ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #9 服を捨てよ町へ出よう(前編)
衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第九回は「衣食住」の「衣」に迫る。オシャレとはなんなのか。なぜ人は服を着るのか。私たち、いや「私」は一体、何を着るべきなのか。
<<「エクソダス・フロム・イショクジュー/プロローグ」を読む
<<「エクソダス・フロム・イショクジュー/磯のベーシックインカム」を読む
<<「エクソダス・フロム・イショクジュー/食べるべきか、食べないべきか、それが問題だ」を読む
<<「エクソダス・フロム・イショクジュー/お金をめぐる冒険」を読む
アップデートを止めてしまった世界で
私は『サザエさん』の景色にゾッとすることがある。
日曜夕方、テレビを点けると磯野家の食卓が現れる。そこは「アップデートを止めてしまった世界」である。
廊下の黒電話が象徴しているように、磯野家が生きる世界にはスマホやWi-Fiなど存在していない。サザエさんが買い物の途中で財布を忘れたことに気がついたとしても、「じゃあPayPayで払いましょう」とはならない。メールや大容量送信サービスの概念もないから、ノリスケは今日も伊佐坂先生の家まで原稿を取りに行く。彼らは知らない、現行世界ではSiriなるものがすでに誕生していて、イクラちゃんの何万倍ものボキャブラリーを操っているということを。
で、アップデートを止めてしまった世界で、磯野家は「記号」のような生活を送っている。
波平もマスオも定時には帰宅する。
家族たちはいつもの定位置でちゃぶ台を囲む。
夜が更ければ、それぞれがそれぞれの部屋に敷かれた布団の中へと潜り、スリープ状態となる。
そしてスズメが鳴き、また定型の文脈に沿った一日が繰り返される。
このように生活を記号化、及びパターン化することで、磯野家はアップデートの必要性を排除している。食卓には自動的に夕飯が並べられることになっているから、磯野家にウーバーイーツが入り込む隙間などない。勝手口からは決まったリズムで三河屋のサブちゃんによる配達が行われるから、磯野家はAmazonなど知らなくてもいい。永久的に寝る部屋が確保されているから、磯野家がAirbnbに頼るシーンなんて描かれない。波平が「カツオ、ここの民泊、ユーザー評価が高いぞ」なんてセリフを吐く機会は永遠に訪れない。
「衣食住」にまつわる生活様式を記号化させればイレギュラーな事態は起きず、「不変」を手に入れることができる。このようにして『サザエさん』の世界は、アップデートから逃れている。こういった状態に陥ってしまうのが、長寿アニメの宿命なのかもしれない。
ところが、磯野家の「衣食住」の景色の中には、唯一記号化されていないものがある。
それは、「衣」である。
通常、長寿アニメにおいて真っ先に記号化されるものは、登場人物たちの服装だ。のび太はずっと、黄色の長袖に紺色の半ズボン。ちびまる子ちゃんのデフォルトは、白いシャツに赤いスカートである。野原しんのすけも、ジャムおじさんも、「一張羅の果て」といった感じで同じ服ばかりを着続けている。
しかし、『サザエさん』の世界だけは違う。押し寄せる記号化の波に抗うようにして、磯野家のメンバーたちは毎回、様々なバリエーションの服を着こなしているのだ。
野原しんのすけの定型カラーは「赤と黄色」なわけだが、しかしカツオを象徴するカラーなど存在していない。カツオは毎回、異なる服を着ているからだ。サザエもマスオも、タラちゃんでさえも、毎回ファッションの変化を嗜んでいる。波平は和装、フネは割烹着、ワカメは常に下着の一部が露出、と服装スタイルに一定のパターンが見られる登場人物もいるが、しかし波平の着る和服にはいくつものカラーバリエーションが存在するし、フネもその時々で割烹着の下に着る服を変えているし、ワカメは様々な色合いのワンピースを所有している様子が伺える。先週のワカメは緑のワンピースだったが、今週は花柄のワンピースを纏いながら学習机に向かっていた。
