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HAGAZINE

シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 04|清水高志 × 甲田烈|我々は対象世界を《御すること》はできない── 既知と未知の「あいだ」の政治

マルチスピーシーズ人類学研究会の「COVID-19を分野横断的に考える 」シリーズ第四弾。「コロナ」という不可視のアクターの登場によってあらわになった主客混淆のハイブリッドなネットワーク、そして今日求められつつある「多自然主義的ポリティクス」の可能性をめぐって

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この記事は、マルチスピーシーズ人類学研究会の「 COVID-19を分野横断的に考える 」シリーズの第四弾として4月25日に行われた、哲学者の清水高志と比較思想家の甲田烈によるビデオ対談(司会:辻陽介)の内容を、記録、再構成、加筆したものです。

今回は、COVID-19という不可視のアクターの登場によってあらわになった主客混淆のハイブリッドなネットワーク、そして今日求められつつある「多自然主義的ポリティクス」の可能性をめぐって、話し合いました。

 

Drawing by Maki Ohkojima

Text by Yosuke Tsuji

 


 

「コロナ」とは一体どのようなアクターなのか

HZ みなさん、こんにちは。このシリーズの司会を務めさせていただいております辻陽介です。この研究会「COVID19を分野横断的に考える」は立教大学の奥野克巳さん、北海道大学の近藤祉秋さんらが主催するマルチスピーシーズ人類学研究会と、僕が編集しておりますウェブメディアHAGAZINEとの共催という形で行なっているもので、COVID-19のパンデミックと、それがもたらしている社会的影響、あるいはその時下における「生」のあり方について、分野横断的、多角的に考えてみようという対談シリーズになります。新型コロナウイルス感染拡大の状況といたしましては本日(4月25日)時点で感染者約280万人、死者19万人超となっております。

さて、第四回目となる今回は、哲学者の清水高志さんと、比較思想家の甲田烈さんの対談になります。

清水さんと言えば、人類学の存在論的転回を自家薬籠中のものとし、哲学と人類学を撚り合わせて探究の手を拡げながら、人間の理性を超えたモノに関して21世紀の思想を切り拓いてきです。果たして、このCOVID-19というアクタント、そしてその存在が露わにしつつあるネットワークについて、今どのようにお考えなのか、大変気になるところです。

一方の甲田さんは、トランスパーソナル心理学を出発点に、その後、妖怪研究に入り、人間の存在論の深淵を剔抉する独創的な思索をおこなわれている方です。妖怪が仮にマージナルな存在、「あいだ」の存在だとしたら、ウイルスもまた、人と人、人と動物、人と物質、物質と動物との「あいだ」を蠢く存在だとも言えます。果たして、甲田さんがこのCOVID-19という現代の「妖怪」に何を見据えているのか、こちらについても非常に気になるところです。

さて、それでは早速ですが、対談の方にうつっていきたいと思います。まずは、このCOVID-19と、COVID-19によって引き起こされている、社会的混乱について、今お二人が考えていることをお聞きしたいと思います。最初に甲田さんの方からお願いします。

甲田烈(以下、甲田) よろしくお願いします。清水さんと対談させていただくのは初めてですが、2年ほど前にマルチスピーシーズ人類学研究会で行われた清水さんの著書『実在への殺到』をめぐるシンポジウムに、一般聴衆の一人として参加させていただいたことがあり、その後も清水さんの他の著作などについては、色々と読ませて頂いております。少し自己紹介をさせていただくと、私を紹介いただく際に「比較思想」という言葉が出てきました。これは一般的に東洋と西洋という分け方ですとか、最近ですと南北という分け方などもありますけど、つまり世界中の思想の共通点や相違点というものを探り当てていく、そういった学問です。僕自身はもともと仏教学という分野に所属していたのですが、それこそ仏教学においてはこの「比較思想」というものがマージナルな位置に、言ってしまえば辺境に置かれていました。

 

清水高志『実在への殺到』(水声社)

 

さらに、その辺境の中でも、東西の思想の対話や統合というものを心理学の分野で展開させていこうとしている「トランスパーソナル心理学」という流れがあり、私はこのトランスパーソナル心理学に元から関心を持っていました。先日も『入門インテグラル理論』という、トランスパーソナル心理学から批判的に展開したケン・ウィルバーが提唱している「インテグラル理論」に関する本を共著で出したところです。また、言及くださった「妖怪」に関しても小さい時からものすごく興味はありました。ただ、私は身体に障害を持っていて、もともと身体が弱かったということがあり、フィールドワークなどを行うのは無理だと思っておりましたので、民俗学だとかそういう方向には進まず、思想の世界の中で妖怪の研究をできないかなと思い、これまで研究を続けてた感じです。こんな具合で、僕は東西の比較思想の中で共通して言われているような宇宙的なもの、これは「いのち」と言ってもいいんですけど、そうした地域を超えたモノの重なりにずっと関心があり、そこから、清水さんが研究なさっているようなモノの哲学へとも関心が向かっていった感じです。

 

 

さて、今回のテーマであるCOVID-19の話に入っていきますけど、おそらくは後ほど清水さんの方からもお話があると思いますが、ブリュノ・ラトゥールという科学人類学者の概念に「アクター」というものがあります。たとえば、ラトゥールは『科学論の実在』の中で、細菌学者のパスツールが乳酸酵母を発見したことに触れつつ、初めからそういう存在があったわけではないのだと、そういうことを言ってるんですね。最初、実験していた中では、その存在はフラスコの中の何か点のようなものだった。だけど、色々な実験器具を使ってみたりだとか、科学雑誌にその点についての発見を出していったりだとか、それによって他の科学者から起こる様々な反応だとか、そうした様々なアクターの動きが絡まって、だんだんと形作られていった。乳酸酵母とはそういうアクターなんだというんです。その点、COVID-19というのもまた、まさにそういうアクターだという認識を僕は持っているんです。

 

 

というのも、たとえば「COVID-19」とインターネット検索すると、割と疫学的な知見に基づいたはっきりした情報、あるいは「医者はこうは言っているが自分の考え方としてはこうである」といったような、エビデンスベースで語られている情報がまず出てきます。一方、「新型コロナウイルス」と検索すると、こちらはマスコミ的な情報が多く出てくる。「感染を防ぐ上で一般的にはこういうことに気をつけましょう」とか、そういった情報ですね。さらに、今度は「武漢ウイルス」と検索してみると、「中国の研究所からの流出が発祥だ」といったような情報であったり、やや陰謀論的な情報が多く出てきます。また、「コロナ」だけで調べると、「コロナをカタカナで組み合わせると『君』という字になる」とか、「古神道では、コロナを数字表記した567とは56億7000万年後に人類を救いに来る弥勒菩薩のことである」とか、ややオカルトめいた考え方とか出てきたりもする。すると一体、このCOVID-19、新型コロナの正体はなんなんじゃとなってくるわけですよね。そういう意味でのアクター性というものが、COVID-19にはすごくあるなという風に感じているんです。話が長くなるので、この辺にしておきますが、ひとまず、僕はCOVID-19をラトゥールのいうアクターのようなものとして捉えている。そこを言っておきたいと思います。

HZ ありがとうございます。清水さんはいかがでしょうか。

清水高志(以下清水) 実はCOVID-19に関して、僕には少しばかり当事者性があるんです。大学の春休みの時期、僕は毎年、実家にこもって原稿を書くというのを習慣していて、今年もずっとこもっていたんですが、3月23日に研究会のため東京に行きまして、二日ほど、関係者と会ったり、渋谷で食事をしたりということがあったんです。その後、実家に帰って一週間くらいした頃、急に微熱が出ました。それで、微熱が出てるということをツイッターで呟いたら、大学に問い合わせが殺到してしまい、その後は絶対安静にして自宅隔離の日を過ごしていたんです。結局、10日以上ずっと37.1度の熱があり、それが12日目に36.8度になり、そから4日間36.8度が続き、その後は熱が下がって35.7度くらいになりました。検査を受けれなかったため確たることは言えないし、PCR検査で陰性と出たとしても偽陰性の可能性もあるので、隔離時間そのものを非常に長くとることが重要だと思うんだけど、つい先日まで、僕は新型コロナに感染したと思しき状況で恐怖のなかで過ごしていたわけです。そうした僕の視点から現状で起こっているCOVID-19関連の議論を見ていると、まだまだみんな当事者性がないのかなと感じています。

その上で、このウイルスに関して言うと、まさに不可視のものが突然この世界に登場したわけですよね。それで誰もが大慌てして、このウイルスをなんとかしようとしているですが、このとき見落とされてしまいがちなこと、あるいは新たに気づかされることがある。われわれは従来、対象世界というものをかなり御しているというイメージで生きている。少なくとも近代人はそうしたイメージを持って生きています。だから、新型コロナに関しても、有効な治療があるといった話が出てくるや、「市販の保険適用の薬として使えるのか」といったように、たちまちそれが完全に《御せる》ものであるかのような意見が殺到してくる。ただ実際はそうではないし、対象世界そのものがそんな生易しいものではないということが今回よく分かった。

