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シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 03|吉村萬壱 × 上妻世海|都市を彷徨える狩猟民に〈知恵〉はあるのか──私と国の「あいだ」を/で問い直す

マルチスピーシーズ人類学研究会の「COVID-19を分野横断的に考える 」シリーズ第三弾。感染不安によって“剥き出し”となった「他者」たちと、我々はいかに「交感」することができるのか。そのための技術、知恵をめぐって。

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この記事は、マルチスピーシーズ人類学研究会の「 COVID-19を分野横断的に考える 」シリーズの第三弾として4月24日に行われた、小説家の吉村萬壱とキュレーター/文筆家の上妻世海によるビデオ対談(司会:辻陽介)の内容を、記録、再構成、加筆したものです。

今回は、COVID-19への感染不安によって剥き出しにされた不穏な「他者」たちと、我々はいかに対峙し、また交感することができるのか、その際に求められる技術と知恵をめぐって、話し合いました。

 

Drawing by Maki Ohkojima

Text by Yosuke Tsuji

 


 

 

自分以外の周りの人間が「化け物」に見える

HZ みなさん、こんばんは。第一回、第二回に引き続き、司会を務めさせていただきますHAGAZINEの辻陽介です。この研究会「COVID19を分野横断的に考える」は立教大学の奥野克巳さん、北海道大学の近藤祉秋さんらが主催するマルチスピーシーズ人類学研究会と、僕が編集しておりますウェブメディアHAGAZINEとの共催という形で行なっているもので、COVID-19のパンデミックと、それがもたらしている社会的影響、あるいはその時下における「生」のあり方について、分野横断的、多角的に考えてみようという対談シリーズになります。新型コロナウイルス感染拡大の状況といたしましては本日(4月24日)時点で感染者270万人超、死者19万人超となっております。

今回は第三回目となりますが、まずは本日のスピーカーの紹介をしたいと思います。

一人目のスピーカーは、これまで一貫して人間性の暗部を抉り出し、暴力とセックスに向き合い続けてきた小説家の吉村萬壱さんです。たとえば、吉村さんの小説『ボラード病』では、ある種のノスタルジアによって現実が否認、歪曲されていった果てのディストピアが非常に生々しく描き出されており、2014年の作品でありながら、COVID-19に動揺し、それ以前の世界の回復を願う声でひしめく今日読み直してみると、ある種の予言書のようでもあり、えもしれぬ不気味さを感じます。

二人目のスピーカーは、アートキュレーターで文筆家の上妻世海さんです。著書『制作へ』においては、文化人類学における「存在論的転回」を大胆に援用し、人とオブジェの「あいだ」、そのコンタクトゾーンにおける「制作」を、ミメティックな出会いの場として再定義していた上妻さんですが、一方、ツイッター上では、「暴力性や野蛮さを感じない知性など害悪でしかない」など、日々、挑発的な言葉を発されています。

 

 

 

果たして、COVID-19をめぐって、この二人の話がどのように展開するのか。たとえば、前回の逆卷しとねさんと尾崎日菜子さんの対談では、接触と隔離の「あいだ」、その「あいだ」における「愛」がテーマとなっていましたが、今回はそのコインのちょうど裏側、パンデミックによって顕在化した「暴力性」というものが、一つの重要なテーマになってくるのではないか、個人的にはそんな風に想像しています。

では、早速、対談にうつっていきたいのですが、実は吉村さんは2日前(4月22日)の朝日新聞に「コロナを生きる『怯えた狩猟民』」というタイトルの文章を寄稿されています。そこでまずは取っ掛かりとして、最初に吉村さんの方から、その寄稿文に吉村さんが書かれたこと、あるいはそこから派生して、このコロナパニックに吉村さんが感じていることをお聞かせいただき、その流れで対談に入っていけましたらと思います。

吉村萬壱(以下、吉村) はい。小説家の吉村です。よろしくお願いします。あんまり自分の書いたものは頭に残らないんですけど…、思い出しながら話しますね(笑)。まず、そこに書いたことというのは、僕は非常にビビリだということなんですよ。ちょっと過剰なくらいいろんなことに敏感に反応してしまうところがある。たとえば、夜寝てるでしょ。僕は普段、仕事場で寝てるんだけど、そこが古民家なんですよね。で、その古民家で寝てると、その古民家の外壁をですね、何かがこう、体を擦り付けながら這っているような雰囲気、そんな不気味な雰囲気を感じるということが以前からあったんです。ただ、最近、それがすごく激しくなってるんですよ。

これはなんだろうっていう風に考えて、色々とものの本を読んでみたわけですが、すると、ある種の精神病の人の特徴として、こうした感覚を得る場合があるらしいことが分かりました。たとえば、渡辺哲夫さんの『知覚の呪縛』という本によれば、僕が感じているこの異様な感覚というのは「実体的意識性」というものらしいんです。それは分裂病(統合失調症)の急性期によく出現する現象らしく、「病者は自分の背後、窓の外、ものかげなどに、知覚することは決してできないが実にものものしい存在感をもった他者の存在を感じる」と、そういう風に書かれてる。まあ、僕の場合はね、その感覚に対し、たとえば、今回の雇い止めとかで生活に困った人が強盗に入ってきたのではないかとか、そういう具体的なことを思い浮かべることもあるんですけど、一方で、具体性を持たない雰囲気だけで迫害を受けそうな恐怖、不安を感じるということもある。これはあくまで個人的な話ではあるんですけど、ただ、そんな現象が、実は今回の新型コロナの問題で、以前より一般化しているんじゃないかという予感があるんです。そういう恐怖、不安を感じてる人は、決して精神病者と診断されてる方だけじゃなく、おそらく今、たくさんおるんじゃないかなという気がしてて、それであのエッセイを書きました。

 

 

最近、僕は寝床に入っていると突然泣き出してしまうようなこともあるんです。そのことをツイッターでつぶやくと「それは鬱の初期症状だから心療内科に行ったほうがいいですよ」みたいに言われるんだけど、まあそうなのかなとも思う反面、身近な人間に聞いてみると「自分にもそういうことはある」という人が割といたりする。すると、ある程度、こういう現象が一般化してるとも考えられる。じゃあなんでそうなってしまってんのかと考えてみたら、いろいろと思い当たる節も見えてきたんです。

たとえばスーパーマーケットで買い物をしてる時に、遠くの方で誰かが咳をしたとするでしょ。以前ならそんなの気にもならないし、気づきもしなかったんだろうけど、今だとその咳の音にすごい敏感になってて、かなり離れた場所の小さな咳の音でも知覚してしまい、パッと身構えるみたいな、そういう状況が日常的に起こってるんですよ。そして、そういう日常を送ってる人はたくさんいる。するとね、だんだんと、自分以外の周りの人間が化け物に見えてくる。化け物に感じられるようになってくるんですよね。

僕は以前、『行列』(吉村萬壱『虚ろまんてぃっく』所収)という小説を書いたことがあるんですけど、それは人類っていうのは狭い平均台の上を行列を作って歩いてるようなもんで、ちょっと油断してると谷底に落ちてしまうみたいな、そういうことを書いた小説なんです。その小説に引き寄せていうと、普段、何もない日常においては平均台の幅ってすごい広いんです。ただ、今回みたいな新型コロナみたいなもんが流行すると、その平均台の幅がものすごく狭くなってきて、すると、その上を歩いてる人が一様に態度決定を迫られるようになる。たとえば、おっさんとすれ違った時にそのおっさんがくしゃみをした、咳をしたとして、そういう時に否応無しに覚えてしまう殺意みたいなもの、お前のせいで俺の人生は終わるかもしれんぞっていう怒りのようなもの、そういう殺意や怒りに対して自分がどう向き合うかというような、そういう態度決定みたいなものを求められるというのかな。まあ、結局、保留にすればいいんで僕は保留にしているんだけど、みんながそういう態度決定を迫られてしまうと、中にはその緊張に耐えられないような人も出てきて、釣り銭を手渡しされたことに激昂して店員を殴ったりしてしまうようなことが、もうすでに起こってるわけですよね。そんな感じで、不安に怯えている僕らのことを、エッセイでは「怯えた狩猟民」という風に書いたんです。

 

 

ただ、一方で、実は自分の方が感染者かもしれない。うつされることばかり考えているけど、本当はうつす側かもしれない。すると、人と自分との区別はもはやなくなってしまうわけで、そのエッセイの締めとしては、自分は絶対に他人からうつされないぞと思うんじゃなくて、自分は絶対に他人にうつさないぞと考えた方が、ちょっとは状況がマシになるんちゃうかということを結論として書いた感じですね。

 

他者性は〈壊れたとき〉にこそ立ち現れる

上妻世海(以下、上妻) なるほど。とても面白いですね。吉村さんの今のお話への反応も兼ねて、次は僕が今日の状況をどう考えてるかについて話したいと思います。

まず最初に前提にしておかなければいけないのは、今がどういう状況なのかという状況論の話と、その状況をどう捉え、どう評価するのかという価値論の話と、その評価を踏まえ今後どうしていくべきなのかという展望論の話は、三つに分けて考えなければいけないということです。そこを踏まえ、まず状況論について考えるなら、自分は、今、吉村さんがおっしゃっていたような現状認識にほとんど同意します。自分としても今吉村さんが仰ったのと同様の認識を持っている。

ただ、こうした状況自体をもう少し俯瞰的に、歴史の中で捉え直していくと、単に恐ろしい、不安だというのとは違った捉え方も見えてきます。そうした俯瞰した視点から、端的に結論から言うと、今日の状況とは、「他者」というものをどういう風に考えるのかということについて僕たちが改めて迫られている、ということだと思うんです。

