21世紀の〈顔貌〉はマトリクスをたゆたう(中編)──恋とミメーシス、あるいは「何か」が「誰か」に変わる時|山川冬樹 × 村山悟郎
コミュニケーションのオンライン化と先端の顔認証技術は我々の「顔貌」にいかなる影響を与えるのか。中編では、他者のまなざしを模倣する「ミメーシス」を通して立ち上がってくる「顔」について考える。
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コミュニケーションの原点にはまず模倣がある
HZ ここでちょっと僕からお二人の話に対する感想を述べてみたいと思います。まず、山川さんが久々にリアルな対面をなされて感じられたという「まなざし」の話はとても面白いですね。ジャック・ラカンの欲望に関する有名なテーゼを思い出しました。ラカンは欲望について「人は他者の欲望を欲望する」という風に言っています。ここでいう「欲望」を「まなざし」に置き換えてみると、「人は他者のまなざしをまなざす」となる。これはまさに山川さんが対面によって実感されたことですよね。あるいは、相手を「欲望できる」、つまり相手の欲望を「欲望しうる」という状態は、実は相手のまなざしをまなざすことができる「リアルな対面」という状況に負っていたところも大きいのではないか。そんなことをまず思いました。
実際、今、お二人のお話をZOOM越しに傍観していて気がついたんですが、今日は3人とも顔を出していて、山川さんの目、悟郎さんの目そのものは見えるには見えているんですけど、それぞれが今いる物理的空間は共有されていない。すると、山川さんや悟郎さんのまなざしがどこに向かってるのかがよく分からないんです。たとえば山川さんが今まなざしているのは、山川さんのモニター内にいる僕の目なのか、あるいは悟郎さんの顔なのか、はたまたモニター上の全く関係ないウィンドウを見ているのか、分からない。目は見えるんだけど、まなざしをまなざすことはできない。これはつまり、山川さんの欲望を欲望できない状況であるとも言えるんじゃないかと思うんです。あるいは、この「相手の欲望を欲望できない」ということが、顔のアウラの喪失とも繋がっているかもしれない。顔がもつ呪術性の正体は「まなざし」と「まなざし」に潜む「欲望」にこそあったのではないか。そのようにも思えてきます。
もう一つ、これは悟郎さんのプレゼンに対する感想ですけど、悟郎さんはAIのプログラムを熟知していくことによって、つまりはAIの「まなざし」をまなざし、その「まなざし」を体得することによって、AIによる監視をかわしていくという、監視社会下における戦略の可能性を作品化されているわけですよね。僕はそこに、この前の対談の際にも少し触れましたが、レーン・ウィラースレフの『ソウルハンター』という本を連想したんです。その本でウィラースレフはユカギールというシベリアの狩猟民の民族誌をかいているんですが、そのユカギールたちがエルクというヘラジカを狩る際のアプローチが、悟郎さんの作品制作のプロセスとどこか重なるんですね。すごく単純化して言ってしまえば、ユカギールの世界では、ハンターはエルクをとことん模倣し、あるいは夢の中でエルクと性行為をし、そういうプロセスを経ることによって、エルクの「まなざし」の獲得を目指すんです。そのように「まなざし」を体得することで、ユカギールのハンターは森の中でエルクに接近することができるようになり、その肉を狩ることができるようになる。そのように言われている。
この模倣行為をウィラースレフは「ミメーシス」と呼んでいるんですが、このミメーシスこそが人と他生が食らい食らわれながら、なおかつある種の対称性を保ちながら共生していく上で極めて重要なものだとも考えられている。これは今日の話とも繋がっていく視点であるような気がします。悟郎さんは監視社会を念頭におきながらも、AIを悪しきものとして捉えたり、それを排除すべきだみたいな方向では考えていないわけですよね。そうではなく、機械にあたかも「恋」をするかのように呪術的な関係性を結んでいくことで、あるいは機械を深く知るために外科医的にその構造へと分け入っていくことで、機械のまなざしを知り、それをドローイングという行為を通じて身体化していくという実践をしている。これはものすごく面白い実践だなと感じますし、今後、人間がAIという他種と共生をしていく上での絶妙な距離感だとも言えるんじゃないかなと感じました。