モノの次元というのは、まずもって不可視なものであり、さきほど甲田さんもラトゥールについて触れていましたが、新しい科学上の発見がなされるような場合に、不意に立ち現れてくるものだと思うんです。そうなった時、つまり新しくモノが立ち現れてきた時、何が起こるかというと、むしろ人間主体のアプローチや社会が変わるんです。社会の離合集散のあり方が変わっていく。それも一挙に変わるのではなく、社会的アクターが複数いる中で、その複数のアクターの各々がそのモノに対して色んなアプローチを行うことで、それら徐々に変化していくまた、それぞれのアクターのアプローチとコロナとの関係、アプローチするアクターどうしの関係の中で、当のコロナ自体もやっとその姿が見えてくる。まさに人間集団と不可分な、ハイブリッドなものとして出現するわけです。COVID-19はその典型的な例を私たちに示している。ですから新型コロナが生じて以降、知識人や批評家たちがたとえば「新型コロナとこれまでの社会とのどちらを取るか」とか、あるいは「これはウイルスとの戦いである」とか、さまざまな発言をしていたんだけど、そうした二分法はこの場合むしろ、全く成立しないんですよ。

また一方では、今回のパンデミックによって、社会が過度な自粛や私権の制限、監視社会化によって全体主義化する危険があるといった議論や、フーコーが語ったような「生権力」が前景化するという主張もたくさん出てきました。言いたいことは分かるのですが、ただ、それはあくまでも社会というものが統一的なものユニファイされるものであるという前提で人間集団を考えた場合の図式であるように思います。それらの議論においては、人間社会を分断したり統一したりするものは人間のイデオロギーであったり階層の違いであったりという人為的なものであると見なされ、そのありようが批判されているわけですが、モノの出現によって人間集団が分断されたり、あるいはクラスタを形成したりしているこの状況において、こうした文脈新型コロナの問題を考えているとおそらく誤ると思うんです

以前、NATO(北大西洋条約機構)現況についてハイブリッド戦争という表現を用いたことがありました。要するに、いわゆる直接的な軍事戦略だけではなく、経済戦争、サイバー戦争、情報戦など、色々な要素が混ざり合った戦争が今現在起こっているのだ、というのですが、まだそのことについての理解が十分に深まってないと思う。経済と戦争が一体的で不可分なものであるということはミシェル・セールも以前から度々語っていますが、社会と新型コロナもまた不可分なものとして現れているという、そのハイブリッド性を、もっと考えないといけない。僕としてはそうしたところに焦点を置いてこの問題を考えたいなと思っています。

 

「驚き」をめぐる身体知と主客混淆性

HZ ありがとうございます。今、清水さんの方から「近代人は対象世界を御しているというイメージを持ってきた」という話がありましたが、このポイントに関連して、まず僕の方からお二人にご質問をさせていただきたいと思います。

先日、甲田さんの著書『水木しげると妖怪の哲学』を拝読させて頂いたんですが、そこにも、まさにそのポイントに触れる箇所がありました。それは「驚き」という情動について甲田さんが書かれている箇所なんですが、とても示唆深い一節だと感じたので、ここでその部分を読み上げてみたいと思います。

“「驚き」は、ただ一瞬だけ世界の謎を驚く人の前に開示する。ところがそこから多くの場合、その「驚き」を何かの理屈で納得しようとして、世界を説明するための知識の収集と整理に人は走る。しかしそれは、最初に自身を襲った脅威に対して忠実なようでいて、実は最も遠ざかる道ではないか。知識が問題だ、というわけではない。それによって世界を知ったように安心してしまうことが問題なのだ。”

 

 

甲田さんはこうした「驚き」を「驚き」のままに受け止め、「妖怪」に触れようとする水木しげるの知のあり方を「身体知」と同書で呼んでいるのですが、僕はその「身体知」というものを非常に興味深いと感じました。というのも 今、まさに世界はCOVID-19の到来に「驚い」ているわけですよね。驚き、戸惑い、怯えている。その上で、なんとかCOVID-19を御せないものかと知識の収集が行われている。そうした構えが果たして妥当なものなのか、僕にはやや疑問があります。そこで、あらためてこの「驚き」をめぐる作法について、お伺いしたいんです。

甲田 前回までの対談の中でも不安と恐怖の話がものすごい出てきましたよね。実は僕自身も、まあ身体がもともと弱いということもあり、とても怖がりでして、2月の末くらいから、近所に買い物とか散歩くらいは行くにしても、他ではほぼ外出してません。なぜかというと、やっぱり罹患してしまったら、これはシャレにならないなというのがある。あるいはすでに罹患していた場合、誰かにうつしてしまうという可能性があるわけで、これもちょっと怖いなというのがある。こうした具合に家にこもって暮らしているわけですけど、そんな日々の中で思い出していたのは東日本大震災のことでした。

僕は震災後、友人に誘われて、ボランティアという形で現地入りさせていただく経験をさせてもらったんです。しかし、そこで見た光景というのは言葉を絶するものだった。あまりの衝撃で、僕は帰ってから恥ずかしながら寝込んじゃったんです。その後、4年くらいかな、体調が元に戻ってはまた悪くなりみたいな状態を繰り返してしまい、自分の体力や精神力を過信してしまっていたということを身体に刻み込んた経験があった。だから、今回のことが起こった時に、「なめてはいかんな」という思いがまずあったんです。「ちゃんと怖がりましょう」みたいな言い方がありますけど、まさに自分自身に対して、今回はちゃんと怖がっていきましょう、という構えがあった。

そうした恐れについて、民俗学の領域などにおいては「畏怖」という言い方がなされているわけですよね。何かわけのわからないもの、つまり他者、あるいは臨床心理学者の田中崇恵さんが「異者」と呼ぶような存在(※)、そうした存在に遭遇した時に、それは何か謎めいた存在であるわけだから、畏敬の念を抱くと同時に、あまり近づきすぎてはいけないとも考えられてきたわけです。ある程度の距離を保って、対し方というものを考えていかなければならない、と。昔からそういうことが考えられていたんです。

※田中祟恵「 「他者」と「異者」 」(『京都大学大学院教育学研究科紀要』第59号、2013年、pp, 347-359)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173239/1/eda59_347.pdf

前回の対談で、上妻世海さんが天狗などの異人表象について話をされていましたが、あれもまた畏怖の例ですよね。(※)僕もそういうもんだと思っている。たとえば暗闇の中、外を歩いていたりするとき、とりわけ深い闇、暗い中でも特に真っ暗い空間というものが見えてきたりして、「ここは行ったらやばいな」と感じて近づかないようにしておいたりするわけです。その後、日が明けて同じ場所に行ってみると、その深い闇を感じた場所が崖のようになっていたりする、結構そういうことってあるんです。触れてはいけない、行ってはいけないところというのが、やっぱりある。そういう時に、何か異者のような存在を強く感じたりする。そうした経験に引きつけて、僕は水木しげるを読んできたんです。

※シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 03|吉村萬壱 × 上妻世海|都市を彷徨える狩猟民に〈知恵〉はあるのか──私と国の「あいだ」を/で問い直す」https://hagamag.com/series/s0065/7494

つまり、畏怖というものの背景にはまず「分からなさ」があるわけです。大事なのは、その「分からなさ」に解釈を加えてしまうことによって、あえて分かろうとしないこと。分かろうとすることに対して禁欲しつつ、しかし対峙の仕方を丁寧にしていくということが「畏怖」だと思うんです。今のところ、このCOVID-19に対しては、医学的な研究はまさに進んでいる最中で、状況そのものは刻々と変わっていくと思うんですけど、まだそれに対して抱いている恐怖や不安といったものが「畏怖」と呼ぶところにまでは踏み込めていないように思います。そのことが、清水さんがおっしゃっていたような当事者性の欠落にも深く関わっていると思いますね。

清水 僕はそんなに漫画は読まない方なんだけど、全作品を読んでる漫画家が何人かいて、それは手塚治虫と水木しげると諸星大二郎なんです。

甲田 おおっ!

