登っていた木が、まだ残っていたはずである。あの住宅街の辺りであれば人通りも少ないし、ちょっと目立つようなことをしても、変な噂が立つ心配は薄い。だいたい、近隣に住む人たちとも旧知の間柄だ。

 気がつけば私は、その祖母宅の駐車場へと足を向けていた。

 久しぶりにまじまじと眺めたその木は、頭に描いていたものよりもずいぶんと小さいサイズ感であった。小学生の頃はかなりの巨木に思えていたのだが。

 だが、小ぶりであるということは、登りやすいということでもある。

 さっそく、一番低いところから生えている枝に、手を伸ばす。そして幹に足をかけながら、ぐっと全体重をその木に預け、しがみつくようにして登っていく。

 木は少しだけ揺れるが、しかしどっしりと私のことを受け入れてくれる。

 枝から枝に移動しながら、徐々に上へと詰めていく。次第に子どもの頃の感覚が蘇ってくる。

 楽しい。木登り、すごく楽しい。

 

 

 あっという間に頂上へと辿り着き、葉の冠から顔を出す。そこから眺めた近所の景色は、見慣れたものであるはずなのに、なんだかやけに新鮮な色合いを帯びていた。

 しかし。

 五分も経てば、その頂上の景色は私にとって持て余すしかないものへと変貌した。

 木登りって、登頂に成功してしまえば、特にやることがないのである。

 ………。………。………。

 なんだろう、せっかくのコンテンツを、きちんと味わえていないような、惜しい気分がモヤモヤと胸の中に広がっている。ただ樹冠に到達するだけでは、私の「木登り欲」は満たされないということなのか。

 ふと、先ほどの小学生たちのことを思い出す。彼らは皆、木の腕に座りながら、『あつまれ どうぶつの森』や『HikakinTV』などを楽しんでいた。

 そういえば、私も小学生の頃は、この木の上でコロコロコミックを読んだり、「らあめんババア」を食べたりして、放課後の時間を過ごしていた。

 そうか。

 すっかり忘れていたが、「木登り」の醍醐味は、その木を自分の場所として開拓するところにあったのだ。

 

魅惑のアフタヌーンツリー

 次の日、私は駐車場の木の上で、文庫本を開きながら、午後の風を受け流していた。

 そうやって書くと、まるで『トーマの心臓』に出てくる美少年の姿が浮かんでくるかもしれないが、読んでいる本は詩集ではなく、世界の未解決事件を扱った下世話なノンフィクションである。着ている服は白のボタンシャツではなく、『地獄先生ぬ~べ~』の鬼の手がプリントされたユニクロのTシャツである。そして私は少年ではなく、季節の変わり目ごとに必ず膝に水をためてしまう、中肉中背の小男である。

 文庫本の他にも、私は自宅から様々なアイテムをリュックに入れて、そこに持ち込んでいた。今日は木の頂上で、やることがいっぱいである。

 読書の手を止めて、魔法瓶を取り出し、お茶を飲む。

 それだけで、なんだか満たされた思いが押し寄せてくる。

 ああ、これだ。

 私が木登りに求めていたのは、この感触だったのだ。

 それからも私は、午後の三時を過ぎた辺りから、毎日のように木の上へと登り、「アフタヌーンツリー」の時を楽しんだ。陽が落ちるまでの間、マンガを読んだり、ポテトチップスを食べたり、アマゾンプライムで映画鑑賞をしたりなどした。その木はすっかり、「自分の木」となっていた。まるで戸外に一軒、別荘を持ったような気分である。

 こうなってくると、だんだん、一本の木だけでは満足できなくなってくる。もっと他の別荘が欲しくなってくる。人間とは、強欲な生き物なのである。

 散歩をしている中で、立派なサイズの木を見つけると、とりあえず近くに寄って、幹や枝の状態を確認する。

「あそこに手をかければ登れるかな、でもあんまりリビングは広くなさそうだな……」

 とにかく、目に入る木があれば、そこに自分が登っている姿を描く。そんな査定を繰り返していると、なんとも勝手なことに、近所に生えている木は、すべて「自分のもの」なのではないかという錯覚を起こすようになる。

 そのうちに、私は理想的な一本を発見する。自宅から程近いところにある、私有地なんだか廃公園なんだかよくわからない草むらのスペース。そこの地面に力強く根を這わす、立派な樫の木である。

