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HAGAZINE

シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 05|松本卓也 × 東畑開人|ケアが「閉じる」時代の精神医療── 心と身体の「あいだ」を考える

マルチスピーシーズ人類学研究会の「COVID-19を分野横断的に考える 」シリーズ第五弾。社会的距離化が一般化した環境において「心のケア」のオンライン化が果たして可能なのか、可能だとすればそれはどういった形なのか、あるいは、そもそも物理的な対面とはなんだったのか——をめぐって。

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<<TALK 04|清水高志 × 甲田烈|我々は対象世界を《御すること》はできない── 既知と未知の「あいだ」の政治を読む

 


 

この記事は、マルチスピーシーズ人類学研究会の「 COVID-19を分野横断的に考える 」シリーズの第四弾として5月12日に行われた、精神科医の松本卓也と臨床心理士の東畑開人によるビデオ対談(司会:辻陽介)の内容を、記録、再構成、加筆したものです。

今回は、社会的距離化が一般化した環境において「心のケア」のオンライン化が果たして可能なのか、可能だとすればそれはどういった形なのか、あるいは、そもそも物理的な対面とはなんだったのかをめぐって、話し合いました。

 

Drawing by Maki Ohkojima

Text by Yosuke Tsuji

 


 

 

「心のケア」のオンライン化は果たしてどこまで可能なのか

HZ みなさん、こんばんは。このシリーズの司会を務めさせていただいております辻陽介です。この研究会「COVID19を分野横断的に考える」は立教大学の奥野克巳さん、北海道大学の近藤祉秋さんらが主催するマルチスピーシーズ人類学研究会と、僕が編集しておりますウェブメディアHAGAZINEとの共催という形で行なっているもので、COVID-19のパンデミックと、それがもたらしている社会的影響、あるいはその時下における「生」のあり方について、分野横断的、多角的に考えてみようという対談シリーズになります。新型コロナウイルス感染拡大の状況といたしましては本日(5月12日)時点で感染者約417万人、死者28.5万人超となっております。

皆さんもご存知の通り、今日、COVID-19の感染拡大防止のための社会的距離化、外出自粛の要請によって、これまでオフィスで行ってきた業務、学校で行ってきた授業をオンライン上で行う、リモートワーク、リモート授業が、にわかに一般化しつつあります。一方、こうした社会活動のオンライン化、対人機会の減少に伴い、これまで以上に人々の「心のケア」が重要な問題となってくるだろうという予測も、かなり早い段階からなされていました。しかし、その「心のケア」を行う精神医療の現場にもまた、現在、オンラインカウンセリングなど、ICTを利用した遠隔診療が導入され始めています。ケアを「開く」時代から、ケアが「閉じる」時代へ。対面診療が現実的に困難なものとなった現在、「心のケア」のオンライン化は果たしてどこまで可能なのでしょうか。あるいは、もしそれが可能だった時――つまり心の治療に物理的な対面が必ずしも必要ではないということが明らかになった時、逆照射されることになる私たちの「身体性」とはなんでしょうか。本日の対談のテーマはそこになります。

一人目のスピーカーは、精神科医であり、ラカン派の精神分析の研究者として活動する松本卓也さんです。松本さんは一般書作家としても『心の病気ってなんだろう?』などの著作を刊行する一方で、時にラカニアンレフトとして、精神分析理論を駆使した社会批評をも展開されています。そして、二人目のスピーカーは、ユタ、魔女、占い師など“野の医者”たちへの人類学的フィールドワークを通じて近代精神医療を相対化した『野の医者は笑う』、デイケアの現場経験の試行錯誤からケア論の新たな地平を切り開いた『居るのはつらいよ』など、ユーモア溢れる筆致で、しかし鋭利に心の問題に迫った数々の著作で知られる臨床心理士・東畑開人さんです。実は松本さんと東畑さんはともに1983年生まれなんですよね。僕もまた1983年生まれなので、今日は1983年生まれの会でもあります(笑)

というわけで、対談にうつっていきましょう。すでに東畑さんはこの事態を受け、オンライン診療を取り入れ、実際にそれを行なっているとか。そこで、まずは東畑さんが日々の現場で感じられていることなどから、お話を伺っていけたらと思っております。

 

 

 

 

 

東畑開人(以下、東畑) よろしくお願いします。ええっと、話すの僕からだったのかって感じなんですけど(笑)、まあ、そうですね。順を追って話しましょう。まず、日本では2月の終わりから3月の初めくらいにかけて新型コロナウイルスの脅威が現実的になり、それによって社会が大きく変動し始めたわけですよね。僕もその頃からこのウイルスのことを考えざるをえなくなりました。何を考えていたかというと、具体的には日々の面接についてですね。この状況下で心理療法を継続していくか、いかないかですね。そして継続するならば、どうやって行うかですね。その中でオンラインという新しい試みを始めることになりました。そうしたことを通じて、僕は新型コロナウイルスのことを多く考えさせられることになりました。

その上で、話せることは大きく分けて二点あると思います。容れ物の話と中身の話です。まずは一点目、容れ物の話をすると、僕は今、iPadとAirPodsによって皆さんと繋っています。実はこれも試行錯誤の末の形であって、色々と試した結果、iPadとAirPodsの組み合わせに現状、落ち着いている感じなんです。この形に到達するまでには、手痛い出費ではありましたが、無駄にBluetoothマウスを買ってみたり、ヘッドセットを三つも四つも買ってみたりもしました。声がちゃんとナチュラルに相手に届き、また向こうの声がナチュラルにこちらに届く機材はどれなのか、それは臨床にとって根源的な問題でした。それから、僕のオフィスには今まで光回線が入ってなかったんですよ。ただ面接をするためだけの場所だったから、ネットを使う想定が一切なかった。なので、光回線をあらためて入れるということもやらなければなりませんでした。これらのことが何を意味しているのかというと、オンライン面接を始めるためには、まずセッションを可能にする環境を整えなければいけないということです。

オンラインであればどこでも繋がれると言いますけど、実はちゃんと繋がるためには色々と準備をしなきゃいけない。これは、僕自身もそうですけど、クライエント側もそうなんですね。クライエントもまた自分自身でネット環境を整えて、ZOOMのアプリを入れ、ヘッドセットを準備しないといけない。そしてなにより人が入ってこない部屋!自分のことを話すことができる部屋を調達しないといけない。これらがないと、オンラインで面接をするということがそもそも成立しないんです。これは当たり前のことではあるんだけど、僕にとっては非常に重要な発見でした。物理的な面接室があるということが、ものすごくクライエントにとって便利なことだったということを再確認したんです。しかし今、プライバシーと安全性が保てる、人が入ってこない、自分の心のことについてじっくり考えるための空間を手に入れるということを、クライエント達が自分自身でやらなければいけないという状況になっています。言ってしまえば、面接のかなりの部分が自己責任に移譲されたわけです。これがオンライン面接を行う上で、もっとも重要なポイントだと思うんです。

先日、打ち合わせで松本さんと話していた時に、松本さんがバージニア・ウルフの『自分だけの部屋』を引き合いに、自分一人の部屋の必要性について、指摘されました。僕もその後、ウルフを読み直して、なるほどなと思いました。ウルフは鍵のかかる自分だけの部屋が自分のことを考える力なのだと言ってます。つまり、お子さんやご家族がいたりして、その人達のお世話をしなければならなかったり、その人たちが常に侵入してくるような環境では、自分の心というものをきちんと扱うことはできない。それを扱うためには、鍵のかかる部屋が必要で、それがないと小説も書けないのだ、と。小説が書けないということはどういうことかと言えば、オンラインカウンセリングもできないということなんです。つまり、心に向き合うとは、しっかりした境界線ができて初めて可能になることです。

 

 

しかし、よくよく考えると、そうした環境を整えることができるのであれば、そもそも心理療法をそこまで必要としなかった人もいたわけです。そういう環境が家の中で設計できないこと、すなわち家族との関係で自分のスペースを持てないことそのものが問題で、心理療法に訪れている人がたくさんいるからです。すると、心理療法のオンライン化は、心理療法をもっとも必要としている人にとって、もっともハードルが高い方法だということになる。まず、そういう難しさを感じています。つまり、オンラインだったら誰とでもどこからでも繋がれるということばかりが強調されているんだけれども、実はそういう風に繋がることができる人たちというのは、社会の中でもかなり限られた人たちなんじゃないか。だとすれば、どうすればいいのか。これがまず容れ物についての問題意識です。

もう一つは中身の話ですね。オンラインの面接を行う環境が整い、実際にそれを行なったとして、果たして心理療法はどの程度可能なのか。これについては本当に死ぬほど考えてきました。少なくとも僕がいる臨床心理の世界においては、「直接会う」ということが前提であり、そしてある部分神格化されてもいたんです。「直接性」幻想とでも言うんですかね、二人の人が同じ部屋にいて、そこに繋がりが生まれて、いろんなドラマが起きたり、サポートが起きたりする、という考え方です。実際僕自身、果たしてオンラインでどれくらい心理療法ができるのかということに対しては懐疑的でもあって、これまでもオンラインでの面接というのはやってこなかったんです。ただ、ご紹介にもあったように、こういう状況になってやるようになりました。

結論から言うと、案外できるところがあるというのが率直な感想です。あるいは、できる側面がある。では、何ができるのかというと、二つ挙げることができます。まず一つ目は情報交換、これは可能ですね。たとえば、今もこうして僕の声が我がオフィス最大の自慢である(笑)光回線を通じてみなさんのところに届いているわけですけど、それによって情報を伝えることはできているわけですよね。そして、相手からの情報、今なら辻さんや松本さんからの情報を、こちらとしても受け取ることができる。さらに受け取った情報を僕の中で加工して、そちらにまた情報を送り返すこともできます。これは心理療法で言えば、事態を理解して適切な助言を行うということにあたり、そういうことはオンラインでも可能だなという風には思いました。これが一つ目です。

