logoimage
HAGAZINE

亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #13 Don’t worry, everything is under control, also is out of control. ──齋藤恵汰、逆卷しとねとの対話

今ここで出来ることを兎にも角にも進めていかなければ、という気持ちではある。こんなところで朽ち果てたくないからこそ、足掻いてみている。何も出来ないということが、僕にとっては一番の恐怖であったのだと痛感している。


 

 

僕は外に向かう。僕の内側は存在しないから僕は外にいる。”Stay home”は僕には枷でしかない。けれども出口はいくつかある。たとえば、触れ合わざるを得ない存在とのつながり。同居人、運送業者、医者、コンビニの店員、飲食店の店員…。彼らは僕以外のなにかと必ず接している。僕が触れることができるものが限られているのは今に限った話ではない。ただ、今それを切実に感じるだけだ。無限に重畳する触れあいの痕跡を残す有限の民を介して、僕は今から隔たっていく。たとえば、ウェブ上での出会い。亜鶴さんの肉を僕は感じることはできないけれども、この人の言葉を介して僕は自分が触れたことのないものに焦がれてきた気がする。他人が触るものに僕は他人と同じように触れることができない。文章を読むことやウェブを介して対話をすることは、他人の経験を防弾ガラスの上からなぞるようなものかもしれない。僕はもどかしさに体重を預けて、外への焦がれを育てる。それもまた、この事態が始まる前から変わらない。(逆卷しとね)

 

 

僕はコロナ禍に於いて全ての収入が完全停止した。刻一刻と沈み掛けてはいるものの、小口資金を得た事によって、現在ギリギリ生活を出来ている状況にある。思いも寄らなすぎた乱数に、さすがに飲まれかけている。必要以上にアクティブに活動、実践をし続けることが僕の心身の均衡を保つ秘訣だった。だから、身動きが取れない”今”は、ただひたすらにキツい。もちろんこの状況は僕だけが背負っているものではない。たとえば僕の仲間の一人は様々な状況が重なった結果、音信を絶った。その状況さえもまた僕にとっては非常にキツいことだ。ただ、時間は停止も巻き戻りもできないからこそ、今ここで出来ることを兎にも角にも進めていかなければ、という気持ちではある。こんなところで朽ち果てたくないからこそ、足掻いてみている。何も出来ないということが、僕にとっては一番の恐怖であったのだと痛感している。(亜鶴)

 

 


 

“Don’t worry, everything is under control, also is out of control.”

 

 

齋藤恵汰(以下、齋藤) はい、始まりました。この企画は、今、この状況下で、逆卷さんと亜鶴さんと齋藤との「対話」を記事にしようというものです。簡単にこの「対談」へと至った経緯みたいなものを亜鶴くんの方から話してもらっていいですか。

亜鶴 この状況になる前から自分の活動を一本串刺しにして欲しいっていうのがあって……、つまり、自分のやっていることを他者に説明するときにどう説明したらいいのかというところをあらためて考えてみたいというのがあったんです。そんなことを僕が「SUICIDE COMPLEX」を連載しているHAGAZINEの編集長の辻さんに相談したところ、逆卷さんとお話する機会を作ろうという流れになった感じですね。

逆卷しとね(以下、逆卷) それでオファーを受けたわけですが、僕はすでに亜鶴さんの書かれたものを一通り読んできていました。僕が亜鶴さんのことを知ったのは、おそらく「ひるにおきるさる」という黒嵜想さんと福尾匠さんがやってるメディアで、あそこで亜鶴さんがインタビューを受けていて、すごい面白いなこの人って直感的に思ったのが最初です。その記事も読んだし、HAGAZINEの連載も更新されるたびに読んでて、文章も面白いなと思ってて、まあ、いわば読者だったんです。で、その後、Twitterをやっているうちに繋がったりとかもして、今回の企画に至ったという感じですね。こんなわけわからんことやってる人ですから、ちゃんと喋ってみたいなとは思ってましたんで、内容はどうなるかはわからんけど、とりあえず喋ってみたらいいんやないかなと思ってます(笑)

