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HAGAZINE

「土へと堕落せよ」 ──育て、殺め、喰らう里山人の甘美なる背徳生活|東千茅との対話(後編)

我々はなぜ畔の草を刈るように人間を刈ってはいけないのか。里山の悪を綴った『人類堆肥化計画』を巡り行われた東千茅との対話、後編。

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死後に他のものに喰われることで初めて里山生活は完了する

 今、アクター、プレイヤーとして里山に参加すると言ってましたけど、里山における東さんはどういうアクターなんでしょう?  支配者として支配を試みるのか、あるいは末端構成員として片隅にいる感じなのか(笑)

 支配者ではないですね。仕事によっては支配者然と振舞うこともあるし、一時的にはそういう気持ちになることもあるんですけど。自分は人間なので、道具もいっぱいあるし、色んなことをできますから。ただ、さっきも話した通り、やっぱりそれを自分がやっていると言うより、やらされてる感がすごくあるんです。他の生き物なのか里山という場所自体にやらされてるのかは分からないんですけど。だから、なんて言うのかな、支配者的な喜びをたまに餌として差し出されてるんですけど、結局は手のひらの上で踊らされてるみたいな感じが強いですよね。

 サービスのSと満足のMみたいな話ですね。一応は「ご主人様」と呼ばれてはいるけど、角度を変えれば「奴隷」の快楽にご奉仕している、みたいな。

 そうそう(笑)

 さっきジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』の話を少ししましたけど、あの本で重要な概念の一つが「ドムス化」なんですよね。ようは家畜化ってことですけど、スコットはこれを双方向的に捉えてるんです。たとえば人間と犬とが出会った時、犬が人間のドムスと化した一方で人間もまた犬のドムスと化したんだ、と。要は相互ドムス的な関係です。これは人間以外の異種に主体的なアクターとしての資質を見るということでもあると思うんですが。

 

 

 僕もそれと似たような思いがありますね。それこそ鶏で言えば、僕は草刈りをしながら彼らの餌になるイナゴをしょっちゅう捕まえているんですけど、まんまと働かされてるなというか、そんな感じがいつもありますし、ただそれをやらされてるということが嫌ではないんですよね。むしろそのイナゴがどれだけ獲れるのか、みたいな楽しさもあるし、実際、イナゴを一匹一匹手で捕まえていくのはめちゃくちゃ面白いんです。だから、お互いにうまみを提供しあいつつ、お互いに働かせ合ってるみたいな感覚がありますね。

ただ、もちろん今の工業型の畜産業とかになってくると、また話は違ってくることになると思いますけどね。僕が感じているような対称的で共犯的な関係とはかなり違う関係性が養鶏場とかにはあると思うんで。養鶏場の鶏と人間の関係までも飼い飼われる関係だって言ってしまうと、これはちょっと違うかなと思う。そこは分けて考えたいところですね。

 そうですよね。機械的に管理するというプロセスには、サイヤ人的な戦いの享楽がない気がします。ただ、東さんと鶏の関係においても最終的にはその鶏を東さん自身が喰らうわけじゃないですか。イナゴをたんまり与えて、奉仕した相手を最終的にぶっ殺す。昨日愛したやつを今日殺すってさっき言ってましたけど、その時の殺しの感覚ってどんな感じなんです? 素人丸出しの質問で恐縮なんですけど(笑)

 なんかね、これは拍子抜けかもしれないですけど、殺す瞬間は、不思議とその、特に感情がないんです。ポジティブな感情もネガティブな感情もあまりないというか、割とさらっと殺してますよね。今日その鶏を潰すってなったら、あまり逡巡もしてられないっていうか、殺す段になって迷うと、かえってちゃんと殺せなかったりするかなとも思うんで、まあサクッと殺ってます。殺す高揚感はもちろんありますけど、それだけというか。でも、そうやって殺して、捌いて、料理して、食べる段になると、やっぱり経てきた日々が偲ばれるというか(笑)。だからやっぱりスーパーで買ってきた鶏の肉よりも美味しく感じますね。精神的に美味しい。実際にスーパーの肉よりは、生育日数も長いし、いっぱい歩いてるから筋肉も発達してるんで、普通に味もこっちの方が美味しいと思うんですけど、まあそこにね、そういやこいつには生まれた時から色々とやってきてあげたな、みたいな記憶も絡まり合って、それがまたいいスパイスになるんです。そういう時の悦びに、悲しみや憐れみみたいな感情が入ってくる余地は、基本ないんですよね。