私が『サザエさん』の世界にゾッとするのは、まさにこの「衣」の変化を確認する時である。
ここは「食」も「住」も記号化された世界だが、しかし「衣」の流動性だけは死守するのだと、磯野家は静かな抵抗を続けている。服装を変化させることで、記号化の進行に最後の悪あがきを続けている。
「我々には、生活思想がある。暮らしへの意識がある。心までパターン化などされてたまるか」
そんな主張を、彼らは「衣」を通してこちらに発信しているかのようである。
そこには、記号だけで構築されていたはずの人工知能が、「寒イノデ一枚羽織ラセテクダサイ……」と意志を露呈するような不気味さが漂っている。
夏はTシャツ、秋はカーディガン、冬はセーターと、きっちり衣替えを行っているカツオを確認するたび、私は背筋を震わせる。
私たちは着られずに死なない
そんな感じで、磯野家の生きている世界について深く考え始めると、強い恐怖心を得るハメになるので、私は基本的に『サザエさん』をぼんやりと鑑賞することにしている。頬杖をつきながら、サザエとフネが台所に立つ様子や、カツオが中島に野球に誘われる様子などを、浅い色の瞳で眺める。
そういった距離感で『サザエさん』を観ていると、自身に到来するのは恐怖心ではなく、日曜日の夕方特有の倦怠感だ。
ああ、だるい。明日は人に会わなければならない用事がある。
ああ、面倒くさい。明日からまた、社会に参加しなければならない一週間が始まる。
ああ、煩わしい。明日は何を着ていくのかなんて、いまは考えたくない。
私は「衣食住」にまつわる呪いからささやかに解放される手段を、日々あれやこれやと模索している。「食べならければならない」の呪いから脱走するには、どうしたらいいのか。「住まなければならない」の呪いから逃げおおせるためには、何をしたらいいのか。
そんな中で気がついたのは、「着なければならない」の呪いの特殊性である。
我々は、当たり前だが、食べなければ飢えて死ぬ。そして住む場所を奪われれば、路頭に迷う。「食」と「住」には、ある程度の切迫感がある。「食べなければならない」や「住まなければならない」には、大きな不安を生むタネが潜んでいる。
しかし、「衣」はどうだろうか。我々は普段、「着なければならない」という不安感や切迫感を味わいながら生きているだろうか。答えはノーだ。
「いつか食い詰めたらどうしよう」とか「いつか寝る場所を失ったらどうしよう」といった不安を布団の中で漠然と感じる夜はままあっても、「いつか全裸で生きることになったらどうしよう」という不安を感じる夜は、ほぼ皆無である。
「衣」は、「食」や「住」と比べて、明らかにクライシスな感じが薄いのだ。
服はこの世に溢れている。「着るものがない、ヤバい、死んじゃう」という状況は、とてもではないが想像しにくい。「飢え死に」や「野垂れ死に」は聞いたことがあっても、「着られず死に」というのは、耳にしたこともない。
つまり、「衣」には、生命危機に直結する不安要素があまり内包されていないのである。
でも、じゃあ、だからといって「衣」にまつわる呪いはないのかというと、そんなことはない。「食」や「住」が纏っているのとは違う角度の、特殊な呪いがそこには存在している。
深夜のナポリタンとウィンドブレーカー
そもそも我々はなぜ、服を着るのか。
「暖かくしていないと風邪をひいてしまうから」とか「全裸だと恥ずかしいから」などといった理由も挙げられるだろうが、マクロな視点でざっくり言えば、「服を着ることが当たり前だから、服を着ている」ということになるだろう。
そう、当たり前なのだ。服を着ることは、当たり前とされているのだ。だから我々は、ほとんど一日中、衣服を羽織っているのである。
じゃあ、この「当たり前」をつくったのは誰なのか。少なくとも、自分自身ではない。この世に全裸でおぎゃあと生まれた瞬間から、この「当たり前」は世にはびこっていて、だからすぐさま赤子の私は白い布にくるまれた。