齋藤 事前の打ち合わせで逆卷さんの方から「亜鶴さんを串刺しにする言葉」として「コントロール」という言葉が挙がりました。この「コントロール」という言葉から対話を始めれたら、と。

逆卷 亜鶴さんの実践は、まず「コントロール」という風にまとめるのがよいかなと思います。コントロールってどういうことなのかって言ったら、たとえばその一方には支配とか暴力とかっていう極がある。そして、その反対にはケアとか優しさっていう極がある。そういうものですよね。その中で、僕はプレイグラウンド、遊技場みたいな「場」としてのコントロールを考えたい。0でも100でもなくて、0と100の間に何かを入れていく、そういう遊戯的な関係です。つまり、コントロールできる範囲とできない範囲のあいだで遊んでいくっていうことですけど、とはいえ、その遊びのあいだにはちゃんと理性的なものが働いていると思うんですよね。っていうのは亜鶴さんて、世間的にはいろんなものに手を出して自己破壊の衝動に突き動かされている人みたいに思われているような気がしているんですけど、おそらくはもっと自制的にそれをやってる。

齋藤 確かに今、この状況下で検討すべき「コントロールとは何か」という問いはありそうです。その上で、前提を覆すようなフリになってしまいますが、今まさに起こりつつあるのは、「どこまでいっても人間はやっぱり死ぬんだ」というような極論に立つことで、途端にこのコントロールが宙吊りにされてしまう、ということでもあると思います。これは前提の前提みたいな話なんだけど、コントロールの外部、コントロールしえない部分についてどう思ってるのかというところから、まず聞いてみたいですね。

亜鶴 まずその前提の前提みたいな話で言えば、そういう「どうせ死ぬ」みたいな理屈、たとえば爆弾が投げ込まれてそれでいきなり爆死とか、隕石が落ちてきて街ごと死滅とか、普通の人と同じように僕もそういう想定外のリスクについては、そこでどう判断する云々の範囲を超えて、もはや仕方ないことやと思ってます。でも一方で、たとえばだけど、徳島の渦潮に1回飲まれてみよう! みたいなことはほぼ100%死ぬだろうっていうことが分かるから、これは絶対に選ばない(笑)

齋藤 ということは、死ぬっていうことはちょっと自分の判断を超えたところで起こるものであってほしいと思ってる?

亜鶴 完全に偶然であってほしい。ただ、何かの延長線上に急にその扉が開けてしまったなら、それはそれでありだとは思う。それ以外にも、まあ馬鹿じゃないから色々リスクとかは考えてやってるんだけど、それはつまり死に方すらも選びたいということでもある。そういう感じでちゃんと偶然性というかリスクみたいなのをちゃんと自分なりに理解し、コントロールした上でやってはいるんで。まあ、あとはもともと痛みに強いと言うか、痛みという要素はその行為にチャレンジする上で大したハードルにならないからやってしまえる、というところはあります。

齋藤 僕が今回この企画に参加する上で一番興味があったのはそこです。本人としてはコントロールしながら、つまり、リスクをある程度は考えながら、そのリスクを踏み越えるという選択を繰り返しているということですよね。でも、その「選択」という行為自体は全く特別ではない。実は、誰もが日常的に行っていることです。しかし、亜鶴くんの実践しているタトゥーやピアス、ハイヒールやペインティングといった作業は、より明確に「選択」と言えるものです。だから、その「選択」であることが明確化する、あるいはされざるをえないような「選択」の経験を蓄積してきた中で、何かわかったこと、感じていることがあるなら聞いてみたい。それは今の状況の中でとても有用な知見だと思います。つまり、僕はなんで亜鶴さんがリスクを踏まえて「やれる」っていう風になれるのかが知りたいんですね。なんで「やれる」ってなるんですか(笑)

亜鶴 多分、僕はまず自己責任ということはめちゃくちゃ意識しているんですよ。たとえばタトゥーを入れ始めると、顔面に刺青入れると働けなくなったりしますかとか、どこに入れたらバレないですかとか、みんな言うんですよね。でも、ぶっちゃけていえば、君が働けるかどうかとかバレるかどうかとか、そんなことは知ったこっちゃないんです(笑)。それこそ本当の自己責任論みたいな話で、そこで僕がなにか批判されようが、職場から解雇されようが、何か大事なものを失おうが、それは全て自己責任だと思っているんです。

齋藤 そして自分はその責任を負うだけの強さを持っている?

