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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #11 昆虫から始める働き方改革

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第十一回は不自然な「労働」がもたらす「不安」をめぐって。

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寅さんはいつだって余裕だ

 私は寅さんを尊敬している。

 映画『男はつらいよ』の主人公である、車寅次郎。人呼んで、「フーテンの寅」。彼は全国津々浦々を股に掛けながらのテキ屋商売で生計を立てている。

「よう、労働者諸君!今日も一日、ご苦労様です!」

 柴又に帰り着くなり、寅さんはそんな声を家族や近所の者たちにかける。その姿は、実に晴れやかである。「ああ、自分はカタギでなくて、最高だ」と心から感じている様子が見てとれる。

 寅さんの口から「生活上の不安」がこぼされることは、ほとんどない。テキヤという、どう考えても不安定な労働に従事しているというのに、彼はいつだって余裕をたたえている。

「なあ、さくら。兄ちゃん、そろそろ就職を考えているんだけどさ……」

 寅さんの口から、そんなセリフが発せられることなど、ありえない。

「いやあ、いつ見てもキレイな団子屋だな。掃除も行き届いているし、福利厚生も充実していそうだ。ここで働けたら、最高だろうなあ……」

 寅さんの口から、そんな社会に媚びたセリフが発せられることなど、あるはずがない。

「以前よりこちらの団子屋さんの成長ぶりには注目していました。御社で活躍の機会をいただければ、いままでのキャリアを発揮して顧客を勝ち取りたいと考えています。ゆくゆくはリーダーやマネージャーの立場を目指したいとも思っています」

 寅さんの口から、そんな就活生のようなセリフが発せられることなど、まったくもって、考えられないのである。

 寅さんは、労働について頭を悩ませることをしない。どこかひとつの場所で生活に追われることをよしとせず、風に吹かれるようにして旅を続けている。彼は、自身にとって「自然な生き方」を見つけているのだ。その姿は実に軽やかで爽やかで、そして私はそこに強く憧れてしまう。

 どうしたら、寅さんのように、「労働呪縛」に負けずに生きることができるのだろうか。

 

世界は「労働」によって塗りつぶされている

 「労働」という言葉に触れるたび、濃い不安に胸を締めつけられる自分がいる。

 生きていく以上、労働から逃げることは、およそ不可能だ。親元から離れた時、多くの人はなにかしらの職を手にし、勤めの対価として金銭を受け取ることで、生活を自分のものにしていく。これがこの世に敷かれている、ベーシックルールである。

 このルールがきちんと機能するように、社会にはあらゆるジャンルの職業が用意されている。製造業、消防士、害獣駆除業、漁師、保育士、通訳、営業、工事作業、警備、システムエンジニア、その他諸々。ハローワークの採用情報の案内板、そこはまさに、業種のエレクトリカルパレード。この世界は隅々まで「労働」によって塗りつぶされているのである。

「安心しろ、ルールを設定した以上、ジョブはきちんと用意してやった。自分にとって最適な職業を選択し、すみやかにこのゲームを始めろ」

 「生きる」と「労働」を不分離にプログラムした顔も知らぬ誰かが、その案内板からこちらに向かって急き立ててくる。こうして私は、不安を強く露わにし、その場で立ちすくんでしまう。

 このルールに則って、いまからゲームプレイを始めたとして。

 その先で勝利している自分の姿を、まったくもって想像することができない。

 いままで、アルバイトを含めて、いくつかの労働に手を染めてきた。

 その中ではもちろん、「働くことでしか得られない喜びや快感」というものを、何度も瞬間的に味わったりしたものだ。

 しかし、勤め続けているうちに、「これは自分にとって不自然な仕事だ……」ということが体感として徐々に理解できてしまい、結局は職場を辞している自分が現れる。そうやって就いては辞めてを繰り返していると、次第に「負の経験値」は蓄積されていく。そして気がつけば、「自分にフィットしている労働なんて、この世にひとつもないのでは……?」ということになり、ただただ途方に暮れる現在を迎えている。

