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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #12 これからを生き抜くための小さな密林

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第十二回は、大いなる不安の中で「小さくあること」をめぐって。

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私はマリオになりたい

 私はスーパーマリオに理想を描いていた。

 ピーチ姫がクッパ大王に誘拐された。キノコ王国は大混乱。事態を収束させるため、オーバーオールの民間人、マリオが出動する。

 その救出劇が始まる時、彼の姿は、異常に小さい。おいおい、こんな豆小僧に国の有事なんて解決できるのかよ。誰もがそんな疑心を走らせる。

 ところがマリオは、そこから驚異的な活躍を見せる。

 キノコに触れれば、身体は大きくなり。

 花を手にすれば、火を噴くことができるようになり。

 マントを纏えば、空を自由自在に飛び回り。

 カエルスーツで海中を軽やかに泳ぎ、タヌキスーツで地蔵に化け。

 彼はありとあらゆる局面で、自らの姿を柔軟に変容させながら、困難へと立ち向かっていくのである。

 ああ、マリオのようでありたい。

 マリオのように、禍事を軽やかに打破できる、強い人間でありたい。

 私たちの生きる現実世界は、キノコ王国とは比べ物にならないほどの惨状を招いてしまっている。ピーチ姫が幽閉されるどころか、世界中の多くの人々がいま現在、自宅にその身を籠らせているのである。経済停止、株価暴落、世界恐慌、ジャンプで踏んでもビクともしない凶悪な敵たちが、次から次へと向こうから押し寄せてくる、まさに未曾有の事態。誰もがアイテムをすり減らし、コインは明日にも尽きそうで、だけど攻略本はどこにも売ってはいない。

 マリオよ、あなただったらこのクソゲーを、いったいどのようにクリアするのですか。

 

旧約聖書ではもうサバイブできない

 コントローラーを置き、ため息をひとつ、吐く。

 物置から引っ張り出したスーパーファミコン、それに興じてばかりの日々が、もうどれほどに続いているのだろう。自分はいったい、いつまでこうしていればいいのだろう。

 日常とも、非日常ともつかない、自宅籠りの生活。その中で私は、逃避と自問とを繰り返していた。

 

 思い返せば。

 

 不安から脱走するための抜け道は、どこの土管に隠されているのか。生活にかかる圧迫感を消滅させるための呪文は、どこの岩場に刻まれているのか。それを探し求めるため、私はここまで、様々なコマンドの入力を試してきた。野草を食べ、魚を突き、穴を掘り、石を拾い、泥団子を売り、なぜか全裸で生活をしてみたりもした。

 ささやかではあるけれども、そのたびに新たな扉や呪文は発見された。そしておそるおそるデータを書き換えながら、ゲームオーバーを避ける日々を紡いできた。

 ところがここにきて、バグが生じた。

 禍災による甚大なバグが、パンデミック的に全世界で同時発生したのである。

 分断が現れ、混乱は広がり、突然変異の不安が各地で猛威を奮い始めた。それは明らかに、「新たなステージ」の登場を予期させるものであった。

 これまでに積み上げた経験値や、獲得したアイテム、それらが完全に無効になったわけではないだろうが、しかし進む先は未明の地だ。過去の景色に取りすがってばかりいては、あっという間に身の破滅を招くことだろう。

 おお、なんたることだ。

 こうなった以上、旧約聖書を抱えているだけではサバイブできなくなってしまったのだ。

 新たにして大いなる不安から逃れるための新約聖書を、この先に綴っていく必要が発生してしまったのである。

 しかし、まずは、なにをしたものなのか。

 私は部屋の中で、呆然とするしかなかった。

 対峙すべき不安たちは、以前にも増して激しく怪炎をあげている。

 お金がなくなったらどうしよう、仕事が減ったらどうしよう、食べ物に困ったらどうしよう、住む場所を追われたらどうしよう。

 これまでの私は、そういった憂いを消滅させるためのヒントを、家の外に求めてきた。野外に出れば、そこには空腹を満たすための美味なる野草がいくらでも生えていて、お金に変化する小石が無尽蔵にころがっていたのだ。

 しかし、いまは、その野外活動がままならぬ時期なのである。禍災は現在も進行中で、屋外にて光明を探索することは、困難を極める状態なのである。

 いったい、この家籠りの日々の中で、どのようなコマンドを入力すればいいのか。それがさっぱり、わからない。

 