どういうことか。ここで一旦迂回し、ハイデガーの話をしたいと思います。ハイデガーは再帰的に自己認識を持てるという意味合いを込めて、人間のことを「現存在」と呼んでいます。「現存在」である私たちは日常性の中では「道具連関」、つまり道具の連なりの中で生きていると言っています。人間は必然的に死ぬ生き物であると自覚し生きることもできるわけですが、社会の中ではついつい他者や動植物や無機物に対して、道具的にしか接することができません。「道具的」というのはお互いにお互いの便益だけを考え、有用性として他者と接しているという意味です。彼は、口が悪いので、そういう「道具連関」の中にいる、交換可能な「生」を頽落(たいらく)と呼び、そういう人たちのことをダス・マン(世人)と言っていたわけですが、これはつまり、僕たちは日常性の中に埋没していて、本来的な生を送っていないということです。

 

 

ただ、それは特殊な指摘であるかと言われれば、そうでもなくて、例えば、僕は原稿をコンピューターを使って書きますが、その時にコンピューターのキーボードのどこに「Q」があるのか「S」があるのかといったことを意識することはまったくなく、書くという行為とコンピューターが一体化した状態でパパパパっと打っているわけです。おそらく、皆さんもそうだとは思うんですが、日常性の中に埋没しているとはこういうことで、それはつまりコンピューターのことをあらためて考えなくてもいい状態にあるということなんです。人類学者レーン・ウィラースレフは、このようにコンピューターの他者性について考えなくてもうまく作動している状態のことを、「日常性」と呼び、「実践的関わりの態度」と呼んでいます。

 

 

では一方で、ハイデガーの考える本来的な状態、あるいはさっきの文脈においてはコンピューターの他者性というものがどういう時に現れるのかというと、それが「壊れた時」なんですね。ハイデガーによれば、「実践的関わり」から「観照的な態度」に切り替わるにはショックが必要だと言います。たとえば、コンピューターの「Q」を押してもなかなか反応しないとか、「A」を一回しか押してないのに二度押しした形になってしまっているとか、そういう状況になると、「あれ、コンピューターが壊れているな」となる。そこで初めて「実践的な関わり」から離れ、人はコンピューターのキーボードについて思考するようになるわけです。現代社会であれば、たいていの人は、そこでコンピューターの修理会社に連絡したり、すぐにインターネットで調べたりするわけで、この場合、「道具連関」へと直ちに戻っていくことになるとは思うんですが、人によってはそこで立ち止まり、そもそも「コンピューターのキーボードってなんで叩くと文字が出るんだろうか?」とか「このキーボードとは一体どういう構造になっているのだろうか?」みたいなことを考えてしまう。そこにおいて初めて、コンピューターのコンピューター性がありありと、他者として我々の前に立ち現れるわけです。要するに、「実践的関わりの中でパチパチ打ってればなぜか文字が出るけれど、そもそもコンピューターって何?」と思考し始めるわけです。ここにおいて初めて「コンピューターとは何か?」という問いがその人に襲ってくるわけです。

まず、ハイデガーはそのようなことを考えていたわけですが、こうしたハイデガーの考察を踏まえ、次はカール・ポランニーという経済人類学者の「統合形態」についての話をしたいと思います。彼は経済の統合機能というものは三種あるということを言っているんですが、この三種というのは、「互酬/再分配/交換経済」のことです。

 

 

一つ目の互酬、これは、最も古くからある形態とされています。たとえば僕が漁師だとして、魚がたくさん取れたので、隣の農家をやっている人に少しあげるとする。すると、その農家はお礼に翌日に畑で採れたキャベツを僕にくれる。まあ、そういう関係です。この互酬は過去においてだけではなく、現在の僕たちも普通に行なっていることです。これが交換経済と異なる点は、市場という第三項が挟まっていない点です。市場による需要と供給の価格調整を受けずに、おばちゃんから飴ちゃんもらったからポケットに入ってるガムを渡すといったものです。これは一人称-二人称の関係における交換であって、市場という三人称を介していません。

二つ目は再分配。これは狩猟採集民のような互酬だけだった時代よりも時代が経て生まれた形態ですが、人々が直接、互酬的な関係を結ぶのではなく、王制なり民主制なりの中央集権的な存在が生じている社会で、その存在に税なり年貢なりを納めて、それが人々に再分配されるという形のことです。これも今でも普通に行われていますね。我々が国に税を納め、国がその税によって社会福祉、公共サービスなどの形で、集められた富を分配する。これが再分配です。

そして、三つ目が交換経済です。これは何かを渡したらそれと等価のものを返してもらうという形態です。たとえばコンビニに行ったとして、100円と値付けされたコーヒーが欲しくなったら、100円を払うことでそのコーヒーが得られる。この時、コーヒーと100円は等価とされている。それが等価交換による交換経済で、今日もっとも僕たちが日常的に慣れ親しんでいる形です。ポランニーはこのように、経済の統合形態には、「互酬/再分配/交換経済」の三種があると言っています。

しかし、そもそも、僕たちが最も慣れ親しんでいる交換経済はいつから始まったのか。先程、狩猟採集民は互酬しかなかったかのように語りましたが、これについては古代ギリシアのヘロトドスの『歴史』という本にも書かれており、実は非常に長い歴史を持つわけです。ただ、先ほどの三つの統合形態のうち、交換経済が社会において全面化・中心化されるようになったのは19世紀くらいからだろうと言われています。それ以前はどうだったかというと、一つ目と二つ目の経済の統合機能、互酬や再分配が、今よりも大きな規模で機能していたと言われている。つまり、19世紀以前においては、交換経済は極めて限定的な場でしか行われていなかったとされているんです。ではその当時、交換経済はどこで行われていたのかというと、ある場所とある場所のあいだ、異なる人たちが出会う〈あいだ〉に開かれた市場、あるいは祭りなどの特殊な状況下において行われていたそうなんです。

 

 

最も古い交換経済の一つとして、先ほど例に挙げたヘロドトス『歴史』で記されているものがあります。それは、リディアの黒人と古代ギリシア人の交易で、言葉を介さず、お互いを見ない仕方で行ったり来たりする方法であったとのことです。それは現在では沈黙交易と呼ばれており、経済人類学者・栗本慎一郎はこの沈黙交易を原初の交換経済であると定義しています(参照:栗本慎一郎『経済人類学』講談社学術文庫)。栗本は、沈黙交易の現代的事例として西アフリカのフェルナンド・ポー島の事例を引きます。そこでの交易は砂浜に線を引いて行われるものなんですが、例えば、僕がその線上に鉄を10個持っていき置いたとします。その後、僕は線の場所から離れていくのですが、すると、もう一方にいた別の人が線に近づいてきて、たとえば銅を13個置くわけです。その後、僕がまた線のところに近づいていき、確認します。仮に13の銅で納得できなかったら、また離れていきます。すると、もう一方は、14にしよう、15にしようと銅を増やしていき、僕が納得できたら、ようやくその銅を持って帰っていくわけです。そして、それを見た相手も僕が引いたら鉄を持って帰っていく。どうやら、そういう形で行われていたらしいんですね。

これは今の僕たちからすると、随分と不合理で回りくどい感じがするわけです。では、なぜ彼らがそんな変なことをしていたかというと、当時は現代社会のように法が一元的に人々に膾炙していたり、警察組織が暮らしを管理していたりしたわけではないので、他人同士が何かを交換するとなった時に、相手が銅をいっぱい持ってきている以上、その相手を殺して、全部の銅を奪い取ることもできなくはなかったんです。あるいは、逆に相手がそういうことをしてくる可能性も常にあったわけです。つまり何が言いたいかというと、かつて他者というのは、そういう分かり得ないものとして、リスクを秘めたものとして存在していたということです。もちろん、交易が可能ということは完全に分かり得ないわけではなく、分かり得る側面と分かり得ない側面があったということであって、僕はこれを「併存的な二重性」と呼んでいますが、他者というものはまさに良くもあり、悪くもあるという二重性の中にあり、だからこそ、そうした特殊な交換のシステムが必要だった。ハイデガーのいう「道具連関」から離れ、他者にアプローチするためには、本来、そうした命がけの跳躍が必要とされていたということです。

翻って、現代を生きる僕たちについて考えてみると、僕たちはコンビニやスーパーマーケットなどで普段からご飯や日用品などを買ったりしているわけですけど、その際、ある意味で、他者の他者性、分かり得なさというものが、一切、顧みられてはいないとも言えると思います。あるいは、一切、顧みなくてもよいように現代社会は設計されているとも言える。要するに、お金さえ払っていればどんな人であっても、期待通りのサービスが基本的には提供される。実際、僕たちはレジの前で命がけの跳躍をする必要はないわけですよね。今日では「多様性」という言葉が、社会的にもすごくいい言葉、素晴らしい理念のように掲げられることがありますが、今話したようなことを踏まえると、本当に僕たちは多様な他者と向き合ってきたのか、本当に僕たちは他者の他者性を感じてきたのか、甚だ疑問です。こう言ってよければ、僕たちは一元的な法の支配のもと行われる交換経済に慣れ親しむ中で、他者の他者性と対峙するためにかつてあった技術を失ってしまっている、とも言えると思うんです。

さて、この新型コロナウイルスが問題化されてからというもの、僕はまず感染症についての世界史をあらためて振りました。すると、すぐに分かることは、僕たち人類がこれまで新型コロナウイルス以上の感染症を乗り越えてきたということです。僕はさらにそこから直観が働き、日本の中世史なども学び直すようになったんですが、その中で、僕が関心を持ったのは、日本の歴史における妖怪だったり鬼だったり河童だったり天狗だったり、そういった人非ざるものたちの表象についてでした。というのは、そもそも、そうした妖怪や天狗、河童といった存在は、異なる共同体の人々を表象する方法、つまり異人表象として存在していたという研究がかなりあるんですね。実際、剣道や柔道などの武道の起源を歴史的に遡っていくと、開祖が天狗から習ったといったような話が非常に多い。あるいは、かつての為政者や芸能民の記述には血筋の原型に異類婚があったというようなことが、つまり、自分の父親は河童だったとか、自分の母親は妖狐であったとか。そういった話が多数記されてるんです。