この「距離感」というのは山川さんがベンヤミンの「オペラトゥール」の話の中で出されたキーワードでもありますよね。オペラトゥールが意味する呪術家と外科医という二つの存在が、先ほどは対象への距離感を軸に対比されていました。この呪術師と外科医という対比は面白くて、たとえばプレモダンとモダンと言い換えることもできる気がしますし、あるいはアニミズムとヒューマニズムみたいな言い換えも可能かもしれません。そう考えてみると、今日におけるアートの一つの役割は、この呪術師と外科医、プレモダンとモダン、アニミズムとヒューマニズムの対立を調停し、架け橋するということにあるんじゃないか。そして、まさにそういう話をお二人はしているんじゃないか、ということを感じたんです。
山川 ユカギールの話でいうと、僕はホーメイという歌唱法を学んだのですが、これはユカギールと同じシベリアに伝わる民族音楽なんです。ユカギールが暮らす北東部のサハ共和国は口琴の国、僕がホーメイを学んだ南部のトゥバ共和国はホーメイの国。両者は地理的にはかなり離れているのですが、口琴もホーメイも口腔で倍音を生み出し、自然を音で模倣することで自然から力を貰う、というアニミズム的な考え方において、根底の部分では繋がっています。ユカギールにはホーメイとも通じる喉歌があると聞きますし、シベリアは広大ですが、国境や民族を超えて一つの感性を共有しているんですよね。だからホーメイを通じて得た感覚を手がかりにすると、ウィラースレフが書いたユカギールの世界観が少しだけわかる気がします。
シベリアの自然というのは本当に圧倒的で、その地では誰もが立ち尽くすしかない。地平線が果てしなく広がっていて、時間の流れ方も違えば、空間の広がり方も日本とはまるで違う。自分の存在が笑ってしまうくらいちっぽけに感じられてくるんですね。ここに一人で取り残されたら確実に死ぬな…みたいに己の生命の限界もリアルに感じますし、実際に草原で野垂れ死にした亡骸を見たこともあります。シベリアの音楽とは、そういうちっぽけな人間と、壮大な自然との間の遠近法から生まれるものなんです。音楽も、生も、死も、すべてがごく当たり前に自然との交感のもとにある。
僕の表現手法はよく「身体を張ってる」と言われがちなのですが、こういうシベリアで体得した身体感覚を、都市環境や日常生活の中で行為として実践しようとしているだけなんですよね。たとえばトゥバでは家畜にホーメイを歌って聞かせるということは日常的に行われているのですが、その感覚でペットショップに出向いて、動物たちとホーメイで交流してみたり。こういう話をするとお伽話みたいに思われがちなのですが、動物たちと声と声で対話することは、ふつうに可能です。
ペットショップの中で特に反応がいいのはインコやオウムです。鳥たちは独自の言語を持っていて、そこには文法らしきものもあったりする。特にインコやオウムは鳴管が発達していて、聴いた音を声で模倣する能力に長けている。飼ってる人はわかると思いますが、インコやオウムに言葉を喋らせるには複数羽で飼ってはだめなんです。鳥同士で社会を作ってしまうので人間の言葉を覚えない。でも一羽で飼っていると人間と仲間になろうとして人の言葉を真似し始める。コミュニケーションの原点にまず模倣があるわけですね。インコの中でもヨウムという大型のインコがいるんですが、彼らは特に頭がいい。アレックスという有名なヨウムは死ぬ直前に、飼い主に「I love you」と言い残したといいます。「おうむ返し」という言葉がありますけど、彼らは単に機械的に言葉を返してるのではなくて、賢い種類や個体は、覚えた言葉を状況に合わせて選んで発語しているんじゃないか。