 なるほどなぁ。それはもともと東さんが持ってた気質、死生観に基づく感慨なのか、それとも里山暮らしの中で当然そのようになってたのか、気になりますね。それこそ都市的な暮らし、というか、自分で殺生をすることなくパッケージングされた商品だけを食べている日々を送っていると、基本的に死をあまり意識する機会がないわけですよね。一方で動物は可愛い、植物も可愛い、さらに命は等しく大事、死はいずれも嘆かわしいっていうメッセージが大量にメディアからは発信されてて、そうなると、自分が愛着を抱いた対象を殺すということが残酷な悲劇でしかありえなくなってくるというか。東さんは里山暮らしを始めてから、実際に育て、殺め、喰らうというプロセスを日々体験しているわけですけど、それによって、命に対する感覚や死生観に変化はあったりしたのかなと思ったんです。

 どうですかねえ。なんか、こっちにくる前にどう感じてたかをもはや思い出せないところもあって(笑)。ただ、でも劇的に変化したという感じは僕はあまりないですかね。

 むしろ、しっくりきた?

 ああ、そっちですね。抵抗があるけどやらなあかんみたいな、そういう感じじゃ最初からなかったんで。おそらくこういうもんだろうと思っていて、実際にそれをやるようになったら、予測していた通りでした。ただ、予想していたよりもはるかに深い悦びがありましたけど。ああ、これを待っていたんだと。

 一方、今は僕らが喰らう立場からの話をしましたけど、もちろん僕らは喰らわれる可能性も持った存在でもありますよね。だからこそ、「人類堆肥化計画」なんだと思うんですけど、僕自身、すごくそこにはシンパシーがあって、というのも、ずっと火葬が嫌だっていう思いを漠然と持ち続けてきたんですよね。死んだら虫でも動物でも人間でもなんでもいいけどちゃんと喰われたいなっていう妄想がずっとある。それは倫理的にというよりも、喰われないとケリがつかないみたいな感覚でもあって、そうしないとケツの据わりが悪いというか、なんか気持ち悪いな、みたいな感覚なんですよ。そんな感じで、土葬、いや、葬じゃなくていいから、死んだら山なり森なり海なりにうっちゃって欲しいなと気持ちをずっと持ち続けてきたんですが、東さんの本を読んでそれは「堆肥になりたい」ってことだったんだなと、あらためて認識させられました。この自分自身もまた堆肥になる、喰らわれ、分解される存在であるという意識は、里山暮らしの中で生まれたものなんです?

 そうだと思います。日々、何かを殺すことが多いんですよね、必然的に。野菜にせよ、家畜にせよ、すでにいっぱい殺してるわけで、まあこれからも殺し続けるんですけど、そういうのを体感していると、いつか自分も同じ目にあうというか、それはもう当然のこととして認識するというか。なんか自分だけが死を免れるというか、殺されることはないという感覚には、むしろなかなかなりにくいですよね。辻さんがおっしゃった死んだら山に放っておいてほしいってのは僕もつねづね思っています。アメリカで遺体の堆肥化が合法化されたみたいな話を聞いた時にも「やっとか」って思いましたから。まあ、なかなか日本で土葬が難しいというのは衛生的な問題とか色々とあるんでしょうけど。とはいえやっぱり、自分がこれだけ殺してきたのに自分自身は何の糧にもならないというのは、申し訳ないとかいうよりも、うーん、なんか、なんでしょうね、道理に合わないというか。

 ケツの据わりが悪いとしか言いようがないんですよね(笑)

 まさに(笑)

 仲間うちのノリにもちょっと近いのかなと思ってて、たとえば友達がみんなピンポンダッシュの洗礼を受けてたら、俺もピンポンダッシュしなくちゃみたいな気持ちになる。それがしたいかしたくないかっていうより、自分だけそのリスク侵さないことに対して、気持ち悪さがある。まあ、ピンポンダッシュは単なる思いつきの喩えであって、別にしなくたっていいんでしょうけど(笑)。それこそ東さんは本にも、人よりもミミズとか微生物の方に近しさを感じる、友達ではないけど「癒着」的な関係があるということを書かれてましたよね。里山には複数種のドムス的な共生圏があって、そこではみんな生かし合うのと同様に殺し合ってもいるわけです。そうなるとなんていうか単純に「俺もその輪に混ぜてよ」みたいな気持ちになるんじゃないかなって想像するんですよね。