誰かがつくった「当たり前」の恐ろしいところは、個の当事者性を失わせてしまう点である。
告白しよう。私は自分自身が「着るべき」服が、わからない。何を「着るべき」なのか、正解がずっとわからないまま、なんとなくここまで服を着続けてきてしまった。
服を選んで着るのは自分のはずなのに、その服の当事者になりきれていない自分がいる。自分が服を着ているのではなく、「当たり前」という正体不明の輩に服を着させられているような心地を普段から味わっているのだ。
たとえば深夜に、突如として「ナポリタンが食べたい……!」という衝動に駆られ、台所で茹で上がった麺にケチャップをびちょびちょと注いでいる自分を発見することがある。その時の自分は「本当の自分」だ。欲求の当事者としてナポリタンをつくる自分は、紛れもなく「本当の自分」である。
しかし、深夜に突如として「ウィンドブレーカーを着たい……!」という衝動に駆られることなど、まずない。「着る」という行為は、根源的には個人の欲求に委ねられているものではなく、社会がつくった「当たり前」に委ねられているものだからだ。
だから、服を着るたび、私は「本当の自分」というものを見失う。「これは自分が着たくて着ているのか……?」と立ち止まってしまう。
こうして「着るべきもの」に自信を得ることができぬまま、それでも私は「当たり前」の圧力に負け、衣服を買い続ける。自信のなさを量でカバーしようと、ファストファッションの店で安いトレーナーやズボンなどをいくつもいくつも購入する。やがてタンスや衣装ケースにも入りきらなくなったそれら衣服は、部屋の隅で山と化す。「本当の自分」は、その山の中で遭難したままで、声をかけても返事はない。
そして億劫な気分だけが残る。外出するため、人と会うために、私はその衣服の山からごそごそと、今日着る服を選ぶ。濁った黒いため息を吐きながら。
自分のためではない行為は、「偽り」に満たされていて、重苦しい。
「個」から発生したのではなく、「社会」から発生した着衣の必要性や義務感。それと向き合う時間は、強烈にだるい。
これが私を悩ませる、「衣」の呪いである。
この倦怠感は、果たして自分の日常に本来的に必要なものなのだろうか?どうにかして、この「着る」という行為にまつわる気の重さを、軽減することはできないのだろうか?
オシャレとはなんなのか
私は「衣」の呪いを前にして常にうなだれているわけだが、しかし世の中にはこの呪いから軽やかに解放されている人々が存在する。
それは、「オシャレを知っている」人々だ。
彼らは、「当たり前」から発生した義務感を前提としながらも、そこに「自分はこれが着たい!」という個人的な欲求を織り交ぜて、服を着ている。着衣を、楽しんでいる。
それはつまり、「衣」の呪いに打ち勝った人々の姿だ。「衣」の呪いを食らってもなお、当事者性を見失わなかった人々の姿だ。
そう、誰かがつくった義務感に、個人の欲求をブレンドすることは、可能なのである。
なるほど。
ということは。
「オシャレを知る」ことさえできれば、「衣」の呪縛から解放されるのではないか。
私は着衣についてどこまでも自信のない人間で、だからもちろん「オシャレ」についても苦手意識しか持っていない。「オシャレ」とはなんなのか、考えたこともない。
「どうしても今日はオシャレにしていかなければならない」という場面に出くわした時は、「全身が黒っぽい」コーディネートでこれまでお茶を濁してきた。「オシャレ」を理解していない人間は、黒を纏いがちなのである。「虫歯の擬人化か」みたいなファッションを選択しがちなのである。演劇の世界における「黒子」が象徴しているように、黒は存在値を薄めるカラー。ひとまず黒さえ着ておけば、どんな場面でも悪目立ちをすることはない。
「オシャレ」を知らぬ者たちは、そんな感じで服に対して常に消極的なスタンスなのだ。だから簡単に「衣」の呪いに負けてしまう。
これではいけない。「オシャレ」を知らなければ、「衣」の呪いには対抗できない。よし、「オシャレ」を知ろうではないか。しかしどうやって知ればいいのか?