亜鶴 感覚としては持ってますね。そういうハードルを越えて来たし、自信もある。だから、どんな変わったやつでも「あんたみたいなのがいてもいいんだよ」っていう風に思ってもらえるように活動してるつもりではいる。ただ、もちろん本当はそんなハードルなんて必要ないとも一方では思うんだけど。

逆卷 それは、亜鶴さんの実践が、自分のなかにあるものを外に出す形の自己表現なのではなくて、自分を外に拡張し、いろんなものを巻きこんで自己に拘束をかけていくような形の自己拡張であって、許容量、キャパシティの向上だということなんだと思う。たとえば、僕は亜鶴さんの活動が、自分の物語だけで完結しているわけじゃないというところに注目したい。亜鶴さんは縄文タトゥーとかハイヒールとかもそうかもしれないけど、ある文化を背負ってるような自覚も持ってますよね。そういう形で、なんか自分を超える関係っていうか自分だけでは完結しないものを文字通り皮膚に埋め込んだり、履いてみせたりして、自己を外部に向かって拘束していくのが面白いと思ってるんです。

 

 

亜鶴 だから逆に、みんなも何かを背負おうよ、という感覚はある。それはすごく難しいことなのかもしれないけど。まあ、自分がやってることに対する責任は自分でっていうけど、もちろん無理な場合や、無理な人もいるわけで、だから、たとえば刺青を入れて親に怒られたら僕の名前だしてくれてもいいし、そのためには僕がカッコよくあり続けないといけないと思ってます。それが僕なりの背負ってるって感覚かな。自己責任って言葉とは別のところに、そういう意識もある。

齋藤 そこに亜鶴くんが自分の選択を自己責任という風に言い切ることに対する迷いが現れている気がするんです。つまり、冒頭で逆卷さんが言った「コントロール」というものを、僕は自己責任と自己拡張を調停する装置として捉えているということなんです。逆卷さんがコントロールについて理性と言う時、それらの責任と拡張を調停する装置を「どのように扱うか」という技術のことを言っているんじゃないかと思うんですが、いかがですか。

逆卷 まず、それは理性というより亜鶴さんの個人的感覚なんだと思う。自己拡張の運動が発生する中心に、まずはコントロールの享楽があるというのが大事なんじゃないか、と。第一にコントロールする対象との遊戯があって、まずはそれ自体が亜鶴さんはおもしろい。そのうえで、その遊戯の連続のなかで「どのように扱うか」という技術が洗練され、同時に自己責任が拡張していく。コントロールの一段上のフェーズにある自己拡張という運動ですよね。自己拡張の過程では、いろんな人達が向こうから巻き込まれてくるわけですよ。だから亜鶴さんの責任も自己を越えて拡張する。ある程度、理性的に振る舞う責任が生じる。亜鶴さんがコントロールの実践を続けていくうちに、亜鶴さんに巻き込まれた、亜鶴さんの周りのコミュニティとか亜鶴さんの関わる他人とか、そういう仲間であり、拘束具でもあるような存在に、「こういうこともできる、大丈夫なんだ」ということを実践として見せていくというのは、ネオリベラリズムの自己再帰的な自己責任とは異なる、亜鶴さんなりの「拡張する自己責任」ですよね。

