ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #6 お金をめぐる冒険 ── 「たとえば石がいるだけで心が強くなれること」編
衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第六回は「お金」編。日常の経済にバグをもたらせるにはどうすればいいか。ヒントは「石」にあった。
「お金はいつかなくなる」という不安
私はスネ夫に憧れていた。
漫画『ドラえもん』に登場する、骨川スネ夫。ご存じの通り、彼はブルジョアの家庭で育った男の子だ。いとこのお兄さんに作ってもらったジオラマを自慢し、「このゲームは三人用だからのび太はダメ」とストレートにのたまい、「こないだ急にラーメンが食べたくなったからパパにねだって北海道まで連れて行ってもらったんだ」とただただ金に物を言わせただけの旅行の思い出を披露して、ジャイアンを悶えさせる。そんな感じでスネ夫は、「たまたま小金持ちの家に生まれた」という境遇を、全身全霊で受け入れ、周囲に臆面もなく発信している。当たり前だが、彼が「なんてことだ、お金がない」などと不安を口にすることなど、ない。「この炊飯器は三合炊きだから悪いけどのび太はダメ……」などと生活困窮に弱音をこぼすことも、ない。なんて羨ましいのだろう。私も母親が語尾に「ザマス」を付けて喋るような家に生まれたかった。
とはいえ、じゃあ私の生まれ育った家は「貧乏」だったのか、と自分に問うと、そういうわけでは、きっとない。
父親は「生真面目」を絵に描いたようなサラリーマンで、母親は専業主婦。私含め兄弟は三人だが、家計が具体的に切迫しているような様子は、ついぞ見たことがなかった。年に一回は家族で国内旅行に出かけていたし、車も所有していたし、クリスマスプレゼントは希望通りのものがサンタさんから枕もとへと届けられていた。ラーメンが食べたくなったから北海道へ、みたいな大胆なエピソードはひとつもないが、でも過不足のない、なかなかに恵まれた暮らしを送れていたと思う。スネ夫ほどではないにしても、しずかちゃんの家庭ほどの生活レベルはあった、ということだ。いわば、絵に描いたような中流家庭。一日に何回シャワーを浴びても、それを咎められるようなことはなかった。
ただ、誤解があってはいけないので明言しておこう。そんな中流家庭においても、「お金がなくなることへの不安」は常に渦巻いていた。
たとえば、家族旅行から帰ってきて家で荷解きをしている最中、父は必ず「さあ、これでうちの貯金はカラになった。明日からはおかずの数を減らして節約しなきゃな」と冗談とも本気ともつかないトーンで、家族たちに財布の紐をしめることをゆるやかに要求してきたりした。車の買い替えの際には、母はにこやかに「さあ、これで我が家にお金は一銭もない!」と宣言し、クリスマスが終わったあとには「うちはもう貧乏だから、来年からはサンタさんは来ないかもね」と謎の脅しがかかったりもした。
いま思えば、父も母も一定レベルの生活をキープするために、必死だったのだろう。だから、少しでも家計に「揺れ」のようなものが生じると、心に平穏を保つため、不安を子どもたちに吐露していたのだと思う。それはいわば、愚痴のようなものだ。
ただ、その両親の愚痴は、そのまま私にとっての「呪い」へと変換された。
いまのこの生活を保つためには、「お金はいつかなくなる」という不安と常に戦ってなきゃいけないんだ。
「お金はいつかなくなる」という現実に対峙するための手段は、真っ当に労働を続けること以外には存在しないんだ。
「お金がある」という状態こそが善で、「お金がない」という状態こそが端的に悪で。そして善を守るためには、どんなに神経がすり減ろうとも悪を近づけないようにしなくてはならないんだ。