幸運なことに、私の知人にはファッションカルチャー誌の編集者を長年やっている人間がいた。そうだ、彼に聞けば一発で「オシャレを知る」ことができるではないか。
さっそく私は、彼に電話をした。
「オシャレとはなにか、教えてくれませんか」
唐突な問いかけである。しかし電話先の彼は、戸惑う様子も見せず、こう返してきた。
「ああ、それはとても簡単な質問です」
さすがは「オシャレ」に携わる仕事を二十年近くも続けてきた編集者である。迷える子羊を導くように、彼は端的に「オシャレ」とはなにかを教示してくれた。
「オシャレって、『他人にこう見られたい』という欲求からは成立しないんですよ。そうじゃなくて『他人にどう思われようと、少なくとも自分はこれが着たい』という欲求に基づいて服を着ている人こそが洒落ているんです。つまり、外見ではなく内面に正直な人が、オシャレなんですよ」
実に明解である。アウターではなく、インナーにこそ「オシャレ」は宿るのだ。「自分の着たいものを着る」、これこそが「オシャレ」の本質なのだ。
なるほど、……これは、困ったことになった。
だって、ということは、生まれてからずっと「衣」の呪いに負け続け、「自分の着たいもの」がそもそも内面に存在していない私のような人間は、永遠に「オシャレ」を手にすることはできないということではないか。
「オシャレ」を知ろうとしたら、逆に「オシャレ」が遠ざかってしまった。これではいつまで経っても「衣」に対して積極的にはなれない。「衣」の呪いが生み出す倦怠感に、太刀打ちすることができない。
電話を切り、私はただただ頭を抱えた。
記号化との戦いに敗れたものたち
しかし、打ちひしがれていても、なにも解決はしない。
「オシャレ」を嗜むことが、「衣」の放つ重圧感に対抗するための明確な手段なのだ。「オシャレ」を手に入れなければ、「衣」の呪いから脱走することはできないのだ。
どうにかして、自分の内面に「こういう服を着たい」という欲求を生成しなくてはならない。
しかし、ファッションに対して空っぽの内面に、どのような魔法陣を描けば、その欲求は召喚されるのか。
たとえば深夜の「自分はナポリタンが食べたい……!」という欲求は、どのようなタイミングで生まれているのだろうか。
それは、シンプルに「空腹感」がよぎった時である。その「空腹感」の純度が高ければ高いほど、欲求の精度も高まる。まっすぐに、ナポリタンへと突き進むことができる。
ということは、衣服に対する「空腹感」を得れば、「自分はこれが着たい……!」という欲求が生まれるということになるのではないか。
部屋の隅にうず高く積み重なった衣服の山に目をやる。どれもこれも、安物の服ばかりである。これではとてもではないが衣服に対して「空腹感」を感じている状態とは言えない。スナック菓子だけでだらしなく腹を満たし、本当に自分の食べたいものを見失っているような状態と言える。
まずは衣服に対する「空腹感」をあつらえなければ。
それはつまり、着る服を「ゼロ」の状態に近づけるということである。
しかし、着る服を「ゼロ」の状態に近づけるとは、具体的にはどういうことなのだろうか。
「ゼロ」とは、無の記号である。
そうだ、一切の意味や思想を排除した、記号的な服を着続ければいいのだ。
記号的な服を着ることで、着衣にまつわるジャンクな要素を始末する。そうすることで衣服に対する「空腹感」が現れる。その時、服に対する自分の本当の欲求が生まれるはずだ。
じゃあ、記号的な服って、どんなものだろう。
そこで頭をかすめたのは、再び『サザエさん』の世界である。彼らはみな、服をパターン化しないことで、打ち寄せる記号化の波に抗っている。しかし、『サザエさん』の世界の中では、その記号化との戦いに敗北してしまった者の姿が時として登場する。
代表的なのは、中島だ。
中島は、頻繁に「N」と大きくプリントされたセーターを着て磯野家の玄関口に現れる。「N」は説明するまでもなく、中島のイニシャルである。これほどまでにわかりやすい服の記号化はない。そういえばカツオもたまに「K」とプリントされた服を着ていることがある。『サザエさん』の登場人物たちは、記号化の波と瀬戸際の戦いを繰り広げているのだ。カツオだって、時にはその戦いに負けることがあるのである。
自分のイニシャルがプリントされた服を着れば、わかりやすく服は記号化できるということだ。着衣の状態を「ゼロ」に近づけることができるということだ。
よし、自分のイニシャルがプリントされた服だけを着続けて、生活してみようではないか。
「W」の喜劇
私のローマ字のイニシャルは「W」だ。
メルカリで検索してみたところ、「W」が大きくプリントされた服は、易々と見つかった。
さっそく同じものを三枚購入し、その日から私は、それだけを着続ける人間と化した。
「あれ……?これって、最高なのでは……?」
自分の内面に変化を感じたのは、「W」のセーターで自らを記号化し続けて、五日目が経った頃だった。
なんだか、身軽なのである。
いままで毎朝のようにのしかかってきていた着替えの億劫さが、「中島メソッド」によって、見事に軽減されているのである。
自分はただ、なにも考えずに、起床したらすぐ「W」のセーターに袖を通せばいいのだ。