清水 なぜか水木しげるはよく読んできた。実際、すごく深いと思うんですよね。水木はゲーテからすご影響を受けてるんですが、このゲーテは、20代の半ばで『若きウェルテルの悩み』で世界的ベストセラー作家になって、28歳でワイマール公国の宰相になった人です。だからか、この世の名声を外的世界に向かって獲得しにいくといったような考えがゲーテにはなくて、「俺の世界の中に全て入ってこい」といった感じで、内的世界の中においてあらゆる全てを鑑賞しようとしていたところがある。彼の色彩論なんかも全部そういうロジックになってるでしょう? たとえば、ニュートンなの場合、色彩についても暗箱の外側に光という対象があって、プリズムを介してその屈折率について分析するという近代的な考え方になっているんだけど、ゲーテは光と闇のぶつかるところに色があり、しかもその色の補色関係がさまざまにあるというところにこだわる。光の屈折ということで言うとそれは科学的にはなだらかな変化でしかないので、虹のようにどこかでくっきりと色が変わったり、補色関係があったりというのはまさに錯覚なんですよ。主体があって、その内部で起こっているそういう現象をこそゲーテは真剣に考える。生態的視覚論であり、人間だけにしかないパースペクティヴを考察した世界最初のパースペクティヴ論が『色彩論』です。錯覚もまた、世界における真実の現象でありモノなんですよね。

 

 

さっきのCOVID-19の話でいうと、二項対立の片側にCOVID-19があり、もう片側に社会がある、その上で社会をこうしていきましょう、というのではダメだと思うんです。これは極めて近代的な考え方で、そうした二項対立すらも視野に包摂していくような異なる視点がある。水木しげるが妖怪について語っていることもそういうものなんじゃないか。水木錯覚かもしれないが、「感じることのできる不可視なもの」、気配のようなもののリアルな存在にこだわっていてそれが面白いなと思うんですよね。

そういえば以前、水木しげるを特集した動画を見ていたら、水木が貧困時代からちょっと売れるようになって生活が安定してきた頃にカナダマという霊を見たというエピソードが語られていた。光の玉が空中をさーっと流れていくのが見えたらしく、その時に「俺も裕福になる時が来るのかもしれない」と考えたんだ、と。今、ワーキングプアと呼ばれる人たちが、もしそんな光の玉を見たとしても「あ、カナダマだ。俺も金持ちになれるかも」なんてことを考えるわけのわからないはそんないないと思う(笑)。そういう意味でも面白い人で、まあ折に触れて読んできたわけです。

ここで新型コロナの話に戻すと、そもそも新型コロナをめぐって生じていることを、主客を完全に分けて考えることは出来ないし、考えるべきではないと思うんですよね。新型コロナウイルスという対象が一つに収斂していくまでに、人間主体のアプローチが、たくさんそこにぶらさがって来ていて、あるいは、その対象を媒体にしないと分からない主体の動きというの複数ある。ラトゥールが科学人類学のメソッドとして提示したアクターネットワーク論は、科学の対象がまさに、このような人間主体による複数のアプローチの合流点、媒介者として現れる、その状況を分析するものです。通常私たちは、対象世界を《御している》、そしてそのための知的方法論をいくつも積み重ねて、そのすえにその対象を理解し扱えるようになると思いがちです。しかしそんないわば線型的なアプローチがあるというのは幻想であるというのが、ラトゥールの考え方ですね。むしろ対象があって、それに対するさまざまなアプローチがどうやらその対象を媒介に始めて結びつくらしい、ということが分かってくるまでの過程が、科学によって新たな対象が発見される場合には見られる。科学者が一人でも、アプローチはこの場合多数です。そして主体が対象に働きかけたその作用が、また主体の別の働きかけの前提になるというかたちで、主客の作用がジグザグに循環するということがそこでは起こる。そして対象ははっきりした一つのモノとして収斂してきますが、主体のアプローチは複数化するので、ここでは《主客》という二項性だけでなく《一と多》という二項性も現れていることになる。この複数の二項性が混じった状況のなかで、媒体としての対象、モノがどんなふうに振舞うのか、またそれを巡る主体の複数のアプローチがどう競合するか、それを考えようとするのがアクターネットワーク論です。

ラトゥール自身人類学者でもありますが、これはモノと人間集団の関係を問い直す方法論でもあるので、非-人間との関係を介して文化集団がどのように成立してくるか、といった分析にも有用です。新型コロナをめぐる状況も、こうした観点に立って初めて理解できるように思います。

たとえば、日本政府の新型コロナウイルス対策の経緯を振り返ってみると、まずは春節を迎える中国で新しい疫病が流行ってるという話があった。そこで商用や観光目的の出入国中国については止すべきかどうかという議論が、最初に起こった。ただ、そこでは中国からのインバウンド需要で儲かっている旅行業、観光業の人がどうなるんだという意見が出て、躊躇したわけです。実はそのときに、渡航禁止による減収については政府で補償したらどうか、給付金を一括で出したらどうかと、岸田文雄政調会長がわりと早めにそういうことを言っていたらしい。しかし、麻生太郎財務大臣が、リーマンショックの時に一括給付を出したが、それは貯蓄に回ったと主張して、一括給付に反対し、その案が弾かれたことによって、評判の悪かった30万円補償をいろんな複雑な手続きと引き換えに給付するという話になった。もちろん、麻生太郎のリーマンショックの話というのは、今回とは全く違う状況においての話であるわけです。実際、休業したら本当に困ってしまうわけで、貯蓄どころじゃない。つまり、まったく今の話ではない過去の話がいつまでも生きていて、対応がそれとのピンポンになってる。新型コロナがあり、いろんなアクターたちがいて、ボールがこっちに跳ねました、あっちに跳ねましたという循環を繰り返した結果、時間差でおかしな跳ね方をしていて、最後、一括10万円給付になるわけですが、その意思決定が必ずしも主体的に行われたというわけでない。これは非常に奇妙な事態で、確かに政府の無能性と言ってもいいのかもしれないのですが、ただ、これこそ主客混淆した状況における、一つの法令、政策というアクターが生成するまさにその過程でもある。そうしたものとして複雑な過程を見ていく必要があると思うんです。

 

ブリュノ・ラトゥール『法が作られているとき――近代行政裁判の人類学的考察』(水声社、堀口真司訳、2017年)

 

ラトゥールは実際、フランス行政最高裁判所の奥深くにまで入り込んで、どのようにして「法的事由‘moyen de droit’」が生まれてくるのかをフィールドワークしています法的な既成事実とされるものも、複数の人間主体のアプローチの結果生まれた人為的な構築物でありながら、しかも人間主体の思い通りにはならないモノとして機能していることが、そこではまさに明らかにされています。今日の日本政府の動きは、こうした分析の紛れもないケーススタディになっている。その一方で、たとえばこの新型コロナが武漢のウイルス研究所で生まれたというもあります。このウイルスを流出させて、世界的なパンデミックを引きおこそうという意図が最初からあったのかどうか、ということが言われたりしていますが、そもそも、そういうことがはっきりするという考え方がもはやあまり当てはまらない状況に私たちはいるのではないだろうか。そういった見方は、人間の意思や国家の意思をやや設計主義的に考え過ぎている。ウイルスが流出してしまって、それを隠蔽したりしていく中で生まれてきた、なんらかの戦略があるにせよ、こうした意思決定にしたって必ずしも主体的とは言えない。重要なことはモノと関わってそれぞれの人間がどのようなフォーメーションをとっていくのか、そして、それに対して、国際社会がどう対応していくのか、ということです。倫理上の「帰責」ということについても、これまでにない新しい解釈が打ち立てられる必要があると思います。

だから僕は、今回の状況について、知識人が自分の専門のことしか言わなくて、政治的な話をしないというのはおかしいと思ってて、こんなにまずい状況になってるわけだから、2、3週間状況を眺めていたら、学習するのが当たり前じゃないかと思うわけです。今の政界において、こいつがダメだなとか、こいつが頑張っているなとか、こいつのかつての発言が尾を引いているなとか、そういう流れをみんなもっと踏まえた上で、批判なり提案なりをするべきだと思う。批判をする場合に、人間と人間を分断するものとしてイデオロギーとか、富とかの人為的ファクターだけが考えられていた時代のロジックを繰り返しているだけではダメだと思う。今回、起こっているのは、《御する》ことができないようなモノが突然現れて、そのモノがクラスタという一種の社会を作り、社会構造を組み替えてしまうという事態なんですから。

たとえば、マリリン・ストラザーンは『部分的つながり』という本の中でメラネシアの人たちにとっての「道具」について研究していましたが、ストラザーンによれば、その道具自体が、さまざまな社会集団在り方とか、その道具に関わる人間の位置付けを決めていくのだとされている。これは道具が中心的な媒体となって、社会を作っていくという考え方です。その道具が持つ意味や働きは一様ではなく、違った集団においては同じ道具でも別の意味や役割を持ち、集団の別のフォーメーションを作っていく。人間が最も容易に《御する》ことができると考えがちな道具にすら、そういったアクター性があり、社会を組み直していく機能がある。彼らにとってはいかにそうした道具、モノと折り合い、それらをどう迎え入れるかというところでその社会の本質が決まってくる。そうした視点をいかに我々が、政治的な意味においても社会構造の洞察においても失ってきたかということが、今回の事件で露わになったと。だからこれは社会の問題でもあるけど、人類学的問題でもまさしくある。○○社会といった出来合いの枠があらかじめあるかのように考えるのではなくて、グループフォーミングとかクラスターフォーミングという意味での社会の問題、人間の文化集団生成の問題として、COVID-19のような不可視なもの考えていかなければいけないことを痛感しています。

 

 

こうしたモノと社会の循環的な生成の経緯を見ないで、監視社会化に警鐘を鳴らして「全体主義はいけない」と訴えたり、社会のこととコロナのことを分けて個人主義をやたらに標榜したりするというのは、ありがちではあるがすごく無力で、状況の分析になっていないと思う。さらに言えば、補償と休業とをワンセットとして、補償をしない政府を攻撃する意見も多く見られますが昔からある政権与党批判に問題を回収してしまっていて全体状況をあまり見ていない。国際的に見れば、補償と休業、そして国家賠償、これでワンセットなんです。最終的には中国に賠償をさせるということを前提としておそらく各国は動いているしだから最初から大盤振る舞いなわけです。日本の財務はそこをまったく考えられてない。そうなるとむしろ、実際にそうなった場合が怖い。アガンベンが生権力論に近い文脈でコロナを語って、つい先日炎上していました、下手をするとこの状況が終わったあとには、14億人のホモ・サケルが生まれる可能性がある。つまり、法的な庇護のまったくない、丸裸の人が大量に生まれてしまうかもしれない。そうなった時のことをすごく危惧しています。