ある時、ペットショップでヨウムと交流を試みたときのことです。籠の中にいるヨウムに向かってホーメイで歌いかけたり…これ聴こえます?(鳥の囀りの模倣)…こういう音で呼びかけてみたんです。ホーメイの基本にあるのは声による自然の描写で、世界を声で描き出すいわば”デッサン力”なのですが、動物たちと対話するときもこのデッサン力が大事なんですね。ヨウムが出した声を、自分の声帯を使ってそっくりに描写し、返していく。すると「おお?」って向こうの目の色が変わり、「お前何?」みたいに首を傾げながらこっちを向いてくる。何かを確かめるように、また声を出してくるので、すかさずその声を真似してレスポンスする。動作も真似ながら、いいタイミングで声を返してあげると、だんだん向こうもノってきて、今度は僕が出した声を真似するようになり、対話のようなものが成立しはじめる。これはミュージシャンがセッションする感覚とまったく同じですね。
でも動物たちって気まぐれなので、ある瞬間、突然飽きられちゃうんですよね。集中力が切れて籠の反対側にぷいっと行っちゃったりする。その日も、一通りそのヨウムと対話を楽しんでいると、急に飽きられてしまいました。「あ、残念…。でもなかなか良い対話ができたな…」と、その場を去ろうと籠に背を向けた瞬間、そのヨウムが僕の背中に向かって「バイバーイ」と言い放ったんです。「えっ?」と思って振り返ると、籠の手前に戻ってきてこっちをじーっと見ている。その顔は一生忘れられません。それはそのヨウムが僕の中で鳥という「何か」から、顔を持った「誰か」になった瞬間でした。そしてそのヨウムにとっても、僕が人間という「何か」から、顔を持った「誰か」になった瞬間だったと信じたい。そのヨウムの別れの言葉に、「バイバイ」と人間の言葉で応えてペットショップを去りました。
この僕とヨウムとの対話と同じような現象が、もしかしたら村山さんと機械との間にも起きているんじゃないか。例えば単なるクラスメート(=何か)だった子が、何かのきっかけに特別気になる存在(=誰か)になるように、フィジカルなアイデンティティが、パーソナルなアイデンティティに変容することは人と人の間には良く起きますし、もしかしたら人と動物、そして人と機械の間にも起こるのかも知れない。その「何か」が「誰か」に変容するということを、僕はさっき「恋」と表現したわけです。
村山 とても面白いお話です。生き物と対峙するとき、理解が明滅するという事態が重要かもしれない。ある瞬間は分かったような気がしたけれど、次の瞬間にまたするりと違うところに抜け出ていってしまう。実は機械にも似たところはあります。機械は人工物なので、イメージとしては人間の指令を聞く、人間が制御すると思いがちだけど、機能が高度に複雑化していくと、その機械を使うために洗練された技術が必要になる。ブラックボックス化したAIの知性を理解しようとするならば、なおさらですよね。実際に僕の顔検知ドローイングの制作過程では「いま、ギリギリ話せたかな、あれ?勘違いだったかな」みたいな、恋とまで言えないかもしれないけど、生き物と対峙しているような感覚は経験的にありました。
村山悟郎《環世界とプログラムのための肖像》2015 水彩紙にアクリリック、ラムダプリント、iphone6 各215mm×190mm
ただ、機械とのコミュニケーション特有の怖さも感じました。機械とのセッションを繰り返す中で、機械のまなざしは徐々に掴めてゆく感触はあるものの、それはこれまでの僕の直感や絵心に反するものでもある。僕のイマジネーションの中にもともと存在するものではないから、次にまた狙って描けるという手応えとは、どこか違う。機械がこちらのことを察知して、相互学習するわけでもない。だから、あの時うまくいったけど、次、あるいは来年、また同じセッションができるかといったら、不安を感じる。生き物の場合、一度通いあったら「分かった」感じがするし、一年後の相手は一年後の自分に相互調整的に対峙するでしょう。けれど、機械を相手にした場合、来年にもまだ気持ちを通わせた自分でいられるだろうか、確証が持てない。
山川 それは機械がどんどんアップデートされることと関係してるんですかね? 機械の進歩に自分がついていけるかという不安でもあるのかな?