二つ目は、個人的にはより大きな発見だったんですが、画面上に相手が映ることによって、そこに相手がいる、つまり「being there」を感じることができるということですね。このことの意味はすごく大きいなと感じました。海外の文献でオンラインセラピーの価値として大体まず最初に出てくるのが「プレゼンス(presence)」という言葉なんです。この「プレゼンス」というのは、元々はカール・ロジャースという臨床心理学の大家が提示した概念で、面接室の中に二人の人間がいて、そこに相手が確かに存在しているという感覚がすること、交流があると感じられることを指します。このとき、ロジャースはそこにスピリチュアルな雰囲気を纏わせていました。実存的で神秘的な繋がりが面接室の中に立ち上がること、それがすなわち「他者が存在する」ということなのだ、と。ただ、これは彼がZoomで面接をしていなかったから感じた神秘感だったと思います。ZOOMを使った対話で得られる「プレゼンス」に関しては、それほど大げさなものではありません。ごくごく普通の感覚です。個室でひとりぼっちでいるなかで外と回線が繋がって、ちゃんと世の中には自分以外にも生きている人がいて、きちんとこっちに関心を持っているという感じ。世俗的な意味で「いるんだなあ」という感じ。それは心の中に他者がいることを確認する働きで、メンタルヘルスにとって不可欠なものだと思うわけです。これは当たり前のことだったわけです、対面では。だけど、オンライン上で面接をしてみたことで、僕はあらためて、心理療法やカウンセリングにおいては根底のところでこの「プレゼンス」が機能していたのだということを認識しました。今までは身体がそこにあるから、そこに相手がいること、「プレゼンス」が当たり前すぎて、その重要さに気づかなかった。だけど、リモートになって初めて「そこにいる」という感覚に気づかされた。そして、その感覚はオンラインでも得られることが分かった。これが二つ目です。

 

 

この二つがオンラインでもある程度はできると感じたポイントなんですが、一方でオンラインには限界があるというのも、やはり感じました。その限界がどこにあるのかというと、情報をお互いに交換することはできるけど、情報未満のことをお互いにやり取りすることが難しいということです。情報未満とは何かというと、言語にならないことだと思うんですね。つまり、オンラインにおいては言語は交換できるんだけど、言語未満のことはオンライン上で交換することがなかなか難しい。たとえば、物理的に一緒にいると、なんだか不穏な雰囲気がするとか、あれ、今相手はそうとは見えないけど泣いているんじゃないか、とか、言葉にならずにただ醸し出される空気とか雰囲気といったものが自然とお互いの間で共有されますよね。この共有がオンラインだと起きづらいんです。泣きそうになっていることを察知するのは、身体というメディアの特別な働きです。

もうちょっと別の言葉で説明すると、オンラインの面接というのは安全なんですよ。互いに相手に殴られる可能性もなければ、身体を触られる可能性もない。バイオレンスもエロスも身体的に展開される可能性がない。もちろん、対面の面接でもそういうことは起こらないし、起こらないようにするのが僕らのプロフェッショナルではあるんだけど、「起こりうるけれども起こらない」ということと「そもそも起こり得ない」ということとでは全然違うと思うんですね。身体的な暴力が起こる可能性がそもそも遮断されている状況では、お互いの間にある不安とか危険といったもののやり取りが難しい。逆説的ですが、このことが治療において、相手を支える力をかなり減らしてしまっているなというのは感じました。安全すぎることは、心を遠のかせてしまう。それこそオンラインではウイルスもやりとりされないわけだけど、同時に不穏なもの、危険なもの、不潔なもののがやりとりされにくい。こうしたものをどうやってもう一度、治療の中に取り戻していけるのかということをずっと考えながら、この一、二ヶ月を過ごしてきた感じです。

振り返ると、まず一番最初にセットアップの問題があり、オンライン面接を受けることができる環境を作ることが、そもそも簡単ではないということがあります。そして、その環境が用意できたとしても、オンラインにおいてはできることもある一方で、現状ではできないこともある。このあたりはこれから精緻な知見を積み重ねていくべきところと思いますが、現時点での僕自身の雑感としては、こんな感じでしょうか。

 

カウンセラーとクライエントの「身体の交換可能性」

松本卓也(以下、松本) ありがとうございます。かなり網羅的な話をしていただいたので、今日のトークはこれで終わりでもいいんじゃないかという気もしているんですけど(笑)、とはいえ僕は東畑さんとは普段やってることも違いますので、僕の方からもいくつかお話をしてみようと思います。

僕は精神科医として、心療内科のクリニックに週に一回だけ勤めています。東畑さんは開業されてらっしゃるから、全部自分でセッティングせねばならず、まずその大変さがあったということなんですけど、僕の場合は週一回行ってるだけなので、そうした設定なんかについてもクリニック側にやってもらっています。なので、だいぶ楽してるなというところはあります。

その上で最近のクリニックの診察室の様子を話すと、病院なので外来の対面診療は継続して行っているんですが、今では患者さんと医師との間に大きな木の枠を置き、その間にビニールを張って飛沫が飛ばないようにした上で、外来診療が行われています。それと、電話診療が増えてきましたね。僕はオンライン診療は全くやってないんですけど、電話診療は一日数件ほど入るようになってきました。

東畑さんは、オンラインカウンセリングでも意外とやれるとおっしゃっていましたが、僕が電話診療を駆け出しながらもやってみた感じとしては「これは無理だな」という印象でした。それは僕の経験の浅さゆえという部分もあるとは思うんですが、端的に言うと、電話だと患者さん側が――そしておそらくはこちらも――「いい子ちゃん」になってしまう感じがしています。つまり、耳障りのいい言葉や、よそ行きの言葉しか出てこなくて、面接室であれば出てくるはずの自分のドロドロした部分をふくむ内面を出してくれないんです。患者さんの中の悪いものが全く現れてこない。電話診療は短時間で終わるのですごく効率はいい。自分の精神的な疲労度も少ない。ただ、それだと結局、治療そのものは進まないなと感じているところです。

さっきのお話で興味深かった点は、東畑さんがオンライン診療にあたって、色々と試行錯誤されたということでした。まず、治療空間の設定。どのマイクを使うかとか、PCではなくiPadを使うとか、カメラと自分との距離感とか、実に多岐にわたっています。その試行錯誤がとても重要なことだと思いました。普通、こうしたZOOMやSkypeなどのビデオ通話においては、まさに僕と辻さんがそうであるように、顔だけを映しちゃう感じになるんですよね。しかし、東畑さんはカメラと自分との間に距離をつくることで、身体全体も映している。すると、こちらと東畑さんとのあいだに空間が生まれるんですよね。この空間の重要性について、さっきからずっと考えていました。顔だけを映すという形になってしまうと、変なたとえですが、ツイッターで顔写真のアイコン同士で話しているような感じになりがちです。あいだに空間が生じない。相手の身体が見えるということは、相手のジェスチャー等も見えるということであり、おそらくはそのような空間をつくることが、オンラインカウンセリングをやっていく上で大事なのでしょうね。

このことと関連して言うと、僕は精神病理学という学問をこれまで学んできたんですが、最近では、精神病理学における「了解」とはなんなんだろうということを考え直してるんです。「了解」というのは、患者さんの言っていることを治療者が「分かる」ということなんですが、結局のところ、この「了解」とは、ある種の身体性によって支えられるしかないのではないか。つまり、東畑さんが先ほどお話された「プレゼンス」、目の前にいるということがすごく重要だということです。どうしてそれが重要かといえば、自分の身体と心に起こっていることは、自分だけの苦しみではなくて、目の前にいるこの人にも起こりうるかもしれない――つまり、自分の目の前にいる人が、自分のつらさを共感的に理解しているかもしれないという感覚は、ただ相手が自分の症状などを字面として理解しているという事実から得られるのではなく、この人の身体にも同じことが起こりうるんだということの確認なのではないかと思っているんです。「了解」について論じたカール・ヤスパースが、「了解」の肝は「共体験」にあると言っているのですが、それは身体性によって可能になるのではないか。

 

 

あるいは、「了解」は「身体の交換可能性」によって支えられていると言っていいかもしれない。実は、これまで面接室は、この「身体の交換可能性」によって支えられてきたのではないかと、あらためて感じています。だから僕は電話診療は難しいと思ったわけなんですが、東畑さんが試行錯誤の末に、今みたいにカメラを離してあいだに空間を作った上で診療を行なっているというのを知り、工夫次第ではオンラインでもできることはあるのだなと感じました。また、いまの東畑さんのやり方が面接室という特殊な空間を再構築するために必然的にそのような形になったのだろうとも思いました。

東畑 画面の遠くに自分を映しているというのは、本当に試行錯誤の結果です。なんせ、そのためにiPadを置く台も二つ買いましたから(笑)。理論的にいうとメラニー・クラインが言うところの「部分対象」と「全体対象」ということですよね。顔だけが映ってしまうと、顔がクライエントにとってフェティッシュになってしまう。おそらく、そういうスプリットが起きやすいんです。言ってしまえば、顔ではうんうんって聞いていても、もしかすると下半身はパジャマかもしれない。パジャマはあくまでも比喩であって、要は、見えている表と見えていない裏があるというスプリット的な空想が広がりやすい。ただ、それはオンライン全体にある傾向であって、また抜きがたいところなんだけど、少なくとも「全体対象を志向する」というこちら側の治療的な構えを伝達しているという側面はあるとは思います。

松本 そこはすごく大事ですよね。COVID-19の流行という状況で、ZOOMを使ったリモートワークやオンライン会議が話題になった時に、SNSで一番流行った言説は「実はパンツ一丁でやってます」とか「裸でも大丈夫」とか、そういうものでしたから。もちろんそれは冗談なのですが、そういう空想が出てきてしまうことこそが、まさに部分対象と全体対象の問題にかかわっている。