なぜ感染症に関する勉強が異人表象に繋がるのか。これはさっきお話ししたような他者の他者性と対峙するための技術に関わることなんです。今日のような状況、吉村さんが語られたような他者への不安や恐怖が露わになった状況、言い換えれば、僕たちが他者と道具的にではなくそれ他者の他者性と向き合わなくてはならなくなった時、かつての日本人であれば、天狗だったり妖怪だったり河童だったりといった異人表象を通じて、コミュニケーションを取ろうとしていたということです。そこには他者への恐れや差別意識だけでなく尊敬もあった。他者の併存的な二重性が活き活きとリアリティを持っていた。だからこそ、武道の開祖が天狗に技を習ったり、安倍晴明の母親が狐だったりする(笑)。もちろん、日本だけではなく、過去には世界各地にそうした知恵がたくさんありました。すると、その一方で、この事態にここまで狼狽えざるをえない現代の僕たちとはなんなのか、そういう問いが生まれる。今、僕たちはこの問いを真剣に考えていかなくてはいけないと思うんです。

あと一つ、最初に言っておくと、今、新型コロナをウイルスとして大したことがないといった意見も散見されます。確かに物質的な効力とか強さを見た時には、新型コロナよりも致死性の高い強力な感染症は歴史的に存在したということはできる。ただ、さっきお話したような併存的な二重性というのはあらゆるものに存在してるわけです。ウイルスもまた、物質でもあり、情報でもあるという二重性がある。すると、過去において物質的にもっと強いものがあったからといって、新型コロナウイルスは大したことがないとは言えない。一方の情報という側面で考えれば、こんなにもウイルスをめぐる情報が世界中同時に拡散していく状態は初めての事態なんです。不安や恐怖を増長させる情報環境という意味でいえば、歴史上初めての事態であり、その意味で言えば、新型コロナウイルスは歴史上、最も人々に不安と恐怖を与えるウイルスであって、また僕たちの社会がそういう情報環境になっているということは間違いないと言えるんです。

長くなりましたが、そういった形で自分としては、一方で世界史を振り返るということをしつつ、もう一方では他者と交感する技術、僕はそれを知恵と呼びたいんですが、そう言った知恵が様々なところに残っているので、そういったものをあらためて学び直しているところです。

 

恐れられたゼクレータ──赤の他人とセックスするということには命がけの飛躍がある

吉村 なんかすごい勉強になりました。これまで考えたこともなかったようなこともあった気がします。ええっと、どういう風に応答していったらいいのか分からんのですけど…、たとえば、僕はさっき言ったエッセイの中でもう一つのことも書いてましてね。まあ他者を化け物だと感じる人が増えてるんじゃないかって話だったわけですけれど、これはね、今に始まった話でも実はないと思うんです。新型コロナが来る前から、他人を化け物だと感じ、生存の危機に晒されていた人たちはおそらくいただろう、と。これまでのその人たちは、いわゆる水が首元まで来ていて苦しんでいた状態だった。ただ、今回のパンデミックで、その水がもっと、顔の半分くらいまできちゃった状態、そういう状態が、一般化したということだと思うんです。

だから、上妻さんは他者との交感の技術を考えなきゃいけないと言われていると思うんですけど、まあ他者って難しいですよね。基本的には自分以外の人ってことになるんだろうけど、でも、それは要するに自分だとも思うんです。相手から見たら僕が他者なわけですから。で、そうした他者と交感するにはどうすればいいか。さっきの西アフリカの例なんかが、一つの技術ということなんだと思いますけど、ただね、僕の場合、交感っていう言葉からすぐに思い浮かべるのは、もうちょっとこう粘液的なことなんです。たとえば、僕は今回のパンデミックを受けてひとつ小説を書いたんですよ。『ゼクレータ』というタイトルで「徳島文學」(2020.Volume3)に寄稿しました。内容はさておくとして、この題名の「ゼクレータ」というのはラテン語で「分泌物」という意味なんです。で、なおかつ、これは英語のシークレット(seacret)の語源でもあるらしいんですよ。だから、シークレットというのは、元をたどれば、分泌物をお互いに交換しあえる間柄みたいな意味合いらしいんです。

 

 

ただ、今日、その「ゼクレータ」が最も危険なものとされている。当然、キスもできないし、セックスもできないし、もしそういうことをすれば病気がうつるよということで、だからソーシャルディスタンスを取ろうってなっているわけです。じゃあ、そこで交感の技術とはどういうものなんか。僕にとって他者との交感は、上妻さんが言ってたような、線の向こうにいて、ものを置きあったりして、いつでも逃げられるような状態で関わるというようなことじゃないんです。やっぱり手を繋ぎたいというのがある。皮膚と皮膚とで繋がりたい。もっと言えば粘液的にも繋がりたい。それに僕、湿ったものがすごい好きで、湿り気がないとダメな古いタイプなんです。そうすると、他者との交感の技術というものをどう考えればいいか、ものすごい難しいなって感じがしたんです。

上妻 今のお話は、一般的な他者というものと親密圏における他者というものとを分けずに考えた場合の話だと思うんです。つまり、僕たちは誰と彼とでもキスしたいわけじゃないじゃないですか。

吉村 いや、それがねえ! ……あ、まあ、いいです。

上妻 (笑)。まあ、それは吉村さんの個人的な嗜好としてはあれなんですけど。それでいうと、今まで社会学などの歴史を振り返ってみると、戦後民主主義の中で知識人が言っていることというのは、言葉を変えながらも実は非常に似通っていて、要は、現在は中間共同体が失われている、欠落している、機能していない、ということなんです。それこそ丸山眞男の時代からそう言われているし、もちろん、今になっても言われている。これはどういうことなのかというと、要するに社会、ここでいう社会というのは制度的なものだったりとか政府であったりとか資本主義的な市場のようなものだったりの三人称としての集合体を考えて欲しいんですけど、そういう社会と「私」というもののあいだに、かつては具体的な中間共同体がいくつか存在していたわけだけど、今の日本ではそこが非常に弱くなっていて、機能していないということなんです。

たとえばヨーロッパであれば、スポーツクラブであったり、キリスト教の教会であったり、家庭と学校と会社以外の、私と社会とのあいだにある具体的で親密な人間の関係性が担保されている場所が存在し、そうした場に基づいて、政治的な熟議などが行われ、デモクラシーの前提をなしているんです。さっきの吉村さんの話に引きつけて考えると、たとえば僕らは見知らぬ他人とは普通、いきなりキスしたりセックスしたりしないわけですけど、ただそれは、実は政治の話や宗教の話も同様なんです。日本人がよく勘違いしていると思うのは、しばしば日本人は欧米人と比較して「政治の話をしない」とか「宗教の話をしない」とか言いますよね。しかし、これはアメリカでも同様で、パブリックな場における宗教と政治の話は基本的にタブーなんですね。本来、そうした話はおおっぴらにすべきでないとされている。では、なぜ彼らがそういう話をしているかのように見えるか。彼らは中間共同体、つまり親密圏の中でそういう話をしているんです。つまり、すでに仲が良く、一定の信頼関係があるから、相手の政治的な主張に同意したり批判したりといった話ができるんであって、いきなり出会った見知らぬ他人にそんな議論をふっかけているわけではないんです。それはアメリカでもヨーロッパでも、もっと言えば、人という種全般に関して、言えることだと思います。

つまり、何が言いたいのかと言うと、自分の希望的な観測としては、他者というものの併存的な二重性に関して、おそらく、新型コロナ以降、多くの人が自覚することになるだろうと思うんです。その上で、抽象的な他者というものと親密な他者というものの区分が改めて問われることになる。すると当然、そうした中間共同体が僕たちには必要なんだという意識も生まれていく。個人的には、それが実践レベルで動いていけばいいな、と思っています。それは何らかのテックを利用したり、何らかの国家からの支援なりを得つつ行うといったように、併行的な戦略が必要だとは思いますが。

さっきの話でいうと、やはり、そもそも赤の他人とセックスするということには命がけの飛躍があるものだと思う。そもそもが危険なことなんです。そして危険だからこそ魅力的ということもある。その二重性を安全かつ魅力的なものとできたのは、それらがあくまで「商品」のように道具的に扱われていたからであって、僕は「危険だから何?当たり前じゃん」としか思えないところがある。僕は新型コロナの流行以降も全然セックスはしてるんですけど、それはなぜできるかというと自分の恋人としてるから。そこには覚悟もあるわけで、仮にそれで罹ったとしても仕方がないと思えるからなんです。

吉村 そうですね。それは僕も全然大丈夫です。ただ僕が言いたいのはね、街ですれ違う男性も女性も含めて、その人と実際にセックスをするということが大事なんやなくて、なんらかの偶然によって彼らとすごい親密になる可能性、その可能性が僕にとっては大事ということなんですよ。もうそろそろ還暦なんで、実際の行為はそもそもあれなんですが(笑)。今回の新型コロナの特徴的なところは、その可能性を奪っているということ。つまり、偶然に出会った人、まあ、完全な偶然でなくとも、中間共同体みたいな、そういう場で出会ったとしてもいいんです。そこで出会った女の子と気が合って、デートして、お茶飲んで、じゃあちょっとそこらで休憩していこうかって展開というのが、今はない。今はそういうことが基本的にできない。この状態が長期化したとして、その中で人は、どのように人と関わっていくかということが気になるし、実際にそれは難しいことなんだと思う。