 

「二手前」に戻れない日本の奇妙さ

甲田 社会というものを考える時に、今まで人間のイデオロギーだとか、設計思想みたいなものでその編成を捉えようとしてきたところに盲点があったんじゃないか、というのは、まさにそうだと思いますね。というのも、3月の末、先ほども言ったように、僕は二人の方と共著で『入門 インテグラル理論』という本を書いたんです。これはトランスパーソナル心理学のある考え方を発展させていったケン・ウィルバーという方が提唱しているインテグラル理論という考えの入門書で、10年前にも書いたのですがなかなか評判にはならなかったので、今回のリニューアルにあたってはビジネスパーソンに目掛けて書きましょうと、読みやすい形に直すことにしたんです。まあ「読みやすい本」が編集さんと著者たちによって作られる過程で何が削られていったかというと、まず複雑に事象が絡まっているような問題が削られ、あともう一つ、歴史的な経緯に触れるような記述が全部削られていったんです。「そういうことにはビジネスパーソンは関心を持たない」という理由で。

しかし歴史的な経緯についての洞察は大切です。僕は山本七平という批評家が結構好きで、よく読んでるんですけど、彼が『現人神の創作者たち』という、尊皇思想が日本の中でどういう風に出来上がってきたかということを描いた著作の冒頭で「裏返し呪縛」というお話をしてるんですね。これは何かと言ったら、「忘れた」ということを忘れてしまうということ、それによって最初に「忘れた」ことが呪縛として働いてしまうという、そういうことです。山本が具体的にあげている例ですが、近代史の中で言うと、明治になった時に、今までの自分達は野蛮だったんだと、江戸時代以前の記憶が忘れられ、今度、戦後になったら、一握りの軍国主義者が暴走したんだと、戦前の記憶が忘れられてしまった。こうなると、まず江戸のような「前近代」が忘却され、ついで「戦前」という者も忘却される。そうなると、戦後というものがズブズブになって、そもそも戦後というものが成り立たなくなる。今日、社会的なことを扱えないというのは、今の二重の呪縛、つまり歴史の軽視が関係しているんじゃないかと私は思ってます。財務というものがどういう歴史を持っていたのか、とか、改革改革として1980年代に色々やったんだけど、それ以前はどうだったのかとか、そういう歴史を削ってしまったら、見えるものも見えなくなる。はっきり言って小泉改革以前なんて今は忘却の彼方じゃないですか。

 

 

清水 二手前に戻るということはなかなかできないんですよね。子供がパジャマのボタンを上下一つづつズレたまま、全部のボタンを留めきってしまおうとするような感じ。新型コロナに関しても、ウイルスと人間的アクターとの関係、最初のところでボタンがかけ違えられたままになっていて、そのまま留め続けていこうとしてしまっている。これは歴史上しばしばあることで、たとえば日露戦争の時の二百三高地の攻略戦もそうでしょう。旅順港を攻める上では二百三高地のような見晴らしのいい高いところから観測して、その情報にしたがって二十八糎榴弾砲で敵の艦隊を撃沈するのがいいとなった。だけど、そうやって二百三高地を攻略するためには砲台を動かさないといけないところ、「あれを動かすのは難しい」と言って、最初に断念してしまったやつがいるわけです。この最初の断念が、あとあと尾を引いてしまうわけだけど諸説あるもののこの時は児玉源太郎がボタンの掛け違いに気づいて「いや、砲台を速やかに動かして二百三高地を取ろう」と、一旦ボタンを外して、最初から留め直すことになった。そういうことが、なかなか今日の日本人にはできないという話なんですよね。これは致命的なリーダーの弱さでもある。ただリーダーが弱い割にはまあまあ収まってるというのが、不思議なところでもある。日本はそういう意味で変な国だなって思います。

日本の変なところといえば、松岡正剛さんの『日本文化の核心』を読んでいて改めて気がついたんですけど、文字文明が入ってくるより前に日本列島って東北近くまで統一してるんですよね。これは人類史的に見てもわけがわからない。文字なしで国家が統一してて、そこに随分遅れておもむろに文字が入ってくるわけですよ。こんなこと普通は考えられない。そういう状況において大事な役割を担っていたのが、おそらくメッセンジャー、つまり「みこともち」なんですよね。「みこと」というのは下し、伝えられる言葉のことで「みこともち」たちは各地を経巡って、「こういうことが語られたぞ」というのを演じてみせ、また迎え入れる側もそれを歓待するわけです。日本ではその後、かなり後になっても放浪の芸能民が宗教者としての意味を持っていたりしますが、その名残もあるのでしょう。よく分からない遠くからやってきた人間によって「これは本当ですよ」と語り伝えられたことを、「まことである」として本気にして聞いてあげるっていう、不思議な文明なんです。「誠」とは何か? というのも幕末あたりまで続く日本の文明の一大テーマですよね。空間的にもそうした不思議な信憑によって成り立っているし、また時系列でも過去からそういうものを連綿と引き継いでいる「みこともち」が帝である、と考えていた。

 

 

そんな風だからか、昔から日本の識字率は高いと言われるけど、どこか無文字文化性が高い。村単位の秩序みたいな、よくわからないもので日本は自律的に動いてる。そういうところが、感染拡大を抑止しているのかもしれない。逆にロシアなんかは強権的だから、すぐに新型コロナを抑え込めるかと思われていたけど、全然抑え込めてない。どうもやっぱり、政府の言うことを国民が聞いてないらしいんですよね。国家のあり方が全然違う。ただ、もちろん、日本も楽観はできませんけどね。

甲田 全然楽観はできませんね。

清水 海外はゆっくりと終息に向かい、また二波、三波がくる、というのが大方の見方ですよね。個人的には僕自身は一抜けしたかなと思ってはいるんですが、日本全体としては、ロックアウトとか休業補償などをどうかすると繰り返しやらなくてはいけないと思いますね。財源の問題に関しては、やっぱり国際的賠償にいくしかない。その上で重要なのが、ロシアの動きですね。このままだとロシアが原油価格の暴落の問題もあって、1998年時のようにデフォルトするかもしれないと言われてる。新型コロナに関しても二ヶ月後には最低128万人、悪くて540万人以上の感染者が出て、アメリカよりも酷い状況になるんじゃないかという予想すらある。そうなった時にロシアがどうするのか。今は中国と歩調を合わせているふしがあるけれど、中国への賠償請求連合にもしロシアが加わるなら、もはや勝ち負けがはっきりしてしまうので戦争にすらならないかも知れない。ただ、もしロシアが中国にべったりとくっついてしまった場合、第三次世界大戦に至る可能性もある。いずれにせよ、これらの動きが世界史の重要な転換点になることは間違いないと思います。

はっきり言うと、コロナが一応終息すると、かつて列強八カ国が清国に歳入の七年分の賠償を請求した、義和団事件(北清事変)後のような世界がやってくるんじゃないかと僕は思う。非常に大変なことになるのではないか。そういう意味では、新型コロナの感染拡大以上に、ミサイル一発で東京が滅ぶんじゃないかとか、そういうことの方が僕はむしろ怖いですね。

 

統一的な「啓蒙」ではない新しい「普遍」に向けて

HZ ここで質問をさせてください。清水さんが以前、共著『脱近代宣言』にて紹介されていたイザベル・ステンゲルスの「コスモポリティクス」という概念についてです。あるいは、そこで清水さんはラトゥールがそのコスモポリティクスという概念を用いて、外在的な自然によって調停できない諸世界の対立を調停し、共存可能な共通の世界(a common world)を生み出すために必要な交渉はどのようなものかを考えているということも語られてました。あるいはラトゥールには、地球を丸ごと含めた「ガイア」という概念も提示していますし、近年では「クリティカルゾーン」という言葉も使っています。ステンゲルスやラトゥールが考える「大きな政治」が、一体どういうレベルで言われているのか、気になるんです。

 

 

落合 陽一/清水 高志/上妻 世海『脱近代宣言』(水声社)

 

というのも、このシリーズの第一回目(※)において、近藤祉秋さんが、ヘザー・パクソンの「マイクロバイオポリティクス」を紹介する話の中で、グローバル化が進んだ今日においては、微生物との関わり合いをめぐる政治が、直ちにプラネタリーポリティクスに直結するような状況がある、ということを語られていたんですね。たとえば、COVID-19のパンデミックを受け、昨今にわかに語られ出している「世界政府」のようなものが、まさにその例です。しかし、個人的にはこうした「世界政府」のようなものには、どこかキナ臭さも感じるんです。たとえばマルクス・ガブリエルなども、今こそ「グローバルな啓蒙の理念が必要だ」というようなことを言っています。環境問題などに関してはグローバルな基準というものがある程度必要だろうとは理解しつつ、そうした「大きな政治」の話にはどうしても乗り切れなさを感じてしまいます。

※シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 01|奥野克巳 × 近藤祉秋|ウイルスは人と動物の「あいだ」に生成する──マルチスピーシーズ人類学からの応答 https://hagamag.com/series/s0065/7325

そこで、お伺いしたいのは、今日のような事態において立ち上がりつつある、「世界政府」という語に連想させられるようなポリティクスのあり方と、ステンゲルスのコスモポリティクスや、ラトゥールがいう「a common world」というものが仮に異なるのだとしたら、どう異なるのか、ということです。

清水 それらは全く違うものです。まず、ラトゥールの考え方というのは、あくまでも人間の競合関係を一つのモノを巡って考えるというものなんです。アクターネットワーク論では、一つのモノを媒介にした複数の主体的なアプローチが分析されますが、それら同士はばらばらです。また対象となるモノを、《御する》ことができるような対象とは考えない。これは二〇世紀までの市場分析のモデルとか、たんにグローバルな政治的統合体としての世界政府というモデルとは、明らかに違うと思います。

ラトゥールのアクターネットワーク論の元となった考え方に、ミシェル・セールの準-客体論があります。この準-客体論が提起したのは、たとえば、ボールのような媒体=対象があって、そのボールをめぐって複数の選手=エージェントたちが競合的に振る舞う関係を考えると、従来の二元論的な主客関係が変わってくるのではないかというものです。この時にそのボールは純粋な客体ではなく、媒体として能動的に振る舞い、エージェントたちによって形成されるネットワークを変化させ、翻弄していくものとして考えられている。主客という二項性に、一と多(一つのモノと複数の主体)という二項性を掛け合わせると、かえって客体には能動性が付与されるという、二項性の種類を増やすことで二元論を撹乱する、調停することができるのではないかというアイデアがここで登場した。

今世紀にラトゥールやステンゲルスといったセールの弟子筋の人たちがやっているのは、その発展形であり普遍化です。しかしこれまでの消費社会分析のモデルはあくまでも皆が同じモノを求めているということを前提としてて、その時、そのモノ自体はむしろなんでもいいとされていた――記号を消費しているというようなことすら言われていたわけです。ラカンの対象Xなどでも皆そうです。そこで見失われたモノが、この図式の崩壊とともにようやく姿を現しつつあり、COVID-19はその象徴でもある。

ラトゥールが《グローバル》に代わる全体概念として、地球環境を含む《ガイア》という言葉を使ったりするのは、一つの逆説でもあるんです。各アクターの競合とか、個人がばらばらに存在する在り方というのをラトゥールとしては考えねばならないんだけれど、一方、世界全体というのもやはりそういうものとして捉えないといけない。そうした対象の中にわれわれもいるし、先のゲーテの話ではないですが、すべてを包摂する視点に立つ、そこに身を置くのでなければむしろただの二元論になってしまう。ラトゥールにとっては、地球もまた『虚構の近代』で彼が例に挙げた、環境活動家やフロンガスを排出する製品を作る企業、化学者、気象学者、政治家など多様なアクターの働きを媒介する客体、《オゾンホール》のようなものとして捉えられるべきであり、またそこで私たちは住み分けをする必要がある。大きな構造について考えられなくはないし、二〇世紀までの諸学が見失っていたモノの審級まで含めた世界の全体を考えねばならないが、それは「統一」によって全体化、グローバル化するとか、マス単位で個を扱うということではない。見失われていたモノや自然と、個のあり方というものを同時に取り戻すことが、今まさに求められていると思います。

ところで、セールが『自然契約』という書物で提示した興味深い概念に、「オブジェモンド(objet-monde)」というものがあります。オブジェモンドは世界-対象物という意味で、たとえば、大型タンカーとか、原子力発電とか、動物の飼育場とか、通常は非常に効率的に動いてるんだけど、それが一たびひっくり返ると世界的な影響をもたらす、環境に重大な負荷がかかる、そういった対象物のことです。そういう対象物を人類はすでに夥しく持ってて、それらは非常に効率いい生産のシステムではあるんだけど、たとえば大規模な飼育場などは、疫病にとっても最も好都合な環境であって、口蹄疫などが一旦蔓延すると大量に豚が殺処分されたりするという状況にもなる。その豚と同じ状況に、いまや人類自体もきていると思うわけですよ。

 

 

人類文明そのものについて言えば、たとえばアニミズム世界なにおいては「食」というもの一つとっても、食べる、食べられるという行為が相互的な行為としてあった。ところが、それが米を収穫して一方的に食うとか、穀物を蓄積する生産形態になってくると、人間自体もまたこの生産形態のなかで画一化され統合されたマスになっていく。そういう状況が古代文明の時代からすでに起こってきたと思うんです。そして、そうした画一化された巨大文明は定期的に滅んできた。生産と拡張を続けた結果、最後にオーバーキルが起こる。たとえば農業をやるにしても、そもそも耕地を作るために森林を焼いたりしてその見返りとして同種の穀物を育てるわけですから、オーバーキルは最初から文明の原罪としてある。それは眩いばかりの富と豊穣をもたらすのですが覆った時には文明ごと滅ぶ。そういう非常に画一化された、巨大なオブジェモンド的文明にわれわれは、現在無防備に取り込まれすぎている気がします。

歴史を振り返れば、中東にせよ、中国にせよ、哲学や世界宗教が誕生して世界について深く洞察しようとする以前から、幾度となく勃興して滅んできた文明があり、そうした文明たちと同じリスクを背負ってわれわれは、今同じ道を辿っている。もう少しばらばらのクラスタ、ばらばらの文明を作っていって、それぞれが深いところでは理解しあっているという状況を目指したいですね。実際、COVID-19でこんな事態になってしまってはいるけれど、だからこそメラネシアの人たちが考えていたことが分かるというようなこともある。それこそ、世界政府を構想するよりも、日本人がこれまでどうやって生きてきたのかということを考えていくことの方が、僕は普遍的だと思いますね。

甲田 やっぱり文明というのは生まれたら滅ぶんですよ。僕は最近、うまく負けるにはどうすればいいかということしか考えてないんです。たとえば、日本国が日本国として外交の現場でうまくキャスティングボードを握ってやっていくといったような話、そんなことはね、今までのことを考えると無理ですよ。ざっくりと無理。最悪、白旗をあげた方がいい。すると、白旗をあげる時にどういうあげ方をすればいいかという話になる。その時、統一国家だとか普遍性というものになるべく巻き込まれないほうがいいと僕も思うんです。

ここでいう普遍性というのは、他者から見られた自分の姿を自分だと思い込んでしまう人たちが集まってしまうということ、それを僕は普遍性だと考えます。簡単な例を挙げると、最近ツイッターで見かけた記事で、在宅ワークのやり方の一つが紹介されていたんですね。会社と自宅のパソコンを繋ぐわけですけど、そこに退席と着席のボタンがあって、そのボタンを押すと上司にピッと届くらしい。そして、上司にそれが届くと、そいつが仕事をやってるのか、やってないのか、みたいなことが分かる。つまり、管理できる。それがオフィスの「見える化」という符丁によってその記事では語られていたんですけど、僕からすると、それは「見られる化」の進展なんです(※)。見られることによって、その人は社員でありうる。しかし、ウンコしてたり恋人と会話してたりしててビデオ会議に遅れたらどうするんだ、と。実際、色々とありうるわけじゃないですか。でも、「見られる化」においては、そこが統一されていくわけです。仕事しているときは「みんな一緒」でなければならないことになる。これが普遍性です。言い換えると、自分と他人というものが同一の空間に投げ込まれていて、想像上の他者から見られている、その「想像上の他者」がこの場合は上司です。

※NHK NEWSWEB 「テレワーク 働きぶりの“見える化” 導入広がる 新型コロナ」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200424/k10012404611000.html

これは基本的な科学、つまりラトゥール以前の科学の問題でもあったわけです。普遍性とか共通性、あるいは人権というのもそうでしょう。僕は人権なんてはっきり糞食らえと思ってます。普遍性をベースにすると、「見られる」化を前提としたタテマエの平等性により、あんなものが立ち上がってしまう。それこそ、民族にせよ、個々人にせよ、実際には統一なんてされていないわけです。生きていく中で、色々な顔を見せていく。たとえば、前回の対談で吉村萬壱さんが、スーパーの中で誰かが咳き込んだだけで殺意が湧いたりするけど、それもちょっと時間が経って反省すると、別に大したことじゃないかと冷静になれるみたいな話をしていましたよね。つまり、個体の中においてさえ、殺意を抱く修羅のような自分と許しをもたらす仏のような自分といった具合に、いろんな奴がいるわけです。

そうだとすれば、そうした個体の変異性同士の繋がりあい、あるいは、繋がらなさということをちゃんと考えていった方がいいのかなと僕は思う。その繋がりが「世界政府」とかになってくるとのっぺりとしてしまうわけで、そんなものは人間の本性からいって実現はしえない。それを無理に実現しようとすればかえって争いが増して滅んでいく。まあ御愁傷様でございました、と。けれど我々はそんなものに巻き込まれませんぜ、と。そういう話だと思うんですよ。