東畑 オンラインは、治療者の裏の顔みたいな空想が掻き立てやすいとは思いますよね。あと、身体を見せることでジェスチャー使えるというのも本当にいいんです。たとえば、うしろに背もたれて腰掛けている姿勢から、言いたいことをしっかり伝えたいような時にグッと前に乗り出してみるだけで、コミュニケーションになります。これができないと本当に言語だけになってしまうので、たとえば相手の話の最中に介入するということも難しい。Zoomの二次元的な画面に三次元的な奥行きを持ち込む工夫です。

松本 今、東畑さんは実際に身を乗り出して話されましたね。この対談でZOOMを使っているから言うわけじゃないですが、本当にズームインしている感じがありました(笑)。前から気になっていたんですが、オンライン会議のサービスって実はいくつもあるんですよね。Skypeや、マイクロソフトのTeams、あるいはGoogle Meetとかでもオンライン会議はできる。しかし、この事態になってみんなが途端に、ZOOMだZOOMだ、と言い出しましたよね。実際、大学の授業なんかもほとんどがZOOMで行われてて、まさにZOOMのパンデミック——セキュリティの問題も指摘されていますから、あえてこう呼んでおきましょう——みたいなことが起こってます。では、なぜ他のサービスではなくZOOMが選ばれたのだろうと考えると、「ZOOM」という名前が良かったんじゃないかと思うんですね。つまり、相手の私的空間にズームインしていくという想像力を刺激するネーミングになっていることが、ZOOMの躍進の鍵だったのではないか。

オンライン診療のなかでできることとできないことについても、このズームイン、あるいはズームアウト可能な空間という点から考えることができるのではないかと思います。東畑さんは、オンラインでも言語のレベルのことは問題なく伝わるという話をされましたよね。情報の交換はできる、と。ただ、それ以上、あるいはそれ以下のコミュニケーションはやりにくいというお話でした。そのお話を僕が体験した電話診療の話につなげると、自分の中にある悪いものを診療室の中の空間に投げ込めないということが大きいのかな、と思うんです。力動系の治療においては、患者さんが自分の中にあるものを治療空間の中に投げ込んでいく。その作業は、まさに自分の中にあるものを、他者のところにあるものとみなす点で、空間のなかの遠近法を操作しているわけですね。治療者は、その投げ込まれたものを抱えこみ、さらに患者さんに投げ返していく、ということを繰り返していくのが力動的な治療です。オンラインの場合、面接室という空間がうまくつくりづらいので、このようなやりとりが起こりづらいのではないか。東畑さんのさっき話されたことを、精神分析の言葉でそういう風に整理することもできるのかなと思ったんですけど、どうでしょうか。

 

想像界的な弔いと象徴界的な反復の「あいだ」

東畑 つまり、「投影同一化」が難しいという話ですよね。まさにそういうことだと思います。そのことで頭に浮かんだのはコーチングのことです。なぜかというと、コーチングというのは、対面でのセッションも行いはするものの、昔から電話でもやっているんですよ。あるいは認知行動療法などもそうで、最近ではアプリを経由してやっていたりしますよね。つまり、それらはオンライン化にあらかじめ親和性があったんですよ。でも、力動系、精神分析の方はストレートにオンラインに移行することが難しかった。この差はなんなのかと考えさせられるわけです。

たとえばコーチングにおける「コーチ」というのは馬車と言う意味なんですよね。馬車を操るイメージがコーチングにはある。馬をいかに導き、いかにコントロールして、自分の進みたい道へと行かせるか、そういう実践がコーチングなんです。馬には鞭を振るうジョッキーがいて、このジョッキーが馬をコントロールして導いていくわけですが、コーチングではそのジョッキーに対して手助けがなされる。すると、治療はジョッキー同士のコミュニケーションになります。一方、実は精神分析においても馬とジョッキーの喩えが使われているんです。フロイトがエス(Es)を馬に喩え、その上にジョッキーとしての自我が乗っかっているといった説明をしていたりします。もちろん、精神分析においてもジョッキー(自我)によって馬(Es)のコントロールを効かせていくことが、治療として意味あることとされてはいるんだけど、馬自体の苦しさや傷つきにスポットライトを当てる側面もあります。そうした馬の部分が面接空間の中でコンテインされ、かつ変容していくという契機が考えられているわけです。

そう考えた時に、オンライン上のコミュニケーションにおいては、ジョッキー同士のコミュニケーションはわりかし成立しやすいわけです。だから、コーチングにおいては電話が元から多用されていたのではないか。ただ、精神分析においてはそこに馬の部分を持ち込んでいく必要があって、それがオンラインの場合は非常に難しいんだと思うんです。つまりは「馬が合う」という状態をいかにオンラインで作れるのか。ZOOMにせよ、スカイプにせよ、馬を合わせにくいメディアではないかと、逆に言うと、これまで行っていた対面とは、馬のためのメディアであったのではないかと思える。身体というメディアは、馬に好都合なんです。馬と馬とが向き合い、馬が合ってみたり、喧嘩してみたりする。そして、それとは別軸でジョッキー同士も話し合ってる。この二重性が精神分析的心理療法の骨子だったのではないか。ここが今は難しくなってるわけですが、じゃあ、難しいなら諦めるかといえばそうではなくって、できることもあると思ってます。たとえば僕がクライエントとZOOMでなんの話をするかというと、「馬同士のコミュニケーションが取れていませんよね」ということ自体について話をしていくんです。ジョッキー同士で、ここでは馬が生きていない、だからいくら話しても不満に感じてしまったりするし、どうしても寂しくなったりしてしまうということについてを主題化し、語っていくことです。それは馬同士がコミュニケートできていないというコミュニケーションについて話ことです。不在を語る。

松本 面白いですね。ともすると我々は、新しいメディアやテクノロジーが席巻すると、「ここには身体がもはや現前していないから何もできないんだ」という風に極端に考えがちですが、必ずしもそうではない。そもそも、フロイトは無意識をまさに電話というメディアないしテクノロジーのメタファーで捉えていました。彼は、患者さんと分析家のあいだでは、語られている言葉そのもので情報交換をしているようなコミュニケーションがあり、さらにその下層には両者の無意識同士のコミュニケーションがあると考えていました。そのような無意識のコミュニケーションにおいて、フロイトは精神分析家を、患者の無意識を聴き取るための「受話器」にたとえている。だとすれば、面接室は、COVID-19以前においてすでにある種のメディアであったわけです。すると、原理的にはZOOMという他のメディアを使ってもコミュニケーションはできるはずですが、ただ東畑さんが今言われたように、これまでと同じやり方では難しい。同じようなコミュニケーションをするためには、何か別のやり方がなされる必要がある。そういうことなんだと思うんです。

言葉を交わさない、無意識同士のコミュニケーションについては、フロイト以後の精神分析においても議論されています。いわゆる「逆転移の臨床」、つまり、分析家の側が患者さんに抱くある種の感情は、患者さんの無意識を直接的に反映したものであるという考えは、まさにそういうものです。あるいは「投影同一化の臨床」も、患者さんのなかにあるものが治療者に投影され、治療者自身が患者さんの心の中にあるものになってしまう、といったことが起こるとされる。力動的な精神分析ではこれまでそういった無意識同士のコミュニケーションがとても重要視されてきたんです。

ラカンは、そのようなタイプの精神分析の理論に批判的だった人なんです。投影同一化の概念を積極的に使うラカン派はいませんし、逆転移の理論についてはラカン自身が批判しています。ラカン派は、そういうタイプのコミュニケーションをあまり重視していない。ラカンの言葉でいうと、それは想像界的(イマジネール)なものなんです。ラカンにおいては、よく知られている鏡像段階の理論がそのようなコミュニケーションについて説明するものです。鏡に映った像は、自分の身体像を映し取ってくれるがゆえに、自分はこういう人間なんだということを分からせてくれる。それは、子どもにとっては喜ばしいことなんだけれど、一方では、何か自分が奪い取られてしまっているような気もして、腹が立ってくる。そして、最終的に「あいつは俺のものを奪っているぞ」と思うようになって、二人のあいだに終わりのない攻撃性が展開していく――というのがラカンの考える想像界の理論であって、ラカンはこうしたコミュニケーションを批判しているわけですね。

ただ、ラカンが想像界の理論をきちんと作っていたこと、というよりむしろ、ラカンの臨床と理論が想像界についての探求から出発していることもまた、重要なことです。つまり、ラカンは、そういった投影同一化や逆転移は存在しないだとか無価値だとか言っているわけではなく、むしろ臨床をやっていたら必ず起こってくるものであると考えている。その上で、そのような想像界的なもの、つまりは東畑さんがフロイトを引きながら言われた「馬」の部分をいなしながらも、象徴的なものに目を向けていかなければならないとラカンは主張しているんですね。つまり、彼の理論は——少なくとも、いわゆる「ローマ講演」の頃の理論は——二段構えになってるんですね。まず、想像界の臨床がある。そこにどっぷりとのめり込んでしまうのではなく、そこから象徴的なものを見ていきましょう、というわけです。象徴的なものとは、症状や夢や失錯行為のなかにみられる言葉遊びのようなもののことです。そこには、何らかの規則性があり、それがその人の人生を規定しているとラカンは考え、さらに一時期はその象徴界をサイバネティクスのような工学的な知によって考えようとしていたわけです。

このことを説明する上で一つ、ある作品について話したいと思います。日本のホラー映画で『リング』という誰もが知っている作品がありますね。もともとは小説だった作品ですけど、映画化され、テレビの画面から貞子が這い出してくるシーンが印象的なあの作品です。それこそ貞子がZOOMの画面から出てきたら怖いなと思うわけですけど(笑)、あの作品は、映画版では、貞子が這い出してくるシーンが非常におぞましいものとしてイメージ化されているんですが、実は原作小説においては、クライマックスはそこではないんです。あの作品は、「弔われていない死者がいる」「その死者を弔わなければ厄災は終わらない」ということが最初から最後までモチーフになっています。もちろん、その「弔われていない死者」というのが山村貞子です。そこで主人公たちは、貞子の死体を井戸から引き上げて、埋葬してあげることで、貞子が成仏して厄災が終わる、と考えるわけです。これは、精神分析でいうとクライン派的な話ですよね。ちゃんと弔われていないものを弔わなければならない、「喪の作業」をしなければならない、という話ですから。その意味では、映画版のクライマックスは想像界=イマジネールにおかれていると言える。