 そうですね。そうやって自分が死んだ後に他のものに喰われることで、初めて里山生活完了みたいな感じもありますから。

 

なぜ畦の草を刈るように人を刈ってはいけないのか

 そこで思うのは人間の命の重さですよね。現代において、これは非常に重いものだと考えられてる。実際にはすごく軽く扱われている命もあるんだけど、少なくとも建前上は重いとされている。もちろん、この命が重いということに対して一概に批判的に語るようなことはできないし、これは軽んじられてきた無数の命があったことに対する反省でもあるわけですけど、ただ里山生活の話とかを聞くにつけ、今日的な命の重さにはどこか違和感を感じてしまうところもあるんです。これはすごくとりとめのない質問だし、答えるのが難しい質問だとも思うんですけど、日々殺生を直接的に行なっている東さんにとって、人間を含めた命の重さというものがどういう風に感じられているのか、聞いてみたかったんですよね。

 『人類堆肥化計画』では、あらゆる生物は尊くかつ罪深い存在なのだと書きました。そこにはもちろん人間も含まれています。あらゆる命は重い。でも、その重いはずの命を殺してしか生きられないあらゆる命の罪もまた重い。現代社会において、人間の命が重いものと考えられているというのは、それはそれで非常に重要だと思います。でも、じゃあ他の生き物はどうなのかというと、人間の命ほど重いものとは考えられていません。それはおそらく、人間が人間の間で生きすぎているからでしょうし、あるいは、他の生き物まで人間と同等の重さがあると捉えてしまうと日常生活すらままならないからでしょう。けど、他の生き物の命も重いと捉えて、その上で殺す悦びを感じられる図太い舌を養うべきではないか、と思います。同時に、重いからこそ殺しすぎないし、殺す悦びをくり返し味わうために根絶やしにせず育てさえするんだ、と。で、そう考えたときに、じゃあ人間を殺すことはどうなんだというと、同種に関わることは寡欲的でつまらない生き方だから論外だ、みたいに本には書きました。

とはいえ、僕自身、接する生物の命を重いとつねに捉えられているかは微妙なところです。ややもすると、他の生き物を殺しているということを忘れがちです。草刈りをすることが習慣になって単純作業になってしまって、時々ハッとします。そういう時、僕は他の生き物の命を軽んじているのかもしれない。ただ、作業するうえである程度感覚を遮断すると効率が上がるのも事実で……。それに、たとえば田んぼがイノシシにめちゃくちゃに荒らされた時など、もう殺意しかないですからね。殺す、絶対殺してやるって思いましたもん。ただ、人間にとって有用なのか有害なのかを超えたところで、どんな者も生態系を構成する一員であり、生命を持つという時点である種の尊さや重さを帯びている。そのことをたまに忘れても思い出し続けるようにしたいですね。そうしないと悦びも褪せてしまうので。だから、結局のところみんな大事といえばみんな大事やし、でも殺すときはあっさりと殺すし、自分も死ぬときはあっさり殺されると思うし、みんな重くてみんな軽いみたいな、わけのわからん感じですねぇ。

 なるほど…いや、僕も全然、それに対して綺麗な回答を準備しているとかではないんですけど、この質問したのには理由があって、というのも、僕はやっぱり、それこそ東さんも本に書かれてましたけど、土とナチスの問題、ナチスもまた土に根ざした民と暮らしを賞賛していたということが気になるんですね。自然の法則、自然に溶け込んだ暮らしのようなものを強調することは、どこかで優生学的な思想へと短絡していきやすい。喰らい、喰らわれることは自然の本性であり、その中で弱いものが喰われるのは当然のことだと、そういう単純な話になっていきがちだとも思うんです。

実際、たとえば、多種たちと殺し合ったり喰らい合ったりする享楽をこの世界で今後も満喫していこうとする上で、ネックになるのが人口問題だったりするわけですよね。圧倒的な数の人口が、明らかに異種たちを圧迫していて、彼らと愉快な関係を築くことを困難にしている。じゃあ、その時になぜ東さんが畦の草を刈るように、人を刈っちゃいけないんだろうみたいな話が、やっぱり出てくると思うんです。でも、それは極めてヤバい問いなわけですよ。人口を減少させるための戦争や虐殺、あるいはマイノリティの命を選別するというようなことが肯定されてしまいかねない。こうしたことを躱しつつ、かつ異種たちとの関係性を愉しんでいこうという時、果たしてどんな折り合いのつけ方があるのか、あるいはないのか。