村山 そういう意味も多少はありますが、少しニュアンスが違うんですよね。《環世界とプログラムの肖像》は2019年のあいちトリエンナーレで発表したんですが、そのドローイングを作ったのは2015年から2017年にかけてなんです。だから、制作年からタイムラグが結構あって、iphoneでいうと6から10までバージョンが上がっていた。実際、顔検知のアップデートはどうなんだろうと思って、iphone10を2015年のドローイングにかざしてみたら、けっこう変わらず顔検知してくれた。そういう意味では、機械はまだあのときのままでいる。ただ、どちらかというと僕自身の方なんですよね。僕がまた同じ絵を描けるかどうかが分からない。あの形態感やパターンは僕の直感には反してるので、自然には描けないんですよ。結局、まだ通じ合えているかを確かめるには、iphoneカメラをかざして黄色いフレームが表示されるかどうかを頼りにするしかない。すると、いつまで経っても不安なんですよね。他者の認知系を自身のなかに仮構することの限界なのかもしれない。生き物だったらもっと手がかりは多いと思うんですけど。
村山悟郎《環世界とプログラムのための肖像》 1.1.1-8: 2016 カンバスに油彩、iphone6 各400mm×500mm(撮影 怡土鉄夫)
HZ どうなんでしょう。悟郎さんの話を聞けば聞くほど、対人の恋愛関係の話と変わらないように感じます(笑)。あの時は確かに通じ合えた気がするのに、次会ったらまるで見ず知らず他人のように遠くに感じる、みたいな感覚を抱くこともあるじゃないですか。セックスや音楽もそうですよね。すごいトランシーだったセックスの再現可能性とか、ウッドストックフェスティバルの「恩寵の扉が開いた」ような祝祭感の再現可能性とか。多分、それをもう一回再現するための確たる方法というものはなくて、それは相手が人間であれ動物であれ機械であれ本質的には変わらない気がします。通じ合うということは基本的に奇跡としてしか起こりえないんじゃないか、と。
村山 確かに大きくは違わないかもしれない。そして、その「次は通じ合えないかもしれない」という怖さの原因は、相手ではなく、僕の中にある。それこそ機械はバージョンアップしない限り変わらないわけで、だから、それは完全に僕の問題としてある。こいつ、こういう風に世界を捉えていたんだ!っていう像を結べた感触があるんだけど、それが人間の直観から離れ過ぎていて、共感性とか想像力の範疇を超えている。
「人間 vs AI」という図式の舞台裏
村山 ところで、先ほど山川さんがベンヤミンの言葉を引いてましたよね。ベンヤミンは顔を「最後の砦」と考えていた、と。ベンヤミンはアウラを固有性の問題として考えていて、この固有性というものを特徴づけるような媒体として、最後まで残るだろうものを「顔」だと考えていた。ただ一方で、顔が「最後の砦」であると言われる背景には、我々が写真時代以降、特に「顔」をコミュニケーションの媒体として中心に据えすぎた結果ではないかとも言えると思う。つまり、写真があることによって、山川冬樹さんはこういう人なんだと顔面のパターンを複製し、いつでも見れるようになった。山川さんを大好きなファンならそれを壁紙にしていつでも見ることすらできる。つまり、写真が「顔」を特殊な部位として強化しているのではないか。
たとえばドゥルーズ/ガタリは「千のプラトー」の顔貌性の項で、写真も肖像画も存在していない原始社会においては、「顔」がそれほどコミュニケーションの重要なファクターではなかったのではないかと述べています。実際、原始社会の仮面などを見ると、そこで作られている顔のパターンは明らかに写真の時代とは異なり、呪術的変形として現れている。顔に注目はしていても、顔がそれぞれ持っている固有性を重要視してはいない。
山川 それは僕がさっき対面で取材を受けた際に感じたものと通じる気がしますね。現実空間では顔を実は見ていなかったという。写真や肖像画のようなメディアが画像としての顔を生み出し、それが生み出されたときに、人間が顔を見るようになった。ここでいう顔は、さっきヨウムの話で感じた「顔」とは違う顔、もっと外科医的な顔です。呪術的な顔は、実は顔ではなく「まなざし」にこそあるという、そういう話に近いのかな。