齋藤 つまり、亜鶴さんという運動は、あるコントロールの連続として成り立っていて、周囲の人間を巻き込もうとするプロセスをずっと続けているという…。しかし、その自己拡張、いろんな人たちが巻き込まれていく運動は、ロールモデルとして捉えられたり、いいなと思う人たちがいる一方、共有している文化の外から、亜鶴くんの挙動一つで、やっぱり駄目なんじゃないか、やっぱりやばい人なんじゃないかみたいな感じに捉えられることもある。あるいは亜鶴くんに害がないとなれば、「単なる変人」として処理されるってこともあると思う。亜鶴くんの中で、そういう外部からの視線はどうなんですか。

亜鶴 少しズレた回答になるけど、僕には明確に害とまでは言わないけど、こういう存在になるのは嫌だっていうのはあって、たとえばなんだけど、身体装飾系のコミュニティには2年に一人ぐらい、すごい勢いを持ったガキってのが出てくるんですよね(笑)。すごい勢いでタトゥー入れて、すごい勢いで目立つパフォーマンスをして、瞬く間にアイコンとして祭り上げられたなと思ったら、案の定、実はジャンキーでした、結果、死にました、みたいな。

逆卷齋藤 なるほど。

亜鶴 そういうのは本当にタトゥーという文化が好きな僕からしたらただただ悲しいんですよね。だから、自分がそうあってはならんなとは思う。

齋藤 1990年代にアメリカでグランジムーブメントが盛り上がって、ニルヴァーナのカート・コバーンの悲惨な死があった後で、音楽雑誌に大御所のプロデューサーが「早死にしないでくれ」っていう緊急声明を出したことがあって、つまり音楽とか文化で自己拡張すると当然、ドラッグの誘惑であるとかそういうたくさんの誘惑が身近になってくるんですよね。で、その身近さによって、どんどん過剰摂取したりとか、人間関係が変わったりとかがある。そしてその死がかっこいいみたいに、一部の人間にとっては魅力的に映るので、マーケティングの対象にもなる。だからロックミュージシャンが死ぬと、プロデューサーは儲かる。だけど、亜鶴くん的には、もうそういうのはやめてくれっていう。これも愛ですね。

亜鶴 語弊がある言い方になってしまうかもしれないけど、タトゥーを入れる人って大体の人がコンプレックスを持った経験からスタートしてるように見えるんですよね。その点、僕にはそれがなかった。だから、コンプレックスがないという逆コンプレックスみたいなのがある。「私のコンプレックスすごいでしょう」的な、いわゆるメンヘラの子とか、いろんなコンプレックスに溺れて死にそうな人たちに対する「羨ましい」みたいな気持ちもあるんですよ。もし僕がそういう精神的な問題とか、出自的な問題を持っていたとしたら、もっとイケイケ感だせるのに、みたいなことも思う。ただ、そういうコンプレックスゆえの過剰性によって死に至る、というような事象は、たとえそれがマーケティングの対象になるのだとしても、悲しい。僕としては僕自身がロールモデルとして幸せな姿を見せて、歪さに苦しんでいる皆をなんとかしたいわけで、仮に俺が不慮の死に陥ったとして、その死後にもし後追いなんかされた日には、多分、めちゃくちゃ無念に思うんじゃないかな。届かなかったか…みたいに。何のために僕は死んだんや、というか、死んでも死にきれないと思う。

 

 

逆卷 今、亜鶴さんが言ったことって、悲劇を繰り返さないための意思表示みたいなものだと思うんですが、ダナ・ハラウェイのサイボーグを思い出しますね。90年代にSFの文脈でサイボーグって割と単純にエンハンスメントというか拡張して強くなるみたいなイメージで捉えられていたんですけど、実際、「サイボーグ宣言」(『猿と女とサイボーグ』所収、高橋さきの訳、青土社)でハラウェイが論じているのはむしろ弱さのほうなんですよね。ハラウェイが言ってるのは、サイボーグという身体性を得ることによって、弱い人たちに「気づく」ことができるかもしれない、ということなんですよ。