「そう、お前に合った労働など、この世にはひとつもない。みんな我慢をしながら、仕事に身を費やしているのさ」

 そんな「呪いの歌」が、聴こえてくる。両脚が震える。

 困った。いまの私に、このゲームを始める自信はない。装備品も乏しく、普通自動車免許と英検四級の資格しか持っていないのだ。「若さ」というアドバンテージスキルだって、とっくに消滅してしまっている。

 労働は、この世に満ちている。

 しかし、私にとっては、そのどれもが不自然で不当なものなのだ。

 それでも労働をしなければ生きてはいけぬというのなら、負け戦は承知の上で私はなにかしらの職に手を伸ばさなければならない。不自然で不当であることを無理やりに受け入れ、傷つき、寅さんに「労働者諸君、ご苦労!」と嫌味を投げられても歯を食いしばって、仕事に従事しなければならないのである。

 そうやってHPをすり減らし続けた挙句に現れるのは、はっきり「ゲームオーバー」の表示であろう。

 それは、「呪いの歌」が作り出した、暗黒の未来だ。

 重苦しい気分が、べっとりと押し寄せてくる。

 なんとかして、「自分にとって不自然でないジョブ」を見つけなければならない。それが「ゲームオーバー」を避けるための最善の策なのだ。それが「労働が生み出す不安」に対抗するための、唯一の手段なのだ。

 しかし、そのジョブをどのように発見すればいいのか、それが全然、わからない。

 

転向する友人たちと転向できない私

 なぜ、ここにきて、私は「労働」にまつわる不安を強く抱えることになったのか。

 大きな理由、それは周囲の景色の変化にあった。

 私の周りには、自分と同じように、これまで「職に就いたり辞めたり」を繰り返しながら、おおむねブラブラとした不安定な暮らしを営んでいる友人や知人が多くいた。彼らは「そのうちになんとかなる」という合言葉を嘯きながら、単発的な労働を収入源とし、その片手間でバンドや演劇などに明け暮れていた。それはまさに現代版の「車寅次郎」であり、そういった友人たちのフーテン的な態度を見るにつけ、私は「彼らが大丈夫なら、自分だってこのままで大丈夫だろう」と安心感を得ていたりした。

 ところが、ここ数年で、その友人たちが、こぞって「就職」を果たし始めたのである。

 最初は、「どうせまた気まぐれで就業しただけなんだから、そのうちに全員、辞めるはずだ」などと高を括りながら見ていたのだが、どうにも今回は様子が違うことに、次第ながら気がついた。

 みんな、目が真剣なのである。

 「漫画を描くことこそが自分のすべて」と高らかに宣言していたはずの友人は、下北沢のラーメン屋に就業し、麺の湯切りに精を出している。

 「詩人としての人生をまっとうする」と熱く語っていたはずの友人は、カード会社に就業し、テレフォンオペレーターとして対応業務に汗水を流している。

 そして、みんな、こんなことを私に言うのだ。

「この仕事、なかなかに自分に合っていて、なんだか長く続きそうだ」

 おいおい、どうしちゃったんだ。あの頃のキミたちは、どこにいってしまったんだ。ストロングゼロを片手に濁った瞳を浮かべながら、「なんかわからないけど、エジプトとか行きたい、他人のお金で」などと誰の心も動かさない夢を語っていたあの頃、リメンバー!

 「労働」に対してナメてかかっている者同士だと思っていた友人たちが、実は自分の目の届かぬところで、虎視眈々と「労働」に折り合いをつけていたのだ。この事実を目の当たりにし、私はクイックで焦った。そしてハッと気がついた。

 自分には、なにもない。

 「自分」と「労働」を折衷するためのカードを、なにも持ち合わせていない。

 改めて、周りを見渡した。そこはどう観察しても「景気のよい」世界ではなく、ハローワークの案内板に貼りだされているあまたの採用情報は、私の目にはどれも黒ずんで見えた。「世界恐慌」などという穏やかでない言説が時折に囁かれてもいたりして、そんな荒野を装備もアイテムもないままに進むことなど、どう考えても、不可能に思えた。