たとえばデフォーの『ペスト』にもカミュの『ペスト』にも似たようなエピソードが書かれているんですけど、突然、おっさんが女の人に抱きつくんですよ。街中の人がお互いを恐れて、接触を忌避している状況の中で、ある瞬間、我慢の線が切れて、一挙に距離を縮め、そして互いの感染そっちのけになって密着してしまう。そういうことは、日本では今のところまだ報告はされていないと思うけど、今後、出てくるんじゃないかと想像するんです。すると、やっぱり、そういう事故が起こらないようにするためには、互いの距離を含めた関わり合いの技術、上妻さんがいうような他者との交感の技術がすごく大事になってくると思うんですけど、果たしてそれがどんな技術なのか、まるで分からない。

 

 

 

上妻 具体的な技術はこれだ、という話は今の時点ではできないですよね。僕ができることは限られてて、たとえば、この話を聞いてくれてる皆さんや、記事になった時に読んでくださる人たちが、他者との、それも妖怪的な他者との交感の技術という、今まで考えてこなかったかもしれないことについて少しでも考えてくれるようになったなら、それで十分だし、それだけでもプラスになることはたくさんあると思ってます。お金を払えばこんなことができる、こういう喋り方をしたらモテる、こういう振る舞いをしたらできる人間だと思われる、みたいなコミュニケーションにおいては、そもそも他者性が隠蔽されてしまうと思う。ある意味で、僕たちは他者の他者性をこれまで隠蔽し続けてきた。そのツケが回ってきている。その意味で、僕は新型コロナの問題をポジティブに捉え、他者の併存的な二重性に向き合うきっかけとして考えることもできると思っている。

ただ、実を言えば僕は、数日前の打ち合わせで吉村さんがこの状況下で恐怖に囚われていると聞いて、頭を抱えてしまったんです。というのも、僕は吉村さんの小説を読んでいて、この人は本当に人間を描ける人なんだな、と僭越ながらも感心していて。人間を描くためには、色々な人の視点に立てなければならず、それこそ他者の併存的な二重性に敏感でなければならない。日常性に埋没した視点で描いてしまっては、登場人物が記号的になってしまうんです。しかし、これほど人間の機微を描くことができる吉村さんが話してみたら非常な不安に駆られている、これはどうしたものかと(笑)

吉村 僕は臆病ですからね。ただ、そんな僕ですが、僕はすべての人間を書けるとも思ってるんです。なぜかと言うと、すべての人間はウンコするからです。ウンコをしている総理大臣、ウンコをしている娼婦、ウンコをしている聖人、それなら僕は誰でも書ける。その確信はある。ただ、たとえば聖人の最も偉大なところとかは僕には書けないと思う。

上妻 それも他者との交感の技術ですよね。今の話を聞いて、納得しました。面白いです。ただ、今話したことに関して一方で僕は吉村さんを臆病だなと感じてしまった自分を恥ずかしいとも感じたんです。自分自身、不遜になってるところがあるな、と。そこで、僕は今日、マスクをして、ソーシャルディスタンスを保ちながらですが、緊急事態宣言以降、初めて電車に乗ってみたんですよ。感想としては、やっぱり電車、怖かったですわ。僕も不安を感じました(笑)

 

プライバシーは捨ててでも安全性を取りたい──神経症的な不安と生政治

HZ 今ちょうど「不安」というキーワードが再び出てきましたので、あらためて話を振り返りつつお二人に質問させてください。最初、吉村さんから、この事態下で非常に強い不安を感じている、妄想のようなものにも駆られているという話がありました。朝日新聞に寄稿された文章の中では、その意識状態を「狩猟民」と表現されています。あるいはさっきもお話しされていたように、それは分裂病の症状のようなものとも似ていて、さらに、今日ではそうした状態に近い人が増えているかもしれない。そういうお話でした。

そのお話を聞いていて、ジュリアン・ジェインズという心理学者の『神々の沈黙』という本を思い出しました。この本でジェインズはある大胆な仮説を展開しているのですが、それは「古代の人間には意識がなかった」というものです。ここでいう意識というのは、おそらく主体的な意思のようなもののことで、ジェインズは古代人、つまり無文字社会の人々は、文字社会以降の人々が持っているような「私」という意識を持っていなかっただろうと言っているんです。さらにジェインズは、そうした人たちは、現代における分裂病の人と同じような意識状態だったのではないか、ということも同時に言っています。

 

 

先ほど、吉村さんが「実体的意識性」という言葉を紹介してくださいましたが、統合失調症患者や鬱病患者がしばしば体験すると言われている症状の一つに「世界没落体験」というものもありますよね。主体にとってそれまでは秩序立っていたはずの世界がいきなり違う顔を見せ始め、これまでは気にも留めなかったあらゆるものが不気味に、何か意味ありげに感じられる、そうした体験だとされています。中でもよく聞くのは「まなざし」の知覚です。町中の人に見られている、空の鳥にも見られている、地を這う虫にも見られている、あるいは取り囲む壁にさえ見られている、そのような知覚です。お二人のお話を聞いていて、今まさに僕たちが体験しているのは、薄められた「世界没落体験」なのかもしれない、と感じました。その体験内において僕たちも「まなざし」に晒されている。あるいはそれをCOVID-19の「まなざし」と言ってみてもいいのかもしれません。

というのも、僕は新型コロナウイルスが流行する中で、あることを妄想したんです。それは、この新型コロナウイルスを利用して、殺人を意図する人間が出てくるはずだ、というものです。たとえば、それは年老いた両親の遺産を狙った殺人かもしれないし、介護に疲弊しきった介護者の絶望的な殺人かもしれません。いずれにせよ、自らの身体を媒介に、誰かにウイルスを運ぼうとする人間が、水面下で大量に現れるんじゃないか、そんなことを思ったんです。

もちろん現代社会はパンデミック下においても法治社会であることに揺らぎはありません。ただ、このウイルスというものは、ある種、法の目をかいくぐった殺人を可能にするものでもあるとも言える。すると、法治社会であるにも関わらず法に触れることなく殺人が可能であるという、準-無法状態のような状況が生じているとも言え、だからこそ他者が化け物のように感じられてしまうというようなことが起こっているとも思えるんです。

ただ、このように言ってしまうと、直ちにこの状態を治療しなければならないと考えてしまいがちですが、吉村さんが感じられているような「不安」、他者が化け物のように感じられるという感覚自体は、必ずしも間違っているもの、的外れなものではないんですよね。お二人が指摘されていたように、この現代的な都市空間の中で、いきなり狩猟民的な意識になってしまったことで、赤の他人と至近距離で空間を共にすること、それこそ知らないおっさんのくしゃみを浴びながら生きるということの異様さに、いきなり気づいてしまった。それで、みんなビビっているという状況だと思うんです。

つまり、今日、COVID-19によって僕たち自身の異常性が暴かれているのだとも言えるように思います。自分たちがこれまで自明としてきたライフスタイル、他者との関わり方の歪さが明るみに出てしまった。上妻さんがおっしゃる通り、するとこの状況は、これまで暴力的に疎外してきた他者というものともう一度向き合う、あるいは法やシステムによって省略してきた関係性というものをもう一度問い直す契機になりえるかもしれない。僕もその通りだと感じます。たとえば、ダンバー数という言葉もあるように、集団の規模は本来、150人程度がちょうどいいとも言われていて、その規模の集団であれば、法システムによるような抽象的な統治を経ずとも、具体的な関係性の中で安定した秩序を維持することができる、と考えられています。アマゾンのヤノマミ族の集落で、人口数が一定数に達すると集落を分離するみたいな話が、まさにその実例ですね(参照:国分拓『ヤノマミ』NHK出版)。そうした交感のための知恵は、都市的で匿名的な集住を行う僕たちの暮らしを再検討する上でも、少なくないヒントを与えてくれるだろうと感じます。

ただ、一方で、今、実際に起きつつあるのは逆のことのようにも思います。僕たちが感じている「不安」、いわゆる他者への「恐怖」を前にした人々が、これまで他者性と向き合うことを僕たちに免除させていた法とシステムを再強化する方向に向かいつつあるように見える。つまりは政府にこの事態へのより強い介入を望み始めている。これはこの対談シリーズで、これまでも指摘されてきたことですが、他者が怖い、接触が怖い、だから一元的に管理してくれ、とそういう期待が高まってしまっている。他者の他者性が顕在化したことによって生じた不安が、あらためて他者との交感の技術を探る契機としてではなく、その逆方向へと向かう契機となってしまっているような状況があるように思うのですが、これについてお二人はどうお考えかということを聞きたいです。

上妻 ありがとうございます。一点、補足すると、ジェインズは古代人の意識を分裂病的だと指摘するのと同時に、近現代人の意識を神経症的であるとも指摘していますよね。決して、現代を生きる僕たちが正気で、古代を生きていた人たちが狂気であるという話ではない。ここはご質問に答える上でも重要なポイントだと思います。なぜかというと、近代人が神経症的であるということはジェインズのみならず、フロイトやラカン、多くの精神分析家が言っていることでもありますよね。そして、神経症とは、三人称的な秩序のために、他者の他者性を排除する思考システムを前提としているわけです。秩序を維持するためには「正常」と「異常」の線引きがどこかに必要になる。そして、「正常」な振る舞いをすることが人々に強く要請される。言うなれば、社会とは「正常」という括りの中で「正常」に振る舞える人たちのことであり、神経症的な秩序とは無自覚に他者の排除を前提としており、その意味では、今辻さんが言ったような人々の動きというのは、不安に対する、極めて神経症的なアプローチなのだと言えると思います。

一方、ジェインズが分裂病的だとした狩猟採集民社会などにも秩序はあったでしょう。ただ、その秩序は、ある意味で不安や恐怖とともにあった。人々は不安を感じながら、他者との関わりを行なっていた。ただ、だからこそ、そこには複数の知恵が存在していたんです。そういった知恵は先ほども言ったように多様に存在していて、いろんな神話や物語などにも記されています。