そんな「呪い」に縛られたまま、私は大人になってしまった。母が「ザマス」を語尾に付けていないばかりに。
人生ゲームと「人生」は違う
おそろしいことに、その「呪い」の効能性は実に抜群だった。
お金がなければ、なにも始まらない。なにも始めてはならない。そんな呪縛に囚われた私は、二十歳そこそこの頃から、せっせと労働を始めた。同い年の友人たちは大学などで青春を謳歌していたが、私はとにかくアルバイトに精を出して、小銭を蓄えることに邁進していた。おそらくこの頃、私の口座には同世代の平均貯金額の三倍ほどのお金が横たわっていたと思う。しかし、私は毎日のように空を仰ぎ、こう呻いていた。
「ああ、お金がない」
友人たちにそれを聞かれると、「なに言ってるんだ、けっこう貯金してるくせに」と揶揄されたりしたものだが、いやいや、それは大きな間違いだ。私がお金を持っているのではない、キミたちが持ってなさすぎるのだ。こっちは青春の時間を悪魔に差し出し、代わりに小銭を得ているのだ。キミたちは、不安じゃないのか。そう抗弁すると、友人たちは明らかに同情めいた瞳でもって、こちらを眺めてきたりした。
だいたい、アルバイトで蓄えられる額など、たかが知れている。桁が劇的に増えることなど、あるはずがない。おかしい。人生ゲームだったら、序盤のほうですでに「弁護士」とか「タレント」などの職を得て、「給料日」のコマを通過するたびにけっこうな額面のお札を手にすることができるのに。
人生ゲームと人生は違う。そんな薄味の知見を得つつ、さらなる小銭を求めて、私はバイト時間を増やしていった。それはまるで、自分で自分をカツアゲしているような季節だった。おい、ちょっとジャンプしてみろ。まだチャラチャラ、音がしてるじゃねえか。
ワンパターンすぎる経済
こうして地道にお金を蓄えることばかりに夢中になっているうちに、気づけば私の青年期は終わり、そしてどういうわけだか、貯金額は人並以下になっていた。
労働にばかり精を出しているうちに、何度か身体を壊しかけた。一緒に働いている人たちに迷惑はかけられないと、仕事を休む。仕事を休めば、自ずと収入はなくなる。だから、貯金を切り崩すよりほかに手はなくなる。こうして「貧乏」を経過しながら療養し、ようやく労働に復帰できるようになる頃には、雀の涙サイズの蓄えしか手元には残っておらず、だからまた小銭を口座に放り込むために、働き続ける。以下、繰り返し。これでは貯まるものも、貯まらない。
「貧乏」の状態に身を置いている時、「お金の呪い」はいよいよ怪炎を上げてくる。どんな時、どんな場面であっても、お金のことしか考えられない自分が、そこにいる。
たとえば、千円カットの店で髪を切ってもらっている時、床に散乱する自分の毛髪を眺めているうちに、「なぜこれを売ることができないのだ……」などと悶々としてきたりする。映画『レ・ミゼラブル』の冒頭シーンにおいて、貧に窮した女性が髪の毛や奥歯を売ったりしていたが、あんな感じの「自分のパーツを売ってもいい」時代、カムバック!などと本気で思ったりする。しかし残念ながら、ここは中世ヨーロッパではなく、現代日本である。ああ、無情。レ、ミゼラブル。
お金のことばかりに思考が囚われていると、だんだん、お金に対して腹が立ってきたりもする。だいたい、お金って、種類が少なすぎないか。一円玉、五円玉、十円玉、五十円玉、百円玉、五百円玉、千円札、二千円札、五千円札、一万円札。以上がお金のオールスター。いや、あまりにも少なすぎる。ポケモンだって八百種類以上いる時代だぞ。たとえばミュウみたいな感じで、十万円札が急に手に入れられるようなチートがあったって、いいんじゃないのか。百万円札が気づいたら財布に入っているようなバグが起きても、いいんじゃないのか。
おい、経済。ワンパターンでやりすぎなんじゃないのか。