「死の予感しかしない……」

 不安を抱えるな、というほうが無理な話であった。

 

ここ掘れ、ワンワン

 世界は無情にも変わっていくのだ。

 漫画家はラーメン屋の店員となり、詩人はテレオペに従事し、経済は抗いようもない圧力によって地に落ちたりするのである。

 過去のノスタルジーにしがみついている場合ではない。世界が変容するなら、私も行動を変容させなければならない。

 しかし、具体的にはなにをしたらいいのか、それが皆目見当もつかない。

 いったい、自分はどういった糸口から、「自分にとって不自然でないジョブ」を探し当てればいいのだろう。

 考えることを一度あきらめた私は、戸外へと散歩に出かけた。

 春先、桜は七分咲きを迎えていた。平日の昼間、おそらくほとんどの大人たちがこの時間、「労働」に勤しんでいるのだろう。そんな中、自分だけがこうして、ふらふらと散歩をしている。これまでには覚えたことのなかった罪悪感に、気分を重く沈める。

 気づけば、近所にある祖母宅へと足を運んでいた。

 そこの庭には、猫の額ほどの小さな畑が備わっている。祖母が家庭菜園などを楽しむための畑である。

 ぼんやりと、その畑を眺める。キャベツなどの作物の周りを、モンシロチョウが揺れるようにして飛んでいる。

 小学生の頃は、よくこの庭先で虫と遊んでいた。土を掘り返してはオケラに目を細め、葉をめくってはそこにいるゾウムシを採取することに夢中になったりしたものだった。

 そんなことを思い出していたら、靴の先に、蟻の行列を発見した。幼き頃、特に気に入っていた虫がこの蟻で、地面に這う彼らの姿を飽きもせず陽が暮れるまで観察していたものである。

 懐かしい想いに駆られながら、その行列がどこまで続いているのか後を追う。そこには蟻の巣があり、彼らはそこにせっせと餌を運び込んでいる。

 蟻ですらも、「労働」に精を出している。そして「労働」の袋小路に追いやられた私は、こうして地面を眺めている。なんともやるせない気分だ。

 ふと、庭先に置かれたシャベルが目に入る。

 小学生の頃、よく蟻の巣の横に穴を掘った。巣の奥の様子がどうなっているか知りたかったのである。なるべく巣を破壊しないように慎重に掘り進めてはいたが、結果的には杜撰な工事となり、蟻たちの生活に多大な迷惑をかけたりしていた。で、そのうちに「蟻の巣の観察」という当初の目的は消え失せ、「どれだけ深い穴が掘れるか」という別の命題にのめり込み始めたりもしたものだ。

 あの頃は、土と戯れることが、なによりも自分にフィットしているジョブだった。

 ああ、「ただ深い穴を自分のペースで掘る」っていう労働が、この世にあればなあ。

 そんな世迷言を浮かべながら、なんとはなしに、シャベルを手に取り、地面を掘ってみる。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ。

 そうそう、こんな感じで、だんだんと土の色が変わってくるんだよな。なんかの幼虫が出てきたりするんだよな。

 掘っているうちに、小学生の頃の感覚を思い出し、なんだか手が止まらなくなる。

 楽しい。

 どうせ家に帰っても、「労働」について出口のない悩みを巡らせ、気を滅入らせるだけなのだ。だったら今日はここで、なにも考えずに、飽きるまでシャベルをふるっていようか。

 平日の昼間に、なんの目的もなく、穴を掘り続ける。

 客観的に見ても主観的に見ても非常にバカバカしい行為と言えるが、しかし直面している現実的な問題からひと時の逃避をするためには、うってつけのバカバカしさでもある。

 そうだ、「本当の労働」なんて、今日はもうあきらめてしまおう。そして「ニセ労働」に従事してやろう。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ。

 気づけば、一心不乱に穴を掘っている自分が、そこにいた。

 途中で物置から大きいシャベルを持ち出し、それまでの手持ちサイズのものと替える。どんどんと穴は深くなり、自分の腰までがすっぽりと埋まるほどにまで到達した。

 