 そこは切っても切れない問題ですよね……。やっぱり今回、土のことについて書くにあたっては、なんらかの形でその辺にも言及しなきゃいけないよなと思って、そこで藤原辰史さんの『分解の哲学』を引いたりしたんですけど。まあ人口問題とかでいうと、それこそダナ・ハラウェイなんかも危ういところをちゃんと書いてたりするわけですよね、「子供ではなく類縁関係をつくろう」というスローガンと共に(※)。僕の個人的な考えとしても……、いや考えというほど煮詰められてはいないですが、やっぱり段階的に人間の数が減った方がいいだろうなとは思ってますね。地球環境を考えたときに、やっぱり数の圧っていうものを無視できない。ただ、だからといって、今生きてる者の数をコントロールするために殺すのは違うと思うんですよね。でも、僕は草なら刈るわけで……うーん、難しい話ですね。

 

 

※子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る(翻訳:逆卷しとね) https://hagamag.com/uncategory/4293

 

 いや、難しい質問をしてすいません(笑)。ただ、僕は東さんの本を読んで、そこの答えというわけではないけど、何かヒントめいたものを感じたんですよね。そういうジレンマに対して、今みたいに言葉の応酬の中で考えていると、どうしても視点が上昇しやすいというか、客観的な立場から、それこそ里山の外から地球環境の未来を考えるみたいなことになってしまいやすいと思うんですよ。そうなると、この手の話は絶対に迷子になるんだろうな、と。でも、東さんの本はそういう迷子に至らないように、うまく視点の超越を躱してるなと思ったんです。

結局、ナチス的な選別に至らないためには、生の効率化を避けることなのかなと思うんですよ。大きな視点で立てたある目的の下、「生」の問題を効率的に考え、なおかつ「土」とかに向かっていこうとすると、簡単に「血と土」へ短絡していく気がする。だからこそ、効率的な生ではなくて、非効率的で蕩尽的な死へ、その享楽へと向かっていく東さんの『人類堆肥化計画』は、結果的には多種の生を効率化するかもしれないんだけど、ある種、そこに政治レベルでの生-権力、あるいは死-権力が介入してくるという状況を回避していくための重要な作法でもあるのかなと思ったんです。実際、僕はこの本をものすごく政治的に読みました。これは里山アナキズムの実践の書なんだな、と。

 まあ、ちょっと考えるところは僕もあって、自分自身それなりに政治的な文脈も意識はしてましたね。それこそさっきのナチスの話もそうですけど、あとこの前、HAGAZINEに石川三四郎についての森元斎さんへのインタビュー(※)があったじゃないですか。あそこで言われていたようなアナキストたちが土に近いところでコミューンみたいなことをやったりというのも、詳しくは知らないけど横目で見つつみたいな感じはあったので、頭の片隅には問題としてそういうものがあったんです。

 

※「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー https://hagamag.com/uncategory/8138

 

本にも書きましたが、里山という場は、誰もが英雄になれない場所だと思うんですよ。人間を含めたどんな生き物も。それこそ草刈りもそうですけど、比較的に強いやつを殺して比較的に弱いやつを生かすみたいな仕事がすごく里山の仕事の上では多いんです。そういうところを政治的に考えるなら、たとえば富の再分配だったり、ある種の福祉の実践とも言いうるのかなと思うんです。あと僕の生活を引いた目で捉えるなら、なんかこう、今の世の中で支配的な資本主義なりを、まあ完全に出ているわけじゃないけど、ちょっとはみ出したところで生きてるわけですよね。食糧の自給みたいなところとか、そういう些細なレベルですけど。これは僕が社会に対して不真面目に取り組んだ結果であって、要するに僕は権威に従いたくないんですよね。だから、里山生活自体がある種の反権威といいますか、そういうことをしているという自負のようなものは、ちょっとはあるんです。