 

「モノ」と共に再編されつつある社会で

HZ 文明というものが一つに統合されるのではなく、ある程度、分散的に、多様にあった方がいい、というのは本当にその通りだと感じますし、それこそ人類だけではなく、種が多様に存在するということが、「生命」そのものがサバイブしていくための条件でもあるわけですよね。ざっくりいえば、種が仮に一つしか存在しなければ、その存在が滅びた瞬間に、生命そのものが絶滅してしまうわけです。

ただ、こうした多様性、ダイバーシティという言葉は世間一般にも浸透していて、なんなら今日の良識的な人々にとってのスローガンにさえなっていますよね。しかし、実は「多様性社会」といった時にも、そこには二つの方向性が考えられて、一つはあらゆる多様性を包摂するような一つの文明へと向かう方向、そして、もう一つはある程度の偏りをもった文明が多様に存在する状態へと向かう方向です。この二つの方向性は、しかし、かなり違うわけです。近代以降の世界は、おそらく前者の方向、統一的な世界文明のようなものの中であらゆる多様性、差異を許容していこうということが、ヒューマニズムの旗印のもとに、ある種、画一的に行われるという逆説の中にあったように思います。もちろん、それによって救済された人々もいたし、得られたものは多かったと思うものの、そうした方法論にある種の限界がきているというのが、今のお話だったのではないかと感じています。

清水さんのお話では、そうしたユニファイの力が加速していけば、文明は必ず滅びるんであって、それこそ旧約聖書のバベルの塔の話ではありませんが、今、COVID-19というアクターの登場によって、現代のソドムとゴモラにヒビが入ろうとしているようにも見えます。しかし、そうした分散、文明がバラバラになるという時、それが具体的にどのような単位で行われるのか、あるいは行われるべきなのかが気になります。それは単にネーション単位で行われるのか。つまり、国境線を強化しましょう、という話になるのか。あるいはネーション単位とは異なる分散がありうるのか。そこらへんはどうなんでしょう。

清水 分散ということについて、今の時点で大事なことは、繰り返しになるけど、経緯をよく見ることだと思います。結局、人間集団が多様に競合している関係を考えるにしても、「あいだ」に媒体となる不可視のモノが挟まれる必要があるしこれまで見たようにCOVID-19が現時点ではその媒体となってる。それを媒介して政府なりが意思決定していく過程において、さまざまなアクターやクラスタが生まれてくる、まずはその経緯や布置をよく見ることです。すると、ここはこういうグループ、クラスタなということがわかってくる。クラスタという言葉は、今では潜在的に感染の可能性がある集団とか、隔離されるべき集団とか、そういう限定的なレベルで用いられていますが実はあらゆる社会集団が、モノを媒体にして成立したクラスタでもあるんです。今感染回避のために使われているクラスタという語を、そのぐらい拡張すると世界の見方が変わると思う。

たとえば政治に関して、今の日本の中枢がどうなっているかといったら、ほとんど岸信介と吉田茂の縁者のラインであって、ものすご小さなクラスタ内でボールを回しあってることが分かる。そういった小さなクラスタにおいて、さっき例に出した麻生太郎の発言、「現金給付すると貯蓄に回る」といった発言が、金科玉条のようにアクタント(中心的媒体)化していて、それが発揮する妙な能動的作用に翻弄されるように、重要な意思決定がなされていく。ひょっとしたら、平安時代に蹴鞠か何かをしながら政治を行ってた時代も今も本質的には変わってなくて、毬が変わっているだけ(笑)。現代は民主主義の時代だって言われてるけど、意思決定の過程は相変わらずそんなものなんじゃないか? 地域で代表を選出するだとか、人間集団だけの合議制とか多数決とか、そうしたものだけでは絶対に決まっていない。ラトゥールの『虚構の近代』という本の原題は、「我々が近代人であったことはない」というものだったけれど、結局、ポリティクスにおいてもずっとそうだったんじゃないかという気がしてます。実際には政治的なパワーというものも、国民国家の単位で成立しているものではないですね。

あと、先ほど甲田さんから人権という言葉が出てきましたが、今回は「人権の抑制」という要素も重要な論点としてあったわけですよね。ロックダウンをするにあたって、日本でそうした私権を制限するような強権発動が可能かどうかといった話があった。日本の政府は私権の制限がまるでできなかったけど、ヨーロッパも韓国も台湾もそれを強力に推し進めたていたわけです。こういうところからも日本の不思議な政治の構造が見えてくる。政治には飴と鞭というのがあって、飴とは、機会の時点で傾斜をつけて利益誘導していくこと、そして鞭とは機会は完全に公正にするけど、そこから先は厳しくするよという、まあ大体は暴力的なものとしてある。それでいうと、日本の政治家は飴しか持ってなかったんですね。飴しか持ってないから、日本の政治家のやることって不平等なんですよ(笑)。これをこうすると得するよ、という風に用途に紐づけて人を操ろうとするような、そういうことばかりしている。だけど、それでは動かしきれないことがあるということが今回よくわかりました。

ジョルジュ・デュメジルという神話学者が、神話には三つの機能があるということを言っていて、その三つ目が生産と経済、二つ目が暴力と戦争、そして、第一のものが神聖機能だとしているんです。インド、ヨーロッパ語族の神々は、だいたいがこの三層に分かれています。たとえばジュピターが第一機能、マルスが第二機能、クィリヌスが第三機能、といった感じです。さらにインドではその三層が社会制度にもなっていて、それがカースト制なんですよね。先ほども述べたように、これまでは生産の局面を極限まで拡張する、オブジェモンド的都市国家の世界観で突き進んできたわけだけど、これは拡張してマクロになればなるほど、逆にひっくり返った時に全滅してしまうことになる。こうした全滅を人類はすでに何度も見てきたと思うんです。インドの神話じたいがそうなっています。神々や英雄夥しく生まれすぎてしまうと、大地がその重さに耐えかね、彼ら同士が滅ぼし合うという展開になり、結局、全員が滅んでしまう。『マハーバーラタ』のような叙事詩は、まさにそういう全滅戦争が主題として描かれています。

そもそも、仏教のロジックも実際のところそんな風になっている。十二支縁起と呼ばれるものがそうですね。これは「無明があるから行がある、行があるから識がある・・」という風に、人間が煩悩と苦の世界を生きることになる仕組みを説いている。「これがあるから、あれがある」という風に煩悩が増大していくあり方がまず語られるのですが、これを順観といいます。そのあと「これがないから、あれがない」という風に、すべてが滅していくターンに入る。これを逆観(還滅門)と呼んでいる。こういうことが起こるのは情念の世界で、俗諦ともいうんだけど、この滅びの局面はたんなる禁欲というようなことではなくて、突き詰めると「Aがないから、非Aがない」という構造を現します。またこれが、順序の問題でもなく「Aがないから、非Aがない」、かつ「非Aがないから、Aがない」という関係構造の問題でもあるということを喝破したのがナーガルジュナです。するとそれは、対立二項のどちらにも原因を帰さないインド人特有のロジック、「Aでもなく非Aでもない」という、テトラレンマの構造に限りなく近づいていく。テトラレンマは、たとえば「不生不滅」(生まれないから滅ばない)というのがその典型なんですが、もっとも安定したあり方だとインド人が考えるもので、それが悟りの世界(真諦)でもあるんですね。

ラトゥールも、対象にも人間集団にもどちらにも原因を一方的に帰することなく、科学が生まれてくる現場を考えなければならないと主張しますが、近代的二元論を超克するという現代哲学の方向性も次第にこういうものに近づいてきていると僕は思う。このように生産と破滅を経て、さらに久遠の世界にいくという三種の構造が仏教のようなインドの哲学にもあるけれども、人類の文明自体もあるいはそういうものなのかもしれないと感じるし、最終的にそれによって昇華される部分があったんだと思うんです。

甲田 僕がインド思想や仏教哲学の一番好きなポイントを、俗っぽい言葉で一言でうと、超いい加減(良い加減でもある)なところなんですよ。そのいい加減ってのがどういうことかと言うと、僕は学生時代に、インドのバラモン教の哲学の中で最大の思想家といわれている、シャンカラについて勉強していたんです一般的にはシャンカラもバラモン出身ですから、カーストの考えを守っていて、その上層階級にいるものにしか救いは訪れないし、解脱もできないということを言っていたとされてるんですね。しかし、同じシャンカラが書いたと言われている小品と呼ばれる多くの著作、それがバッタもんなのかダミーなのかはよく分からないんだけど、そうした著作なんかを見ると、低位カーストやアウトカーストの人間でも救済はされるんだとはっきり書いてあったりするんです。すると、シャンカラには二つの顔があったと言うことになる。こうした複数の顔があったことが、後世にヒンドゥー教の改革運動を生み出し、あるいはヴィヴェーカーナンダのような人物が外来思想であった近代西洋の哲学思想と対話していくという発展に繋がっていくわけです