辻さんがおっしゃったように、しかし、僕たちはそういう知恵が全く失われた状態で、もう一度、狩猟採集民のように森に戻れと言われている状態なわけです。その時に、人々がとる反応にはおそらく何種類かあって、たとえば吉村さんの反応などは、言葉を選ばずにいうと、非常に本来的だと思うんです。ただ、一方で、吉村さんのように不安に向き合おうとはせず、神経症のまま神経症的に反応している人も多い。つまり、一瞬、立ち現れた他者性を、すぐさまなかったことにして、以前の秩序を回復しようとする方向です。これまでの秩序の延長線上で他者性と向きわなくて済む状態に固執する場合、そのためにはこれまで以上に国民国家による制限を強めていく必要がある。新型コロナウイルスの感染拡大下でこの秩序を維持するためには、一人一人が気にするだけではもはや不可能だからです。無自覚な症状というものがある以上、すべての人間がいかに意識的に感染を防止したとしても防ぎきることはできない。すると自分でできることはもう何もないんだから国に任せようという話になってしまうわけです。今日の事態では人権の制限がある程度は必要だとはいえ、こうした生政治の問題について、日本人の多くはあまりに無自覚だと思っています。

というのも、ロックダウンのような人権の抑圧は、今、世界中で起こっているわけですが、たとえばドイツにおいては、ロックダウンと同時に、メルケル首相がとても素晴らしい演説もしています。国民の活動を国家が制限すること、それは人類がこれまで戦って獲得してきた自由、平等、友愛の理念に反することであり、非常に申し訳ないことである。しかし、今はどうしてもそうせざるを得ないから、制限させてほしい。そういう話を演説でしたわけです。こうした演説は、政府がそうした歴史的背景を国民が理解しているということを分かっているからなされるし、意味もある。しかし、仮に日本で同じような演説をしたところで、同じような伝わり方をするのかというのは甚だ疑問です。僕としては、ドイツ国民の人権や生政治に対する理解の深さ、それに対してレスポンスするメルケル首相の誠実さに感動しました。しかし同時に、日本ではこうならないということに落胆もしました。

 

※林フーゼル美香子氏による演説全文試訳 https://note.com/mikako_deutsch/n/nd058107c5ff5

 

ヨーロッパには「一人称-二人称」的な自治の水準において自由、平等、友愛が保たれてきたという意識があるからこそ、「一人称-三人称」的な権力の経路を用いた抑圧には危機感があります。確かに、欧米では法的な効力のあるロックダウンが行われ、日本では緊急事態宣言がなされただけであるという事実があります。しかし、こう見てみると、実は意識の上では真逆だという事が分かります。一方では「一人称-三人称」的な権力への危機感があり、他方では「一人称-三人称」的な権力への希求がある。これでは日本の意識は戦前のままだと言えます。

つまり質問の回答としては、本来、僕はこの問題を新しい交感の技術を発見する契機にしたいと考えていますが、日本全体としては難しいところもあるのかなというのが、正直なところです。僕に伝えられる範囲では伝えていきたいですが、僕には国民全員に伝える力がないので、地道にやるしかないというのが現状の感想です。

吉村 いや大変面白い話ですね。聞いていて思い出した話がありました。我々の脳についての話です。たとえば、ここにお茶の缶がありますよね。このお茶の缶というのは、ちょっと角度を変えただけで、実は全く別の情報として脳に入ってこなきゃおかしいんですよね。しかし、僕たちの認識においてはすごい恒常性を保っている。どんな風に、どんな角度から見てもお茶の缶はお茶の缶なんです。なぜこういうことが起こるのかというと、我々の脳は視覚情報の3%しか実は受け取ってなくて、残りの97%は脳の中で勝手に作り上げているからだ、という説があるんです。(参照:池谷裕二『進化しすぎた脳』講談社BLUE BACKS)つまり、我々が見ている現実は大部分が脳内で作り上げられてきたものなんだ、と。ただ、その制限がたまに外れる時がある。たとえば、覚せい剤を摂取した時だったり、重篤な精神の病に侵されてしまった時などがそうです。そういう場合、3%の制限が外され、たとえば100%入ってきてしまったりすることがある。すると、その情報を脳がコントロールできなくなり、パニックになってしまう。だから、我々の脳は通常時においては情報を濾過し、理解可能なところまで縮約できるような形で進化したんだ。脳とはつまり濾過装置なのだ。そういう考え方ですね。

 

 

この考え方をベースに現在の我々が置かれている状況を見ると、この濾過装置が外圧によってちょっと外れてしまったような状態だと思うんですよ。ものすごく感受性のボルテージが上がっている。ただ、考えようによっては、それはいわゆるアーティストの感性でもあると思うんですね。だから、決して悪いばかりじゃないような気が僕もする。たとえば、自分の周りの全ての人間は化け物だと感じているような人が現れているのと同時に、「今日のこの花びらの上の一滴の雫に世界の全てが入っているんだわ」みたいな、そんなツイートも最近はたくさん見ます。要するに、みんなすごくセンシティブに、感じやすくなってるんですよね。

ただ、感じやすいということは忍耐もいるんです。その忍耐ができない人たちの一部が暴走したり、国家に極端な権力移譲をしようとしている。それこそ「あらかじめオール背番号制にしていたらすぐに10万円だって配れたのに」みたいな話をし始めるわけです。国家に権力を移譲して、プライバシーは捨ててでも安全性を取りたいという人たちがそのようにいる一方で、いやいや、それは思う壺なんだ、国家に一切の権限を与えるべきじゃないんだという、これまた極端な意見もある。平均台の幅が狭くなりすぎてて、そのどっちかに進まなきゃゃいけないという圧が強いから、平均台の上でじーっと足を震わせて立ち尽くすというようなことが難しい状況になってるんだなと感じます。

ただ、古代人には「私」の意識がなかったという話は面白いですね。僕、ウサギを飼ってるんですけど、ウサギってものすごく小さな自我しかないように見えるんです。物音がするとすごい敏感に反応するんですけど、次の瞬間には、何事もなかったように藁を食べてる。つまり、記憶力が悪いということなんだろうけど、「私」が最小だから、その時々の反応に合わせるだけで済んでるんですよ。ただ、一方の我々は大きな自我を持っている。それは記憶の蓄積やとも思うんですけど、観念とかを組み立てて、何かものすごい世界を自分の中に作り出して、なんとかやっているような状態ですよね。だからものすごくものも考えるし、何かを組み立ててはまた組み直していくというようなことをしていかないといけない。ただ、それは現代人の話であって、古代ではそうじゃなかったかもしれないと。なるほど、そうだったのかもしれません。そして、古代の意識が今この現代に放り出されて大変なことになってる、そういう話だったと思いますが、確かにそういう状況なんだと思う。

おそらく、意識というものは、外部環境に合わせてずっと変化を続けてきたものやないかと思うんですけど、今日では技術が日進月歩じゃないですか。インターネットとかはつい何十年か前にはなかったわけだけど、今じゃ当たり前になってる。その技術的進歩に合わせて、我々の意識もものすごい組み直しが必要になってる。で、今回、全世界的にものすごいパンデミックが起こって、世界中の人間が新型コロナという共通のことを考えているという、多分、歴史的にもそうはなかっただろうことが起こってる。おそらく、いま、僕らの意識はまた変化を迫られてるんだと思う。ただ、僕はね、ずっと宇宙人が外から攻めてきたら地球人は団結すると思ってたんですけど、それは間違いやと気づきましたね。新型コロナが攻めてきても、全然団結しないし、局所的に利権を貪っているような連中がたくさんいる状態でしょう。何言ってるかよくわからなくなってきたんですけど(笑)、話聞いててそんなことを思いましたね。

 

コロナを悪だとしている数多くの人たちの中には小さい植松聖が存在している

上妻 ところで一つ、このテーマに関連してお話ししておきたいことがあります。「一人称-三人称」的な統治のシステム、言い換えれば、神経症的なシステムの中で神経症的に生きざるをえない人は、別の表現で形容すれば、「道具連関」、あるいは有用性の中に囚われている生き方であると言えます。この有用性に関して僕がまず思い出すのは、相模原障害者殺傷事件の犯人であり、先だって死刑判決が確定した植松聖なんです。

 

 

僕は植松にずっと関心がありました。彼の起こした事件は、過去の様々な事件とどこか違う感じがしたからです。たとえば、1960年代から70年代にかけて反社会性の事件というのがたくさんありましたね。右も左も含めて、既存の社会に対して別の原理を掲げて反抗する、そうした犯罪というのがたくさんあった。その臨界点と言えるのが、市ケ谷駐屯地での三島事件と浅間山荘事件です。それが90年代になると非社会的な事件が話題になるようになります。象徴的なのは酒鬼薔薇聖斗の事件です。実際、酒鬼薔薇の更生プロジェクトの記録を読むと、子どもの頃にアダルトビデオでマスターベーションができなかったと書かれている。彼は女性や生きた人間に興奮を感じなくて、ホラー映画や動物や人間の残忍な虐待画像や殺人妄想を用いてマスターベーションしていたらしいです。彼はそもそもこの社会に「正常」にコミットできずにいたわけです。故にこの事件は非社会的であると呼ぶ事ができます。

その点、植松の事件を見たとき、すごい特殊だなと感じたんです。これまでの事件とは明らかに違うと感じた。というのも、彼は「役に立つ」/「役に立たない」ということに非常に強いこだわりを持っていて、それが殺人の動機にもなっているんですね。それはこれまでのような反社会性の事件とも明らかに違うし、社会に対してのコミットがない非社会性の事件とも違う。じゃあなんなのかと言えば、僕は植松の事件は過剰社会性の事件だと思うんです。たとえば、社会に貢献しよう、みんなの利益に貢献しよう、人のために役立とうという考えを持っていることは、一般に社会性が高いと言われますよね。ただ、そうした社会性の極北に植松聖がいるんだと感じたんです。