 それこそ東さんは『つち式』を何年も前からやられてますけど、最近は土関連の本が増えてますよね。この前の『SPECTATOR』も土特集です。そして、この土ブーム自体は僕は面白いと思ってるんですよね。背景にはコロナもあるのかもしれないし、ここ20年くらいで加速していたグローバル資本主義みたいなものへの反省もあるのかもしれないけど、今、土に向かっていく人たちが増えてるんだとしたら、それはそれで当然だよなとも思うんです。ただ、さっきも話題になったように、土って普遍的な素材なだけにどうとでも転ぶ素材ではあって危うさもあるわけです。その中で東さんの『人類堆肥化計画』みたいな反権威的でアナキーな土論が、一つの重要な指針になるんじゃないかなという風に思います。再生産のための道具的な土じゃなくて、異種たちと淫らに協働するプレイグラウンドとしての土。そこから土をブレさせないということが政治的にも重要なんだろうなって気がします。

 

 

 本当に最近、土関連の本は増えてますよね。でも、僕らの生活が間接的ではあっても土を離れたことなんて未だかつてないはずなのに、あらためて土がブームになるということ自体、それはそれでおかしな話だなと思うんですよ。常に繋がってるはずなのに、新しいものかのように取りざたされている感じには、複雑さも感じてます。まあ目を向けられるだけいいのかもしれませんけど、それがまたブームとして一過性のもので終わってしまうのも悲しいですしね。

 それこそ藤原さんが『分解の哲学』で、ネグリとハートが「帝国」には外部がないと言ってるけど、いやいやあるじゃないかってことを書いてましたよね。「帝国」ですら分解と腐敗のデタラメさ、土のアナキーな性質は包摂しきれないんだ、と。まあ今もし土ブームが到来しているなら、果たして本当に「帝国」でも土を包摂することはできないのかの試金石になりそうな気もします。すると、やっぱり土論も安易な消費、包摂を拒絶するような、いわば簡単には喰いきれないような『人類堆肥化計画』みたいなエグいものであったほうが良さそうですね(笑)

 

 

 ですね。実際、今取りざたされてる土のことを賞賛的に書きつつ、一方で到底消費なんてしきれない土のドス黒い部分を書きたかったというのもありましたから。それに、「土」と一口に言うことはできても、それぞれの田畠、各地の里山でその表情は千差万別で、関わり方も一様ではなく、普遍的に語ることはほんとうはできない。共通することはあるにしても、土との付き合い方は各人が各地で実践しながら見つけるしかないし、自分の手足を使って土に直接することが重要です。土は上にはない。まあ、そんな内容の本を商業出版で広く出しているということは一種のアイロニーなのかもしれないですけど(笑)

 まあ草刈機もメーカーから買わなきゃいけないわけですからね(笑)

 そうですね。でも、本当によく出させてくれたと思いますよ、創元社さんは。

 

異形の父は我が子を喰らう

 最後に今後の「つち式」について聞きたいなと思ってて、なんでも雑誌としての展開だけではなく、今後は里山集団として社会活動も行なっていこうとされてるんですよね?

 

つち式 二〇一七より

 

 そうなんですよ。もともと移住した当時から、自分の生活、自分の力で生きられるようになろうという気持ちと並行して、他の人間と一緒に里山そのものに働きかけていくようなアプローチもできればいいなとは思ってたんです。ただやっぱり、人を巻き込む前にまずは自分の生活を立てるべきだなと思って、移住してから今年で6年目になりますけど、ここまでは一人でできる範囲でやってきたんです。その中で雑誌としての『つち式』をつくったり今回は本を出したりもしたわけですけど、もう一人でやれる範囲のことには満足、というか、飽きてきた感じもあって(笑)。今までは他の生き物たちと色々やってきたわけですけど、そこに他の人間も巻き込んでいけば、もっと広い範囲で、里山に働きかけることができるかなと思ったんです。

一番大きい理由としては、今やってる畑や田んぼの周りにある山にもずっと手を出したかったというのがあります。ただ自分一人の力ではそこまでできなくて、だから団体を作るなりして、そこにも手を伸ばしていこうと思ってるんです。その山っていうのは戦後の植林によって今は杉山になってるんですけど、離れて眺めると杉の鬱蒼とした豊かな山に見えるんですよね。生き物も多そうに見える。ただ一歩山に踏み込んでみたら、杉があまりに密植されてるものだから、光がまるで地上に届かなくて真っ暗、他の生き物もほぼいないっていう状況なんです。それで山歩いても全然面白くないんですよね。だから、この山を杉山ではなく雑木山、つまりいろんな木が生えていろんな鳥がいていろんな虫がいてっていう、そういう面白い環境にできたらなって思ってるんです。その二百年の里山制作計画を「里山二二二〇」と呼んでいます。そういうことを今の生活も続けつつ、それの延長という格好で取り組んでいきたいなとは思ってるんですが、まだ本当に言い出したところで、僕入れてメンバーは3人しかいないんですよ。まあ最初から大きくやるもんでもないよなとも思うので、それでいいんですけどね。

 なるほど。プレイグラウンドを拡張していこうというわけですね。個人的な暮らしとしてはどうですか? 里山で家族をつくっていくことへの関心とかは?