 

 

ところが、『リング』の原作小説では、むしろクライマックスは、その後に置かれています。つまり、山村貞子の死体を井戸から引き上げて彼女を弔ったはずなのに、ビデオテープを見た人が呪いで死んでいくという現象自体は止まらない。その事実を知った主人公は、最後になってようやく「しなければならなかったのは喪の作業ではなく、象徴的な情報の反復だったんだ」ということに気づく。この作品ではビデオテープのダビングがウイルスの再生産と重ねられているわけです。つまり、ウイルスというのはコピーされることだけを求めていて、そしてそれは「弔われていないこと」をめぐる情念とは関係のない、単なる反復でしかない。実は貞子の呪いは、ウイルスの世界におけるこうした反復によって支配されていたことが最後になってようやく気づかれるわけです。ところが、我々人間の世界では、それは想像界的に理解されてしまう。つまり、「弔われていない死がある、だから、弔いをしなければならない」という風に解釈されてしまう。つまりこの作品は、想像界的な弔いと象徴界的な反復のあいだの落差と、その2つのあいだの移行を描いた、とてもラカン的な話なんですね。つまり、物語は想像界において始まり、弔われていない死をめぐる紆余曲折を経て、最後に、それが象徴的なものの反復によって決定づけられていたことが明らかになることによって終わる。もし『リング』が、前段の弔われていない死をめぐる紆余曲折を全部すっとばして、ひたすらビデオをダビングするだけの話だとしたら、とてもシュールですね(笑)。ということは、やはりここでも、想像界と象徴界の二段重ねが非常に重要であるというわけです。

東畑さんはコーチングの話をされましたが、その意味ではコーチングというのは、想像界抜きで、純粋に象徴的なものだけに注視しているのかもしれません。それも、系譜や歴史を欠いた、純粋に工学的な象徴界に。実は、ラカン派からコーチングセラピストに転向してしまった人もいるんです。英語圏におけるラカンの重要な紹介者だったスチュアート・シュナイダーマンという人物です。ラカン派の人は、えてして想像界批判に走りがちなんですが、過剰に想像界を批判し、想像界的なものを扱う必要はないというふうに極端化していくと、むしろコーチングのような工学的な知に親和的になっていった、という例だと言えるかもしれません。

東畑 それはどういうことなんですか? 『リング』という作品は、ラストを除くと、わりと納得のいくストーリーだったわけですよね。怨念を持った人の痛いところに触れて成仏させていくという、喪の作業をめぐる定型的な物語です。それに対して、実はその目的はウイルスのようにコピーして反復していくことだった、となってしまう。文学としてはこれでも別にいいんですけど、治療の物語としては活かしづらいように感じるんです。苦しかったり、傷ついたりした人たちの、その痛いところをどう変容させていくのかという治療的なプロットには乗りにくい。たとえばコーチングではそうした想像界的な治療ではなく、象徴的な治療が行われているのではないかというのが松本さんの話だったと思うんですが、実際のところ、そこでいう象徴的な治療というのはどういうものなんですか?

松本 映画版の『リング』はクライン派的で、小説のほうはラカン派的なんですね。ラカンの考えていた象徴的な治療というのは、自分の人生の中で何が反復しているのかということを患者さんが気づき、受け入れることができるようにしていく治療です。たとえば、患者さんがある一定の対人関係のパターンというのを反復しているということがありますよね。これは対象関係論などでも扱われることですが、ラカン派はそういう反復のなかに、同じ言葉や同じ音節の反復をみていくわけです。つまり、同じような対人関係を反復しているということを言語の次元へと繋げていき、ある特定の言葉や音節の反復を見出していく。

東畑 なるほど。ただ、僕にはラカン派がコーチングに繋がっていくというのは、あまりイメージがしやすいものではないですね。コーチングがどこでできたかというとエサレン研究所という、ロジャースとかアブラハム・マズローらがヒューマンポテンシャル運動という実践をしていた研究所においてなんです。このヒューマンポテンシャル運動というのは、神がいなくなった世界で自分の内側に自己という神を見出していくような運動だったと言えると思うんですけど、その運動に関わっていた人物にの中にファイナンシャルプランナーの人がいて、彼がコーチングを作り上げていったとされています。ヒューマンポテンシャル運動自体はアメリカ西海岸のヒッピーカルチャーなどとも親和する運動なんだけど、さらにそこに会計的な知を持った人がその流れを汲んでコーチングを作り上げていった。そういうストーリーになっているんです。

そうなった時に、コーチングと心理療法というのはそれこそ想像的な関係で、正反対のところがあります。コーチングはやっぱり未来に向かっているんですよ。未来をどう創造するか、未来の自分のイメージを作って、いかにその未来に向かっていくかという話が中心になっている。それに対して、心理療法は過去を見ています。過去のものが解決されていない、弔われていない、それをどう解決し、弔うのか、こういう発想なんです。馬の傷つきを問題にしています。もちろん、コーチングにも色々なコーチがいますし、それ自体が非常に雑多なブリコラージュでもあるため一概には言えないんですけど、やっぱりマーケットの中でいかに自分を作っていくかという思想が、基本線にはあるわけですよね。一方、マーケットで勝つために心理療法を受けに行くというようなカルチャーはなかなかありません。より多くを得るためではなく、難しいことを何とかするためにいくのが心理療法です。

コーチングと心理療法というのは、そういう風にある意味では対称的になってる。ただ、僕はコーチングが象徴界的だとは思っていなかったんですよね。結構、想像界的というか、イメージの世界で動いている世界のように思っていたから、ラカン派からコーチングへ行く人がいるというのは、意外というか、衝撃的でしたね。

 

ミクロな啓示に警戒する必要がある

松本 僕も衝撃でしたね。今の東畑さんがされた、未来と過去のどちらを見ているかという話は非常に重要です。今、このコロナ禍において、言論人がとっている態度が二つに分かれているように思うんです。まず一方に、「アフターコロナ」とか「ポストコロナ」とかいった具合に未来のことを考えようとしている人たちがいる。その中には経済的な話をしている人も多く、この困難な状況下でいかに経済的に生き延びるか、ということが語られているわけですね。アントレプレナー的な人たちが「今は買える会社がいっぱいあるね」なんていう話をしている動画をこの前見たところです(笑)。

その一方で、過去のことを見ている人たちがいる。つまり今日の話でいえば、これまでの面接室がどんなものであり、どのような条件で可能になっていたのだろうか、ということを考えている人たちがいる。この過去のことを見ている人からもいろんなタイプの言説が出てきています。たとえば僕が最近SNSで見てハッとさせられたもので言えば、オンライン授業について「教員たちが今オンライン授業でてんてこまいになってるけど、もしこれまで不登校の子どもたちの教育を受ける権利のことをまともに考えていたら、これは最初から解決されていたはずの問題だったのに」という話があります。まさにその通りだと思いました。不登校の子どもにも教育を受ける権利は当然にあって、これまではそういう子どもたちに対して、フリースクールのような回答しかなかったのだけれども、実はオンライン授業を始めとする、より個別化された教育というものを考えることもできたはずなんです。しかし、それについて、少なくともマジョリティの教員は考えてこなかった。そこに差別が潜んでいたということが、このコロナ禍においてようやく誰の目にも分かるようになってきた。

これは一例ですけど、今日、こうした「弔われていないこと」、つまり、不可視化され、不問とされてきた差別の構造的な格差が、新型コロナによって世界的に炙り出されていますね。話題になった岡村隆史の発言もしかりです。あるいは、冒頭で東畑さんが言われたような、そもそも心理療法を受けることができた人たちがある程度、恵まれた人たちだったということ、それに輪をかけて、コロナ禍の状況でオンラインカウンセリングをするための準備をできるかどうかという点にも、まさに格差の問題が表れているわけじゃないですか。未来を見つめる人たちの他に、こうした「弔われていなかった問題」というのが数多く浮上してきている、ということに注目する人たちもいるわけです。言説が二つに分かれているなという気がします。

東畑 どういうモードでこういう不安な時期を乗り切るのかという問題だと思うんですよね。結局、アフターコロナ言説の人というのは、コロナ以前から未来のことを考えてきた人たちだと思うんですよ。アフター人材(笑)。逆に弔われてないものを考えてた人たちも、コロナ以前から弔われていないものを考えてきた人たちだとも思うんです。

松本 お盆大好き人間ね(笑)

東畑 そうそう(笑)。それについて何が正しくて何が正しくないかということに関してはいろんな文脈があるからさておくとしても、不安になった時に前を向く形で躁的になって未来をクリエイトしていくという態度も、あるいは過去の方に向かって弔いを始めるのも防衛なのかもしれない。難しいのは、今日、どのタイプの防衛が適応的なのかがちょっとよく分からないということですね。非常に不確実な状況下で生きているという感覚があります。

実は、この状況について、いろんなところからインタビューを申し込まれたんです。ただ、あまりに不確実なことが多くて、うまく話せないと思ったので基本は断ってきました。三ヶ月後に今日喋ったこととかが全く変わっている可能性もあるじゃないですか。さっき話したようなオンラインカウンセリングの話もまだちょっと分からないことを喋っているような感覚がある。渦中にいるんです。だけど、一方で、このように不安だからこそ、積極的に今対話しているというのもあります。不確実さを消化するために、僕は書いたり、対話したりしながら、考えている。それもまたおそらく防衛だと思うんです。前からそういう風にしていましたから。だから、本当は黙って臨床をやっている方がよかったのかもしれないけど、やっぱり考えてみたかったわけですよね。みんながそれぞれそういう防衛を使って、なんとかこの不安の中で、日常を再構築しているという状況なのかなと思うんです。