村山 そう思います。そこに絡めて手塚治虫の話をしたいんだけど、対談後のメールで辻さんが『火の鳥:復活編』の話をされていましたよね。あれは交通事故で脳を損傷した主人公が、手術によってサイボーグ化した結果、人間がバケモノに見えて、逆にロボットが人間に見えるようになったという話だった。僕としては、あの作品は少し物足りないんですよね。確かに当時としてはすごい想像力だと思うけど、その分、具体性には欠ける。たとえばAIと人間とのコミュニケーションにおいて、今ならもう少し知見があるわけですよね。メジャーなところでは将棋や囲碁の世界で、まさにAIとのコミュニケーションが行われている。そこでどういうことが起こっているか。
たとえば人間には定石というものがある。ある種の、考えなくても済む知識領域みたいなものを様々な場面に設定してある。そのことによって、重要な手順について思考のリソースを割くことが可能になっている。一種の計算処理の合理化みたいなものですよね。一方で、AIにはこの定石がなく、その局面局面で計算する。棋士が定石によって検討をしてこなかった可能性を一個一個再検討している。だから「そんな手があったのか」と思うような手を連発してくる。実際、AIはとても強いわけです。でも、人間の側はその強いAIに対して、今度はAIをハメる手段を考え始めた。
たとえば「不成」というルールが将棋にあります。将棋では敵陣に入ると、「歩」が「と金」に成ることができる。たとえば明らかに成った方が戦略的に得な場面があったとして、そこで「成らない」という選択を無駄にしてみると、AIが混乱するんです。このプログラムを組んだ人間が想定をしていなかった事態によって、AIがバグってしまう。こういうのはとても面白い話なんだけど、これはAIとの戦いというよりも、AIをプログラムしている人間との戦いでもあるんですよ(※)。プログラマが何を見逃しているかを分析し、そこを攻める。だから、実は人間vs人間の戦いでもあるんですね。
※将棋電王戦FINAL第5局 2015年4月11日 阿久津主税八段 対 AWAKE開発者・巨瀬亮一氏
山川 さっき村山さんは呪術師的だと思ったけど、今は外科医のように見えてます(笑)
村山 (笑)。手塚治虫の物語はめちゃくちゃ面白いけど、AIに関しては時代が別の想像力を持ってしまった。リアリティが離れてしまいましたね。ただ恐らく、AIに最後に何かが足りないとなったときに、人間の脳神経回路の発火パターンをシミュレーションして埋め込むみたいなことは考えるかもしれない。そのモデルになった人の感じが、その後、そのAIにずっと残る可能性はある。実際、将棋ソフトのプログラムにすら、人間の手つきが残っているわけだし、プログラマのバイアスは常に既に潜在している。すると、ロビタ(※)の物語もそのように読めるかもしれない。顔検知にしても、最初のモデルにしていた「顔」群があるわけです。それは無作為に選んだ顔なのかもしれないけど、それでも「ある時代の人々」というバイアスはあるわけですよね。あるいは研究者が属する社会の人種や地域的な勾配特性もある。その時代と場所の人が持っていた顔や表情がほんのりAIに反映され残りつづける。
※手塚治虫の『火の鳥』シリーズに登場する家庭用アンドロイド。「復活篇」においては、ロビタが実は人間とAIの融合によって生み出されたという誕生秘話が明かされている。
対岸からこだまする「遠吠え」に応じて
山川 面白いですね。僕も手塚治虫の『火の鳥:復活編』を読み返しましたが、あらためて感じたのは手塚はヒューマニズムの人だということでした。いかにAIやサイボーグを描いていても、最終的にヒューマニズムを描いている。彼の作品にはハンセン病をモチーフにしていると思わしき作品がいくつかあって、中でも僕がそれを強く感じたのは『きりひと讃歌』です。あれは顔が犬のようになってしまう伝染病の物語で、感染した人は差別され隔離されてしまう。外見と内面の問題に深く迫った作品です。そこでいうと、この前の対談の場はマルチスピーシーズ人類学が前提にあったわけですけど、正直を言うとどこか僕の話とは相性の悪さも感じました。僕がハンセン病について語る際、やはりヒューマニズムに立脚して語っていると思うんですね。でもマルチスピーシーズ人類学はヒューマニズムには否定的ですよね。