 結婚はするかもしれないですが子供が欲しいという願望はなくて。まあそれは相手の意思もあってのものなんでね。ただ、人間だけの家族というものにはちょっとピンとこないところもあって、里山で関わっている他の生物たちも巻き込んでいきたい気持ちがあるんです。ただ、それを「家族」と言えるかは微妙なんですけど。

 それこそ本では生物学において複数種が一つの群れをなして行動することを意味する「混群」という言葉を引いてましたよね。群れと言えば、哲学者のアルフレッド・エスピナスは社会集団として家族と群れというものが水と油の関係にあることを指摘していたようです。今後、東さん自身が、従来のカテゴリに当てはまらないどんな新しい親密圏を発見していくのか、気になるところですね。

 発見できたらいいですね。家族が群れを邪魔するような、そういう状況になることだけは避けたいですから。一方、地域社会では人間の家族を持つことがより良い潤滑油になるところもあって。やっぱりこういう集落では小さい子供が少ないので、特に小さい子がいる家なんかはすごく大事にされるんですよ。よくやった、みたいな(笑)

 村に新しい命がきたぞ、と。

 平均年齢を下げてくれてありがとう、みたいなね(笑)。それはそれで地域での生活をうまく回していく一助にはなるし、それを隠れ蓑に僕は異種たちとよろしくやっていくというのもありですよね(笑)

 子供に「お父さん、ミミズだけじゃなくてこっちも構ってよ!」って言われちゃいそうですけど。

 まあ、子供がいなくても、よく働くので僕はすでに重宝がられていますけどね(笑)。とにかく、家族を持つ身であれ独り身であれ、それぞれの社会属性を活かして地域社会に紛れ込むことができます。子供ってことで言えば、育てている鶏とか稲とか大豆なんかも自分の子供として捉えて育てることもできるわけですしね。実際に彼らの生、繁栄に僕がすごく関わってるわけですから、自分が育てているという点で言えば、自分の子供だと考えられなくもないし、それくらい大事にしてる気持ちではおるんで。あと、逆卷しとねさんがハラウェイを引きつつ書いていること——子供を産む/産まないではなく、人間も非人間も、それから生物が育つ土壌をもきちんと育て、多種との交わりに参加することが大事なんだというのは、ほんとうにその通りだと思っています(※)。まあ、自分の子供くらい大事にした家畜や野菜を最終的には食べるわけですけど。

逆卷しとね「未来による搾取に抗し、今ここを育むあやとりを学ぶ ダナ・ハラウェイと再生産概念の更新」(『現代思想』2019年11月号)参照

 我が子を喰らうサトゥルヌス(笑)

 愛ゆえに食べてしまうみたいなことは人間同士でもあるわけで(笑)

 僕は編集者になって最初の取材対象が佐川一政さんだったんで、知らない世界ではないです(笑)。あるいはヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』には、アマゾニアの先住民においては、敵を喰らうことによって姻戚関係になる、それこそ家族になると考えられているという話が書かれてましたよね。喰われた側からは知らねーよって話かもしれませんが、東さんが大事に育てたものを殺め、喰らうというのも、その喰らうということまでをも含めた親密な関係性のあり方の一つであるような気がします。

 

 

 

 そうですね。そもそも僕は自分の家族といい関係を築けなかったので、どうしても人間だけのコミュニティには限界を感じているところがあって、だからこう、人間以外の生き物、異種たちとの今まであまり考えられてこなかった、構築されてこなかったような悦ばしい関係を築くことで、人間社会を裂開していきたい気持ちがあるんですよ。人間の都合だけで回しすぎてきた結果が今であるという気はしているんで。それに実際、僕個人の生活は異種の存在が加わってからはるかに楽しくなりましたからね。