松本 この新型コロナウイルスへの対応の中では、哲学者たちの反応も話題になりました。『現代思想』のパンデミック特集にも、いろんな哲学者たちの反応が掲載されていますね。僕もリアルタイムで彼らの言説をなるべく見るようにしていたんですけど、中でもやっぱりジョルジョ・アガンベンが、最も防衛的に反応しているというか、一番最初にものを言って、一番最初にすべってるという印象を受けました。なんと言うか、これからどうなるか分からない状況に対して大きなことを言おうとして、不確実なものをどうにかして理解可能な形式に落とし込み、大雑把に未来を語るというようなことを、アガンベンみたいな人でもやってしまっている。

 

 

アガンベンが言っていることは、今日のような例外的な状態があらゆる強権的な統治を正当化するということです。それを「例外状態の常態化」だと指摘しているわけです。たとえば、この事態においてどさくさ紛れに憲法を改正して、もっと強い隔離政策を発令できるようにするといったように、大した議論もなしに政府の強権発動が可能になる、というのが、アガンベンの危惧していることです。とはいっても、これは以前から彼が言っていたことでもあって、その図式をコロナ禍に単にあてはめるようになっている。ウイルスについて、本当にこれからどうなるか分からないにもかかわらず、アガンベンは新型コロナウイルスはインフルエンザと変わらないという風にも語ってしまっていて、だから、そんなに騒ぐ必要はないんだ、と言い切ってしまう。

東畑 こういう状況において、人はシャーマニックになりやすいんですよ。天理教の中山みきが典型ですが、環境があまりに不確実になるときに、啓示が来るんです。現代のシャーマンたちもそうです。仕事や家族が壊れてしまって、なにがなんだかわからなくなるときに、啓示が来る。夢を見て、声を聴く。実は僕も二月ごろに地下鉄に乗っている時に啓示が来ました(笑)。飯田橋を出て、市ヶ谷につくまでの間に、週刊文春の中づり広告を見てたら、瞬間的にパーって5年後の未来が見えたので興奮しました。僕の場合は二日くらいでそのイメージは消えてしまったんですけど(笑)。そういう人多いんじゃないかな。不確実な状況だからこそ、それを一貫して語るストーリーがこしらえられてしまう。ミクロな啓示ですね。それでいうと、アガンベンにも啓示が来たんだと思いますね。

松本 そうでしょうね。バスの揺れ方で人生の意味がわかる的な(笑)

東畑 そうそう。そういうのは、結構あるんじゃないかな。認知機能の特性として。

松本 そうかもしれませんね。ただ、こういう状況だからこそ、大きな話をするよりも、むしろ細かいところを見ていかなければいけないと強く思います。アガンベンのような話とは別に、今、「緊急事態だから、ロジカルに考えよう」とか「ゼロベースで考えよう」とか「いったんリセットして考えよう」とか、そういう言説も目立っているじゃないですか。たとえば、大阪のパチンコ店でまだ営業しているところを行政が公表すべきだといったような言説を盛り上げていた人たちの情念は、「パチンコはある種の利権であり、その売り上げは総連を通じて北朝鮮に送られているんだ」といったようなレイシズムと結びついた言説によって支えられているわけですよね。そういったレイシズムと結びついた言説などが普通に流出し始めている。それも、一般の市民だけが言っているのではなく、府知事までもがそういう言説に乗っかってしまっている。その際に、レイシズムを覆い隠すかのように、「ゼロベースで考える」とか「原理的に考える」という話法が用いられている。しかし、そういう話法を用いれば、それこそなんとでも言えてしまうし、あらゆる規制が可能になってしまうわけです。

そもそもパチンコ屋で景品を換金できるのはおかしいのではないか、というロジックは、それこそ「原理的」に考えれば小学生でもわかる話です。しかし、そういう風にゼロベースで考えてしまうと、物事の複雑性が見えなくなってしまう。もちろん、誰がどう考えても、事実上の賭博になってしまっているのは奇妙なことです。それは誰にでもわかる。では、そうであるにもかかわらず、なぜそれが今まで続いてきたのか。そこには非常に複雑な歴史があるわけですよね。当然、差別のことも考えないといけない。政治との繋がりにしても、複雑な経緯の積み重ねがあって成り立っていたりする。そうしたことが緊急事態下においては忘却されやすく、「ゼロベース」で、「いったんリセット」して、「ロジカルに考えて」みる、という話法によって、複雑な経緯や差別の認識、運動の歴史を一切無視したような言説がきわめて感染力の高い形で出てきてしまうわけです。

だから、大きなことを言ったり、分かりやすいことを言うという流れには警戒しなければならないと感じます。アガンベンのいう「例外状態の常態化」というのも、細部を見ていない議論ではないかという気がします。実際、この危機のなかで、抑圧が強まっていたり、監視社会化・管理社会化が強まっているということは間違いではないと思いますが、必ずしもそのような悪いことばかりが起こっているわけではない。オンライン授業についてもそうで、僕は最初、オンライン授業なんか絶対にうまくいかないだろうと思っていたんですけど、ZOOMを使ったオンライン授業がこれまでの授業よりもずっと集中できた、というような声も多いんですよね。ようするに、教室で横並びに座って聞くという形の授業が苦手な人たちがそもそもいて、これまではその人たちの権利が保障されていなかったということなんです。その人たちの存在はこれまで不可視化されていた。さっきも言ったように、今の状況はこれまで不可視化されてきた差別や格差を浮き彫りにしつつあって、そうであるならば、そうしたことをちゃんと補正していく契機にもなりえるはずなんです。確かにZOOMで授業をすれば、出席管理の観点などからすると、管理社会化は進むと言えるかもしれない。だけど、そこの中からどういう風にしていいものを取り出していくかということも、同時にみていかなければならないと思いますね。

 

ケアが「閉じる」時代においていかにケアを再構築していくか

東畑 こうした状況においては極端なこと考えやすいというのは本当にそうで、それを今日のテーマに繋げていくとすれば、人は基本的に一人で考えていると極端なことを考えてしまいがちなんですよね。僕たちは今カプセル化していて、今日はたまたまカプセルの向こうの松本さんとこうして会っているわけだけど、そうしたこともせず、カプセルの中に引きこもってしまうと、極端なことを考えやすくなってしまう。僕も「地下鉄南北線の神」から啓示が降りてきたりしてたわけですしね。これはどういうことかというと、今では中間共同体のようなものが全て三密の対象となってしまったわけじゃないですか。今日のテーマは「ケアが閉じる」という話でしたけど、メンタルヘルスのここ15年くらいの流れというのは個人と個人が心を掘り下げていくサイコセラピー的なものではなくて、コミュニティであったりグループであったり、まさに三密的な集団を作ることで、相互に少しずつ依存をしていくというものでした。それがものすごく大きなムーブメントとしてあったわけです。その象徴が「ケアをひらく」シリーズで、それこそ「べてるの家」の実践などが示していたのは、一人でいると妄想は自己破壊的になってしまうのだけど、みんなと一緒にいてその話をしているとそれがマイルドなものになってく、分け持たれるものになっていく、ということだったわけです。だけど今、そうした共同性が難しくなってしまった。みんなでシェアして繋がっていくことが端的に言って難しくなっているわけです。

実際に、アルコール依存症の自助グループなどもこの事態下で閉じていて、スリップ(再飲酒)が多発しているという話も聞きます。すると、そうしたことを防ぐために、ZOOMなりなんなりのメディアを使って、もう一度、共同性を取り戻していくことができるんだろうか、という問いが出てきます。ただ、そうした共同性を必要としていた人はある種、そうしたメディアに乗りづらい人たちだったわけですよね。べてるの家の人たちがZOOMで当事者研究をするというのは難しいと思います。ZOOMにはセッティングの時点で排除があります。精神科デイケアもそうです。デイケアの役割は朝から夕方までそこにいて生活できるということにこそあって、情報の次元で何を喋るかとかじゃなかったわけです。だけど、精神科のデイケアも閉じてしまったところはあるようですし、人々が集まるということが難しくなってしまった。そうした中でどうやって共同性を再建できるのか、あるいはできないのか。ケアを一度閉じざるをえない中で、ケアの形をいかに新しく再構築していくのか、あるいは以前あった三密をいかに取り戻していくのか。今メンタルヘルス関係者はみんなこうした問いにぶつかって、格闘していると思います。

松本 今おっしゃった共同性というのは「ケアをひらく」シリーズなどを筆頭に、すごくブームにもなりましたし、礼賛もされてきたわけですが、今日の事態において、その共同性なるものが実はやばいものだったということが分かってしまったわけですよね。新型コロナ対策で言われるようになったこととして、まず「三密を避ける」というのがありますが、もっと極端な言い方をしてる人もいて、たとえば「セックスをしてもいいと思える人としか三密になってはいけない」ということも言われていました。セックスは誇張した喩えだとしても、要はパートナーや家族などの親密な人としか三密になってはいけないと考えられているわけです。その中で、自助グループやデイケアといったものが、これまでそこのところを棚に上げて共同性というものを作ってきたということが、はっきり見えるようになってしまったわけです。それこそ、東畑さんのデイケア本は、今年出ていたら全く売れなかったかもしれない(笑)