ワクサカソウヘイの「穴」

 

 もう、辺りにはすっかり、夕陽が射し込んでいた。

 私の額には、大粒の汗がいくつも光っていた。

 とんでもない充実感である。

 自分の掘った穴を改めて眺める。それは、私が今日という日を費やして行った「ニセ労働」の証だった。

 ああ、好きなことのために身体を動かすって、素晴らしい。

 私は久々に「働くことでしか得られない喜びや快感」をしみじみと味わった。賃金などは一切発生していないという根源的な問題は全力で無視して、達成感だけに身を浸した。

 自分、土と戯れるのは、いまでも好きなのだな……。

 土とただ戯れるだけの労働があれば、いますぐにでも従事するのにな……。

 この時、「ん?」と頭によぎるものがあった。

 穴をシンプルに掘るだけの労働はないかもしれないけれど、でも、それに近しい労働なら、けっこうあるぞ……?

 農作業とか、工事作業とか、採掘業とか、あと植木屋とか。

 ……、……、……。

 あれ、なんだろう。

 さっきまで直面していた不安が、少しだけだが、薄れた気がした。

 しかし、それは本当に、少しだけだ。

 「労働呪縛」は依然として、私の両肩にじっとまとわりついていた。

「遊び」を「労働」にメタモルフォーゼする

 「呪いの歌」はそれからも折に触れては私の鼓膜を震わせ、不安を煽ってきた。

「お前に合う労働など、ひとつもない。我慢だけが人生だ」

 早く、自分に適したジョブを見つけなければ、このままずっと、暗黒の気分で生きることになってしまう。ゲームをプレイする前から、残基がなくなり、エントリー資格すら失ってしまう。

 そんな感じで胸がざわついた時は、祖母宅の庭へと足を向けた。そして、あの穴を眺めた。時には、続きを掘ったりもした。

 穴を掘っていると、瞬間的ではあるのだが、気が紛れるのだ。労働に関する不安について、頭を悩ますこともなくなるのである。それはつまり、目の前の問題を捨て置いて、束の間の「遊び」に逃げている状態であった。

 そう、穴掘りは、私にとって「遊び」なのだ。不当な圧力や雑音が一切混じらない、自然的な「遊び」なのである。

 あとは、これに賃金さえ発生すれば、私はずっと穴を掘っていられるのに……。

 この「遊び」が「本当の労働」にメタモルフォーゼさえすれば、時に蟻の行列を愛でながら、また時には幼虫の発見を喜びながら、長く勤しむことができるのに……。

 そんな感慨がよぎった瞬間、かつてはフーテン、現在は就業者である友人たちの顔が浮かんだ。

 漫画家から、ラーメン屋に。詩人から、テレオペに。

 彼らは口をそろえて、こんなことを言っていた。

「この仕事は、長く続けられる気がする」

 どうして彼らはそう宣言できるほどに、いまの労働にフィット感を得ているのだろう。

 もしかして、彼らにとっては、ラーメン屋やテレオペも、「遊び」なのではないだろうか。

 つまり、私がいま幻想として抱いている「賃金が発生する穴掘り」を、彼らは現実のものとして手に入れた、ということではないのだろうか。

 これまでずっと「遊び」に全精力を注ぎ、「労働」をナメ続けていた者たちが、いまの働き口を突然にスッと受け入れることができたのだ。そこには私の知らない、「辻褄合わせ」の魔法があったはずなのである。

 教えてほしい、穴掘りの「遊び」を、ジョブにチェンジさせるための呪文を。

 私はさっそく、友人たちに連絡を取った。

 

 

〈この続きは2022年10月26日発売の単行本『出セイカツ記:衣食住という不安からの逃避行』でお楽しみください〉

 

 


 

当連載が『出セイカツ記:衣食住という不安からの逃避行』として河出書房新社より単行本化されました(2022年10月26日発売)

 

 

著者:ワクサカソウヘイ

河出書房新社

2022年10月26日発売

 


 

 

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。