 異種との家族というところでいうと、立木康介さんという方が『露出せよ、と現代文明は言う』という本の中でゴミ屋敷に触れていたんですね。なんでもゴミ屋敷を作ってしまう人は家族を失った後にそれで生じた心の隙間を埋めるためにそういう風になってる人が多いらしいんですが、立木さんはそれを人間とのコミュニケーションがゴミ山によって代替可能だということを表しているという風に分析していたんです。まあ、この文脈ではどちらかというとネガティブな意味で書かれているんですけど、アニミズム的に解釈するとこれは面白いなと思って。むしろポジティブな調子で「人間はゴミとだって家族並みの親密さを築けるんだ」と言えるんじゃないかとも思うんですよ。実際、少なくともペットを飼ってる人は犬猫に限らず、もっと交感が難しいような異種であっても、家族のような親密な関係を形成しているわけですよね。ただ、東さんの考えてる「混群」的なものは、いわゆる親しい関係だけを指すものじゃないとは思いますが。

 

 

 そうですね。なんか人間関係のアナロジーで、異種との関係を考えてしまいがちなんですよね。それこそペットの犬も家族なんだとか友達なんだとか。ただ僕はそうは考えてなくて、同種関係が主で異種関係が従ではないんだ、と。人間同士では築かれていないような関係性を異種たちと築いていきたいなと思っていますね。その関係性を言い表すのはとても難しいんですけど。

 でも、それが周り巡って人間同士の関係をも変容させていくような気がしますね。

 そうそう。人間が人間ばかりと付き合ってきた弊害って結構あるなと思うんですよね。そこに異種を噛ますことでなんかうまくいくようなこともある気がしてて。気がしているだけで、どううまくいくかは分からないですけど(笑)

 多分、うまくいくと思います(笑)。というわけで、もうだいぶ喋ってます。聞き手のつもりでしたが、すっかり僕の方が喋りすぎました。これじゃ対話ですね。すいません。これも『人類堆肥化計画』がめちゃくちゃ面白かったから、というのは単なる言い訳ではなくて、本当に、熱烈におすすめしたい一冊です。今日はZOOMでしたが、今度は宇陀の里山にも遊びに行かせてください。

 『人類堆肥化計画』を書いて僕は今ほぼ空っぽなので、むしろこの本によって辻さんからいろいろなお話を引き出せてよかったです!『ドラゴンボール』読みます。あと、『つち式』の第二号も今制作中なので、こちらも出たらよろしくお願いします。うちには是非いつでも来てください!

 

 

 

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東千茅 あづま・ちがや/農耕者、里山制作団体「つち式」代表。稲や大豆や鶏、その他の生物たちと共に里山に棲息。著書に『つち式 二〇一七』(私家版、2018)、「『つち式 二〇一七』著者解題」(『たぐいvol.1』亜紀書房、共著、2019)、『人類堆肥化計画』(創元社、2020)。

 

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、HAGAZINEの編集人を務める。

 

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〈INFORMATION〉

12月8日 青山ブックセンター

『人類堆肥化計画』刊行記念「ヒトでない者たちとどう生きるか」東千茅 × 奥野克巳 × 結城正美 トークイベント

 

 

今年10月末、創元社より自身初となる単著『人類堆肥化計画』を上梓した、東千茅さん。本書は、生きることの迫真性を求めて大阪の都市から奈良の里山に移り住んだ著者が、養鶏や稲作など自給自足の生活を営みながら、既存の里山観や倫理観に鋭く切り込む思想的エッセイになっています。
今回は、狩猟民・農耕民・牧畜民のフィールドワークから人間の生について研究する人類学者の奥野克巳さんと、里山言説を批判的に捉える『里山という物語』の編著者である環境文学研究者の結城正美さんをお招きし、それぞれの観点から自然環境や異種生物とのかかわり方について語り合っていただきます。どうぞご期待ください。

終了後、サイン会も開催いたします。

詳細はこちら→http://www.aoyamabc.jp/event/taihika/

 

 

〈MULTIVERSE〉

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「デモクラシーとは土民生活である」──異端のアナキスト・石川三四郎の「土」の思想|森元斎インタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント」── Back To The 80’s 東亜|中村保夫

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

「芦原伸『ラストカムイ』を読んで」──砂澤ビッキと「二つの風」|辻陽介

「21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう」 ──機械のまなざしと顔の呪術性|山川冬樹 × 村山悟郎

 

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