東畑 いや、絶対そうだ、危なかった(笑)。たとえばオープンダイアローグなどはその辺りのことを一番明確に打ち出していましたよね。それこそ斎藤環さんは、オープンダイアローグを語る上で、まずサイコセラピー的な二人の関係、親密性の次元のやりとりというのは危険だという話を前提にしていました。確かに二者関係は危険なんです。その危険さにいいところがあると思って僕はこの仕事をやっているんだけど、とはいえ、危険があるのは事実なんです。だからこそ、オープンダイアローグはグループ形式をとることでそうした危険さを減じ、安全を確保するという戦略だったと思うんですが、それが一転、コロナ禍においては一番難しい形になってしまった。逆にいうとサイコセラピーの方が、こうした状況下ではしぶといんです。それは共同性ではなく、親密性を原理にしていますから。

 

 

松本 実際、精神分析はしばしばセックスのメタファーで語られてきましたからね。「絶対にセックスはしないということに同意した二人の人間がお互いに面接室で何を言うことができるのかを考えるのが精神分析だ」というような言葉もありますし。

東畑 そうそう、アダム・フィリップスの言葉です。「三密から親密へ」というのが今の流れで、みんな三密圏を避けて親密圏へと引きこもっていってるわけですよね。だけどそうすると、家で虐待が起こり、DVが起こるわけです。これまで学校や職場などの共同性によって親密圏がギリギリ平和に保たれてた部分があった。親密圏外での共同性が逃げ場になっていたんだけど、そこが利用不可能になってしまい、剥き出しの親密圏に突入してしまった。そこで痛ましいことが起きてしまう。ただその一方で、久しぶりに家族とゲームしましたと語る学生がいますが、親密圏の再構築もなされているわけです。同じコロナが痛ましさを生むこともあれば、むしろ人生を前進させる契機を生んでいたりもしています。コロナも多様です。

松本 それは本当に難しいところで、さっき哲学者がどうコロナに反応していたかという話をしましたけど、アガンベン以外にも、たとえばジャン=リュック・ナンシーもまたパンデミック初期に出した論考で注目されました。ナンシーは「これはコロナウイルスではなくてコミュノウイルスなんだ」ということを言っていました。コミュノウイルスとはどういうことかというと、一方では、これはコミュニズムのことで、共産主義の国である中国から新型コロナウイルスが出てきたという点のことに言及した言葉です。そして他方では、コミュノウイルス、つまりこの新型コロナウイルスは、これまでのグローバル資本主義の継続を不可能にし、我々がコミュニズム的連帯について再考するきっかけなんだといった、という意味でもあります。

大筋では同意するものの、やはりこういった言説には雑さも感じざるをえません。さっき東畑さんが言われたのは、今、すでにある親密圏をどうするかという話でしたが、他方では、これからできてくる親密圏の問題も存在するわけです。たとえば誰かと恋愛関係になったりということは、今後、どういう風に可能になるのか。それこそ、手を繋ぐということにしても、以前よりもずっと「やばい」ことになっているわけです。そういうことも考えていかなければいけないし、さっき話したような自助グループなどにおける共同性の問題もある。それなのに、哲学者たちは安易に、これはコミュノウイルスであって我々が新しい連帯をできるきっかけになるんだ、ということを苦労なしに言ってしまうわけです。

東畑 シャーマンですね(笑)

松本 そうそう。哲学者たちの言ってることは確かにハズレではないですし、アガンベンの言っていることもたしかに進行していれば、ナンシーの言っている可能性の兆しもみえつつある。だけれども、あたらしい連帯の創出は簡単な話ではないし、それに対してものを言うことができるのは、やはり現場の人たちなのかなという気がしています。僕は自助グループ等に関わってないから、評論家的に語ることしかできないんだけれども、今、自助グループに関わっている人たちにこれからのグループのあり方について、あるいはそこにどのような「苦労」があるのかについて発言してもらうことができたら、それこそ最先端の言論になるでしょう。彼らこそは、これから共同性をどのように立ち上げ直すか、そして共同性をどのように作っていくかという点について、まさに「苦労」をしている当事者なのですから。この事態下において、カウンセリングルームを開いておくべきなのか、閉じるべきなのか、というところで悩んでいる経験の細部のなかから、新しい言説が生まれてくることを期待しています。

東畑 そうですね。医療は比較的、そうした緊急事態下においても開けておく場所として保証されているところがあると思うんですけど、それこそ僕のような心理士はかなり迷うわけです。それはもう、あらゆる機関が迷ったんだと思う。結局、閉じたところも多くありました。そんな中で、自分の仕事というものが社会の中でどういう立ち位置にあるのかということを痛切に考えさせられたわけです。で、僕はどうしたのかというと、ケースバイケースで対応することにしました。クライエントそれぞれの地理的な事情、どうやってここにきてるのかということとか、あるいはご家庭の状況とかをそれぞれと相談しながら、休止にするか継続にするか、あるいはオンラインに変えていくかということの判断をしていったんです。

そこに至るまでに、本当に僕は「どうしたらいいのか」とかなり迷っていました。ケースバイケースで判断するということは、本来、心のケアの根底部をなすものです。クライエントの個別性に向き合うということは、僕ら心理士の最重要な本質的エートスであり、プロフェッショナルである所以でもある。しかし、一方で社会がこういう状況になったことで、公衆衛生のために不要不急の外出を控えてくださいという力が働いてきてしまったわけですよね。公衆衛生というのは人口単位で管理を行うことを前提としたものであり、そこでは個別性というものが否応なしに捨象されてしまうわけです。だから、個別性vs公衆衛生、社会防衛vs個人の心のケア、といった葛藤がありました。コロナ状況で心理療法という仕事の根本の部分が難しくなっていることを感じたわけです。それは「心」というものの危機でもあります。個別性や人権は「心」の前提条件ですが、公衆衛生的危機はそれを脅かします。

 

臨床家は時代の後ろを歩いている

HZ ここでお二人に質問させてください。現在、感染拡大防止のための「ステイホーム」が奨励されているわけですが、それによって、外出を控え、人と会わず、自宅で過ごすという生活態度が一般化しつつあります。あるいは、そうした生活態度が是とされる状況というのがある。このような状況、空気というのは、精神医療に掛かっている患者さんたちにどういう影響を与えているんでしょうか。あるいは、こうした状況が人々の心にどういう影響を与えうるのかも気になります。

松本 患者さんの中にはこの状況下で逆に楽になっている人も少なくありません。もちろん、悪くなってしまっている人もいるにはいるんですけど、鬱とかをずっと抱えてきた人にとっては、これまで外に出ないといけないということ自体が負担であったりもしたわけです。その点、胸を張って引きこもれると言いますか、引きこもっていても倫理的に咎められなくて済むというのが今の状況ですから、そこについては楽さを感じている人が多いという実感はあります。

あと、3.11の時にもそうだったんですけど、混乱が始まって数ヶ月後、おそらく5月後半から6月くらいの時期から、事態の対応にあたっている人たち、今回なら特に医療関係者や役所の関係者の方々の中から過労によるうつの症状を訴える方などがどんどん現れてくる可能性が高いでしょうね。中には、そこから重篤な状態になってしまう人もいるので、きちんと対策をしていかないといけないでしょうね。

東畑 これは本当に心の問題の難しいところなんですけど、社会が不安定であること自体が苦しみの原因になるわけですよね。会社が潰れてしまったりして、現実が苦しくて、寝れなくなったり死にたくなったりする患者さんは多い。だから、社会自体が落ち着かない中で心だけケアをするということは、実際、かなり難しくて、その意味では無力感を感じています。おそらく今もっとも必要なのはソーシャルワーク的な対応なんだろうし、もっとも切実な悩みも必要なお金はどこで手に入るのかとかそういうところだったりする。あるいは精神科医の処方、寝るための睡眠導入剤とかはもちろん役にたつかもしれない。やっぱり第一段階としてはそういうケアなんだろうな、と。その次元で苦しい人がいっぱい出ていて、その先の問題にまだ至ってないように感じます。つまり、「ステイホーム」を始めとするいろんな変化が起きていて、それによって心の問題が現れているという風な話はありえるんだけど、まだその話ができる段階じゃない気がするんです。

松本 身も蓋もないけどお金の問題というのは本当に大事ですよね。極端な話、カウンセリングに来るたびに3万円もらえるとかね、そうでもしないと、医療に行きにくい層というのもいるわけですよ。自分に心の問題があるということを認めにくい人がいて、特に男性にはそういう人が多いですから。まあ3万円は冗談だとしても、アクセスの整備について考えないといけないと思いますね。

東畑 ただ、心のケアとして、今重要なのは「おかしくなってるよ」って言ってくれる人がいることではないかなと思います。当然、社会が直らないと直らないものがいっぱいあるし、それはお金の問題もそうなのだけど、やっぱり「おかしくなってるよ」って言ってもらえることで、ようやく病人の役割を取れて、止まることができたりするわけです。そういう意味で、心の傷を癒すということだけではなく、具合が悪いことに気づく仕事というのは、今とても大事なこととしてあるなと思います。

松本 それは本当に大事ですよね。自分が病気であることを認めたくない人にそれを認めてもらうためには、言葉の技術が必要ですから。「あなたは病気だから休んだほうがいい」みたいな言い方だとうまくいかない人というのはいっぱいいる。その場合は「世の中でいうとこういう診断に当てはまるということはひとまずおいておくけども、あなたの苦しみってこういうことですよね」という風に言葉を翻訳しながら対話していく必要がある。「あなたは脳が疲れてるよね」なんてことを言うときもありますし、理系の人だったら「CPUが熱暴走しているような感じかもしれません」とか言ったりもします。そんな風に、その人の特性に合わせていろんな言葉を使いながら、「調子が狂っている」という認識を持ってもらい、「まずは休む」ということを正当化していくということが、今、臨床の人が一番やらないといけないことかもしれません。