こんな感じで、貧に溺れれば溺れるほど、お金に対する認知は歪んでいく。それはまさしく不健康な状態で、しかしどうすれば健康的になれるのかも分からず、私はため息を吐きながらも、妄信的にまた労働へと手を染めるしかなかった。
小石拾いの招待状
さて、月日は過ぎ、ある年の春。私はやっぱり、お金に困っていた。
働けど働けど、我が貯金額は明るくならざり、じっと残高を見る。心の石川啄木を嘆かせながら、そして「お金の呪い」に縛られながら、私は今日も窮屈に生きていた。
そんな折、友人から遊びの誘いがあった。
「地方の河川に、小石を拾いに行かないか」
人がお金の不安に頭を悩ませているというのに、なんて能天気な誘いなんだ。「小石を拾う」って。それって、小学三年生が放課後の校庭でやる遊びではないか。戸惑う私に対して、友人の押しは強かった。
友人は野外活動を嗜んでおり、休日のたびに海や山へと足を運んでいるのだが、最近夢中になっているのが「石拾い」で、地味なアクティビティに聞こえるかもしれないが、いや実際地味なアクティビティなんだけど、一度やればきっとお前もその楽しさに目覚めるはずだ、と説得してくるのである。初心者でも「よい石」がたくさん拾えること請け合い、らしい。
「よい石」って、なんだ。ダイヤモンドの原石とかか、と質問すると、「いや、どこにでもあるような普通の石だ」と答えられてますます戸惑ったが、最近はお金のことばかりに時間と心身を費やしすぎていて、辟易としていたタイミングだ。たまには無意味な遊びに没頭するのもいいだろう。そう思い直した私は誘いを了解し、次の日曜日、その指定の河川へと向かった。石を拾うために。
マイ石を自慢したい
楽しい。なんて、楽しいんだ。
それが、初めて石拾いをしてみて抱いた、率直な感想だった。
その河川の岸は、たくさんの小石によって形成されていた。もちろん、それは「宝石」や「鉱石」のような、わかりやすい美しさを提示している石ではない。一見、それはどこにでもある石ばかりだし、二見しても三見してもそれはどこにでもある石ばかりだ。でも、「この中から自分のお気に入りの石を見つけよう」という意識で地面を眺めているうちに、「お、この色はちょっと好きかも……」「この石の形、面白い……」などと、小石たちに対して不思議な愛着が湧いたりするのである。
自分以外の全員にとっては価値がない石だが、自分にとっては価値のある石との出会い。「石拾い」とは、自分と、自分の内なる価値観とを交差させる、観念的なマッチングアプリであったのだ(なにを言っているのかは、自分でも不明)。
いやー、いいじゃないか、石拾い。カラオケやボーリングなどの屋内型の遊びでは決して味わうことのできない静かな興奮と充実感が、そこにあった。しょぼい遊びだけど、でも、そのしょぼさがいい。ああ、来てよかった。友人よ、誘ってくれてありがとう。
拾った小石たちは百個以上になった。それらを陽が落ちた川岸で取捨選別し、二十個ほどに絞ってズボンのポケットに詰め込んだ。鉱物として価値があるものではなく、そしてどれも地味でくすんだ色合いをしてはいるが、私にとっては「一期一会」の中で出会った、大切なマイ石たちである。
友人と別れ、帰りの電車の中でそれら小石をポケットから取り出し、ひとりでうっとりと眺める。
うーん、誰かにこの石たちを自慢したい。ふと、そんな欲求に駆られた。しかし、私にはスネ夫ばりに「どうだい、この石。なんかいいだろう」と自慢できるような、のび太的な相手はいない。
と思っていたら、ひとり、頭に浮かんだ顔があった。
遠い親戚に、御年90歳になる、善一さんというご老人がいる。彼は自宅で骨董商を営んでおり、古い書物やら壷やらに囲まれながら暮らしている。そんな善一さんの自宅に何度か遊びに行ったことがあるのだが、たしか彼の書斎のガラスケースには、たくさんの石が並んでいた。きっと石を愛でることをひとつの趣味としているのだろう。彼なら、今日私が拾った石が「よい石」であることを、わかってくれるのではないだろうか。