アウトドアへの招待状

 いま一度、冷静になって、考えてみる。

 私がいま、最初に打破しなければならないものは、いったい、なんなのであろうか。

 それは、なにに置いても、目の前の閉塞感である。

 千里の道も、一歩から。これから進む先がどんなに未知のステージであろうとも、まずはクリボーを踏むところから始めなくては、話にならないのだ。マサラタウンに別れを告げなければ、新種のポケモンと出会うことはできないのだ。

 そうだ、まずやるべきは、この閉塞感からの脱走法を模索することなのである。

 しかし。

 もう一か月ほどは経過したであろうインドア生活の中で、私はありとあらゆる気分転換を、すでに試みていた。

 たとえば、オーソドックスに、料理。

 最初はカレーライスやハンバーグなんかを調理していたのだが、そのうちに「普段は作らないメニューに挑戦」というベクトルが現れ、小籠包、ビビンバ、カニクリームコロッケ、中華粥を経過、その果てにコーラまでもセルフメイドし始めている自分を発見した。まずい、なんだか過剰性に陥っている気がする。このままいくと、革靴を煮込んでゼラチンの抽出とか始めるのではないか。「ようし、今日はティッシュペーパーとレゴブロックだけで炒飯に挑戦だ」とか言い出すのではないか。歯止めの効かなくなった未来を想像したら怖くなり、そこで料理への意欲は急速に萎んでいった。

 他にも筋トレをやってみたりもしたし、読書もしたし、数年ぶりにmixiにログインして過去の自分が残したアーカイブを閲覧、そこに「池袋で葉加瀬太郎とすれ違った!」と自慢している日記を発見し、引いたりもした。さらには、ネットフリックス、部屋の模様替え、クロスワード、その他諸々。

 あの手この手を投じてはみたが、閉塞感が根源的に解決されることはなかった。

 同じ構図にずっと留まっていると、どんなに気分転換を図ろうとも、次第に息が詰まってくるようにできているのである。いまやっているスーパーファミコンだって、いつ飽きるのか、わかったものではない。

 閉塞感から逃れるためには、やはりどう考えても、アウトドアという領域とのコネクトが必要不可欠なのだ。そう結論づけ、近所の公園へと散歩に出かけることも検討してみたが、しかしそんな取って付けたような野外活動で気分が芯から晴れるとは思えなかった。「眠りから目覚めたら、そこは虫や鳥たちの鳴き声が騒がしい森の中」みたいな、ダイレクトな自然体験に触れなければ、この沈殿しきった生活感情は解消されないのである。

 ああ、自分はいま、インドアの範囲に縛り付けられた状況下で、強烈にアウトドアを欲している……!

 コンクリート造りの古いマンション、その三階にある狭い部屋の中で、私は呻く。

 そして呪われたようにして、頭の中で「インドア……、アウトドア……、インドア……、アウトドア……」という繰り言を唱え始める。そのうちに、だんだんと頭が混乱していく。あれ?インドアとアウトドアの違いって、なんだっけ?『ドラえもん』の作者がインドアで、『怪物くん』の作者がアウトドアだったっけ?

 ああ、もう相当に、疲れてきている。

 滅入った気分を紛らわすため、ベランダに出て、外の空気を吸うことにした。

 春の白い光が、そこにはわざとらしいほどに注がれていて、目に眩しい。隣の民家の庭を見下ろせば、キジバトのつがいが仲良く戯れている。路上の木々たちの緑は、そよ風に吹かれて静かに揺れている。自然世界はこんなにもすぐ近くに溢れているというのに、それに手を伸ばすこともできないなんて。

 なぜ、インドアとアウトドアは、こんなにも分断されているんだ。

 インドアの概念を最初に思いついた者よ、お前の責任は重いぞ。

 気分は紛れるどころか、だんだんと苛立ちを帯びていく。

 だいたい、アウトドアもアウトドアだ。いつまでも屋外にばかり待機し続けているなんて、ちょっと傲慢ではないか。

 たまには屋内へと、自らすすんで挨拶しにきたらどうなんだ。

 そうだ、アウトドアよ、受け身はよくないぞ、受け身は!

 そんな理不尽な感慨が最高潮へと浮かび上がったその時、なにか、揺れるものを感じた。

 ……ん?

 そもそも、「インドアとアウトドアをはっきりと分断させる」なんてルール、そこまで厳粛に守るべきものなのか……?