これは先ほど話した神経症的なシステムの話とも近い。結局、植松が求めていたのは内的な秩序だということができます。「役に立つ/立たない」の秩序が彼には強烈なリアリティとしてあった。そして、神経症的に秩序を求めると、常に排除が必要になる。その排除の対象は、植松にとっては、植松の目に「役に立たない」と映った障害者たちだったわけです。彼は彼の妄想を実行することで彼の設定した秩序の中で「役に立つ」人間として存在できたわけです。しかし、この線引きは植松聖が異常だから行われていた訳ではありません。それは常に今だって誰だって行なっていて、たとえば感染症のパンデミックは「役に立つ」/「役に立たない」を別の仕方で先鋭化しているとも言える。「役に立たない」人は「役に立たない」だけでなく「危険」であり、国によって「排除」されるべきであると。

あるいは交換経済の全面化、それに伴う都市化は動物や植物や自然を人間が排除してきたことが根本にある。僕たち人類は600万年とも言える長い歴史の中で、常に動植物と共に生きてきたわけですが、近代化、つまりここでは工業化と資本主義化によって都市化が進み、僕たちは人間だけの異常な空間を作り上げました。Forbesの記事(※)によると、コロナウィルスの影響で企業活動が止まり、数十億人が自宅待機した結果、中国の湖北省からイタリア北部の工業地帯まで、世界各地の大気汚染レベルが急激に低下したという報告があるそうです。他にも、イギリスでは山から降りてきたヤギの群れがコンクリートの道路を闊歩し、アメリカ・コロラド州ボルドーの街路ではマウンテンライオンが歩いているそうです。それはすなわち、人間のこれまでの秩序が、それらの排除の元に神経症的に成り立ってきたということです。

※Forbes「中国の大気汚染が劇的に改善、「死亡率が大幅に低下」との試算」https://forbesjapan.com/articles/detail/33056

言い換えれば、僕は新型コロナについても、それがすなわち「悪」だという風には見れないのです。コロナを悪とする視線は、まさに併存的な二重性を無視した、神経症的な見方であって、人間中心主義的な有用性に囚われた思考です。その極北に植松聖がいる。そして、今、コロナを悪だとしている数多くの人たちの中にも小さい植松が存在していると僕は感じるんです。いや、僕を含めて、今の近代社会に生きている人たちは、おそらくみんな、小さい植松聖なんだとも思う。

吉村 植松的な犯罪っていうのはおっしゃったように極北だと思いますわ。上妻さんの言うように我々が薄まった植松だとすれば、植松本人は、我々を入れる容れ物みたいなものだと思うんです。植松っていうのは集塵機みたいなもので、我々をバーって吸い込んで固めた、そういう存在だと感じる。もし植松が十分な身体性を持っていて、一個の「個」として生きていることができていたとしたら、あそこまで我々を集塵できなかったと思うんですよね。彼はある意味、身体が空っぽやからできた。空っぽやから死も怖くない。そんな気がする。

以前、僕は17年間くらい知的障害の支援学校で勤務してたんです。中学部を教えたんですけど、まあ毎日、植松と同じように、僕も彼らと接していたわけです。そしたら、やっぱりね、僕も専門外やったんで戸惑うことも多かった。たとえば、ある自閉症の子がいたんですけど、その子とは毎日過ごしてはいるものの、全然目が合わないんです。その子は僕だけじゃなく、他の子とも全く交流を持てなくて、ずっと気になってたんですが、ただ、その自閉症の子には一つすごい好きな遊びがあって、それが水遊びだったんです。水遊びと言っても、水道の水をずっと流しっぱにして、そこに手を出し入れしながらじーっと見てるだけ。おそらく、水しぶきに当たった光の反射とかを楽しんでる感じやった。で、僕は一応ね、立場上、この水は大阪府の税金から支払われてて、我々の血税の無駄遣いになってしまうからやめてね、と止めてはいたんですけど、まあ、言っても言っても止めないんです。

ただ、ある時、ちょっと待てよ、となった。彼は本当にその遊びを夢中になって、それこそ放っておいたら一日中でもそれをやり続けるくらいに好きなわけで、そんなに面白いなら、僕もやってみようと思ったんです。で、その子がその遊びをしている時に、その子の横の蛇口で、僕も同じように水遊びをしてみたんです。流れてくる水を手に受けて、その反射、飛び跳ねる様子を見るだけの行為なんですけど……、それがね、めっちゃくちゃ面白いんですよ。しかもね、その子は向かい合うとね、必ず目をそらしちゃうんですけど、隣で同じことをやるっていうのが実はものすごく重要だったみたいで、その子がね、直接目が合ったわけじゃないけど、横から視線を送ってきてるのを感じて、その時、あ、初めてこの子と通じ合えたわって思ったんですよね。そういう経験は、こちらにきちんとした身体がなければ生じないような気がするんですよね。植松がああいうことを起こせたというのは、植松には身体がなかったんじゃないかと、そう感じるんですよ。

彼は論理的にものを考えることができる人間ですよね。あの事件も彼なりの論理に基づいて、その結論として行われてる。まあ、普通の会社とかでも無能な同僚に対し、なんであいつと同じ給料やねん、みたいな陰口って多いですけど、そういうのは煮詰めていくと、役に立たない奴は価値がないという植松と同じ発想なんですよね。

上妻 素晴らしいお話ですね。今、吉村さんが話されたことがまさに交感の技術なんですよ。それは一人一人違うんです。僕はみんなが同じ「正しい」コミュニケーションの仕方をしたらいいという発想自体が危険だと思ってて、今、吉村さんがおっしゃったようなコミュニケーションこそが、本来的なんだと思う。なんで目を合わせてくれないんだろう、いや、違う、そもそも簡単に目を合わせてくれるということがおかしいんじゃないかと思った方がいい。その人それぞれに合わせ方というのがあって、今まさに吉村さんはその一つのケースを語られたわけです。そして、それはまさに今日僕が言いたかったことなんです。

結局、今のこの状況をどうにかするための普遍的な解決策はない。あるいは他者の他者性と向き合う上での普遍的な技術もない。そうやって実際に関わっていく中でしか見つけられない。吉村さんが最初の方で他者との可能性がなくなってることがつらいということを言われましたけど、それは吉村さんが自閉症の子と行ったような身体を通じたコミュニケーション、他者との交感が身体を近づけることができないコロナ下の状況では難しいということだと思うんです。ただ、まだこういう状態になってから数ヶ月、日本では緊急事態宣言から一ヶ月経ってません。その状態で、新型コロナウイルスとの付き合い方の答えが出せないのは、当然だとも思うんです。とにかくすぐに結論を出そうとするのは、それこそ有用性に囚われた考え方であって、短期的な収益性に囚われたものの見方です。

もちろん僕だって不安だし、恐怖もある。だけど、そんな中で、どうやったらあの子が振り向いてくれるかな、どうやったら少し歩み寄ってくれるかな、どうやったら一緒に楽しめるかな、と考えていくということにしか、希望はないと思う。もしかしたら、頭のいい人は「こういう時はこうすればいいんだ」とすぐに答えを出せるのかもしれない。ただ、多分それは一人一人じっくりやっていかなきゃいけないことで、もちろん、その際に求められる緊張に耐えられない人もいると思うから、それはそれでケアしていかなければならない。そして、そのケアは行政に頼るばかりじゃなく、自分の仲間にそういう人がいるんだとしたら、僕だったらなるべく今日したような話をして、少しでも気持ちが楽になってもらえたらいいなって思うし、あるいはそれでダメなら他の方法を模索する。一人一人の他者と向き合っていく技術を培うには時間が必要なんです。色々と試して、失敗しながら、学んでいくしかない。

それは自然も一緒です。昔は、自然と向き合うための技術を持っていたと思うんです。ある動物を乱獲しないとか、一定期間でその場所を移動するとか、そういう技術があった。それはある意味、神話的な知恵でもあり、他者とどうすれば共生できるかという知恵でもあった。しかし、近代になるほど、獲物は獲れれば獲れるほどいい、早く理解できるなら早く理解できた方がいい、みたいなコスパ重視の発想に偏っていって、すると当然、他者と共生はできなくなる。自然も人間的他者も同じです。だから、繰り返しになりますが、ここからもう一度、時間をかけてじっくりと、交感の技術を見つけていけたらいいな、と思うんです。

HZ ありがとうございます。つまり、その交感の技術は「普遍化できない」のだ、と。ここは非常に重要なポイントだと思います。今日、繰り返し語られてきたように、パンデミックの不安の中で、かつてあった秩序を取り戻そうと神経症的にふるまわざるを得ない人たちがいるわけですが、ただその一方で、最近ではメディアでも「ニューノーマル」なんて言葉が喧伝されていたりもする。そして、その新しいノーマル下での「生」についてグローバルに啓蒙していこうという、つまらない流れもある(笑)。そうではないだろう、と。

上妻 そうですね(笑)。もちろん、一方でシステムはシステムで必要なんだろうから、そういう大きなシステムについて考える必要もあるんだろうけど、おそらくそういう方向性だけでは、つまり全体的な方向性だけでは、救えない人たちも当然いる。そういう人たちには新しい知恵を醸成するだけの時間がまず必要だし、僕としては仲間同士で助け合っていけるような中間共同体を形成するという方向性を示していきたい。いずれにせよ、両輪でやっていかないといけないと思いますね。

HZ そして、なぜ時間を掛けなければいけないのかというと、それはまさに、その知恵が土地や身体というマテリアルな次元に関わるものであるからだと思いました。その知恵を得るためには、深くその土地に関わり、身体で学んでいく必要がある。だから、その習得には時間がかかる。また、その知恵が、ある土地に、ある身体に根ざしている以上、普遍化はできない。今日、求められているのは、そうした決して普遍化できない、特殊で、個別的な知恵や技術、あるいは関係性の実践なのだ──そのように今日のお話を受け止めました。