HZ 僕にはマルチスピーシーズ人類学を代弁する権利はありませんし、その能力もないんですが、一つ思うことは「人間らしさ」への向き合い方がいわゆるヒューマニズムとマルチスピーシーズ人類学では違うような気がしますね。たとえば、ハンセン病ポリティクスとマルチスピーシーズ的な発想との間に相性の悪さが仮にあるのだとすれば、おそらくはこの「人間らしさ」というものを存在論的に属性のようなものとみなすのか、あるいは現象学的に生成していくものとみなすのかどうかという点にその違いがあるんじゃないか。それこそ、ハンセン病患者さん、元患者さんたちは、「人間である」ということから疎外されてしまうという状況がまずあった訳で、そうした状況に対していかに「人間」として権利回復をしていくかということが政治的に重要だったと思うんです。一方で、マルチスピーシーズ的な立場に立つと、そもそも「人間」かどうかをはっきりと区別することを可能にする境界線の自明性がまず再検討されることになる。つまり、「人間」の輪郭を拡張していったり変成させていったりすることで「人間」という存在の特権性を切り崩していくことの方がより重要になってくると思うんです。僕らはそもそも「人間」であるというよりも「キメラ」であり、様々な存在が複雑に絡まり合った「バケモノ」としてある、というような具合に。もちろん、マルチスピーシーズ人類学においても種であったり自他であったりを分かつ境界線が全く等閑に付されてしまうかといえばそんなことはなく、どちらかといえば境界の様態を、境界「線」というような形でラインで捉えるのではなく、境界「域」というような形でゾーンとして捉えることがそこでは考えられているのではないかという気がしていますが、いずれにせよ結果としては「人間性」を問い直し、その輪郭を更新する方向へと向かっていくわけです。ただ、これはハンセン病ポリティクスにおいても実は同じですよね。しかし、そこへと向かうアプローチについてはある意味で真逆の方法が取られているとも言える。だから、同じテーブルで話そうとすると妙な感じになるのかもしれません。
山川 なるほど、辻さんが言うこともよく分かる。もともと僕自身も「ヒューマニズム」という使い古された言葉には、どこか疑わしさを感じていました。でもハンセン病療養所に通ううちに認識が変わりました。ハンセン病文学はしばしば「人間の文学」と形容されるように人間の理性が主題になってきたし、言葉にすると素朴な言い方になってしまうのですが、ハンセン病療養所には本物の「人間らしさ」や「人の優しさ」がある。また「らい予防法」が廃止された5月11日のことを「人間回復の日」と呼ぶのですが、やはりハンセン病の歴史と文脈を踏まえると、そこではヒューマニズムにものすごい重みがあるわけです。そういう彼らの生き様から僕はハードコアなヒューマニズムを教えられたように思います。だから90年にも及ぶ非人道的な国策と闘い続け、ようやく人間として認められることを勝ち取った人たちを前に、「僕らはみんなバケモノです」なんて軽々しくは言えません。
ハンセン病文学を代表する詩人の一人、谺雄二さんの詩に『鬼の顔』という作品があるのですが、谺さんは自分たちの「顔」を世間が「バケモノ」のように見るそのまなざしを一切躱さず、堂々と開き直ることで、逆説的に人間の素顔を描こうとした詩人なんですね。この谺さんの姿勢には、人間としての権利を奪回しながら、同時に「人間性」を問い直し、その輪郭を更新するようなポテンシャルがある気がします。でも僕はどうしても、辻さんがハンセン病の話の流れで「バケモノ」という言葉を使うとグサっときてしまう。自分もこうやって残酷な言葉を使いながら、いざ誰かが使うとあんまりひどい言葉使わないで…とか思ってしまう(笑)。以前「マイノリティ憑依」というネット・スラングが流行りましたが、僕の場合はもっと深刻な次元で呪われているんだと思います。ハンセン病を題材にした作品に限らず、たぶん僕は自分自身に他者を憑依させながら制作してきているところがある。