何が言いたいのかというと、インド思想にはカーストなどの非常に厳しい側面がある一方、非常にフレキシブルなところもあって、それは日本の仏教にも流れてきてると思うんです。たとえば浄土真宗とか、普通の仏教として考えたら変なんですよ。普通、仏教というのはマインドフルネスのようなもので、気づきを深めていくことによって、自分自身が苦悩から解き放たれていくというものなんですけど、浄土真宗においては、無量光・無量寿を意味とする阿弥陀如来という、何かよくわからない未知のところから救いが訪れるみたいなことが平気で言われてしまうわけです。日本の仏教が持つこうしたフレキシビリティについて、頭の硬い連中は「脆さ」だとか言ったりもするんだけど、そうじゃないだろうっていうのが僕の考え方で、それはさっきの分散する人たちがどうつながっていくのかということにも関わる。

クラスタの話も出ましたが、このCOVID-19の問題が出るまでは、クラスタと言えば、エヴァ好きとか、フランス映画好きとか、妖怪好きとか、清水さんの哲学が好きとか、そういうものだったと思うんですよね。それってさっき名前を出した山本七平の考え方を援用すると、一つの「世間」なんですよ。小さいけれども価値観や関心を共有していて、そこで動いてる。結局、政治もそうじゃんってのが今回あらためてバレちゃったんだけれども。ただ、これまでの啓蒙思想の中ではそういう「世間」があるからよくないのだ、そんな「世間」みたいなものはなくして、自立した個人を育てて、民主主義をやってきましょうって言われてきたんです。でも、それは無理だった。てか、やってると思ってたらまるでできてなかった。だとしたら、あらためて「世間」というものをどういう風に活かしていくかを考えたほうがいい。むしろ「世間」っていうものに気づきを持って、そこに入っていく方が、生産的なんじゃないかなと思うんですよね。どういう世間があって、その世間はどういう文脈に置かれているのか、そういうことを知った上で、その世間に関わっていく。そういうことだと思う。

清水 ジャン=ジャック・ルソーは政党というものすら否定していたんですよね。徒党になるからと言って。だから、ルソーの一般意志というのはものすごくユニファイされたもので、時系列で変わっていくし不安定だけれど、絶対に正しいものということになっている。そういう考えはいかがなものかなと思いますよね。

甲田さんも言うように、政治がクラスタで動いてることをけしからんと批判してみたり、俺はそこから拒絶されているとか、そんなことをただ言ってるだけではダメなんですよ。たとえば、僕は首相官邸のホームページから、色々とお願いをしてみたんです。「緊急事態宣言発令、まずはご苦労様でした」から書き始め、給付金は一括にした方がいいんじゃないですか、とか色々。そういうことがかなり大事で、実は意外に、言うことを聞いてくれることもあるんですよ僕がそこで書いたことはほぼすべて実現しました。反政府だけ言っていればいいみたいな人もよくいますけど、それだけだと自己満足であまり意味い。人類学では世界というものは客観的で単一なものではなく、それに関与する者たちがもつパースペクティヴに応じて多数あるんだという、多世界論が語られますが、ポリティクス自体も多重になっている。それをどう合従連衡させていくか。そのかなめなるのは、客観的なアクタントであったり不可視のモノだったりするが、それを通じて、競合という状態が起こってもろもろのエージェントが分離したり干渉しあったりするということを、構造的に分析しなければならないこうした分析がないと、現況はまったく分からない。今の政治学者がそのような経緯を分析できているかというと怪しくて、結局、大昔からのイデオロギーを軸にものを捉えている。このあたりがまったく駄目だと思いますね。

あと、デュジメルのいう第二機能的なもの、つまり軍事的なものを、あまり忌避したり、軽視したりしてはいけないと思うんです。本当の意味で畏れるということも、もちろん大事なのですが、歴史を見ていると、第一機能、第二機能、第三機能というのは、常に形を変えながらも実体としては同じで不可分なものなんです。秩序だったルールや同調圧力と闘争は実は表裏一体だし、経済競争もその変形です。その中のたとえば第三機能、経済で行き詰まったり破綻したりということは、これまで色々な国で何度もあったことで、そうなった場合、その都度、負債は踏み倒されるんです。で、その踏み倒す際には別の機能が出てきて、踏み倒すということになる。第一機能的な正統性であったり、第二機能による戦争であったり。そういうことが今後やっぱり起こってこざるを得ないと僕は思う。日本も戦争で負けていきなり経済大国に転換した歴史があるし、国によっては第一機能的な、宗教的、文化的な権威や正統性を持ち出して踏み倒すこともある。ドミノのようにいろんなことが立て続けに起こってくる気がしますね。

甲田 分かりますよ。ただ、さっき僕が話した「負け方」とも繋がるんですが、軍事的なところでぶつかったところで、日本はボタンがかけ違っても勝てやしないんだから、じゃあ軍事に対抗するための手段がなんなのかっていうところを真剣に考える必要がそれこそあると思うんですね。たとえば日本が今後やるべきやり方としては、「話をなかったことにする」というのが一つだと思う。政治の世界において、これは重要なことで、日本もそれを無自覚にはやってきてるんだけど、戦後、本格的なところではできていないな、と思います。だから、あらためて、どういう風にすれば「なかったことにする」ことができるのかということを考えてみたり、あるいは日本を攻めても不毛で価値がないと思わせること、それによって結果的に生き延びるといった、高踏的なテクニックというのが、可能性としてはあるんじゃないかなと思う。もちろん、今の日本の政治家には可能性なんてほとんど感じられないし、現実的にも厳しい展開だとは思うけど、考えられなくはない。それを今、身近なところで、町内会だったりとかに働きかけたりしながら、動かしていくしかないでしょう。それこそ僕も官邸にメールを送っていますしね。そういう動きが集まると、既存の政党において漏れるような政治運動として組織されるような展開になる。

ところで、さっき東北震災の時に、僕はボランティアに加わってたって話をしましたけど、なんでそこに関わろうと思ったかというと、そこのグループの目的が、「自分たちが一日も早くなくなることだ」とはっきり掲げていたからです。グループの原理が目的相関的で、それこそアクターというんですかね、それが達成された暁にはそれはもう消滅しているという。それは時限立法みたいなもんですよね。そして、たまたま現地で出会った人間がこちらに出入りしたり、あるいは違うグループの動きにこちらの人間が参加したりというフレキシブルな部分もあった。こういう組織原理は、僕は今後、非常に可能性があるなと思ってます。小中規模であり、時限的であるから、フレキシブルでもある。これが大規模かつ恒常的になってくると、また硬直化してしまい、違ってきますから。

清水 そうですね。時間や空間的な範囲に限定を設けるからこそ機能するポリティクスというのが今後、重要になってくるのかもしれない。これはコスモポリティクスみたいな大きな話ではないんだけど、そういう限定的な部分について深く洞察することが、世界そのものを理解することにつながるんじゃないか。アクターネットワーク論自体がそうであるように非-人間まで含めた世界そのものについて考えることは、個人が個人であることを模索することでもある。リヴァイアサンのような統合体にならないための連帯。そこで「モノ」も加わったネットワークを辿っていくことで「ガイア」に至る。その道筋をどう具体的局面で可視化していくかってことですね。

かなりな高齢者以外、われわれはこれまで100年に一度の文明の転換点といったものをあまり経験してきていないと思うんです。『実在への殺到』を書いたのは2017年でしたが、あの時に僕は、ロシア革命が起こり、デュシャンが《泉》を展示した1917年くらいから、20世紀が本格的に到来したように、21世紀もまたようやく到来しつつあると書きました。ただ、21世紀の到来を告げたのはこのCOVID-19だった。ここから21世紀が本当に始まるんだという感慨を抱いています

おそらく、人間が人間社会のことだけを考えていくのではないフェーズが不可避的に生まれている。そしてそのなかで、自宅隔離のような形で閉ざされていく部分もあるけど、ZOOMを使った今日の対談のようなものをはじめ、遠隔地どうしの関わりあい積極的になってきているし、開かれていく部分も逆にある。逆に今まで閉ざされたところで密になっていたクラスタが、シャッフルできるようになってきてる。これはいいことだと思いますね。怪我の功名でしょう。

甲田 まさに怪我の功名ですよね。今後の計画とか目的を立てるということは必要だろうとは思うんだけれど、何のために計画や目的というものがあるかと言ったら、アテを外すためにあると僕は思ってます。つまり、現実はそんなものをやすやすと乗り越えていくわけで、それも含めての世界と正対するあり方というのがあると思う。清水さんとの共通関心でいうと、ミクロとマクロが入れ子になって展開している華厳思想の世界だとかね。まあ、COVID-19によって、人と人、人とモノとの結び方や切れ方が実は複層化しているということに、仏教とかに興味があるようなオタクな連中だけじゃなくて、全体的に見え始めているんじゃないかなと思って、僕はそこに期待は感じてます。

HZ いま、まさに社会的なものが組み直されていく大きな転換点になるんだろうという気がします。そこには希望がある。清水さんがおっしゃった通り、21世紀がようやく到来したのかもしれないと思うと、不謹慎ながらどこかワクワクしてしまう部分もありますが、しかし、性急に大きな動きに乗るのではなく、じっくりと小さなところから考えていきたいと思います。それでは所定の時間がきましたので質疑応答にうつっていきたいと思います。