 屋内と屋外の境を、もっと曖昧にしてしまっても、べつにいいのではないか……?

 そして、ハッとした。

 そうだ、インドアに、アウトドアを招いてしまおう。

 野外をこの部屋の中に、混入させてしまおう。

 インドアの概念を覆して、この閉塞感を、消滅させてしまおう。

 こうして私は、すぐさまにPCを開き、オンラインの園芸ショップへと足を踏み込んだ。

 野外といえば、なんといっても、森である。密林である。ジャングルである。

 無秩序な緑たちを、この部屋の中いっぱいに、生い茂らせるのだ。屋内にいながらにして、熱帯雨林の景色を眼前に広げるのだ。

 目についた植物たちを、次々に、猛然と購入していく。カートの中が、大量の蔦や葉で溢れていく。来月のクレジットカードの請求額のことなど捨て置き、私はただ興奮しながら、園芸ショップサイトの購入ボタンを押し続けた。

 閉塞感の果てで、我を見失った人間の姿が、そこにはあった。

 

ほんの小さなジャングルで

 次の日から私の自宅には、植物たちが続々と運び込まれてきた。

 トマト、バジル、コリアンダー、紫蘇、それから枝豆といった、家庭菜園界ではお馴染みの面々。食虫植物や、グラスの中の苔。蔦が針金のように伸びる、ワイヤープランツ。奇怪な形状のサボテンたち。小石に擬態する南アフリカ原産の多肉植物、リトープス。熱帯雨林で大樹に着生する、ミルメコディア。

 その他大勢の、見慣れぬグリーンたち。

 そして私はさっそく、屋内と屋外の境を曖昧にするための作業を開始した。

 風通しや日光に気を遣わなければならない植物たちは、ベランダの奥へと配置していく。ワイヤープランツなどの蔦系の者たちには、リビングに近い手前のスペースを陣取ってもらうことにする。緑の手足を、そこから屋内に向かって縦横無尽に伸ばしてもらう算段である。

 ベランダが埋まったら、ガラス戸のレールを越えて、部屋の中へと多肉植物たちを招く。屋外と屋内の境界線が、次第に漠然としたものになっていく。

 おおお。

 ジャングルだ。自宅の一角に、小さなジャングルの景色が現れた。

 勢いに任せて、雑多なジャンルの植物を集めたことが、かえって功を奏したのかもしれない。統一感がないことで、混沌とした熱帯雨林の姿が起こされているのである。

 しかし、あとひとつ、なにかが足りない。

 ジャングルと銘打つからには、もうちょっと湿り気を加えて、「鬱蒼とした感じ」を強調させたいのである。

 そうだ、沼だ。

 この私だけのジャングルの中央に、沼が発生すれば、ジャングルのテイストはより濃いものとなる。

 すぐさま私は、余っていたプランターを加工して、即席の池鉢をつくった。

 底に土や小石を張り、そして水道水を注ぎ、一週間ほど、寝かせておく。そしてカルキなどの毒素が抜けたタイミングを見計らい、マツモやホテイアオイといった水生植物、それからメダカをそこに投入する。

 沼っぽい。水面に緑が乱れるように揺れていて、実に沼っぽいではないか。

 こうして、インドアの概念をささやかに破壊する小さなジャングルの景色は、完全なものとなった。

 

 

そして私は野球部のマネージャーになった

 その後も、私は毎日のように植物の購入を続けた。

 もはやベランダとリビングの境界線周辺にはプランターを置くスペースがなくなり、やがてジャングルは室内の奥のほうへと侵略を始めた。

 息苦しさが詰まっていた密室生活のトーンは、自宅が「野生化」していくにつれ、徐々に軽やかなものになっていた。

 いつでも、周囲には熱帯雨林の光景が広がっているのである。緑の生い茂りを目にうつすたび、爽やかな風がスッと身体を通り抜けていくのである。

 雨などが降っていない日には、夜でもガラス戸を開放して、外気を招く。そして、植物に囲まれるようにして眠りに就く。これだけで、家にいながらにして、キャンプをしているような心地である。

 そして、ジャングルは、思いも寄らぬ「張り」を私に与えてくれたりもした。

 植物たちは、それぞれその性質によって、与える水の量やペース配分が異なる。毎朝毎夕に水分を欲しがる者もいれば、サボテンのように季節によっては渇きをデフォルトとしている者もいるのである。だから一日の時間の流れの中で、小刻みに「水を飲んだほうがいいんじゃないですか?」とペットボトルを片手にして全員の様子を伺うことが必要となってくる。なんだか、野球部のマネージャーになったような気分だ。

 それから、それぞれの位置をこまめに入れ替えて、バランスよく太陽の光を浴びせることも重要だ。しかし、中には直射に弱い者もいるので、ローテーションを組む際には繊細なバランス感覚が問われる。「はい、ここで一旦、休憩を入れてください。で、そっちのチームは午後から第二グラウンドのほうに移動してください」。やっぱり野球部のマネージャーになった気分である。

 沼のほうも、慎重に様子を見てやらなければならない。水草とメダカは循環型の共生関係を結んでおり、特にこちらからエサや栄養分を与える必要はないのだが、日差しを受けすぎたりするとアオミドロが発生してしまったりもするのである。真緑になった池鉢は、それはそれで沼っぽさが際立ったといえなくもないが、しかしこれではメダカの泳ぐスペースがなくってしまうので、放置は禁物だ。グラウンドに入ってきた野良犬を追い返す野球部のマネージャーの気分で、アオミドロを除去していく。

 こうやって、ジャングルの静かな変容の対応にせっせと追われているうち、マネージャーではなく、ひとつの世界の創造主になったような「張り」が現れてくる。自分がいなければ、この小さな緑の世界は、滅んでしまうのである。

 そのうちに私は、奇妙な心地に包まれる。

 あれ、なんだ、これ。

 大いなる世界は、現在も烈しく変容し続けている最中だというのに。

 いま自分が目の前にしている小さなジャングルたちは、いたって穏やかに春の太陽を受けているではないか。

 というか、このジャングルに加担している自分までもが、なんだか長閑な気分を味わってしまっているではないか。あまつさえ、「張り」まで感じてしまっているではないか。

 経済停止とか、株価暴落とか、世界恐慌とか、そういったおどろおどろしいワードがはびこる世界から切り離されてしまったような異空間が、この狭い部屋の中に広がり出しているではないか。

 

誰かが大きな世界をつくり直してくれるのをただ待つのではなく

 ジャングルとの共同生活の中で、私はなんだか、自分がこれから先にやるべきことを見出したような感触を得ていた。

 「新たなるステージ」で、どのように不安と対峙すればいいのか、その指針をかすかに描くことができたのだ。

 私の「自宅ジャングル」は、小さい。

 取るに足らないくらいに、小さい。

 しかし、「小さくある」ということが、実は、これから先を生き抜くための重要な条件なのではないだろうか。

 マリオは、ごくごく小さな姿で、冒険を始める。そして、アイテムの力を借りながら、ステージごとに自らの姿を変容させ、ノコノコやらクリボーやらハンマーブロスやらに立ち向かっていく。時には小さな姿へとまた戻り、それまでとは違うふるまいを新たに探し始めたりもする。

 小さいということは、変化に強いということだ。多様な変容を、したたかに迎え入れることができるということだ。

 大いなる世界がもたらす危機を、たったひとつの小さな世界を拠り所にしながら乗り越えようとするのは、さすがに無謀だ。しかし、ミニマムな世界を、もし無数に身の回りに置くことができたのなら、話は変わってくるのではないか。大いなる世界との断絶を果たすことができるのではないか。

 まず、遷り変りに強い、小規模な世界を、大量に構築する。

 そして、それらの小規模な世界にいくつもの蔦を伸ばして、多面的に接続する。

 その果てで、マリオが小さなブロックからブロックへとジャンプを繰り返すように、小さな世界から世界へと跳び移り続ける。

 そんな景色を、現実のものとしたのならば。

 私は、大いなる世界に身を預けることをせずとも、生き抜くことができるのではないか。

 私は、大いなる世界が生成する新たな不安から、脱走を果たすことができるのではないか。

 

 私は、これから先にも、「自宅ジャングル」に相当する、いくつもの小規模な世界を召喚していきたい。誰かが大きな世界をつくり直してくれるのをただ待つのではなく、自分自身の小さな世界を、ちまちまと、みっともなく、つくり続けていきたい。

 そのログが、いつか自分のための新約聖書になるのだと、信じていまは進むしかない。目に涙をためながら、それでも生き抜くことを放棄せずに、進んでゆくしかないのである。

 不安をいっぱいに抱えながら、私は祈るようにして、今日も植物たちに水を注いでいる。

 

 

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。