当時のリベラルなフェミニズムは、家父長制を相手に強く生きて戦っていたんだけども、その抽象的なものと闘っているうちに女性たちの身体も抽象化してきたんじゃないのか、というのがハラウェイの批判で。ハラウェイが80年代当時に見ていた現実は、他の生物やマシンと同じように人間を情報として扱う技術が発達するなかで、人間は情報工学的な身体を「具体的に」生きるようになった、ということなんです。この情報工学の体制は人間を支配するものでは当然あるんだけど、その体制のなかで「具体的に」生きることによって見えてくるものもたくさんある。この体制を逆用して今までフェミニズムが取り逃してきた、労働の問題だったり第三世界の女性の問題だったり、いろんな弱さに「気づき」、そこにアクセスするために必要な身体性が、サイバネティクス的に機械と有機体を混ぜ合わせるサイボーグだったんですね。

齋藤 亜鶴くんを、もしそういうサイボーグ的な存在として考えてみるなら、その具体性みたいなことを引き受けているのと同時に、しかしだんだんと抽象的なものを相手にせざるを得なくなって、何らかの情報を扱う装置として機能しようとしているようにさえ見えます。そして、その解消のために、亜鶴くんはその具体的な弱さっていうものを新たに社会の中から見つけ出してコレクションする、つまりたとえばタトゥーは具体的な弱さかもしれないし、ハイヒールも具体的な弱さかもしれない。より踏み込んでいえば、そういう弱いとされるものを盗んでコレクションしているという面さえあるようにも見える。

逆卷 とりあえず実験台として俺がやってみよう、みたいな感じで選択肢を増やしていく人というのは結構、重要だと思うんですよ。今の時代、選択肢がなくて本当に苦しんでいる、押しつぶされそうになっている、そういう弱い人たち、多いと思うんです。亜鶴さんは自らも弱さを抱えながら、弱さのなかから意外な方向の選択肢を増やしてくれる人なんじゃないのかなと単純に思います。

齋藤 たとえば90年代にも、そういう「弱いものに光をあてる」というニュアンスでタトゥーやピアッシングというカルチャーが流行った時期がありました。しかし、それは前述のように「エンハンスメント≒強いもの」として消費されてしまった経緯がある。もちろん紹介していた彼らは「この文化的な豊かさから、さらに新しい面白いものを」ってなった時に、むしろ弱さとかそういうものに光を当てるという意図はあったんだと思う。だから、それを踏まえて亜鶴さんが今こういう活動しているということには、そうした90年代的なエンハンスメントに対する再検討という意味あいもあると思います。

亜鶴 それに関して言うと、多分、僕は傷つけられた経験がめちゃくちゃ多いんですよ。そして、僕はそれらによって救われたっていう意識がない(笑)。そういう意味で自分をどういうふうに売っていくべきなのかは迷ってなくて、それはタトゥーとかピアッシングというカルチャーに限った話ではなくて、たとえばハイヒールとかに関してもそう。ただ、ハイヒールは基本的に履いてるのが女性でしょ、だからそれを男である俺が履いてみるって事をしてるんだけど、それが駄目ってなる人もいるわけよね。要は、男のくせにハイヒールなんて履いて、やっぱり私たちのことちょっとバカにしてるんでしょ、みたいな「悲しいオチ」になることもある。だからめちゃくちゃ言葉とやり方は選んでいかないといけないなっていうのはずっと意識してる。

齋藤 逆卷さんが新しくHAGAZINEで始められた連載(『ガイアの子どもたち』)の中で、「作家性とか作家っていうものについてをもう一度検討する必要がある」ということを書かれていたと思うんですけど、今、亜鶴くんが言ったような「悲しいオチをどうやって避けるか」ということとも関連性があるような気がします。

逆卷 うん、繋がってると思う。内容が何なんだろうと危ないことをやっているように見える人達を、字義通り危ない人達としてレッテルを貼って攻撃したり、あるいは逆に、それはきっと家庭が良くないんだなとか、不幸な生い立ちなんでしょうみたいな、社会が守ってあげなきゃいけない、みたいな感じでレッテルを貼ると、実存に関係なくある集団をまとめてコントロールすることになる。それは作家性という問題、表現の責任の問題、勝手に被害者にされている、という問題にも繋がっていると思っていて、たとえば亜鶴さんの連載の10回目にある「勝手に被害者にされている」エピソードとかは興味深く読みました。