東畑 おかしくなりますよね、こんな状況では。

松本 そりゃそうですよ。だいたいみんなお酒飲む量が増えてますから。

HZ 一方で、これは素人の楽観みたいなものなんですけれど、今後、コロナを経た世代がコロナジェネレーションみたいに呼ばれるのだとしたら、もしかしたらそれはポジティブな意味で使われるんじゃないかな、ということを妄想したりもしています。ステイホームにはもしかしたらポジティブな側面もあるのではないか、と。もしかしたらこれまでが過剰にアクティブになりすぎていたのかもしれないという視点です。たとえば学生さんとかであれば、これまで交友関係に使っていた時間を、自分のための時間に当てやすくなったという人もいるかもしれない。適度に引きこもることは、自分の個別性などに向き合い、それを育てていく契機ともなりえるかもしれない。以前、HAGAZINEにて松本さんをインタビューさせていただいた際に(※)、自閉することが内面の豊かさをもたらすという話もしていただきましたが、ステイホームや社会的距離化の中でありうるポジティブな側面については、どのようにお考えでしょうか。

※今、戦略的に「自閉」すること──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー https://hagamag.com/uncategory/6880

松本 ここまで話してきたように、ネガティブなところも少なからずあって、たとえば家庭内におけるDVや虐待が増えているというのは、まさにそうですよね。ただ、一方ではポジティブなことも起こっていて、このステイホーム期間の中で、自分の特異性に磨きをかけた人たちが出てくるというようなことは実際にあると思いますし、そこもきちんと注目していきたいところです。今は新型コロナウイルスをめぐっては知識人の大喜利状態になっていて、それぞれなんか面白いことを言ってやろうみたいな感じになっていると思うのですが、僕としてはやっぱりあんまり大きい話はしないほうがいいように思うんです。「例外状態の常態化」だとか「コミュノウイルス」だとか、パッとキーワードを出すようなことは難しい。まずすべきことは、現状起こっているマイナスの中にきちんと介入していくということだと思う。それも国家による介入というよりは、草の根で介入していく必要があるんじゃないかと思っています。

東畑 そうですね。やっぱり、この期間でポジティブなものを掴み取れるというのは、かなり恵まれているということだと思うんですよ。もちろん、恵まれているのは悪いことではなくて、その資源を使うべきであって、それはそれで全然いいんですけど。それこそ最初に言ったような引きこもれる環境をすでに持っていたり、豊かな孤独を作れるだけのケアを持った人たちは、この時期に何か良いものを掴んでいるかもしれないとは思います。それはそれでいい。ただ、僕としては、これまでかろうじて社会からケアを手に入れてきていた人たちが苦境に陥っていることが、一番大きい問題として感じられちゃうんです。まだポジティブな面について考える余裕がない。これまでの繋がりってなんだったんだろうかと、真剣に考えてしまいます。確かに、社会が減速していることで、日々に急き立てられずに済んでいるから、そういう意味では良い部分もあるし、不快で不潔な繋がりが少なくなって、気持ちがいい部分もあるんだけど、ただ、それで本当にいいのか。そこのところはまだわからないなというのが僕の正直なところです。個々のつながりの価値は、時間をかけないとわからないものだと思います。

HZ ありがとうございます。たしかに、大きな視点で今日の状況を価値判断しようという態度そのものが、そもそも特権的な態度だったのかもしれません。そこについて、自分自身、あまりに鈍感であったように思います。この事態を大きく受け止める必要はあるにせよ、それに対して大きく反応しすることに対しては一定レベル禁欲しつつ、今日話題にあがってきたような、この事態によって可視化している様々な問題――格差や差別、非対称性などに、一つずつ、小さく対応していく。つまり大きく受け止め、小さく反応するということが、今日もっとも堅実な態度なのかもしれませんね。

東畑 臨床家というのは後追いなんですよ。時代を後ろから歩いてついていく仕事なんです。だから、未来の話や、時代診断の話になると、基本的に歯切れが悪くなる。そこもあると思いますね(笑)

 

質疑応答

Q1 人類学者の近藤祉秋です。治療の空間論に関連してお聞きしたいことがあります。テレワークが推進されてる中でこれまで他人の目に晒されてこなかったプライベートな部分が目に晒されるようになったということがありますが、これまでの面接室ではなく、逆にオンライン診療することで、自宅での生活状況からその人の問題がより分かりやすくなったというような経験はあるのでしょうか。

松本 認知症の臨床などにおいて、まず、本人の住んでいる家、住んでいた家を見に行くことが大事だということはこれまでも言われてましたよね。

東畑 そうですね。プライベートな風景が見えることで、今までクライエントが語っていたことの意味が改めて分かるという側面は当然あると思います。そこで言うと、精神分析家でオンラインセラピーもやっているアレサンドラ・レンマという人がいるんですが、彼女が著書に、相手が私的空間にいてこちらがカウンセリングオフィスにいてという形でのオンライン面接では、エロティックな想像力が働きやすい、というようなことを書いていました。やっぱりすごい侵入感があるんですよね。クライエントもそうだし、治療者も自分では気づきにくい逆転移において、親密性が形成されやすい。なんかいつもより親切になっちゃったりする。実際、相手の家の状況が視覚的に見えることで相手のつらさがすごく伝わってきちゃうというのはありますから。それは物質的な困窮の問題ではなくて、なんかよりリアルに生活が見えてしまうところがあるんです。そうした点を自覚しないとすごい危険だというのがレンマの考えでした。要は私的空間と繋がってしまうことで治療者もいつもと違う心境に気づかずになりやすいという話です。ここについては今後、いろんな問題が出てくるんじゃないかなと想像しています。

松本 なるほど。これまでの力動的なアプローチでは、治療者は自己開示はしないのに対して、クライエントはどんどん自己開示をしないといけないという非対称性があり、それが治療の設定になっていたわけです。その非対称な設定が、オンライン診療の中でも、治療者はオフィスにいるのに、患者はプライベートな空間にいるという形で再現されている。ここは興味深いポイントですね。。

東畑 そうですよね。ZOOMで言えば、我々が後ろの画像を変えるかどうかと言う問題もあります。僕としては治療者はやっぱり背景画像を使わない方がいいんじゃないかなと思う。あれを使ってしまうと、何を隠しているんだろうなって思わせてしまいますから。

 

Q2 ZOOMを始めとするビデオ通話においては、会話中、自分自身の顔が常に見えている状態になります。個人的に、これがすごく気色悪いというか、不快感があるのですが、こうした自分の顔を見ながら喋るという行為、あるいはカウンセリング中に自分の顔が見えている状況というのは、心に対してどういう負荷があるものだとお考えでしょうか。

東畑 僕が引きでビデオを撮っていることの良い点は自分の顔がよく見えないというところでもあるんです。モニターとの距離が遠いので自分の顔がほとんど見えない。それによって対話の相手に集中することができる。だから、もし不快なら引きで撮るといいかもしれません。ただ、まあこうした「自分の顔が見えながら話す」ということ以外にも、新しいソフトウェアを使用する上ではいろいろな変化が起きているわけですよね。そうすると、結局、それぞれがその人らしく使うようになるとも思うんです。実際、ZOOMでカウンセリングをしていると、自分の顔ばかり見て喋る人もいれば、一方で全く自分の顔なんか気にならないというような人もいる。そう考えると、テクノロジーの進化自体が何か問題を引き起こしているというよりかは、テクノロジーはその人の心のそもそもの形を拡大化して見せていると考える方が正しいんじゃないかとも思うんですね。

それで言うと、新型コロナウイルス自体もそういうもののように思えてきます。一様ではないいろんなコロナがあって、人々それぞれの心の割れ方がコロナによってズームアップされているような感じがしますよね。

松本 自分の顔を見ながら喋ることの違和感に関しては、世代の問題も大きいと思いますね。たとえばツイッターをやっていると、ツイートした瞬間に書き直したくなることとか、あるじゃないですか。何か考えて書いて投稿するわけだけど、投稿した瞬間に、なんだか恥ずかしくなってきたり、誤字脱字とかを見つけたりとかして、消したくなる。あれは、自分のツイートが、特定の誰かというよりはむしろ「大文字の他者」に届いた結果として、自分のほうにメッセージが跳ね返ってくるということです。「大文字の他者」に対してメッセージを届けた途端、メッセージを発する以前には許せていたものが、急に許せなくなるということがある。ただ、これは昭和生まれの僕の感覚ですから——あまり昭和とか平成とかで分けるのもどうかとは思いますが——平成生まれの人たちからすれば、彼らは10代の頃からSNSをずっと使ってきているわけで、そういう風に自分を晒すことで周囲からどう見えのるかということにずっと慣れているでしょう。おそらく我々世代ほど、嫌な感じもしないんじゃないのではないでしょうか。

 

Q3 信田さよ子です。今、最も大変なのはグループカウンセリングだと感じています。現状は、まだその場が存在していた頃、身体性で繋がれていた頃の遺産によって、かろうじて食い繋いでいるという感じです。今日のようにコミュニケーションがオンライン化した状況で、果たしてこれまでのグループのようなものが成立するのかどうかというのが、非常に大きな問いとしてあるわけですが、そうしたことを考えながらも、一方でその貯蓄は目減りしていくばかり。とはいえ、明日もDV避難者、虐待避難者などのグループカウンセリングをZOOMで行う予定ではありますが。

東畑 ありがとうございます。たとえばデイケアはZOOMに移行できなくて、ならばその最前線で行われているのは、失われてしまったことについて話し合うということです。つながりが失われることそのものを語り合い共有すること。そのこと自体が絆を保持させてはいるんだけど、それは確かに遺産を食いつぶしていることでもあって、果たしてそこから新しく何かを結べるんだろうか、というのは未知の問題だと思います。あるいは別の文脈でいうと、大学などには一年生が今入ってきていて、普通だったら教室で出会って、いろんな友達ができたりしている頃なんですけど、それができていない。こうした状況における新しい繋がりをどうやって作っていけばいいのかということは、今かなり多くの人が体験していることなんだろうとも思います。

信田 企業でもそうですよね。新入社員同士が一度も実際には会っていない状況。

松本 社員の新入社員とかも、会社に物理的に出勤して、上司からなんかよく分からないことをあれこれ言われることで、社員として主体化していくという流れがこれまでは間違いなくあったと思うので、それがない世代というのはやはり独特なものになっていくでしょうね。そうした中で新たに親密なグループを作ることができるかというのは本当に問題です。これからの現実的な戦略としては、感染の第一波が落ち着いて、第二波が来る前に、関係性の貯金を作っておくことしかないのかもしれないですね。

信田 いや本当にね(笑)。うちも大変だったんですよ。なんせ箱がありますから。スタッフが常勤6人で11人いますし。

東畑 それはやばいですよね。

信田 やばいですよ。だから今の私の一番大きいテーマはお金の問題です。今日の対談のテーマは「心のケア」ですけど、今日みたいな事態になると「心」ってなんだろうみたいに、やっぱり思っちゃいますよね。

東畑 逆に質問なんですけど、信田さんのところには新しくグループに入りたいという形でエントリーして来るような方もいるんですか?