そう思いついた私の足は、気づけば善一さんの自宅へと向かっていた。
善一さんからの贈り物
「おお、いいね。これは山みたいな形をしていて風流だ。お、こっちは船のような形をしていて、これも面白いね……」
私の拾ってきた石を書斎のテーブルの上に並べた途端、善一さんは顔を綻ばせ、石の世界へと没入してしまった。思っていた以上に、善一さんは石好きのご老人であった。私が「ほら、この石、気持ちいい手触りをしてるでしょ」などと自慢を投げかけても、適当なリアクションが返ってくるだけで、とにかく目の前の石たちを形で分類することに夢中になっている。
善一さんの書斎を見渡すと、ガラスケースにはたくさんの石たちが並んでいる。翡翠や蛍石などの鉱石や、化石、それに石を中国の山水画に見立てた置物など。聞けば何十年もかけて自分で採掘したり、マーケットで買ってきたりしたコレクションであるという。善一さんの「石好き」は、年季が入っているのである。
石の見た目の分類がひと段落つくと、「まさかキミが石に興味のある者だったとは……」と善一さんは嬉しそうにお茶を差し出してきた。
「あ、いえ、べつにすごい興味があるわけではなく、今日たまたま石拾いに誘われて、ちょっとだけ石の面白さに気づいただけで……」
しかしそんな私の小声など善一さんは聞いてはおらず、いそいそとどこかの部屋に消えたかと思うと、新生児くらいのサイズ感の石を持って戻ってきた。
「はい、これ。生前贈与。『珪化木』っていう、まあ平たく言えば樹の化石ね。私もさ、そろそろ死ぬ前の整理をしなきゃいけないと思ってたところだったから。この石たちもどうしようかと思ってたんだけど、いやいや、キミみたいな石が好きな親戚がいてよかった」
……え?
「まあ、ゆっくり譲っていくことにするよ。とりあえず、今日はこの『珪化木』ね」
私は、思わぬ展開にうろたえた。ただ拾った小石をちょっと自慢するはずが、この書斎に並ぶ石たちの所有権を、なぜか譲り受ける展開になっているではないか。なんだ、これ。「小石で訪れ巨石を得る」などという、新しいことわざが誕生した瞬間なのか。
私は呆然としながら、善一さんの家をあとにした。たぶん15㎏はある、「珪化木」を抱えながら。
「珪化木」の閃き
善一さんからいただいた「珪化木」は、ひとまず自室のPCの横に飾ってみた。う、うーん。収まりがいいような、ものすごく悪いような。
とにもかくにも、この石をむやみに処分することだけはできない。だって、これは善一さんが私に託した形見分けなのだ。いずれ善一さんが亡くなった時、私はこの「珪化木」を善一さんだと思いながら大切にしなくてはならないのである。……この石、色んな意味において、重い。
私は「お金がないことの不安」に常時悩まされているのに、そのうえ、「石があることの重圧」にまで悩まされなければならないなんて。人生とは、わからないものである。
そういえば、善一さんはこの石をマーケットで買ったと言っていた。もしかして、これ、売るとこで売ればけっこうな高値が付く、貴重な石なのでは?もしそうだとすれば、話は変わってくる。ガラスケースの石たちを譲り受けることだって、やぶさかではなくなる。
急に色めき立ち、ネットで情報を探る。オークションサイトやメルカリなどに、相当な数の「珪化木」の出品がある。
しかし、期待からは外れ、「珪化木」はそこまで市場価値のある石ではないようだった。大きいものでも、だいたい千円から三千円くらいで購入できるとのこと。私は落胆し、PCを閉じ、「珪化木」へ再び目をやる。
(まあでも、こんな無骨な石でも、三千円くらいの価値が付いたりするんだなあ……)
(ていうか、石の値段なんて、欲しい人の心持ち次第だったりするんだろうなあ……)
(たとえば、今日拾った石も、タイミングによっては、売れたりして……)
(…………、…………ん?)