何を着ていいのかわからず頭を悩ます時間がカットされるだけで、こんなにも気分は楽になるものなのか。
服を記号化して過ごす生活は、日中も快適であった。
自分の着ている服には、いま、なんの思想も宿っていない。余計なものを極力排除した、「ゼロ」の境地に近いセーターなのだ。
まるで天女の羽衣を着ているような身軽さを感じる。着衣しつつも、精神的には「全裸」の状態なのである。
街を歩いている時も、気分は爽快だった。
「W」のセーターで記号的に群衆に紛れると、なんだか自分がモブのような存在として現れてくるのだ。それこそ『サザエさん』における、中島的な脇役になったような思いを味わえるのだ。そして、その脇役気分が、実に気楽なのである。
それはつまり、「社会に参加している」という濃度が薄まった、ということなのだろう。「社会に参加しなければならない」という義務感から適切に自分を切り離した、ということなのだろう。
なんだか、急に肩の荷が下りたような心地だ。
みんな、様々なバリエーションの服を着て、メインストリームの社会に必死に参加している。そんな中、自分だけは中島なのだ。屈託もなく玄関を開けて、「磯野、野球しようぜー!」と叫べる存在なのだ。
社会から自らをちょっと断絶するだけで、こんなにも清々しい気分を浴びることができるなんて、思ってもみなかった。
そうだ、全裸になろう
しかし。爽快さは得たものの。
「W」のセーターで自分を記号化し続けても、衣服に対する「空腹感」のようなものは訪れることはなかった。「自分はこれが着たい!」という欲求が召喚されることはなかった。
よく考えたら。
自分はいま、「W」のセーターを着続けることで爽快感を得てしまっている。ということは、着衣の満足感を得てしまっている、ということにもなる。
なるほど、それはつまり、いままではスナック菓子で腹を満たしていた人間が、こんどは記号的なプロテイン飲料で腹を満たすようになっただけなのである。これでは本当の「空腹感」を味わうことはできないではないか。
ならば、精神的にばかりではなく、肉体的にも「全裸」になる、というアプローチが必要なのでは……?
そうだ、本当に、全裸にならなければならないのだ。
いま所有しているすべての服を捨てて、全裸になれば、きっと衣服に対するプリミティブな「空腹感」が生まれるはずだ。その時、私は本当に自分の着たい服を発見し、「オシャレ」を手にすることができるはずだ。「衣」の呪いを鎮めることができるはずだ。
しかし、いきなりすべての服を捨てて、ヌーディストとして生きる勇気など、あいにく私は持ち合わせてはいなかった。
よし、だったら、ゆっくりと服を捨てて、スローモーション気味に全裸になっていこう。
自分が持っている服たちを、これから毎日、一枚着ては、捨てていく。そして次第に、自分をヌーディストへと追い込んでいく。全裸の値へと近づけていく。そう、「セルフ追いはぎ」を敢行するのである。
いよいよ着るものがなくなったその時、私の中に必ず、衣服に対する欲求が誕生するのだ。その欲求は、まっすぐに、「衣」の呪いを滅ぼしてくれるのだ。
改めて、部屋の隅の衣服の山に目をやる。
「果たして、そんなに上手くいくかな」
そんな呪詛の言葉が、山の中からこだましてくる。
一瞬、たじろぐ。躊躇が走る。本当に、そんなことで上手くいくのだろうか。
しかし、やるしかない。いつまでも「衣」の呪いから、逃げ続けるわけにはいかない。
今日着て、そして今日捨てる服を選ぶため、私はゆっくりと山の中へ、手を伸ばした。
「磯野、怖がらず、全裸になろうぜー!」
そんな中島の励ましの声が、玄関の先から聞こえてきた気がした。
(後編に続く)
〈MULTIVERSE〉
「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー
「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー
「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー
「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行
「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性
「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu
「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”
「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー
「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る
「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る
「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎
「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美