 

質疑応答

Q1 奥野克巳です。情報量の非常に多い、面白い議論でした。先ほど、ステンゲルスの話が少し出てきました。それに絡めて私自身が考えたことに関して、少しお尋ねしようと思います。

最近、マリソル・デ・ラ・カデナが『EARTH BEINGS』という本を書きました。これは、人間以外の諸存在を含め構成される、ステンゲルスのいう「コズモポリティクス」を一つの手がかりにして書かれたアンデスの民族誌です。著者のデ・ラ・カデナはペルー人で、先住民ではないんですが、アンデスの人々とともに鉱山開発反対のデモ運動に参加し、どうやら彼女は当初、そのデモが、アンデスの人々が羊やアルパカなどを育てている牧草地が鉱山開発によって阻害されてしまうことに反対してのものだと思っていたらしいんですね。しかし、実はそれだけではなかった。そのデモの背景には、アンデスの人々が山に対して抱いていた恐れがあったんです。アンデス世界では、山そのものが開発に怒って人間を殺すのではないかと恐れられていて、その恐れがデモの背景にあった。つまり、彼らにとって山は「感覚を持った存在者」として考えられている、と。山は「EARTH BEINGS(地のもの)」なんです。

 

 

今日、アクターネットワーク理論などを参照にしながら、「世界政府」の話などが、日本の立場も含めて議論されていたように思われます。たとえば、アンデスの例ではコズモポリティクス的な「自然の政治」というものが、先住民の中では非常に当たり前のものとして考えられています。それが「人間の政治」、つまりペルー政府に対する運動へと直結している。つまり、「自然の政治」と「人間の政治」が二重化しつつ繋がっているんですね。このあたりのことをお二人はどういう風に考えるのかが、気になります。つまり、今後、我々がどうしていくべきなのかという問いに対する一つの考え方として、多自然主義的な宇宙というようなものを、どういう風にがポリティクスのレベルで考えることができるのかということに関心があるんです。

実際、今日では、動物や他生を視野に入れたアカデミズム、あるいはアクティヴィズムは非常に広まってきています。そんな中で、ヴィヴェイロス・デ・カストロ、フィリップ・デスコーラ、エドゥアルド・コーンなどの人類学者が示している多自然主義的世界観がかなり影響を持ち始めている。しかし、こうした人々の意識の前面に立ちはだかるのが、「人間の政治」です。デ・ラ・カデナも非常にそこを問題視しているのだと思います。何かお考えがあれば、お聞かせください。

清水 まさに「自然の政治」を「人間の政治」へと繋げていく上での鍵が新型コロナなんだと思います。アクターネットワーク論のよう人間と非-人間との関係を考えるということが、現実のポリティクスにおいてとても大きな問題であるということが今回のパンデミックでもよくわかった。ただ、先ほどもラトゥールを引いたように、我々が近代人であったことなどはなく、結局、何らかのモノをめぐってこれまでもグループフォーミングされてきていて、それと政治が切り離されていたことは実際にはないんです。古くから、何らかの生業なり、職種なりごとに、モノなり自然物なりを経由することで、政治における根本的な要求といったものが涵養されてきたし、そうしたものを複合したものとして、すでに近代政治というものもあったのではないか。「自然の政治」と「人間の政治」の二重構造というのは、今日のわれわれの政治もそうだし、すでに普遍的にあるものなのだと思う。その中心的なアクタントがアンデスのその事例の場合、「山への畏れ」であったわけです。だから我々も、人々と山が実際どのように交渉し合ってきたかという具体的な経緯の中で、そうした中心的なアクタントがどういうものなのかをより詳しく読み解く必要がある。すでにアカデミズムは前世紀的な文化相対主義から離陸していて、人間が人間社会をぶつ切りに相対化していくのとは異なるフェーズが様々な分野で明らかに共有されている。それが具体的なポリティクスへと繋がっていく上で、今回の事件が大きなきっかけになるんだと思います。

甲田 多自然主義的ポリティクスということで僕がイメージすることは、ポリティクスという語にはいわゆる政治という面とは別に、政=祭り事という面もあるということです。おそらく、山の怒りを鎮めるとかっていうのは、自然の精霊に対峙する祭り事的な部分にあたる。人間にとっての政治は人間を相手にしますからこれは近代的なポリティクスとしての政治になりますが、じゃあ祭り事としての政治を英語でどういう風に表現したらいいか、ちょっと僕は分からないんですが、この二つの面は隠れた形で常に繋がり続けてきただろうなとは思う。もちろん日本においてもです。

これは表に出てる話ではないし、まことしやかな都市伝説かもしれないという前提で言いますけど、和歌山の方で原発を入れようとした時に土地をほっくり返そうとしたらブルドーザーがひっくり返る事故があって、結局、そこに原発を入れられなかったということがあったらしい。将門の首塚みたいな話もそうですけど、この手の話というのは実はそこかしこにあるわけです。こういう話は正規の政治においては語られないわけですが、今ならばネット上に都市伝説的に書かれ、まさに現代の口頭伝承みたいな形では伝わっているわけです。近代的なポリティクスの文脈からは祭り事的な意味の政治がやっぱりこぼれ落ちるんですよ。

ただ、そうした構造があった上で、水面下で祭り事を「人間の政治」として中央集権化していくというシステムはあったんだけど、やっぱりそれでも「自然の政治」はこぼれていく。このように、こぼれていくときに何が起こっていくかっていうと、たとえば疫病退散みたいな話であったりとか、あるいは津波が襲ってくであったりだとか、そういうような形で民間伝承と、医学や治水工事とが絡まり合うような事態が絶えず生じてきた。そうした蓄積もまたあるわけで、そうしたところにあらためて目を向けてみるというのも、僕は大事なのかなという風に思っていますね。

 

Q2 新たな啓蒙はあり得るでしょうか。人類の全てがテトラレンマ的な知性を身につけたら世界がよくなると言ったような。

清水 啓蒙について、僕はいわゆる普遍主義みたいな形では考えていなく、様々な情念、あるいは芸術も含めて、他者観、自然観などを回復しつつ、それを共有していくものとしてあることが大事ではないかなと思いますね。先ほど触れたテトラレンマ的な価値観というのは、必ずしも論理という形で啓蒙する必要はなく、より審美的な部分でそれを感じ取っている人は多いと思うんです。たとえば藤原定家の歌に「見渡せば花も紅葉もなかりけり」というのがある。なぜ、「花も紅葉もない」と、あえて言わなきゃいけないのか。これも一種のテトラレンマ的思考だと僕は思うんです。あれもない、これもないという世界に却って久遠の美を見出すという感性が連綿とある。僕なんかはごちゃごちゃ理屈で考えているわけだけど、情念として、宗教的感覚として、人生のさまざまな局面でそうした真理を深く感じ取る人は絶対にいるはずで、そこで感じられた洞察を幅広い、豊かな土壌に結びつけていくための啓蒙が新しい啓蒙なではないかなと思いますね。

甲田 まあ難しいところですね。僕なんかはお先真っ暗人生ですから(笑)。これは逆説的でもあるし、言葉通りに捉えられるとちょっと危ないなというところもある上でいうんですけれど、僕はもうちょっと絶望が必要かなと思ってます。たとえば僕は身体に障害がある。自分の身体に常にままならなさを感じていて、ここでいう絶望というのは、そうしたままならなさをしっかりと引き受けていくという意味です。そうしたままならなさに向き合っていった先に、テトラレンマ的な知性は自然と身についていくはずだとも思いますね。

清水 本居宣長の「もののあはれ」もそういうことですよね。思うにまかせない、心に叶わぬすじがあって、そを深く感じて慨嘆することを「あはれ」というと宣長は語るわけだけど、ああした日本の国学というのも実は仏教的な滅びの文脈、そしてそれを通じて自然をどう迎え入れるかという美学を強く意識しているんですよ。神仏習合は奈良時代に終わったのではなくて、江戸末期まで続いています。さまざまな人によるひとつひとつの文化的達成全てに、実はそういう要素があった。それはアニミズム的な文明の根源の再発見でもあったのでしょうが、今また私たちに求められているのは、やはりそうした根源への回帰でもあると思いますね。

 

 

 

構成|辻陽介

ドローイング|大小島真木

 

 

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清水高志 しみず・たかし/1967年生まれ。哲学者。東洋大学総合情報学科教授。主な著作に『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』(2004)、『来るべき思想史 情報/モナド/人文知』(2004)、『ミシェル・セール──普遍学からアクター・ネットワークまで』(2013)、『実在への殺到』(2017)、『脱近代宣言』(2018/落合陽一、上妻世海との共著)など。

 

甲田烈  こうだ・れつ/1971年生まれ。東洋大学井上円了研究センター客員研究員。単著は『手にとるように哲学がわかる本』『水木しげると妖怪の哲学』、共著に『入門 インテグラル理論』、論文に「井上円了と民俗学」(『論集 井上円了』所収)、「往還存在論の試み」(『たぐい』Vol.2所収)などがある。

 

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