小石たちを、売ってみてはどうか、自分。
そんな閃きが、急に現れた。
「なんの変哲もない石を売る」という行為のしょぼさ
その日から、私はあの河川で拾った小石たちをポケットに入れて行動するようになった。仕事などで出会う人たちにタイミングを見計らって、「どうです、この石。私が拾ったんです。言い値でよいので、買いませんか?」とセールスするためである。
最初はメルカリなどで売ってみようかな、と思ったのだが、それではなんだか徒労に終わる予感がした。
これは、ただの石なのである。どこにでもあるような、逃げも隠れもしない、ただの小石なのである。
ネットの個人売買サイトなんかでは、クワガタやキノコ、流木なんかを売ったりしている人たちをたまに見かけるが、あそこまでのポテンシャルを、この小石たちは秘めてはいないのだ。これは宝石としても、鉱物としても価値のない、いますぐ誰でも拾うことのできる石なのである。だからメルカリで売るとしても、商品紹介の欄になんて書いていいのかわからない。「私が河川で拾った、少なくとも私にとってはよい石です!」と謳ったところで、誰が購入するというのか。私なら買わない。
石の魅力を伝えるためには、きっと直談判にかぎる。
この石はどこで拾い、そしてどの部分に価値を見出して持ち帰ったものなのか、対面式であれば私は事細かに、また熱を込めて、説明することができる。その時、初めてこの小石たちの価値は出現する。そんな思いから、「小石たちを同行させつつ機会を伺う」という販売形式を試してみることにしたのだ。
しかし、思っていた以上に、「どうです、この石」などと投げかけるタイミングは、日常の中にはなかなか存在していなかった。よく考えれば、当たり前だ。何気ない会話の中で、急に「ところで私はいま、石を売っているんですが……」とポケットからジャラジャラ小石を取り出す男がいたら、誰でも今後の付き合いを考えるはずである。私だって、むやみに「ヤバイ奴」認定される事態は、避けたい。
スムーズに石をセールスする機会は訪れないまま、それでも私はいつかやってくるかもしれないその時を待つために、常にポケットの中に小石たちを控えさせていた。
どうして私は、「石を売りたい」という衝動に駆られたのだろうか。
それはつまるところ、「お金の呪いから解き放たれたい」という切実な願いが、そこにあったからなのだと思う。
石は、無料コンテンツだ。どこにでも、転がっている。私たちはそれを、テイクフリーで持ち帰ることができる。
その石に留まっている価値を解放し、それをお金に換えることができたら。
それはすなわち、「石≒お金」という図式が現れたということになり、ワンパターンかと思われた経済に、新たなパターンをもたらすことになるのではないか。そして私はもう、お金で頭を悩ますことはなくなるのではないのか。
そして、「なんの変哲もない石を売る」という行為のしょぼさが、私にとっては救いのようにも思えたのだ。
「お金はいつかなくなる」という不安と対峙するためには、真面目に労働するしかない。そんな呪いを鮮やかに打ち消すほどに、「石を売る」という行為は、実に不真面目で、そしてまともではない労働である。ポケットの中にずっと石を忍ばせている図も、たまらないほどに、しょうもない。そのしょうもなさに、私は救いを求めた。
私はポケットの中の石に願いを託していた。頼む、売れてくれ。そして私を、「真面目に労働するしかない」の呪いから、解いてくれ。
李さん一家の足音
石をポケットに忍ばせるようになって、二週間が経った。まだ、誰にもセールスをかけることはできていなかった。
「石を売りたい」。その祈りにも似た欲求だけが、自分の中で肥大していく。そんな自分が、なにかに重なった。
ああ、そうだ、『無能の人』だ。
つげ義春の作品『無能の人』には、生活に困窮し、ついには河川敷で石を売る漫画家が登場する。主人公であるその漫画家に対して、耐えきれなくなった妻は泣きながらに、こう訴える。
「お願いだから、こんなことはやめてよ……どうしてこんなことをするのよ……漫画を描いてよ!」
どうしよう、いまの私は、そのまま『無能の人』ではないか。つげ義春の世界の人ではないか。このまま私は、石が売れずに中古カメラ販売とかに手を出したり、清潔な商人宿に泊まろうとしたら貧乏くさい宿に泊まってしまったり、李さん一家に二階に住まれたり、川辺で「花だ!紅い花だ!」と叫んだりすることになるのだろうか。
まずい、私はいまや、移動式『無能の人』である。このまま売れなかったら、つげ的世界、まっしぐらである。