 下から見上げれば、太い枝たちが複雑に宙を割っている。鬱蒼とした葉の重なりは根元に大きく楕円形の影をつくっている。ああ、これほどまでにたくましい木であれば、ハンモックを備え付けることもできるのではないか。ここで一晩を明かすこともできるのではないか。

 しかし、現状としては、この木の所有権は誰のもとにあるのか、不明なのである。近隣住民が騒ぐような事態を引き起こすことは避けるべきだろう。

 そこで私はとりあえず、根を枕に寝そべってみた。そして、読書を敢行することにした。まずはそこからゆっくりと、この樫の木を自分のものにしていこうではないか。

 そんな感じで、私は日々、近所にある様々な木と「関係を結ぶ」ことを続けた。「アフタヌーンツリー」を嗜むことのできる別荘は徐々にと増えていき、ちょっとした不動産王になったような気分が浮かんできたりした。ああ、なんとも豊かな、我が生活である。

 ……あれ?

 私はふと、そこで奇妙な感慨をよぎらせた。

 なんだか、ゆとりのある心地を獲得している自分が現れているではないか。

 そう、ここにきてなぜか、「孤独からくる不安」や「窮地の憂い」が和らいでいるのである。閉塞感や焦燥感が、薄まっているのである。

 自分はただ、木と触れ合う毎日に身を浸していただけなのに。これはいったい、どうしたわけなのだろう。

 

そうだ、裏アカをつくろう

 思い返すに。

 私は、近所の木たちの存在に、「別荘」の価値を見出していた。そして、戸外の景色に自分の部屋を拡張しているような気分を味わっていた。

 それってもしかして、木登りに夢中になっているうちに、孤独を無自覚に分散させていた、ということなのではないか。

 「孤独の暗黒面」について、思いを巡らせてみる。

 ひとつの場面に強く拠り所を求めた時、私たちは不健康の状態に身を染めたりしてしまいがちだ。ただひとつのアカウントにログインし続けていると、視野狭窄に陥っていき、その窮屈なフィールドの中で孤独はみるみると上昇していく。

 孤独は、放置したままにしておくと、次の段階の孤独を招いてしまったりするのである。自分が自分としての有様を開示できる場所は、絶対的にこのひとつのアカウントだけなのだと思い込み続けていると、最後は手を伸ばすべきいくつもの枝の存在を見失ったりするのである。

 だとすれば。

 孤独の垂直線から逃れる方法、それは、「裏アカウントをいくつも生成する」ということなのではないだろうか。

 水平的に、自分の「止まり木」を開拓していく。そこに新たなアカウントをサインアップして、他の場面とは違う「ひとりきり」を描いていく。そうやって、次々に孤独を分散させていく。一極に淀んでいきがちな孤独を、四方八方に薄めていく。

 そうすれば、私は「孤独からくる不安」から、本格的な脱走を果たすことができるのではないか。

 これからも木から木へと登り続け、拠り所とする景色を複数獲得できれば、私はもう、孤独の影に怯えなくても済むようになるのではないか。

 そんなことを思った瞬間、なんだか軽やかな風に吹かれる。

 そうか、そうなのだ。

 私は、木登りをすることで、そこに裏アカウントを築いていたのだ。そして気づかぬうちに、孤独の息苦しさからささやかに解放されていたのだ。

 

 私は例の駐車場に足を向け、そこの枝にまた手を伸ばした。

「木に登ってもひとり」

 そう、私は今日も、孤独である。

 孤独ではあるが、しかしもう、不安の色を濃く感じたりすることはない。

 こうして自由にログインできる場所が外界にあるかぎり、私はいつでも、上昇しようとする孤独に蓋をすることが可能なのである。

 ミッキーマウスよ、私はいま、あなたの家に負けないほどの豊かなリビングを、木の上で手にすることに成功しました。

 ああ、心強い。いま、樹冠から目に映すことのできる、すべての景色が、実に心強い。

 と、その時である。

「なんだ、お前か」

 そんな声を、下からかけてくる者がいた。

 祖母である。

「なにやってるんだ、そんなところで」

 なにやってるんだと言われても、まあ、木登りをして大した気になっているだけなのだが、それを説明したところで、祖母は首を傾げるだけであろう。

「いいから早く降りて来い。近所の目もあるんだぞ。いい歳して、みっともねえ」

 私は、やはり狭い生活範囲の中において木登りは慎むべき行為なのだという認識を持つに至り、また少し、不安になった。

 

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。