さて、所定の時間がきましたので、ここから質疑応答に入っていきたいと思います。

 

質疑応答──私と国の「あいだ」にこそ希望はある

奥野 奥野克巳です。非常に面白かったです。私は人類学者として、狩猟民を含む近代以前の社会と現代の社会がどういう関係にあるのかということに最も関心があります。上妻さんがおっしゃったことで非常に気になったのは、他生とのコミュニケーションを「交感の技術」と上妻さんはおっしゃいましたけれど、そうした技術が現代においては失われてしまっており、国家のような存在が第三項として、かなり大きな存在となっている、というポイントです。やはり、そこが重要な転換点になっているのだろうと私も感じました。そして、そうした技術、知恵があったという指摘はおそらくその通りで、それも単に表象のレベルではなくて、実践的な意味合いにおいてあった。思い浮かんだ例を二つ紹介します。

一つはニューギニアの事例です。これについてはロバート・ガードナーという人が『Dead Birds』という民族誌映画を作っています。その映画では、1960年代初頭のニューギニア高地のダニにおける戦争が記録されているんです。その戦争は、ある集団のうちの一人が、別の集団のうちの一人に殺されたことを発端として、その復讐のために行われているんですが、ただ、これは今日の我々の考える戦争とはどうも違うんです。

 

 

たとえば、戦争中でも雨が降ってきたら、自分たちの戦士としての衣装が雨でずぶ濡れになってしまうという理由で休戦する。一事が万事、そんな調子で、そもそも、その戦争自体、復讐のために相手の集団の一人を殺せればいいとされている。そうすれば、集団と集団の間の失われたバランスが取り戻される、と。そういう戦争なんです。その戦争においては、、暴力そのものが駆使されて、なんらかの利益追及が行われているのではなくて、集団同士の均衡を取り戻すことが目指されている。つまり、他者との関係の回復が計られるんです。そうしたことをある種の慣習的な制度として、ダニの人々は「未開の戦争」を戦っていたのです。

もう一つ思い浮かんだ例は、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが紹介するアラウェテの人たちが行なっている「カニバル(食人)」です。アマゾニアの人たちは「多自然主義」的な考えを持っていて、他者というのが人間だけではなくて、動物などの非人間をも含むものと考えているわけですが、その他者との関係において、「姻戚」になるということがアラウェテにおいては非常に重要な意味を持つとされているんです。ただ、姻戚になるにあたっての方法が「結婚」だけに限られていないんです。敵を殺して食べるカニバルもまた、アラウェテは姻戚になるという概念でとらえているんです。他者を殺し、そして食べてしまう。しかし、それは彼らにとって後に血縁を帯びることになる姻戚関係を築くことでもある。そのことで何が目指されているのかというと、他者を自分の中に取り入れることで自己変容することです。その時、カニバルとは、、我々が考えるような単なる暴力ではなく、敵という他者を自分の中に取り入れ、内化することによって自己変容することなのです。他者に加えられる暴力とカニバリズムは、そのために不可欠なプロセスとして行われている。これもおそらく上妻さんが言うところの知恵、ないしは交感の技術にあたるものだと思うんです。

 

 

こうした民族誌的な事例における暴力は、最後に話に出てきた植松聖の行使した暴力とは、大きく異なるように感じます。同じ暴力、同じ殺すということにおいても、大きな違いがある。他者との交感の技術を持ち、他者との関係を豊かな形で築き上げてきたはずの人類社会が、現在、外部の第三項としての国家にそれを預けて、あるいは委ねたままで、たとえば新型コロナウイルスへの恐怖、危険を前にして、国家に権力を移譲する以外になす術がなくなっている。そして、そういう社会を土台に植松聖の事件が起こっているのではないか。あの事件は、こうした理路をたどることによっても、考察しうる重要な問題だと感じました。

上妻 今おっしゃっていただいたような民族の知恵というのは、僕たちが今後、いや、今後だけではなく、コロナ以前から、必要としていたものだと思っています。僕自身、ずっと「生」を本当に楽しむためには、そうした知恵が必要なんだと言い続けていました。ただ、実際、こういう状況になったら、より喫緊の知恵としてそれが必要とされるようになった。楽しむといったような水準だけじゃなく、生きていくためにも必要とされていると感じているわけです。第三項的なものに力を移譲するというあり方以外の、本当の多重性を持った他者との関わり、僕はそれを一人称・二人称的な知恵とも呼んでいますが、そうした知恵を、お互いに関わりあいながら再発見、再発明していくしかない。これは言葉だけのレベルで言っていてもしょうがないことです。身体や表情や振る舞い、声色、この人とはこういう関係性を築く、あの人とはこういう関係性を築く、といった具合に、一人一人に適した関係性を築いていく必要がある。客観的に存在している情報が知恵だという風に、僕たちはある時から勘違いしてしまったんだと思います。あまりに不遜になってしまった。客観的な情報をいっぱい知っていることが賢いということではなく、個別的な関係性の中で培われた身体的能力を知恵というんだと思います。

吉村 奥野さんの話はとても興味深かったんですが、同時に僕はめちゃくちゃ難しい問題やと思いました。ニューギニアとかアマゾンのお話は、そもそも小さなバンドを前提としていますよね。あるいは上妻さんが言うような小規模な中間共同体、その中でなら、その知恵は有効やと思うけど、ただ、我々の現代社会、たとえば日本という国は、1億2000万人いるようなメガ国家みたいなところなわけです。そういうメガ国家でどれくらいそうした知恵が使えるのか、分からないんです。

僕はいつも出かける時、駅前の駐輪場に自転車を止めるんですが、ある晩、駅を出てその駐輪場に行くと、僕の自転車の上に若者が一人乗っていて、その周りに10人くらいの若者がたむろしてことがあったんです。その時に、やっぱり自分の身の危険を感じるわけです。これはどうすべきかな、と。もちろん、喧嘩になったら、僕が彼ら10人に対して、勝てる道理がない。だから、もしちょっとでも襲ってきたら逃げようと思ったんですけど、とりあえずその時は、彼らの中でもおそらくリーダー格と思われる男の目をじっと見つめて、その目をそらさずに近づいて、自分の自転車に乗ってたやつに「ちょっと」って言ってどいてもらって、自転車の鍵を開けておもむろに帰宅し、ことなきを得たんです。

ただ、僕がその時に感じたのは「一人では無理や」ということです。つまり、僕は警察なんて嫌いなんですけど、それでもやっぱり警察が必要なんだ、とその時に思ったんです。警察というのは国家から権力を委ねられた存在ですよね。するとつまり、これは「国家が必要だ」ということなんです。あるいは以前、海外旅行した時も、物を盗まれたりして、危険な目にあったことがありました。その時、日本の大使館に向かったんですが、大使館前に翻っていた「日の丸」を見た時の、あの安堵感たるや。つまり、権力機構が存在するということは、やっぱり侮れないんやなと思うんですよね。

ただね、もちろん国家に殺されるということもあるわけです。昨日と一昨日にかけて、『チェルノブイリ』という、あの原発事故の内部で何が起こったのかを描いたドラマを見たんですけど、めちゃくちゃ面白くてね。やっぱり国の中枢部っていうのは、国民どうこうではなく、他国に対しての沽券とかプライドとかで動いてるんです。トルストイの『戦争と平和』とかを読んでてもそうですけど、かなりつまらないことで全体が動いていった結果、暴走してしまう、それが国家というものなんですよね。そういうようなこともあるので、本当に難しい。ただ、いずれにせよ大逆転的な解決はないと思いますね。

 

 

上妻 もちろん、僕も国家レベルでの政策のようなものを全面的に否定しているわけではないんです。福祉や公的サービスは国民国家では必要不可欠であることは疑う余地はありません。ただ、人間一人の力では現状、そこに大きな影響力を与えることはできないわけです。つまり、一人称-三人称ではどうしても権力への依存と希求が生まれてしまうと思うのです。そして、国家レベルでは三人称的に振舞われるので、日々死亡数を告げるニュース番組のように、人間は量や数字に還元されます。そこでは人は「あなた」ではなく、「彼」として扱われるわけです。しかし、その時僕はいつも思うんです。では、僕とあなた(一人称-二人称)は完全に無力なのか、と。僕はそうだとは思わないんです。カミュの『ペスト』(宮崎嶺雄訳/新潮社)の中でも、「僕は人を殺すことを断念した瞬間から決定的な追放に処せられた。歴史を作るのはほかの人々だ」という活動家の発言があります。社会というのは個人として人間を扱うことはできない。僕は量でははなく個人として、つまり「あなた」と向き合っていくことを決めた瞬間、歴史から追放されたようなものです。しかし、それでもやれることはあると思っています。自分たち一人一人が、今こそ知恵を紡ぎ出すということをやっていかないといけない。それは歴史の外側のことなのかもしれず、歴史には記述はされないかもしれない。しかし、そうした動きが結果的にこの国の未来を作っていくんだと考えれば、できることをやっていこうと思うわけです。それに「私」か「国」かのように綺麗に二分してしまうとグラデーションがなくなってしまいます。その「あいだ」にこそ、僕たちにできることはあると思う。僕たちはこれまで神経症的にその「あいだ」を無視してきたわけだけど、今、状況がそこに気づかせてくれつつある。そこに希望があると思う。

HZ 僕からも質問させてください。今、上妻さんがおっしゃったように、「私」と「国」の「あいだ」というのは本来グラデーション状になっていて、たとえば一方にシステムによる一元的な法治があり、もう一方に人と人との関係性を軸とした自治のようなものがあるのだとすれば、それらは常に綱引きの状態にあるのだと思います。どっちかに振り切れるということはなくて、法治が強まったり、自治が強まったり、鍔迫り合いを続けていくしかない。ただ、日本においては戦後長らく法治の方が強まっていて、そこからもう少し自治の圏域を拡張していこう、それも普遍化できない方法で──というのが上妻さんの議論だと思うんです。