よし、あと三日。あと三日間のうちに小石が売れなかったら、もうこんなことはやめよう。ポケットの小石たちは、ジップロックに移してタンスの中に静かに保管しておこう。
そう思っていた、矢先のこと。
とある打ち合わせで、同い年の女性と出会った。その人は旅行やキャンプが趣味で、最近もボルネオのジャングルまで足を伸ばしたということが判明した。なかなかにアクティブな野外活動を展開している方らしい。
私もかつてボルネオを訪れたことがあったので、打ち合わせ終わり、あそこにいる虫や鳥、それに哺乳類たちがいかに魅力的であるかについての雑談に花を咲かせた。すると突然、彼女はこんな質問を私に投げかけてきた。
「最近、どこかで野外活動はされましたか?おススメがあったら、教えてください」
……来た。
時は、来た。
よし、ここだ。このタイミングを逃してなるものか。
そして私は、一気呵成に喋った。最近、友人に誘われて河川岸まで石拾いに出かけたこと。そのアクティビティが思いのほか、楽しかったこと。たくさんの「よい石」を持ち帰ることができて、非常に満足したこと。間をつくらず、リズミカルに、簡潔に、しかし熱を込めて、喋った。
「へー! 石拾い! やったことないけど、楽しそうですね!」
食いついた。ここだ。私は間髪入れずに、ポケットから小石たちを取り出し、そしてずっと用意していたセリフを述べた。
「で、その時に拾った石たちがここにあるんですが、いまならこれを、ご希望のお値段でお分けしておりまして……」
しばしの間が流れた。それから相手の女性は、こう叫んだ。
「……うそでしょ!?」
引かれたかな、と思ったら、破顔一笑だったので救われた。
えー、マジー? ずっと小石を持ち歩いてるんですかー? ウケる―。あ、でもこの石、ちょっと可愛いかも。買います買います。二百円でいいですか?
そう言って女性は、私の手のひらからひとつ、渋い色の石を購入してくれた。
石が、小銭に化けた。経済に、バグが発生した。チートが、ミュウが、発生した。
熱に浮かされた「無能の人」
初めて石が売れたその帰り道、私はなんだかスキップしたいような、軽やかな心地に包まれていた。
歩くたび、ポケットの中の売れ残り分の小石たちが「ジャッジャッ」と音を立てる。その音が、なんだか心強かった。
やろうと思えば、石は、お金に換えることができるのだ。心強い。急に広大なバックヤードを手に入れたような、心強さだ。
このまま、ずっと石をポケットに入れていよう。きっとそれは、私をピンチからゆるやかに救ってくれるはずだ。
石が売れたことで、私は「お金の呪い」から垂直に解放されていた。
真面目に労働しなくても、いいのである。ポケットから小石を出して売るような、不真面目な労働を展開しても、いいのである。おそらく、きっと、いや絶対。
お金にばかり腐心しなくても、いいのである。石をポケットに入れておけば、お金の代役を果たしてくれるのである。絶対、きっと、いやおそらく。
いっそ、どこか駅前に屋台でも出して、本格的に石を売ってみようか。
私の中の『無能の人』が、加速していく。
石は、この世に無限にある。「この小石は三人用だからのび太はダメ」などと言う権利は、誰にもない。
石が売れたことの高揚感は、私を喧嘩腰にさせてもいた。喧嘩の相手は、もちろん「お金」である。
なんだよ、お金。いままで散々、私にしつこく絡みついてきたくせに、けっこう簡単なことで音を上げるんだな。もしかして、お前って、思っていたよりもたいしたことないやつなのではないか?
「お金があること」が善で、「お金がないこと」が悪であると、ずっとそう思い込んでいた。それはつまり、お金の正体を「天使か悪魔」だと認識していた、ということだ。
でも、このたび、お金と小石が換わる瞬間を見た。そして、小石の正体は、少なくとも「天使か悪魔」ではない。
ということは、お金の本当の正体は、もっと別のところにあるのではないか?その本当の正体を掴んだ瞬間、私は「お金の呪い」から永遠に解放されるのではないか?
そうだ、石を本格的に売ってみようではないか。なんの変哲もない、地味でしょぼい小石を大真面目に売ることで、お金の実の正体を暴いてやろうではないか。
私はすぐさまホームセンターに向かい、木材を購入した。
そして熱に浮かされたまま家へと帰り、カウンター型の屋台をつくった。
小石が売れてしまったばかりに。「どうしてこんなことをするのよ……まともに労働してよ!」と私に訴える人は、誰もいなかったばかりに。
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