HZ 僕は山川さんの作品は「海峡の歌」もそうですし、ホーメイなどもそうですけど、いずれも極めてミメーシス的な実践であって、ヒューマニズムという言葉にはいい意味で収まりきらないものだなと感じています。対象物そのものを視覚的に表現するのではなくて、対象のまなざしを自らに宿し、そのまなざし自体を作品化していくというプロセスはすごくアニミスティックですよね。
山川冬樹《海峡の歌》2019 ©︎Fuyuki Yamakawa Photo:Akihide Saito
山川 それは本当にそうで、言われてみると『海峡の歌』はミメーシスそのものですね。なぜ大島から四国本土ではなく、四国本土から大島へ泳いだのかよく聞かれるのですが、それは隔離の境界線越しに大島と対面したいと思ったからです。かつて大島から四国本土を目指して脱走しようと海に飛び込み、泳ぎきれずに海の藻屑と消えた人たちがいた。その人たちの「泳ぐ」という行為をミメーシスしながら、境界線の外側で生きてきた僕は、逆に対岸から泳がなければと思った。誰かが線の内側から外側へ越境しようとして途絶えている道があるならば、僕は外側から内側へ越境し、その見えない道を完成させなければならないと思ったんです。
そこにあるのはヒューマニズム的な動機ではなく、むしろ犬や狼が遠くに聞こえる遠吠えに思わず呼応せずにはいられないような、動物的な衝動だと思います。僕は「遠吠え」とは精神が肉体を置き去りにして、距離を隔てた誰かのもとへ飛んでいこうとする力が、声になって表れたものだと思っているのですが、その「遠吠え」を生む力が、本来置き去りにされるべき肉体を境界線の外へ連れ出すに至ったとき、それは「脱走」と呼ばれる。四国本土から大島を眺めていると、島に生きた人たちの遠吠えが、今もこだましているような気がしてならないんです。遠吠えを聴いた者はそれに応えずにはいられません。だから僕は対岸から大島を目指して海に飛び込んだんです。
村山 山川さんが制作していた大島の隣に男木島があって、瀬戸内国際芸術祭2019で僕は展示していたんですけど、島から島へイノシシが海を渡ってやってくるんですよ。なんでイノシシがわざわざ島をでて、隣の島に行くのか。はっきりはわかってないらしい。仲間や人間に住処を追われて、あるいは風に乗ってメスの匂いが運ばれて、それが彼らを海に飛び込ませるという話もある。実際、単独で泳いでくるんですよ。とにかく、何かが彼らを突き動かしている。
山川 ある日、大島の海岸を散歩していたら、溺れ死んだイノシシが2体打ち上げられているのを見てギョッとしたことがあります。最初は人間の死体に見えるんですよ。毛も抜け落ちて肌色の皮膚が露出していて。なぜ彼らが大島に向かって泳ごうとしたのかは謎ですが、イノシシにはイノシシの、命がけで泳がなければならない何らかの理由があるのでしょうね。
(Text_Yosuke Tsuji)
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山川冬樹 やまかわ・ふゆき/1973年ロンドン生まれ。現代美術家/ホーメイ歌手。横浜市在住。
声と身体を媒体とした表現で、音楽、現代美術、舞台芸術の分野で活動。心臓の鼓動の速度や強さを意識的に制御し、それを電子聴診器を用いて光と音に還元するパフォーマンスや、骨伝導マイクで頭蓋骨の振動を増幅したパフォーマンスで、国内外のアート・フェスティバルやノイズ/即興音楽シーンなど、ジャンルを横断しながらこれまでに15カ国でパフォーマンスを行う。2015年横浜文化賞文化・芸術奨励賞受賞。
村山悟郎 むらやま・ごろう/1983年、東京生まれ。アーティスト。博士(美術)。東京芸術大学油画専攻/武蔵野美術大学油絵学科にて非常勤講師。東洋大学国際哲学研究センター客員研究員。自己組織的なプロセスやパターンを、絵画やドローイングをとおして表現している。2010年、チェルシーカレッジ, MA ファインアートコース(交換留学)。2015年、東京芸術大学美術研究科博士後期課程美術専攻油画(壁画)研究領域修了。2015-17年、文化庁新進芸術家海外研修員としてウィーンにて滞在制作(ウィーン大学間文化哲学研究室客員研究員)。http://goromurayama.com/
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