ただ、そこでやはりネックになってくるのが暴力性の問題じゃないかとも思うんです。警察の話を吉村さんがされましたけど、それはつまり、ゲバルトというものをどの程度、国家に委託するのかという話なのだと思います。それは逆の言い方をすれば、僕たち民衆が他者との関係性において発生するゲバルトをどれくらい許容するのかという問題でもあると思う。たとえば、僕たちが他者との関係性の中で発生するゲバルトを嫌った場合、これは国家に一元的に管理をお願いした方がいいとなる。ようは、微細な暴力についても法制化を進め、個人間での関係性の調整に頼らず、法の下で逐一、白黒を決していった方がいいとなる。今日のハラスメントをめぐる流れもそうだし、嫌煙ムーブメントのようなものもそうだと思うんですが、他者から発せられる攻撃性や毒を忌避する上では、国家や法にゲバルトを委託し、一元的に関係性を管理してもらうという形を取らざるをえないと思うんです。

しかし、その流れにおいては、自ずと自治の圏域が縮小してしまう。人間関係のトラブルを、法や制度によって解決するというのは、そういうことです。ただ、これが悪いこととも一概には言い切れない。ハラスメントをめぐる法規制などについては特にそうですが、それは日常に潜んでいた暴力性によって抑圧されてきた声なき被害者たちが、そうした痛みから逃れるために、それらをなんとか社会問題化し、法制化へと繋げてきたという歴史の結晶でもあるわけですから。ただ、こうして小さな被害者の声に耳をすませるほど、つまり、被害者を減らすための法整備を充実させるほど、一方で実際の人間関係が零落してしまうという問題もある。そこの折り合いをどうつければいいのか、お二人のお考えをお聞きしたいです。

上妻 関係性には一人称・三人称的なものと一人称・二人称的なものとがあって、今おっしゃってくれたハラスメントの問題などは一人称・三人称的な問題だと思います。つまり、問題が起こった時に、それに対処するための一人称・二人称的な関係性の知恵がなくなってしまったことで、いろいろな問題が生じてしまっているということです。ただ、深い関係性を築く上では、やはり、ある種の暴力性を完全に権力に委託して排除していくということはできません。何か問題が起こる度、常に警察を呼び続ければいいのかという話でもあるし、それこそ些細な暴力性すらもない完全にクリーンな、完全な聖人がこの世に存在するのかといったら、ちょっと考えられません。

僕は親鸞や道元が好きなんですが、なぜ好きなのかといえば、彼らがその不完全性に悩み続けた人たちだからです。つまり、どれだけ勉学/読経/修行しても完全な聖人にはなれないという気づきが、彼らの出発点にある。すごく簡単にいえば、悟ったと思った途端、悟ったと自負している自意識や欲があるわけで、それは悟りではない。そこには仏陀ではなく菩薩こそが仏陀なのだという否定を媒介にした論理がある。たとえば親鸞だったら「悪人正機」という言葉もあります。これはハイデガーの議論、壊れた時にこそ他者性が顕在化するという話にも似ていますが、悪人であるという自覚がある人の方が、より「善とは何か」、「よく生きるとはどういうことか」と考えるようになると思うんです。しかし、全てを三人称的なものに委託してしまうと、自分は正しい側なんだ、自分は正義なんだ、ちゃんとしないあいつらは悪なんだ、というような錯覚を起こしてしまうと思うんですね。

そもそも、完全無欠の正義なんてものはないというところを出発点にしていかなきゃいけないと思うんです。一人称・三人称的な関係、今日の表現では神経症的な関係性には、それはそれでヒステリーを起こしやすかったり、抑うつ的になりやすかったりと、いろんな害悪もある。実際、うつ病は世界が工業化していく中で段階的に増えていった病気であるという統計データがあります。奥野さんの本の中でも狩猟民にうつ病患者はいないという報告がありますよね(参照:奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』亜紀書房)。つまり、今日の僕たちの「正常」もまた病を孕んでいるわけで、そうした認識をベースに考えたほうがいいと思うんです。ハラスメントの問題にしても、一人称・二人称的な関係がまずあって、そこではどうしても補いきれない時に三人称的なものにアプローチする、そういう順序でいいと思うんです。その一人称・二人称関係において解決できるということが、まさに僕たちが無力ではないということの証になると思いますので。

吉村 暴力ということでいうと、僕はずっと暴力を小説に書いてきたんですけど、実は暴力を書いてるだけで僕自身がゾクゾクしてるんですよね。だから、暴力の快楽というものは無視できない。仏教で十界論ってあるじゃないですか。下の方が地獄で、上の方に菩薩などの世界がある。全ての仏教徒はその最上部の仏の境地を目指して修行するわけですけど、僕はそれは固定的なものじゃなくて、瞬間瞬間に人間はその十界を経巡っているように感じるんです。たとえば、すれ違った時に咳をするおっさんに殺意を抱いている時の僕は、おそらくは修羅界あたりに落ちてると思う。ただ、それをあとあと振り返り、その怒りが実は大したものではなく、その瞬間、囚われてしまっただけなんだと気づいた時に、また人間界くらいに戻ってくる。結局、暴力性の快楽の中に身を任せちゃうかどうかというのも、ほんのミクロの差でしかないと思うんです。

だから、そこは上妻さんのいうような知恵の見せ所なんだと思います。やっぱり暴力も知恵によってコントロールできるものなんだと気づけば、だいぶ変わってくる。たとえば今日では、たくさんの人が暴力性を発揮しかかってる状態にあるわけですよね。徳島では他府県の車に投石をしていたりしている人がいる。そういう時、石を投げている時の人たちというのは、おそらく、ちょっと振り切れちゃってるわけですよ。そこで感じている彼らの気持ちというのは、ゾクゾク感もあれば、正義感もあると思う。自分の大切な人を守るんだという気持ちでやってるかもしれない。ただ、歴史が明らかにしているように、自分が正しいと思っている時にこそ人間は最もひどいことをするのであって、彼らはそれを地で行ってしまっているわけであってね。そこはやっぱり、それに気づいた人たちが声を出していかないかんと思いますね。

上妻 そうですね。ただ、快楽というところでいうと、そういったものを含めて、人間らしいなとも一方では思うんです。もちろん、社会の問題として論じる時には「よくない」としか言えないんですけど、僕も人間なんで、個人的には憎しみも感じることがあるわけじゃないですか。そういう意味でいうと、僕はそういう事件に「お、人間らしくなってきたな」と思ってしまうところもある。もちろん、一方では怖いなとも思う。そういう揺れ動きがあるんです。でも、その揺れ動きも含めて人間だと思うんですよね。「人間ってそういうもんだ」と気づくことにも、また楽しみがあるような気がします。大きい声ではなかなか言えない話ですけどね。

吉村 分かりますよ。僕が小説を書いてるというのはそういうことやと思いますわ。

上妻 そうですよね。暴力の快楽みたいなものを否定して、秩序一辺倒でやっていくというのは面白くないですから。

吉村 そう、小説は面白いほうがいい(笑)

上妻 この「面白い」ということをどう評価するか。危ないことの面白さみたいなものを、あまりにも忌避しすぎている気がする。世の中でみんなが怒ってるとされていることでも、「実はお前、本音ではおもろいと感じたやろ」とか思ったりもするんですよね。口に出してはなかなか言えないけど、でも、実際そういうのって誰しも持ってると思う。でも、吉村さんの小説の中では、そういう人間の愚かさが描かれてて、だから笑っちゃうんですよね。

HZ バカッターみたいな言葉もありましたね。大抵、炎上して怒られているわけだけど、僕はああいうの見ると普通に笑っていました。回転寿司屋で最低時給で働いてる子が、ウニ軍艦に鼻クソを練り込む気持ち、分かるじゃないですか。もちろん、怒るのも分かる。ただ、そんな取るに足らないイタズラに、真剣に怒ってる人がいるという構図そのものもまた、滑稽さがあって笑えるんです。

上妻 そうそう(笑)。本当に怒ってる人以外はみんな笑ってる。あらためて意見を求められたなら、それを「いいじゃん」とは言えないんだけど、それでも笑ってはいるんです。みんな聖人じゃない。ある程度、そういうバッファがないと生きづらいですしね。

吉村 あ、そうだ。聞きたかったことが一つだけあって、上妻さんは以前ホームレスみたいな生活をしてたんですよね? それっていつのことなの? ていうか、なんで?

上妻 いや、それ喋り出すと、長くなりますから。「上妻世海、上妻世海を語る」みたいな2時間くらいのトークイベントにでもしないと話しきれないですよ。

吉村 それやりましょうよ。

HZ ZOOMでやりましょうか。

上妻 みなさんが望むならやりますよ(笑)

吉村 その約束だけでOKです。

 

 

構成|辻陽介

ドローイング|大小島真木

 

 

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吉村萬壱 よしむら・まんいち/小説家。1961年生まれ。愛媛県出身。2001年、「クチュクチュバーン」で第九二回文學界新人賞を受賞。2001年、「ハリガネムシ」で第一二九回芥川賞受賞。その他、『バースト・ゾーン 爆裂地区』、『独居45』、『ボラード病』、『臣女』、『流卵』など作品多数。

 

上妻世海 こうづま・せかい/1989年生まれ。文筆家、キュレイター。おもなキュレーションに「Malformed Objects—無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(山本現代)、「時間の形式、その制作と方法—田中功起作品とテキストから考える」(青山目黒)。著作に『制作へ』、『脱近代宣言』(共著)など。

 

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