亜鶴 実際、マイノリティを守ろうみたいな感じの動きってものすごくあると思うけど、世の中的にそういうのあると思っても、こっちとしては守ってもらうために生きてるわけじゃなし、しかも実際に守ってもらってきてないし、これまでも自分たちなりに色々、これはいけるかな、あれはダメかな、みたいな感じで試行錯誤しながら文化を作ってやってきたはずなんで、そこをなんかこう「社会の被害者」みたいな感じで、雑にまとめ上げる、そういう世間的になんかかわいそうみたいな人たちはきっと不幸があるんでしょうみたいな、傲慢な感じは、どうかと思いますね。

逆卷 そういう弱さの固定観念を変える。そこに亜鶴さんの自己拡張の実践の可能性はあるんじゃないかなと思います。

齋藤 だから、たとえば亜鶴さんが美術作家という風に名乗っていることも、一つの独自性の主張でしかなくて、それってなんかある文化を引き受けてるとも言えるんだけど、社会に要請されるための選択でもあると思っています。あるカテゴリーに亜鶴さんは乗って作品を発表しようとするけれど、別に美術作家にぴったり収まる存在では当然なく、何だったらなんか「ハイヒール履いてる人」みたいな、そういう肩書きとかでも本来は良いと思うし(笑)

亜鶴 タトゥーに関して言うと個人的に守ってることがあって、もちろん人にタトゥーを入れることもあるんだけど、タトゥー屋とは名乗らないようにしてる。それは僕は一般的なタトゥー屋さんではないし「僕でいいです」ってお客さんだけとコミュニケーションするようにしてるから。

齋藤 最初に串刺しにするっていうテーマを亜鶴君からもらっていたわけだけど、ただ串刺しにすることによってそういう風にイメージされてしまうっていうことが同時に訪れるわけですよね。自分自身で設定したことに自分がコントロールされるという地点に立った時に、亜鶴くんの中でどういう思考が働くのかっていうのを聞いてみたい。

亜鶴 場面によっていろんな顔を使い分けるし、今までも使い分けて来てる。この場面であれば職業はなんて言っとったらええかなとか、これを出したといた方がいいかなとか。当たり前のように考えてます。この人にはこの顔で伝えた方が早いなとか、そういう色んなもんを使い分けていってるっていう感じ。それを単純に絵描きです、みたいな枠だけで話してまってたら、コントロールが効き過ぎててグラデーションの部分がなくなる。バイトで民泊のインテリアコーディネートやってるっていう自分もあるし、絵を描いてるっていう自分もある。

逆卷 亜鶴さんが昨日の打ち合わせで「文字を読むのが苦手」という話をされてたんです。読んでてもなかなか意味が入ってこない、という話だったと思うけど、それって何か言われた瞬間に、辞書的な決まり切った意味を読み取るように求められてるように感じる、って話だと思うんです。実践って、意識的な部分もあるけど、意識せずになにかがやってくる部分もあって、元々運動ってそういうものだから、運動ってもともと動いているものだから、何かひとつの意味にパシッと決まっているわけじゃない。本当のところ、世間的にこれはこういう意味ですっていう言葉だとしても、人によってちょっとした意味のズレはありますから。

亜鶴 そもそも絵を描き始めたきっかけからズレてるんです。絵画の制作の話とかしても、僕はもともとタトゥーを彫る側になりたいってことが先にあって、そのために絵が描けないといけないってことで描き始めているから、絵に興味があるというわけではない。全部、こうすればパシッてハマるんじゃないかと思って、実際にやっていくうちに勝手に色々と学んでいったというか。

 

 