信田 いますよ。申し込みは来ています。これまでは私たちは身体性というか、場というものを重要視してきましたので、どんなに遠隔の方でも一度はお会いしてお話するというのをルールにしてきたんですが、この度、そうしたルールも全て撤廃しました。最初からオンラインでも可能であるというように修正したんです。これは大変革ですよ。

東畑 そうですよね。でも、まさにそのポイント、ゼロからオンラインで関係性を作れるかというのは今みんなが関心あるところだと思うんですよね。僕はオンライン面接を行ってはいますけど、今までのクライエントとオンラインで面接をしているという形なので、ゼロからの関係性構築に関してはまだやっていないんです。そこはまだ慎重になっています。

信田 やっぱり個人だと難しいと思うんですけど、私たちの方ではいろいろとそのためのシステムをみんなで作ろうと動いてはいるところです。まあ、壮大なる実験ですね。だから、あと半年後にどうなっているか。本当は私はもう引退するはずだったのに、コロナで引退期を逃しましたね(笑)

松本 それは逆に良かった(笑)

信田 お二人は1983年生まれでしょう。私は1946年生まれですからね。もうそんなにね、どうしようもないんですよ。

 

Q4 うちにいる中一の息子を見ていると、このコロナの最大の影響はオンラインを使える子と使えない子の格差であるように感じます。一般には誰もが通うことができる学校というコミュニティで小学生時代を経験してきている子にとって、人に会えない状況がこの世代特有の孤独感を生んでいるようにも思います。学校が始まっても、この孤独感、他の生徒との格差を考えると、まさにスクールカウンセラーに相談するというアクションの起こし方を知らない子達にはとてもつらい学校の再開になると思います。こうした世代の子供達への対応として考えられること、対処できることはあるでしょうか。

東畑 今は学校が遠隔教育をどれくらいやるのかということが問題になってますよね。全家庭にそのための環境が揃うまでは始められないとする格差に配慮した考えと、できることはやっていった方がいいんじゃないかという考えと、現状では色々あると思うんですけど、僕としてはまずはやっぱり、どんな方法でもいいから先生と生徒が繋がっておくことが大事だと感じています。ZOOMでもいいし、LINEでもいいし、手紙でもいいので、とにかく繋がる。僕が最初の方で話した「プレゼンス」というのはそういうことで、学校の先生がいて、あなたが生徒であるということ、その感触を確保する必要がある。それが学校へ復帰した時に活きる繋がりとなるんではないかなという風に思うんです。すでに学校側はそれぞれいろんな努力をされていると思うんだけど、この「プレゼンス」をどれくらい確保し続けるかということは、非常に重要な気がしていて、それこそ教育やコミュニケーションの中身以上に重要である気もします。

松本 すでにそうなってから何年も経っているんですけど、インターネットは本当にコミュニケーション強者のためのものになりましたよね。90年代のインターネットはどちらかといえば根暗でナードな人たちにとってのアジールだったわけですが、いつのまにかマジョリティの、それもコミュニケーション強者のためのツールになってしまった。今はネットが本当に全面化しているにもかかわらず、ネット以外に逃げ場が無くなっているという問題もあります。ただ、ネットの中にアジール的な場所がないわけではないと思うので、そういうところもどんどん探されていってよいのかもしれません。

 

Q5 ZOOMを使った心理療法にそもそもアクセスできない人の想定について質問があります。たとえば僕は大学院で研究しているんですけど、最近は指導教官と毎週オンラインでミーティングするんですね。その際、結構そこに、つまり、一瞬で画面が現れて指導教官と会話するということに、覚悟みたいなものが必要であるように感じているんです。以前であれば研究室まで歩いていく過程で、自分の中で形成される覚悟みたいなのがあったんじゃないかと思いますが、オンラインではそうした過程がなく、いきなり繋がってしまいます。現在、心の治療をされている方々にとっても、診療がオンライン化していった場合、そういった面が大きく影響しているのではないかと感じました。つまり、そこに障壁を感じてしまってアクセスできないという人もいるんじゃないでしょうか。

東畑 繋がるときもそうですが、会話が終わってすぐに私的な空間に戻るという体験もまた結構トラウマティックですよね。面接の中で心の中のことに集中していたのに、ZOOMを切った瞬間にいつもの部屋だけがあるというのはどこか乖離的でもあります。ただ、現実はそうなので、そのこと自体を話し合うしかないように思っています。結局、新しい状況では以前にはあったものが失われ、以前になかったものが新しく生じます。それはどうしようもない。だけど、そのことについて僕らは話しあうことができる。言語の再帰性の最大の長所がそれだと思います。

松本 そうですね。たとえば治療構造論においては、面接室だけではなく、面接の前後にどんなルーチンがあるか、たとえば、面接が終わった後に必ず近場の喫茶店によって物思いにふけって帰るだとか、そういうことも含めて治療構造だという風に考えられていますよね。オンライン診療ではそうした部分がなくなりがちであり、それは本当にトラウマティックなことだと思います。だから、意図的にルーチンを取り入れてみるといいかもしれませんね。

東畑 ZOOMにインする際に「ホストが許可するのをお待ちください」というアナウンスが表示される時間があるじゃないですか。あれには待合室感がありますよね。こっちも許可をして、相手がインしてくる時に、面接室にクライエントがノックして入ってきている時と同じ感じがするなと思います。心とは不思議なものですよね。状況が変わっても新たに物語化して自分にとって必要なものをしつらえていく。それが「慣れる」ということなんでしょうけど。

松本 そう、やっぱり人は適応していくんですよね。

 

Q6 対面カウンセリングに行くということは、家とは違う場所に不安を携えつつ訪れて、そこで不安が消える体感を得て、安心して家に帰るという経過のことなんだと思います。その移動が実は重要なんじゃないでしょうか。これがZOOMの場合だと、つないだ後とつないだ前で体感として周りの空気感が入れ替わらないままなので、心境がうまく切り替わらないと感じています。その理由はネットの交流では人と繋がる感覚が希薄だからかもしれませんが、あるいはある状況からエスケープするためには物理的な場所の移動が必要だからであるようにも思います。

東畑 場所というのがいかに強い力を持っていたかということは、まさに痛感しています。面接室がものすごく深い力を持っていた。ただの場所ではなくて、そこまで歩いてこなければいけないとか、そういうこと自体がクライエントにリアリティを処方していたということを再認識しているところです。それは、日常から、心を扱うための境界線を作っているとも言えて、冒頭のウルフの話にも繋がりますが、場所とはまさにそうした境界線であったのではないだろうかと思っています。その境界線がZOOMではあまりにすぐに移り変わってしまうため、いまいち機能していないのかもしれません。

松本 僕はオンライン診療をやってないので想像でしかないんですけど、たとえばオンライン診療を受ける部屋をあらたに準備するのは難しいとしても、たとえば椅子を一つ用意して、その椅子をカウンセリングのときにしか座らない椅子にして、カウンセリングの時にしか見ない景色をつくってみるというようなことは、有効かもしれないですね。

東畑 儀礼化ですよね。リチュアライズしていく工夫を、おそらくみんなが今しているところなんじゃないかなと感じます。僕で言えば、iPadでAirPodsにしているというのも、実際のところ儀式みたいなものなんですよ。本当にそれだと声がよく聞こえるのかと言われれば、実はよく分からない(笑)でもね、そういった自分の中での決め事を作っていくことで、オンラインに参入する自分のようなものを作っているのだと思います。その儀礼化のためにも、いっぱいヘッドセットを買ったわけです(笑)

HZ 今まさにケアの現場では患者さんの側でも聞き手の側でも、この状況に適応するための新しい技術を開発しているところなんでしょうね。そして、それはケアの現場に関わらず、今日の社会のあらゆるところで起こっていることで、あるいは、今日のテーマである心と身体の関係も、この状況下において緩やかに再構築されつつあるのではないかと感じました。それでは時間が来ましたので終了とさせて頂きます。今日はありがとうございました。

 

 

構成|辻陽介

ドローイング|大小島真木

 

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松本 卓也 まつもと・たくや/1983年、高知県生まれ。高知大学医学部卒業。自治医科大学大学院医学研究科博士課程修了。博士(医学)。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は、精神病理学。主な著書に、『人はみな妄想する』(青土社)、『享楽社会論』(人文書院)、『〈つながり〉の現代思想』(共編、明石書店)、『症例でわかる精神病理学』(誠信書房)、『心の病気って何だろう?』(平凡社)など。主な訳書に、ヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト』(共訳、岩波書店)など。

 

東畑開人  とうはた・かいと/1983年生まれ。2010年京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、2014年より十文字学園女子大学准教授。2017年に白金高輪カウンセリングルームを開業。臨床心理学が専門で、関心は精神分析・医療人類学。著書に『美と深層心理学』(京都大学学術出版会)、『野の医者は笑う』(誠信書房)、『日本のありふれた心理療法』(誠信書房)、『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)、 監訳書に『心理療法家の人類学』(J.デイビス著)誠信書房がある。

 

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