齋藤 僕はその理論がどこまで理性と呼べるのかという部分に興味があるんです。たとえば逆巻さんの話は運動の理論としてはよくわかる。そして亜鶴くんが、文字が苦手という時、その運動のための場として絵というプラットフォームを選んだのもわかる。言語の意味が一つに特定できないように、あるいは言語によって人々がコミュニケーションをとるように、絵画っていうのもプラットフォームとして機能する。「見知らぬ人と出会った時にコミュニケーションしなきゃいけないからとりあえず音を出す」というのが声の発生だとして、そういう風に亜鶴くんがいろんな技術を身につけたりしているとして、それをどこまで理性と呼びうるのか。これは遡って言えば何かを「やろう」と「思う」ことはどこまで理性的な判断なのかということです。

逆卷 それは一言で言えば「生きてる」ってことですよね。

齋藤 そうですね(笑)。亜鶴くんに関して言えば、この人は弱くもないし強くもない、あるいは機械でもないし、動物でもない。誰かに対して色々なアイディアで印象を与えようとしている人間。そういう普通の人が「やろう」と「思う」こと、それが「生きる」ことだ、と。

亜鶴 一つあるとすれば「不思議なことをすればするほど一般がちゃんとわかってくる」みたいなのはあって、たとえば旅行に行ってて、家に帰ってきたら「やっぱ普段の生活が一番だよね」みたいな(笑)。タトゥーとかハイヒールとか、そういうことを普段からやってるから、「生きる」ということが「程度」の判断を繰り返すことだということに、他の人より自覚的かなと思う。

逆卷 そして、それはみんなやってることなんです。みんなどこか自己拡張して自己変異を繰り返しているんですよ。しかも「生きる」っていうことは、不可逆的なことで、後戻りはできない。ハラウェイは、人間はみんな本来は怪物だって考えていて、だから決まり切った個体で人間を考えることは当然できないし、ここに至るまでにそれぞれいろんな変なルートをくぐって生きてきているわけで、違いはあるにしても変容すること自体を生きているってことで片付けられる。いまこの状況下に限らず、生きるという自己拡張の運動を続けてきた結果、変容しなければならない事態と人間はぶつかることがあるんです。

亜鶴 なんなら、ここまでの話を全部ひっくり返すようだけど僕は実際はめちゃくちゃナイーブなんです。それの逆張りで強くあろう、強くあるように見せようと、常に意識的にパフォーマンスしてる。それは本来の自分からは対極の、離れたところに自分のキャラ設定を置いて、「程度」の判断を繰り返しているところに現れているのかもしれない。そういう判断の繰り返しの中で、僕は鏡やメタモン(ポケモンのモンスター。戦闘に出ると相手のポケモンに変身する)のように全てに変容しつつ乗り越えていってる。

齋藤 異常性を試してる?

亜鶴 異常性を試してるっていうよりは、勝手に僕が通常から離れていく感じ。それが僕の通常だから。

 

(2020.4.23 Zoomにて 構成=齋藤恵汰)

 

 

 

齋藤恵汰 さいとう・けいた/1987年、東京生まれ。20代を通じて渋家、アーギュメンツ、展覧会、演劇などプラットホーム寄りのプロジェクトを制作してきた。異なる創造性を一つのレイヤーに構成することで立ち現れる蜃気楼が好き。コンテンポラリーアーティスト。@_satoketa

逆卷しとね さかまき・しとね/学術運動家・野良研究者。市民参加型学術イベント 「文芸共和国の会」主宰。専門はダナ・ハラウェイと共生論・コレクティヴ。「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」――ダナ・ハラウェイと共生の思想」(『たぐい vol.1』 亜紀書房)、Web あかし連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」 、その他荒木優太編著『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(明石書店、2019 年)、ウェブ版『美術手帖』、『現代思想』、『ユリイカ』、『アーギュメンツ#3』に寄稿。山本ぽてとによるインタヴュー「在野に学問あり」第三回 など。現在、HAGAZINEにて「ガイアの子どもたち」を連載中。@_pilate

 

 

〈MULTIVERSE〉

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

 

logoimage

PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas